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歴史と虚構の対立〜五代目菊之助の知盛

令和4年10月国立劇場:通し狂言「義経千本桜」・Aプロ「鳥居前・渡海屋〜大物浦」

五代目尾上菊之助(佐藤忠信実は源九郎狐、渡海屋銀平実は新中納言知盛)、四代目中村梅枝(銀平女房お柳実は典侍の局)、七代目尾上丑之助(銀平娘お安実は安徳帝)、二代目中村錦之助(源義経)、五代目中村米吉(静御前)、九代目坂東彦三郎(武蔵坊弁慶)


1)歴史と虚構の対立

国立劇場が建て替えされることが決まり、来年(令和5年・2023)10月末で閉場となるため、今月(10月)から1年に渡り、「初代国立劇場・さよなら公演」が行なわれます。まず第1弾として、菊之助の三役(知盛・権太・忠信)による、通し狂言「義経千本桜」が始まりました。もともと菊之助の三役は、令和2年(2020)3月・国立小劇場で行なわれたはずの公演でした。しかし、この公演は、世界的なコロナ感染増加のために、公演中止になってしまいました。幸い・この時の公演は無観客上演で収録された映像がネット配信されました。この時も意欲的な演技を見せてくれました。当時の吉之助の観劇随想(AプロBプロCプロ)については、リンクを参照ください。だから菊之助にとって、今回(令和4年10月)国立劇場公演は、いわばリベンジ公演と云うことになります。

本稿は今回・国立劇場公演のAプロ(知盛の件)の観劇随想ですが、まず前置きとして少々長くなりますが、本題に入る前に、書いておきたいことがあります。もちろん「渡海屋〜大物浦」のドラマに深く関連することですから、そのつもりでお読みください。

「義経千本桜・渡海屋〜大物浦」では、摂津国大物浦にある廻船問屋・渡海屋が舞台です。渡海屋主人銀平は実は八島の海に沈んで死んだと思われた新中納言知盛、女房お柳は典侍の局、娘お安は安徳帝であったと云うわけです。今彼らは名もない庶民として平和に暮らしています。あの時、義経一行が客として店を訪れなかったとすれば、その後も何事もなく平和に暮らして一生を終えたのかも知れません。或いは平家を滅ぼした義経に一矢報いんと・片時も恨みを忘れることなく・密かに機会を狙っていたのかも知れませんが、遂にその時が来てしまいました。

ここで想像して欲しいのですが、人目がある時は当然のことながら・彼らが平家の落人であることは知られてはならないわけですから、彼らは平凡な庶民である振りをしていたでしょうが、人目がない時の彼らはどうやって暮らしていたのでしょうかね。こう云うことを考えてみる必要があるのです。もちろん舞台にはそういう場面は出て来ません。舞台には観客の「目」があるからです。そういう「目」がない時の彼らの生活を想像せねばなりません。

名作というのは、色々な解釈・愉しみ方が出来るものです。これは一つの解釈ですが、新中納言知盛は渡海屋銀平として、典侍の局を「女房」として・安徳帝を「娘」として、銀平と女房お柳・銀平と娘お安の関係で、庶民と同じ感覚で以て慎ましく平凡に暮らしていたと想像することも出来ると思います。これについては、まあそういう考え方もありますねと言うておきます。こういう見方は現代劇の視点、例えば木ノ下歌舞伎ならば、大いにあり得ることです。つまり古典を現代の方に引き寄せて読む手法で、そうすることで作品のまったく別の様相が見えることもあり得ます。

もうひとつの解釈は、吉之助はこれが時代浄瑠璃の本来的・かつオーソドックスな読み方であると考えますが、人目がない時の彼らは、以前の暮らしとまったく同様、装束もそのまま、安徳帝は帝として、典侍の局は乳人として、知盛はその臣下として、それぞれの役割を維持しながら暮らしていたと云う想像です。誰か他人が来たと気付いたら、彼らはサッと居住まいを変えてしまうのです。渡海屋銀平一家として暮らすのは、人目がある時だけ。人目がない時の彼らは、京都の御所に居る時とまったく変わりない生活をしています。これはお付きの侍女・郎党までも同様です。お芝居のことですから、そんなことが実際に出来るのか?なんて堅苦しいことを言わないで下さいね。

一例を挙げるならば、「妹背山婦女庭訓・芝六住家」(近松半二作)がそうです。「妹背山」の天智帝は、盲目ということになっています。入鹿の陰謀から逃れた帝は、芝六の住家に匿われています。目が見えない帝はそこが内裏だと思い込んでいるので、周囲はそれを取り繕って、帝はあばら家のなかで前垂袴姿の官女を従えて宮中のつもりで暮らしています。大納言が米屋の勘定書を色紙に書きつけた和歌だと思い込んで読んでみたり、帝が管弦を奏せよというので芝六が慌てて鼓を打ったり・倅の三作が万才を舞うなどの滑稽があります。ここは江戸期の庶民には大いに笑えた場面でした。

「芝六住家」が描くものは、目が見えない帝が庶民のあばら家を宮中だと思い込んで暮らしていると云う・視覚上のギャップの滑稽さですが、別のことも意識せねばならないと思います。それは「高貴なお方が、ここで有り得ない生活をされておられる」と云うギャップです。つまり「舞台に見える私は、本当の私の在るべき姿ではない」ということです。彼らはこの状況を決して受け入れません。「この状況は正されなければならない」と主人公・芝六は真剣に思っているのです。そのような芝六の強い憤りがあるからこそドラマが動くのです。

「渡海屋」についても、これは同様です。「この状況は正されなければならない」と知盛は思っています。この強い憤りがあるから、まるで引き寄せられたかのように義経一行が渡海屋に現れるのです。吉之助はこれが本来的・かつオーソドックスな時代浄瑠璃の読み方であると考えています。例えば「寺子屋」を見ても、源蔵夫婦が菅秀才を我が子として育てている風はまったく見えません。夫婦は、あくまで御主人菅丞相の嫡子を護っている態度を崩しません。江戸時代の庶民の倫理感覚を思えば、これは当たり前のことです。

現代人は「平家物語」を文芸作品として読むと思います。しかし、江戸期の庶民はこれを歴史書だと受け止めたのです。このことは「壇の浦で滅んだと思った平家の残党が実は生きていた」という一大虚構を、「平家物語」が描くところの歴史と、どのように対立させるかという、浄瑠璃作者の歴史感覚の根本に係わることですから、とても大事なことです。だから「人目がない時の銀平一家はどうやって暮らしていたのでしょうか」という問いを立てたわけです。

「人目がない時の彼らは京都の御所に居る時とまったく変わりがない生活をしている」と想像することは、日常生活・つまり他人の目がある時に彼らが感じるであろう「この姿は本当の私の在るべき姿ではない」という理不尽な思いが、絶え間なく意識されていると云うことです。歴史と虚構は、どちらがホンモノか分からないところで、互いにこちらこそホンモノだと主張し合い・対立しています。だから歴史と虚構の両方のエッジが立つのです。

歴史と虚構の対立は、「仮名手本忠臣蔵」(「千本桜」の翌年に初演)であると、もっと明確に立ち現れます。江戸時代には、同時代の事件・人物をそのまま描くことが許されませんでした。だから浄瑠璃作者は元禄赤穂事件を「太平記」に仮託せざるを得なかったのです。浅野内匠頭は塩治判官になり、吉良上野介が高師直となる。どちらがホントか・何がウソか・大混乱しそうですが、実は江戸期の庶民は、歴史は歴史・虚構は虚構と、両者の境目(エッジ)を正しく認識して芝居を見ていました。それは「あなたがこれから見る芝居は決して歴史が本来在るべき姿ではない。しかし、語られているドラマはすべて真実なのだ」と云うことなのです。これが浄瑠璃作者を始め江戸期の庶民の歴史感覚でした。「千本桜」でもまったく同じであると考えてください。

「千本桜」で知盛が、典侍の局を「我が女房」として・安徳帝を「我が娘」として暮らしていたと云う見方では、歴史と虚構が溶解し、境目が見えなくなってしまいます。これは歴史(正史)に対する信頼が揺らいでいる現代の感覚、懐疑の時代の歴史感覚と云うべきですね。まあそうやって「千本桜」を読めば、また違った様相が見えて来るかも知れませんねえ。それも決して意味がないことではないでしょう。しかし、そういう見方をするのは、まずは本来的・かつオーソドックスな「古典」の読み方をしっかり学んでから後のことでしょうね。(この稿つづく)

(R4・11・16)


2)歴史書としての「平家物語」の読み方

江戸期の庶民が「平家物語」を歴史書だと受け止めたということは、とても大事なことです。これは「平家物語」を「奢れる者は久しからず、ただ春の夜の夢の如し」という有名な冒頭詞章の世界観に於いて受け止めて、芝居を見ると云うことです。例えば「一谷嫩軍記・熊谷陣屋」の熊谷直実の悲劇は、「平家物語・巻九・敦盛最後」が述べるところに帰着します。

「狂言綺語の理とはいひながら、遂に讃仏乗の因となることこそ哀れなれ。」
(現代語訳:まるで作り話のように思われるであろうが、(敦盛を討ったことが)後に熊谷が出家する原因になろうとは、あわれなことであった。)「平家物語」・巻九・「敦盛最後」末尾

歌舞伎の「熊谷陣屋」は一の谷合戦で熊谷が敦盛の身替わりに一子小次郎を討ったと云う虚構を描くドラマであったはずが、気が付いてみれば、それは「敦盛を討ったことで熊谷は後に出家することになる」という歴史の真実を裏付けるドラマになっているのです。これこそ歴史と虚構の対立が生み出す予期せぬ成果です。(別稿「熊谷陣屋の時代物の構図」をご参照ください。)つまり「熊谷陣屋」が説き語るものは「歴史の理(ことわり)」ということです。それは紆余曲折を経ても、必ず「そのようになる」のです。

そこで話を歌舞伎の「義経千本桜」に転じて、源義経がどのように描かれているかを考えて見ます。そのためにはまず、「義経記」・「平家物語」のなかで義経はどのように描かれているかを考えねばなりません。義経は肉親の愛情を知らずして育ち、兄頼朝の信頼を得ようと必死で戦い(つまり修羅の有り様を経験し)・華々しい戦果を挙げたけれども、兄に疎まれ、終に奥州平泉の地で寂しく果てることとなりました。つまり栄光と没落の両極端を一身に体験したことになります。だから義経もまた「平家物語」の世界観・「もののあはれ」を体現した人物であったのです。したがって「千本桜」のどの場面を取っても、義経は、いずれ奥州平泉の地で寂しく果てる運命にある「もののあはれ」を体現する人物として描かれなければなりません。これは「一谷嫩軍記」でも「鬼一法眼三略巻」でも「勧進帳」でも、義経が登場する作品はみんなそうです。

そこで問題は、今回(令和4年10月国立劇場)での「千本桜・Aプロ」での錦之助の義経が、そのような義経になっているかということです。残念ながらいつぞやの「熊谷陣屋」の義経で指摘したところから余り改善されておりませんね。しつこくて申し訳ないけれども、繰り返し指摘しておきます。錦之助の義経は、見た目(容姿)は淡麗で義経のイメージに相応しいです。しかし、残念ながら、全身が醸し出す雰囲気が武人の義経であり、「もののあはれ」を感得するデリカシーに欠けます。特に表情・目付きをもっと優しさと憂いを含むように工夫することが必要です。容姿には恵まれているのだから、その辺を会得できれば、役どころが増えると思いますけどねえ。例えば同月・「Cプロ」での菊五郎の義経をよく観察して、どこがどう違うか考えてみて欲しいと思います。

一方、これは素晴らしいと感じたのは、丑之助の安徳帝です。丑之助は当月8歳だそうです。(因みに壇の浦で入水した安徳帝は当時満年齢6歳4か月でした。) 通例の歌舞伎の「大物浦」の安徳帝役であると、丑之助は子役として歳がやや行き過ぎており、身体が重くて・長い時間抱き抱えていられない、このため演出上若干の無理があったようです。しかし、丑之助が安徳帝役として歳が行き過ぎたことが、大物浦のドラマに思わぬ成果を生みました。吉之助もいろいろな大物浦を見ましたけれど、義経に抱かれた安徳帝が云う「朕を供奉し、永々の介抱はそちが情、今日またまろを助けしは、義経が情けなれば、仇に思ふな知盛」の台詞がこれほど真実に響いたのを、吉之助は聞いたことがありません。まさに幼な神の安徳帝でありました。

通であれば、ここは幼い子役が「アダ二オモウナートモモリー」と棒読みで云うところで、これを知盛役者が大真面目な芝居で受けてハハーッと聞くわけです。下手だと云うのではなく、まあそれは年端が行かないから仕方がないことなのだけど、何だか相互に関連して来ないと云うか、ただ芝居の段取りとしてそうやるようにしか見えない。芝居ではそういうものだと思っていたのです。ところが、8歳の丑之助の安徳帝であると、これが正しく生きた台詞に聞こえました。おかげで安徳帝の御言葉を受ける知盛(菊之助)の印象がホントに鮮烈になりました。これは丑之助の功績です。

「朕を供奉し、永々の介抱はそちが情、今日またまろを助けしは、義経が情けなれば、仇に思ふな知盛」

とは、「そなた(知盛)と義経は、これまでまろを全力で護り・またこれから護ることになる人なのだから、二人とも同じだ、敵だと思ってはいけない」ということです。同時にそれは安徳帝が、祖父・平清盛によって無理やりに纏わされてきた政治的な役割から開放されて、純粋無垢な存在へと変容することでもあるのです。こうして安徳帝は表舞台から去っていきます。これは安徳帝が「平家物語」の世界へ帰って行くことでもあります。義経が「もののあはれ」を体現する人物であるからこそ、そのようなことが出来るのです。だからこそ知盛は帝の言を受け入れて、「昨日の仇はけふの味方、アラ心安や嬉しやな」と笑うのです。もしそれが納得できないのであれば、知盛は断固として義経に打ち掛かったはずです。

ですから大物浦のドラマは、知盛は安徳帝に「仇に思うな」と云われてガックリ来て帝を義経に引き渡したと云うことではないのです。知盛は、共に「もののあはれ」を知り、共に三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)を体験し、共に「見るべきほどのものは見た」者同士として義経と共感し、安徳帝を彼に託したということです。「平家物語」を歴史書として正しく読むならば、大物浦はそのような見方しかあり得ないと思いますね。丑之助の安徳帝は、このことを一声で分からせてくれました。(この稿つづく)

(R4・11・23)


3)歴史の循環・歴史の連関

ご存知の通り「義経千本桜」・二段目は、伏見稲荷の場(鳥居前)と渡海屋〜大物浦で構成されています。しかし、歌舞伎では、端場の鳥居前は見取り狂言として独立して上演される機会が多く、後続の渡海屋・大物浦との関連が強いようには思われません。吉之助の記憶でも、例えば三代目猿之助(二代目猿翁)の「千本桜」通し上演では、堀川御所に続いて鳥居前がセットで序幕として構成されていました。幕切れの猿之助の狐六法の引っ込みの印象が強烈であったせいもありましたが、こう云う場割りであると鳥居前がまるで序切に見えかねません。しかし、考えて見ると、頼朝方の土佐坊が堀川御所に攻め込んだので・弁慶がこれを撃退したことが義経の都落ちの原因になったのですから、筋からすると、義経が都落ちする鳥居前はむしろ前場・堀川御所からの繋がりの方が強いわけです。だからこの二場を纏めるのは確かに一理ある処置だと思わなくもない。そうすると却って浄瑠璃の、鳥居前を二段目端場に置いた場割りの方が不可解に思えて来ます。実はこれは吉之助が漠然と感じていた疑問でした。

今回(令和4年10月国立劇場)での「千本桜・Aプロ」では、鳥居前の後に35分の幕間が挟まるにしても、「千本桜」・二段目をそっくりひとまとまりでやるわけです。歌舞伎の上演記録を調べると、今回のような二段目だけでまとめる試みは、これまで有りそうでいて・実は初めてであるようです。ところが、今回の「千本桜・Aプロ」を見ていて、吉之助の長年の疑問があっさり氷解しました。浄瑠璃作者が、渡海屋〜大物浦を謡曲「船弁慶」の本歌取りの趣向で書いたことは、よく知られています。「船弁慶」の前段は、大物浦から義経一行が船に乗って九州へ落ち延びるところに・静御前が追い掛けて来る、義経は静を褒め、都に帰って時節を待つようにと説いて別れると云う筋です。浄瑠璃作者が場所を伏見稲荷に移し替え、狐忠信を絡ませて義経と静御前の別れを描いたのが、「千本桜」の鳥居前であったということです。これで鳥居前が二段目端場に置かれた理由が分かります。つまり二段目全体が「船弁慶」の構成に見立てていると云うことです。

謡曲では、(例えば前シテの老婆の正体が実は鬼であったとか)前シテと後シテに関連があることが多い。しかし、「船弁慶」では前シテが静御前、後シテが知盛の霊ということで、両者にまったく関連がありません。また間狂言で土地の漁師役の狂言方が終始重要な役割を勤める「アシライ間(アイ)」という形式になっているのも、興味深いことです。だから「船弁慶」はざっくり三部形式と考えても宜しかろうと思うのです。すると「千本桜」二段目では、前シテが狐忠信・後シテが知盛に相当するでしょう。また吉之助は渡海屋・特に前半の銀平であるところ(知盛が見顕わしをする以前)を重ったるい大時代の感触にしたくないと常々考えていますが、このことも渡海屋を「アシライ間」の間狂言に見立てることで説明が出来るかと思いますね。大物浦が「船弁慶」後段に当たることは、これは疑いありません。したがって二段目が鳥居前と渡海屋〜大物浦で構成されるのは、二段目全体の構成が謡曲「船弁慶」の見立てとなっていると云うことです。一見すると筋の関連が弱い鳥居前が渡海屋〜大物浦とセットになる理由は、これならばスンナリ理解が出来ると思います。

歌舞伎の場合は、鳥居前が荒事の場として強烈にデフォルメされていますし、渡海屋〜大物浦も歌舞伎独自の演出が加わって一層勇壮に仕立てられています。だから歌舞伎には、本行(文楽)とはまた異なる・独自のバランスがあるはずです。しかし、今回(令和4年10月国立劇場)の「千本桜・Aプロ」の舞台は、三場が程よいバランスで纏まっていたと感じます。そこから浄瑠璃作者がイメージした謡曲「船弁慶」の見立ての意図が浮かび上がって来ました。こういうことは、実際にやってみなければ分からないことですね。

どうしてこうなるかは感覚的な事象なのでなかなか上手く説明が出来ませんが、まずひとつには、荒事の場である鳥居前を重く見せなかったおかげだろうと思います。これは菊之助の狐忠信が、前回は「荒事っぽく・骨太く」と云うところを過度に意識しすぎて重めの感触に傾いていたところを、今回は狐の夢幻性を軽やかに表現出来ていたと思います。菊之助は荒事の隈取りがよく映えました。動きが俊敏で、狐忠信が重ったるい印象に陥りません。これはやはり菊之助が手慣れて来たということに違いありません。今回の鳥居前は、確かに二段目端場の軽めの感触になっていました。

今回上演から謡曲「船弁慶」の見立ての意図が浮かび上がった・もうひとつの要因は、歌舞伎の数ある時代物のなかでも恐らく最もドラマティックで・最も壮大な悲劇である「大物浦」を、おどろおどろしい・重ったるい感触にしなかったことにあると思います。ひと昔前の歌舞伎の知盛は、悪鬼の形相で義経に襲い掛かり、最後の飛び込みでも平家一門の怨念を総身に纏って地獄の底まで持って行くみたいな印象の知盛が多かったと思います。歌舞伎の知盛の、碇綱を巻き付けての最後の印象は、それほどまでに強烈です。歌舞伎はもともと荒事など、御霊神みたいなものが良く似合う芸能なのです。そうやって長い歳月をかけて歌舞伎が培ってきた知盛のイメージが確かにあるのでしょう。しかし、本行(文楽)であると、大物浦にはそこまで壮絶な印象はないと思います。「平家物語」に立ち返り・この「千本桜・渡海屋〜大物浦」を読み直すと、いつもの歌舞伎の知盛は、怨念の凄まじさを如何に描くかの方へ傾斜し過ぎに思われますね。知盛は「昨日の仇はけふの味方、アラ心安や嬉しやな」と笑って死ぬのですから、最後の飛び込みでは怨念を捨て去って・爽やかに消えて欲しいものです。

ところで、この数年・菊之助は数々の大役に挑んで成果を挙げてきました。感心することは、どんな場合においても作品としっかり正対する姿勢を崩さないことです。自分の個性に合わせて・役を自分の方に強引に引き寄せて・役の解釈を捻じ曲げるようなことを、菊之助は決してしません。だから役が本来意図するものが自然に立ち現れるのです。やっている手順もしっかり型通りにやっているのだが、型が本来意図したものがこれも素直に立ち現れる、そう云う気がします。あと必要なのは場数だけです。場数を踏めば更に良くなっていく、そう云う先行きが見える芸なのです。

今回の菊之助の知盛も、岳父・故・二代目吉右衛門が伝授したということですが、ここで分かることは、「型」というものは無限の多様性を持つものなのだ、同じ手順をやっても・演じ手が変われば・立ち現れる印象は自ずと変わって来る、しかし、これを虚心に写す人は、そこから型が本来意図するものをそのまま写すことが出来る、そこに違いは出て来ないと云うことです。菊之助の知盛は爽やかであると思います。これは型が本来意図するところを決して外していないと思います。むしろ怨念の泥絵具を塗りたくるのが歌舞伎の知盛かと思っていたら、先人が苦労して伝えた型のなかにこんな知盛の可能性があったのだという気付きに感動さえ覚えるほどのものです。あとは場数だけですね。(別稿「爽やかな知盛」もご参照ください。)

もちろんこの知盛は菊之助だけで出来たものではありません。まずひとつは、前述の通り・丑之助演じる安徳帝と知盛との間に、正しい関係性が見出されているからです。「平家物語」を正しく踏まえたところから、「もし知盛が生きていたら・・」という一大虚構が安徳帝の「仇に思うな」の一言でほぐれて、ドラマが歴史のなかへと収束していく有り様を観客は目の当たりにするのです。

もうひとつは、梅枝が演じる典侍の局と知盛との間に、正しい関係性が見出されているからです。典侍の局は自害する直前にこのように言っています。

『源氏は平家の仇敵と、後々までもこのお乳(ち)が、帝様にあだし心も付けふかと人々に疑はれん。さあらば生きてお為にならぬ。』

これは安徳帝が帝の衣を脱ぎ捨てて・名もない一人の人間としてこれから生きていくために、乳母の自分が傍にいたのでは却って足手まといだということを言っています。この立場は側近である知盛も同じことです。だから知盛もここで重荷を下ろす決意をするのです。「昨日の仇はけふの味方、アラ心安や嬉しやな」という知盛の晴れやかな心境はそこから出ます。このことは、「平家物語」で「見るべきほどのことは見つ。いまは自害せん」と言って碇を担いで入水したと(鎧を二枚重ねて着て入水したとも)伝えられる知盛の最後とぴったり重なるものです。「大物浦」で知盛が飛び込む場面を見た瞬間、初演の大坂の観客は、歴史は繰り返し・循環し・連関するものであることを実感したでありましょう。

(R4・11・28)

*令和4年10月国立劇場・「義経千本桜」・・BプロCプロもご覧ください。



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