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五代目菊之助初役のいがみの権太〜「義経千本桜」

令和2年3月国立小劇場:通し上演「義経千本桜」〜Bプロ「椎の木・小金吾討死・鮓屋」

五代目尾上菊之助(いがみの権太)、四代目中村梅枝(弥助実は平維盛)、五代目中村米吉(お里)、市村橘太郎(女房おくら)、九代目市川団蔵(弥左衛門)、中村萬太郎(主馬小金吾)他

(新型コロナ防止対策による無観客上演映像)


1)いがみの権太の死が示すもの

平維盛は重盛の長男・つまり平家の嫡流ですが、気が弱く・戦が苦手で戦場では足手まとい。寿永3年(1184)2月、一の谷で平家が大敗したことを聞くと、維盛は屋島を抜け出して、従者と共に高野山へ向かいました。高野山を参拝した後に維盛は出家して、更に熊野を目指します。熊野三山参拝を済ませた維盛は、浜の浦という浜辺から舟を漕ぎ出し、まず山成島という小島に下りて・この島に生えている松の木の幹を削って・自らの名と入水の旨を記し、再び沖に漕ぎ出して入水しようとしますが、妻子への思いが募ってなかなか決心が付かない。ここで聖が仏の教えを語り、ようやくこの世の未練から解放された維盛は海に身を投げました。続いて従者の与三兵衛重景と石童丸の2名も入水しました。これは寿永3年3月28日のこととされています。これが「平家物語・巻十・維盛入水」の伝えるところです。ただしこれには異説もあって正確なところは分からないようです。入水なので遺体が上がっていないからです。

ところで昨年(平成元年)7月に吉之助が熊野の補陀落山寺(和歌山県東牟婁郡勝浦町)を訪れた時に、境内に補陀落渡海の28事例を記した石碑があって、そこに維盛入水が28事例の内に含められていることを見てホウと思ったのです。補陀落渡海(ふだらくとかい)とは、平安時代から江戸時代にかけて行われた宗教儀礼で、小さな船に閉じこもって浜の宮王子の浜から船出して、海の向こうにあると信じられていた観音浄土・補陀落山を目指すという捨て身の行のことを云いました。つまり入水捨身(しゃしん)による自殺行です。原則として補陀落山寺の歴代住職が行ったものですが、維盛の入水は個人的な自殺と云うことではなく、例外的に補陀落渡海として正式に認められたものであったわけです。(詳しくは別稿平維盛と補陀落渡海」をご覧ください。)

*下は補陀落山寺の石碑・右から五人目に平維盛の名が見えます。

補陀落山寺への訪問は、吉之助の「義経千本桜」の解釈に或るヒントを与えてくれました。ご存じの通り「千本桜」では平家の知盛・維盛・教経の三人の公達が「実は生きていた」とする大胆な歴史虚構を押し立てています。知盛は「大物浦」で安徳帝を義経に託して、自らは「大物の浦にて義経に仇をなせしは知盛が怨霊なりと伝えよや」と言い残して海中に没します。つまり知盛を「平家物語」の世界へ返しているのです。同じように維盛も「平家物語」の世界へ帰らねばなりません。現行歌舞伎の「鮓屋」は結末の段取りが変えられてどうもそこが明瞭でありませんが、丸本の「鮓屋」ではいがみの権太の犠牲によって助かって維盛は高野山へ落ちることになっています。丸本にはこれ以上のことは書いてありません。「維盛は高野山へ落ちて出家して・それから権太を弔いながら長い余生を静かに生きました」でもまあそう悪くはないと思いますが、これで維盛は「平家物語」の世界へ戻ったことになるかなあ?もうひと工夫が欲しいところだが・・と云う疑問は、実はずっと吉之助の頭の片隅にかすかにあったことでした。補陀落渡海の石碑を見て、吉之助はそのことをフト思い出したのです。

巷間の「鮓屋」劇評では「結局、権太一家の犠牲は無駄死にであった」としているものが少なくありません。そう云うのは現行歌舞伎の目の前の舞台だけを見てそれで物を考えているからそうなるのです。「平家物語」のことを念頭に入れて芝居を見るならば、そう云う解釈に絶対ならないはずです。維盛が髻を切って高野行きを決意するのも、権太の死を目の当たりにしたからです。権太の死の無常が維盛を変えたのです。維盛が「平家物語」の世界へ戻って行くきっかけが、そこにあります。補陀落山寺への訪問で、吉之助にはその先の筋道が見えた気がしました。

恐らく「鮓屋」の維盛は、まず高野山へ向かい・そこで出家した後、熊野三山を巡って浜の宮王子(補陀落山寺)へ至り、浜から舟を漕ぎ出して熊野沖で入水する(補陀落渡海を果たす)ことになるであろう。もちろん丸本にそんなことは書いてありません。しかし、「平家物語・巻十・維盛入水」の結末は丸本作者にとっても・延享4年初演時の大坂の観客にとっても改めて申すまでもなく当時の教養であったのですから、維盛が高野山に向かったということは、それ以後のことをわざわざ書かなくたって、未来は必ずそのようになると云うことなのです。それが「鮓屋」の権太の死が指し示すものです。今吉之助はこの推測が、とても気に入っています。(この稿つづく)

(R2・4・11)


2)維盛と権太

長々と維盛のことを書きましたが、「鮓屋」で大活躍するのは、もちろん権太です。維盛が持つ歴史性は、古典性=時間の永続性に通じるでしょう。一方、権太はフィクションの人物ではありますが、極めてリアルで実体性を持ちます。当然、芝居を見た観客の印象に強烈に残るのは、権太の悲劇の方です。時代物世話の悲劇では、庶民の犠牲は永続的な歴史の流れに棹差そうとする行為として成立します。例えば身替わり物では、歴史上その時点で死んだはずの人物(大抵の場合は主筋の人物ですが)の代わりに名もない庶民が身替わりになって死にます。そのおかげで歴史上の人物は「実は生きていた」と云うことになるわけですが、これは名もない庶民が歴史の流れにささやかな関与が出来たと云うことです。そこで「名も無いオレにだって、このくらいの貢献は出来るんだ」とおのれの痕跡を歴史に刻み付けてやった気分に浸れるわけです。これは歴史が持つ時間の永続性に対する、一時性からの抵抗とでも云えるでしょうかねえ。しかし、悠久の歴史の流れは大河の如きもので、そのささやかな痕跡も大きな流れのなかに呑み込まれて、やがて消えて行くしかありません。

手負の権太這ひ出で摺り寄り、「及ばぬ智恵で梶原を、謀(たばか)つたと思ふたが、あつちがなんにも皆合点。思へばこれまで衒(かた)つたも、後は命を衒(かた)らるゝ種と知らざる、浅まし」と、悔みに近き終り際(ぎわ)、維盛卿も、「これまでは仏を衒(かた)つて輪廻を離れず、離るゝ時は今この時」と、髻(もとどり)ふつゝと切り給へば・・』(「鮓屋」床本)

これは権太の犠牲が役に立たなかったと云うことではありません。死に際の権太が嘆いているのは、「このオレが歴史の流れを変えてやったぜ」という快感を味わうことは出来なかったと云うことだけです。権太の犠牲は立派に役に立ったのです。維盛もまたこのことをよく分かっています。維盛は下市の鮓屋で弥助と名乗って隠れて生きていましたが、これは歴史のなかでの自分の役割を裏切っていたと云うことなのです。それは云わば「衒(かた)りの人生」でした。権太の犠牲のおかげで、維盛は彼本来の人生へ戻ることが出来たのです。後世の歴史が教えるところは、「平家物語・巻十」が語る通り、「寿永3年3月28日平維盛熊野沖に入水」です。すべてはそこへ返って行きます。結局、悠久の歴史の流れは、何も変えるところがなかったのです。それが「そは然り」と云う感覚を呼び起こします。

しかし、文楽ならば「そは然り」で終わって良いのですが、これだけでは歌舞伎の感覚にはなりません。歌舞伎の場合には、何かしら「懐疑」の感覚が加わることが必要です。「然り・・しかし、それで良いのか」となって初めて歌舞伎の感覚になるのです。そのためには、名もない庶民がおのれの痕跡を歴史に刻み付けようと必死にあがいた権太の意地にほんのちょっぴり思いを馳せることです。この気持ちが歌舞伎のドラマをバロック的なものにします。

ですから「鮓屋」のなかで古典性を担うのが維盛・バロック性を担うのが権太なのです。この古典性とバロック性は対立した概念ではありますが、見方を変えれば、自らの存在によって互いの特性をより際立たせると云うことです。維盛の幹・権太の幹そのどちらもが大事で、このふたつの幹が絡みあいながら「鮓屋」のドラマが展開していきます。

今回(令和2年3月国立小劇場)の「鮓屋」においては、菊之助初役のいがみの権太に対して、維盛を梅枝が共に初役で勤めます(お里は三度演じているようです)が、古典的でおっとりとした雰囲気があって、これはなかなか良い維盛です。もちろんまだ初役ですから型をなぞるところはありますけれど、菊之助の権太が若干硬い感じがするところを梅枝の維盛の存在が「鮓屋」を古典性の方へやんわりと引き戻しています。梅枝のおかげで、菊之助はどれだけ助かっていることか。(この稿つづく)

(R2・4・15)


3)いがみの権太の世話の味

「鮓屋」のなかで古典性を担うのが維盛・バロック性を担うのが権太だと書きましたが、時代物である「千本桜」の世界に世話の切り込みを入れて・ドラマに変化を付けるのが権太の役目なのです。ですから権太は世話を基調とせねばなりません。菊之助の初役の権太ですが、まだ段取りに追われる感じがあるのは初役ですから仕方ないことで、楷書のタッチではありますが、やることはしっかりやっています。このことを認めたうえで書きますが、菊之助の権太は時代物っぽく重い印象がしますねえ。恐らく菊之助は権太を時代世話の役として捉えようとしていると思います。そこがちょっと気になります。もっと世話に軽い調子でやった方が、「鮓屋」は面白くなると思います。

権太を時代世話にと云うことは、確かに二代目松緑も芸談でそのようなことを言っています。しかし、世話と時代世話とどう違うのかね?と云うと、どうも区別が判然としません。まあ「時代物のなかの世話場だから・生世話ほど写実にならず・どこか時代にかっきりと」と云うくらいの漠然とした感覚の差に過ぎないように思います。様式として時代世話というものがあるわけではないのです。そこら辺は松緑の世代であれば言わずもがなのことであったでしょうが、後の世代になるとその辺のニュアンスがもう分からなくなって来ます。演技には時代と世話しかありません。時代と世話の、ふたつの様式の生き殺しと混ぜ具合が作品や役に拠って変わって来るだけのことだと云うことが、身体感覚として分かりません。だから権太を時代世話の役だと云うと、これを頭で理解して生世話と差を付けようとして、これを妙に重ったるいものにしてしまいます。菊之助の権太も、そんな感じなのです。「渡海屋」の銀平ならばその考えでもまあ処理出来るでしょう。それは銀平(実は知盛)がひとりのなかで時代と世話の両方を描き分けるからです。だから菊之助の銀平は悪くない出来なのです。しかし、上述の通り、「鮓屋」のなかで古典性を担うのが維盛・バロック性を担うのが権太と役割が明確に分かれるのですから、時代の要素は維盛に任せて、権太の役割は世話で切りこんで思い切り暴れることだと割り切れば、権太はずいぶん気が楽な役に出来るのではないでしょうかね。

例えば椎の木で、権太が小金吾に騙りを仕掛けて・まんまと二十両をせしめた後、女房小せんと善太と語らう場面ですが、音羽屋型ではここで権太が妙に沈痛な表情を見せる役者が多いようです。花道で善太を負ぶったところで遠くを見るような表情を見せたりします。「どうしてあんな表情をするのか、善太を背負ってもっと楽しそうにすれば良いのに・・」と思うのです。今回の菊之助の権太もそんな感じがしますが、これは音羽屋型の権太ではよく見かけることです。これは恐らく音羽屋型の口伝としてあるものなのでしょう。これは手負いになった権太の「今日もあなたを廿両、騙り取つたる荷物の内に、うやうやしき高位の絵姿、弥助が顔に生き写し。合点がいかぬと母人へ、金の無心を囮(おとり)に入り込み、忍んで開けば維盛脚・・」と云う述懐から来ます。つまり小金吾の荷物をわざと取り違えた時、権太は荷物の中身を見たのです。そのなかに維盛卿の絵を見つけ・それが弥助と生き写しなので不審に思ったのが、後の「鮓屋」での権太のモドリ(改心)のきっかけであると云うことなのです。音羽屋型では、そこのところを権太の性根の勘所としてとても重く見るようです。だから女房小せんと善太と語らう時にも弥助=維盛のことが気になって仕方がない、権太の態度がどこかよそよそしく・心ここに在らずと云う様子に見える、そこに後の権太一家の悲しい運命を暗示しようとする意図があるやに思われます。確かに「この二人も犠牲になってもらわねばならないなあ・・」などと思えば、権太の心も重くならざるを得ません。しかし、舞台を見ると、この工夫はどうも利いていないように思います。モドリだと割り切れば良いことなのに、音羽屋型はそこのところ妙に理屈っぽいのです。今回の舞台でも椎の木での菊之助の権太が何だか情が薄い感じに見えてしまうのは、これもひとつの要因であろうと思います。そういうところで芝居が世話の感触から遠のいてしまいます。しかし、昔のことなので吉之助のかすかな記憶ですが、十七代目勘三郎の権太(昭和54年9月歌舞伎座・意外なことですが勘三郎は権太をこの一度しか演じませんでした)はもちろん音羽屋型でしたが、この場面を決して情が薄い印象に見せなかったと思います。そこは役者の工夫次第であろうと思います。そういうわけで吉之助が見たなかでは権太と云うと、まず勘三郎が思い浮かびますが、椎の木では親子三人楽し気に幕にした方が、後の悲劇がツーンと来ると思います。

菊之助の権太は、真面目な印象がします。これは悪いと言っているのではありません。菊之助の個性と云うべきですが、真面目にグレている感じの権太ですねえ。意図あってグレており、意図あってモドる、すべては予定調和というような。それは菊之助の権太の時代物っぽい重い印象から来ます。だから主筋の危機に際して身替わりの犠牲になって死んでいく名も無き庶民の哀しく儚い運命と云うところは正しく表現出来ています。つまり「そは然り」と云ところは体現できているわけで、そこのところでは、菊之助の権太は初役にして十分な成果を挙げています。しかし、歌舞伎的な感覚は、「然り、しかし、それで良いのか」というバロック的な懐疑にあるのです。そのためには権太は世話で切りこんで思い切り暴れることだと思いますが、菊之助にはまだそこまでの余裕はないようです。その辺は、役を繰り返し演じていくことで備わって行くものだと思います。今回が無観客上演になってしまったのは残念なことでしたが、次は満員の劇場での再演を期待したいですね。

ところで3年前(平成29年)に吉之助は吉野の里・下市町にあるいがみの権太の墓(もちろん芝居を見た後世の方が作ったものです)に参ったことがあります。これは洒落っ気で墓を作ってみたということではなくて、こういう名も無き者の人生もあったのだと、芝居の出来事を素直に受け入れて、権太のことを弔ってやりたいと心底そう願ったのだろうと思うのです。その気持ちは美しいことだと思いますねえ。吉之助はそんなところに「こんな詰らないオレでも一生懸命生きたんだという痕跡を何かに刻み付けてやりたい」という庶民の意地をチラッと見るのです。

(R2・4・18)

*令和2年3月国立劇場・「義経千本桜」AプロCプロもご覧ください。



 

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