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五代目菊之助の狐忠信・碇知盛〜「義経千本桜」

令和2年3月国立小劇場:通し上演「義経千本桜」〜Aプロ 「鳥居前・渡海屋・大物浦」

五代目尾上菊之助(佐藤忠信実は源九郎狐、渡海屋銀平実は新中納言知盛)、四代目中村鴈治郎(源義経)、五代目中村米吉(静御前)、四代目中村梅枝(銀平女房お柳実は典侍の局)

(新型コロナ防止対策による無観客上演映像)


1)菊之助の「千本桜」三役

本稿で取り上げるのは、令和2年3月国立小劇場で上演された「義経千本桜」・Aプロ(鳥居前・渡海屋・大物浦)の無観客上演の舞台映像です。新型コロナ感染防止のため3月の演劇公演が軒並み休演となり、国立小劇場の「義経千本桜」通し上演も全休となってしまいました。吉之助も見る予定にしていたので休演を残念に思っていましたが、大変有難いことに、無観客上演の舞台映像をインターネットで配信してもらえると云うことで、これを見ました。一生懸命稽古を積んで来た舞台を是非お客様に見てもらいたいと云う役者始めスタッフの皆さんの気持ちが伝わってくる映像でありましたね。若干の場面の編集カットはありますが、芝居を楽しむ分には支障はありません。無観客上演だから拍手や掛け声がないのが寂しいという方も当然いらっしゃるでしょうが、まあそこは(最近ではあまり行われませんが)スタジオ収録の舞台と思って見れば全然気にはなりません。

今回の「千本桜」通し上演は、菊之助が知盛・権太・忠信の三役を一挙勤めるのが大きな話題でした。「千本桜」は歌舞伎立役の博士論文と云われることがあるくらいで、時代(知盛)・世話(権太)・忠信(舞踊)の三要素をバランス良く勤め上げることが「兼ねる役者・芸域の広い役者」の証とされたものです。菊之助は、将来の「菊五郎」を見据えて近年立役への傾斜を強めていますが、今回いがみの権太を初役で勤めることで念願の三役を達成するわけです。ちなみに菊之助は平成24年(2012)7月公文協巡業で鳥居前の忠信を初役で勤めており、今回が二回目になります。知盛については平成27年(2015)7月国立劇場で初役を勤めており、今回が二回目となります。

菊之助の素晴らしい点は、どんな役においても、素直に役と正対していることです。伝統に対する揺るぎなき信頼が、そこにあるのです。伝統の力を信じ、伝統芸の古典的な佇まいを健康な感性で表現して見せてくれるということです。この点で祖父・七代目梅幸の芸の在り方と極めて近い印象があります。(このことについては別稿「菊之助の挑戦〜風の谷のナウシカ」で触れました。)ただしこれについては長所・短所の両面があり得ます。それはやはり歌舞伎のなかにも淫靡な要素・ドロドロした暗い要素が根源的に存在するからです。だから現代の伝統芸能は「懐疑」することでそのような要素を何かしら取り込んで行かないと、芸が健康的なだけであると何か一味足りないことになってしまいます。そのためには「そは然り」と云う古典的な佇まいのなかに、「・・しかし、それで良いのか」と云う懐疑が、スパイスのような感じでもう一味欲しいのです。それで芸の深味が出てくるのです。

ともあれ菊之助は「そは然り」という古典的な感覚において、同世代の若手のなかでも抜き出て優れている役者だと思います。伝統芸能者はまずそこから始まらなければ芸は伸びて行きません。何度も試行錯誤していくなかで「・・しかし、それで良いのか」という感覚も次第に備わって行くことでしょう。その意味でも菊之助は芸の過程を順調に踏んでいると思いますねえ。

菊之助は、これまでも髪結新三であるとか・関守関兵衛とか、聞いて「エッ?」と驚く役に挑戦してそれなりの成果を挙げてきました。観客はどうしても役者に或るイメージを以て色眼鏡で見るものです。そう云うところで役者のニン(仁)のイメージが次第に出来上がります。確かに菊之助の新三や関兵衛と云うとパッとイメージが湧かないところはあるかも知れませんが、仁というところにこだわって・その枠内に留まっていれば、「兼ねる役者」という称号を得られる可能性はまったくないわけです。それを超えていろんな役に挑戦しようと思うならば、自分の芸の在り方をその役に応じて素直に変化・対応させていかねばなりません。武道でもどう出てくるか分からない攻めに対し自在の対応を取るために、相手に対して正眼に立つのと同じことです。菊之助は芸に対する素直さがあるから、それが出来るのです。だから「エッ?」と驚くような役を演じても、大きく的をはずすようなことは決してありません。菊之助ならばこれくらいは出来るだろうと思うレベルには、きっちり納めて来ます。これはなかなか出来ることではありません。

反対に自分の柄に役を無理やり当てはめようとすると無理が生じてしまいます。柄にピッタリ嵌まれば良いけれど、嵌らないと無理がさらなる無理を呼んで、見ていて頭を抱える事態になることもあります。こういう場合には、対象に対して正眼に立つ芸の基本姿勢まで立ち返って・そこから直さないと、下手にアドバイスをすると、逆にそれでますます芸がこじれてしまいます。菊之助の場合には、そう云う心配は全然ありませんねえ。安心して舞台を見ていられます。今回の「千本桜」の役々でも、それなりに粒が揃って菊之助らしさがしっかり出ています。それは芸に対する素直さがあるからです。そこから次の段階に向かえば良いし、適切なアドバイスを与えれば、それを吸収して芸がどんどん伸びて行く未来への筋道がはっきり見えます。

もちろん今回の「千本桜」の菊之助の役々にも、今後の改善点はあります。「千本桜」の物語をメルヘンチックな夢幻性において読むならば、菊之助の三役は、どの役も一応の成果を挙げていると云えそうです。つまり「平家物語」の世界から蘇って「実はあの人は生きていた」という歴史虚構のなかで展開するフィクショナルな物語、それを人間ではない・源九郎狐が紡ぎ出す大人のメルヘンが「千本桜」であるとして、これを「そは然り」の古典的な感覚で読むならば、「千本桜」の三役は、こんな感じになると云えそうです。但し書きを付けますが、その読み方は決して間違いではありません。「千本桜」には、そう云う一面も確かにあるでしょう。しかし、そこで留まっているのであれば、歌舞伎のバロック的な本質が明らかになって来ません。このために「・・しかし、それで良いのか」と云う懐疑がもう一味欲しいわけです。「然り・・しかし、それで良いのか」となって初めて歌舞伎の「千本桜」になるのです。本稿では菊之助の「千本桜」の三役を材料に、そんなことを考えてみたいと思います。(この稿つづく)

(R2・4・9)


2)菊之助の狐忠信・碇知盛

「鳥居前」での狐忠信は、文楽では、何か超人的な力を持っている人物だなあという感じは見せても、「川連館」で本物の忠信と鉢合わせするまでは、本性が狐であることは伏せられています。一方、歌舞伎では狐六方の引っ込みなど狐の本性を前面に押し出しているところが特色で、特に「鳥居前」は思い切り荒事の演出に仕立てたところが歌舞伎らしい発想です。こういうのは超人的な力→荒事だ→隈取だとする安直発想にも思えて、実は吉之助は個人的にはあまり好きではないのだけれど、敢えてこの荒事の根拠を真正面から考えるならば、源九郎狐→子狐→童子の心→荒事の稚気と云うロジックだと考えてみたいのです。

「荒事芸は童子の心を以て演ずべし」は初代団十郎から伝わる荒事の口伝です。昔は村祭りにおいて童子が神に扮し、豊凶占いの意味を込めて 侍の扮装をして矢を射たり・相撲を取ったりすることがあったそうです。童子が侍仕立てでない時は、力づけの帯を締めたり・大鉢巻を頭に結んだりしました。古来から童子はそのまま神にも成り得る純白な魂の持ち主とされました。源九郎狐(子狐)にそのような童子のイメージを重ねて見たということは、大いにあり得る話だと思うのです。そう考えると、吉之助の感覚では現行歌舞伎の「鳥居前」の狐忠信の荒事はちょっと重きに過ぎるような気がしないでもないのですがね。あまり重い感じになってしまうと、夢幻性が遠のく気がするのです。「鳥居前」をもう少し軽めの感触に仕立てられないものでしょうか。これはまあ吉之助の個人的な感想ですがね。

それにしても「鳥居前」の菊之助の狐忠信は骨太い荒事になっているので、感心しました。隈取りも顔によく乗っているし、発声も本格的でなかなかの出来です。ただし幕切れの花道引っ込みでドロドロで狐手となって本性と見せるところは表情の切り替えが上手くなくて変化が際立ちません。狐の本性を見せる箇所では動きに軽快さが必要です。ここは菊之助が重めの荒事らしい狐忠信を心掛けたのが裏目に出た感じがしますね。

「渡海屋・大物浦」の知盛も骨太い出来です。しかも平家の貴公子たる気品を湛えて、渡海屋での「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤(こういん)、平の知盛幽霊なり」での登場も立派なもの。大物浦での入水もなかなか壮絶で、総じて後半の・知盛の本性を見顕わして後が良い出来であると思いますが、前半の渡海屋銀平はもっと世話味が欲しい。その方が銀平から知盛への変化が際立ちます。これは菊之助に限ったことではないのですが、現行歌舞伎は「渡海屋」を大時代の感覚に捉え過ぎであると思います。「渡海屋」を世話場だと考えて(場面は廻船問屋の店先なのですから)、そこにまったく相応しくない大時代の幽霊装束の知盛が現れることの意外性(ミス・マッチ)が、この場面が持つ夢幻性に通じるのであろうと考えます。そのために前半の銀平にもっと世話の軽みが欲しいのです。(これは「ひらかな盛衰記・松右衛門内」での樋口を見顕わす前の松右衛門も同じことです。)

もうひとつ興味深いことは、菊之助の知盛は健康的な印象がする点ですねえ。「桓武天皇九代の後胤・・」の登場の場面ではもう少し凄絶さが欲しいなあという気がしないでもありませんでしたが、まあこれは菊之助の個性ならではと云うことでこれで良いでしょう。ドロドロした怨念と云う、或る意味不健全でネガティヴな感情からは遠い知盛なのです。そこが評価の分かれるところですが、壇の浦で死にそびれた知盛が・義経への怨念を抱いて復讐の機会を狙って生きていたが、その生き方の虚しさにハッと気が付いて・知盛は大物浦に入水して果てることを決意する、そこには客観的に自己を見詰めることが出来る知盛の健全な精神があったのだと、「大物浦」での菊之助の知盛はそんなことを考えさせますねえ。だから「大物浦」を見た後味が爽やかで切れが良くなります。ここには「そは然り」という古典的な感覚が確かにあります。

他の役者について手早く触れますが、梅枝の典侍の局は、年齢的にまだちょっと早いかと危惧しましたが・そんなことはまったくなくて、落ち着いた古典的な趣で感心しました。安徳帝を抱えての「いかに八大竜王・・」の台詞も大きくて良いですねえ。梅枝は時代物のなかで今後貴重な女形になっていくでしょう。もうひとり感心したのは鴈治郎の義経で、上方和事で積んで来た経験がよく生きて・柔らかみがあって情けもある大将になっていたと思います。それと橘太郎の相模五郎もしっかりして良い出来ですね。そう云うわけで、今回の「千本桜」の三つのプログラムのなかでも、菊之助の出来も良く共演者も揃ったAプロは、なかなか見応えのある出来でありました。

(R2・4・10)

*令和2年3月国立劇場・「義経千本桜」BプロCプロもご覧ください。


 

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