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異化すると云うこと〜菊之助初役の髪結新三

平成30年3月国立劇場:「梅雨小袖昔八丈〜髪結新三」

五代目尾上菊之助(髪結新三)、四代目片岡亀蔵(家主長兵衛)、九代目市川団蔵(弥太五郎源七)


菊之助はこれまでも知盛や魚屋宗五郎など「えっ?」と思う役に挑戦してそれなりの成果を納めて来たので、今度は髪結新三を初役で演ると聞いてもそう驚きはしません(6月からの巡業では御所五郎蔵を演るそうです)が、チラシに見る菊之助の新三の写真は何だか可愛い髪結さんで、そうなるとどんな新三だろう?という興味が湧いて、国立劇場へ行って来ました。結論から云えば、これまで同様、よく頑張って一応の成果を挙げています。

菊之助の仁を考えれば、 現時点では手代忠七であろうと思います。(七代目梅幸の忠七を思い出します。これは良かった。)それでも敢えて新三を演ろうと云うのは、「菊五郎」と云えばオールラウンドな兼ねる役者のイメージがありますし、本人もそこにこだわる気持ちが強いからでしょう。音羽屋の後継として、家の芸と目される役は何でも一度は勤めてみて、そこから役を取捨していこうと云うことだと思います。しかし、現・菊五郎だって初めて新三を手がけたのは50歳を過ぎてのことであったわけであるし、新三を演じるのにはそれなりの貫禄が必要になってきます。若い菊之助にまだ無理なところがあるのは、本人もそこは承知だと思います。そこは含んで見てやる必要があります。

もうひとつ菊之助の新三で期待できることは、黙阿弥の役どころを網羅的にさらうことが、これは現時点の菊之助の本役である弁天小僧やお嬢吉三などにも、結果的に良い効果をもたらすであろうと云うことです。 吉之助がこれまで見たところでは、菊之助の弁天やお嬢は仁はぴったりですが、その七五調の台詞はどちらかと云えば散文的な感じがして、物足りないところがありました。まあ二拍子のダラダラ調でないのはまだしもですが、黙阿弥の様式を感じさせ ませんでした。しかし、今回の菊之助の新三を見ると、菊之助の黙阿弥の七五調の台詞廻しに変化の予兆が見えた気がします。

例えば永代橋で忠七を足蹴にして云う新三の長台詞ですが、七と五の尺を等分に取って緩急を交錯させる正しい黙阿弥の七五調の様式をきっちり押さえています。「相合傘の五分と五分」、あるいは「覚えはねえと白張りの」の時代に張る箇所も、ちゃんと出来ています。要するに押さえるべきポイントを正しく押さえた、筋目が正しい黙阿弥の七五調 なのです。その落ち着いた佇まいは、別稿で触れた七代目幸のお嬢吉三の七五調を思わせました。これは近頃嬉しいことでした。

もちろん本役の新三として見れば、まだ不足はあります。しかし、何事でも同じですが、基本がしっかりしてないところをいじくりまわしても良くなるはずがない。菊之助が新三がこのくらい筋目が良いものならば、ここを起点として工夫を付けて行けば、必ず良いものに出来ます。これならば弁天もお嬢も、もうひとつ上の段階へ飛躍することが期待できます。

先ほど梅幸に似た感じと書きましたが、これはつまり悪の気が薄いということにもなるわけで、そこが新三とすれば物足りない点になるでしょう。まず菊之助の新三の台詞は総体に高調子ですが、これは意識して調子をもっと低く持って行った方が良い。新三を初演した五代目菊五郎は、低調子の役者でした。音羽屋系の世話物は、どんな役でも調子を低めに 置いた方が具合がよろしいようです。「相合傘の五分と五分」など時代に張るところは、もう少し芝居っ気を持たせたらグッと良くな るでしょう。七五のテンポの微妙な揺れは決して一様なものではなく、時に語句に合わせて緩急を大きく付ける箇所があります。そこら辺にもうひと工夫が必要です。

歌舞伎でよく云う「仁」というものは、役者も観客も等しく認めるところの「らしさ」というものです。歌舞伎がこれを大事にしてきたのは、その通りです。しかし、一方で、仁の違いを承知のうえで敢えてその役を演じて役の新しい解釈(可能性)を拡げるということもあったはずです。仁にこだわって枠内にとどまっているならば、「兼ねる役者」という称号を得られる可能性はまったくないわけですから、「兼ねる」ことに積極的な意味を見出すことも必要なことだと思います。少なくとも菊之助の新三は、そのような視点で見なければならないと思います。ドイツの名歌手ディ‐トリッヒ・フィッシャー=ディースカウは、こう言っています。

『オペラでの俳優兼歌手の問題は複雑だ。対立するふたつの要素、ひとつは天賦の声、もうひとつは私も悩む様々な役柄。演劇俳優ならば容姿や年齢に即し役を与えられる。ところが私たち(オペラ歌手)の場合は、役は声域次第だ。役に向かい、 役に成り切る為には、ブレヒト流に言うと、「異化」しなければならない。ドン・ジョヴァンニをやるのに、彼になり切る必要はない。

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ベルトルト・ブレヒトの演劇概念である「異化」とは、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現する為に手法のことを云います。役者は単に役になりきるのではなく、特徴的な身振りを見せることで役を示します。つまり芝居が要求するリアル感覚と正対することです。ブレヒトはこのことを「俳優がある人物を引用する」と言っています。このことは歌舞伎であっても、同じことではないでしょうか。

菊之助の新三が見せる可能性は、一見すると人の良さそうなお兄ちゃんが実は相当なワルで、突然切れると不良のアンちゃんに豹変する二面性みたいなところにあるかも知れません。こういう若者は今時よくいそうです。その逆もまたありそうです。つまりワルそうに見えて、自分を上手く表現できないだけで実は純情な若者です。要するに芝居では兎も角、現実では「らしさ」なんて当てにならないものです。だから先ほどのF=ディースカウの言葉を借りれば、「異化」しなければなりません。まあ舞台で菊之助にそれが実現出来ているかと云えば未だしということになると思います(それは悪があんまり効いていないからです)が、その辺に菊之助の手掛かりがあるのではないでしょうかね。

そういうわけで菊之助の新三は永代橋はまずまずですが、富吉町新三内では役が軽く薄っぺらになる感じがします。これは別稿「三津五郎の髪結新三」でも触れた通り、白木屋から永代橋・冨吉町・閻魔堂前まで通すと新三の性格が割れて見えることにあります。だから家主長兵衛と新三とのやり取りが、落語の大家さんと熊さんの掛け合いみたいになってしまう のです。しかし、これは新三の悪が効かないということだけが原因なのではありません。つまりこの場面が持つ喜劇感覚に飛び付いて、芝居が持つ生活感覚から無意識のうちに逃げているということなのです。(この点では片岡亀蔵の大家長兵衛にも大いに責任があります。)大抵の新三役者だってそんなものなのですが、菊之助の場合は悪が効かない分、それが強く出て見えるということです。これは「髪結新三」が抱えるひとつの問題 点で、そこは作者黙阿弥が一番隠して欲しいところなのですから、芝居が要求するリアルな感覚から逃げてはいけません。一方、新三が弥太五郎源七に金を叩き返す場面では、団蔵が寄る年波でうらぶれた親分の雰囲気をよく出していて、お陰で新三の若さが随分と引き立って見えます。聡明な菊之助のことだから、このことは分かると思います。異化することが、大事なのです。

(H30・3・15)




  
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