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熊野三山参詣記・その4

平維盛と補陀落渡海〜補陀落山寺

熊野三山参詣記・その3:武蔵坊弁慶出生の地〜紀宝町鮒田の続きです。


熊野参詣の一般的な経路は、京都からであると、紀伊路から中辺路を経て、まず最初に熊野本宮大社を参詣する、次に熊野川を舟で下って新宮にある熊野速玉大社を参詣する、さらに新宮から海沿いの道を歩いて那智山の入り口に当たる補陀落山寺を経て熊野那智大社を参詣する、ここから再び熊野本宮大社に戻り、往路の道を逆に辿って京都へ帰るというものです。熊野三山巡りでも補陀落山寺は重要なお寺です。

補陀落山寺(ふだらくさんじ)は、補陀落渡海(ふだらくとかい)で知られる、那智勝浦町にある天台宗のお寺です。補陀落はサンクスリット語で観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳だそうです。もともとはお隣りにある「浜の宮王子」の別当寺(神仏習合思想に基づき、神社を管理するお寺)で那智山青岸渡寺の末寺でしたが、明治の神仏分離によって独立し、補陀落山寺と称しました。

「浜の宮王子」は那智山の入り口に当たり、ここから山道(中辺路)を登って熊野那智大社へ向かいます。下の写真は浜の宮王子社跡。

補陀落渡海とは、平安時代から江戸時代にかけて行われた宗教儀礼で、小さな船に閉じこもって浜の宮王子の浜から船出して、海の向こうにあると信じられていた観音浄土・補陀落山を目指すという捨て身の行のことを云います。つまり入水捨身(しゃしん)による自殺行です。補陀落渡海は各地に在り全国で56例の記録があるそうですが、そのうち那智勝浦からのものが28例もあって補陀落信仰が最も盛んであった地でした。補陀落山寺境内にこの地からの補陀落渡海の28例を記録した石碑があります。

       

本堂の横に、渡海に使用したとされる補陀落船の復元模型が展示されていました。人が一人座れるくらいの屋形を持つ6メートルくらいの小舟で、四方に四つの鳥居が建てられています。舟には30日分の水と食料を積み込みました。行者が乗り込むと入り口は閉じられて中からは開きません。また櫓や櫂など航行のなかの装備はなく、ただ潮の流れにまかせて漂っていくだけです。かつて当寺の住職には、61歳11ヶ月になると生きながら海に出て往生を願う渡海上人の慣わしがあったそうです。ただし江戸時代になると住職が亡くなってから遺体を舟に乗せて流すという形に改められたそうです。

ところで吉之助が補陀落渡海の石碑を見てホウと思ったのは、ここに寿永3年(1184)、平維盛が熊野那智に入水したことが記載されていたことでした。維盛入水(じゅすい)の件は「平家物語・巻十」に記載されていて有名な史実です。吉之助は維盛入水は熊野信仰に基づくものとは云え個人的な自殺と思い込んでいましたが、これは補陀落渡海の28事例の一つとして公的に認められたものであったのですねえ。なお維盛の入水は上述の補陀落船によるものではなく、普通の小舟で沖合いに漕ぎだしたものでした。また維盛一人だけの入水ではなく、お付きの者、与三兵衛重景(よそうびょうえしげかげ、維盛の乳母子に当たる)と石童丸の2名が一緒に入水しました。

平維盛は平清盛の嫡孫・平重盛の嫡男ですから、平家のプリンス中のプリンスです。維盛は一の谷の戦い(寿永3年2月7日)前後に平家陣中から抜け出し、「平家物語」に拠れば、その後高野山に入って出家し、熊野参詣を済ませて、寿永3年3月28日、舟で那智沖の山成島に渡り、松の木の幹に清盛・重盛と自らの名籍を記した後、再び舟に乗って沖合いに漕ぎ出し入水したとされます。入水自殺ですから遺体は上がっていません。屋島の戦いが寿永4年2月19日、壇の浦の戦いが寿永4年3月24日ですから、平家滅亡の報を知らずに没したわけです。享年27歳。

「義経千本桜・鮓屋」では、弥助と名前を替えて平維盛が登場し、いがみの権太一家の犠牲によって、維盛は高野山に落ち延びることになっています。浄瑠璃作者が書いたのはそこまでで、高野山で出家した以後の維盛のことは分かりません。だから作品から直接的に引き出されることではないのだけれども、補陀落山寺を訪れてみて、吉之助は「千本桜」の維盛はきっと当地を訪れて・那智の沖合いで入水しただろうと想像したくなりました。この想像は「千本桜・鮓屋」の主題に必ずや沿うものと考えます。

ご存じの通り「千本桜」では平家の三人の公達が「実は生きていた」とする大胆な虚構を押し立てています。まずそのうちの一人・知盛は大物浦で安徳帝を義経に託し、「大物の浦にて義経に仇をなせしは知盛が怨霊なりと伝えよや」と言い残して海に没します。つまり知盛は八島で死んだと云うことにして、「平家物語」の史実に返しているのです。もうひとり教経は、五段目・吉野家で僧兵・横川覚範と名を替えて登場しますが、義経は「やあ教経は八島の沖にて入水せり、覚範の首は忠信に」と云って教経を討ってしまいます。つまり覚範=教経であったことは認められず、教経は八島で死んだものとして、「平家物語」の史実に戻されてしまいます。(「千本桜」では平家が壇の浦ではなく・八島で滅んだとされていることについては別稿「八島語り考」を参照ください。)

「鮓屋」の弥助実は維盛も、当然「平家物語」のなかへ還っていかねばなりません。いがみの権太一家の犠牲のおかげで維盛は高野山で出家して・長く生きて・生涯をそこで静かに終えることが出来ましたと云うのでは、「平家物語」のなかへ還ったのとはちょっと違う気がします。その後の維盛は高野から熊野へ移り、那智のこの地から沖合いへ漕ぎ出し補陀落渡海をしたと考えた方が、「鮓屋」の場面で維盛が権太の死を如何に真剣に受け止めたか、権太の悲劇の意味がグッと重くなると感じますね。これで「千本作」に三人の公達はすべて「平家物語」の世界へ還ったことになります。

*写真は令和元年7月10日、吉之助の撮影です。

熊野三山参詣記・その5:那智の大滝〜その視覚的及び聴覚的イメージもご覧ください。

(H1・7・31)




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