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熊野三山参詣記・その5

那智の大滝〜その視覚的及び聴覚的イメージ

熊野三山参詣記・その4:平維盛と補陀落渡海〜補陀落山寺の続きです。


昭和41年(1974)5月にアンドレ・マルローが来日し、根津美術館所蔵の「那智滝図」を見て感動して、本物の那智の滝を見たいと突然言い出したそうで、文芸評論家の竹本忠雄氏が那智の滝へマルローを案内をした時のことを手記に記しています。画を見てその描かれた実景を見たいと云うのはマルローにはあまりなかったことだそうで、これはちょっとした驚きだったようです。(根津美術館の那智滝図はこちらをご覧ください。)那智の滝を目の前にマルローはしばしその場に佇(たたず)み、「滅多に私は自然というものに感動させられることがなかったが・・・」とだけ言い、那智の滝から何を得たか、この時にはマルローは竹本氏に多くを語らなかったそうです。マルローがそれを語ったのは、次の訪問地の伊勢神宮・内宮でのことでした。御撰殿の手前に差し掛かった時、参道の向こうに一本の杉の巨木が台地から真っすぐ垂直に聳え立っているのを指さして、マルローは次のように竹本氏に語ったそうです。

『滝は、あの滝は、太陽のサクレ(聖なるもの)であると言ってはいけないだろうか。見たところ、那智の滝は落下している。だがイマージュとしては、同時に上昇してもいるのだ。その点、これらの杉の大木と意味は少しも変わらない。』(竹本忠雄:「マルローと共に日本美術を見る〜日本文明のなかの垂直線」・「芸術新潮」・昭和49年7月)

那智の滝と伊勢神宮の杉の木の、垂直線のイメージが、マルローの頭のなかで重なり合っているのです。あの滝はアマテラスだ、那智の滝の精神とは常に下にいる人間と上にある空との対話だとも言ったそうです。なるほど哲学者と云うのは随分と難しいことを考えるものですなあ。というわけで今回の吉之助の熊野三山参詣の目的のひとつは、那智の大滝を見てマルローの感動を追体験することでありました。

写真は那智山青岸渡寺の三重塔から見た那智の滝の遠景。

飛瀧神社(ひろうじんじゃ)は那智の滝を御神体にする神社で、熊野那智大社の別宮だそうです。写真は飛瀧神社の方に下りていく道。

石段を下りていくとやがて那智の滝が見えてきます。落差は133メートルだそうです。梅雨の季節でもあり・このところの大雨で水量は豊富でした。何だか厳かな気分になって、マルローの云いたいことが少し分かったような気が。

マルローは「那智滝図」の感動から思索を展開させているので言及がないようですが、吉之助は那智の滝の神性には、聴覚的イメージもあると思いますねえ。あの滝の轟音は、滝を観る者の心のなかの雑念の一切を洗い流すホワイト・ノイズなのです。その場で無の境地に至らしむる効果があると思います。グレン・グールドがピアノの練習に行き詰まると、テレビを二台持ち出してきて、放送していないチャンネルを選んで・ホワイトノイズを盛大に鳴らし、大騒音のなかでピアノを練習したというエピソードを思い出しました。グールドに拠れば、こうすると音はまるで聞こえないのだけれど、指先で音楽が感じ取れる、頭のなかで鳴る音楽は輝くばかりに美しい響きであるそうです。(別稿「イメージとの格闘」を参照ください。)

ところで那智の滝は歌舞伎にも登場します。それは「那智滝祈誓文覚」(なちのたきちかいのもんがく)という芝居です。「源平盛衰記」によれば、平安末期、遠藤盛遠は同僚渡辺渡(わたなべわたる)の妻・袈裟御前に横恋慕し、これを誤って殺してしまったことから出家して文覚上人を名乗ります。芝居では、那智の滝に打たれる文覚の元に不動明王の使いが現れて修行の成就を告げます。滅多に出ない芝居ですが、吉之助は昭和58年3月29日国立劇場で十二代目団十郎(当時は海老蔵)が一日だけ上演した舞台を見た記憶があります。(これ以降現在までの上演はないように思われます。) これは成田山新勝寺の大塔建立勧進のための歌舞伎公演であったので、那智滝の場でお不動様が登場すると、観客から舞台へ向けて投げ銭が盛んに行われるという珍しい光景が見られました。

ちなみに芝居の那智滝は大滝に見えます(そうでないと画にならない)が、高さ133メートルから落下する水を浴びたのではさすがに命が危険です。(大正8年帝国劇場での舞台写真をご覧ください。)実際に文覚上人が21日修行した滝は、大滝からもう少し下流にある落差8メートルの滝だそうです。

*写真は、令和元年7月10日、吉之助の撮影です。

*別稿:「熊野三山参詣記・その6*妣(はは)が国へ〜新宮市・徐福公園」もお読みください。

(R1・8・6)





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