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熊野三山参詣記・その6

妣(はは)が国へ〜新宮市・徐福公園

熊野三山参詣記・その5:那智の大滝〜その視覚的及び聴覚的イメージの続きです。


『四天王寺には、古くは、日想観往生と云はれる風習があって、多くの篤信者の魂が、西方の魂が、西方の浪にあくがれて海深く沈んで行つたのであった。熊野では、これを同じ事を、補陀落渡海と言うた。観音の浄土に往生する意味であって、E々(びょうびょう)たる海浪を漕ぎきつて到り著(は)く、と信じていたのがあはれである。一族と別れて、南海に身を潜めた平維盛が最後も、この渡海の道であつたといふ。日想観もやはり、それと同じ、必極楽東門に達するものと信じて、いわば法悦からした入水死(じゅすいし)である。そこまで信仰に追ひつめられたと言うよりも寧ろ、自ら霊(タマ)のよるべをつきとめて、そこに立ち到つたのだと言ふ外はない。そう言うことが出来るほど、彼岸の中日は、まるで何かを思ひつめ、何かに誘(おび)かれたやうになつて、大空の日(ひ)を追うて歩いた人があつたものである。昔と言ふばかりで、何時と時をさすことは出来ぬが、何か、春と秋の真中頃に、日祀りをする風習が行われていて、日の出から日の入りまで、日を迎へ、日を送り、又日かげと共に歩み、日かげと共に憩う信仰があつたことだけは、確かでもあり又事実でもあつた。』(折口信夫:「山越しの阿弥陀像の画因」・昭和19年7月)

折口信夫の随筆「山越しの阿弥陀像の画因」は、小説「死者の書」(昭和14年)の執筆動機を述べたものとして知られていますが、読解がなかなか難しい文章ではあります。「死者の書」の背景である奈良時代からすると、日想観や補陀落渡海はずっと後世の仏教思想です。太古の「日祀り」の風習から、直接的に引き出されるようには思われません。しかし、上記の文章を見ると、折口の書き方は、まるで太古の「日祀り」の思想が、日想観や補陀落渡海の根底に流れているのが自明であるかのような書き方なのです。師・柳田国男がこれを読んだら、「論証を経ないで、またフィーリングだけでものを書く」と怒り出しそうです。しかし、自作小説の執筆動機を語るならば、これでも十分ではないですかね。折口にとって、日祀りも日想観も補陀落渡海も、全部根は同じなのです。事実折口はそのような考えで「死者の書」を書いたと思います。本稿ではとりあえず、民衆がはるか南方の海の向こうに極楽浄土があると信じたことを、ここで確認しておきたいと思います。

下の写真は、那智の補陀落山寺で展示されている補陀落船の模型。(詳しくは別稿「平維盛と補陀落渡海」を参照ください。)

「南方の海の向こうに極楽浄土がある」という思いは、折口民俗学の「まれ人」の思想にも通じるものです。折口信夫は、大正元年(1912)8月に伊勢・熊野を旅行し、伊勢神宮に詣でた後に、大王崎(三重県志摩市大王町)の先端に立ち、太平洋の大海原を見た感動を後にこのように記しています。

『われわれの祖(おや)たちの、この国に移り住んだ大昔は、それを聴きついだ語部(かたりべ)の物語のうえでも、やはり大昔の出来事として語られている。(中略)その子・その孫は、祖の渡らぬ先の国を、わずかに聞き知つていたであろう。しかし、それさえすぐに忘られて、ただ残るは、父祖の口から吹き込まれた、本つ国に関する恋慕の心である。その千年・二千年前の祖々を動かしていた力は、今もなお、われわれの心に生きていると信じる。十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王が崎の尽端にたつた時、遥かな波路の果(はて)に、わが魂のふるさとのあるような気がしてならなかつた。これをはかない詩人気取りの感傷と卑下する気には、今もってなれない。これはこれ、かつては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるじい)の間歇(かんけつ)遺伝(あたいずむ)として、現れたものではなかろうか。』(折口信夫:「妣が国へ・常世へ」・大正9年5月)

昨年(平成元年)7月に吉之助は熊野を旅行して来ました。海岸に立つて太平洋を眺めて・改まって思索にふけることはしませんでしたが、それでも車窓から見る太平洋は圧倒的な存在感で迫って来ました。吉之助の身体感覚のなかにある海のイメージは、吉之助は神戸生まれですから瀬戸内海みたいな感じです。これは大阪生まれの折口にとっても、そうだったはずです。太平洋はスケールが全然違います。太平洋の大海原を見ていると、あの水平線の遥か向こうに何かがあるだろうという気がして来ますねえ。那智の補陀落山寺で補陀落船の模型を見ましたが、昔の人々の「南方の海の向こうに極楽浄土がある」という思いは分かる気がしました。

下の写真は、新宮市の神倉山(新宮市神倉神社)から太平洋を眺める。海の向こうに何がある。

出口は、同時に入り口でもあります。補陀落渡海で遥かな海の向こうへ行こうとする人々があれば、また向こうから来る人もあります。

日本書紀に拠れば、東征の際に神武天皇が上陸した地が、熊野の地でした。神武天皇が降り立った天磐盾(あめのいわたて)の山が、現在、神倉神社がある神倉山(和歌山県新宮市)です。この時、天照大神の子孫の高倉下命(たかくらくじのみこと)が神武天皇に神剣をささげ、これを得た神武天皇は、天照大神の遣わした八咫烏(やたがらす)の道案内で軍をすすめて、熊野・大和を制圧しました。つまり大和朝廷の歴史は熊野から始まったわけです。(神倉神社については、こちら。)

もうひとつ、新宮市には興味深い史跡がありました。JR新宮駅の前に、何だか街の雰囲気にそぐわなそうな中華風のゲートがあって、最初吉之助は「何だ、これは」という感じで無関心に前を通り過ぎたのですが、調べてみると、これが「海の向こうへ行こうとする人々あれば、また向こうから来る人あり」の典型でありました。下の写真は、徐福公園のゲート。

「史記」に拠れば、徐福は秦の始皇帝に仕えた方士(医術・神仙の術などを身に付けた修行師)で、「東方の三神山に不老長寿の霊薬がある」と進言して、始皇帝の命を受け、三千人の童男童女(若い男女)と技術者を従えて、財宝と五穀の種を持って東方に船出しました。三神山には到らず、そのまま行方不明になったとあります。

徐福が漂着したとの伝承は各地にあるそうですが、熊野の地に辿り着いたという伝承が特によく知られています。それで新宮市に徐福公園があるわけです。徐福の墓は、紀州藩によって元文元年(1736)に建立されたものだそうですから、もちろん徐福のホントの墓ではありません。現在は市制の公園として整備されています。いやあ熊野は浪漫の地ですねえ。

上の写真は、徐福顕彰の像。下の写真は、徐福の墓。

*写真は令和元年7月10日、吉之助の撮影です。

 (R2・10・31)


 

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