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熊野三山参詣記・その1

熊野古道と熊野三山


1)熊野古道のこと

熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を参詣してきました。伝統芸能を研究する人間として熊野には一度行ってみたいとずっと思っていた場所でしたが、東京からだと結構遠いし日程もそれなりに長くなるので、なかなか気楽に行けるところじゃないですよね。

 2年前の平成29年2月に吉野山を旅行して、奥千本の金峯神社(かつての金峯山寺蔵王堂の奥宮に当たる)に行った時に、登山姿の数人のグループとたまたますれ違って挨拶をしました。この時の吉之助は麓から登って来て軽装だったのですが、彼らは物々しい重装備であったので、どこへ行くのか尋ねたところ「熊野へ行く」という思いがけない返事が返ってきて来てビックリしました。何でも吉野から熊野へ向かう古い路があるのだそうです。これを熊野古道・大峯奥駆道(おおみねおくがけみち)と呼ぶことを後で知りました。吉野から熊野を縦走する大峯山脈は1000〜1900メートル級の厳しい峰々が続きます。これを踏破して熊野を目指す巡礼の旅が、修験道(しゅげんどう)の修行でした。昨今は熊野古道散策がブームですが、大峯奥駆道は生半可な覚悟ではとても辿れない厳しい道のりだそうです。現在でもこの難行に挑戦しようという方がいらっしゃるのですねえ。それにしても吉之助が出会ったあの日の夜の吉野地方は結構な量の雪が降ったので、彼らの熊野行はどうだったか・大変だっただろうと思います。

熊野古道(熊野参詣道とも)とは、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)とその関連寺社へ通じる参詣道のことで、紀伊半島に位置し、県としては和歌山県・三重県・奈良県・大阪府の4県にまたがります。2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。熊野古道には、大きく分けると6つのルートがあります。

1.紀伊路(きいじ):紀路(きじ)とも云う。渡辺津〜田辺へ向かうルート
2.小辺路(こへち):「こへじ」と読む方が多そうですが、地元の方は「こへち」と呼ぶそうです。高野山〜熊野三山ルート
3.中辺路(なかへち):田辺〜熊野三山へ山間部を行くルート(一般的に「熊野古道」と云えばこのルートだそうです。)
4.大辺路(おおへち):田辺〜串本〜熊野三山へ海岸線を行くルート
5.伊勢路(いせじ):伊勢神宮〜熊野三山ルート
6.大峯奥駆道(おおみねおくがけみち):吉野〜熊野三山ルート

このうち紀伊路と中辺路は平安時代からよく知られた熊野参詣道でした。近世以降に紀伊田辺以上東の道を中辺路と分けて呼ぶようになりましたが、もともとひとつの道(紀伊路)でした。なおこの道は昔は「小栗街道」とも呼ばれました。餓鬼阿弥姿となった小栗判官を、檀那衆が土車に乗せて熊野へ送り届けた道です。

「熊野」は、記紀に記載されている地名のなかでも最も古いものの一つだそうです。この地が「熊野」と呼ばれるようになったのは、一説には熊野の発音が「こもる」に類似していることから、木々が生い茂る地で「籠る」という言葉が「熊野」に転化したそうです。「紀伊続風土記」に、「熊野は隈にてコモル義にして山川幽深樹木蒼鬱なるを以て名づく」という記載があるそうです。また熊野を「籠国(こもるく)」であるとして、これが「籠野(こもるの)」、「籠りの」へ変化して神霊の宿る森林を意味するようになって、これが次第に「熊野」へ転化していったという説もあるそうです。「くまぐまし」という語は、薄暗いこと、ものの影、更に樹木がこんもりしげっていることを意味することから、熊野は秘められた場所、聖なる場所の意味を持つようになったとのことです。

また熊野は、謡曲「熊野」にあるように、「ゆや」と発音される場合があります。「更科日記」には石山詣をする際に「斎屋(ゆや)におりて御堂にのぼる」という記述があります。斎屋とは寺に籠り斎戒沐浴する為の建物のことを云いますが、このことからも熊野という地が、籠って斎戒沐浴する聖なる場所とみなされていたことが察せられます。

熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社を、まとめて「熊野三山と呼びます。三社はそれぞれ由来が異なります。しかし、三社の主祭神を相互に勧請し相互にまつることで連帯関係を持っており、「熊野三所権現」として信仰されるようになりました。また熊野三山は神社でありながら、「神は仏の別の姿である」という本地垂迹思想によって仏教的性格が色濃く、それぞれが本宮大社が西方極楽浄土、速玉大社が東方瑠璃浄土、那智大社が南方補陀落浄土と考えらえれていました。だから三社をセットで巡礼することに格別の意味があったわけです。

熊野詣でが広く知られるようになったのは、平安時代に上皇による熊野御幸が行われるようになってからのことでした。ちなみに「御幸(ごこう)」とは上皇・法皇・女院の外出のことを云い、天皇の外出ならば「行幸(ぎょうこう)」と云います。だから熊野参詣をしたのは上皇でした。天皇が熊野を参詣したことはありません。熊野を参詣するとなれば、往復一か月以上の相当な時間が掛かります。天皇には公務がたくさんありますから、それほど長期間京都を空けるわけに行きません。上皇ならば気軽に熊野参詣が出来たわけです。特に後白河上皇は上皇になってから熊野詣を33回も行ないました。なお参詣は、往路は「現世から浄土へ向かう」、復路は「浄土から現世へ帰る」という意味があって、往路復路とも同じルートを辿りました。

熊野速玉大社には、「熊野御幸」の碑があります。後白河上皇33回、後鳥羽上皇29回、鳥羽上皇23回とあります。

京都から遠く険しい道を辿る熊野詣は、楽なものではありませんでした。むしろ苦労して参れば参るほど功徳が大きいと考えられたようです。中辺路ルートが難路であるのは、苦行のためだという修験道の考え方に拠ったものだそうです。後白河法皇が編纂した「梁塵秘抄」には、熊野詣をうたった今様の歌詞が収録されています。

熊野へ参らんと思へども 徒歩より参れば道遠し すぐれて山きびし 
馬にて参れば苦行ならず 空より参らむ 羽賜(た)べ若王子


(現代語訳:熊野にお参りたいと思うが、歩いて参れば道が遠い。とりわけ山が険しい。馬で参詣すれば苦行にならず、ご利益がない。それならば空からお参りをしよう。私に羽を下さい。若王子の神よ。)

*若王子(にゃくおうじ)は、12所権現の1つに数えられる若宮のこと。

熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し 
広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず

(現代語訳:熊野へ参るには紀伊路と伊勢路のどちらが近いだろう。ど
ちらが遠いだろう。すべての衆を救う熊野権現の慈悲のもとへ参る道なのだから、紀伊路も伊勢路も決して遠いことはないだろう。

なるほど熊野詣は大変なものだったのですねえ。熊野古道には、王子と呼ばれる参詣途中で儀礼をおこなう場所が数多くあって、それは九十九王子と呼ばれました。九十九はたくさんの意味。「王子」という命名は、峰中修行者を守護する神仏は童子の姿をとるという修験道の考え方に拠るものだそうです。王子社で旅人や貴族は宿泊したり休息をとったり、時には和歌会などが催されることもあったようです。

下の写真は、熊野古道中辺路・浜の宮王子社跡。かつてはお隣の補陀落山寺と一体の寺社でありました。ここは那智の浜辺から熊野那智大社へ向けて登っていく熊野古道の入り口に当たります。

下の写真は、熊野古道中辺路・祓殿王子(はらいどおうじ)跡。かつては大斎原に着く直前の王子で、参詣者はここで禊ぎをしてから大斎原に向かったようです。今は遷座された熊野本宮大社の裏門近くに当たります。

2)熊野那智大社と那智山青岸渡寺(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)

熊野は深い森林と険しい山岳地帯なので、山や川、巨岩や森などを神聖視して、そこに神々が宿っていると考えました。熊野那智大社は那智山の中腹に鎮座し、那智大滝(那智の滝)に対する原始の自然崇拝を起源とする神社です。

 

江戸時代には神仏習合の時代であったので、熊野那智大社と那智山青岸渡寺は一体の寺社でした。明治維新後の神仏分離の時に、熊野三山の他の二つ、熊野本宮大社と熊野速玉大社では仏堂は廃されてしまいましたが、熊野那智大社だけは如意輪堂が破却を免れました。後に信者によって復興されたのが、現在の那智山青岸渡寺だそうです。

下の写真は、青岸渡寺から那智の滝を望む。

3)熊野速玉大社と神倉神社・阿須賀神社(和歌山県新宮市)

熊野速玉神社は熊野川を背にして鎮座し、境内には神木となれる天然記念物の「ナギの木」の大樹があります。現在の社殿は明治16年9月に炎上して、その後再建されたものだそうです。神倉山の神倉神社に祀られていた神を現在の社地に移し、それ以来、神倉山の本宮に対し、ここを新宮(にいみや)と呼ぶそうです。

神倉山は、日本書紀に拠れば、東征の際に神武天皇が上陸した天磐盾(あめのいわたて)の山だそうです。この時、天照大神の子孫の高倉下命(たかくらくじのみこと)が神武天皇に神剣をささげ、これを得た神武天皇は、天照大神の遣わした八咫烏(やたがらす)の道案内で軍をすすめ、熊野・大和を制圧したとされています。山上にはゴトビキ岩と呼ばれる巨岩がご神体として祀られています。ゴトビキとはヒキガエルを表す新宮の方言だそうです。山上の拝殿への石段538段は急勾配で、登るのも大変ですが、足を踏み外すと危なそうで下りの方がもっと大変。

拝殿の上に圧し掛かっている巨岩がゴトビキ岩です。ヒキガエルの喉元を見てるみたい。

神倉山からは新宮市街と太平洋が一望できます。

日本書紀では、熊野権現はまず神倉神社に降臨し、その後阿須賀(あすか)の森に移ったとされています。熊野信仰が盛んになるなかで、阿須賀神社も繁栄して、元享3年(1322)には阿須賀権現が現在の東京都北区飛鳥山に勧請されるなど、全国に阿須賀神社の末社が見られるそうです。観光ルートからちょっと外れているので観光客が少ないようですが、阿須賀神社は世界遺産にも登録されている、熊野信仰の古い起源を持つ重要な神社です。

注:「江戸名所図会」に拠れば、江戸飛鳥山の阿須賀権現は、寛永年間に王子権現が造営された時に山上から移されて合祀されたそうです。したがって現在の東京都北区飛鳥山公園には阿須賀権現が鎮座していません。

4)熊野本宮大社と大斎原(和歌山県田辺市本宮町)

熊野詣での人々が京都から数百キロの中辺路の道のりを歩いて、最初に辿り着くのが熊野本宮大社でした。熊野本宮大社はかつて、熊野川・音無川・岩田川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲にありました。江戸時代まで中洲への橋はかけられる事はなく、参拝に訪れた人々は歩いて川を渡って大斎原に入り、着物の裾を濡らしてから詣でるのがしきたりであったそうです。しかし、明治22年(1889)8月の水害で大きな被害を受け本宮大社の社殿など多くが流出してしまったため、かろうじて水害を免れた四社が現在の、熊野川からずっと高い場所に遷座されたそうです。

下の写真は、熊野本宮大社の旧社地・大斎原(おおゆのはら)。神秘的な雰囲気が漂っています。

下の写真は、大斎原から熊野川を望む。

*写真は令和元年7月9日〜11日、吉之助の撮影です。

*熊野三山参詣記・その2:小栗判官蘇生の物語〜湯の峰温泉もご覧ください。

(R1・7・21)




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