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熊野三山参詣記・その2

小栗判官蘇生の物語〜湯の峰温泉


現在ではあまり耳にする機会がないですが、明治の半ばくらいまでは「小栗判官・照手姫の物語」は説教浄瑠璃や歌舞伎でもよく取り上げられて、民衆によく知られたものでした。別稿「小栗判官とは何だろうか」において説教「をぐり」の精神的世界について考えました。大まかに云えば、説教「をぐり」は、照手姫による小栗の救済と再生の物語です。そのクライマックスが、目も見えず口もきけず耳も聞こえない餓鬼阿弥姿となった小栗を土車に載せて、「えいさらえい」と声をあげて檀那衆が綱を引いて、リレー形式で(照手姫もその一人)繋いで熊野の地へ送り届ける場面です。そのような道中の過程で餓鬼阿弥の魂は再生に向けて清められ・高められ、同時に綱を引く檀那衆もまた功徳によって清められるのです。道中が苦しければ苦しいほど、功徳もまた高められるのです。

『車を捨てて、かごを組み、この餓鬼阿弥を入れ申し、若先達(せんだつ)の背中にむんずと負いたまひ、上野ヶ原を打ち立ちて、日にち積もりてみてあれば、四百四十四ヶ日と申すには、熊野本宮湯の峰にお入りある。』(説教「をぐり」)

土車に載せられた小栗が辿ったとされる道筋が「小栗街道」と呼ばれるもので、これは現在の熊野古道・紀伊路と中辺路に当たります。土車が引ける平坦な路ばかりではありませんから、難所の坂道では若い檀那衆が餓鬼阿弥を背負って進んだのでしょう。

熊野本宮にほど近いところに在る湯の峰温泉の湯は、如何なる難病もこの湯に浴すれば健やかに平癒すると云われる薬湯でありました。餓鬼阿弥は、この湯の峰で七・七日(四十九日)の湯施行で、遂に元の身体を取り戻しました。

『なにか愛洲の湯のことなれば、一七日(いちしちにち)御入りあれば、両目が明き、二七日(にしちにち)御入りあれば、耳が聞え、三七日(さんしちにち)御入りあれば、はや物をお申しあるが、以上七七日(なななぬか)と申すには、六尺二分(ぶん)、豊かなる元の小栗殿とおなりある。』(説教「をぐり」)

写真下は、熊野本宮大社(正確に言えば旧社地である現在の大斎原)から大日越の古道(小栗街道)を下って来たところ、つまり小栗判官の道行きのゴール地点です。ここが湯の峰の入り口です。大斎原から約2キロほどの近さですが、大日越は急な勾配の上がり下がりが続いて、小栗街道の最後の難所になります。

下の写真は、湯の峰温泉バス停を降りたところ。湯の峰温泉は、日本最古の湯とも伝えられ、世界遺産に登録されています。ひなびた味わいの温泉地です。何故か外国人の宿泊客の姿が多い。インターネットで何でも調べられるから、日本人よりも情報通ですねえ。湯の峰の源泉は、火傷するくらいに熱いです。

写真は、七・七日(四十九日)の湯施行で餓鬼阿弥が元の身体を取り戻したと伝えられる、霊験あらたかな「つぼ湯」です。二・三人がやっと入れるほどのスペース。「つぼ湯」は日によって色が七色に変化するそうですが、吉之助が訪れた時には、深い青色でした。つぼ湯の入湯料は大人770円だそうです。

湯の峰には、つぼ湯のほかにも、小栗判官由来の史跡がいくつかあります。ここは「つぼ湯」から道を上ってほど近い場所にありますが、元の身体に戻った小栗判官が、体力を試すために持ち上げたと伝えられる「力石です。

「まかずの稲」。餓鬼阿弥の髪を結んでいたワラを捨てたところに、稲が生えて、毎年実り続けたことから、「まかずの稲」と呼ばれた場所だそうです。「力石」の傍にあります。

これは身体が回復した小栗判官が、餓鬼阿弥だった自分を載せていた土車をここに埋めて供養したと伝えられる「車塚」です。湯の峰から熊野本宮へ向かう坂道をずいぶん上った寂しいところにポツンとあります。

「小栗判官・照手姫の物語」は、現代の我々にはもう縁遠いものになっていますけれど、こうした史跡を訪ねてみると、中世の民衆の気持ちにちょっとだけ触れた気分がしますね。

写真は、令和元年7月11日、吉之助の撮影です。

(R1・7・25)




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