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熊野三山参詣記・その3

武蔵坊弁慶出生の地〜紀宝町鮒田


言うまでもなく武蔵坊弁慶は歌舞伎の最強キャラクターの一人ですが、実は謎の多い人物です。「平家物語」には義経の家来の一人として名前が出て来ますが、あくまで「その他大勢」の扱いです。屋島や壇ノ浦の戦いでも目立った活躍がないようです。弁慶の豪傑のイメージは伝説に拠るところが多く、実在した人物かどうか疑わしいとの声もあるそうです。

義経に寄り添い・命を懸けてこれを守護する、日本人が思い描く弁慶のイメージは、どうやら室町時代初期に成立した「義経記」に発するようです。「義経記」には「牛若丸と弁慶との出会い」(ただし出会う場所は五条大橋ではなくて五条天神となっている)や奥州平泉衣川での「弁慶の立ち往生」など有名なエピソードが登場します。また「義経記」には「如意の渡り」の場面で、渡し守に同行の者が義経であると見破られそうになって、弁慶が義経を扇で打つ場面が登場します。関所ではなくて渡し舟の場面なのですが、どうやらこれが謡曲「安宅」・歌舞伎の「勧進帳」の安宅の関の原型となるもののようです。

『(渡し守が)「正しくあの客僧こそ判官殿にておはしけれ」と指してぞ申しける。その時弁慶、「あれは白山より連れたる御僧なり。年若きにより人怪しめ申す無念さよ。これより白山へ戻り候へ」とて、舟より引き下ろし、扇にて散々にこき伏せたり。』(義経記)

このように謎の多い人物であるため出生地も不明ですが、紀伊国(現在の和歌山県)出身だと云われることが多いようです。「義経記」が伝えるところでは、熊野別当の「弁しょう」という人物(ただし歴史的に該当する人物の記録はないそうです)と、病気平癒の御礼参詣に熊野を訪れた二位の大納言の姫君との間に生まれた子供だとされています。熊野別当とは、熊野三山を統括する役職のこと。なお弁慶出生の地として特に有名なのは、和歌山県田辺市湊です。田辺市では市を挙げて宣伝しており、駅前に大きな弁慶の銅像が建っています。また市内には弁慶ゆかりの史跡が多くあるそうです。(田辺市観光協会のサイトをご覧ください。)

このため弁慶出生の地と云うと吉之助もまず田辺市が頭に浮かびますが、今回の熊野参詣で新宮市の熊野速玉大社を訪れた時、境内で『当地の伝承として、弁慶の出目は熊野速玉大社に仕えた熊野三党の一つ鈴木一族の出身とされ、源平の戦いに出陣した(中略)尚この地より1キロほど離れたところに弁慶産家楠跡石碑がある』という看板を見つけました。

ホウこんなところにも弁慶の伝承の地があるのか。10キロも離れているなら諦めもするけれど・伝承であれ何であれ弁慶出生の地がそんな近くにあるならば、歌舞伎研究している吉之助としては立場上行かない訳に行かないじゃアありませんか。そこで速玉大社の方に詳しい場所を訊ねたところ、どうやら熊野川の対岸に在るらしいと云うことくらいしか分かりませんでした。まあ近いのだから兎に角行ってみるかと云うことで、行ってみるとこれが案外遠かった。途中で場所が分からなくなってウロウロしてしまって地元の方に道を訊きましたら、ご親切にも車に載せてくれて現地まで案内していただきました。大変有難うございました。案内無しではとても現地に辿り着けなかったと思います。

写真下は、新熊野大橋の新宮市側から見た熊野川です。熊野川を県境にして、対岸が三重県になります。弁慶産家楠跡石碑は、写真中央に見える堤防水門のずっと向こうにあります。場所は三重県南牟婁郡紀宝町鮒田です。現在は三重県に位置しますが、ここが和歌山県田辺市と並ぶ・もうひとつの弁慶出生伝承の地になります。

写真下が、弁慶産家楠跡石碑です。「続紀伊風土記・鮒田村」によれば、その昔この場所に鈴木一族の屋敷があったらしく、庭に楠(くすのき)の大木が生えていて、幹には莚(むしろ)が八枚も敷けるほど大きな空洞があって、ここで弁慶が生まれたと云うのです。しかし、寛政7年(1795)に乞食がこのなかで焚火をしてその不始末で楠が燃えてしまった為、ここに石碑を建てたそうです。

こうして弁慶出生伝承の地を訪ねたら、歌舞伎研究者の務めを果たしたようで大変満足な気分になりました。行ったかいがありました。

写真は、令和元年7月10日、吉之助の撮影です。

(R1・7・27)




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