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イメージとの格闘


1)イメージとの格闘

夏目漱石の「夢十夜」の第6夜は、運慶が仁王像を彫っているのを夢に見るという話です。

『「・・よくああ無造作に鑿を使って、思うようなや鼻ができるものだな」と自分はあんまり感心したから独言のように言った。するとさっきの若い男が、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中にっているのを、の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出したそれで急に自分も仁王がってみたくなったから見物をやめてさっそくへ帰った。道具箱から金槌を持ち出して、(中略)一番大きい薪を選んで、勢いよくり始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪をから彫って見たが、どれもこれも仁王をしているのはなかった。』(夏目漱石:「夢十夜」・第6夜)

*夏目漱石:夢十夜 他二篇 (岩波文庫)

この話はとても興味深いと思います。若い男が「あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない・あの通りの眉や鼻が木の中にっているのをの力で掘り出すまでだ」と言ったことです。これはある意味で正しい洞察であると吉之助は思います。すなわち運慶は自分の頭のなかにある仁王のイメージを材料である木に投影して・そのイメージを追いながら・鑿を使っているということです。巧く思ったような彫刻が彫れない ならば、自分の頭のなかのイメージが十分に研ぎ済まされていないか・あるいはそれを表現できるだけの技量がまだ自分に備わっていないかのどちらかです。

ミケランジェロは大理石を・自分の芸術的意志に逆らう敵だと見なしていたということです。この話を聞いてミケランジェロが「俺の鑿で大理石という敵を征服してやるんだ」と考えていたと思うなら・それは大間違いです。ミケランジェロはそんな傲慢な人物ではありません。もし自分のイメージ通りの彫刻が掘れなかった時、ミケランジェロは「糞っ、いまいましい腕め、この腕を切り落としてやりたい」と自らに叫んだかも知れません。芸術家は頭のなかにある素晴らしいイメージを・形のあるものにしようと奮闘していますが、それは実はとても困難な仕事です。いろんな障害が付きまといます。事がうまく行かない時には・ 大理石も・道具も・ あるいは自分の腕さえも・自分のイメージの実現を阻む悪意を持った障害に見えてくるものです。まさに芸術活動は素材との格闘です。しかし、その仕事が見事になされた時には、それはまるでミケランジェロがこともなげに大理石から像を掘り出したように見えることでしょう。

これは文筆でも言えることで・吉之助の場合でもある程度イメージの当りをつけて文章を書き出すわけですが、そこまで出掛かっているイメージがなかなか形をなさないで苦しむということはよくあることです。結論はおぼろげに見えているのに・ その途中の論理が不十分で展開がうまく図れない・それで原稿がお蔵になってしまうことがあります。そう言うときはペンが・紙が(あるいはキーボードが)障害に感じられるものです。それと自分の頭 の程度ですね。調子の良い時は指先から文章が出るように感じられるものですが。

ですから・ミケランジェロが「大理石は敵だ」と見なしていたという話も、これは自然を如何に手なづけるか・つまり自然と人間の意志との対立であり・これはいかにも西洋人らしい二元論思考である云々・なんてことを言い出す人が 必ずいるので・言っておきたいのですが、そういう方は創造活動がどういう過程で生じるのか・その秘密をお分かりではないのです。自分の頭のなかのイメージを思うように表現できないもどかしさ・いらだちを、ミケランジェロは大理石に対して「お前は敵だ」と・八つ当たり気味にぶつけてみたに過ぎないのです。その点でミケランジェロはあけすけなほどに真正直です。

指揮者カラヤンがベルリン・フィルとのリハーサルで・どうしても思うような響きをオケから引き出せずに・苛立って「今の私の気持ちを言えば、君たちを全員縛り付けてガソリンをかけて火をつけてやりたい」と口走ったそうです。一瞬その場は凍りついたようになりましたが、しばらくして団員のひとりが「そんなことをしたら、もうあなたは私達とはやれませんよ」と言いました。「・・・そうか、それを忘れていた。」

この話をオーケストラの上に君臨し・彼らを押さえつけ・自分の意志に従わせようとする権力者のエピソードだと読んではなりません。「 君たちを全員縛り付けてガソリンをかけて火をつけてやりたい」というカラヤンの発言もミケランジェロの「大理石は敵だ」発言と同じようなものです。団員は「私たちはあなたの身体の一部ですよ。自分の身体を失ってあなたは音楽が出来るんですか。」と言ったのです。「・・・そうか、それを忘れていた。」このエピソードはカラヤンとベルリン・フィルの ・単なる信頼関係という以上のものを示しています。それは彼らが創造活動のなかで一体と化していたことを示 しているのです。

(H20・4・21)


2)指揮の不思議

指揮者とオーケストラというのは実に不思議な関係です。指揮者というのは自分で音を出さないくせに一番偉そうな感じであり、演奏会でまっさきに拍手を浴びるのは必ず指揮者です。しかし、なぜ指揮者が必要なのかを説明するのはなかなか難しいことです。

吉之助は指揮者とオーケストラの関係は「こっくりさん」みたいなところがあると思っています。指揮者がオーケストラに対して「こうあるべき」というようなイメージを提示していることは確かです。 しかし、指揮者の指示を受けてオーケストラは必ずしもその通りに動くわけではありません。人柄が良くて楽団員に好かれている指揮者だから良い演奏になるというものでもありません。集団のなかから生み出される 大きな意志みたいなものがあって、それが指揮者の介在によって・もっと高次の導きのなかで動かされるのです。ですからオケにとって指揮者は必ずしも必要条件ではない(指揮者なしでも優秀なオケならとりあえず演奏はできる)のですが 、指揮者なしでは十全な演奏はできないのです。

1977年11月15日に東京で行なわれたカラヤンとベルリン・フィルの演奏会のことを思い出します。吉之助の席は一階の前から5列目くらいのちょっと右側あたりで・カラヤンの指揮がよく見えました。曲はべートーヴェン:交響曲第7番でしたが、曲が開始されてすぐにオーボエが音をひっくり返したのです。吉之助はビックリしましたが、実はオーボエというのは とても繊細な楽器で・このようなアクシデントがしばしばあるのです。曲が始まって30秒もたっていなかったので・吉之助はカラヤンがオケを止めるかと思って・息を詰めてカラヤンを見ていましたが、カラヤンは指揮棒を止めませんでした。まるでオーボエのアクシデントが耳に入ってない如く・カラヤン の指揮棒は眼を閉じたまま・正確にリズムを刻んでいました。そのうちにオケは立ち直って・終楽章は見事なものになりました。

ところで当日の演奏会は放送録音が残っており・吉之助は25年ぶりくらいで久しぶりにこの演奏を耳にしました。この録音を聴くと、オーボエの音がひっくり返った瞬間にオケ全体(この場面であると弦セクション全体)が一瞬 ブンッと揺れるのです。オーボエ奏者は頭のなかが真っ白になっていて・自分がどこを吹いているのか分からなくなっています。オケ全体が方向を見失っているオーボエの音を支えようとするかの如く にオケの響きがオーボエを包み込み、「こちらだ、こちらだ」とオーボエの音を導くように、まさにひとつの生命体であるかのように・あるべき音・あるべきリズムの方向へ向かってオケ全体が態勢を立て直していきます。そしてオーボエが正しい位置に納まると・何事もなかったかのようにオケは音楽を続けていきます。 それはほんの一瞬の出来事です。この時吉之助の脳裏に・身体をピクリともさせずに・正確にリズムを刻んでいたカラヤンの姿がありありと蘇りました。「これはもの凄いオケだ・・」と吉之助は心底驚嘆しました。これはほとんど自律修正機能とでも言うべき能力なのです。当日の吉之助はオーボエの音がひっくり返ってビックリしていたので・ こういうことに気が付かなかったのです。25年ぶりに録音を聴き直してこのことを痛感しました。

カラヤンが確信を以って・タクトを振り続けたことがこの現象を引き起こしたことはもちろん事実ですが、これはオケ全員が耳を澄ませて・互いの音をよく聴き合っているから起こる魔術でもあります。現場に居合わせた吉之助 の記憶ではカラヤンはまったく何もしませんでした。ただ正確にタクトを振り続けただけのことです。オケは自分で態勢を立て直したのです。しかし、やはりカラヤンが何もしなかったことに秘密があるのかも知れません。カラヤンがアクシデントに反応して・眉をほんのちょっとピクリとでもさせていれば・結果は全然違っていたと思います。

(H20・4・26)


3)鉛筆指揮のすすめ

今でもそう言うかは知りませんが、昔は男が一度はしてみたい職業はプロ野球の監督とオーケストラの指揮者だとか言われたものです。マスコミがそう言う時の指揮者のイメージは間違いなくカラヤンです。カラヤンは「帝王」などと呼ばれていましたから、指揮者というと集団の上に立つリーダー・自分の意志のままに集団を操る 権力者みたいなイメージがあると思います。しかし、これはトンでもない誤解です。

あまり人様(ひとさま)に見せられない癖ですが・音楽を聴く時に興奮すると思わず鉛筆でも手にして指揮者の真似をしてしまう音楽ファンは少なくないはずです。かく言う吉之助もそのひとりです。オーケストラを指揮してみたいなどと言うと、人を操りたいという権力願望・あるいはナルシスト趣味があるなどと深層心理をご託宣なさる方がいますが、失礼ながら・そういうことを言う方は音楽をお分かりでない方だと思いますねえ。音楽に合わせて・鉛筆を振ってみれば・その面白さはすぐ分かることだと思います。

まずCDを聴きながら鉛筆をリズムに合わせて振ってみます。まあそれだけなら・ディスコでリズムに合わせて踊っているのとたいして変わりませんが、基本はそこです。まずは音楽の流れに虚心に身を任せることです。しかし、ディスコの踊りでも曲が分かって踊るならば・次元は全然違ってくるはずです。ジャンルは違いますが、菊五郎の芸談集「をどり」のなかで踊り手の至福の瞬間について菊五郎は次のように語っています。

「だから何度やっても、やはりその度に何だか夢中で雲の上でも歩いているように思うことが時どきありますよ。こういう振りはこういう形だなんて勿論、思ったこともないのです。ただひとりでに踊れてくるんだ。あの三味線は舞台で数十回、数百回聞いているけれど『聞いたことのない三味線だな。なんの三味線だろう。そういえばこの踊りもはじめてだな。』とそんな気持ちでただ夢中で踊る、それが僕は楽しいんだ。そこまで行ってはじめて本当の踊りが踊れるのじゃないかな、気狂じみているけれども。唄も三味線も何にも分からずにパッと舞台に出て、やりたい放題に勝手に踊る、それでいてちゃんと間にも拍子にも合っている。それが本当の踊りじゃないかしら。」(六代目菊五郎:芸談「をどり」)

「やりたい放題に勝手に踊る・それでいてちゃんと間にも拍子にも合っている」・そのような時は、自分の身体から音楽が出ている・あるいは鳴り物を自分で操っているような感覚になるものです。これは鉛筆指揮でも同じです。例えば曲がゆっくりとクレッシェンドする場面で右手をぐっと前に差し出し・そしてゆっくりと腕を上げていきます。それで音楽が少しづつ高まっていくと 脳内でアドレナリンが放出されていくのを感じますねえ。あるいは左手を横にかざして・ちょっと手のひらを柔らかく返してみせる。それで第一ヴァイオリンの節回しに微妙なニュアンスが付くような気がします。それがイメージ通りのものであるとその心地良さは何とも言えませんねえ。音楽を聴きながら鉛筆持って振るのは確かに疑似体験ではありますが、実際にオケを前にして指揮棒を持って振るのと本質的なところで何の変わりもないのです。音楽創造の過程を追体験する感覚になります。ただし鉛筆指揮でなければそういう感覚にならないというのではありません。指揮の真似をしていると・吉之助の場合は身体に音楽が入り易いのです。

鉛筆持って振る疑似体験と違って・現実の指揮は生身の人間集団であるオケを相手にしますから実務的な側面においてはもちろん全然違います。リハーサルで指揮者がどういう風に演奏を作っていくかというのは舞台裏を知る意味でも極めて面白いものです。しかし、そういうことは実は音楽イメージそのものに直接的に関係ない実務的な部分です。純音楽的な面から見れば誰でもその人なりのイメージというものを持ってい るはずです。もちろんプロはそのイメージを設計図のように明確にもっており・その研ぎ澄まし具合に格段の差がある(そこがプロのプロたるところ)のですが、純音楽的なイメージというのは誰にでもあるものです。ですから「音楽する」という意味において「演奏する」と「聴く」には可逆性があると吉之助は思います。実は我々は音楽を聴くという行為のなかで・単に演奏を聴いているのではなく・音楽するという行為を 頭のなかで演奏者と一緒に行なっているわけです。これはすべての芸術鑑賞行為において言えることです。

実は指揮者と同じ動きを真似て・素人が鉛筆指揮で振るのはかなり大変です。吉之助は勘所だけの鉛筆指揮です(そんな一曲振り通す体力はありません)が、アインザッツのきっかけを間違えたって誰にも分かることではないので・そ ういうことは別にどうでも良いのです。しかし、呼吸の仕方は非常に大事です。テンポの速い・リズムの刻みが強い箇所でバンバンと棒を振って・同じリズムでハッハッハッとやっている と(曲自体はそういう息を要求しているということなのですが)・振っていて息が持ちません。こういう場合は棒の刻むリズムから離れて・まったく違うゆっくりしたリズムで呼吸を深く保つのです。また同様に緊張感あるピアニシモが非常に長く続く場合は息を詰めたままでは呼吸困難になってしまいます。こういう場面も意識を音楽から話して・呼吸を楽にとって深く息をする必要があります。これは吉之助が鉛筆振っていてひっくり返りそうになった経験から学んだものです。指揮というのは音楽に没入して無我の境地にいるように見えますが・実は対象を突き放した醒めた面が必要なのです。そのバランスがとても重要になります。

(H20・5・1)


4)鉛筆指揮のすすめ・その2

『私が的を射るのか、それとも的が私を射るのか。このことは肉体の眼で見れば不思議だが、精神の眼で見れば不思議でも何でもない。では、どちらでもあり・どちらでもないとすれば、どうなるのか。弓と矢と的とおのれのずべてが融けあうと、もはやこれらを分離することは出来ない。そして、分離しようとする欲求すらなくなる。だから、私が弓を構えると、すべての事柄がクリアで、面白いほどシンプルになる。』(オイゲン・へリゲル:「弓道における禅の精神」)

オイゲン・ヘリゲル:日本の弓術 (岩波文庫)

これはカラヤンが指揮の極意を語る時によく引き合いに出した文章です。同じことは実は鉛筆指揮の場合にも言えます。鉛筆指揮の場合は音楽に合わせて指揮の真似をしているだけですが 、自分は音楽に合わせて振っているのか・自分の振りに合わせて音楽が鳴っているのか・そこの境目はあるようでないのです。大事なことは音楽と自分が一体になって鳴っているという感覚です。このことが非常に重要です。指揮の本質というのは他人を操ることではなく・そこに在るべきイメージを感知することです。

*1979年8月25日の「カール・ベーム85歳誕生祝賀会」において弓の極意を引き合いに出してベームを称えるカラヤンをご覧ください。

このことが分かるとオケが同じ曲を違う指揮者で演奏する場合にも・まったく異なった解釈に驚くほど容易に順応できる理由がおぼろげに理解できます。名指揮者ジョージ・セルはクリーヴランド管弦楽団の音楽監督で・このコンビはプロコフィエフの交響曲第5番をとても得意にしていました。セルはカラヤンが クリーヴランド管を振ることになった時・自分のオケがどれほどこの曲を深く理解し演奏できるかカラヤンを驚かせることが出来るとひそかに楽しみにしていたそうです。ところがリハーサルが始まった途端に自分のオケがカラヤンの解釈にいともやすやすと順応して・響きが変化していくことに、セルはとてもショックを受けたと後でカラヤンに語ったそうです。

よほど極端な解釈でない限り・オケが指揮者の要求するテンポに反応できずに・演奏がギクシャクするというような事態は起きません。極端なルバート・アッチェレランドはそれがどれほど即興的な・新鮮な表現に聴こえたとしても・実はオケとの入念なリハーサルの結果なのであって、逆に言えば本当は綿密に意図されたものであることも分かります。

このことは鉛筆指揮でも同じです。最初に振り出したテンポとフレージングで音楽の流れは大体きまりますから・演奏が変わったとしても「そこに在るべきイメージ」が掴めれば、それに合わせて振ることは難しいことではありません。最初の振り出しで・次はここはこう振り出すべきというイメージは明確に見えてきます。これは実に不思議なことですが、確かなことです。

ここでは鉛筆指揮の例を挙げましたが、身体を動かすかどうかの違いで・座って静かに音楽を聴く場合でもこれはまったく同じです。音楽を聴くという行為においては・演奏からイメージを直接受け取っているわけではありません。物理的には単なる空気振動に過ぎない音響から何かのイメージを脳内に自ら生み出すという行為を行なっているのです。ですから純音楽的な意味においては「演奏する」と「聴く」には可逆性があるということになります。

(H20・5・4)


5)在るべきイメージ

「ハイファイ(HI-FI)」という言葉は今どきは死語なのですかねえ。「ハイ・フィデリティ(高忠実度)」とは、「原音をどれだけ忠実に再現できるか」ということで・これはオーディオ機器開発の基本概念です。しかし、実際にはアンプ・スピーカー など機器が異なれば音響は変りますし、聴く場所の環境などの要素もあります。ハイファイなんてことをあまり聞かなくなっ たのはオーディオ機器が成熟したということがあるでしょう。昔は再生音楽は缶詰音楽とも言われて馬鹿にされたものですが、今はそんなことを言う人はいないと思います。街中には音楽・音響が溢れかえっています。音楽は空気か水のように・そこにあって当たり前のものになっています。当然音楽の聴き方も変ってきます。

名ピアニストのグレン・グールドが録音セッション休憩中にスタッフにこんなことを言ったそうです。「君たちは僕のピアノをとっても響き豊かに美しく録ってくれるのは有難いのだけれど、できればシュナーベルみたいな音で録ってれないかなあ。」 これを聞いたスタッフは「それならレコード掛けて・別の部屋で電話を通して音楽を聴いてくれれば良いんだよ」とおおいにボヤいたそうです。面白いエピソードで あります。

シュナーベルはSP初期のピアノの巨匠で・グールドは少年時代からその録音を愛聴していました。SP録音のピアノの音は針音が多くて・響きが乏しく・潤いがなく・硬い響きです。実際のシュナーベルはそんなものではなかったと思いますが、当時のSP録音の技術では記録できる音響のレンジは残念ながら非常に狭かったのです。ですから我々が現在録音で聴くことができるシュナーベルは 多分真実とは違うでしょう。しかし、一方で貧弱な響きではあっても聴き手に伝わってくる「これがシュナーベルだ」というイメージも確かにあるのです。何が聴き手にそう感じさせるのか・という事がここで問題になってくると思います。 グールドが夢みたのはそういう響きであったのかも知れません。

グールドにはもうひとつ面白いエピソードがあります。若きグールドが自宅で新しいレパートリーを練習していて・どう弾くか四苦八苦していたその時に、グールドの脇で突然掃除機の音が鳴り響いたそうです。

『ちょうどその時家政婦と険悪な状態で・彼女の嫌がらせでした。きちんと聴こえなくなったのです。ところが自分の演奏が感じ取れる。つまり、触感によってフーガが立ち現れたのです。指の位置で分かると言うか・あるいはシャワーを浴びながら首を振って水が両耳から飛び出す時に得られるような響きにも似ていました。こんなに心躍ることはほかに想像できません。輝くばかりに美しい響きでした。まさに翔び立ったのです。』(ジェフリー・ペイザント:「グレン・グールド、音楽、精神」・音楽之友社)

その後のグールドはこの経験を利用して、練習に行き詰まるとテレビを2台持ち出してきて・放送してないチャンネルを選んで、ホワイト・ノイズを大音量で鳴らし、大騒音のなかでピアノの練習をするということをしばしばしたそうです。このことは奇行に 思えるでしょうが、優れたピアニストというのは初見で楽譜を見ても音楽が分かる・その時に指遣いまでイメージできるものです。ところがその頭のなかの指遣いを鍵盤上で自分の指がその通りに再現できるか・ということが現実の問題になってきます。そこで大理石を敵だと見なしたというミケランジェロの話に返りますが、イメージしたように反応しない自分の指が・鍵盤が・ピアノが障害に思えてくるわけです。

グールドが「人生最高の瞬間」と言った・その出来事は、イメージした通りにまだ動いていない音楽(それは自分の指が弾いているものです)が自分の耳にどんどん入って来る。それが自分の頭のなかにある大事なイメージを壊してしまうのです。そのイメージはちょっと触れると形が変ってしまいそうなほどにデリケートなものです。イメージを強固なものにしていかねばならない大事な段階で・自分の弾いているピアノの音がそれを自ら壊しているようにグールドには思えるのです。掃除機の騒音は無機的な意味を持たない騒音であるが故にグールドの頭のなかの大事なイメージをまったく壊しません。むしろここでは自分の弾いているピアノの音をかき消してくれるが故にグールドを守ってくれます。だからグールドは自分の頭のなかのピュアな「在るべきイメージ」を掴み取ることが出来たということなので しょう。

(H20・5・9)


6)在るべきイメージ・その2

トーマス・マンは小説「魔の山」の最終章の「妙音の饗宴」のなかで主人公ハンス・カストルプがサナトリウムで蓄音機で音楽を聴きながら生活をする様子を描いています。あらゆる学問分野を学ぶ学生カストルプは、やがて人生が錬金術のごとく・絶え間ない崩壊と再生の過程であると知ります。そうしたなかでカストルプは身体を病み・サナトリウムで療養の日々を送ります。サナトリウムが「 ポリュヒュム二ア」という蓄音機を購入し・それに付いていた各12枚・12冊のレコードを夜ひとりで静かに聴きながら、 カストルプはお気に入りの音楽を聴くための荘重な儀式を作り上げていきます。「妙音の饗宴」で取り上げられる音楽は「ボエーム」・「カルメン」・「ファウスト」・「アイーダ」などのオペラの抜粋のほか・シューベルトの「菩提樹」などが含まれており、長い章がレコード音楽の熱い感想で占められています。音楽に興味のない読者はこの章を省いちゃうのじゃないかと心配なくらいです。

*トーマス・マン:魔の山〈下〉 (岩波文庫)

「魔の山」の舞台が第一次世界大戦直前(1910年代)であることを考えると・これほどレコード録音の音楽に真正面に向き合った文章は当時は音楽評論でも少ないようです。真夜中にひとり蓄音機の前に音楽に聞き入り・思索するカストルプの姿に彼の精神状況が伺われ ます。カストルプのお好みとする音楽は死のイメージにつながるものが多いからです。しかし、本稿においてはSP録音の貧弱な響きがカストルプが音楽を思索するのに何ら障害となっていないことに注目をしたいと思います。当時ラッパ吹き込みのSP録音は響きが貧しいだけではなく、響きやダイナミック・レンジを補強するため ・あるいは限られた収録時間に収めるために録音のために編成を変えたり編曲することがしばしばあり・特にオペラ抜粋の場合はそうでした。それでも「在るべきイメージ」はちゃんとカストルプに正しく伝わっています。彼はそれを「妖精の音楽」と呼び、情熱と陶酔と愛情を感じていました。カストルプにとって再生音楽は生の演奏が聴けないから仕方なく聴く偽物の音楽ではないのです。カストルプは再生音楽をまさしく音楽そのものと受け取っています。

グールドが「僕のピアノはシュナーベルみたいな音で録って欲しいな」と言ったエピソードについて考えます。恐らくグールドが感じているところの「シュナーベルの音」とは・ピアノの響きのなかの磨かれた表面的なもの・響きのなかにつきまとう聴き手のイメージを左右しそうな余計なものをを削ぎ落とした「響きの核(コア)」のようなものをイメージしているのです。ちょうどカラー写真より白黒写真の方が強い印象を見る者に与えることがあるように・貧弱なSP録音は現代のPCM録音よりも強烈な陰影を以って聴き手 の耳に響くことがあります。結果として「響きの核」のなかから・楽譜に記載された音程とリズムが示す音楽のピュアな姿が見えてくるとグールドは考えたのかも知れません。打楽器 的な性格を持つピアノという楽器の奏者がそのようなことを考えるのはごく自然のように思えます。

(H20・5・12)


 

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