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権太一家の悲劇〜五代目菊之助のいがみの権太

令和4年10月国立劇場:通し狂言「義経千本桜」・Bプロ「椎の木〜小金吾討死〜鮓屋」

五代目尾上菊之助(いがみの権太)、四代目中村梅枝(弥助実は三位中将維盛)、五代目中村米吉(お里)、初代市村橘太郎(弥左衛門女房おくら)、四代目河原崎権十郎(鮓屋弥左衛門)、三代目中村又五郎(梶原平三景時)他


1)権太一家の悲劇

国立劇場が建て替えされることが決まり、来年(令和5年・2023)10月末で閉場となるため、今月(10月)から1年に渡り、「初代国立劇場・さよなら公演」が行なわれます。まず第1弾として、菊之助の三役(知盛・権太・忠信)による、通し狂言「義経千本桜」が始まりました。もともと菊之助の三役は、令和2年(2020)3月・国立小劇場で行なわれたはずの公演でした。しかし、この公演は、世界的なコロナ感染増加のために、公演中止になってしまいました。幸い・この時の公演は無観客上演で収録された映像がネット配信されました。この時も意欲的な演技を見せてくれました。当時の吉之助の観劇随想(AプロBプロCプロ)については、リンクを参照ください。だから菊之助にとって、今回(令和4年10月)国立劇場公演は、いわばリベンジ公演と云うことになります。

本稿は今回・国立劇場公演のBプロ(いがみの権太の件)の観劇随想ですが、まず前置きとして少々長くなりますが、本題に入る前に、書いておきたいことがあります。最初は関係ないように見えますが、もちろん「鮓屋」のドラマに深く関連することですので、そのつもりでお読みください。

柳田国男の随筆「山の人生」(昭和元年・1926)の冒頭に、柳田が法制局勤務時代に見聞した、或る殺人事件の思い出が記されています。恐らく明治30年頃、実際に起きた事件の話です。山の炭焼小屋で苦しい生活をしていた樵(きこり)の男がおりました。その日も炭が売れず糧が得られずに戻って来て、子供の顔を見るのが辛さに昼寝をしてしまったそうです。

『眼が醒めてみると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の頃であったという。二人の子供がその日当たりのところにしゃがんで、しきりに何かして居るので、傍へ行ってみたら、一生懸命に、仕事に使う大きな斧を磨いで居た。おとうこれで殺してくれと言ったそうである。そうして閾の材木を枕にして二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして前後の考えもなく、二人の首を打落してしまった。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。』(柳田国男:「山の人生」 〜山に埋もれたる人生ある事)

ここで柳田が何故こんな話を書いたかは・とりあえず本稿では関係ないことですが、ご興味ある方は別稿「山の人生〜「紅葉狩」伝説のルーツを考える」をご覧ください。二人の子供を殺した・この樵の実話は、無用の感傷を拒む淡々とした語り口が、読む者に鮮烈な印象を与えます。ここには確かに「文学のふるさと」の如くのピュアな感動があるようです。この随筆に関連して、小林秀雄は次のように書いています。

柳田さんが深く心を動かされたのは、子供等の行為に違いあるまいが、この行為は、一体何を語っているのだろう。こんなにひもじいなら、いっその事死んでしまえというような簡単な事ではあるまい。彼等は、父親の苦労を日頃痛感していた筈である。自分達が死ねば、おとうもきっと楽になるだろう。それにしても、そういう烈しい感情が、どうして何の無理もなく、全く平静で慎重に、斧を磨ぐという行為となって現れたのか。しかし、そういう事をいくら言ってみても仕方がないのである。何故かというと、ここには、仔細らしい心理的説明などを、一切拒絶している何かがあるからです。柳田さんは、それをよく感じている。(中略)炭焼きの子供等の行為は、確信に満ちた、断乎たるものであって、子供じみた気紛れなど何処にも現れてはいない。それでいて、緊張した風もなければ、気負った様子も見せてはいない。純真に、率直に、われ知らず行っているような、その趣が、私達を驚かす。機械的な行為と発作的な感情との分裂の意識などに悩んでいるような現代の「平地人」を、もし彼等が我れに還るなら、「戦慄せしめる」に足るものが、話の背後にのぞいている。子供等は、みんなと一緒に生活して行く為には、先ず俺達が死ぬのが自然であろうと思っている。自然人の共同生活のうちで、幾万年の間磨かれて本能化したそのような智慧がなければ、人類はどうなったろう。生き永らえて来られただろうか。そんな事まで感じられると言ったら、誇張になるだろうか。』(小林秀雄:「信じることと知ること」)

ここで大事なことは、子供たちが「おとうこれで殺してくれ」と言ったのは、「ひもじくて・ひもじくて・こんな生活が続くなら生きていたくないから・殺してくれ」と言ったのではないと言うことです。父親が自分たちのために日夜これほど苦労している・だから父親を楽にしてあげたい、自分達が死ねば、おとうもきっと楽になるだろう、そう云う気持ちが、子供たちのなかに、何の無理もなく出て来るのです。そして子供たちはまったく平静な気持ちで・自分たちを殺すための刃研ぎをする。その背景に、平地人には想像も付かぬ、厳しい・残酷なほど辛い・山の人生があることは、明らかです。

そこで話しを「鮓屋」の、いがみの権太の悲劇へと転じます。「鮓屋」はもちろん名作であるから多くの劇評・論考がありますが、それらの多くに「権太の死は犬死にであった」と書かれています。権太が仕掛けた一世一代の大博打は、梶原にすべて見抜かれていました。瀕死の権太は、

『及ばぬ智恵で梶原を、謀(たばか)つたと思ふたが、あつちがなんにも皆合点。思へばこれまで衒(かた)つたも、後は命を衒(かた)らるゝ種と知らざる、浅まし‥』

と嘆きました。「梶原を謀ってやったぜ」という快感を権太が味わうことは出来なかった、だから権太の打った博打は負けで、権太の死は無駄と化したと云うのです。それじゃあ、権太が仕掛けた大博打は、あれは梶原を謀るために仕掛けたものだと云うことでしょうか?そうであるならば「犬死だ」と言うのは分かりますけどね。それは権太にばかり目が向くからそう見えるのではありませんか。

権太が仕掛けた大博打は、あれは権太一人で出来たことではないのですよ。権太は、維盛の贋首(実は小金吾の首)を持っていました。しかし、若葉の内侍・六代の君の替わりがいませんでした。どうしようかと思っている時、替わりを申し出たのが、権太の女房(小仙)と倅(善太)だったのです。ですからあの大博打は、権太が一人で仕掛けたものではありません。女房と倅も加わって・権太一家が仕掛けたものです。それでは小仙と善太は、一体どういうつもりで、権太の大博打に乗ったのか?そこを考えないと、「鮓屋」の悲劇は見えて来ないのではないでしょうか。これを考えるために、柳田の随筆「山の人生」が、役に立つのです。権太の述懐をお読みください。

『この度根性改めずば、いつ親人の御機嫌に預る時節もあるまいと、打つてかへたる悪事の裏。維盛様の首はあつても、内侍若君の代りに立つ人もなく、途方にくれし折からに。女房小仙が伜を連れ、「親御の勘当、古主(こしゅう)へ忠義、何うろたへる事がある。私と善太をコレかう」と、手を廻すれば伜めも、「母様と一緒に」と、共に廻して縛り縄、掛けても掛けても手が外れ、結んだ縄もしやら解け、いがんだおれが直(すぐ)な子を、持つたは何の因果ぢやと、思ふては泣き、締めては泣き、・・』 (「鮓屋」でのいがみの権太の述懐)

女房小仙は、「親御の勘当、古主へ忠義、何うろたへる事がある。私と善太をコレかう」と言いました。善太も「母様と一緒に」と言いました。これは、前述の柳田の思い出話で、二人の子供が「おとうこれで殺してくれ」と言ったのと、まったく同じことなのです。

小林が言う通り、ここで「どうしてこの母子はこんなことを申し出たのだろう」といくら言ってみても仕方ないのかも知れません。ここに見えるのは、「むごたらしいほどに救いようのない、絶対の孤独と悲しみ」とでも云うべきものです。そこに余計な感傷が入る余地がありません。しかし権太の大博打を完成させるために小仙・善太の犠牲が不可欠であったのですから、権太が母子の哀しみを共有していることは疑いありません。「鮓屋」の感動の源は、実はここから来るのです。(この稿つづく)

(R4・10・21)


2)「どうして母子はこんなことを申し出たのだろう」

「どうして母子はこんなことを申し出たのだろう」。小林秀雄が言う通り、いくら言ってみても仕方ないことであろうけれど、そのことを問うてみる価値はあります。小林は問うことが無駄だと言ったのではありません。安直な結論付けを許さない、絶対の哀しみがあると云うことを言っています。

「鮓屋」の前段「椎の木」(歌舞伎では「木の実」と云う)で、小仙は権太が小金吾から銭を衒(かた)り取る現場を目撃しました。後で小仙がこれを詰(なじ)って、衒りをやめて下さんせ」と権太に懇願します。ところが、権太が言い返します。その場面を丸本から見ます。

(小仙)『エヽこな様は/\、恐しい工みする人ぢやなう。姿は産めども心は生まぬと、親御は釣瓶鮓屋の弥助の弥左衛門様といふて、この村で口も利くお方。見限られ勘当同然、御所(ごせ)の町にゐた時こそ道も隔たれ、後の月から同じこの下市に住んでも、嫁か孫かとお近付きにもならぬのは、皆こなさんの心から。いがみの権にきぬきせて、衒りの権と言はふぞや。この善太郎は可愛ふないか、博奕(ばくち)の元手が要るならば、この子やわしを売つてなりと、重ねてやめて下さんせ。何の因果でその様な、恐しい気にならしやつた。』

(権太)『エヽ引き裂かれめが。又しても世迷い言ばつかり抜かしやがるはい。コリヤおれが盗み衒(かた)りの根源は、皆うぬから起つた事。(中略)どふしてとは覚へがあらふ。おりや十五の年元服(げんぶく)して、親父の言ひ付けで御所の町へ鮓商ひ、隠し女(びり)の中におのれが振袖、見込んだが鯱(しゃちほこ)、鱶(ふか)程寝入る仏師たちの、臍くりを盗み出し、店の溜り得意先、身代半分仕廻ふてやつたナ、聞へたかえ。ところで親父が、放(ほ)り出した、アヽ無理なわろの。その時因果とこの餓鬼が腹にけつかつて、親方はねだる、年貢米を盗んで立て銀。その尻が来て首が飛ぶのを、庄屋の阿呆が年賦(ねんぶ)にして、毎日の催促。その金済まそで博奕にかゝり、出世して小ゆすり衒り…』(「義経千本桜〜椎の木」)

「おれの衒りの原因はお前だ」と権太は言うのです。これは小仙にとって心外と云うより、かなりショッキングであったと思います。ここで分かるのは、小仙の前身が遊女であったと云うことです。権太が小仙に入れ込んで散財借金したところから始まり、親・弥左衛門から勘当されて、盗み衒りの道にはまり込んだのです。察するに恐らく小仙の実家は極貧で、身売りされて店に出たのです。歌舞伎の「木の実」の舞台では、茶店をやって慎ましくも幸せに暮らしているように見えますが、大体博打ちが稼いだ金を生活費に入れるなんて殊勝な話はないわけで、権太と一緒になってからの生活も相当苦しかったはずです。権太はいがみの権太と呼ばれて、村中の鼻つまみ・嫌われ者です。小仙も村人にまともな付き合いはしてもらえないし、善太も村の子供と遊んでもらえなかったでしょう。小仙のような最下層の出身から見ると、釣瓶鮓屋の主人弥左衛門は下市の村の名士も名士、まったく雲の上の存在に見えたでしょう。弥左衛門夫婦に、自分のことを「嫁女」と呼んでもらいたい、善太のことを「孫」と呼んでもらいたいと云うことは、小仙の長年の願いであったはずです。権太が心を入れ替えて・弥左衛門の勘気さえ解くことが出来れば、晴れて私は釣瓶鮓屋の嫁じゃ・善太は孫じゃと小仙が夢見るのは当然だと思います。

そんな小仙が、「おれの衒りの原因はお前だ」と権太に言われたら、衝撃は相当なものだったと思います。権太は冗談半分・本気半分で軽い調子で言ったのだと思いますが、小仙にはズキンと来たのです。そこで小仙が感じたことは、「私の手で、この人(亭主である権太)を更生させねばならない」と云うことです。どうやったらそれを実現できるか分からないが、それが出来るのは、「この私しかいない」と云うことです。(もちろん親の勘気を解いて・この状況から抜け出したいという気持ちは権太にも強くあることです。しかし、権太はそう云う気持ちを決して表に出しません。)

そのような深刻な雰囲気は、歌舞伎の「木の実」の舞台から、まるで感じ取れないと思います。芝居では、それは全然構わないのです。どこでもありそうな夫婦の会話が、実にさりげない形で、後の悲劇の伏線として仕組まれているのです。だから「木の実」では、権太一家三人の、貧しく苦しいなかにも・ほのぼのした心の触れ合いが見えれば、それで良いのです。しかし、「時代」の浪がヒタヒタと権太一家に押し寄せています。やがて「時代」が権太一家の秘められた願望を明らかにします。

権太は小金吾の首をを維盛の贋首に仕立て、梶原の厳しい追求の目をくらませ、維盛一家を助けようと考えました。梶原を騙せるのは、衒りの俺しかいない。これならば親父さまは「権太郎、よくやった」と喜んでくださるはずだ、これならば親父さまの勘気も解けるはずだ。権太はそう考えたのです。しかし、若葉の内侍・六代の君の替わりがいない。どうしようかと思っている時に、身替わりを申し出たのが、権太の女房(小仙)と倅(善太)でした。

『この度根性改めずば、いつ親人の御機嫌に預る時節もあるまいと、打つてかへたる悪事の裏。維盛様の首はあつても、内侍若君の代りに立つ人もなく、途方にくれし折からに。女房小仙が伜を連れ、「親御の勘当、古主(こしゅう)へ忠義、何うろたへる事がある。私と善太をコレかう」と、手を廻すれば伜めも、「母様と一緒に」と、共に廻して縛り縄、掛けても掛けても手が外れ、結んだ縄もしやら解け、いがんだおれが直(すぐ)な子を、持つたは何の因果ぢやと、思ふては泣き、締めては泣き、・・』 (「鮓屋」でのいがみの権太の述懐)

女房小仙は、「親御の勘当、古主へ忠義、何うろたへる事がある。私と善太をコレかう」と言いました。善太も「母様と一緒に」と言いました。これは、前述の柳田の思い出話で、二人の子供が「おとうこれで殺してくれ」と言ったのと、まったく同じであるのが分かると思います。母子が、これまでの苦しい生活のなかで何を感じて来たか察せられます。

こで「どうしてこの母子はこんなことを申し出たのだろう」と云う問いに返りますが、母子はこの一言が欲しかったのです。手負いになった権太の述懐を聞いて、弥左衛門と女房おくらが思わず嘆く言葉を見ます。

エヽ聞こえぬぞよ/\権太郎。孫めに縄を掛ける時、血を吐く程の悲しさを、常に持つてはなぜくれぬか。広い世界に嫁一人(ひとり)、孫といふのもあいつ一人ぢやはい。子供が大勢遊んでゐれば、親の顔を目印に、苦味の走つた子があるかと、尋ねて見ては、「コレ/\子供衆、権太が息子はゐませぬか」と、問へど子供は、「どの権太、家名(いえな)はなんと」と尋ねられ、おれが口から満更に、いがみの権、とは得言はず、悪者の子ぢや故に、はね出されてをるであらふと、思ふ程猶そちが憎さ、今直る根性が半年前に直つたら、ノウ婆」
「親父殿、嫁女(よめんじょ)や孫の顔見覚へて置かふのに」
「オヽおれもそればつかり」

「広い世界に嫁一人、孫といふのもあいつ一人」、「嫁女や孫の顔見覚へて置かふのに」、舅・姑に、この言葉を言って欲しいがために、母子は若葉の内侍・六代の君の身替わりを申し出たということです。そのためには、まず権太に頑張ってもらって、「出かした、権太郎、よくやった」と親父さまに喜んでもらえることをしてもらわなければなりません。そうすれば親父さまの勘気も解ける。これで初めて自分たちは、嫁女じゃ・孫じゃと言ってもらえるということです。このためだけに母子は身替わりを申し出たのです。そして最後の最後に舅・姑に、嫁女じゃ・孫じゃと言ってもらうことが出来ました。これで母子の犠牲は報われたことになるのではないでしょうか。

「権太の死は犬死だ」と仰る方は、なおもこう仰るかも知れませんねえ。確かに「鮓屋」最後で弥左衛門夫婦は権太を許して、嫁女じゃ・孫じゃと言ったけれど、小仙・善太は連れていかれてここにはいない。だから、これを聞いて喜ぶことも出来ない。権太はもうすぐ死んでしまう。だから、権太一家の犠牲はやっぱり無駄ではなかったかと。

これは大事なことなのですがね、例え報いられることがないとしても・人は人としてやらねばならぬと云う、崇高な行為と云うものがあるのですよ。小仙・善太は、その言葉を直接聞けなくても構わない、弥左衛門夫婦に嫁女じゃ・孫じゃと、たった一言言って欲しいと、ただそれだけを願ったのです。一切の見返りを拒否している分、母子の願いが、ただひたすら純粋・無私なものであることがはっきりと分かります。ここで、炭焼きの子供についての、小林の文章をもう一度読み直してみてください。

『炭焼きの子供等の行為は、確信に満ちた、断乎たるものであって、子供じみた気紛れなど何処にも現れてはいない。それでいて、緊張した風もなければ、気負った様子も見せてはいない。純真に、率直に、われ知らず行っているような、その趣が、私達を驚かす。機械的な行為と発作的な感情との分裂の意識などに悩んでいるような現代の「平地人」を、もし彼等が我れに還るなら、「戦慄せしめる」に足るものが、話の背後にのぞいている。』(小林秀雄:「信じることと知ること」)

確かに権太にも、親の勘気を解いて・この状況から抜け出したいという気持ちは以前からあったに違いありませんが、権太は更生するきっかけをなかなか見出せずにいました。もし鮓桶を間違わないで・母親から騙り取った三貫目の金で維盛一家を落し申し上げたと云えば、これで弥左衛門が「出かした、権太郎、よくやった」と喜んでくれたでしょうか。そんなことは分かり切った話です。小金吾の首が入った鮓桶を間違えて・悩んだところで、「親御の勘当、古主へ忠義、何うろたへる事がある。私と善太をコレかう」と小仙が申し出たところから、更生への仕掛けが始まるのです。小仙の言葉はホントに穏やかで、微笑みさえ浮かべているようです。弥左衛門夫婦に息子じゃ・嫁女じゃ・孫じゃと言ってもらいたい、ただそれだけのために、権太一家が力を合わせるのです。(この稿続く)

(R4・10・21)


3)「鮓屋」における維盛の役割

以上のことが、権太一家から見た場合の、「鮓屋」の悲劇の真相です。それは「時代」の要素・すなわち「平家物語」の世界とはまったく関係のない、親は子を想い・子はまた親のことを想うと云う、いつも変わらぬ庶民の心情です。「時代」へは、父・弥左衛門が平重盛に大恩があって、権太はその息子だから・やはり平家に恩義があることになり、そこでかろうじて「時代」と繋がっています。重盛の息子である維盛とその家族を守れば、きっと親父は「出かした、権太郎」と喜んで勘当を許してくれるはずだ、そうすれば息子じゃ・嫁女じゃ・孫じゃと呼んでもらえるということです。

したがって「鮓屋」の場合は、時代物によく見る「捧げ物の構図」、名もなき庶民の犠牲を「他者」が「そは然り」と受け取る構図と、ちょっと様相が異なると思います。維盛は、他者として機能しません。(別稿「鮓屋・時代物における世話場の難しさ」をご参照ください。)ここでは頼朝の名代である梶原景時が他者です。梶原が犠牲を「そは然り」と受け取り、許しを維盛に与えます。

「これだと権太一家は多大な犠牲を払って得るものは何もない」と仰る方がいると思いますが、権太一家が望んだものは、梶原の許しではありません。「梶原を謀ってやったぜ」という快感でもない。金でも物でもありません。それは、父と母の許しです。これだけのことをやってのければ、父と母が、俺のことを許して、きっと我が息子じゃ・嫁女じゃ・孫じゃと呼んでくれるはずだ。ただそれだけを信じて、権太一家はあの大博打を仕掛けたのです。そして、見事にそれを勝ち取ったのではありませんか?

ですから権太一家の悲劇は、ホントは「平家物語」の世界と直接的に関係がないのです。しかし、父・弥左衛門が平家に恩義がある線で、かろうじて「時代」へと繋がっています。だから「鮓屋」の悲劇を「平家物語」の世界の方に引き寄せ、色合いを時代物の様相に染め上げなければ、「鮓屋」は最終的に時代物の三段目切場の格に仕上がらないことになります。しかし、権太には、それは出来ません。それが出来るのは、維盛だけです。維盛は、武家の頭領としての資質にまったく欠けた人物でした。そのためには余りにも神経が繊細過ぎて、心が綺麗に過ぎました。維盛にとって、平家の御曹司として生きること自体が過酷に過ぎました。ですから、これまでの維盛の人生は、自己を偽った騙りの人生だったのです。そのことを維盛に気付かせてくれたのは、権太の死でした。権太は自らの騙りの人生を悔いて死に、維盛は自らの騙りの人生を自覚して髻を切るのです(出家を決意する)。こうして「鮓屋」は「平家物語」の世界へ納まることになります。

「鮓屋」が「平家物語」の世界へと転換するきっかけは、うっかりすると見逃してしまいそうなシーンです。それは弥左衛門との会話の後、維盛が都での栄華・父重盛のことなど思い出して座敷に座わり、ひとり物思いに沈む場面です。維盛は俯いたまま・じっと動きません。もう維盛は弥助に戻ることはありません。その間、最初のうちは、お里の「おお眠む、おお眠む」の件で引っ掻きまわされ、若葉の内侍と六代君が鮓屋の戸口に辿り着いたところで終わります。その様子は丸本では、

『維盛卿はつくづくと、身の上または都の空、若葉の内侍や若君の事のみ思ひ出されて、心も済まず気も浮かず、打ち萎れ給ひしを‥』

と語られます。維盛が物思いに沈むシーンが、これまでのどかな下市の里の鮓屋の「世話」の世界から「時代」への転換に、静かにさりげなく、しかし確かな足取りで係わっているのです。まるで維盛の想念に引き寄せられるが如く、若葉の内侍と六代君が戸口に現れるのです。これに気付いたお里のクドキあって、維盛一家が上市の隠居所へ落ち延びた後、権太が「聞いた・聞いた、お触れのあった内侍六代、維盛弥助、ふん縛って金にするのだ」と叫んで奥から飛び出します。ここまでが「鮓屋」のドラマを序破急で割った時の、「破」に当たります。維盛が思いに沈むシーンは結構長い時間になりますが、お里の「おお眠む」に気を取られて・ここの維盛の演技を観察するのを忘れる観客は少なくないでしょう。しかし、維盛役者の勘所は、実はここです。

今回(令和4年10月国立劇場)の「鮓屋」では梅枝が維盛を勤めますが、これはホントに申し分ない見事な出来の維盛でした。もうひとつ上の世代に混じっても遜色ないほどの維盛です。梅枝の維盛の良いところは、「もののあはれ」に感応するセンスがあること、憂いのなかに・もう少し暗めの色調、厭世感とでも云うべきものが感じられることでしょうかね。それが維盛の・物思いの・長い時間をじっくりと持たせています。これは梅枝の若さ(34歳)では教えて出せるものではなく、天性の資質と云うべきものです。これをベースに役を拡げて行けば、義経・桜丸・判官など、七代目梅幸が得意とした立役の数々が、将来必ず梅枝のものになることでしょう。

兎も角、今回の「鮓屋」がしっかり「時代」の手応えを持った出来栄えになったのは、もちろん菊之助のいがみの権太が良かったからですが、同じくらい梅枝の維盛も貢献していると云うことは、書き添えておきたいと思いますね。菊之助のいがみの権太については、次章で取り上げます。(この稿続く)

(R4・10・27)


4)菊之助のいがみの権太

菊之助のいがみの権太は、コロナのため上演中止になった令和2年(2020)3月国立小劇場での上演を初役とするか・見解が分かれるかも知れませんが、俳優協会のデータべースにも記載がありますし、吉之助はネット配信された無観客上演映像で観劇随想も書きましたから、今回(令和4年・2022・10月国立劇場)の権太を2回目とカウントすることにします。前回の「千本桜」上演では、敢えて順番を付けるとすれば、知盛の出来が一番良く、次いで狐忠信、そしていがみの権太と云う感じではなかったかと思います。前回の菊之助の権太は時代の方に寄っていて、若干硬い印象がありました。真面目で折り目正しいのは菊之助の個性ですが、菊之助の権太は、意図あってグレており、意図あってモドる、すべては予定調和という感じがしました。そんな印象が、今回のいがみの権太では、大幅に改善されました。

今回の菊之助の三役はどれも良い出来ですが、結果として、芸の伸長度合いから見ると、権太が一番伸びたと思います。これは、ここ数年、菊之助がいろいろな大役に挑戦して芸格が確実に上がっていること、その経験に裏付けられた自信が大きいです。それと精神面では岳父・吉右衛門の死去など辛いこともありました。いろんなことを含めて、菊之助はこれらをすべて芸の栄養として来ました。まだ現時点10月ですが、今回の菊之助の「千本桜」三役完演は、本年(令和4年・2022)の歌舞伎の、特筆すべき事項のひとつであるとして決して言い過ぎでないと思いますね。菊之助はホントに大きい役者になりつつあります。

権太は音羽屋にとって、とりわけ大事な役です。もちろん狐忠信だってそうに違いないですが、世話の総本寺・音羽屋にとって、権太は是非ともモノにせねばならぬ役です。今回の菊之助の権太は硬さが取れて、モドリになった手負いの述懐が、観客が自然に「そうだ、まったくその通りだ」と受け取れる権太になっていました。さらに回数を重ねて行けば、衒りの生活感みたいなものも自然と滲み出るようになることでしょう。今はまだ健康的な印象がする権太ではあるが、菊之助45歳の段階とすれば、十分過ぎるくらいの出来です。

結局、「鮓屋」における権太のドラマと云うのは、「グレてしまって親に勘当を受けた放蕩息子が、最後にひとつだけ良いことをして、親に許されて死んでいった」と云う、ただそれだけのことなのです。これが「世話」の真の主題であるわけで、権太の死を「平家物語」の無常の主題に結び付けるのは、維盛の役目です。今回の「鮓屋」では、菊之助の権太・梅枝の維盛が、そのような作品の在るべき姿を、素直に立ち上げて見せました。

別稿「鮓屋・時代物における世話場の難しさ」(令和4年6月博多座公演)で、端場に当たる「椎の木〜小金吾討死」を省いて「鮓屋」のみを単独で上演したことの不自然さを論じました。今回の通し上演であると、ホントに無理なく・芝居の流れのなかで、権太一家の悲劇を受け入れることが出来ます。これが作品本来のバランスであるからです。今回の「鮓屋」は博多座の時とほぼ似たような顔触れなのだけれど、いろんなバランスが変わることで、見違えるように印象が変わるのです。芝居のバランスとは、不思議なものですね。

権十郎の弥左衛門はよく頑張ってします。頑固さ・一徹さよりも、情けの方が濃く見える弥左衛門でありましたね。最初吉之助はちょっと印象が弱いかなと思いましたけれど、菊之助の権太と梅枝の維盛との間に立つと、権十郎の弥左衛門はなかなか悪くないバランスで、これはちょっと教えられた気がしました。

(R4・10・30)

*令和4年10月国立劇場・「義経千本桜」・AプロCプロの観劇随想もご覧ください。




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