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「鮓屋」・時代物に於ける世話場の難しさ

令和4年6月博多座:「義経千本桜〜鮓屋」

七代目尾上菊五郎(いがみの権太)、五代目中村時蔵(弥助実は三位中将維盛)、四代目中村梅枝(娘お里)、四代目河原崎権十郎(鮓屋弥左衛門)、初代市村橘太郎(弥左衛門女房おくら)、五代目中村米吉(若葉の内侍)、八代目中村芝翫(梶原平三景時)他


1)時代物に於ける世話場の難しさ

6月博多座の「鮓屋」は、菊五郎79歳のいがみの権太が注目です。菊五郎の権太のことは後述するとして、舞台総体として、後半部分(権太の二度目の登場以降)が安心して見ていられる出来です。後半に於いては、権太一家の犠牲を「他者」が然りと受け取る時代物の構図がそれなりに取れています。しかし、前半が何だか落ち着かない出来に思われます。役者は揃っており・個々の出来として取り立てて悪いところはないのですが、しかし、何だか妙にセカセカした気分にさせられます。このため「鮓屋」の捧げ物の構図が、厳密に決まらない不満を覚えます。ひとつには、これは今回上演が「鮓屋」一場のみの上演で、「椎の木〜小金吾討死〜鮓屋」という三場構成ではないと云う、芝居のバランスの問題もあろうかと思います。しかし、「鮓屋」一場であるなら・あるで、役者は芝居のバランスをしっかり再構築せねばなりません。それが正しい感覚で処理出来ていないと感じます。

吉之助の感覚では、権太の二度目の出までの・前半部は、お里の「オオ眠む」の件があって・弥助(維盛)が座敷に独り残り・先に寝たお里に「二世の固めは赦して」と詫びる場面で二つに分けられます。これで「鮓屋」一幕を序・破・急のバランスと見なすことが出来るはずです。今回(令和4年6月博多座)の「鮓屋」の舞台は、この前半(序)のバランスが宜しくありません。「鮓屋」冒頭は、竹本の詞章「春は来ねども花咲かす、娘が漬けた鮓ならば、なれがよかろと買ひに来る」で始まります。確かに陽気に浮き立った気分で幕が開くわけですが、ここが何だかセカセカと・足が地についておらぬ・落ち着かない気分になっています。この気分を、後半・権太の二度目の出まで、引きずっている印象です。梶原一行が登場してしまえば、舞台は「時代」の様式一色になってしまうので、さほど不満は感じません。今回は役者も揃っているし、さすがにそこは如才はありませんが、問題は前半です。前半を世話と位置付け、前半と後半の対照(時代と世話の差)を付けようと意図し過ぎたところで、前半が無用に「軽い」感覚になってはいないか。そのような疑問を覚えますねえ。

別稿「夏祭・世話狂言の難しさ」でも触れましたが、世話物「らしく」見せるために演技を「軽い」感覚で処理しようとすると、役の肚(性根)が弱くなって、却って世話のリアリティが失われてしまうことが起きやすいのです。こうなることを防ぐには、丹田に息を詰めて構えることを、時代物よりも、なお一層心掛けねばなりません。「肚」の持ち方がとても大事なのです。今回の「鮓屋」でも、同様のことを指摘せねばならないようですねえ。前半が、床(竹本)も含めて、全員が高調子気味に推移しているようです。たぶん世話の軽みを意識したつもりでしょう。しかし、これが世話のリアリティの不足に繋がっています。もっと台詞を低調子に取り、演技の足取り(テンポ)をしっかり取る必要があります。

ところで、このところの梅枝は、古典の大役で感心させられることが多い。典侍の局篝火も良い出来でしたけれど、田舎の商家の娘であると、若干勝手が異なるようです。確かにお里は「鮓屋」の賑やかなウキウキした気分を体現する役ではあります。しかし、これが過ぎると、お里が蓮っ葉な印象になってしまいます。もちろん梅枝のお里はそこまで悪くはないけれども、やはりウキウキが強めに出てしまったようです。これが世話の軽みというよりも、どこか浮足立った印象に見せてしまいました。お里の「実」をしっかり描いて欲しいのです。お里の「実」は、維盛夫婦の前で泣く長台詞だけにあるわけではなく、むしろその前の、恋にウキウキした乙女心の表出が大事であると心得てもらいたい。そこは肚を持って、(女形なのですから)「控え目に」描かねばならぬのです。これは梅枝のことだけでなく・同世代の若女形にも共通して言える問題点ですが、台詞を裏声の高調子に取ってヒナヒナさせる独特のイントネーションが気になります。これはいつ頃からこの傾向が強まったのでしょうかねえ、昔の娘方はこんな発声はしなかったと思うのですが、近年の娘方は、やたら台詞がキンキン響きますね。もう少し世話の低調子ということを工夫して欲しいと思います。(この稿つづく)

(R4・8・10)


2)「鮓屋」に於ける弥助と維盛

今回(令和4年6月博多座)の「鮓屋」では、時蔵が維盛を勤めます。令和の現在、維盛と云えばまず時蔵の名が挙がると思いますが、これから時蔵がこの役を当たり役としていくための課題を記すことにします。

時代物の捧げ物の構図とは、名もなき庶民の犠牲を「他者」が「そは然り」と受け取るものです。例えば、家来筋に当たる庶民が息子を身替わりに立てて、主人に尽くします。犠牲を然りと受け止めて赦しを与える、この捧げ物の構図によって、主従の縁(えにし)が再確認されることになるのです。ところが「鮓屋」の場合、そこが若干異なるようです。他者とは源頼朝の名代(みょうだい)である梶原平三景時です。いがみの権太は主筋である維盛のために犠牲を払いますが、梶原の方は権太の大博打をすべてお見通しです。梶原は、権太が差し出した首が贋であることを承知の上でこれを受け取って、暗黙の了解で維盛に高野山での出家を赦します。もちろんこれは頼朝の意思を受けたものでした。しかし、このことは「鮓屋」では、捧げ物の構図が定型のキレイな形では成立していないことになるかも知れませんね。

このことが、「鮓屋」での維盛の立場を微妙なものにしています。権太が差し出した犠牲に対し、維盛がこれに応えることは叶いません。維盛は他者として機能しません。その維盛に対し、高野に落ち延びるための赦しが梶原から与えられます。ここから次のような読み方が出来るのではないでしょうか。維盛は、彼自身の意思に係わらず、家来筋からも・他者からも、無理やりに「生かされる」と云うことです。維盛にとって、これはとても苦しいことだと思います。別稿「菊之助初役のいがみの権太」のなかで、「鮓屋」の維盛は高野山で出家した後・熊野へ向かい・入水することになるであろう、丸本にそんなことはどこにも書いておらぬけれども、これならば維盛は「平家物語」の世界へ正しく戻ったことになると吉之助が想像するのは、それ故なのです。

時代物としての「鮓屋」のドラマは、維盛を「生き伸びさせる」ために起こるのだけれども、そこからことごとく維盛は埒外(らちがい)である。維盛が能動的にドラマに関与することはない。維盛とは、そのような役であると考えたいと思います。

以上の認識を以て時蔵の維盛を考えますが、「たちまち変わる御装(おんよそお)い」で鮓屋の奉公人(弥助)から平家の御曹司(維盛)への性根に変わる、そこを時蔵は役作りの根本に置いたと見えますねえ。そうすると、世話から時代への変化と云うか、弥助と維盛の性根に落差を大きく付けたくなりますね。実際、その線で見るならば、時蔵の維盛は悪くないものです。弥助は突っころばしの和事で見せて、維盛は荘重な貴族の御曹司然と見せる、そこの変わり目は上手く出来ています。巷間の劇評では、「たちまち変わる御装い」で変わり目がキッパリしている・していないなどど、そんなことが書いてあるものだから、ここが役者の為所だと思う方は少なくないでしょう。しかし、丸本には「たちまち変わる御装い」なんて詞章はないのです。これは歌舞伎の入れ事です。

時代物の捧げ物の構図からすると、この歌舞伎の入れ事の弊害は、決して小さくないと思います。維盛の性格を、弥助と維盛に、二つに割ったかのように見せかねません。これが維盛の人物を「軽く・安っぽい」印象にします。これでは、「鮓屋」のドラマのなかで維盛はことごとく埒外であると云うことになりません。維盛が自分の意思で動くのは、幕切れの、瀕死の権太が「思へばこれまで衒(かた)つたも、後は命を衒(かた)らるゝ種と知らざる、浅まし」と嘆いた直後にしかありません。この場面を丸本で引きますと、

維盛卿も、「これまでは仏を衒(かた)つて輪廻を離れず、離るゝ時は今この時」と、髻(もとどり)ふつゝと切り給へば、

という箇所です。権太は自らの騙り(かたり)の人生を悔い、維盛もまた自らの騙りの人生を自覚し髻を切る(出家を決意する)。維盛にそのことを気付かせてくれたのが、権太でした。維盛が騙りの人生だと言うのは、直接には弥助を名乗り・浅ましくも生に執着していたことを指します。しかし、それだけではないと思います。維盛のような「もののあはれ」に対する感受性の強い人間には、平家の御曹司として・この世に生きること自体が、あまりに苦しいことでした。それは維盛にとって、自らを偽った騙りの人生でした。この気付きで初めて「鮓屋」のなかに、「義経千本桜」の根本である「平家物語」の思想が現出することになります。自分の意思で動くことがなかった維盛が、最後の最後に、初めて自らの意思で「平家物語」の世界へ戻って行きます。維盛が世話だ・時代だとチョコマカ動き回ることは、「鮓屋」での維盛を、軽く・安っぽく見せることにしかなりません。今回(令和4年6月博多座)の「鮓屋」前半が落ち着かない印象であるのは、時蔵の維盛にも責任の一端がないわけではありません。どんな場面に於いても、維盛は超然として維盛でなければならないのです。

「たちまち変わる御装い」での弥助から維盛への変化ですが、ここでは衣装も化粧も変わるわけではありません。表情や身のこなしで局面の変化をちょっと見せれば、それで十分なのです。その手助けの為に竹本の言葉での説明があると、吉之助はその程度のことに考えています。むしろ弥助と維盛のイメージの落差を出来るだけ小さくして、両者に共通した性根をどこに置くか、そこに維盛の役作りの根本を置くべきであろうと思います。その線での吉之助の理想の維盛役者は七代目梅幸です。映像が残っていますから、それを見て是非参考にしていただきたいものです。(この稿つづく)

(R4・8・11)


3)「鮓屋」における梶原

今回(令和4年6月博多座)の「鮓屋」後半は良い出来だと書きましたが、至らぬ場面がないでもありません。芝翫の梶原は持ち前の時代物の「らしさ」を発揮して、首実検の場面はなかなかのものです。そこは良いのだけれど、権太に向かって「こいつ小気味の良い奴・・」と高笑いした後、踵(きびす)を返し立ち去る所で、芝翫の梶原は、権太をチラと見遣って、「俺さまはみんな承知なんだヨ、俺を騙したつもりか、バカな野郎ダナ」という感じでフンッと鼻で笑う演技を見せました。一体これはどなたから教わった型なのでしょうかね?正しい肚が出来ていないから、このような浅い解釈をしてしまうのです。まあ如何にも芝翫らしいことだなあとは思いますけどね。

確かに文楽でも、梶原は引き目を入れて・権太をチラと見遣り、権太の打った大博打はみな承知だと云うことを暗示はします。しかし、それは権太のことをせせら笑うのではない。権太(と犠牲になる家族)のことをフト思いやり・「もののあはれ」を感じて、黙ってそのまま立ち去るのみです。芝翫のように権太を鼻でせせら笑う演技は、梶原という役を小さいものにしてしまうだけでなく、時代物の捧げ物の構図の意味さえも誤解させるものです。

名もなき庶民の犠牲を「他者」が「そは然り」と受け止めます。それは実に非情なものです。他者は有無を言わさず、捧げ物を持ち去るのです。しかし、他者はこれを「そは然り」と認めるならば、「あはれなことよナア」とか「悲しいことであるナア」とか、必ず憐憫の情を示すことはするのです。ただこれだけのことかも知れませんが、これがなければ、捧げ物の構図は決して完成しません。涙や憐憫の情を見せるのは、他者が最も好むポーズなのです。他者はそこで自らの度量の大きさを見せることが出来るからです。

ですから権太の行為をせせら笑うならば、時代物の捧げ物の構図は壊れてしまいます。芝翫がこのような解釈をしてしまうのは、多分ひとつには「歌舞伎の梶原はたいてい悪役だ」と云う思い込みがあるからでしょう。確かに「鮓屋」での梶原は、権太や維盛・弥左衛門から見れば怖い怖い敵役です。眼力鋭い梶原に睨まれれば、すべてが見抜かれてしまいそうな恐怖を感じてしまう、だから「鮓屋」の梶原は悪役然として見えます。しかし、歴史を見れば、史実の梶原は風雅を愛する武士であったのです。風雅を愛するとは、和歌を愛する・「もののあはれ」を解するということです。

例えば「平家物語」の巻十・「海道下(かいどうくだり)」を見てください。三位中将平重衡が須磨浦の戦いで捕らえられて後、鎌倉へ護送される途中・つまり海道下りで池田の宿(現在の静岡県磐田市)に宿泊した時のこと、池田の宿の長者の娘があまりに和歌が上手いので、重衡が娘の素性をいぶかると、護送に付き添う梶原景時が、「君はご存知ではありませんでしたか。あれこそ八島の大臣殿(平宗盛)の寵愛を受けた侍従で、老母のことが心配でしきりにお暇をいただきたいと願ったものをなかなかお暇が出なかったのを、「いかにせん都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん」と歌を詠んでお暇をいただいたと云う、海道一の歌の名手ですよ」と即座に答えたそうです。(この逸話から謡曲「熊野(ゆや)」が出来たのです。ただし作中に梶原は登場しませんが。)

この逸話だけでも、梶原がただのむくつけき東国武士ではなく、和歌を愛し、「もののあはれ」を解する教養ある武将であったことが分かると思います。これはとても大事なことで、「鮓屋」の陣羽織の件でも、維盛が「梶原は和歌に心を寄せし武士(もののふ)」と語っています。ですから陣羽織のなかの、袈裟衣・数珠を発見し、維盛が思わず、

「その思報じに維盛を助けて出家させよとの、鸚鵡(おうむ)返しか、恩返しか。ハア敵ながらも頼朝はあつぱれの大将、見し玉簾の内よりも心の内の床しや」

と吐露するのは、もちろん頼朝のことを言っていますが、同時に(頼朝の名代である)梶原のことも重ねて言っていると読むべきです。「俺さまはみんな承知なんだヨ、バカな野郎ダナ」と権太の行為をフンッと鼻でせせら笑うのが心得違いであることは、ここだけで分かるはずです。台本の読み込みは大事なことなのです。(この稿つづく)

(R4・8・12)


4)菊五郎のいがみの権太

言うまでもなく、いがみの権太は音羽屋の大事な役ですが、権太が当代菊五郎の当たり役かと言うと、菊五郎のようないい男にぴったりの当たり役が他に多くあるので、権太が真っ先に当たり役として挙がり難いかも知れないけれど、菊五郎の権太は、実にいいものです。何度繰り返して見ても飽きが来ない権太だと思いますね。それは権太の肚がしっかり決まっているからです。肚をしっかり持って、淡々と演技を積み上げていきます。そこから権太一家の「真実」が浮かび上がるのです。首実検での、梶原との対決も緊張感ある見事なものでしただ、特に菊五郎の良さが発揮されるのは、後半・手負いになってからの権太の述懐です。ここを技巧で泣かせる権太もいますが・まあそれもいいですが、菊五郎の権太はそれを肚で納得させる権太なのです。菊五郎の権太の述懐は、淡々として衒(てら)いがない。「そうか分かったぞ、お前の気持ち(真実)はそこにあったのだな」と云うことが腑に落ちる権太なのです。それすべて権太の肚が決まっているからです。

本稿冒頭にて、世話物「らしく」見せるために「軽い」感覚で処理しようとすると、役の肚(性根)が弱くなって、却って世話のリアリティが失われてしまうことが起きやすい、こうなるのを防ぐには、丹田に息を詰めて構えることを、時代物よりも一層心掛けねばならないと、述べました。まさしくそのお手本のような権太をここに見ることが出来ます。共演の方々は、菊五郎の権太の、そこのところをしっかり学び取っていただきたいですね。

或る意味において、古典的な感触の権太であると思います。これは時代物の世話場の、捧げ物の構図の、「そは然り」という感覚を正しく描き出すものです。しかし、前半においてやんちゃぶりで観客を笑わせる権太を期待する向きにとっては、若干そっけない印象もあろうかと思いますね。(これは今回上演のように、椎の木が出ず・鮓屋一場では難しいところがあります。)世話物「らしい」軽みがもうちょっと欲しいと不満を感じる向きもあるかも知れないなとも思います。そこのところ菊五郎の権太は、拍子抜けするくらいあっさりした感触です。手堅過ぎるほど正攻法で行っています。しかし、幕切れでの権太の哀切は、十分過ぎるほど伝わって来ます。このように権太の哀切がしっかり描けてこその「鮓屋」なのです。

このような菊五郎の権太の古典的な感触は従来からもあったものに違いありませんが、特に今回(令和4年6月博多座)上演に於いては、菊五郎79歳ということで・足元に多少不安を感じさせるところもあるなかで、菊五郎は渾身の権太を見せてくれたと思います。今回の「鮓屋」には出演していませんが、同座の菊之助は、舞台袖で父親の権太を仔細に観察したはずです。来る10月国立劇場で予定されている「千本桜」通しでの、菊之助の権太が楽しみになってきました。

(R4・8・16)



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