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「夏祭」・世話狂言の難しさ〜十一代目海老蔵の団七

令和4年7月歌舞伎座:「夏祭浪花鑑」

十一代目市川海老蔵(団七九郎兵衛)、五代目中村雀右衛門(お辰)、四代目市川左団次(釣舟三婦)、六代目片岡市蔵(三河屋義平次)、三代目市川右団次(一寸徳兵衛)、六代目中村児太郎(お梶)、初代中村莟玉(琴浦)、二代目大谷廣松(玉島磯之丞)


1)肚(ハラ)の問題

最近の世話物の舞台を見ると、リアリティに乏しいなあと不満を覚えることが多いですね。世話物と云うのは、市井の人物の生活や感情を生き生きと活写するものだと思います。これは南北や黙阿弥にも共通することですが、本稿で話題としたいのは、世話物の義太夫狂言のことです。「鮓屋」や「勘平腹切」などは時代物浄瑠璃のなかの世話場であるので、別に考えることにします。世話物の義太夫狂言は、近年とみに上演頻度が落ちてきているようです。このうち「夏祭」や「引窓」・「油地獄」・「封印切」などは割と上演されますが、「野崎村」にしても、「堀川」・「帯屋」・「朝顔日記」にしても、近年これを敬遠する傾向が見られます。東京の役者には上方なまりが難しい・それがリアリティ欠如の原因であるように云われますが、それだけが原因であるとは思われません。もっと根本的な問題があるのではないか。それは肚(ハラ)の問題です。

肚ということは、これは役の解釈・役に成りきるという方法論を包含するものです。しかし、「ハラ」と呼ぶことで分かる通り、丹田に息を詰めて構えると云う身体論と、実は表裏一体であるのです。そのどちらが欠けても、肚は成立しないのです。例えば「鮓屋」や「勘平腹切」のような時代世話では、作品自体に外側から役者を縛る感覚が強いものです。義太夫の素養としての上方なまりは大事なことに違いないですが、もしそれらが多少欠けていたとしても、様式が持つ約束事・縛りに従ってさえいれば、それが自然に「らしい」方向に役者を導いてくれる、そう云うものなのです。だから上方なまりが不十分でも、何とか「らしさ」は出せるものです。結局、肚があると云うことは「らしく見える」こととぴったり一致ではないのだけれど、「らしく見える」ことで・肚があるように見えるのです。それさえ出来れば、権太や勘平が立派に勤まります。勤めているうちに肚も自然と備わって来るでしょう。

一方、純粋な世話物の義太夫狂言では、このプロセスが上手く働かない場合が、しばしばあります。世話物では、外側から役者を縛る感覚が、それほど強くないからです。外から役者を「らしい」方向に導いてくれる力が弱い。だからそれは役者自身で創り出さねばならぬのです。役者が身体の内側に持つ肚が、とても大事なことになるのです。ここで丹田に息を詰めて構える「ハラ」のことを考えねばなりません。

時代物と比べれば、世話物の台詞は「軽い」感じに聞かせることが多いものです。しかし、時代物の対話は相手の台詞を待っても、受けることが出来ます。世話物の対話であると、そうは行きません。これだと「間」(ま)が空いてしまいます。それでは写実の会話に聞こえません。だから世話物の対話では、丹田に息を詰めて構える「ハラ」が、一層大事なのです。表裏一体のこととして、役の解釈・役に成りきるという方法論もますます大事になるのです。

世話物らしく見せようと、台詞を「軽い」感じに発すると、役の肚(性根)を弱く感じてしまうことがしばしば起こります。これは実際吉之助が浄瑠璃丸本を朗読しても痛感するところです。しかし、世話物では外側から役者を「らしい」方向に導いてくれる力が元々弱い。だから、役の肚が弱いと見せないために、役者がより一層「ハラ」を据えて掛からねばなりません。丹田に息を詰めて構えることをしっかり行なう必要がある。世話物の台詞は、時代物よりも、そこが難しい。ですから、丹田に息を詰めて構えることが出来なければ、役の解釈・役に成りきるという方法論でさほどの違いがなくとも、肚が弱いと見えてしまいます。つまり「ハラ」の持ち様ということです。

今回(令和4年7月歌舞伎座)の、海老蔵の「夏祭」の団七のことですが、演技の手順・役の解釈において不足があると思いません。見掛けも良いですが、役の肚を弱く感じてしまうのは、そこです。つまり「ハラ」の持ち様が足らぬということです。海老蔵は世話味を表出しようとして、台詞を軽くしゃべろうとしているでしょう。このため台詞を口先で言う感じになっています。台詞がハラから出ていない。これが十分でないから、役の肚を薄く感じるのです。もっと努めて丹田に息を詰めて構える必要があります。ただし、これは海老蔵に限った問題ではありませんがね。近年の世話物の義太夫狂言の舞台に共通して感じることです。(この稿つづく)

(R4・7・15)


2)「夏祭」の難しさ

海老蔵の発声の問題については本サイトでも何度か触れましたが、改善の兆しが見えぬまま、団十郎襲名を迎えることになりそうなのは、大変残念です。歌舞伎役者の魅力は「一声、二顔、三姿」と云うくらいですから、発声は大事なのです。発声はハラの息の溜め方・喉の置き方とか姿勢にも拠るので、ひょんな具合で身体全体が共鳴する良い発声が出る場合もあります。今回(令和4年7月歌舞伎座)の海老蔵の団七も、吉之助が見た日には、最後の「親父っさん、許してくだんせ」と云う台詞は、声がよく出てました。(この台詞が駄目じゃア話しになりませんが。)あともう一箇所声がよく出た台詞がありましたが、出来たのはその二か所。鳥居前も含めて・他の台詞は口先で云う感じになっています。声がよく出た時の、喉の置き方とか感覚をしっかり覚えておいて、他のところでもそのように発声出来るように試してみることです。ご本人は大声を発しているつもりだろうが、それだけでは声は隅々にまで届かない。世話の軽みを表現したつもりでも、それだけだと役の肚(性根)を弱く感じてしまうのです。こういう世話の台詞では、時代の台詞よりも尚更、丹田に息を詰める「ハラ」の据え方が大事になるのです。これが出来るようになれば、荒事の台詞もずっとずっと改善されると思いますがねえ。

ところで、このところ「夏祭」を見てつくづく感じるのは、「夏祭」という芝居には歌舞伎座という入れ物(劇場)は大き過ぎると云うことですね。これは同じ純世話でも、「引窓」などではさほど感じないことで、「夏祭」でのみそう云う不満をより強く覚えるのは、それだけ「夏祭」のドラマが濃密な人間描写を求めている、肌が触れ合ってベタベタするくらい距離が近い人間関係のドラマであるからだろうと思います。ここでもリアリティの問題が出てきます。今回の「夏祭」と同じ配役でも、これがもっと小さい劇場であれば・それなりに見えるのかも知れませんが、すきま風がヒューヒュー吹く心地がしてしまうのが、この劇場のせいであるならば、少々気の毒な気もします。だからこそ、その分余計に、肚(性根)を据えて掛からねばならないわけです。そこが歌舞伎座でやる「夏祭」の難しさです。

左団次の釣舟三婦は飄々とした好々爺の風があり、それはそれとして(特に鳥居前は)興味深く思います。しかし、三婦はもともと侠客であって・そのような危険な熱い感情を・今は数珠を耳に下げて抑え込んでいる、だから表面上は人の良い表情を見せているが・内面は結構尖ったものがある、まあ達観したポーズを取ろうと自ら必死に努めているということです。(これは「三人吉三」の土座衛門伝吉も似たところがあると思います。)左団次の好々爺の三婦からは、そのような土性骨が見え難いようです。そこに工夫の余地があるかも知れません。

同じようなことが雀右衛門のお辰にも云えます。「夏祭」が面白いところは、団七や徳兵衛・三婦が何かと云えば「男が立たぬ・一分(いちぶん)が立たぬ」と喚きだすのとまったく同じことを女もやる、そのような「侠気の世界」だということです。ですから、自分の貞操を疑われたとか・自分のプライドがそれでは許さぬとか、理屈を云えば確かにそんなことになりますが、夫徳兵衛と同じ侠気がそこにあるわけです。お辰が「女が立たぬ」と云い始めたら、もう見境がない。雀右衛門のお辰は性根において誤るところはないけれど、まだ行動が理屈の上に乗った感じがしますね。焼けた鉄弓を頬に押し当てるという行為は、その理屈の延長線上に決して出て来ません。それがお辰の侠気なのです。それはどこか狂気にさえ通じます。だから女武道の原点にお辰をイメージしてみると良いと思いますね。そうすると(丸本にはない台詞ですが)「うちの人が好くのはここ(顔)じゃのうて・ここ(肚)でござんす」と云う台詞での、女形の愛嬌がもっと生きると思います。そこが改善点だと思いますが、しかし、今回の舞台の出演者のなかでは、雀右衛門のお辰が最も実(じつ)のある演技が出来ていたと思います。

市蔵の義平次は頑張って、憎々しさはよく出せています。あと大事なのは、団七は義平次の娘(お梶)の亭主なのに(つまり味方になって然るべきなのに)、どうして団七にこんなヒドい仕打ちをするんだ?というところです。つまりこれは「お前ばっかり良いカッコしやがって何じゃい、お前なんてナンボのもんじゃい」と云う強烈な僻(ひが)みなのです。団七は出目(境遇)から脱出しようとして、出目に足を絡めとられ、そして破滅するのです。だから団七にとっての義平次は、自分の出目を思い出させる醜い亡霊みたいなものです。ともあれ市蔵の義平次はよく頑張っています。歌舞伎の義平次役者が払底するなか、是非モノにしてもらいたいものです。

(R4・7・18)

*追記:複数の舞台関係者にコロナ感染が判明したことから、7月19日から千秋楽(29日)までの公演が中止になってしまいました。



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