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六代目歌右衛門の熊野(ゆや)

平成元年10月国立劇場:「熊野」

六代目中村歌右衛門(熊野)、九代目松本幸四郎(二代目松本白鸚)(平宗盛)、六代目中村東蔵(朝顔)、三代目河原崎権十郎(清水の僧湛心)、三代目中村橋之助(八代目中村芝翫)(待僧清圓)他

(本稿は完結しました。最新の章はこちら。)


1)歌物語ならぬ「歌芝居」

本稿で紹介するのは、平成元年(1989)10月・国立劇場で三島由紀夫の「熊野(ゆや)」の舞台映像で、主役である熊野を演じるのは六代目歌右衛門です。歌右衛門は生涯で「熊野」を6回演じており、この平成元年がその最後の舞台でした。

「熊野」初演は、昭和30年(1955)2月歌舞伎座での第2回莟会公演でのことです。本作は歌右衛門が三島に、「能の「熊野」を舞踊劇化して莟会でやりたいから台本を書いてくれ」と依頼して出来たものだそうです。莟会とは、歌右衛門主催の自主公演会のことです。ただし後に三島本人が「肩肘張って、オリジナルなものを目指して力作を狙って書いた作品ではない」と書いているように、能の原曲の形を大筋でそのまま生かしたもので、目立った改変はしていません。あくまで歌右衛門の熊野のイメージを大切にしたものです。そのおかげか初演は好評で、三島歌舞伎のなかでは最も安定した評価を得ている作品とされています。なお三島には「熊野」という作品がもうひとつあって、それは能を現代劇のスタイルに翻案した「近代能楽集」のなかの一編「熊野」(昭和34年4月)ですが、或いはこれは歌舞伎の「熊野」を書いたことから・触発されて生まれたものであったかも知れません。

もともと「熊野」は、能では「熊野松風は米の飯」と云われるほどで、何度演じても飽きが来ない・演じるたびに味わいが増す演目とされています。ところが、粗筋だけを見ると「熊野」は全然ドラマティックでなく、あまり面白そうな作品に思えません。事実フランスの優れた劇作家で・駐日本大使も務めたポール・クローデルは、「熊野」の舞台を見て「死ぬほど退屈だ」と感想を漏らしたそうです。芝居に劇的な筋の起伏を期待してしまうとそうなるかなと思いますが、クローデルほど日本文化に卓越した理解を示した劇作家でもそう感じたと云うことは、単純に「そりゃあ外国人にこの良さは分からないよね」と笑って済ませることは決して出来ないと思います。これもまた「熊野」の一面なのだろうと思わざるを得ません。恐らく春爛漫の桜の光景と病身の母のことを思いやって暗く沈む熊野の対比が、たゆたうようにゆったり流れ行くところに「熊野」の魅力があるのであろうと察しはしますが、そこで歌舞伎の「熊野」を考える前に、能の「熊野」はどうしてそんなに愛されるのか、そこをちょっと考えてみたいのです。

能「熊野」の作者については世阿弥とする説が濃厚のようですが、諸説あり確証がないそうです。原拠は、「平家物語」巻十・「海道下(かいどうくだり)」です。しかし、これは平宗盛の話しではなくて、三位中将平重衡が須磨浦で捕らえられて後、鎌倉へ護送される途中・つまり海道下りで池田の宿(現在の静岡県磐田市)に宿泊した時の話しなのです。池田の宿の長者の娘があまりに歌が上手いので、重衡が素性をいぶかると、護送に付き添う梶原景時が、「君はご存知ではありませんでしたか。あれこそ八島の大臣殿(平宗盛)の寵愛を受けた侍従で、老母のことが心配でしきりにお暇をいただきたいと願ったものをなかなかお暇が出なかったのを、「いかにせん都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん」と歌を詠んでお暇をいただいたと云う、海道一の歌の名手ですよ」と言ったと云う、その景時の短い会話のなかで出て来るだけなのです。

歌舞伎ではあまりいい人物に描かれませんけど、梶原景時がそんなことを重衡にサラリと教えてみせたのであれば、景時は無骨な関東武者ではなく・風雅を身に着けた人物だったのだなあと感心しますが、「海道下」を読んで吉之助がとても驚いたのは、能の作者がこの短歌にまつわる・ほんの数行のエピソードを手掛かりに「熊野」の物語(ストーリー)を紡ぎ出したと云うことです。すなわち

「いかにせん都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん」

の歌のことです。つまり能の「熊野」は、まず最初にこの歌があって、この歌のためにその前の物語(ストーリー)が付け足された構造になっているのです。それは歌のための前口上であって、歌の由来を説いたものに過ぎないのです。だから物語は或る種絵画的なものとなって、劇的起伏が乏しいものとならざるを得ません。このことに気が付いて、吉之助は作者の手腕に思わず感動してしまいました。これはまさに日本の歌物語の伝統から来たものなのですね。つまり能の「熊野」は、歌物語ならぬ「歌芝居」であったわけです。(この稿づづく)

(R3・10・14)


2)歌物語のこと

歌物語とは、和歌にまつわる短い物語、または物語集のことを言います。平安期の10世紀頃に多く作られ、「伊勢物語」・「大和物語」などがその代表的なものです。古くから和歌については、作者やその歌の成立背景について深い関心が寄せられ、これを口頭で語り伝える「歌語り」というものがあったそうです。このような歌語りを文学として洗練させたものが、歌物語であると考えられます。10世紀初頭の竹取物語は作り物語ですが、これにも歌が含まれるので、広い意味で歌物語です。また11世紀の「源氏物語」にも、歌と散文との緊密な関係が見られます。藤原俊成などは「源氏見ざる歌よみは遺恨のことなり」(「六百番歌合」藤原俊成判詞)とまで言い切っているくらいです。「源氏物語を知らない歌詠みはダメ」だと云うのです。ここでは、吉之助が文学論を展開するよりも、折口信夫の文章を引用することにします。

『歌物語、諺物語のことを簡単に話さねばならぬ。伊勢物語のことを出さずに、竹取物語を出していえばよいと思う。竹取物語という書物も、だいたいの性質からいえば歌物語あるいは諺物語というべきものである。ところが源氏物語に(竹取物語のことを)「物語の祖」(おや・母または祖先の意)と書いてあるのが本当とすれば、もっと簡単なもの、つまり端作が短くなければならい。端作が長くなって、歌なり諺なりが最後にちょっとついている形になっているのが竹取だ。かならず、もとは歌なり諺なりに端作がついていた。それが端作が長くなって端作ともいえなくなり、普通の物語になって、決着をつけるそのとじめの形に、歌なり諺が出てくるというふうに見えてしまう。もちろん日本の文学では、そういう発達の経路が思われる。歌なり諺なりのためについていた前文句をば、前の文句の方を主として、歌諺がついていることによって、これが一つのまとまりと感じるように、ひいては歌なり諺なりが、その文章のコントとしての適切なつづまりを作る、というような形のできてきたことは、もちろん考えられる。』(折口信夫:「115・女房家集と歌、諺物語と」〜「日本文学史」・折口信夫全集・ノート編第4巻)

能「熊野」を見ると、「いかにせん都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん」の歌が成立した由来を長々とドラマにしたもので、これはまったく歌物語の体裁です。前文句としてのドラマに最後に歌が付くことで、一つのまとまりとなっているのです。このことは、伊勢物語から源氏物語を経た、歌物語の系譜のうえに、演劇としての能「熊野」も乗るという風に考えてよろしいのではないでしょうか。

『日本の物語は、結局歌がないと物語の権威がなかった。歌の由来が大事であるのと、由来はどうでも歌さえ残ればいいというのでは違う。前者は中篇、後者は短篇あるいは絵物語である。ところが霊異記に伝えられている話は、そういう歌を落としてしまっている。あるいは歌がなくてもよい話が多い。もとは歌がなければならなかったのが、だんだん歌を大事に思わなくなってきた。がなお、歌のはいっているものがある。だから中篇では、しだいに歌の勢力がなくなっていく。ある時期歌の勢力がなくなっても、別に歌物語があっていつでも並行しているので、歌をおろそかにすることはない。中篇にも歌はあるが、しかし、短篇は歌が中心で、中篇のほうは歌をうしなってくる。』(折口信夫:「120・逸話集」〜「日本文学史」・折口信夫全集・ノート編第4巻)

それにしても、熊野(シテ)が短冊に書いた歌を宗盛(ワキ)が読む場面を見ると、ここには「遂に・・やっと・・・熊野の願いが認められた」という感覚があまりないようですね。あれほど熊野同伴の花見に固執していた宗盛が、ここではアッサリ・拍子抜けするほどアッサリ熊野の帰郷を許します。肝心の歌の登場がドラマの締めであると考えると、これではドラマのなかで歌があまり大事にされていないようにも見えます。形通りに歌が登場して終わると云うか、歌が登場すれば宗盛が熊野の帰郷を許すのが形式であるかのようにも見えます。しかし、作者のドラマの関心が、それ以前(花の下で悲しみを秘めて熊野が舞う)にあることは、これで明らかです。

ワキ「(短冊を手に取り)よしありげなる言葉の種、取り上げ見れば、〽いかにせん、都の春も惜しけれど」
シテ「〽馴れし東の花や散るらん」
ワキ「げに道理なりあはれなり。はやはや暇とらするぞ東へ下り候へ。」
シテ「〽何御候と候や」
ワキ「なかなかの事疾く疾く下り給ふべし。』
シテ「〽あらうれしや尊やな、これ観音の御利生なり。」

しかし、恐らくこれは、「熊野」のドラマのなかで歌が力を失ったと云う事ではないのでしょう。多分、真実は、それとはまったく逆です。この歌が発せられたからには、熊野の悲しみは極限に達しており、その「あはれ」はもう疑いようもない。この歌を見たからには、「あはれ」を解する宗盛としては、これを拒否する理由がもはやない。そのような場面が、上記引用の場面なのです。宗盛と熊野の心理をクドクドと描写するまでもなく、歌が提示されてしまえば、これでドラマの「もののあはれ」は頂点に達し、熊野の願いが聞き届けられるのは当然だと云うことに自動的になるのです。ドラマは一気に締めに向かいます。言い換えれば、それほどまでに歌の持つ力が強いと云うことなのです。このことは紀貫之の次の文章を思い起こさせます。

『和歌(やまとうた)は人の心を種にして、万(よろず)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事(こと)・業(わざ)しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。花に泣く鶯、水にすむかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あまつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女(おとこおんな)のなかをもやはらげ、猛けき武士(もののふ)の心をもなぐさむるは、歌なり。』(紀貫之による「古今集・仮名序」)

なぜならば能「熊野」は、歌物語ならぬ「歌芝居」であるからです。(この稿づづく)

(R3・10・15)


3)熊野と宗盛

ところで能の「熊野」(喜多流では「湯谷」と表記)の詞章からは、熊野は故郷にいる病に伏せた老母に逢いたい・だからお暇をいただきたいとしか読めませんが、昔から伝わる伝書には別の解釈があって、それに拠れば、熊野には故郷に好きな男がおり・実は彼に逢いたいと云うのだそうです。このことについて喜多六平太は、三島との対談(昭和31年6月)のなかで次のように語っています。

『もっとも「湯谷」というものは心持は何とも言えない嬉しい華やかな心持です。まあ老母ではないものがある、それに逢えるというのが一つの楽しみなので、その心持でなければ死んでしまう。(中略)まあ早く言えば、そういった心持を忘れるなということです。それでないと「湯谷」の気持が分からない。(中略)そうでないと幽玄らしい心持が出ない。そうかといって、それを主にして舞うと全体がぶちこわれてしまいます。心持が違いますから。だから両方のことを頭に入れて舞わなければいけない。そこは両方二股かけるというか曖昧な心でやるのですな。』(喜多六平太:三島由紀夫との対談「日本の芸術」・昭和31年3月)

後に三島が書いた「近代能楽集」の「熊野」(昭和34年4月。現代劇のスタイルによる翻案)では、主人公・熊野が病気の母親を見舞うため故郷に帰りたいというのはまったくの嘘で、実は故郷に昔付き合っていた恋人がいるという設定となっています。元気な母親が突然舞台に現れて、お能の予習をして芝居を見に来た観客の「常識」をひっくり返してしまいます。しかし、歌舞伎の「熊野」では三島はそう云うことはせず、ほぼ原作通りに芝居が進みます。

吉之助が思うには、「熊野には故郷に好きな男がいる」という解釈は、恐らく「いかにせん都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん」に詠われた、華やかな・どこか嬉しいような・故郷のイメージが、故郷の病気の老母のことを気遣う熊野の気持ち(これを突き詰めると・どんどん気持ちは暗く沈滞していくはず)とどこか裏腹のように思われる、そこを勘ぐってみたくなると云うことだろうと思います。老母のことを別にしても、熊野には故郷に帰りたい気持ちが強いのでしょう。その理由が「故郷の桜を見て・美味しいもの食べて・のんびりしたいわ」であっても・別に構わないのですが、美しく若い女性である熊野のこととすれば、ここはとりあえず「若い男」をイメージしてみたらどうだろう、その方が艶やかな・華やかなイメージに出来るかなと云うのが、口伝の発想でありましょうかね。

そう云えば、熊野になかなか帰郷を許さない宗盛についても、自分の楽しみにばかり固執し・熊野の気持ちをちっとも考えない我儘者とか暴君だと見なす解釈が、昔からあるようです。宗盛は平清盛の三男で、清盛の死後に、平家の頭領となりました。大したエピソードは残っていないのですが、「平家物語」に拠れば、平家が壇の浦に追いつめられて滅亡した時、平家方の将兵が奮戦して戦死・あるいは次々と入水していくのに、宗盛父子はただ戦中でうろうろするばかりであったそうです。見るに見かねた侍が二人を故意に海に突き落としました。しかし、親子共に鎧を着しておらず・水練に長じていたので、浪にプカプカしていたところを伊勢三郎の船に引き上げられて捕えられたと云うことで、何とも情けない男に描かれています。後世の人には、この「平家物語」の宗盛の情けないイメージがあまりにも強い。このため能の「熊野」での宗盛の人物についても好意的に見たくない雰囲気が、何となくあるように思います。

まあその気持ちは分からなくもないですが、能の「熊野」での宗盛に限って考えて見れば、それまで熊野の気持ちを解さなかった(その点ではお坊ちゃまは鈍感である)けれども、「いかにせん都の春も惜しけれど・・」の歌を聞いたらば、即座に熊野の気持ちの深さを理解し・帰郷の許しを出すというところなどは、あっさりして・一旦了解すれば四の五の云わない、さすがに歌のこころ・風雅を解する男であるなあ(そこに宗盛のお育ちの良さ・血統の良さが出ている)という解釈でよろしいのではないかと思います。

特にワキ(宗盛)の詞章に、「(熊野を)この春ばかりの花見の共と思ひ留め置きて候」とあるのは大事な点で、「この春ばかりの・・」には、宗盛が今年の花見は自分にとってとりわけ大事であると云う響きがある、つまりこれはこの春の花見を最後に平家は都落ちをせねばならぬと云う予感が宗盛のなかにあると云うことです。現在能である「熊野」の年代設定は定かではないですが、そうすると平家都落ちは寿永2年(1183)7月25日のことですから、「熊野」の話しは同年春の出来事ということになるわけです。この点は、三島が「熊野」歌舞伎化に当たって考慮していると思います。能「熊野」の詞章では、

ワキ(宗盛)「老母の労(いたは)りはさる事なれども、さりながら、この春ばかりの花見の友、いかでか見捨て給ふべき」

とあるところを、三島は

宗盛「今年の花は今年限り、人の命と何を選ばう。この世に生きて花を見るは、今日(けふ)只今の大事(だいじ)であらうぞ。老母の命も、この宗盛が命も、同じ露の命なれば、今生(こんじょう)の花の宴(うたげ)は、欠かすわけにはまいらぬわい。」(三島由紀夫:「熊野」歌舞伎版・昭和30年2月)

と膨らませています。明日をも知れぬ平家の運命と桜の盛りの儚さのイメージが、宗盛のなかで一体となっています。今この時をとことん愉しみ尽くすために、宗盛には熊野の美しさがどうしても必要であったのです。三島が膨らませた台詞によって「熊野」歌舞伎版の宗盛は、原作よりも人物に一層奥行きが出ていると思いますが、如何でしょうか。(この稿づづく)

(R3・10・23)


4)歌右衛門の「美しさ」

『面白いのは、歌物語では文章が歌の意味を示しているのであるが、文章と歌が釣り合わぬ場合が時々起こって来る。それは伊勢物語で一番よく起こってくるが、物語となかの歌との感じが、分かれ分かれになっている。それを強いてくっつけようとしているのである。(中略)我々が心のなかに持っている小説的な幻想というか・想像しているものに、衝撃を与えると記憶が頭を上げて来て、それに歌が働きかける魂がフラフラと出てきて、その歌に触れると自分の心に持っている小説的なまぼろしのようなものを呼び起こし、その歌を自分の持っている型にはめて解釈する。(中略)そういう風にして出来た歌物語は、非常に短い、簡単な落し話のようなものである。つまり歌が最後の解決になっている。その歌のために物語が出来ているのだから、結局歌がひとつのコントの芯になつていると云う風になっている。』(折口信夫:「物語について」・昭和21年9月・折口信夫全集第30巻、なお文章は吉之助が多少アレンジしました。)

上記の折口の文章を読めば、吉之助が能の「熊野」は歌物語ならぬ「歌芝居」だと書いた意味が、ご理解いただけると思います。それは「平家物語」巻十・「海道下」にほんの数行触れられた歌とエピソードから発想された芝居ですから、筋が展開して感情が高まったところで「いかにせん都の春も惜しけれど・・」の歌が登場するのではないのです。劇的構成というものはなく、ただ絵のように静止した情景だけがある。だからクローデルが「熊野」の舞台を見て「死ぬほど退屈だ」と感想を漏らしたのも無理はないのです。しかし、「熊野松風は米の飯」と云われるほど本作が愛されるのは、我々日本人はそこに歌物語の伝統が正しく踏まえられていることを知って懐かしく感じるからです。

「能の「熊野」を三島に依頼した時、歌右衛門は「能の「熊野」を舞踊劇化して莟会でやりたいから台本を書いてくれ」と言ったそうですが、これは確かに舞踊劇でなければならなかったでしょう。三島は能の歌舞伎化の成功例として「勧進帳」の台本を読み直して・手法をいろいろ思案したようですが、「とんだものを引き受けた」と思い、結局、「台本は、一にかかって歌右衛門丈の熊野のイメージの下に書かれた」と三島本人が書いています。(三島由紀夫:「熊野」について・昭和30年2月「莟会筋書」)しかし、これは三島が何もしなかったと云うことではなく、歌物語ならぬ「歌芝居」の性格をしっかり保持したところに、歌舞伎版「熊野」の成功があったと云うことです。

今回(平成元年10月・国立劇場)の「熊野」の舞台映像ですが、歌右衛門はこの時72歳でした。昭和62年9月歌舞伎座での「九代目坂東三津五郎襲名披露興行」千秋楽に「喜撰」のお梶を踊った歌右衛門が転倒して骨折した事件については別稿で触れました。歌右衛門は、その後すぐに復帰しましたが、吉之助の記憶では、この事件を契機に、その後の歌右衛門は目に見えて体力が落ちてきて、はっきり最晩年期に入ったという気がしたものでした。この舞台映像での、平成元年の歌右衛門も、吉之助の記憶にある最晩年の歌右衛門です。しかし、吉之助は映像を見て思うのですが、この歌右衛門は確かに衰えて弱々しい感じはあるけれども、ここで痛感するのは、「美しいものがそこに在る」という印象が厳然としてあると云うことです。見た目がどうのこうのではなかったのです。それは「熊野」の舞台の印象をまったく裏切らない。熊野は咲き誇る清水の花見にふさわしく美しい女性です。その通りのものがそこに在ったのです。さすが歌右衛門だねえと感じ入ってしまいました。これは「熊野」の歌芝居の印象そのままです。歌右衛門自身が「歌」だということです。

・・これは贔屓の引き倒しと云うものでしょうかねえ。映像を見終わってから、この映像を(歌右衛門のことを知らない)若い方に見せて「ホラこれが戦後昭和の伝説の名女形だよ」と言ったら、これで納得してくれるのだろうか、「こんなのちっとも美しくない・皺くちゃじゃないか」と笑われるのであろうかと、それがとても気になりました。吉之助には何度見返しても美しさそのものだったのですがね。歌右衛門は、見た目を越えて、「美」そのものを提示したと言っておきましょうか。そうした印象がどこから出て来るのかも不思議です。それは全身から発する佇まいから来るとしか言いようがありません。「美しいものは、見た目も美しくなければならぬ」なんて嘘だと思いますねえ。

最後に付け加えますが、幸四郎(当時49歳)の宗盛も風雅を解する偉丈夫で、とても良い出来でありました。

(R3・10・25)



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