(TOP)         (戻る)

美しいものは見た目も美しくなければならぬのか

〜四代目中村雀右衛門小論

四代目中村雀右衛門は平成24年2月23日に死去。


『女形に美しい女形と美しくない女形がいる。立役・女形を通じて素顔の真に美しい人の出てきたのは明治以後だと、市川新十郎が語っていたくらいである。これは明治代の写真を見ればわかる事で、それには写真技術の拙さということもあろうけれど、一体に素顔の良くない女形が多かった。(中略)この頃は女形が大体美しくなった。しかし美しいということは芸の上からは別問題で、昔風に言えば軽蔑されるべきものなのである。二代目市川松蔦は生涯娘形で終るかと思われる位小柄で美しい女形であった。だが松蔦の美しさは素人としての美しさに過ぎなかったのである。こうした美しさは鍛錬された芸によって光る美しさではなく、素の美しさで、役者としてはむしろ恥じてよい美しさである。』( 折口信夫:「役者の一生」・昭和17年・文章を通すため多少吉之助がいじりました。)

*折口信夫:「役者の一生」はかぶき讃 (中公文庫)に収録

1)筋肉トレを欠かさなかった雀右衛門

平成24年2月23日に人間国宝・四代目中村雀右衛門が91歳で亡くなりました。晩年まで若々しさと美しさを保ち続けた女形でした。その追悼の番組であったか、ある劇評家先生(敢て名前を伏す) がこんなことを仰いました。「雀右衛門とほぼ同世代であった六代目歌右衛門や七代目梅幸は型より人間を描くことを重視し、演劇としての表現は美しさだけでないものがあると考えた。これに対して雀右衛門は「美しいものはイメージだけではなく・見た目も実際に美しくなければならない、美しくなければ困る」と考えた最初の女形であった。以後の女形は、藤十郎も玉三郎も、現実に誰が見ても美しい女形を作るようになった。それは雀右衛門が拓いたことである」と云うのでした 。

・・・「私にはそんなつもりはありません」と訴える雀右衛門の声が吉之助の頭のなかで響いたような気がしました。ホントに「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」のか。女形は見た目 が美しくなければ駄目なのか。ホントにそうなのか。この劇評家先生にそんなつもりはなかったのかも知れません。しかし、芸を深く理解しない人が聞くならば・そのように受け取られかねない発言なのです。あの芸に謙虚だった・謙虚過ぎるぐらい芸に謙虚だった雀右衛門がそんなことを考えたはずがなかろうに。それにしても雀右衛門の芸をこういう形で総括されたのでは、泉下の雀右衛門も浮かばれないことだなあと思いました。吉之助も約40年に渡りその舞台を見て雀右衛門にお世話になりました。だから雀右衛門の為に、そこのところを もう少し考えてみたいと思うわけです。

雀右衛門は確かに驚異的と云って良いくらい、晩年まで若々しさと美しさを保ち続けた女形でした。雀右衛門は六十代に入って体力の衰えを感じてストレッチを始め、以来ジムに通って筋肉トレーニングを欠かしませんでした。高齢になってそういうことを日常的に努めた女形は雀右衛門のほかにいないそうです。雀右衛門の芸の若々しさと美しさはそのような弛まぬ努力の結果であったでしょう。それはその通りだと思いますが、その背景に「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」という思想があったということでしょうか。雀右衛門がそう考えていなかったという証拠を挙げておきます。

『人間というのは鏡を前にすると、どうしてもそこに映った姿に頼ってしまいます。自主的にやろうとする心がなくなってしまいます。歌舞伎では「心」を「胎(はら)」といいますが、胎を忘れて、うっとりしてしまう。役者が自分の姿に惚れてはおしまいです。そこから先は伸びないからです。しかし、人は心弱いものですから、鏡に映った自分の姿が一応整っていれば、それが自分の姿だと思いがちです。』(中村雀右衛門:「私事(わたくしごと)〜死んだつもりで生きている」・岩波書店)

雀右衛門が六十代以後芸を追求する時に体力の維持を重視したことは確かでしょう。だから筋トレ・ストレッチを欠かさなかったのです。そのことを雀右衛門はこう書いています。

『歌舞伎役者の仕事は、年を重ねれば重ねるほど、芸はよくなっていきます。歌舞伎に限らず、人の世には、年を重ねてはじめて分かることが多いものです。(中略)理屈としてはそうなのですが、六十を超えると、今度は身体の方が弱ってきます。うまくなってきたなというとき、体力という壁が立ち現れるのです。(中略)芸の上では八十歳になって、お相手の立ち役にトンとぶつかったときに、ようやく応えてくれるものを感じるようになったと申しました。八十歳になったとき、はじめて、何か摑めそうな感触があったのです。このとき、体力がないと、摑もうにも摑めない。』(中村雀右衛門:「私事(わたくしごと)〜死んだつもりで生きている」・岩波書店)

雀右衛門は十全な芸を見せるために体力の維持が大事だと言っています。素晴らしい芸は美しく見えるはずです。しっかりと鍛錬された身体は十全な芸を見せてくれるであろう。芸が十全に表現されるならば、それは見た目にも美しく見えるであろう。しかし、吉之助が指摘したいのは、そのような雀右衛門の努力と、評論家先生が「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」と云うことと、重なるところがあるようでいて、実は全然重なっていないということです。意図してか知らずか、巧妙な論理のすり替えが行なわれています。この劇評家先生が云う「見た目の美しさ」とは鏡に映った役者の姿、素材としての美しさ・素の美しさということだからです。それは雀右衛門が言っていることと全然違うと思いますがねえ。

(H24・9・16)


2)「見た目が美しい女形」

「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」ということを受け入れるとして、「見た目が美しい女形」とはどういう女形を言うのでしょうか。美しさの基準は人それぞれのことですが、一般的に云うならば、この場合は現実の女性美を照らし合わせたところの美しさを指すのでしょう。

例えば「○○のような女」という言葉があります。○○のなかに役者の名前が入ります。女形は虚飾の存在ですから・ 女形が現実の女性の理想像になるというのは本来おかしなことなのですが、その関係が逆転して、女形が現実の女性の美を模倣するのではなく・女形が世の女性の美の在り様を指し示すということが起こり得るのです。歌舞伎の歴史のなかで明治以降そのような稀有な女形が三人いたと吉之助は考えています。見た目が美しい女形は数あれど、吉之助が厳選した三人です。

最初のひとりは二代目松蔦(明治19年〜昭和15年)です。(別稿「松蔦のような女」をご覧下さい。)松蔦は 比較的若くしてなくなりましたが、二代目左団次の新歌舞伎の相手役になくてはならない存在でした。松蔦の美しさは本郷座に押しかけた帝大の学生さんの憧れの的でした。彼らは良い女のことを「松蔦のような女」と形容し ました。折口信夫が指摘した通り、その美しさは鍛錬された芸によって光る美しさではなく・素の美しさで、役者としてはむしろ恥じてよい美しさであったとしても、松蔦の美しさは大正デモクラシーの時代の女性の自我の目覚めと情熱を象徴した、それは当時の若者にとってまぶしい美しさであったのです。

次に挙げるべきは二代目扇雀・すなわち現・四代目藤十郎(昭和6年〜)です。扇雀ブームの始まりは昭和28年8月新橋演舞場での宇野信夫脚色による「曽根崎心中」初演でのお初でした。この時にも「扇雀のような女」ということが言われました。徳兵衛の腕を引っ張って花道を入るお初の姿に、戦後の民主化と、婦人参政権など女性の意識向上を重ねたものでした。(別稿「曽根崎心中での男・徳兵衛」をご参照ください。)ちなみに扇雀が武智鉄二と出会う・つまり武智歌舞伎時代の始まりというのは昭和24年のことで、「曽根崎」の時点では武智の仕込みの成果はある程度あったと思われますが、扇雀ブームで騒がれたのはその素の美しさのことであって・技芸のことではなかったのです。昭和29年の「高野聖」では扇雀は着物を肩を脱いで・背中を半分くらい見せた格好までさせられました。従来の女形からすればとても考えられない売り出し方です。上方歌舞伎の衰退もあって、むしろブームが過ぎた後の扇雀はその反動でとても苦労したと思います。現・藤十郎は変わらぬ美しさを維持していますが、女形としての美しさが技芸に裏打ちされた形で認められるようになったのは、そうそう昔のことではありません。

三人目が現・五代目玉三郎(昭和25年〜)であることは言うまでもありません。玉三郎が注目されるようになったのは、三島由紀夫が昭和44年11月国立劇場での「椿説弓張月」の白縫姫に抜擢した頃からでしょう。玉さまブームは今も衰えていません。これは驚異的なことですね。玉さまブームの背景にもこの時代の美学の何ものかがあるわけですが、これは現在進行中のことですから・いずれ総括して書くことにします。

以上のことは、吉之助が挙げた三人の女形の技芸の評価と、まったく関係のないことです。またご本人が「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」と考えていた(いる)かどうかも、本稿ではどうでも良いことです。しかし、それとまったく無関係な ・無責任なところで、世間が勝手に彼らに「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」という概念を重ねていた(いる)ということは確かにあると思います。それを「女優美」と言ってしまうと完全にぴったりは来ぬのですが・それに重なるところが多いもので、つまりそこにイメージされるのは現実の女性の美しさと照応されるところの素の美しさなのです。上記三人の女形の場合にはそれがその時代のイメージとどこかで強く結びついているということです。それはもちろん大事な意味があることです。それでも歌舞伎を長く見ていれば、そういうものは女形の美しさの必要十分条件ではないということが自然と分かって来ると思います。ところで、四代目雀右衛門(大正9年〜平成24年)は次のように語っています。

『(女形修行を始めた)最初は、女性の真似をいたしました。母親や傍にいる女性や女優さんの仕草や身体の動きを頭のなかでスケッチしておき、それを真似して出すわけです。(中略)それはともかく、歌舞伎の女形の芸は、どんなに女性らしい人でも、実際の女性とはまったく違うものなのです。いわば、この世には現実に存在しない女性です。歌舞伎の女形は、女優や実際の女とはまったく違う、異界の住人です。(中略)そんなことにも気付かないまま、わたしは女の真似と型を繰り返していたのです。』(中村雀右衛門:「私事(わたくしごと)〜死んだつもりで生きている」・岩波書店)

雀右衛門は年齢から言えば藤十郎より年上でしたが、出征のブランクなどあって女形としての修行が普通より遅く、後に岳父となる七代目松本幸四郎の勧めで女形として本格的に再スタートしたのが27歳の時(昭和22年)のことであったそうです。若き雀右衛門(当時は友右衛門)には不安も焦りもあったと思います。映画に寄り道するということもあったりして・試行錯誤を繰り返し、それでも諦めずに地道に修行を続けて、とうとう最後に女形の頂点に立った人でした。○○ブームなどというものには無縁な方で した。「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」という時代の女形として藤十郎・玉三郎に先駆けたなんて事実がないのはもちろんのことです。

(H22・9・23)


3)晩年に芸の迷いから脱した雀右衛門

四代目中村雀右衛門は、七代目梅幸より5歳年下・六代目歌右衛門より3歳年下でした。世代としてはそう変わらないのですが、雀右衛門の場合は出征などのブランクの為・女形としてのスタートが遅く、これがキャリア的に大きなハンデになりました。このことを雀右衛門はこう書いています。

『(六代目歌右衛門とは)年齢的には三歳しか違わないとはいえ、女形のキャリアとしては、二十年以上の差があるわけです。(中略)歌右衛門さんには蓄積がある、スタートからして早いじゃないか。どんなに言い聞かせてみても、片方は素晴らしい芸を見せるのに、こちらは成果があがらないとなると、劣等感を持たない方がおかしい。ねたみはあったかとお尋ねですか。いえ、それはありませんでした。芸に感嘆する気持ちは、ねたみといった感情さえ超えてしまうのです。ただ悔しいという気持ちはありました。自分の芸の未熟さを悔しく思うのです。・・・それにわたしに女形の道をつけてくださったのは、成駒屋のお兄さまでした。』(中村雀右衛門:「私事(わたくしごと)〜死んだつもりで生きている」・岩波書店)

吉之助が歌舞伎を熱心に見始めた昭和50年代前半の記憶ですが、当時の雀右衛門が梅幸や歌右衛門と比べて技芸的に見劣りするということは決してなかったと思います。ただし、見終わった後にあまり印象が強く残らなかったのも事実でした。美しいけれど、どこか芸が寂しい感じがしました。そこが梅幸や歌右衛門との差でありました。これは芸に対する自信の無さ(先輩ふたりに対して引け目を感じていた)から来るものであったのかも知れませんが、これは何よりも、「芸の花」ということに関連する問題でした。吉之助の思い出としては、梅幸は清楚ななかに折り目正しく、歌右衛門は濃厚な味わいにしてテンションが高い、それぞれ輝くような芸の花を見せてくれました。それに比べると、当時の雀右衛門は芸のオーラがまだまだ弱かったのです。「見た目の美しさ」ということならば、当時の雀右衛門は間違いなく梅幸より・歌右衛門より美しかったと思います。しかし、吉之助は、まさにその「見た目の美しさ」が邪魔していると感じていました。吉之助が見るところでは、当時の雀右衛門の美しさというのはまだまだ「生(なま)っぽかった」のです。つまり、歌舞伎の女形の本当の美しさにまだ至っていなかったと思います。当時の雀右衛門の美しさは、生(なま)の美しさ・素の美しさ、つまり女優さんの美しさに近い感じでした。

昭和55年(1980)3月歌舞伎座での第1回・「雀右衛門の会」のことを思い出します。昼夜に演りたかった演目をずらりと並べて・壮観でありました。あの辺りから雀右衛門の自己主張がグッと頭をもたげてきたということだっただろうと思います。しかし、雀右衛門の美しさが、女形の美しさとして吉之助に認知されるようになったのはもう少し後のことで、やはり平成に入ってからのことでした。これは雀右衛門が歳を取って・素の美しさに衰えが来たということではなく、梅幸が亡くなり・歌右衛門が舞台に立たなくなって・必然的に雀右衛門が立女形として立たざるを得なくなって、そのことにより生じた責任感ということも関連するでしょう。またそれが次第に自信に変わって行くということもあったでしょう。いずれにせよ素の美しさに頼るところがなくなってきたということです。長く舞台を見続けていれば、そのような役者の変容も目の当たりにすることができるわけです。

ところで昭和50年代前半頃であったと思いますが、雑誌「演劇界」のグラビアで革ジャン・サングラスでオートバイに腰掛けてイナセなポーズを取った雀右衛門の写真を見て「こりゃ何じゃ?」と驚いたものでした。あれほど歌右衛門を尊敬していた雀右衛門のことだから、女形のイメージを大切にしようとするならば・普段も和服で美しくしとやかに、歌右衛門のやることなすこと真似しても良さそうに思いますが、ところが全然そうじゃなかったというギャップの大きさが実に興味深いのです。雀右衛門自身は書著「私事」のなかで、「いったん舞台から離れると歌舞伎からも離れたい、そうでもしないと、わたしは四六時中、歌舞伎のことで頭がいっぱいになってしまうのです」と書いています。「私事」のなかで雀右衛門は巡業先のホテルの窓から衝動的に飛び降りしそうになったことを告白しています。そのくらい雀右衛門の芸のストレスはキツかったということでしょう。

一方、このことを別の視点から見ると、雀右衛門が女形の芸をひとつの技術として割り切っていたことを伺わせます。これは初代芳澤あやめが芸談「あやめ草」で語った「平生(へいぜい)ををなごにて暮らさねば、上手の女形といはれがたし、常が大事と存ずる」という教えとは、ちょっと次元が違う芸の世界なのです。つまり、姿も心も本物の女性に成り切ろうとする努力とは違うものです。女性は美しいもの、女形は美しくあるべきもの、そのような永遠のテーゼのなかで歴代の女形はみな苦しんで来ました。女形の芸をひとつの特殊技能として割り切ろうとする考え方は、演劇のなかに女形という嘘が存在する必然がもはやない(むしろ排除されるべきものなのかも知れない)という時代の、とても現代的な俳優の意識の在り方なのです。

そうは言っても、やはり見た目が美しい方が女形として有利なことは間違いありません。美しいと言われる方が嬉しいのも、これも役者の感情として当然のことです。女形のなかには、どんな役でもやたら白く塗りたがる・目元や頬にぽっと紅を差したがるのが多いようですが、まあその気持ちも分からないことはない。昭和後半は映画・テレビの時代、つまり女優さんの表情がアップで詳細に観察できる時代です。つまり美のお手本がゴロゴロしているわけで、世間の女形の美の基準がそこに影響されるのは致し方ないところです。だから、見た目にキレイであることが、さも女形の要件であるかのように錯覚されることになる。キレイでないと、女形の存在意義そのものが脅かされるような不安を感じることになる。そんなことで「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」ような錯覚が生まれます。もっとも、二代目扇雀や五代目玉三郎のようにその素の美しさが時代の嗜好にうまくマッチしてブレークする女形もいますが・そういうのは幸運なのであって、普通はそこにまで至らないわけです。雀右衛門もキレイな女形の部類には入っても、そこにまで至ったわけではない。

昭和の時点においては、雀右衛門も理屈として頭で分かってはいても、知らず知らずのうちに女優美を真似る方向へ引っ張られるという時期があったと思います。これは現代の俳優であるからこそなおさらそうなったのです。しかし、それは雀右衛門の迷いであったのです。雀右衛門が立派だと思うのは、平成に至って、雀右衛門がそのような迷いを振り切ったところで、素の美しさに頼ることなく・女形の美しさを自然に提示できる境地についに達したということです。そこでは素の美しさは飛んでおりましたね。そういう生(なま)なことはもはや感じさせませんでした。「ウサギと亀」の話ではないけれど、雀右衛門はスタートは遅かったけれど、途中で迷いもしたけれど、一歩一歩着実に前に進んで・それで平成の立女形の位置についたわけです。

ですから吉之助が晩年の雀右衛門の芸を総括するならば、「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」という迷いから脱したところで歌舞伎の女形の芸を確立出来た・恐らくは最後の女形・・ということになるかも知れません。これからの歌舞伎の女形は、本人がどう思おうが・喚こうが、否応なしに「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」というところに縛られることになる。いや、すでにそうなっている。女形にとっては、つくづく難しい時代になったと思いますねえ。

(H24・9・30)



 
(TOP)         (戻る)