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「盲目の皇帝」〜「妹背山婦女庭訓・芝六住家」

昭和49年4月国立劇場:通し上演「妹背山婦女庭訓」〜「猿沢池・芝六住家」

二代目中村鴈治郎(漁師芝六実は玄上太郎利綱)、七代目中村芝翫(芝六女房お雉)、五代目中村児太郎(九代目中村福助)(芝六倅三作)、中村幸二(八代目中村芝翫)(芝六倅杉松)、六代目中村東蔵(天智帝)、八代目大谷友右衛門(采女の局)、六代目沢村田之助(藤原淡海)

(この連載は未完です。最新の章はこちら。)


1)「盲目の皇帝」

本稿で取り上げるのは、昭和49年(1974)4月国立劇場での通し上演「妹背山婦女庭訓」から、二代目鴈治郎の芝六による「芝六住家」(芝六忠義)の場の舞台映像です。「妹背山」については、御存知の通り三段目「吉野川」や四段目「御殿」はよく上演されて人気演目ですが、二段目「芝六住家」は現在の歌舞伎では滅多に上演がされることがありません。上演記録を見ると戦後の歌舞伎上演は、この昭和49年4月国立劇場と、平成8年(1996)12月国立劇場(七代目菊五郎の芝六)の二回しかありません。(文楽では通しで上演される時にたまに出ます。)吉之助も巡り合わせが悪くて生(なま)では見たことがありません。

ところで観劇随想の前にちょっと寄り道をしたいと思います。江戸時代に「芝六住家」の舞台を見て、これを日記に記した外国人がいるのです。それは鎖国時代の長崎の出島のオランダ商館医を勤めたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトです。シーボルトは、文政9年(1826)オランダ商館長(デ・ステュルレル)の江戸出府に随行して、道中の日本の自然・地理・気候などを調査しました。江戸出府はオランダが通商を許された御礼を江戸の将軍に申し上げて・品物を献上するため定期的に行われた行事でした。商館長一行は日本暦1月8日に長崎を出発、各地を観光・調査を行いながら、3月4日に江戸に到着。江戸でシーボルトは幕府の医師たちに解剖や手術の講義、種痘の公開実験を行ないました。3月25日に江戸城へ登城し将軍に謁見。帰路、京都・大阪を訪れ、5月7日に大坂で芝居を見物しました。長崎に帰着したのは6月3日のことでした。ずいぶんのんびりとした旅程に見えますが、オランダにとって日本の情報収集・探査が重要任務であったことを伺わせます。

なお不思議なことにシーボルトの日記には記述がありませんが、江戸滞在中にシーボルトが七代目団十郎(当時35歳)と会見した記録が日本側に残っています。この出会いは「日本の芝居に団十郎という有名な役者がいるそうじゃないか・その役者に会いたい」というシーボルトの希望で実現したらしいのですが、シーボルトは素顔の団十郎を最初見て「違う、この人じゃない」と云って「暫」の錦絵を示して見せたそうです。団十郎は頷いてすぐさま自宅から衣装小道具など取り寄せて化粧して登場して睨んでみせると、シーボルトは拍手して「この人だ、この人だ」と云って喜んだそうです。この逸話は田村成義の「続々歌舞伎年代記」巻28に載っています。

オランダ商館長一行が歌舞伎芝居を見たのは、文政9年(1826)5月7日大坂道頓堀角の芝居でのことでした。演目は「妹背山大序から三段目まで」・「吃又」・「忠臣蔵九段目」など。役者は三代目尾上菊五郎、五代目市川団蔵、四代目尾上松助、二代目大谷友右衛門、二代目中村芝翫(後の四代目歌右衛門)らでした。菊五郎など江戸歌舞伎から役者が来演していたようですね。ステュルレル・シーボルトら外国人3名は、平土間に設けられた特別の長椅子に座り、傍に役人数人が付き添って通訳が芝居内容を説明したようです。その様子を鶴岱という絵師が描いた「紅毛人芝居見物図」という絵が残っているそうです。シーボルトの記した大坂の芝居の記述は興味深いものがあります。

『舞台はかなり大きく、ヨーロッパの劇場の様式と同じような造りであるが、あまり手を加えず飾り気もなく、したがって単に舞台の骨組みと思えばよい。我々は、日本人に特有な清潔さと小ぎれいさがここでは見られないのに気付いたが、それはむしろ劇場主の怠慢に帰せられるべきものと思う。ここでもわが国と同じように平土間、平土間の桝席および階上の仕切り桟敷がある。(中略)平土間を取って橋のような高い二本の通路が舞台に通じていて、役者はその上を演技をしながら舞台へ行ったりあるいは舞台から引き下がることが出来る。だから平土間は出し物によっていわば舞台の一部となり、見物人は演技者の下に座っているわけである。(中略)役者たちの身振りや台詞廻しは賞賛に値するものであったし、彼らの高価な衣装はその印象を高め、劇場そのものの貧弱な設備を忘れさせた。ただ男だけが登場するので、どんなにうまく女の役を教えこまれても、その演技は見劣りがする。そして芝居が日中だけ行われ、明るい太陽のもとではどんな演技も男では女の美しさも魅力に代わることは出来ないから、なおさらそうである。(注:ただしシーボルトはお雉を演じた女形の演技を完璧であると褒めています。)(中略)幕は上からさがるのではなく両側から真ん中に引かれるので、役者は演技の終わりで見物の目から見えなくなる。』(シーボルト:江戸参府紀行・東洋文庫)

シーボルト:江戸参府紀行 (東洋文庫 )
シーボルト:シーボルトの日本報告 (東洋文庫)

一行が芝居を見たのは「妹背山」大序から二段目までで、途中で芝居小屋を退出したものと思われます。と云うのはシーボルトが二段目までの粗筋を書き残しているのに、これ以後の記述が見当たらないからです。「ロミオとジュリエット」と比較されることもある三段目「吉野川」の場は外国人にはさぞかし興味深かっただろうと思うのですが、それは兎も角、「江戸参府紀行」に記された「芝六住家」の粗筋は実に詳細に記されています。通訳の役人が絵番付けを見せながら日本人にも分かりにくい錯綜した筋を一生懸命解説したのだろうとそのご苦労が察せられます。記された粗筋を見れば、シーボルトは実に正しくドラマを理解しています。

この話しには、まだ続きがあります。ヨーロッパへ戻ったシーボルトは、著作「日本」・「日本植物誌」・「日本動物誌」の三部作の出版で日本学の大家となり、収集した植物の標本・美術工芸品のコレクションを展示したりして有名になり、19世紀ヨーロッパのジャポニズム・ブームの先駆けとなったことはご存じの通りです。そのなかで「江戸参府紀行」でシーボルトが紹介した「芝六忠義」の粗筋に、作曲家ジャコモ・マイヤベーアが興味を示して、これを「盲目の皇帝」というタイトルでオペラ化しようと云う話が進んだらしいのです。盲目の皇帝とは奇妙な題名ですが、「妹背山」を見ると確かに目が見えない天智帝が登場します。しかし、残念ながら1864年にマイヤベーアが亡くなってオペラ化がとん挫してしまったと云うのです。

「盲目の皇帝」オペラ化の件は、フランスの作家アルフォンヌ・ドーデの短編集「月曜物語」(1873年)に出てくる話です。もしかしたらドーデの名前を知らない方がいらっしゃるかも知れませんが、1871年普仏戦争でフランスが負けてアルザス・ロレーヌ地方がプロイセンに割譲された為・或る日突然公用語がフランス語からドイツ語に替わってしまって・とまどう子供たちの悲しみを描写した短編「最後の授業」はご存じだろうと思います。「最後の授業」は「月曜物語」の冒頭に収められたもので、「盲目の皇帝」は同じ短編集の最後に収められたものです。

ドーデの「盲目の皇帝」に出てくる経緯は次のようなものです。1866年私(ドーデ)はパリを訪れていた老シーボルトと知り合い、シーボルトはミュンヘンに戻ったら「盲目の皇帝」という16世紀の日本の悲劇の草稿を私に送ってくれると約束しました。それは全然欧州で知られていない傑作で、シーボルトが友人のマイヤベーアのために特に訳したものなのだが、当のマイヤベーアが合唱曲の作曲中に死んでしまったものだと云うのです。ところがシーボルトが帰国してしばらくして、プロイセンとオーストリアとの間に戦争(普墺戦争)が始まったために連絡が取れなくなってしまいました。「盲目の皇帝」の内容を早く知りたいと思い焦れた私は意を決して、物騒なミュンヘンへ出かけることにしました。行ってみるとシーボルトは約束を忘れていませんでしたが、草稿はヴュルツブルクにいるシーボルト夫人の手元にあって、プロイセン軍がヴュルツブルクに迫っていたため・いつ草稿が届くか分からない状態でした。このため私はミュンヘンに10日ほど滞在する破目になり、小説では当時のミュンヘン周辺の描写が長く続きます。(当時のミュンヘンはバイエルン王国の首都でした。)或る夕方シーボルトが顔を輝かせてやって来ました。「例のが手に入ったぞ、明日の朝来たまえ、一緒に読もう、そりゃ素晴らしいぜ」と言って、シーボルトは声高に悲劇の章句を口にしたり、合唱部を歌ったりしてみせました。私は彼の興奮をまったく純粋な詩的感興の結果だと思いました。実際彼が口にした断片は非常に立派なものに感じられ、私は一刻も早くこの傑作を手に入れたいと思いました。ところが翌朝シーボルト宅に行ってみると、門は堅く閉ざされて、むせび泣きの声が聞こえる。シーボルトが夜中急死したのでした。短編「盲目の皇帝」は次のような文章で締めくくられます。

『私はその夜のうちにミュンヘンを発った。かかる悲嘆(シーボルトの死)を単なる文学上の気紛れのためにかき乱す勇気がなかったのである。こんなわけで私は最後まで、日本の素晴らしい悲劇の題だけしか知らなかった。「盲目の皇帝!」・・・その後、われわれはドイツから持ち帰ったこの表題がちょうど当てはまるような、他の悲劇が演ぜられるのを見た。血と涙に満ちた痛ましい悲劇、しかもそれは日本のものではなかったのである。』(ドーデ:「盲目の皇帝」)

ドーデ:月曜物語 (岩波文庫 )(「盲目の皇帝」を所収)

この末尾でドーデは何が言いたかったのかと云うと、これは1870年代当時のナポレオン三世の失政に対して「皇帝は眼が見えていない」と云う強烈な当てこすりなのです。どうやらドーデはこのオチを書きたいがためにこの「盲目の皇帝」探索譚を書いたような気がしますねえ。(これは谷崎潤一郎が「吉野葛」で吉野の自天王を材料に歴史小説を書くような体裁に仕立てて・実は母への思慕を書いて見せた手法とちょっと似てますね。このため谷崎が本格的な歴史小説を書こうとして失敗したと信じ込んでいる方も少なからずいらっしゃいます。)ちなみに史実ではシーボルトのパリ来訪は1864年のことで、1866年ではありません。またシーボルトが亡くなったのは小説では普墺戦争中のことのように読めますが、実際は戦争終結(1866年8月23日)から後の同年10月24日のことでした。このように時系列を微妙にズラしている上に、シーボルトがフランス語のオペラ歌詞を書ける文才があったとまでは到底思えないし、マイヤベーアが「盲目の皇帝」の合唱部の作曲中に亡くなったというのも、どうやらこれもドーデの作り話に違いありません。そのような気になる点があるにせよ、シーボルトがマイヤベーアに「妹背山婦女庭訓・芝六住家」の概要(シノプシス)を渡して、マイヤベーアがこれに強い興味を抱いてオペラ化を考えたと云うこと自体は、これは大いに有り得る話だと思えるのです。

マイヤベーアは最後のオペラ「アフリカの女」の初演(1865年4月パリ)を待たずに1864年5月2日に亡くなりました。もしマイヤベーアがもうちょっと長生きしていたら、もしかしたら歌舞伎を出典にしたオペラ「盲目の皇帝」が出来ていたかも知れないと云う想像は、なかなか愉しいことですね。「盲目の皇帝」の話はまだ続きます。(この稿つづく)

(R2・7・27)


2)「盲目の皇帝」・続き

ジャコモ・マイヤベーア(1791〜1864)は、恐らく19世紀の大半を通じてパリで最も人気があったグランド・オペラの作曲家でした。代表作は「悪魔のロベール」(1831年)・「ユグノー教徒」(1836年)、「預言者」(1849年)など。マイヤベーアの人気は、後輩のリヒャルト・ワーグナーが嫉妬するほどのものでした。ところが20世紀になってからのマイヤベーア評価の凋落はすさまじく、現在ではその作品は滅多に上演がされなくなってしまいました。時代の評価の落差がこれほど大きい作曲家も珍しいようです。吉之助もカラスやサザーランドの歌唱でアリアを聴くくらいで、マイヤベーアの音楽をよく知るわけではありません。原因についてはいろいろ考えられますが、大きな要因としては19世紀末以降の音楽の潮流を決定付けることになるワーグナーがマイヤベーアを旧弊の権化として執拗に理論攻撃したことが挙げられます。

したがって、もし晩年のマイヤベーアが長生きして、オペラ「盲目の皇帝」を完成させて大成功を収めたとしても、現在では「盲目の皇帝」も滅多に上演されないで音楽史に名を残すのみであったかも知れませんが、まあ「たら・れば」は歴史を学ぶ者のロマンです。「妹背山婦女庭訓・芝六住家」がグランド・オペラの作曲家の関心を呼び起こしたならば・それはどんな点だろうか、そこから歌舞伎とオペラの対比も可能であろうと考えます。

まず「グランド・オペラ」とは何かと云うことを考えます。グランド・オペラの概念は、実は漠然としたものです。直訳すれば「大歌劇」と云うことで、一般的には、壮麗な・大規模な・スペクタクルな舞台効果を持つオペラという意味合いに使われることが多いものです。広義にまとめれば、ベルリーニやドニゼッティのイタリアオペラから始まって、モーツアルト・ロッシーニ・ヴェルディ・ワーグナーを経て、20世紀のプッチーニの「トゥーランドット」、リヒャルト・シュトラウスの「薔薇の騎士」辺りまでが含まれるロマン派オペラ、現在の欧米オペラハウスの中核レパートリーがほぼそれに当たると考えて良いと考えます。吉之助の別稿「歌舞伎とオペラ〜新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察」では、グランド・オペラという用語を大まかにそのような感じで使用しています。

しかし、19世紀前半パリのオペラ座で流行した「グランド・オペラ様式」と云うことになると、意味はかなり絞られて来ます。これはフランス革命以後のパリ市民のコスモポリタンな雰囲気を反映したもので、異質なもの・雑多なものも異分子として排斥するのではなく、何でも受け入れて取り込む。新奇なもの・奇抜なものを好むところがありました。題材は異国趣味でエキゾチックなものが好まれました。こうして生まれたグランド・オペラ様式は、「折衷主義」とも呼ばれました。イタリア音楽の旋律美、ドイツ音楽の論理性、これらをフランスのドラマ性で統合させたものがグランド・オペラであったと考えられています。形式的には五幕か・あるいは四幕、台詞を含まず「すべてが歌われる」、必ずバレエ・シーンを含むなどの約束がありました。現在でも上演されることが多くてグランド・オペラ様式が確認出来る作品は、グノーの「ファウスト」5幕(1869年)、ヴェルディの「ドン・カルロス」フランス語版5幕(1867年)がそうです。いずれもパリのオペラ座で初演されました。ワーグナーは自作「タンホイザー」のパリのオペラ座での上演を目論見ましたが・なかなか実現できず、やむなく第1幕にバレエ・シーンを加えるなど大幅な書き直しをしました。現在パリ版「タンホイザー」(1861年)と呼ばれるものが、それです。ワーグナーが折衷主義を憎んだ遠因がそこにあったわけです。まあ実際折衷主義と云うのは通俗趣味・エンタテイメント主義と云っても良いものなのです。そのグランド・オペラ様式の頂点に立った作曲家が、マイヤベーアでした。(注:ここでのパリ・オペラ座は現在のガルニエ宮のことではなく、それ以前のサル・ド・ペルティエにあったオペラ座のことです。1875年ガルニエ宮落成の頃には、グランド・オペラ様式は既に急速な衰退を見せ始めていました。)

以上を歌舞伎に無理にこじつける必要もないことですが、グランド・オペラが新奇性・エキゾチックな要素を好むことは歌舞伎にも常に見られるものです。バレエ・シーンを含む点も、芝居のなかに道行など所作事を挟む歌舞伎の様式に近いものを見せています。またその通俗趣味・エンタテイメント主義は、歌舞伎にも共通した要素です。

ここでマイヤベーアの代表作であり、グランド・オペラ様式を確立したとされる「悪魔のロベール」5幕(1831年パリ・オペラ座初演)の粗筋を見たいと思います。なおここで吉之助が意図するのは、「悪魔のロベール」と「芝六住家」の筋の対比ではなく、両者に共通して見られる強固な善悪二元構図に着目して欲しいのです。 また「悪魔のロベール」が中世説話の流れを踏まえている(「ファウスト」説話に似たところがあります)のと同じく、「芝六住家」も古代の春日大社の石子詰め伝説を踏まえている点にも、注目して欲しいと思います。マイヤベーアは、日本の悲劇というエキゾチックな要素だけに引かれたわけではなく、ドラマ面において強い興味があったと云うことです。

もうひとつ付け加えると、「芝六住家」だけの粗筋であると多幕形式のグランド・オペラの約束には合いませんから、これをオペラ化するならば、多分「猿沢池」を加えて一幕三場(実質三幕)のオペラ・コミック形式に仕立てたでしょうかね。オペラ・コミックには歌だけではなく台詞が入るという特徴がありますが、まあ軽めのグランド・オペラだと考えれば良いです。マイヤベーアには晩年に「北極星」(1854年)・「ディノラ」(1859年)などオペラ・コミックの作品もあり、これらを晩年の作風と見るならば、「盲目の皇帝」の構想は十分肯けるところです。

「悪魔のロベール」粗筋を簡単に記します。ノルマンディーの王女は子供を授かれないことに悩んでいましたが、神の代わりに悪魔に祈って子供を産むことが出来ました。しかし、生まれた子供ロベールは粗暴な性格で生まれ故郷を追い出され、流浪の末にシチリアに辿り着きます。ロベールは友人ベルトラムに支えられていますが、実はベルトラムは姿を変えた悪魔でありロベールの父でした。ベルトラムは堕天使に息子ロベールを悪の世界に堕とす期限を定められており、ロベールが過ちを繰り返すように盛んに仕向けます。(ただしベルトラムはロベールの父なので・父としての感情がないわけでもない。そこが興味深いところで。)そこへ母の遺言(父の言葉に従わないこと)を携えた乳兄妹アリスがやってきて、聖なる世界をロベールに説きます。母の聖なる世界と父が誘惑する悪魔の世界と、ふたつの世界の相克に苦しむ間に、時を告げる鐘が鳴り響きベルトラムは炎とともに消え、ロベールが救われて天上が勝利したことを合唱が祝福します。

善悪二元構図はグランド・オペラに頻出するドラマ構図ですが、「芝六住家」を見ると、漁師芝六の忠義を疑って・これを試そうとする藤原鎌足が、まあベルトラムに相当しますかねえ。春日大社の神鹿殺しのタブーがドラマを重厚なものにしています。芝六(実は玄上太郎)の忠義は変わることがありませんが、状況が激しく変転しますから、芝六が忠義の士と称えられるか・それとも裏切り者と決めつけられるか、観客には最後まで結末が分かりません。そのような芝六の苦しみを、いたいけな子供の犠牲と、次第に高まる鐘の音と合わさるような女房お雉の歎きの声・その音楽的効果が一層スリリングなものにします。グランド・オペラ様式の大家マイヤベーアが「芝六住家」に目を付けたのも、さもありなんと思えるのです。(この稿つづく)

《悪魔のロベール》とパリ・オペラ座 ―19世紀グランド・オペラ研究(上智大学出版)

(R2・7・28)


 

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