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「盲目の皇帝」〜「妹背山・芝六住家」

昭和49年4月国立劇場:通し上演「妹背山婦女庭訓」〜「猿沢池・芝六住家」

二代目中村鴈治郎(猟師芝六実は玄上太郎利綱)、七代目中村芝翫(芝六女房お雉)、五代目中村児太郎(九代目中村福助)(芝六倅三作)、中村幸二(八代目中村芝翫)(芝六倅杉松)、六代目中村東蔵(天智帝)、八代目大谷友右衛門(采女の局)、六代目沢村田之助(藤原淡海)、四代目尾上菊次郎(藤原鎌足)


1)「盲目の皇帝」

本稿で取り上げるのは、昭和49年(1974)4月国立劇場での通し上演「妹背山婦女庭訓」から、二代目鴈治郎の芝六による「芝六住家」(芝六忠義)の場の舞台映像です。「妹背山」については、御存知の通り三段目「吉野川」や四段目「御殿」はよく上演されて人気演目ですが、二段目「芝六住家」は現在の歌舞伎では滅多に上演がされることがありません。上演記録を見ると戦後の歌舞伎上演は、この昭和49年4月国立劇場と、平成8年(1996)12月国立劇場(七代目菊五郎の芝六)の二回しかありません。(文楽では通しで上演される時にたまに出ます。)吉之助も巡り合わせが悪くて生(なま)では見たことがありません。

ところで観劇随想の前にちょっと寄り道をしたいと思います。江戸時代にたまたま「芝六住家」の舞台を見て、これを日記に記した外国人がいるのです。それは鎖国時代の長崎の出島のオランダ商館医を勤めたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトです。シーボルトは、文政9年(1826)オランダ商館長(デ・ステュルレル)の江戸出府に随行して、道中の日本の自然・地理・気候などを調査しました。江戸出府はオランダが通商を許された御礼を江戸の将軍に申し上げて・品物を献上するため定期的に行われた行事でした。商館長一行は日本暦1月8日に長崎を出発、各地を観光・調査を行いながら、3月4日に江戸に到着。江戸でシーボルトは幕府の医師たちに解剖や手術の講義、種痘の公開実験を行ないました。3月25日に江戸城へ登城し将軍に謁見。帰路、京都・大阪を訪れ、5月7日に大坂で芝居を見物しました。長崎に帰着したのは6月3日のことでした。ずいぶんのんびりとした旅程に見えますが、オランダにとって日本の情報収集・探査が重要任務であったことを伺わせます。

なお不思議なことにシーボルトの日記には記述がありませんが、江戸滞在中にシーボルトが七代目団十郎(当時35歳)と会見した記録が日本側に残っています。この出会いは「日本の芝居に団十郎という有名な役者がいるそうじゃないか・その役者に会いたい」というシーボルトの希望で実現したらしいのですが、シーボルトは素顔の団十郎を最初見て「違う、この人じゃない」と云って「暫」の錦絵を示して見せたそうです。団十郎は頷いてすぐさま自宅から衣装小道具など取り寄せて化粧して登場して睨んでみせると、シーボルトは拍手して「この人だ、この人だ」と云って喜んだそうです。この逸話は田村成義の「続々歌舞伎年代記」巻28に載っています。

オランダ商館長一行が歌舞伎芝居を見たのは、文政9年(1826)5月7日大坂道頓堀角の芝居でのことでした。演目は「妹背山大序から三段目まで」・「吃又」・「忠臣蔵九段目」など。役者は三代目尾上菊五郎、五代目市川団蔵、四代目尾上松助、二代目大谷友右衛門、二代目中村芝翫(後の四代目歌右衛門)らでした。菊五郎など江戸歌舞伎から役者が来演していたようですね。ステュルレル・シーボルトら外国人3名は、平土間に設けられた特別の長椅子に座り、傍に役人数人が付き添って通訳が芝居内容を説明したようです。その様子を鶴岱という絵師が描いた「紅毛人芝居見物図」という絵が残っているそうです。シーボルトの記した大坂の芝居の記述は興味深いものがあります。

『舞台はかなり大きく、ヨーロッパの劇場の様式と同じような造りであるが、あまり手を加えず飾り気もなく、したがって単に舞台の骨組みと思えばよい。我々は、日本人に特有な清潔さと小奇麗さがここでは見られないのに気付いたが、それはむしろ劇場主の怠慢に帰せられるべきものと思う。ここでもわが国と同じように平土間、平土間の桝席および階上の仕切り桟敷がある。(中略)平土間を取って橋のような高い二本の通路が舞台に通じていて、役者はその上を演技をしながら舞台へ行ったりあるいは舞台から引き下がることが出来る。だから平土間は出し物によっていわば舞台の一部となり、見物人は演技者の下に座っているわけである。(中略)役者たちの身振りや台詞廻しは賞賛に値するものであったし、彼らの高価な衣装はその印象を高め、劇場そのものの貧弱な設備を忘れさせた。ただ男だけが登場するので、どんなにうまく女の役を教えこまれても、その演技は見劣りがする。そして芝居が日中だけ行われ、明るい太陽のもとではどんな演技も男では女の美しさも魅力に代わることは出来ないから、なおさらそうである。(注:ただしシーボルトはお雉を演じた女形の演技を完璧であると褒めています。)(中略)幕は上からさがるのではなく両側から真ん中に引かれるので、役者は演技の終わりで見物の目から見えなくなる。』(シーボルト:江戸参府紀行・東洋文庫)

シーボルト:江戸参府紀行 (東洋文庫 )
シーボルト:シーボルトの日本報告 (東洋文庫)

一行が芝居を見たのは「妹背山」大序から二段目までで、途中で芝居小屋を退出したものと思われます。と云うのはシーボルトが二段目までの粗筋を書き残しているのに、これ以後の記述が見当たらないからです。「ロミオとジュリエット」と比較されることもある三段目「吉野川」の場は外国人にはさぞかし興味深かっただろうと思うのですが、それは兎も角、「江戸参府紀行」に記された「芝六住家」の粗筋は実に詳細に記されています。通訳の役人が絵番付けを見せながら日本人にも分かりにくい錯綜した筋を一生懸命解説したのだろうとそのご苦労が察せられます。記された粗筋を見れば、シーボルトは実に正しくドラマを理解しています。

この話しには、まだ続きがあります。ヨーロッパへ戻ったシーボルトは、著作「日本」・「日本植物誌」・「日本動物誌」の三部作の出版で日本学の大家となり、収集した植物の標本・美術工芸品のコレクションを展示したりして有名になり、19世紀ヨーロッパのジャポニズム・ブームの先駆けとなったことはご存じの通りです。そのなかで「江戸参府紀行」でシーボルトが紹介した「芝六忠義」の粗筋に、作曲家ジャコモ・マイアベーアが興味を示して、これを「盲目の皇帝」というタイトルでオペラ化しようと云う話が進んだらしいのです。「盲目の皇帝」とは奇妙な題名ですが、「妹背山」を見ると確かに目が見えない天智帝が登場します。しかし、残念ながら1864年にマイアベーアが亡くなってオペラ化がとん挫してしまったと云うのです。

「盲目の皇帝」オペラ化の件は、フランスの作家アルフォンヌ・ドーデの短編集「月曜物語」(1873年)に出てくる話です。もしかしたらドーデの名前を知らない方がいらっしゃるかも知れませんが、1871年普仏戦争でフランスが負けてアルザス・ロレーヌ地方がプロイセンに割譲された為・或る日突然公用語がフランス語からドイツ語に替わってしまって・とまどう子供たちの悲しみを描写した短編「最後の授業」はご存じだろうと思います。「最後の授業」は「月曜物語」の冒頭に収められたもので、「盲目の皇帝」は同じ短編集の最後に収められたものです。

ドーデの「盲目の皇帝」に出てくる経緯は次のようなものです。1866年私(ドーデ)はパリを訪れていた老シーボルトと知り合い、シーボルトはミュンヘンに戻ったら「盲目の皇帝」という16世紀の日本の悲劇の草稿を私に送ってくれると約束しました。それは全然欧州で知られていない傑作で、シーボルトが友人のマイアベーアのために特に訳したものなのだが、当のマイアベーアが合唱曲の作曲中に死んでしまったものだと云うのです。ところがシーボルトが帰国してしばらくして、プロイセンとオーストリアとの間に戦争(普墺戦争)が始まったために連絡が取れなくなってしまいました。「盲目の皇帝」の内容を早く知りたいと思い焦れた私は意を決して、物騒なミュンヘンへ出かけることにしました。行ってみるとシーボルトは約束を忘れていませんでしたが、草稿はヴュルツブルクにいるシーボルト夫人の手元にあって、プロイセン軍がヴュルツブルクに迫っていたため・いつ草稿が届くか分からない状態でした。このため私はミュンヘンに10日ほど滞在する破目になり、小説では当時のミュンヘン周辺の描写が長く続きます。(当時のミュンヘンはバイエルン王国の首都でした。)或る夕方シーボルトが顔を輝かせてやって来ました。「例のが手に入ったぞ、明日の朝来たまえ、一緒に読もう、そりゃ素晴らしいぜ」と言って、シーボルトは声高に悲劇の章句を口にしたり、合唱部を歌ったりしてみせました。私は彼の興奮をまったく純粋な詩的感興の結果だと思いました。実際彼が口にした断片は非常に立派なものに感じられ、私は一刻も早くこの傑作を手に入れたいと思いました。ところが翌朝シーボルト宅に行ってみると、門は堅く閉ざされて、むせび泣きの声が聞こえる。シーボルトが夜中急死したのでした。短編「盲目の皇帝」は次のような文章で締めくくられます。

『私はその夜のうちにミュンヘンを発った。かかる悲嘆(シーボルトの死)を単なる文学上の気紛れのためにかき乱す勇気がなかったのである。こんなわけで私は最後まで、日本の素晴らしい悲劇の題だけしか知らなかった。「盲目の皇帝!」・・・その後、われわれはドイツから持ち帰ったこの表題がちょうど当てはまるような、他の悲劇が演ぜられるのを見た。血と涙に満ちた痛ましい悲劇、しかもそれは日本のものではなかったのである。』(ドーデ:「盲目の皇帝」)

ドーデ:月曜物語 (岩波文庫 )(「盲目の皇帝」を所収)

この末尾でドーデは何が言いたかったのかと云うと、これは1870年代当時のナポレオン三世の失政に対して「皇帝は眼が見えていない」と云う強烈な当てこすりなのです。どうやらドーデはこのオチを書きたいがためにこの「盲目の皇帝」探索譚を書いたような気がしますねえ。(これは谷崎潤一郎が「吉野葛」で吉野の自天王を材料に歴史小説を書くような体裁に仕立てて・実は母への思慕を書いて見せた手法とちょっと似てますね。このため谷崎が本格的な歴史小説を書こうとして失敗したと信じ込んでいる方も少なからずいらっしゃいます。)ちなみに史実ではシーボルトのパリ来訪は1864年のことで、1866年ではありません。またシーボルトが亡くなったのは小説では普墺戦争中のことのように読めますが、実際は戦争終結(1866年8月23日)から後の同年10月24日のことでした。このように時系列を微妙にズラしている上に、シーボルトがフランス語のオペラ歌詞を書ける文才があったとまでは到底思えないし(オペラの台本を書くのはそんなに簡単なことではありません)、マイアベーアが「盲目の皇帝」の合唱部の作曲中に亡くなったというのも、どうやらこれもドーデの作り話に違いありません。しかし、そのような気になる点があるにしても、シーボルトがマイアベーアに「妹背山婦女庭訓・芝六住家」の概要(シノプシス)を渡して、マイアベーアがこれに強い興味を抱いてオペラ化を考えたと云うこと自体は、これは大いに有り得る話だなと思えるのです。

マイアベーアは最後のオペラ「アフリカの女」の初演(1865年4月パリ)を待たずに1864年5月2日に亡くなりました。もしマイアベーアがもうちょっと長生きしていたら、もしかしたら歌舞伎を出典にしたオペラ「盲目の皇帝」が出来ていたかも知れないと云う想像は、なかなか愉しいことですね。「盲目の皇帝」の話はまだ続きます。(この稿つづく)

(R2・7・27)


2)「盲目の皇帝」・続き

ジャコモ・マイアベーア(1791〜1864)は、恐らく19世紀の大半を通じてパリで最も人気があったグランド・オペラの作曲家でした。代表作は「悪魔のロベール」(1831年)・「ユグノー教徒」(1836年)、「預言者」(1849年)など。マイアベーアの人気は、後輩のリヒャルト・ワーグナーが嫉妬するほどのものでした。ところが20世紀になってからのマイアベーア評価の凋落はすさまじく、現在ではその作品は滅多に上演がされなくなってしまいました。時代の評価の落差がこれほど大きい作曲家も珍しいようです。吉之助もカラスやサザーランドの歌唱でアリアを聴くくらいで、マイアベーアの音楽をよく知るわけではありません。原因についてはいろいろ考えられますが、大きな要因としては19世紀末以降の音楽の潮流を決定付けることになるワーグナーがマイアベーアを旧弊の権化として執拗に理論攻撃したことが挙げられます。

したがって、もしマイアベーアがもうちょっと長生きして、オペラ「盲目の皇帝」を完成させて大成功を収めたとしても、現在では「盲目の皇帝」も滅多に上演されないで音楽史に名を残すのみであったかも知れませんが、まあ「たら・れば」は歴史を学ぶ者のロマンです。「妹背山婦女庭訓・芝六住家」がグランド・オペラの作曲家の関心を呼び起こしたならば・それはどんな点だっただろうか、そこから歌舞伎とオペラの対比も可能であろうと考えます。

まず「グランド・オペラ」とは何かと云うことを考えます。グランド・オペラの概念は、実は漠然としたものです。直訳すれば「大歌劇」と云うことで、一般的には、壮麗な・大規模な・スペクタクルな舞台効果を持つオペラという意味合いに使われることが多いものです。広義にまとめれば、ベルリーニやドニゼッティのイタリアオペラから始まって、モーツアルト・ロッシーニ・ヴェルディ・ワーグナーを経て、20世紀のプッチーニの「トゥーランドット」、リヒャルト・シュトラウスの「薔薇の騎士」辺りまでが含まれるロマン派オペラ、現在の欧米オペラハウスの中核レパートリーがほぼそれに当たるとみなして良いと考えます。吉之助の別稿「歌舞伎とオペラ〜新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察」では、グランド・オペラという用語を大まかにそのような感じで使用しています。

しかし、19世紀前半パリのオペラ座で流行した「グランド・オペラ様式」と云うことになると、意味はかなり絞られて来ます。これはフランス革命以後のパリ市民のコスモポリタンな雰囲気を反映したもので、異質なもの・雑多なものも異分子として排斥するのではなく、何でも受け入れて取り込む。新奇なもの・奇抜なものを好むところがありました。題材は異国趣味でエキゾチックなものが好まれました。こうして生まれたグランド・オペラ様式は、「折衷主義」とも呼ばれました。イタリア音楽の旋律美、ドイツ音楽の論理性、これらをフランスのドラマ性で統合させたものがグランド・オペラであったと考えられています。形式的には五幕か・あるいは四幕、台詞を含まず「すべてが歌われる」、必ずバレエ・シーンを含むなどの約束がありました。現在でも上演されることが多くてグランド・オペラ様式が確認出来る作品は、グノーの「ファウスト」5幕(1869年)、ヴェルディの「ドン・カルロス」フランス語版5幕(1867年)がそうです。いずれもパリのオペラ座で初演されました。ワーグナーは自作「タンホイザー」のパリのオペラ座での上演を目論見ましたが・なかなか実現できず、やむなく第1幕にバレエ・シーンを加えるなど大幅な書き直しをしました。現在パリ版「タンホイザー」(1861年)と呼ばれるものが、それです。ワーグナーが折衷主義を憎んだ遠因がそこにあったわけです。まあ実際折衷主義と云うのは通俗趣味・エンタテイメント主義と云っても良いものなのです。そのグランド・オペラ様式の頂点に立った作曲家が、マイアベーアでした。(注:ここでのパリ・オペラ座は現在のガルニエ宮のことではなく、それ以前のサル・ド・ペルティエにあったオペラ座のことです。1875年ガルニエ宮落成の頃には、グランド・オペラ様式は既に急速な衰退を見せ始めていました。)

以上を歌舞伎に無理にこじつける必要もないことですが、グランド・オペラが新奇性・エキゾチックな要素を好むことは歌舞伎にも常に見られるものです。バレエ・シーンを含む点も、芝居のなかに道行など所作事を挟む歌舞伎の様式に近いものを見せています。またその通俗趣味・エンタテイメント主義は、歌舞伎にも共通した要素です。

ここでマイアベーアの代表作であり、グランド・オペラ様式を確立したとされる「悪魔のロベール」5幕(1831年パリ・オペラ座初演)の粗筋を見たいと思います。なおここで吉之助が意図するのは、「悪魔のロベール」と「芝六住家」の筋の対比ではなく、両者に共通して見られる強固な善悪二元構図に着目して欲しいのです。 また「悪魔のロベール」が中世説話の流れを踏まえている(「ファウスト」説話に似たところがあります)のと同じく、「芝六住家」も古代の春日大社の石子詰め伝説を踏まえている点にも、注目して欲しいと思います。マイアベーアは、日本の悲劇というエキゾチックな要素だけに引かれたわけではなく、ドラマ面において強い興味があったと云うことです。

もうひとつ付け加えると、「芝六住家」だけの粗筋であると多幕形式のグランド・オペラの約束に合いませんから、これをもしオペラ化するならば、多分「猿沢池」を加えて一幕三場(実質三幕)のオペラ・コミック形式に仕立てたでしょうかね。オペラ・コミックには歌だけではなく台詞が入るという特徴がありますが、まあ軽めのグランド・オペラだと考えれば良いです。マイアベーアには晩年に「北極星」(1854年)・「ディノラ」(1859年)などオペラ・コミックの作品もあり、これらを晩年の作風と見るならば、「盲目の皇帝」の構想は十分肯けるところです。

「悪魔のロベール」粗筋を簡単に記します。ノルマンディーの王女は子供を授かれないことに悩んでいましたが、神の代わりに悪魔に祈って子供を産むことが出来ました。しかし、生まれた子供ロベールは粗暴な性格で生まれ故郷を追い出され、流浪の末にシチリアに辿り着きます。ロベールは友人ベルトラムに支えられていますが、実はベルトラムは姿を変えた悪魔でありロベールの父でした。ベルトラムは堕天使に息子ロベールを悪の世界に堕とす期限を定められており、ロベールが過ちを繰り返すように盛んに仕向けます。(ただしベルトラムはロベールの父なので・父としての感情がないわけでもない。そこが興味深いところで。)そこへ母の遺言(父の言葉に従わないこと)を携えた乳兄妹アリスがやってきて、聖なる世界をロベールに説きます。母の聖なる世界と父が誘惑する悪魔の世界と、ふたつの世界の相克に苦しむ間に、時を告げる鐘が鳴り響きベルトラムは炎とともに消え、ロベールが救われて天上が勝利したことを合唱が祝福します。

善悪二元構図はグランド・オペラに頻出するドラマ構図ですが、「芝六住家」を見ると、漁師芝六の忠義を疑って・これを試そうとする藤原鎌足が、まあベルトラムに相当しますかねえ。春日大社の神鹿殺しのタブーがドラマを重厚なものにしています。芝六(実は玄上太郎)の忠義は変わることがありませんが、状況が激しく変転しますから、芝六が忠義の士と称えられるか・それとも裏切り者と決めつけられるか、観客には最後まで結末が分かりません。そのような芝六の苦しみを、いたいけな子供の犠牲と、次第に高まる鐘の音と合わさるような女房お雉の歎きの声・その音楽的効果が一層スリリングなものにします。グランド・オペラ様式の大家マイアベーアが「芝六住家」に目を付けたのも、さもありなんと思えるのです。(この稿つづく)

《悪魔のロベール》とパリ・オペラ座 ―19世紀グランド・オペラ研究(上智大学出版)

(R2・7・28)


3)芝六住家の位置付け

歌舞伎での芝六住家上演は、東京では明治4年(1871)9月市村座(五代目彦三郎の芝六)、大阪では明治12年(1879)2月中座(市川滝十郎の芝六)以来絶えており、今回(昭和49年・1974・4月)の二代目鴈治郎による国立劇場が、約百年振りの上演になります。

どうして芝六住家が明治以降歌舞伎で上演されなくなったかは、舞台を見ればその理由はすぐ分かります。「妹背山」での天智帝は、盲目ということになっています。入鹿の陰謀から逃れた帝は、藤原淡海の手引きにより、芝六の住家に匿われています。目が見えない帝はそこが内裏だと思い込んでいるので、周囲はそれを取り繕って、帝はあばら家のなかで前垂袴姿の官女を従えて宮中のつもりで暮らしています。「芝六住家」前半には、大納言が米屋の勘定書を色紙に書きつけた和歌だと思い込んで読んでみたり、帝が管弦を奏せよというので芝六が慌てて鼓を打って倅の三作が万才を舞うおかしみがあります。江戸期の大坂の町人には大いに笑えた場面だったでしょうが、明治の世ではこれが「お上に対して不敬」な内容であるということで嫌われたのです。

逆にシーボルトは芝六住家を見て・そこに興味を覚えたかも知れませんねえ。つまり目が見えない皇帝が庶民のあばら家を宮中だと思い込んで暮らしていると云う、視覚上のギャップ・滑稽さです。シーボルトが芝居の題名を「盲目の皇帝」としたことからも、それが察せられます。なるほどこれがオペラ化されていれば、その趣向の奇矯さで、エキゾチックな題材が大好きなパリの市民の話題を大いに呼びそうです。芝居の核心は庶民の悲劇というところにあるわけですが、上置きに盲目の皇帝が立つことで芝六一家の悲劇の世界構造が、異国の観客にも明確に見えて来ます。他者からの許しのポーズは、19世紀のオペラにも頻出する構図なのです。(別稿「今の世に在って言ってはならないことは過去の架空の出来事に仕立ててしまえば良い」を参照ください。)

ところで歌舞伎での「妹背山」は、三段目「吉野川」・四段目「御殿」が有名ですが、筋の上からは二段目の芝六住家も決しておろそかに出来ない場です。「御殿」で金輪五郎(鱶七)がお三輪を刺して・その生血を取りますが、その理由を金輪五郎は次のように語っています。

「彼(入鹿)が父たる蘇我の蝦夷子。齢傾くころまでも一子なきを憂へ、時の博士に占はせ、白き牝鹿の生血を取り母に与へしそのしるし。健かなる男子出生。鹿の生血胎内に入るを以て入鹿と名付く。さるによってきやつが心をとらかすには、爪黒の鹿の血汐と疑着の相ある女の生血、これを混じてこの笛にそゝぎかけて調ぶる時は、実に秋鹿の妻恋う如く、自然と鹿の性質顕はれ、色音を感じて正体なし。その虚を計って宝剱あやまちなく奪ひ返さん鎌足公の御計略。物蔭より窺ひ見るに、疑着の相ある汝(お三輪)なれば、不便ながら手にかけし」(四段目「御殿」)

と云うのです。つまり疑着の相あるお三輪の生血だけでは、入鹿の魔力に対抗するのにはまだ足りないのです。もうひとつ爪黒の鹿の血汐が揃って、初めて入鹿討伐が遂に可能となるのです。その爪黒の鹿の血汐は、二段目で芝六と倅三作がご禁制の爪黒の鹿を討って手に入れたものでした。芝六住家は、入手の経緯を明らかにする大事の場面なのです。猟師芝六は元々藤原鎌足の家来で、本名を玄上太郎(げんじょうたろう)と云いました。これは海の漁師である鱶七(実は金輪五郎)と対になる位置付けになっています。

人形浄瑠璃での明和8年(1771)1月竹本座初演の絵番付けには、「妹背山婦女庭訓」の角書として「十三鐘(じゅうさんかね)・絹懸柳(きぬかけやなぎ)」と記されています。「絹懸柳」の件は、むかし平城天皇に仕えた美しい采女がありましたが、天皇の寵愛が衰えたのを悲しみ、猿沢の池の畔の柳に衣を掛けて池に身を投げたという伝説から来ています。「十三鐘」と云うのは、猿沢の池からほど近い菩提院大御堂の俗称で、このお寺ではかつて昼夜十二時(とき)だけでなく・明け七つと六つの早朝勤行の時にも鐘を打ったので、「十三鐘」という異名で呼ばれたそうです。大御堂前庭には春日大社の神鹿を誤って殺してしまった稚児三作を石子詰めの刑に処したと伝えられる塚があります。これらはどれも二段目「神鹿殺し〜猿沢池〜芝六住家」に関連する重要なモティーフで、この事からも入鹿誅伐譚(大化の改新)としての「妹背山」二段目の重要性が察せられます。(この稿つづく)

(R2・8・19)


4)二代目鴈治郎の芝六・七代目芝翫のお雉

近松半二の作品は筋が錯綜したものが多いですが、なかでも古代の神話・伝承を題材にした「妹背山」の錯綜度合いは相当なものです。幸若舞は室町期に流行した語りを伴う曲舞(くせまい)の一種で・後世の芸能に大きな影響を与えました。そのなかのひとつ、幸若「入鹿」は、暴虐のかぎりを尽くす蘇我入鹿を中臣(藤原)鎌足が策略を用いて討つという筋です。その鎌足の策略というのが、盲人を装って入鹿に近づくことでした。入鹿は鎌足が嘘をついていると疑っていました。しかし、或る時鎌足が誤って我が子を囲炉裏のなかへ落として死なせてしまいます。これを見た入鹿は鎌足は盲目に違いないと判断して心を許します。鎌足の入鹿討伐のかげに我が子の犠牲があったわけです。恐らく半二はこの幸若から着想して、鎌足が盲目である件を天智帝の方へ移し替えて、鎌足の役割を庶民の代表である芝六に移し替えて、芝六が杉作を殺す筋に書き換えたのです。為政者である鎌足の存在は後ろへ遠のき、庶民が差し出す犠牲を「然り、そは正し」と受け取る役目へと変化しています。

「然り、そは正し」と犠牲を受け取り慈悲の心を以てこれを許すという態度は、為政者が最も好むポーズでした。このような「許し」の構図を取ると、ドラマは古典的な趣きを呈することになります。第一段階としてはこの認識が大事なのですが、「かぶき的心情」を踏まえれば、さらに。第二段階の読み方が可能になって来ます。芝六は自分の忠義を鎌足に認めさせるために、耐え難い犠牲(我が子杉作の死)を払わねばなりませんでした。つまりこれは、自分の心情の熱さ(かぶき的心情)で下の立場の者が耐え難いことをして見せて、上の者に心理的に激しい揺さぶりを掛けて、「分かった、お前を許そう」と無理やり言わせたということなのです。 このように考えた時、ドラマは「然り、そは正し、しかし、それで良かったのだろうか」という懐疑の色合いに変化します。このような変化が、室町期の幸若舞「入鹿」から・江戸期の「妹背山・芝六住家」の間に起こったことです。

実は十八世紀のバロック・オペラが十九世紀グランド・オペラに変化して行く過程でも、同じようなことが起こっています。これについては別稿「歌舞伎とオペラ〜新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察」をご参照ください。シーボルトが提供した「芝六住家」(盲目の皇帝)のシノプシス(概要)にマイアベーアが強い興味を示したとすれば、まさにこの点だと思われるのです。「芝六住家」は半二特有の強い作り物感覚があって、吉之助の目から見ても、近代的悲劇の概念からするとあまり上質の出来とは云えない感じがします。シーボルトは大坂の芝居小屋を途中退出して見なかったようですが、「吉野川」の方が上質の悲劇のように思います。しかし、もしシーボルトが「芝六住家」と「吉野川」の舞台を両方見ていたとしても、シーボルトもマイアベーアも興味を示したのは、多分「芝六住家」の方であったでしょう。それは「芝六住家」の方が「許し」とその逆転のドラマ構図が明解で、外国人に理解がしやすいからです。「吉野川」の方が外国人には理解し難いように思われます。

鴈治郎の芝六は、世話を基調にした飄々とした味わいが、とても良いです。「御殿」の鱶七も同様ですが、芝六も時代物ということで、線の太い豪快な役どころにイメージされてしまいそうです。しかし、「芝六住家」前半においてはやはり世話の洒脱さが必要です。前半で芝六を世話味を利かせておくから、後半の玄上太郎の性根を表わすところで、この場の捻じれた「許し」の逆転のドラマ構図がはっきり見えます。そこのところを鴈治郎はきっちり押さえています。

芝翫のお雉もまったく正攻法の演じ方と云うべきで、出過ぎたところがなく、鴈治郎を芝六に据えた場合に望みえる最良の配役でしょう。同月国立劇場の一座には「吉野川」の定高を勤めた歌右衛門がいたわけですが、もし歌右衛門がお雉を勤めていれば、良くも悪くもちょっと出過ぎた印象になったかな。ただこの芝居の題名が「婦女庭訓」であって、三段目「吉野川」が雛鳥と定高、四段目「御殿」がお三輪と橘姫という女たちの物語であるとすれば、二段目「芝六住家」でのお雉もまた主役として相応の重さを持つべきと云う見方が出来るかも知れず、そうでないと「婦女庭訓」にならないかも知れません。そこは残された課題としたいと思います。とは云え百年振りの再演と云うことを考えれば、芝翫は後世のお手本として良いお雉を見せてくれたと思います。

(R2・8・21)


 

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