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久我之助から見た「吉野川」〜「妹背山婦女庭訓」

昭和49年4月国立劇場:通し上演「妹背山婦女庭訓」〜「小松原・太宰花渡し・吉野川」

六代目中村歌右衛門(太宰後室定高)、二代目中村鴈治郎(蘇我入鹿)、八代目松本幸四郎(大判事清澄)、八代目中村福助(四代目中村梅玉)(久我之助清舟)、五代目中村松江(二代目中村魁春)(娘雛鳥)


1)「男の道」の成就

本稿で取り上げるのは、昭和49年(1974)4月国立劇場での通し上演「妹背山婦女庭訓」から、久我之助と雛鳥の悲恋を縦筋とした「小松原・太宰花渡し・吉野川」の舞台映像です。別稿「ピュアな心情のドラマ」において、「男の道」を貫こうとする久我之助と「女の道」を貫こうとする雛鳥、この二人のピュアな心情がそれぞれの親を突き動かし、長年の家同士の諍いを乗り越えて「たとえ家が滅びようとも子供たちの強い思いを守ろう」と決意させ、これが蘇我入鹿の独裁政権の崩壊にまで至る大きな流れとなっていく、壮大な時代物の構図を持っていることを論じました。けれども題名を「婦女庭訓」(女の道徳)と云うくらいですから、「吉野川」を見ると芝居の主題は雛鳥が負っていると感じると思います。「吉野川」だけ観る分にはそれで十分だと思いますけれど、そうするともしかすると久我之助の影がちょっと薄く見えるかも知れませんねえ。それに歌舞伎での久我之助は前髪立ちの美しい若衆なので、どうしても強さより風情の方が先立つようです。そうすると久我之助が柔弱に見えて来て、彼のなかにある強さが感知されにくい。しかし、「吉野川」のドラマが入鹿の討伐へ流れ込んでいくためには、やはり久我之助の「男の道」の強さがどうしても必要になります。「妹背山」の縦筋から読んで行けば、久我之助の芝居としての「吉野川」の一面がはっきりと見えて来るでしょう。

蘇我氏の暴政は、当時の帝(天智帝)をないがしろにする横暴極まりないものでした。帝が寵愛する采女は政敵藤原鎌足の娘であるので、これを煩わしい存在だとして遠ざけようと思っています。これを察して采女は猿沢池に入水して死んだと見せかけて、実はどこかに匿われています。久我之助は采女の付き人ですから、当然采女の潜伏先を知っています。久我之助は見掛けは前髪立の美少年でまだ子供のように見えますが、実は独裁政権へのレジスタンス勢力の結構重要な位置にある人物なのです。「太宰花渡し」の場で入鹿が大判事に対し「久我之助を今日より朕が目通りに出勤させよ」と難題をぶつけるのは、実は久我之助を謀反人として捕える魂胆です。

一方、圧倒的な入鹿に対して父親である大判事はひたすら恭順の態度を示しています。(これは太宰の家を守る定高も同じことです。)もちろん大判事も入鹿の横暴に内心はらわたが煮えくり返っていたに違いありません。大判事は入鹿の不興を買わぬように、表面上そのように装っているだけなのですが、このような父親の煮え切らぬ態度に、息子である久我之助は不審の念を抱いています。「吉野川」前半で久我之助は柏の葉を川へ投げ入れて、父の心が善か悪かを占おうとします。、

『ムム重き君も入鹿といふ逆臣の水の勢ひには、敵対がたき時代のならひ、それを知て暫しの内、敵に従ふ父大判事殿の心、善か悪かを三つ柏。水に沈めば願ひ叶はず浮む時は願成就。』

それにしても久我之助は、若いに似合わず冷静な人間のようです。雛鳥との恋については、両家の対立と云う事情を承知しており、何が何でも親の考えに背こうとは思っていないように思われます。しかし、入鹿に関しては、久我之助ははっきり自分の意志を持っています。これは采女の付き人であると彼の職務から来ます。恐らく父と敵対したとしても 、采女を守って、入鹿に反抗する覚悟が出来ています。この息子の覚悟を受け入れたからこそ、ここまで入鹿への政治的立場を曖昧にして来た大判事が、一転して入鹿に反旗を翻し、息子の立場を受け入れる決意を明らかにするのです。だからこれは息子に対する父親の愛情の問題ではなく(もちろんそれもあるには違いないが)、ここでは「自分の信念を如何に貫いて生きるか」という「男の道」が、息子から父親に対して問われているのです。つまりこれは男対男の問題だと云うことです。この決断を踏まえたところで、夫となるべき久我之助のために「女の道」を立て通して死んだ雛鳥への大判事の感動の言葉が出て来るのです。

『あれほど思ひ詰めた嫁、何の入鹿に従はふ。とても死ねばならぬ子供。一時にころしたは、未来で早ふ添はしてやりたさ。』

もうひとつ大事なことは、久我之助は直接的には雛鳥を救うために腹を切るのではないと云うことです。久我之助は自らの「男の道」を貫くことで腹を切る、それが結果として雛鳥を救う事にもなると思っているのです。男の場合には、「男の道」を貫くことがまず第一であり、「恋の道」はその次のことです。恋をないがしろにしているのではなく、「男の道」を立ててこそ「恋の道」が立つのです。当然これは父親である大判事も同じであると考えるべきです。久我之助から見た「吉野川」は、そのような男のドラマなのです。もっとも芝居が「婦女庭訓」であるし、雛流しのシーンが情緒的に見る者の感性を刺激しますから、「吉野川」はどうしても女サイド(定高・雛鳥)の印象に傾いてしまうのは、仕方がないところがありますけどね。(この稿つづく)

(R2・3・30)


2)「太宰花渡し」の意味

「吉野川」は名作で、これだけで十分な完結性を持っています。前場である「太宰花渡し」はそれほどドラマティックな場ではないし、それほど必要な場のように見えないかも知れません。しかし、この場があると、後の「吉野川」が置かれた緊迫した状況がくっきりと浮き彫りにされて、「吉野川」のドラマが引き締まって見える気がします。「太宰花渡し」で、入鹿が大判事と定高に次のように命じます。

『まず汝らが面晴れなれば(采女を)匿わぬという潔白に、定高は雛鳥を入内させよ。また大判事も覚えなきに相違なくば久我之助は今日より、朕が目通りへ出勤させよ。きっとその旨心得よ。(中略)特しんすれば栄える花、背くにおいてはたちまちに麿が威勢の嵐にあて、マッこの通り。(中略)コリャ両人よく聞け。もし少しでも容赦いたさば領地は没収、従類までも絶やするぞ。性根を定め早や行け。』(入鹿)

入鹿は生け置いた桜のひと枝を取り上げて、はっしと打って花を微塵にして見せます。その光景を見て大判事も定高もただ恐れ慄くばかりです。歌舞伎では、ここで入鹿が大判事と定高に桜の枝を一本ずつ与えます。これが「吉野川」の両花道からの登場で大判事と定高が持って出る桜の枝と云うことになります。(文楽の「太宰館」ではこの花渡しの場面がありませんから、二人が持って出る桜の枝はどこか途中で手折ってきた枝ということになりますかね。)「太宰花渡し」を「吉野川」の前場として付ける意味が三つあると思います。

まず大事な点は、「吉野川」での大判事・定高の入鹿の要求への対応は危急を要することが、観客に感知されるということです。これは命令ですから、家に持ち帰ってゆっくり検討するという類のものではありません。大判事は久我之助を・定高は雛鳥を、早急に入鹿の元に差し出さねばなりません。「吉野川」単独の上演であると、そうした切迫した状況が観客に十分伝わらないようです。だから「吉野川」前半での久我之助と雛鳥が吉野川を挟んで互いを見交わす場面が随分のんびりに見えてしまいます。緊張を維持するのが難しく、どうしてもダレ場になりやすい。もちろんこの時点で二人はそのような酷い要求が入鹿から自分たちに突き付けられていることをまだ知りません。しかし、「太宰花渡し」で観客がこの切迫した状況を承知しておれば、吉野川を隔ててのふたりの悲恋が一層の哀しみを増して胸に迫って来ることでしょう。

もうひとつは、「太宰花渡し」で入鹿が家来の弥藤次を呼び出して、「汝は百里照(ひゃくりしょう)の目鏡をもって香具山の絶頂よりきっと遠見を仕れ」と指示していることです。大判事・定高がそれぞれの館で行なうことは、弥藤次が山の上から望遠鏡で見ているのです。つまり「吉野川」後半で、定高が雛鳥の首を斬る・大判事が久我之助を介錯する、その行為はすべて監視されており、「見られている」ことを承知で彼らは入鹿への反逆行為を行うと云うことです。当然、彼らの決断は一段と重いものとなります。

さらに三つ目は、「吉野川」のドラマのうえに圧し掛かる入鹿の政治的重圧が両家を存亡の危機に陥れるほど圧倒的なものであることを、「太宰花渡し」を前場に付けることで観客がはっきり理解出来ると云うことです。「吉野川」は日本の「ロメオとジュリエット」だとよく云われます。(最初にこれを言ったのは三宅周太郎だそうです。)それは全然間違いではないけれども、両家の対立構図は最後の最後に消し飛んでしまって、「吉野川」のドラマは入鹿の討伐へと一気に流れ込んで行きます。これは明らかに久我之助が背負う「男の道」の問題があるから、そうなって行くわけです。

今回(昭和49年4月国立劇場)の「妹背山」通し上演では、前場に「太宰花渡し」が付いたおかげで後に続く「吉野川」が置かれた苦境が明確に分かります。これが今回の通し上演の意義だと思います。それに加えて今回の「太宰花渡し」の場の顔触れが凄い。何しろ二代目鴈治郎の入鹿、八代目幸四郎の大判事、六代目歌右衛門の定高、これは戦後昭和歌舞伎の望みえる最高の顔合わせではないでしょうかねえ。特に感嘆させられるのは、鴈治郎の入鹿の身体から発せられる圧倒的なオーラです。鴈治郎は小柄な役者ですから見た目の大きさのことではなく、まさに芸容の大きさと云うことです。「妹背山」の入鹿や「菅原」の時平のような歌舞伎の極悪人はグロテスクな印象だけで持つのではなく、不思議な色気が必要です。民衆は彼らを悪として忌み嫌うのではなく、むしろその危険な色気に引き寄せられていく、そのような魔法の色気なのです。鴈治郎の入鹿は、そのような色気を持っていますね。ここでは幸四郎の大判事も、歌右衛門の定高でさえも吹っ飛んでいます。もし役者のランキングを付けるならば、実は吉之助はこの時期(昭和40年代)に最も技芸が優れた歌舞伎役者は鴈治郎ではなかったかと密かに思っているのですが、その推測を裏付けるような立派な入鹿だと思います。(この稿つづく)

(R2・3・31)


3)歌右衛門と幸四郎

歌右衛門の定高は当たり役ですが、「花渡し」の定高を演じたのは今回(昭和49年4月国立劇場)上演が初めてのことでした。歌右衛門は、定高が「花渡し」と「吉野川」とで人が変ったように見えないように注意したと語っています。

『(花渡しで)入鹿の前で大判事と定高が仲が悪く、つめ開きをするのに、あまりここが強く出ますと、「川場」になって両花道から出てまいりまして、定高が大判事を呼び止める、ここの呼び止めが非常に難しく感じます。「花渡し」の場の定高と、この呼び止める件のつながりがなくなり易い、その難しさです。つめ開きにしましても、定高は大名の後室ですから、はしたなくならぬよう、強くやっても、角が立たないように演じなければならず、兎にも角にも「吉野川」へと続いている定高でないといけない。それが今月一番難しく感じました。』(六代目中村歌右衛門:「私の役作り」〜妹背山婦女庭訓:雑誌「演劇界」昭和49年5月号)

「花渡し」では、大判事と定高は何かと云うといがみ合い、相当仲が悪いと見えます。けれども後の「吉野川」では一転してふたりは互いに相手の子供を救おうとします(結果として双方死ぬことになりますが)。このようなふたりの大きな心境の変化は、恐らくふたりが入鹿に追い立てられるように太宰館を出てから「吉野川」の両花道に現れるまでの間に起こったことです。そこにどのような心理の流れを見るか、役者によってそれぞれの工夫があるだろうと思います。一方、幸四郎(大判事)の方は、若干違ったニュアンスでこのことを語っています。これも興味深い。

『「花渡し」で大判事と定高が相当強いところを見せておくと、終わりで打ち解けることの「枷(かせ)」になる。入鹿のひと言によって子供を犠牲にする、もうひとかせしつこくなって、後が引き立ちますので、「吉野川」以上にお互いに仲が悪いのを強調してやっているのですけどね。』(八代目松本幸四郎:「私の役作り」〜妹背山婦女庭訓:雑誌「演劇界」昭和49年5月号)

「花渡し」と「吉野川」の間に何とか連続性を見出そうとするのが歌右衛門、この変化を近松半二のいつものトリックだと割り切ろうとするのが幸四郎だと云えるでしょう。これはもちろんどちらの考え方もあるわけですが、これは歌右衛門は役の心理の綾を読み込んだところから演技を構築していく、片や幸四郎は役の全体を大まかに押さえてから細部に入って行くと云う、ふたりの名優の役作りのプロセスの違いを反映しています。

ただし「花渡し」でのやり取りを見ると、(これはまことに歌右衛門らしいと云うべきですが)定高が息を詰めて演技をねっとり押していくのに対して、受けて立つ大判事の方がやや淡泊に感じられて、大判事がちょっと押され気味に見えるのが興味深いところです。つまり幸四郎本人が云うほどに花渡しの大判事が手強い感じに見えて来ないのです。この印象が後の「吉野川」に若干尾を引いているようです。花道の出でも、大判事が情に傾いた感じに見えます。このせいで「吉野川」でも終始歌右衛門リードの印象がしますねえ。この点はちょっと惜しかった。しかし、死に際の久我之助に向かって云う大判事の「倅清船承れ・・」以下の長台詞での幸四郎はさすがの台詞廻しを見せて最後に盛り返してくれました。

歌右衛門は、こういう大顔合わせの時はひときわ気合いが入るようです。先ほど「吉野川」は歌右衛門リードの印象と書きましたが、元々「婦女庭訓」(女の道)が主題の芝居ですから、別にこれでよろしいのです。もちろん幕切れはちゃんと幸四郎に芝居を渡しています。歌右衛門の定高が良いのは、凛とした強さがあることです。夫を亡くして家を守らなくてはならない家長の立場ですから、「女ごときに」と相手に侮られてはならぬという気持ちが強く出ると云うところがよく出ています。上記芸談においても歌右衛門が定高の花道の出を大事にしていることは明らかですが、七三で大判事と対峙した時の定高の気位の高さには感嘆させられます。幸い吉之助は歌右衛門の定高を生(なま)で見ることが出来ましたが、その一挙手一投足が実に重く感じられる、だから歌右衛門の動作を一瞬たりとも見逃せない、そのような気分に何度もさせられたものですが、今回の定高の映像でもまたそうです。

福助(当時27歳)・松江(当時26歳)はまだ莟の花ですが、歌右衛門の厳しい指導を得て行儀の良いところを見せています。特に今回の通し上演では「小松原」で久我之助と雛鳥の出会いの場面が出ますから、ふたりの「宿命の恋」の発端が分かります。雛鳥への思いを募らせつつも、久我之助は帝寵愛の采女の方を守り抜くという職務を決して忘れていない。そのこともよく分かります。「小松原」・「花渡し」を出すことで、久我之助の「男の道」が浮かび上がって来ました。今回の「妹背山」通し上演の成果はそこにあったと思います。

(R2・4・5)



 

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