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「歌舞伎素人講釈」連載コーナー


近松世話物論〜歌舞伎におけるヴェリズモ


○近松世話物論・その8:再び因果応報の世界へ

『西洋では、こんな芝居は絶対にありません。(徳兵衛は)まったくみじめな姿で第2幕(天満屋)に登場し、縁の下に入って、お初の足首にしがみつくんです。西洋の芝居ではあれほどみじめったらしい主人公はまずいないと思います。ではそれほどにも頼りない男がなぜ主人公になる資格を持つのか。それは道行があるからなんです。あの道行がなければ、「曽根崎心中」という芝居もありません。(中略)お初と徳兵衛は、世界苦の代表・人間の業の代表として死に場所へ向うんです。だからこそ二人は歩きながら背も高くなります。そして、目指す曽根崎の森に着いたときには徳兵衛は立派な人間です。彼は偉大な人物として死んでいくのです。』(ドナルド・キーン/徳岡孝夫:「棹友紀行」(中公文庫)

ドナルド・キーン/徳岡孝夫:悼友紀行―三島由紀夫の作品風土

時代浄瑠璃の形式を完成させたのは他ならぬ近松門左衛門でしたが、「曽根崎心中」以前の悲劇というものは、主人公が次第に悲劇的状況に陥り・やがて破滅にいたるまでの因果応報を、段階的かつ論理的に描き出すものとされていました。悲劇はその状況を背負うにふさわしい人物・すなわち歴史上の人物が主人公になるものとされており、だから悲劇というのは常に時代物と決まっていました。ところが、名もない庶民にも悲劇的状況はあると感じていた近松はそこに安住しなかったのです。真の人間ドラマを描きたかった近松は、敢て時代物悲劇の枠組みをぶっ壊す挙に出ました。それが「曽根崎心中」という世話物悲劇の実験であったのです。 本来は悲劇にふさわしくないとされた庶民が悲劇の主人公となった瞬間です。

しかし、近松の死(享保9年)後、時代が経つと心中ブームの熱狂も去って世の中が急速に保守化していきます。近松の実験の衝撃も薄れて行きます。近松の盛名は依然として高かったけれども、一気に心中へ流れ込んでいく人物の熱い心情が次第に理解されなくなっていきます。ドラマがあまりにストレート・単純に過ぎて、筋が説明不足のように感じられるのです。主人公が悲劇的状況に追い込まれていくための必然がもっと欲しいということになってきます。「その6」で世話物悲劇というのは不完全な悲劇だと云うことを指摘しましたが、ドラマの衝撃性が薄らいでくると・今度はまさにその不完全さが気になって来るのです。際物(当世の事件を題材にした・いわば三面記事的芝居)の場合は時代が経つと観客の記憶も薄れてきますから、背景説明を十分にしなかればならないということもあります。

この為、近松の作品は初演以降は人形浄瑠璃でも歌舞伎でも原作通りに上演されることがほとんどなく、もっぱら改作によって上演がされて来ました。例えば正徳5年(1715) ・近松存命中のことですが、お初・徳兵衛十三回忌に豊竹座で上演された「曽根崎心中十三回忌」は紀海音の改訂によるものでした。徳兵衛は友人九平次に銀二貫目という大金を貸したが・これを騙し取られ、そのために窮地に陥り 、ついには心中に至るということに改変がされました。現在、宇野信夫脚色により上演されている歌舞伎の「曽根崎心中」はこの再演本をテキストにしています。つまり 、お初徳兵衛の無実の罪に陥れられたわけです。ふたりはホントは死ななくてもいいのに・心中に追い込まれてしまったということになります。観客はお初徳兵衛は可哀想だと言って同情して・たっぷり泣けるように作りかえられたということです。初演本にあるお初徳兵衛が心中に向けて突っ走る熱さは失われてしまいます 。しかし、こうすることで世話物悲劇はそのドラマの不完全さを補うことができると、当時の芝居の関係者は 多分そのように考えたのでしょう。その後の世話物悲劇は再び多幕物への道を歩むことになります。主人公が破滅に追い込まれるための十分な手続きが施されるようになります。しかし、それは世話物悲劇の主人公を再び因果応報の世界へ引き戻すことになってしまったわけです。

(H23・8・22)


○近松世話物論・その7:滑稽とは力の湧出である

『「道化師」では実に興味をそそるテーマが取り扱われている。つまり、一見すると浮薄に映る芝居の背後にも人生の真摯さがあるということ、しかも喜劇という芸術形態のみが不快で陰惨な題材に明るさを付与するものであるということである。プロローグの意味は実はそこにあり、主人公カニオのアリア「衣装をつけろ」もまた悲嘆なのではなく、むしろ力の湧出なのである。すなわち自分の人生の崩れ去った今、彼にはわずかに道化師という天職のみが残され、人間カニオは消えて・ただ道化師だけが現れる。その晩カニオは未だ生涯演じたことのない芝居を見せるだろう!喜劇話が現実の出来事と悪夢のように連鎖するに至っていよいよカニオは劇中での役柄を忘れ、村の観衆は自分たちを興奮の坩堝に巻き込む前代見聞の芝居を見る。文字通り現実主義的な芝居を体験するのだ。そして彼らは遅ればせながら、自分たちの心をむんずと掴んでいたものがもはや芝居ではなく、血まみれの現実に他ならなかったことに気づくのである。』(ヨアヒム・ヘルツ:「現実性の発見」・1958年)

「道化師」の筋を知らないとピンと来ないかも知れませんが、このヘルツの文章は非常に大事なことを指摘しています。「道化師」の有名なアリア・ 恐らくテノールのアリアとして10指に入る名アリアである「衣装をつけろ」のことです。これは主人公である道化師カニオが妻の不貞を知って悲しみにくれながら・しかし芝居の出番が迫っており・道化の化粧をしながら歌うアリアです。この後、カニオは劇中劇のなかで錯乱して妻を刺殺します。ヘルツはこの場面を「悲嘆ではなく・むしろ力の湧出である」と言います。さらに「喜劇という芸術形態のみが不快で陰惨な題材に明るさを付与する」とヘルツは言います。これをさらに言い換えれば「滑稽のみが陰惨さに明るさを付加する」ということになります。

*Youtubeの映像で名テノール・マリオ・デル・モナコの歌うアリア「衣装をつけろ」をご覧下さい。デル・モナコは20世紀後半最高のカニオ歌手と言って過言ではありません。特にアリア歌い終わった後・手鏡に映った自分の姿を見る時のカニオの表情をご覧ください。ここに歌舞伎の見得とまったく同じ瞬間を見るはずです。1961年NHKイタリア・オペラ公演。

別稿「和事芸の起源」において・「誣(し)い物語」であることの言い訳はシリアスな要素と滑稽な要素が裏表で出てくることが多いということを考えました。実はこれは洋の東西を問わず・共通して言えることです。アリア「衣装をつけろ」ではカニオは道化の化粧・衣装でこんな絶望的な気分の時に道化の芝居をしなければならないとは・・とその心情を歌います。道化の化粧とカニオの悲痛な心情との間に視覚上の非常な乖離(ギャップ)があります。その乖離に人生のグロテスクな・残酷な側面を見ることももちろんできます。現代的な感性から 見ればそう見えるわけですが、演劇的に見れば「衣装をつけろ」の場面はこれを滑稽な場面であると受け取ることもできるのです。それは主人公が道化・つまり最初から笑うべき存在だからです。乖離(ギャップ)は主人公が全身の力を振り絞って引き裂いたものの如きです。チャラチャラして・コミカルな演技だけが滑稽なのではありません。

それでは「曽根崎心中」の徳兵衛の滑稽な要素はどこにあるのでしょうか。例えば徳兵衛が序幕で九平次とその仲間にさんざんにやり込められて・惨めなさまを晒す場面です。いじめの場面は「笑えない」と思う人もいるかも知れませんが、大坂商人の落ちこぼれである徳兵衛は笑われて当然 の存在なのです。もちろんそのように近松は描いています。もうひとつは天満屋の軒下に隠れてお初が合図で差し出す足首に自分の喉を当ててみせる場面です。この場の徳兵衛は男らしくなく・どうしようもなく惨めです。この乖離(ギャップ)が 、実は滑稽なのです。この乖離(ギャップ)が起爆剤になって、お初の「オオ・そのはずそのはず・いつまでも生きても同じこと・死んで恥をすすがいでは」という叫びが引き出されています。 この瞬間に庶民の滑稽は悲劇に転化するのです。滑稽とは力の湧出なのです。

もうひとつ付け加えれば・カニオや徳兵衛に滑稽な要素が必要になるのは、正統的な(時代物の)悲劇の感覚から見れば・彼らにはやはり悲劇の主人公たる資格が不足しているからに他なりません。だからその申し訳に滑稽な要素が必要になるのです。これも世話物悲劇が「不完全な悲劇」であることの所以です。

「曽根崎心中」に続く近松の後年の世話物での「河庄」の冶兵衛や「封印切」の与兵衛では、滑稽の要素はもうちょっと練れた形になって出てきます。 それはつまりどこかナヨナヨとした優男のイメージで、現在ではいわゆる上方和事の技法で処理される役どころなのです。しかし、最初の世話物である「曽根崎心中」の場合は近松にとってもある意味で実験でもあり・ 冒険でもあり、作者近松にもこれが当たるかどうか確信はまだないわけですから、徳兵衛を世話悲劇にふさわしい人物に仕立てるために・特に手探りで慎重に人物作りをしたと思います。徳兵衛にシリアスな要素が強く感じられるのはそのせいです。(これについては別稿「和事芸の多面性」をご参照ください。)しかし、徳兵衛の惨めさのなかに滑稽の要素を見るならば 、そこに冶兵衛や与兵衛の上方和事との共通項を見出すことが出来ると思います。逆に言うと、冶兵衛と与兵衛の和事の演技の滑稽さのなかにももっとシリアスな要素を見ることも可能になってくるでしょう。上方和事に新しい表現の可能性が見えてくるはずです。 (この稿つづく)

*ヨアヒム・ヘルツの論文は「現実性の発見」は名作オペラ ブックス・27に収録されています。

名作オペラブックス(27)カヴァレリアルスティカーナ/道化師(音楽之友社)

(H23・7・8)


○近松世話物論・その6:不完全な悲劇

時代物浄瑠璃の形式は五段形式が基本で・能狂言の五番立ての形式を踏襲したものだと言われています。「出世景清」は貞享2年(1685)竹本座での初演で、近松門左衛門・33歳の時の作品です。「出世景清」は「新(当流)浄瑠璃の始まり」とされ、本作を境としてそれ以前の作品を「古浄瑠璃」と区別するということになったほどの画期的作品でした。時代物の悲劇 の形式を完成したのは他ならぬ近松だったのです。

時代物悲劇では、主人公の置かれた状況をまず観客に十分説明して・何が主人公を悲劇に追い込んで行くか・その状況に対して主人公がどういう行動を取るか・これを 因果関係的に追うことで悲劇の段取りを論理的に積み上げていく過程を取ります。浄瑠璃がそこに因果応報的な色合いを強く見せるのは当時の人々の倫理道徳観が そこに反映しているということはもちろんですが、悲劇のドラマツルギーが十分に機能するために筋はどうしても因果関係的にならざるを得ないのです。こうした手続きをしっかり踏むことで、主人公が悲劇的状況に陥ることを「然り・やむなし」と観客は納得することができるのです。

 「出世景清」の阿古屋も状況のなかで自らの意思で決断し・行動し、結果として自ら破滅を選択することになる人物として描かれています。この点が中世的な語り物の系譜を引きずっていた 古浄瑠璃から・新しい世界を切り開いた新浄瑠璃「出世景清」の歴史的意義です。(これについては別稿「その心情の強さ〜出世景清」をご参考にしてください。)悲劇においては、主人公はその 悲劇的状況にふさわしい重厚さが必要になります。神話や歴史に登場する王侯・武士などの人物であれば、確かにその悲劇も厳粛で荘重なものに感じられます。また芝居のスケールも 壮大なものにできます。神話や歴史の人物を悲劇の主人公に取る一番の利点は、観客の方に予備知識があって因果関係が明確に意識されているということです。だから観客 が悲劇を客観視できるのです。観客が神の視点に立って「これは然り」と悲劇を受け入れる立場になれるということです。

しかし、時代浄瑠璃にも庶民が悲劇に巻き込まれるという作品があります。例えば近松よりも時代は下りますが、「鮓屋」のいがみの権太の場合がそうです。 時代浄瑠璃の三段目は世話場とされることが多いことはご存知の通りです。「鮓屋」は「義経千本桜」の三段目です。「鮓屋」では平家物語の世界構図が他者的存在としてあり 、権太の死は本来悲劇にふさわしくない庶民の死ですが、他者が時代の構図のなかに権太の死を絡め取るという形を取るのです。つまり権太の死は他者に捧げられ た犠牲であって、他者がその死を受け入れ・その罪を許すという構図になっています。つまり、厳密に言えば時代物のドラマツルギーから見れば権太の死に「鮓屋」のドラマ の本質はないことになります。(別稿「鮓屋における他者」をご覧ください。)これは確かに現代人の「鮓屋」の感じ方ではありませんが、時代物においては庶民の死はそのような扱いをされてきたということを知らなければ時代物の本質は決して分かりません。

世話物悲劇の誕生は、まさにこの認識から出発するのです。近松は庶民のための悲劇を創出するために、時代物悲劇の他者的構図を破壊する必要があったのです。 このことを時代浄瑠璃を完成した近松本人ほど に痛感した人物はいなかったはずです。世話物悲劇では庶民が主人公です。しかし、近松のように作劇を知り尽くした人間から見れば 、名もない庶民に悲劇に相応するだけの重さが不足していることは歴然としています。だとすれば庶民を主人公とする悲劇を書こうとするならば、本来それは悲劇の要件を満たさないのです。世話物悲劇は、時代物 悲劇の感覚からすると「不完全な悲劇」であるということになります。

世話物悲劇の不完全さはまず五段形式の破綻となって現れます。単純な一幕形式のドラマ、それが世話物悲劇の基礎となるのです。なぜならば庶民の状況がそれにふさわしいドラマ的な重さを持たないからです。多幕形式(五段形式)からすれば庶民の悲劇は素材として軽すぎるからです。結果として庶民の悲劇は 一段くらいがちょうど良い重さだということになります。世話物悲劇が一幕物となるのはそのためです。

次に世話物悲劇の不完全さは、状況を因果関係的に段取りを追って説明しないという形で現れます。主人公が悲劇的状況にあるところからいきなりドラマが始まります。ドラマは序破急のリズムで一気に展開していきます。時代物悲劇の主人公は状況のなかで自らの意思で決断し・結果として自ら破滅を選択することになる人物です。これは「出世景清」で他ならぬ近松自身が創始したパターンでした。一方、庶民の悲劇においては 幕が開いた時に既に主人公を追い込む過酷な状況があって、主人公が破滅を避けようとしてジタバタしてもその状況に大した変化はないのです。この点でも世話物悲劇は 、やはり「不完全な悲劇」であるということになります。

ここでツォンディが一幕物とは「拘束された人間のドラマ」であると規定したことを想起せねばなりません。この視点で「曽根崎心中」を見ると、お初徳兵衛には主体的な意思決定の場が奪われていると見ることもできます。彼らは状況のなかに放り込まれ・そのなかでおぼれ・あがきしますが、破滅することはあらかじめ決められています。主人公が破滅すること自体にドラマ(悲劇)はないということ です。破滅の過程でおぼれ・あがき・泣き・わめくところに世話のドラマ (悲劇)があるのです。そこに「これがわれわれのドラマ (悲劇)だ」と言える瞬間が近松にはあります。「曽根崎心中」の場合には、それは天満屋の場において、お初が「頼もしだてが身のひしで、騙されさんしたものなれども、証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。しななるが死ぬる覚悟が聞きたい」と叫ぶ場面にあることは言うまでもありません。お初はこのように叫ぶことで、本来主体的な意思決定の場が奪われたところから・逆にその権利を自分たちの方へ奪い返したということです。これが近松の世話物悲劇なのです。(この稿つづく)

(H23・7・4)


○近松世話物論・その5:ヴェリズモ宣言

人形浄瑠璃の絵番付で現存する最も古いものは、元禄16年(1703)5月竹本座で初演された「曽根崎心中」のものとされています。この番付上で人形遣い辰松八郎兵衛が次のように書いています。

『この度上演する曽根崎の心中の儀は京都におりました近松門左衛門が先月、ふっと大坂へ立ち寄りました時にこの事件に出会い、お慰みにもあろうかとこれを即浄瑠璃に仕立てたのでございます。もう既に歌舞伎でも上演されていてさほど変わるものでもありませんが、浄瑠璃では初めてでございます。』(現代語訳)

この辰松の口上では、作者近松は「ふっと大坂に立ち寄って」お初徳兵衛の心中事件に出会ったとあります。そして近松はわずか一ヶ月で「曽根崎心中」を書き上げたのみならず、それまでの活動拠点であった京都を捨てて・そのまま大坂に居ついてしまった というのです。それ以後の近松は竹本義太夫と提携して続々と傑作を送り出していったことは、ご存知の通りです。(この件については別稿「近松門左衛門・浄瑠璃への移籍」をご参照ください。 )それにしてもお初徳兵衛の心中事件に出会ったことが、近松にとっては大きな転機であったのだろうということは容易に想像できます。ここで吉之助は「道化師」のプロローグを思い出 すのです。

『作者はここで人生のひとコマを取り出して描いてみせようと試みたのです。作者はその信条として、役者も人間、そして作者は人間のために書かねばならないと念じているのです。それに 、これは本当の話からヒントを得ているのです。記憶の底にあったひとつの事件が、ある日作者の胸を震わせたのです。彼は本当に涙を流しながら・しゃくりあげながらこれを書いたのです。』(レオンカヴァルロ:「道化師」のトニオによるプロローグ)

作曲者レオンカヴァルロ自身の筆による「道化師」の口上は、そっくりそのまま「曽根崎心中」の口上にしても良いものです。レオンカヴァルロがオペラの題材にしたと語っている事件は作曲者が幼少期に身近で見たものとされてきましたが、その後の研究ではそっくりそのまま事実ということではなかったようです。近松の「曽根崎」が実説の心中事件後一ヶ月で一気に書かれたことは事実ですが、近松の「曽根崎」も実説そのままというわけではありません。それに近松の歌舞伎から浄瑠璃への移籍自体も、「ふっと大坂に立ち寄って」そのまま大坂に居 ついてしまったというような単純なものではなくて、もしかしたら事前に近松からの移籍打診とか・あるいは竹本義太夫からの引き抜き工作があったのではないかというのが吉之助の想像なのですが、まあそのこと自体はどうでも良いことです。近松のなかにじっくりと長い時間を掛けて・蓄積されてきたエネルギーやアイデアが、 曽根崎での心中事件をきっかけとして一気に噴出したものと考えた方が、むしろ自然ではないかと吉之助は思うわけです。それにしても「道化師」のトニオの口上は心を打ちます。これは高らかな「ヴェリズモ宣言」、つまり世話物宣言に他なりません。近松も本当に涙を流しながら・しゃくりあげながら、「曽根崎心中」を書き上げたのに違いありません。なぜならば、近松もまた、その信条として、役者も人間、そして作者は人間のために書かねばならないと念じているからなのです。(この稿つづく)

(H23・6・30)


○近松世話物論・その4:「道化師」のプロローグ

「道化師」は「カヴァレリア」より2年後の作品ですが、レオンカヴァルロが「カヴァレリア」の成功を聞いて興奮して・はやる胸を抑えきれず一気に書き上げたのが「道化師」です。台本もレオンカヴァルロの筆になるものです。「道化師」の冒頭(プロローグ)では登場人物のひとりトニオが登場して・口上を勤めます。

『このドラマは「流す涙は空涙・彼らが演じる苦痛も苦悩もご心配には及びません!」というものではないのです。それどころか、作者は人生のひとコマを取り出して描いてみせようと試みたのです。作者はその信条として、役者も人間、そして作者は人間のために書かねばならないと念じているのです。それに 、これは本当の話からヒントを得ているのです。記憶の底にあったひとつの事件が、ある日作者の胸を震わせたのです。彼は本当に涙を流しながら・しゃくりあげながらこれを書いたのです。というわけですから、この舞台では本物の人間が、愛し合う姿と憎しみの後の悲しい結末をご覧になるでしょう。そして苦しみに悶える声や怒りわめく声、あざけ笑う声を聞くことでしょう。ですから皆様方はこの私どものだぶだぶの道化マントに心を奪われず、私どもの魂というやつをお考えいただきたいのです。なぜと言って・私どもも骨と肉で出来ておりますし、この神から見放された地球のうえに皆様と同様に呼吸しているのですから。これでこの劇のポイントは申し上げました。ではいかになりますことやら・ご覧いただきましょう。』(レオンカヴァルロ:「道化師」のトニオによるプロローグの歌詞)

*Youtubeの映像で、レオンカヴァルロ:歌劇「道化師」のトニオによるプロローグをご覧下さい。シェリル・ミルンズのトニオ、指揮ジェームズ・レヴァイン、演出フランコ・ゼッフィレッリ、1978年ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場。名唱です。

「カヴァレリア」も同様ですが、「道化師」初演も圧倒的な賛辞を受けると同時に「悪趣味で・おぞましい」という非難の声が続出しました。三面記事的な血なまぐさい事件を素材にして・「軽薄な抒情と粗雑な効果を詰め込んだ素人作品」という非難まで出ました。こうした批判はオペラハウスの常連が王侯貴族・ブルジョアなど上流階級であったということに関係があります。彼らにとって田舎というのはのんびりとして・悲劇などないところ、牧歌的で素朴なコメディがふさわしい場所で あったのです。上流階級の方々は田舎の庶民の血なまぐさい刃傷沙汰などに興味はなかったのです。

主人公カニオもトニオも田舎廻りの旅芸人という社会から疎外されたところの存在です。トニオの口上にある「私どものだぶだぶの道化マントに心を奪われず、私どもの魂というやつをお考えいただきたいのです。なぜと言って・私どもも骨と肉で出来ておりますし、この神から見放された地球のうえに皆様と同様に呼吸しているのですから」という歌詞は重要です。これは旅芸人だって道化だって生きているんだ・人間なんだという宣言に他なりません。これはもちろん現代から見れば当たり前の主張ですが、しかし、こういうことは当時はあまり正面切って言えることではなかったのです。ですから作者レオンカヴァルロは冒頭に口上の形を取って・観客に対して注釈を加えたのです。カニオの口上のおかげで、「道化師」の悲劇は「実はあるところでこんなことがあったのです」というお話しの感じになって、ドラマは客観性を帯び 、その衝撃度はちょっと緩和されて・観客に受け入れ易いものになります。

このことは「曽根崎心中」での観音巡りの役割とも一致します。人形浄瑠璃を見る大坂の観客は主として町人階級ですが、お初は遊女であり・徳兵衛はいわば大坂商人の落ちこぼれでした。つまり観客にとっては正道をはずした人間であり・ 社会から疎外された人間であり、素直に感情移入することがはばかられる人間なのです。巷の事件の劇化・いわゆる際物を見る時、観客の方はある種の期待と先入観 ・あるいは偏見を以って芝居を見ようとしがちです。そのために近松が考えた仕掛けこそが 、観音廻りであったと思います。お初があの世から呼び出されて、そこで「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」であると宣言されます。観音廻りによって浄化されたのはお初の魂だけではありません。当時の大坂の観客たちの心もまた浄化されたのです。 (この稿つづく)

(H23・6・25)


○近松世話物論・その3:悲劇は「在る」

「歌舞伎素人講釈」では19世紀末の西欧のジャポニズムは・単なる異国趣味なのではなく、江戸は西欧の芸術家の進むべき方向を示したということを申し上げています。江戸は19世紀西欧の状況を先取りしたということです。この検証のため「歌舞伎素人講釈」ではオペラと歌舞伎の考察を意識的に行っています。これを見れば 、19世紀に見られるオペラの状況は、およそ100年から 200年先駆けて歌舞伎・浄瑠璃に既に起こっていたことだと分かると思います。本稿においては、ヴェリズモ・オペラと・近松門左衛門の世話物浄瑠璃 、特に「曽根崎心中」を対比しながら話を進めることにします。

近松門左衛門(承応2年・1653〜享保9年・1725)は、現代ではもっぱら世話物の作家として評価されています。近松の120編とも150編とも言われる作品のなかで世話物は24編にすぎません。当時の劇作家にとっての本領は時代物で あり、時代物で声名をとってこそ劇作家でした。ですから時代物作家としての近松の方を再評価すべしという意見もあ ります。その考え方に一理はあります。しかし、最近の吉之助は、近松は時代物という形式に飽き足らなかったのではないか・純粋な現代劇が書きたくて仕方なかったのではないかと思うようになりました。近松は純現代劇としての世話物を志向した劇作家であった。やはり近松は世話物作家であったと考えたいと吉之助は思うのです。

時代物浄瑠璃の形式は五段形式が基本となります。一方、近松の世話物は上・中・下の巻で構成される三部形式でした。この世話物の三部形式は「曽根崎心中」(元禄16年:1703:竹本座)で近松が創始したものでした。近松の世話物24作品のなかで の場割りは微妙に変わりますけれど、すべて三部形式が基本です。この世話三部の基本形式を近松がどのようにして発想したかについては確固たる定説がないようです。 広末保先生は「近松序説」のなかで近松の世話物の形式は時代物浄瑠璃の三段目を独立させたものであるという ことを書いています。時代物の三段目というのは、基本的に世話場とされています。例えば「菅原」の佐 多村(賀の祝)、「千本桜」の「鮓屋」を考えれば良いでしょう。世話物が三部から成る構成は、謡曲 などでのドラマの基本構成である「序・破・急」の骨格を採用しているわけです。

形式の外面的なところはそれで間違いないと思いますが、近松が世話物を創始することの 内的必然の説明にはなっていません。 どういう意図があって近松は世話悲劇を書いたのか、時代物の三段目を世話物の形式として独立させねばならなかったか、既成の五段形式でどうして世話物が書けなかったのか、そのような疑問に広末先生は答えてくれていません。歌舞伎研究の方はこういうことが気にならないのですかねえ。世話物悲劇を創始するに当たり近松が形式を変えたということは、そこに近松の創作の最も重要な意図が隠されているということなのです。そこで本稿では、どうして近松の世話物は三部形式でなくてはならなかったかを考えてみたいわけです。もうひとつ大事な問題は、世話物の三部形式が近松以後に定着せず・近松だけで終ってしまったということです。この点についても併せて考えたいと思います。

広末保:近松序説―近世悲劇の研究

結論から言えば、吉之助は、近松は純粋な現代劇(元禄・享保当時の人々のための同時代劇)を志向し、そのために時代物悲劇の五段形式を破壊しなければならなかったと考えているのです。そのために一幕形式のヴェリズモ・オペラの考察が非常に役に立つと考えます。

近松の世話物は三幕じゃないのかと言う人がいると思いますが・それは間違いで、これは時代物浄瑠璃の五段のうちの一段を取っているわけですから、概念的に一幕物であると考えるべきなのです。 一幕三場構成ということです。「カヴァレリア」は一幕ですが、途中に間奏曲をはさんで2場構成になっています。「道化師」は二幕のオペラとも見なされますが、幕間の間奏曲をはさんで休息なしで 全曲が上演されるもので、事実上は一幕 なのです。(作曲者レオンカヴァルロ自身は本作でリコルディ社の一幕物オペラ・コンクールに応募したくらいですから、「道化師」を一幕物オペラと考えていたことは疑いありません。ただし、本作がコンクールで落選したのは、選考でこれは二幕のオペラであると判断されたからでした。)ですから「カヴァレリア」も「道化師」も、間奏曲を構成に含んだ形での「序・破・急」の三部形式の一幕オペラであると考えられます。

まずツォンディが一幕物とは「拘束された人間のドラマ」であると規定したことを 考えて見なければなりません。近松の世話物とは、事実上一幕の悲劇であり、本来ならば悲劇の主人公であるべきではない庶民が主人公であるということです。一幕物の主人公においては演劇的状況は最初からそこに在り・主体的な意思決定の場は奪われているわけですが、「曽根崎心中」も またそうです。冒頭の観音巡りはプロローグに当たりますが、ここでお初と徳兵衛は心中する運命であることを予告し・芝居のなかでのお初の位置付けを「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」であると明確に提示します。素材としてのお初と徳兵衛の心中はその一ヶ月ほど前に起きた事件であり 、その結末を大坂の観客は誰でも知っていました。大坂の観客は、お初と徳兵衛が最後に心中することを承知の上で芝居を見たわけです。生玉社前でのお初と徳兵衛 の会話の中で出てくる・九平次に銀二貫目を貸す件も、既定の事実です。「曽根崎心中」では、悲劇は起こるのではなく・最初から「在る」のです。(この稿つづく)

(H23・6・23)


○近松世話物論・その2:拘束された人間のドラマ

本稿においては、ヴェリズモ・オペラは同時代的な下層民衆の喜怒哀楽をリアルに描いた一幕物オペラであると規定します。したがって、ヴェリズモ・オペラは「カヴァレリア・ルステカーナ」(マスカー二)と「道化師」(レオンカヴァルロ)の2作品のみという捉え方になります。

19世紀当時の演劇やオペラの常識は、悲劇はつねに多幕の形で提示されるべきものでるということでした。通常のパターンでは、悲劇は主人公の置かれた状況を 順を追って観客に十分説明し、何が主人公を悲劇に追い込んで行くか・その状況に対して主人公がどういう行動を取るか、これを因果関係的に追っていくことで、悲劇の段取りを論理的に積み上げていく過程を取ります。こうすることで主人公が悲劇的状況に陥ることを「然り・やむなし」と観客は納得することができる ということです。そのためにはいろいろ場面を変えて・視点を変えながら、主人公の状況を多角的に描き出していかねばなりません。ですから多幕形式でなければ・その悲劇的展開を十分に表現できないということになり 、一幕物は悲劇にふさわしい形式ではないとされたわけです。

一方、一幕形式の「カヴァレリア」においては、悲劇の発端(トゥリッドゥの不貞)は既定の事実で最初からあり、それは具体的には婚約者サントゥッツァの嘆きとトゥリッドゥとの喧嘩という形で示されるだけです。 またドラマの結末もあっけないものです。トゥリッドゥが不倫相手の夫と決闘して刺し殺された事実を知らされて、サントゥッツァが気を失ってその場に倒れるだけです。トゥリッドゥの決闘の場面は描かれません。つまり 通常の悲劇の段取りがここでは取られていません。悲劇は舞台上で起こるのではなく・悲劇的状況が最初からそこに「在る」のです。このことは次のように考えられます。「カヴァレリア」においては、通常の多幕形式に見られるところの・主人公が状況に対して決断し・行動し・そして悲劇的結末に追い込まれていくという・主体的な意思決定の場が奪われているということです。 主人公は状況のなかに放り込まれて・すでに身動きできないところにあるのです。

あるいは・こういう見方もあり得ます。多幕形式における主人公さえも、実は因果関係に縛られ・「動かされている」だけの操り人形に過ぎないのであるということです。 そのように考えれば「カヴァレリア」は悲劇がそこに「在る」という事実だけを直裁的に観客に突きつける点において 、より衝撃度が高いと言えます。まどろっこしい状況説明の場面がないだけドラマ展開が簡潔で早いからです。しかも、それは本来悲劇にふさわしくないとされた・田舎の民衆の悲劇なのです。

ドイツの演劇評論家ペーター・ツォンディは「現代演劇論」において、一幕物とは「拘束された人間のドラマ」であると規定しました。ツォンディは「カヴァレリア」など一幕物のヴェリズモ・オペラが盛んに書かれたのとほぼ同じ時期(19世紀末)に、アウグスト・ストリンドべリが一幕物の芝居を書いたことに着目し ています。ストリンドべリ自身はそのエッセイのなかで一幕物芝居のことを「今日の人間の戯曲のための形態」と呼んだそうです。これは上記の「カヴァレリア」のことを考えればわかります。一幕物の主人公においては演劇的状況は最初からそこに在り・主体的な意思決定の場は奪われているのです。それは19世紀末の西欧の閉塞した精神的状況から来 ているわけです。(この稿つづく)

(H23・6・19)


○近松世話物論・その1:庶民の悲劇

「ヴェリズモ(Verismo)」とは自然主義・現実主義という意味のイタリア語です。19世紀末にフランスの作家エミール・ゾラを中心として展開した自然主義文学運動のことを、イタリアにおいてはヴェリズモと呼びました。イタリアでの自然主義作家ではジョヴァン二・ヴェルガが指導者的な位置にありました。その代表作が「カヴァレリア・ルステカーナ(田舎の騎士道)」(1880年)です。 その10年後・1890年、この小説がピエトロ・マスカー二によってオペラ化されて大変な評判を取りました。(正確に言えば小説ではなくヴェルガ本人が4年後に書いた戯曲版がオペラ台本の基礎になっています。)その後・本作にあやかる形で一幕物のヴェリズモ・オペラが相次いで登場しました。しかし、現在ではそのほとんどが忘れられて、今日ではヴェリズモ・オペラのなかでマスカーニの「カヴァレリア・ルステカーナ」とルッジェロ・レオンカヴァルロの「道化師」(1892年)の2作品だけが一般に知られています。なお広義においては多幕物の「トスカ」(プッチーニ)、「アンドレア・シェニエ」(ジョルダーノ)、「アドリアーナ・ルクヴルール」(チレア)などもヴェリズモ・オペラに包括されることがありますが、厳密に定義するならばヴェリズモ・オペラは一幕物が基本的な形態であり、なおかつ同時代的な下層民衆の喜怒哀楽をリアルに描いたオペラのことを指すわけです。

ただしオペラの「カヴァレリア」は文学でのヴェリズモ運動がきっかけで生まれたことは事実ですが、オペラのヴェリズモ運動は文学上のそれとまったく異なる展開を示しました。オペラのヴェリズモは、ほとんど一発花火で終わってしまったのです。プッチーニはヴェルガの別の小説「雌狼」のオペラ化を出版社のリコルディに勧められてシチリアに取材旅行に行ったりしましたが、「旋律になる素材を得られなかった」として作曲を断念しました。マスカー二もレオンカヴァルロも後が続きませんでした。結局 、「カヴァレリア」と「道化師」以外のヴェリズモ・オペラは成功しなかったのです。その後のヴェリズモの理念は、歴史的な題材あるいは遠くかけ離れた世界を舞台にしたもので展開していきます。例えば「アンドレア・シェニエ」はフランス革命が舞台です。「トスカ」・「アドリアーナ・ルクヴルール」も歴史的な題材を扱っています。「蝶々夫人」(プッチーニ)は日本が舞台、「西部の娘」(プッチーニ)は開拓時代のアメリカ西部が舞台です。オペラにおいては同時代の自然主義文学の題材は続かなかったのです

ともあれ無名の若手作曲家マスカー二の歌劇「カヴァレリア・ルステカーナ」はすさまじい評判で迎えられました。1891年ドイツ語によるウィーン初演を聞いて、当時もっとも重要かつ非常に恐れられていた批評家であったハンスリックは、次のように書いています。

『ヴェルガによる原作の劇的な力と大衆性が、このオペラへの強力な予備工作となっているのである。事実・このオペラは台本的に非常にユニークである。一幕形態の田園的ジングシュピールと聞けば、誰しも明るい・牧歌的なドラマを期待するだろう。ところが「カヴァレリア・ルステカーナ」は小悲劇 、荒々しい情熱と血生臭い結末を持った田園悲劇に他ならないのだ。』(エドゥアルト・ハンスリック:1891年)

ハンスリックの指摘はとても重要です。「カヴァレリア」以前の一幕物オペラというのは、もっぱら明るい題材・つまり喜劇と相場が決まっていました。一幕物専門の劇場はコミック・オペラかジングシュピールを上演したものでした。悲劇のようなシリアスな題材はつねに多幕の形で提示されたのです。ギリシア悲劇以来、悲劇的な題材というものは、首尾一貫した筋の展開により因果関係を描かねばならず、ある一定の形式的な手続きを経なければならぬものとされており、だから悲劇はつねに多幕物とするのがお約束でした。一方、一幕物という形式は悲劇に対応するだけの十分な空間を提供し得ないと考えられていたのです。もうひとつ大事な点は、悲劇は神話・歴史上の人物が背負うものとされていたことです。庶民が主人公となるものは、明るい喜劇でなければなりませんでした。庶民は悲劇の主人公に似合わないとされていたのです。ところが「カヴァレリア」では西欧での外れの地域・シチリア島の庶民の悲劇が描かれています。つまりマスカーニの「カヴァレリア」の成功はオペラの常識をひっくり返したのです。(この稿つづく)

*本稿の考察はエゴン・フォスの論考『オペラ・ジャンルとしての悲劇的田園物語〜「カヴァレリア・ルステカーナ」におけるヴェリズモについて』を参考にしています。(名作オペラ ブックス・27に収録)

名作オペラブックス(27)カヴァレリアルスティカーナ/道化師(音楽之友社)

(H23・6・15)


世話物のなかの時代

平成22年9月・新橋演舞場:「伊賀越道中双六」〜「沼津」

中村吉右衛門(十兵衛)、中村歌六(平作)


○世話物のなかの時代:その4

「沼津・千本松原」において「世間が許さない・やってはならないことを・自分の責任において私はやる」という時代の感覚を如何にして描き出すか。それは結局、「沼津」での十兵衛の悲劇を共感できるものにできるかという問題なのです。同情ではなく、共感です。十兵衛を「封建倫理に振り回された可哀想なひとだなあ」と見るのではなく、「覚悟して人の在るべき道に殉じた人であったのだなあ」と見る というのでは違うということです。

吉之助が生(なま)で見た十兵衛では、二代目鴈治郎の演じた十兵衛が、時代の感覚を能動的なベクトルで実感させる十兵衛であったと思います。昭和43年1月歌舞伎座での映像(二代目鴈治郎の十兵衛、十七代目勘三郎の平作、吉之助が生で見たのはもうちょっと後の時代の鴈治郎ですが)が手元にあるので、これを見てみます。鴈治郎は「ハテ、どこに誰が聞いてゐまいものでもなけれど・・・」という台詞を言い始める時に、父親の両肩をがっしりとつかんで・正面を向いて胸を張り、さらに踏ん張った左の脚をほぼ直角に大きく左に張り、舞台正面から見て身体を精一杯大きく見せた構えを取ってい ます。 編笠を平作に差し出してすっくと正面に決まる鴈治郎の形が、これも実に良いですねえ。鴈治郎は決して武張っているわけではないのに、勘所をさりげなく時代に決めているので、その印象が隠し味となって強く残るのです。鴈治郎は台詞の調子も時代の方に取り、憂いや泣きの調子をまったく入れません。その台詞は平作に対して(あるいは傍で聞いているお米に対して)言われるというより、自分を鼓舞し・叱咤するために言われていることが明らかです。つまり、それは時代の表現なのです。

鴈治郎は小柄な人でした。これは役者としては・特に時代物を演じる場合には不利な条件です。しかし、画面を見ると、立派な体格をしている吉右衛門や仁左衛門より身体がずっと大きく見えます。映像で比較するとよく分かることですが、吉右衛門も仁左衛門も平作 の方に気が入って・平作を抱く形が舞台正面から見て身体が斜めに崩れており、形が世話に流れています。平作に網笠を差し出す時の決めのポーズも世話に崩れています。つまり、大きな身体を大きく使えていないということです。 感情を表現しようとして身をよじるのもいけませんね。それに全然違うのが、台詞の調子です。吉右衛門も仁左衛門も台詞に泣きが入っており、「言おうとしても言葉が出てこない」という感じを表現することに意識が行っています。だから必然的に台詞の調子が弱くなってきます。まあ良く言えば表現が情の方に傾いているということです。多分「沼津」は世話物だという意識がとても強いのでしょうねえ。だからこの場面の切なさがツーンと鼻に来る厳しい表現に ならないのです。

鴈治郎の台詞を更に聴いて見ます。鴈治郎の十兵衛は「世間が許さない・明かしてはならないことを・自分の責任において私は言う」ということを、ある決意のもとに言おうとしているのです。ですから、その台詞は腹から搾り出すように・強い調子で言われます。そのように自分を鼓舞しないと、その台詞(股五郎の行き先を明かすということ)は決して言えぬということです。さらにここがポイントであると思いますが、そうではあっても十兵衛は武士ではなく・商人なのですから、覚悟があると口では言っても・やっぱり死ぬことは身が震えるほど怖いということです。だから台詞の基調は時代であっても、完全な時代の表現にはできないということなのです。「沢井股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」までは鴈治郎の台詞の調子は時代の方に強く言いますが、「・・道中筋は参州の吉田で逢うた、と人の噂・・」では声の調子が途端にワナワナと震え出し・テンポが早くなって、最後まで強く言い切ることが出来ません。そして十兵衛はたまらなくなって「(親仁さん)これで了見して下んせ」で突っ伏してしまいます。覚悟を以って股五郎の行き先を明かしたものの・迫り来る運命の刃を感じて、十兵衛は身が縮む思いなのです。侠気がある男ではあっても、所詮十兵衛は町人なのです。そして「親父さん、これで了見して下んせ」と突っ伏して、ここで初めて十兵衛は平作の息子に返ります。このような十兵衛の心の動き・心理の綾が、鴈治郎の映像を見れば生々しく実感として分かります。

ところで最後の「親仁さん、これで了見して下んせ」というのは歌舞伎の入れ事で、丸本にはないものです。しかし、この台詞を入れたのは歌舞伎の知恵だと思いますねえ。確かに文楽の方が時代の厳しさが沁み ますが、股五郎の行き先を明かしてしまえばもう時代はスッ飛んでしまって、二人の間に何も制約はありません。この歌舞伎の工夫はなかなか情味があるもので、後の十兵衛の「・・・親仁様、親仁様、平三郎でござります」への段取りがとても取りやすくなると思います。これを工夫した歌舞伎の狂言作者は十兵衛の心理をとても良く理解していると思います。

もうひとつ付け加えると、鴈治郎はこの場面を大時代に演じているわけではなく、もともと上方和事を本領とする役者ですから、時代の強さが持ち味の柔らかさに抑えられてちょうど良い塩梅になって来るのです。吉右衛門や仁左衛門の場合は体格も良く・時代物が得意な役者ですから、あまり時代に張ってしまうと十兵衛が武士に見えかねないでしょう。あくまで十兵衛は町人ですから、さりげなく要所を決めることで時代の感覚を出す・そういうことを心掛けてもらいたいのです。それはホンのちょっとの工夫です。まず台詞に泣きを入れず、泣きで身をよじるような表情を見せないことです。次に平作を抱くところ、網笠を差し出すところはしっかり正面向いてまっすぐ立つことです。それだけで千本松原の印象はぐっと締まって来るでしょう。

「沼津」は全体としては確かに世話場ですが、それを悲劇に彩るものは時代です。世話場の悲劇においては、そのようなものは最初から顔を出していることはないのです。それはドラマのある局面において、突然ぬっと顔を出し来て、登場人物をアッと言う間に連れ去ってしまいます。後には愁嘆場だけが残されます。だから愁嘆場を世話の悲劇だと誤解する人が多いようですが・そうではなくて、登場人物が何と対峙しているのかを見詰めなければなりません。歌舞伎においては、そのようなドラマの様相は世話と時代の生け殺しによって表現されます。基調が世話であるなかに時代の重い表現をグッと入れて色合いを変える、あるいは基調が時代のなかに世話の軽味をサッと織り交ぜて流すといった技法です。吉右衛門や仁左衛門も、そのところをもうちょっと工夫すれば、「沼津」 の十兵衛の悲劇はもっとくっきりと彫りの深いものに出来ると思うのですがねえ。

(H23・6・12)


○世話物のなかの時代:その3

平成22年9月・新橋演舞場での「沼津・千本松原」での吉右衛門の十兵衛を見ますと、全体に泣きが強過ぎるように思われます。「股五郎が落付く先は九州相良・・」と言う間にも、泣きの感情がこみ上げてきて言葉がうまく出てこない、苦しくて身もだえしてしまう、そのような十兵衛なのです。生き別れて・ひょんな形で再会した親父さんが目の前で腹を切って死にかけていて、悲しい。しかも、自分が仇討ちの敵の側にあって、死んでいく親父さんがその敵の行方を明かせと責めるから、辛い。あんなこんなで、敵の行方を明かさなきゃならぬから、泣けてくる。まっ、そんな感じでありましょうか。確かに「悲しい・辛い・泣きたい」という気持ちは舞台から伝わってきます。だから一応の芝居にはなります。しかし、大事なことは、この場面においてこの親子が対峙しているものは一体何かということなのです。それがこの場面を悲しく・辛く・泣きたいシーンにしているはずです。その正体が全然見えて来ません。吉右衛門は目の前の親父さんひとりを相手にして泣いてますね。

「ハテ、どこに誰が聞いてゐまいものでもなけれど・・・」という時から「沼津」の芝居がまったく違う局面に入ったということが、何だかふにゃふにゃして明確に見えてこないのです。台詞が泣きでブツブツと中断して・よじれたりして、キッパリしない。あるいは、脇差を腹に刺して突っ伏している親父さんの両肩を抱きかかえて台詞を言う時の十兵衛の形ですが、意識が親父さんの方だけに行っていますから、形が世話(写実)に崩れてしまっている。親父さんに網 笠を差し出して「股五郎が落付く先は九州相良・・」という形も同様にキッパリしない。

ただし、これは実は吉右衛門だけの問題ということではありません。最近の「沼津・千本松原」はそのような形で処理されることが多いようです。例えば平成22年12月・京都南座での「沼津」の仁左衛門の十兵衛も、性根の捉え方は似たところにあって、やはり泣きが強い十兵衛になっています。仁左衛門も目の前の親父さんひとりを相手にして泣いてますね。それは時代の感覚を「私はホントはそれを言いたくない・しかし私はそれを無理に言わされる」というような・ネガティヴな方向に取るからです。ここに現代の歌舞伎の世話物悲劇の捉え方の共通した問題が潜んでいると思うのです。

まあ、ともあれこれもひとつの解釈としてはあるということではあります。そのような解釈の根拠となるものは、恐らく見取り狂言(ひと幕物)としての「沼津」は世話物であるというところにあるのだろうと思います。封建論理に本来無縁であるはずの庶民さえ巻き込んで彼らを翻弄する・仇討ちという・この非人間的な論理、ということになりましょうか。そのために世話物の本質、写実である・自然であるということが、演技様式的にことさらな意味を持ってくるわけです。泣きの十兵衛はそのような根拠を持っているのです。なるほどそれも分からないことはないですが、吉之助に言わせれば、その考え方は筋の枝葉・シチュエーションにこだわりすぎているのです。シチュエーションが「沼津」の悲劇だと思っている。だからそういう解釈になるのです。

これについては、吉之助はこのように申し上げたいと思いますね。確かに「沼津」は世話物であることに間違いありません。しかし、同時に仇討ち物でもあるのです。実説の荒木又右衛門の伊賀上野の仇討ちということを忘れるとしても、あるいは「伊賀越道中双六」全体の流れを忘れて・見取り狂言としての「沼津」だけを見るとしても、仇討ち物であることを忘れてしまったら、「沼津」のドラマの本質は見失われてしまうのです。逆に言いますと、そのドラマの本質がしっかり掴めてさえいれば、「沼津」が仇討ち物であることの意味が、クドクドと粗筋など説明しなくても・パッと感覚で分かるということです。それは、つまり、「ああ、彼らはそういう厳しい現実のなかで必死で生きていたんだ」ということなのです。この点をしっかり押さえて置きさえすれば、「沼津」は正しく描かれるということです。

現代から見れば、封建制で仇討ちが横行した時代の悲劇なんて・「何を馬鹿やってんの」ってなもんで、ちゃんちゃらオカシイと思います。こういう芝居を真面目に見るのは馬鹿らしいと感じるのも、当たり前だろうと思います。彼らがそのように感じるのは、お芝居の筋の枝葉・シチュエーションだけを見ているからです。しかし、「彼らはそのような厳しい現実のなかで必死で生きていた」ということをしっかり描けていれば、「ああ、たとえシチュエーションは異なっても、いつの時代にも同じような悲劇はあるものなのだなあ」と、観客は素直に感じるものだと思うのです。現実に現代にも似たようなことがたくさんあるからです。そのためにはシチュエーションを消し飛ばさねばなりません。そのためには時代の感覚を「世間が許さない・やってはならないことを・自分の責任において私はやる」という能動的な・ポジティヴなベクトルにおいて表出せねばならないのです。(この稿つづく)

(H23・5・29)


○世話物のなかの時代:その2

呉服屋十兵衛は沢井家に数年来出入りしていた商人でした。沢井家主人城五郎から股五郎を匿(かくま)ってくれと頼まれて、十兵衛は「多年の御恩報じなれば、ちつとも御心置かれますな。町人でこそあれ心は金鉄。二人や三人は苦には致さぬ。腕に請け合ひけちりんも、掛値は申さぬ」と言って承知します。 (円覚寺の場)この時に股五郎が沢井の家に伝わる南蛮伝来の妙薬の入った印籠を十兵衛に手渡します。 股五郎が印籠を十兵衛に渡したということは「俺の命をお前に託したぞ」ということです。これが後の「沼津」の場で登場する印籠なのです。

股五郎が印籠を十兵衛に渡して助力を乞うたということは、つまり、これは男と男の契約ということです。町人が武士から見込まれるほどですから、十兵衛は相当に男気のある男 なのです。江戸初期の仇討ちというのは追う側と追われる者の意地の張り合いでした。元々の争いの原因が何か・どちらが悪かったかなんてことは全然関係ないところで、双方の一族郎党が一団となって「この者が討たれれば(あるいは返り討ちされれば)我々一族の名折れになる」と言って二手に分かれて熱くなって喧嘩する「かぶき者」の一大イベントであったのです。そのような仇討ちの渦のなかに、よせば良いのに町人の十兵衛が自ら飛び込んでいくわけです。仇討ちと言えば武士のイベント、町人の自分に大きな火の粉が飛んでくることはあるまいと、十兵衛は思っていた のかも知れません。しかし、結局、これがとんでもないことになるのです。

江戸初期は男の一分(いちぶん)を重んじた時代でした。男と男の契約ということがとても重い時代でありました。股五郎が「俺の命をお前に託したぞ」と言って沢井家の紋の入った印籠を渡したということは、この契約を破るということは絶対に許されないということ です。沢井家が許さないということではなく、世間が許さないのです。契約を破ってしまったら、もう真人間としてこの社会で生きていけないということです。そのような厳しい倫理道徳の世界に十兵衛は生きています。まして十兵衛は世間の信用が命よりも重いとする商人ですから、そのような観念が人一倍強いわけです。しかし、ホントに白刃の危険にさらされるとすれば、そこは町人のこと、そこまでの覚悟は出来てはいないかも知れません。いざとなればガタガタ震えてしまうかも知れません。

しかし、「沼津」幕切れ・千本松原の場で、十兵衛は平作に「股五郎が落付く先は九州相良・・」と秘密を明かしてしまいます。平作が十兵衛が生まれる間もなく里子に出されて生き別れた実の親であり・その親が敵の行方を教えてくれと命を捨てて頼むから・やむなくこれを明かすわけです 。これが「沼津」のドラマの核心ですが、股五郎の側から見れば・これは男と男の契約を破棄したということです。もちろんそのことを承知の上で・十兵衛はこれを明かす(つまり契約を破棄する) わけですが、十兵衛はもう人間としてこの社会で生きていけない・死ぬしかないということを覚悟して、平作に股五郎の行方を明かすということです。このことは後段 ・伏見の場を見れば、はっきりと分かります。十兵衛は志津馬の前に飛び出して・わざと斬られます。そして、死ぬ寸前に政右衛門に股五郎一行の道筋を明かし、妹お米のことを頼んで絶命します。つまり、これは自裁ということです。このような決着の付け方しか十兵衛には もはや残されていなかったということです。 だとすれば十兵衛が「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」ということを、どれほどの決意を以って言ったかは想像に難くありません。

一方、十兵衛の脇差で自らの腹を刺して・「おりや、こなたの手にかかつて死ぬるのぢや。こなたと俺とは敵同士、この親仁を殺したれば、頼まれたこなたの男は立つ。コレこの上の情けには、平作が未来の土産に、敵の在処を聞かして下され」と息子を責める平作のことを考えてみます。 確かにずいぶんと酷い話なのですが、結局分かることは、この親父はこの方法しか考え付かなかったのだろうということです。(別稿「理を非に曲げても言わせてみしょう」をご覧下さい。) 十兵衛が世間の義理に縛られているのと同様、こんな片田舎に暮らす平作もまた仇討ちの論理に強く縛られています。そのために生き別れになった親子が素直に名乗ることさえ許されないのです。

ですから「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」という十兵衛の台詞は、「世間が許さない・やってはならないことを・自分の責任において私はやる」という能動的な・ポジティヴなベクトルにおいて読まなければならないのです。平作・十兵衛の親子は、かぶき的心情によって世間の義理や柵(しがらみ)といった人間を縛る非人間的な存在の打破を叫ぶのです。(この稿つづく)

(H23・5・24)


○世話物のなかの時代:その1

「ハテ、どこに誰が聞いてゐまいものでもなけれど、十兵衛が口から言ふは、死んで行くこな様への餞別、今際の耳によう聞かつしやれや。股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。道中筋は参州の吉田で逢うた、と人の噂」

「沼津」幕切れの親子の別れの場面での十兵衛の床本の台詞です。離れ離れになっていた親子が偶然のことから出会い、お互いがそれと分かった時には敵討ちの敵同士であったという悲劇です。こんなに愛し合っているのに・この親子はどうしてこんな哀しい別れ方をせねばならぬのか・・・と切なくなります。そこに敵討ちという行為の非人間性が浮き彫りにされるということです。それにしてもこの「沼津」という芝居はいくつもの偶然が積み重ねって・幕切れの親子の別れに至るという・実に作為的な悲劇です。(これについては別稿「理を非に曲げても言わせてみしょう」をご参照ください。)恐らく浄瑠璃作者・近松半二は「沼津」を幕切れから構想し、幕切れに向けて段取りを積み上げていったのだろうと思います。

ということは「沼津」は幕切れがすべてだということです。大詰・千本松原での「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」という十兵衛の台詞に向けて悲劇が構築されているということです。しかし、吉之助が思うには、近年の「沼津」の舞台はどれもこの大詰・千本松原の感動がいまひとつではないかと思うのですねえ。小揚げが楽しい舞台はいくらもあります。平作内もそれなりに良いものは多いと思います。しかし、どの舞台も千本松原の感動がいまひとつなのです。最後に親子の別れの切なさがもっと強く、ワサビのように鼻にツーンと来るようであってもらいたいなあと思います。今回の・平成22年9月・新橋演舞場での「沼津」の舞台もその例外ではなく、やはり千本松原が物足りません。それは何故かと言うと「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」での台詞の時代の表現が十分でないからであると思います。ここを工夫すれば舞台の印象はガラリと変わると思うのですがねえ。本稿ではそのことを考えます。

歌舞伎の表現の妙味というものは「世話と時代の生け殺し」であるということは、よく言われることです。基調が世話であるなかに時代の重い表現をグッと入れて色合いを変える。あるいは基調が時代のなかに世話の軽味をサッと織り交ぜて流すといった工夫です。これが十分でないと、歌舞伎の面白さというのが出て来ません。「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」というのは世話場のなかの時代の台詞です。だから、この台詞は「沼津」は幕切れの感動を左右する大事の台詞です。もちろん「沼津」は世話物であり、十兵衛も平作も武士ではありません。ところが、武士でもないふたりの背後に敵討ちという時代の論理が圧し掛かって来ます。敵討ちの敵同士だという意識が、離れ離れになっていた親子が再会の喜びを素直に分かち合うことを完全に阻んでしまっています。逆に父親は自ら腹を切って・息子に敵の行方を無理矢理に白状させるような事態になってしまいます。このような悲劇を作為的だと感じて好まぬ方は 少なくないと思いますが、生まれ育った社会環境であるとか・柵(しがらみ)であるとか、自分の力でどうしようもない大きな力によって左右されるという意味において、人間の生というもの自体が何かの力で作為的に動かされているものだと言えるのはないでしょう かね。儒学者の息子であった近松半二はこのことを明確に意識して作為的な悲劇を書いたと思います。

それでは近年の役者が「沼津」大詰・千本松原において時代の要素を意識していないかと言えば、決してそんなことはないでしょう。敵討ちという・封建社会の非人間的論理が市井の人間に襲い掛かって来るということは、どの役者も十分過ぎるくらい意識していると思います。問題はその意識のベクトル(方向性)の持ち方にあると思います。近年の役者は、誰でもそうだと思いますが、 沢井家に恩義がある十兵衛は股五郎の行方を明かしたくない 、明かしたくないのだけれど、目の前で父親が腹を切って・敵の行方を明かせと責める、だから父親に対する愛情から・親に対して不孝をするわけにいかないから、明かしたくないけれども・十兵衛はやむなくこれを明かすという風に解釈していると思います。そこに十兵衛の悲劇を見ているのです。つまり、「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」という台詞を言う時の十兵衛役者の気持ちに、時代への意識がネガティヴな方向に作用しているということです。「私はホントはそれを言いたくない・しかし私はそれを無理に言わされる」ということです。

このような読み方は、時代の解釈として決して間違いということでもありません。そういう解釈ももちろんあり得ることです。「私はホントはそれをしたくない・しかし私はそれをさせられる」という悲劇は、確かに浄瑠璃・歌舞伎にはとても多いように 見えます。「寺子屋」でも「熊谷陣屋」でも、そういう解釈ができるかも知れません。時代物の悲劇を「私はホントはそれをしたくない・しかし私はそれをさせられる」という風に読むことは、封建社会の論理・あるいはもっと大きな歴史の律の論理が作品世界の前提としてあって、そのような抗し難い圧倒的な存在に対する・個人というちっぽけな存在を考えれば当然なことに思われますから、さほど違和感なく悲劇を解析できるだろうと思います。ですから階級闘争理論によって歌舞伎を読むということも、時代物の場合にはまあ割合とすんなりと来るわけです。

しかし、世話物の場合には「私はホントはそれをしたくない・しかし私はそれをさせられる」という風に悲劇を意識すると、逆に解釈に無理をきたすことが少なくないのです。それは何故かと言えば世話物では、時代物と比べれば、作品世界のなかでの社会の論理・歴史の論理という雰囲気がはるかに希薄であるからです。そうしたものは作品の前提として顔を出していないことが多く、時代はドラマの転換点の・核心になるところに突然に・まったく唐突に・主人公も観客も予期しないところで・急に顔を出す場合が多いのです。そして、それがその後のドラマの展開を決定的に左右します。それが世話物のなかの時代なのです。「沼津」における時代もそういう形で出て 来ます。それではそのような世話物の悲劇をどう読めば良いかということですが、これはかぶき的心情において読まなければならないのです。すなわち、「許されないこと・やってはならないことを・自分の責任において私はやる」ということです。時代への意識を、主人公に一線を越えさせることへのポジティヴな方向に読まなければならないのです。このことが十兵衛役者の「股五郎が落付く先は九州相良、九州相良。・・」という台詞をどのように変えるかをさらに考えます。(この稿つづく)

(H23・5・15)


女武道としての玉手御前〜菊之助初役の玉手御前

平成22年12月・日生劇場:「摂州合邦辻」〜「合邦庵室」

尾上菊之助(玉手御前)、尾上菊五郎(合邦道心)


○女武道としての玉手御前・その7

「摂州合邦辻」で玉手御前がその乱行の真意を告白し、「コレ申し父様いな、何と疑ひは晴れましてござんすかえ」と言った後、父・合邦が「オイヤイオイヤイ・・」と応える場面は、文楽でも難しい 箇所と言われています。その昔、三代目大隅大夫がこの「オイヤイ」のところをやったところ・師匠の三味線の竹澤団平が受けてくれない。何度も「オイヤイ」を言うのだけれど、全然受けてくれない。大隅大夫はがむしゃらに「オイヤイオイヤイ・・」を叫んでいましたが・そのうち酸欠になったか気が遠くなって見台で頭を打った。それで ハッと気が付いて「オイヤイ」と言ったら、やっと団平が受けてくれたという話があるそうです。団平と大隅大夫の芸話というのはこういうものばかりですね。この逸話の教えるところは、この場の合邦の気持ちは「(娘を刺した)自分は取り返しのつかないことをしてしまった」という悲痛と同時に、早まってしまった自分に対する情けなさであるということです。いずれにせよ・この合邦の「オイヤイ」のところは、歌舞伎でもとても重要視されている箇所です。十三代目仁左衛門の最後の合邦が懐かしく思い出されます。

ところが、今回の舞台で合邦を演じた菊五郎は、この場面を合邦ひとりの演技ではなく・玉手御前と合邦との掛け合いに作り変えて、「父さん・・」「・・オイヤイ」「父さん・・」「・・オイヤイ」・・というように変えてしまいました。合邦の一番の為所(しどころ)と言うべき場面をこのように変えたことは、ある意味でとても損なことで吉之助はちょっと驚いたのですが、菊五郎の合邦にはこのやり方が意外と似合うのですねえ。父と娘との絆(きずな)を互いに確認をしながら、そのやり取りのなかから玉手御前が浄化されていくように感じられます。とても情味があって、これはなかなか悪くないなあと思いました。吉之助は、実は菊五郎初役の合邦は前半が頑固一徹な印象が弱い感じでちょっと不満に感じていたのです。「口では厳しい事を言っているけれども・内心は娘の事が心配で心配で仕方がない」という情の要素が仕草にしばしば出るので、これではカッとして娘を刺しにいく必然が取りにくいと、吉之助は前半を辛口に見ていたのですが、なるほどこういう情味の強い合邦ならば・こういう「オイヤイ」の処理の仕方もあるかも知れないなあと、最後は妙に納得した気分にさせられました。この「父さん・・」「・・オイヤイ」の処理は、今回の菊之助初役の玉手御前の段取りのなかでとても重要な位置を占めるものだと思います。父・合邦の認知がない限り、玉手御前がその清らかで美しく貞節であるという女性本来の本質を明らかにすることは決してないからです。モドリというのは、悪人と見えた人が実は善人であったというサプライズだというのはそれは表面的なことで、モドリの本質というのはその善人の本質が確かにその通りであると認めてくれる・その価値のある 人物を心底求めている・その人物だけが自分を本来の姿に戻すことができるということなのです。玉手御前にとってその価値のある人とは父親・合邦にほかなりません。「父さん・・」「・・オイヤイ」のやり取りは情味があって、 女形のモドリにとてもふさわしいと思いました。

それにしても、今回菊之助が初役で玉手御前を演じるに当たって、演出についてどのような議論が菊五郎・菊之助親子の間で交わされたのかそれは分かりませんが、この親子はなかなか良い関係であるなあと思いました。玉手御前はお祖父さん(七代目梅幸)の当たり役、お父さん(当代・七代目菊五郎)の玉手御前も好評でありました。菊之助が同じようになぞって演っても・それだけでもそれなりの評判を取るであろうに、今回菊之助が独自の考えを入れた玉手御前を見事に演じきったこともそのセンスの良さも含めて素晴らしいことだと思いますが、それを父親である菊五郎が傍から見守って、まあ多少の駄目押しはしたかも知れませんが、「お前がそう信じるなら、お前の思うところをやってみな」と黙ってそれに付き合うというのも、なかなか出来ることではないなあと思いました。思えば「NINAGAWA十二夜」の舞台でも同じことが感じられたものでしたが、イヤこれは良い親子であるなあと吉之助はとても嬉しく思ったものでした。

(H23・5・5)


○女武道としての玉手御前・その6

説経「しんとく丸」のことをもう少し考えます。詳しくは岩崎先生の著書をお読みいただくとして、しんとく丸が業病になるまでの大まかな筋を記しますと、説経の伝えるところではしんとく丸の父母は前世はそれぞれが山人と大蛇であり・前世に犯したその罪によって長者夫婦は現世において長く子が出来ないでいました。夫婦は清水観音に祈願し、子供がある年齢に達した時に両親のどちらかが命を失なうという条件で子宝を授かりました。それがしんとく丸なのです。しかし、慢心した母は神仏への恩を忘れ、神仏に向かって非礼の言葉を吐いてしまいます。怒った観音は母の命を奪います。母の代わりに後妻として迎えられた継母は自分の子に家督を継がせようと企みます。継母の讒言によってしんとく丸は父に見放され、さらに継母の呪詛により業病の身となって天王寺に捨てられます。

岩崎武夫:さんせう太夫考―中世の説経語り (平凡社ライブラリー)

ここで大事なことは、「しんとく丸」の筋は仏教説話の因果応報の律に則っているようだけれども、当のしんとく丸にはまったく罪がないことです。罪があるとするならばそれは両親の罪なのですが、親の罪を贖(あがなう)ために無垢なしんとく丸に酷い運命が課せられているということです。もうひとつは清水観音は長者夫婦の願いを聞きいれてしんとく丸を子として授けておきながら、今度は一転して邪悪な継母の呪詛の願いを聞き入れてしんとく丸を業病にして乞食の身に落としてしまうことです。しんとく丸がこの世に生まれたのも観音様のおかげなのですが・しんとく丸を業病にしたのも観音様であり、しんとく丸を汚辱のなかから救い上げるのもまた観音様なのです。観音様に善悪の区別が全然ないように見えます。しかし、これを観音様の二面性と呼んで良いのかどうかは分かりません。善悪という尺度自体が立場が変われば逆転してしまうような生臭く愚かな人間側の尺度なのであって、観音様には元々そういうものがないのかも知れません。それはもっともっと奥が深いものに違いありません。観音菩薩といえば慈悲の心を以って衆生を救うために相手に応じてさまざま姿に変身して現れるとされます。観音様のご意志はいろんな業(わざ)で現れるということです。しかし、物語・あるいは芝居の形式を取る場合においては観音様の最終的な業こそがそのご意志を示すものとなるということはもちろんのことです。このことは「摂州合邦辻」の玉手御前の行為、俊徳丸を業病に落とし・最後に自分の命を捨ててこれを救うという行為にも重ねられます。どちらもが玉手御前の真実の姿なのです。そこに玉手御前の慈悲の心のふたつの有り様が現れているということですが、その最終的な姿こそ芝居においては重要であることは言うまでもありません。

菊之助の玉手御前の乱行(荒れ)の凄まじさについては前述しましたが、もうひとつ菊之助の素晴らしいところを挙げておきたいのです。それは玉手御前がモドリになって・自ら刃物で鳩尾(きゅうび)を引き裂き・その鮮血を鮑の杯に注いで俊徳丸に授けた後の慈悲の眼差しです。生々しい嫉妬の乱行と女腹切りという凄まじいエネルギーの放出、それはまさに女形にあるまじき女武道の振る舞いであるわけですが・これを終えた後、菊之助は清らかで正しい女形本来の佇まいのなかへ自然な形で立ち戻っているのです。しかも、それは恋しい男を見詰める女の眼差しではなく、菊之助の眼差しは完全に我が子を見守る静かで暖かい母親の眼差しになっています。これは観音菩薩の眼差しなのです。折口信夫は「昔の見物は悪人の女を見ようとしなかった」と言っています。昔の観客にとって芝居のなかの女性は常に清く正しく美しいものでなければなりませんでした。ああやっぱり玉手御前は良い女性であった、それまでの乱行は見せ掛けだけのことで・やっぱり玉手御前は貞節な女性であったのだといって、昔の観客は安心をしたのです。そういう結論に落ち着くことで玉手御前も・観客もまた救われたのです。

玉手御前のドラマはファン・ゲネップが唱えるところの分離・移行・合体という通過儀礼の三つの段階のことを思わせます。つまり貴種流離譚のことです。(別稿「今日の檻縷(つづれ)は明日の錦(にしき)」をご参照ください。)俊徳丸が貴種流離の系譜を引くキャラクターであることは知られており、そ のようなことは歌舞伎の解説にも書かれています。しかし、実は玉手御前も同じような過程を踏んでいるのです。これは浄瑠璃・歌舞伎の作劇術の黄金律とも言うべきものです。このパターンを踏まえれば、貴種流離譚でも仇討ち物でも御家騒動物でも 、何でも作る事が出来るのです。玉手御前の乱行(荒れ)というのは、自らの身を焼く煉獄であるということができるでしょう。そのような試練を経て・玉手御前は清らかで美しく貞節であるという女性本来の本質を明らかにするわけです。( この稿続く)

(H23・4・30)


○女武道としての玉手御前・その5

「摂州合邦辻」の背景にあるのは高安長者伝説とされますが、雑多で猥雑な要素が取り入れられているため、実際、「摂州合邦辻」を見ていると一体どこが謡曲「弱法師」と関係あるのか、どこが説経「しんとく丸」 からつながるのかよく分かりません。だから、高安長者伝説を無理矢理に関連付けようとして、しばしば強引な読み方になりがちです。あるいは最初から関連付けを放棄して玉手御前の不倫・不道徳性への興味へ走るといった具合でしょうかねえ。(別稿「折口信夫への旅・第1部 ・補説」を参照ください。)しかし、雑多で猥雑な要素が高安長者伝説とまったく無関係のところで混入したということはないはずです。ある本質を共有したところで、それが形を変えて取り入れられているはずです。そこのところ大まかに括ってみれば、おぼろげにでも見えるものが見えてくるはずです。

ところで説経「しんとく丸」 にはしんとく丸の許婚として乙姫という女性が登場します。乙姫は餓死寸前のしんとく丸を救い、最後に復活させるのです。一方、「摂州合邦辻」には俊徳丸の許婚として登場するのは浅香姫ですから、位置的に浅香姫が乙姫のところにはまると考えるのが自然ですが、そうではありません。「摂州合邦辻」では玉手御前が説経の乙姫の役割を負うのです。説経の乙姫がどういう具合で玉手御前に変容していくのか、どの辺を大まかに想像してみたいと思います。

説経「しんとく丸」 では、しんとく丸を探し求めて乙姫は長者の娘という身分を捨てて流浪の旅に出ます。このような流浪する女性のイメージの元は中世に多く輩出した熊野比丘尼です。熊野比丘尼とは熊野を本拠して、絵解きや語り物などをしながら諸国を放浪し・布教活動を続けた女性の放浪者 (あるき巫女)です。彼女らは社会の底辺に位置しました。畏怖されながらも乞食同様に扱われてきたのです。このことが非人同様に扱われる・頬かむりして登場する玉手御前の姿に重ねられていることは言うまでもありません。

流浪の旅の果てに乙姫は天王寺にたどり着きます。乙姫は寺のなかの金堂、講堂、六手堂などを順番に、しんとく丸の姿を求めて探し歩きます。その昔、天王子の境内には、掘っ立て小屋や車輪をつけた背の低い小屋(車小屋)がいくつも並んでいて、施しを求める大勢の乞食・あるいは病人が集まっていたのです。天王寺・は病魔に冒された人たちが最後にすがる聖地でした。まず考えねばならないことは、天王寺の金堂、講堂、六手堂などはいずれも大坂観音霊場 三十三箇所の札所 のひとつであって、ここに乙姫と観音信仰の深い関係を見ることができるということです。このことは岩崎武夫著:「さんせう太夫考」での「しんとく丸と母子神信仰の世界」に詳しく著述されていますが、以下本書を参考に話を進めます。

岩崎武夫:さんせう太夫考―中世の説経語り (平凡社ライブラリー)

寺内を探し歩く乙姫が最後にたどり着いたうしろ堂の縁の下に、病に冒されて盲目になったしんとく丸がひとり生きています。変わり果てた病人は自分がしんとく丸であることを明かしますが、自分の身を恥じ・乙姫に「ここから立ち去れ」と再会を拒否します。しかし、乙姫は業病を恐れることなくしんとく丸を抱きしめて・肩にかついで外に出て天王寺七村を袖乞いしながら巡ります。岩崎先生は乙姫の姿に妻・愛人・巫女という以上に母=慈母神としての観音菩薩の姿を見ることができると書いていますが、さらに注目すべきことを指摘しています。それは「しんとく丸」 の乙姫が「曽根崎心中」のお初に転化する、あるき巫女から遊女への転化ということです。ご存知の通り、近松門左衛門は「曽根崎心中」冒頭に観音廻りを置き、お初のことを「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」と言っています。さらに天満屋の場で・縁の下の徳兵衛とお初が心中を決意するクライマックス、縁の下にひそむ徳兵衛の姿は、天王寺のうしろ堂の縁の下で乙姫の救いを待つしんとく丸の姿と重なっています。巫女が遊女に、お寺の縁の下が遊女屋の縁の下に置き換わっていきます。ここに中世の語り物の世界が、近世演劇の人間ドラマに転化していくプロセスを見ることができます。

さらに論を進めますが、近松の世話浄瑠璃の最初の作品である「曽根崎心中」は元禄16年(1703)竹本座での初演。一方、菅専助・若竹笛躬による「摂州合邦辻」は安永2年(1773)・大坂北堀江座での初演。この時期の人形浄瑠璃は歌舞伎などに人気を奪われて・そろそろ衰退期に差し掛かっていました。近松の「曽根崎心中」が人間のドラマを中世的な呪術宗教的な暗がりのなかから明るいところに引き出そうとしたものであるとするならば、対する「摂州合邦辻」では人間のドラマが再び薄暗い世界に引き戻されていくような・そのような危ういものが感じられます。江戸後期の閉塞した社会は、因果とか宿命というような人生に重く圧し掛かる・どうにもできない何ものかを民衆に強く意識させるようになっていました。しかし、共通しているものが確かにあるのです。それは玉手御前のなかの観音菩薩のイメージです。説経「しんとく丸」 でのうしろ堂での乙姫としんとく丸の再会の場面を引きます。

『・・干死(ひじ)にせんと思へども、死なれる命のことなれば、めぐりおふたよ恥づかしや、これよりもお帰りあれ、乙姫この由きこしまし、おとも申さぬものならば、なにしにこれまで参るべしと、しんとくとって肩にかけ、町屋に出させ給へば・・』(説経「しんとく丸」 )

頑なに再会を拒否するしんとく丸を抱きしめる乙姫には観音菩薩の慈愛の眼差しが感じられます。同様に「摂州合邦辻」において「見る目いぶせきこの癩病、両眼盲て浅ましき姿はお目にかからぬか、これでも愛想が尽きませぬか」と求愛を拒否する俊徳丸に自ら刃物で鳩尾(きゅうび)を引き裂き・その鮮血を鮑の杯に注いで授ける玉手御前の姿に観音菩薩の姿が重なるのです。そこに至る過程がかなり異なるように思われるでしょうが、過程をすっとばして結末を見れば・乙姫が玉手御前であることは歴然としているのです。(続く)

(H23・4・26)


○女武道としての玉手御前・その4

歌舞伎の女形にとっての女武道とは女形の性質である善人性を意識すること、女形役者の本来性である男性に回帰しようとすること、このふたつが同時にあるということなのです。玉手御前の場合で考えるならば、まず「玉手はすっくと立ち上がり」から「恋路の闇に迷うたこの身」で肌を脱ぎ・立廻りになって・奴入平を突き飛ばし・戸口に立っての見得とな ります。この場面は実に凄まじく、玉手御前の激しい邪恋の炎が燃え上がる女武道の最高潮ですが、後で考えてみれば・ここで玉手御前は父親にわざと刺されに行っているのです。娘の乱行に堪らなくなった合邦が自分を殺さざるを得なくなるような仕掛けを玉手御前はわざとしているのです。案の定、合邦が奥から飛び出して来て娘を刺します。こうすることで・歯止めが効かなくなった自分の行動に 、玉手御前は自分で決着をつけようとしているのです。その決着をつけるのは父親(合邦)であって欲しいということでもあります。そのような玉手御前の決意が本文の「玉手はすっくと立ち上がり・・」にはっきりと現れています。玉手御前の邪恋の件は父親の刃に貫かれて終わり 、これ以後はモドリとなって本来の善人性(貞婦の性)に回帰するそのきっかけを示すものです。

もうひとつ付け加えると、玉手御前が行なう・もうひとつの女武道が、自ら刃物で鳩尾(きゅうび)を引き裂き・その鮮血を鮑の杯に注いで俊徳に授けるという行為です。これは 、つまり女腹切りです。切腹というものはもちろん本来は武士が行なうものです。女腹切りの趣向で有名なお芝居は近松門左衛門の「長町女腹切」ですが、武士が行なう切腹を女が行なうことの意外さが、女武道の趣向のひとつとして観客に悦ばれた のです。玉手御前の行為もそのように考えてみたいと思います。

ところで玉手御前の乱行の場面は、まさに荒れ・荒事のそれの如くであると言えると思います。 そのことは諫言する入平に対して玉手御前が「邪魔をしやると蹴殺すぞ」を叫ぶことを見れば分かります。「蹴殺すぞ」とはまるで歌舞伎の荒事の台詞、それは芋洗いの弁慶か・あるいは鳥居前の忠信あたりが言いそうな台詞なのです。そ んな台詞を女である玉手御前が言うのです。だから玉手御前のこの場面とは、女の荒れなのです。女武道が強く意識されていることが、これだけで明白です。実は歌舞伎の玉手御前 の場合は、ここを「邪魔をしやると許さぬぞ」と文句を変えて言うのが普通です。これは六代目歌右衛門も七代目梅幸もそう言っていました。「邪魔をしやると蹴殺すぞ」と言うと女形の台詞としてはあまりに 調子が強過ぎて・どうにもピッタリこない感じですから、これを「許さぬぞ」に変えたということはまあ理解できる話です。しかし、今回の舞台での菊之助は本文通りに「邪魔をしやると 蹴殺すぞ」と言っています。しかも、明白に地声で・つまり本来性である男の声でこれを発声して いて、歌舞伎の荒事風のイントネーションを加えています。

今回の舞台の菊之助の玉手御前は概ね好評のようですが、後半の演技について「男が見える」という劇評が出たようです。「男が見える」という言い方は、女形が隠さなければならない本来性である男の地がうっかり露呈してしまった・女形の演技の綻びのようなものを指すもので、これは褒めている評ではないと思います。しかし、菊之助は「邪魔をしやると蹴殺すぞ」を地声で言っていることで分かる通り、男の地がうっかり露呈してしまったものではなく、菊之助は明らかに意図的に男を全面に出しているのです。女武道が女形役者の本来性である男性に回帰するものであったとしてもそこに尚女形の慎みがあるべしという意見もあるだろうと思います。まあそれも分からないことはないですが、吉之助としては菊之助がここで 臆面もなく男を全面に押し出してきた意図を積極的に評価したいと思うのですねえ。

ここでの玉手御前はまさに怪物そのものなのです。その美しい女性の内側から男の本質が皮を裂いて噴出してきた如きなのです。それは合邦を身震いさせるほどグロテスクなもので、合邦にとってそれほどにおぞましいものです。だから合邦は無我夢中で娘を刺しに行くのです。その姿は、ひとつには玉手御前という女性の有り様を象徴しています。このままでいたら激しい邪恋の炎に焼け死んでしまいそうな苦しみと、この苦しみを断ち切って・本来の清く美しい姿に立ち返りたいという願望が、そこに入り乱れて います。 注釈付けますと、グロテスクなおぞましい姿というのは玉手御前が自らそうしなければならないと志願して纏った醜い衣装であって、玉手御前は本当はその衣装を一刻も早く脱ぎ捨てたいのです。そのきっかけを玉手御前は求めているのです。それが「玉手はすっくと立ち上がり・・」の本文にはっきりと現れています。

それと同時に玉手御前のグロテスクなおぞましい姿には、歌舞伎の女形という存在の有り様が重ねられているのです。女形という虚飾の役者は、このまま見せ掛けの清く美しいお人形に仕立てられてたまま綺麗綺麗で終わるのか、それとも本来性である男性に立ち戻って真(まこと)の人間として立つことが出来るかということです。それこそが歌舞伎の女武道の意味するものです。乱行の場面の玉手御前は、そのようなアンビバレントな状況を象徴するものです。

繰り返しますが、これはもちろん歌舞伎の玉手御前のことですが、それはそのまま原作(人形浄瑠璃)の玉手御前のなかに本質としてあるもので、菊之助はその本質を抉り出すように・より生々しく鮮烈に提示して見せたということなのです。もちろん六代目歌右衛門のも七代目梅幸のも素晴らしかったし、吉之助は決して彼らの舞台を忘れませんが、しかし、菊之助の玉手御前は「ここまでやるのか」と目を見張る出来栄えでありましたし、何よりそれは玉手御前の本質を深く考えさせるものでした。乱行の場面で菊之助にひとつだけ注文付けるとすれば、「玉手はすっくと立ち上がり・・」の場面でしょうかねえ。ここは操り人形が急に引っ張り上げられるような感じで、無表情でスックと立ち上がって欲しいと思うのです。そこに宿命に操られる女性の虚無の感覚が出ればもっと良ろしかったと思いますが、注文はそこだけですね。他はまったく文句付けようのない出来だと思います。(続く)

(H23・4・11)


○女武道としての玉手御前・その3

女武道については別稿「源之助の弁天小僧を想像する」において取り上げました。折口信夫は四代目源之助についての論考「役者の一生」のなかで、「もともと歌舞伎芝居は女形の演じる女を悪人として扱っていない。立女形や娘役には昔から悪人が少ない。昔の見物は、悪人の女を見ようとしなかったのである」と書いています。古い時代の歌舞伎の女は類型化されていて、本質的に善であったと言えます。ところが、作品の筋が複雑になってくると悪の要素を持つ女も歌舞伎に少しづつ登場して来ます。たとえば「中将姫」に登場する岩根御前などは悪人ですが、こうした枠にはまらない役が繰り返されていくうちにある特別な女の性根が出来てきます。これが女武道の成立に繋がっていくと折口は言います。

*折口信夫:「役者の一生」(折口信夫全集 第18巻 藝能史篇2 (中公文庫 )に収録。)

芝居の正義というものは道徳的な正義とはちょっと違って、どこか鬱屈した押さえつけられた気分・陰湿な気分を振り払うような華々しくスカッとしたものが正義になるのです。別に立廻りや殺人をしなくてもいいのです。演じる役・見る側の胸がスクような・発散できるものが女武道の正義なのです。これは何故かというと、歌舞伎の女形というものが 幕府の規制から生まれた・根本的に男が女を装うという不自然な存在であるので、女形の役柄にはそこに抑圧された・陰湿な気分が常につきまとうということです。ですから「俺だってたまにはスカッとしたいぜ、 俺はホントは男なんだよ」という鬱屈した気分が女形の心理のどこかにあるのです。折口は、悪婆の切られお富の科白のなかに「お家のためなら愛嬌捨て憎まれ口も利かざあなるまい」とあるのは女形のある特性を示している重要な科白だと言っています。女形として 常に戒めるべきことは、役者の本来性である男の如き粗暴な振る舞いを顕わにすることです。だから切られお富は女形としてあるまじき事(女武道)をするのも忠義のためだから仕方ないと断りをすることで、「女形本来の性質である善人に立ち返っている」と 折口は言うのです。同時にそれは女形が本来性である男に立ち返ろうとするということでもあります。女武道のなかにそのようなふたつの錯綜したロジックがあるわけです。

折口が歌舞伎の女武道と玉手御前を結びつけることは(折口の論を引く吉之助も同様ですが)人形浄瑠璃と歌舞伎を混同しているという批判を呼びそうですが、そうではありません。この時代(安永年間)の人形浄瑠璃は歌舞伎との 密接な相互関係のなかで成立しています。互いの存在を意識し、互いを吸収しながら発展していきます。「摂州合邦辻」自体が高安長者伝説だけでストレートに読み解けるものではなく、それは雑多な・猥雑な要素をたくさん取り込んだなかで成立したものです。 玉手御前のような役はキャラクターの独自性を読むのではなく、そのなかに取り込まれた複合的な要素を読んでいくべきなのです。むしろ玉手御前を女武道で読み解くことは、玉手御前という役の本質を明らかにするものと吉之助は考えます。人形浄瑠璃の玉手御前はスッキリした感覚で・その倫理的性格が強く出て・それはそれで良いものですが、歌舞伎の玉手御前の方がこの役が本質的に持つ雑多な・猥雑な印象を端的に表現していると 考えます。

折口がお辻=合邦辻=非人の仇討ち=女武道 という発想をする根拠は、玉手御前を女非人のように扱うことが浄瑠璃作者の考えなのであろうと推察するからです。例えば「合邦庵室」の場に玉手御前は頬かむりして登場します 。本文に「・・気は烏羽玉の玉手御前、俊徳丸の御行方、尋ねかねつつ人目をも、忍びかねたる頬かむり包み隠せし親里も・・」とあります。 当時頬かむりをする女は乞食の風俗に多かったのです。

『この頬かむりは、普通の女の服装ではない。身分の低い者はふだんの生活にも頬かむりをするであろうが、まあ異例であろう。それをしている女は乞食に多い。そればかりでなく、父の合邦が「そのざまになってもまだ俊徳様と女夫になりたいと言うのか」と言うが、これも非人乞食の服装を言っているのではないだろうか。(中略)今までの玉手を見慣れているし、これが写実の玉手になってはつまらないと思うであろうが、しかし、肩当てをして、非人の着物を着て出てきても、見苦しくはないし、美しくもできると思う。そして、恐らく作者の計画では、女乞食、少なくとも「朝顔日記」の乞食になった朝顔の姿くらいにはなってもいいのだろうと思う。』(折口信夫:「玉手御前の恋」・昭和29年)

どうやら玉手御前は高安殿の屋敷を抜け出して親の家まで・苦労の末にやっとたどり着いたことが察せられますが、これで玉手御前を女非人のように扱うことの意味が分かると思います。若い後妻が義理の息子に恋を仕掛けるという行為 は、人の道にもとる行為・つまり人でなし(人非人)の行為なのです。そのような不道徳な女は非人乞食のように扱われなかればならないという考え方が、頬かむりの姿のなかに示されています。そこに玉手御前の罪が形象化されているのです。そして女非人の玉手御前が女武道を行なうことによって女形本来の性質である善人に立ち返 ろうとする。それが歌舞伎における玉手御前のドラマツルギーなのです。女武道と玉手御前との関係をさらに考えていきます。(続く)

(H23・3・26)


○女武道としての玉手御前・その2

人形浄瑠璃「摂州合邦辻」は安永2年(1773)・大坂北堀江座での初演。これが歌舞伎に移されたのはかなり後のことで、天保10年(1839)大坂角の芝居での上演がもっとも古いものとされます。しかし、文楽でも歌舞伎でも本作が盛んに上演されるようになったのは明治以降のことです。江戸期においては若い後妻が義理の息子に道ならぬ恋をしてしまうという筋書きが道徳的に好ましくないとして遠ざけられていたのですが、明治以後は近代的なアンビバレントな人間描写というイメージから玉手御前が観客の強い興味を掻き立てるものとなったということです。そのような興味で「合邦庵室」を読むのはもちろんそれはそれで面白いのですが、本稿ではまったく別の視点で「合邦庵室」を読んでみたいのです。

まず考えてみたいのは、「摂州合邦辻」初演の安永2年の・まだ芝居を見ていない当時の大坂の観客が「合邦辻」と聞いて何を思い浮かべたのかということです。実はそれは仇討ち狂言ということ なのです。ちょうどその頃、合邦辻の閻魔堂の近くで非人の仇討ちという事件があったのです。だから合邦辻というと、「ああ、あの非人の仇討ちがあったところだね」というのが当時の大坂の町人が考えることであったと考えられます。このことに言及している評論は折口信夫の「玉手御前の恋」(昭和29年4月)以外にありません。他の評論でこのことを論じているものを吉之助は読んだことがありません。恐らく折口の連想が飛躍し過ぎているようで・文献的に根拠がないと考えられているので・無視されているのだろうと思います。しかし、吉之助にとっては折口の指摘は非常に示唆があることで、むしろ合邦辻という地名だけで折口が「摂州合邦辻」の本質にここまで迫ったことにスリリングな面白さを感じますねえ。いまの研究者の方々は文献・論拠に縛られ過ぎで、自由な発想が制限されて可哀想だなあと思います。そこで折口の「玉手御前の恋」を読みながら「合邦庵室」のことを考えていきます。

江戸時代といえば仇討ちが頻発した時代であったのはご存知の通りです。そのような時代であっても非人の仇討ちというのは珍しいことでしたから、合邦辻での仇討ち事件は当時とても話題になりました。その実説がどんなものであったのか 詳細は伝わっていないようです。しかし、非人の仇討ちというシチュエーションは、たとえ乞食に身をやつしても仇を追い求めんとする仇討ち行為の極限を示すものとして読み本などに 取り入れられて、後にこれをネタ本にして四代目鶴屋南北が「絵本合法衢(えほんがっぽうがつじ)」(文化7年・1810・江戸市村座)という仇討ち狂言を書きました。こ の芝居で敵役の左枝大学之助が討たれる大詰めの場は合邦辻の閻魔堂の前、そこはまさしく「摂州合邦辻」下の巻・合邦庵室のある・その場所なのです。吉之助も「絵本合法衢」という題名を 初めて聞いた時にはこれは「摂州合邦辻」の書き替え狂言だろうと誤解したことがありましたが、「絵本合法衢」には玉手御前も合邦道心も出てきません。天王寺も出てきません。「摂州合邦辻」と「絵本合法衢」は大詰めの場所が同じだという以外にまったく関連のないお芝居なのです。しかし、大詰めの場所が同じだということは確かに何かが通じ合っているということなのです。

折口は合邦辻という地名から仇討ち狂言ということを思い浮かべます。当時、仇討ち狂言として人気があった題材に田宮坊太郎の仇討ちというものがありました。寛永19年(1642)に丸亀で実際にあった田宮小太郎(俗に坊太郎)の仇討を題材にしたものです。坊太郎の仇討ち狂言として最も有名なものは「花上野誉石碑(はなのうえのほまれのいしぶみ)」という人形浄瑠璃で、「志渡寺の場」が今でも時々上演されます。この芝居の女主人公の名前がお辻です。坊太郎は父源八を闇討ちされ、今は乳母のお辻と一緒に志渡寺に住んでいます。敵は剣術師範の森口源太左衛門と言います。敵を油断させて探るために坊太郎は叔父の内記に命じられて口がきけない振りをしています。寺を訪れた森口の折檻も坊太郎は黙って堪え忍びます。それを知らない母代わりの乳母お辻は断食をし・水垢離を取って坊太郎が口をきけるようにと、「唖となったるこなたの業病。金毘羅様へ立願かけ。清き体を犠牲(いけにえ)に。この病を治して給はれ」と一心不乱 に祈ります。そして願掛成就の日にお辻は自害を図ります。坊太郎はたまりかねて叫び声をあげます。森口が敵という証拠もそろった・近く仇討ちをするという坊太郎の言葉を聞いて、お辻は満足して息絶えます。それから10年後に坊太郎は父の仇を討ち本懐を遂げるのです。この「花上野誉石碑」は天明8年(1788)の初演ですから・「摂州合邦辻」よりも後の作品になりますが、 同じく坊太郎の仇討ち系統の浄瑠璃として「摂州合邦辻」に先立つものがふたつあるそうです。ひとつは「敵討稚物語(かたきうちおさなものがたり)で、もうひとつが「敵討幼文談(かたきうちおさなぶんだん)」です。 どちらも「摂州合邦辻」より10年ほど前になる・これら2作品ではお辻は坊太郎の母親ということになっており、仇討ち資金も尽きて・ついには非人となりはてた母親が返り討ちに逢うそうです。

ここで大事なことが、女主人公の名前がお辻であるということです。お辻とは「摂州合邦辻」の玉手御前が高安殿の後妻となる以前の彼女の本名と同じです。もちろん玉手御前の「お辻」は直接的には合邦辻の「辻」から来ていると考えられており・それはその通りでしょうが、折口はお辻という名前からさらに連想をめぐらせます。つまり、お辻=合邦辻= 非人の仇討ち=女武道ということなのです。

「女武道の型に這い入る女の物語の要素が、合邦辻で行なわれた仇討ちと結びついて、合邦の玉手御前・すなわち合邦娘お辻ができているのではないだろうか。このお辻という名前は「誉碑」の乳母と同名であって、表面は関係がないが、同じ名を付けるような同じ刺激が働いているのだろう。そういう心理的要素をやはり考えてみなければならない。」(折口信夫:「玉手御前の恋」・昭和29年)

*折口信夫:「玉手御前の恋」(折口信夫全集 第18巻 藝能史篇2 (中公文庫 )に収録。)

ここで女武道と玉手御前ということが繫がってきます。それにしても女武道の玉手御前というのはどういうものか。このことをさらに考えていきます。(この稿つづく)

(H23・3・6)


○女武道としての玉手御前・その1

お芝居では役者の実年齢と・演じる役の設定年齢がかけ離れる場合がしばしばありますが、舞台で見るとベテラン役者が若者の役を演じてもさほど不自然に感じられずに当たり前のように見ていられるのだから・舞台演劇というのは不思議なものだなあと思うことがあります。これは西洋演劇やオペラなどでもよくあることですが、歌舞伎の場合はそのかけ離れ方が 特に大きいようです。まあホントは男が演じていてもそれを女だと思って見ているくらいの演劇ですから・歳の差なんてあってないものかも知れませんが、それにしても歌舞伎はそれがちょっと極端なようです。しかし、もちろん悪いということではありません。例えば藤十郎の演じる「曽根崎心中」のお初。「一生青春」をキャッチフレーズにするだけあって、 80歳近い藤十郎の演じるお初はとても初々しい可愛らしいお初です。これこそ芸の力というべきものです。

しかし、役者の実年齢と・演じる役の設定年齢が接近すると、芸の巧拙は別にして・素材(身体)そのものが放つメッセージというものが確かにあるようです。熟年 カップルの演じる「ロメオとジュリエット」を見た後で、10代の役者が演じるカップルを見を見ると、ロメオとジュリエットというのは確かに17歳のカップルであるということが直截的に響いてきます。だからと言って熟年カップルが本物ではないとか・虚飾の芸で塗り固めた真実だとか言うのではありません。しかし、何の衒(てら)いもなく・ポッと提示された素材の語る真実の強さにオオッと驚かされることはあります。恐らくそれは次元がまったく異なるもので、それを比べること自体が間違っているのです。しかし、素材が語るメッセージは観客の心のなかにツーンと突き刺さる感覚で残るものです。

菊之助の演じる玉手御前を見て、改めてそのようなことを感じたわけです。菊之助は昭和52年(1977)生まれだそうですから現在33歳ということです。丸本には玉手御前の年齢は「十九(つづ)や二十(はたち)」と記されています。だから菊之助も年齢とぴったりというわけではないのですが、しかし、歌舞伎の玉手御前はほぼ熟年ベテランしか演じない・演じられない役であり、吉之助のなかの玉手御前のイメージは晩年の六代目歌右衛門や七代目梅幸で固まっているわけですから、この年齢接近は非常に大きい意味を持ってくるわけです。菊之助の玉手御前が花道から登場して・七三で立ち止まり・後ろを振り返る。まだひと言もしゃべっていないのに、これだけで玉手御前のなかにあるメッセージが正しく直截的に伝わってきます。だからと言って六代目歌右衛門や七代目梅幸の玉手御前 が違っていたということではありません。これらも全然違う次元においてまったく正しいのですが、菊之助の玉手御前が正しいということもこれもまた疑いようがないのです。真実がスックと立っている感じがします。これこそ素材(身体)そのものが放つメッセージというべきです。

菊之助は期待通りの玉手御前の出を見せてくれました。しかし、まあこのこと自体は「菊之助が初役で玉手御前を演じる」というニュースがあった時点で予測がついたことです。このことだけでもちろん観劇随想は十分書けます。しかし、吉之助が 今回の菊之助の玉手御前をとても興味深いと感じたのは、実はこのことではありません。菊之助はまったく別のところで吉之助の予想を上回る玉手御前を見せてくれました。本稿ではこのことを考えていきたいと思います。(この稿つづく)

(H23・2・27)


直実と相模〜歌舞伎座さよなら公演の「熊谷陣屋」

平成22年4月・歌舞伎座:「一谷嫩軍記・熊谷陣屋」

中村吉右衛門(熊谷直実)、坂田藤十郎(相模)


○直実と相模・その6

例えば本文の「妻の相模を尻目にかけて座に直れば」の場面、すなわち花道から登場した直実が陣屋に到着すると相模がそこに居る・その前を無視するように通り過ぎてから後ろを振り返 って相模を見やりパンッと袴の前を叩く箇所のことを考えます。多くの直実役者は、今回の二代目吉右衛門も同様ですが、相模の方を振り返る時に「ヤイおんな、この陣屋に何しに来やつたか、コノう ろたえ者めっ」と言いたそうな表情を見せ、しかしそれを言わずに代わりにパンッと袴の前を叩いて大きな音を出して 威嚇するように「自分は怒っているのだぞ」という相模に対する不愉快な感情を示すという演技をします。そのようにやるのがいかにも時代物の大きさを出す良い演技だとされているわけです。まあ日本一の剛毅な武者の雰囲気は出しているのかも知れません。 しかし、相模に対する情は感じられません。

一方、遺された映画での初代吉右衛門の直実はこの場面をどうやっているでしょうか。直実は振り返って「ヤイおんな、この陣屋に何しに来やつたか」と言いたい。しかし、 相模に対して後ろめたいところがあるので、それが言えない。これからの大事な首実検の時に相模がその場に居られると困る。出来るなら居ないで欲しい。しかし、言えない。帰れと言えない。どうしたら良いんだ、ウウウ・・・と唸って、どうして良いかわからなくなって、思わずパンッと袴の前を叩いてサッと上にあがってしまう。初代吉右衛門の直実を、吉之助はそのように見るわけです。これでお分かりの通り、初代吉右衛門の演技は写実なのです。心理主義的であるとも言えます。いわゆる歌舞伎の通を気取っている方から見るとこれが「ちっちゃく」見えるのですね。しかし、これが初代吉右衛門の芸風なのです。この違いが肝心なところです。

問題は「自分は怒っているのだぞ」という不愉快な感情を・まるで相模を威嚇するかの如きにバンッと音を立てるのが歌舞伎らしくたっぷりと大きくて良いという 思い込みが、巷間まかり通っていることです。こういうのは「直実は日本一の豪の者」であるから・こうやれば役が大きく見える・強そうに見えるとか、役の性根や演技を外面(そと づら)から捉える見方なのです。まあ確かにそういう 組み立て方もあるのです。それは決して間違いとも言えません。しかし、初代吉右衛門の演技はそういう組み立てから来ているのではないのです。それは盟友あるいは宿命のライバルとも言うべき六代目菊五郎が言うことが そのまま当てはまります。「これはニンにもよるから分からないけれども、大体においては気持ちの上から型が出ては来ないですかね、と思うな、僕は。」ということです。菊吉はそれが歌舞伎らしく見えるかなんてところから役を構築しないのです。そもそも歌舞伎らしいって何のこと? と言うことです。それでもってそれがそのまま歌舞伎にはまる。これが大正〜昭和前半の菊吉の芸なのです。これは当たり前のことだと思いますが、六代目菊五郎と初代吉右衛門は同じ時代にあって・同じ時代の空気のなかで生き・それを取り入れながら互いにしのぎを削ってきたわけですから、ふたりの芸はそういうところで自然に似てくるのです。

二代目吉右衛門はお祖父さんを継いでどのような「二代目吉右衛門」になりたいのでしょうか。お祖父さんはどんな芸風であると二代目吉右衛門は理解して・それに近づこうと努力しているのでしょうか。それは「立派な役者になる」ということとは全然違うことだけれどもとても大事なことなのですが、そこに音羽屋でも高麗屋でもない・「播磨屋を継ぐ」ということの意味を見出したいと思うわけです。遺された映画での初代吉右衛門の直実は、吉之助には「新しい」と感じられます。吉之助がこれまで実際の舞台で見た昭和50年以後のどの熊谷役者より新しいと感じられます。これは奇妙なことです。昭和25年というと吉之助はまだ生まれていませんし、吉之助が見た歌舞伎の舞台はどれもこの映画よりさらに四半世紀後の舞台であるからです。ということは、そこに歌舞伎の保守化現象が見える ということです。役者だけではなく・劇評家にも・観客にもそれが起きているのではないかと思うわけです。 二代目吉右衛門がお祖父さんより父上よりも明らかに濃く・これが約束事であるかの如くにはっきりと芝翫筋を引くのも、そこに現代の歌舞伎の保守化現象が現れています。別稿「初代の芸の継承〜吉右衛門の課題」でも触れた通り、吉右衛門に初代の芸風・つまりシャープで写実で・等身大の人間解釈という点について認識を新たにしてもらいたいと吉之助が考えるのは、 現代の歌舞伎が重ったるい方に傾いている・時代に納まることを歌舞伎らしいことだと感じる風がますます強くなっているからです。この傾向を是正するために全体を写実・世話の方に強く引き戻す必要があると感じます。その取っ掛かりが菊吉にあると 吉之助は思っています。

そのような視点で初代吉右衛門と二代目吉右衛門とを比較すれば、些細な違いをいろいろなところに 見出すことができます。もちろん二代目吉右衛門が駄目ということではないです。それらはまさに劇評家が「形容が大きくて良い」とか・「これが義太夫狂言の面白さ」などと褒めそうな箇所なのです。他の役者の直実ならばまあそれでも良いかなとも思います。しかし、「播磨屋の直実」というならば、吉之助はこれは指摘しておかねばならないと思います。これは大事なことなのです。初代吉右衛門を継ぐ直実ならば、その演技はもっと 相模に対する情の方に傾かねばなりません。相模という存在に対してもっとヒクヒクと痛みを感じる直実でなければなりません。「これはニンにもよるから分からないけれども、大体においては気持ちの上から型が出ては来ないですかね、と思うな、僕は。」ということです。二代目吉右衛門にはこのことを考えて欲しいと思うのですねえ。

(H23・2・20)


○直実と相模・その5

『まあ顔(注:メイキャップの意味)からいっても、顔のたちが違うからというけれどもね、熊谷の陣屋で出てきてね、前の熊谷の物語りで、あの頭とあの顔でいて、それに似合う顔をしているのだね。すると今度は坊主になると、それでは顔が似合わんですよ。また、坊主になる前にその顔にしておけば、前の間はおかしいですよ。 ところが(九代目)団十郎はどっちも似るのだね。だから、これは顔のたちにもよるから分からないけれども、大体においては気持ちの上から顔が出ては来ないですかね、と思うな、僕は。』(六代目尾上菊五郎:対談「芸と趣味」・昭和7年6月「新潮」での里見クとの対談)

作家里見クとの対談で、六代目菊五郎が「陣屋」の直実のメイキャップについて語っています。実は菊五郎は直実を演じたことはありません。が、ならば菊五郎に直実を語る資格はないと言わないでください。菊五郎は九代目団十郎に直接の教えを受け・団十郎の芸をもっと正しく継いだ人なのです。遠藤為春が「本当の団十郎の系統を継げたのは菊五郎だけ。あとはみんな団十郎の魂がちっとも入っていない」と断言しています。上記の菊五郎の発言も、そうした菊五郎の自信の裏付けがあって言われたものです。(別稿「菊五郎の古典性〜九代目団十郎以後の歌舞伎・その3」を参照ください。)

歌舞伎座を彩った名優たち―遠藤為春座談

菊五郎の指摘で大事な点は、現行の直実の・薄く芝翫筋を引いたメイキャップであると、前半は似合うけれども幕切れの僧形の時が似合わないということです。だから「気持ちの上から(つまり役の性根をつかんだところから)顔が出ては来ないですかね、と思うな、僕は」と菊五郎は言うのです。現役の直実役者に遠慮して菊五郎ははっきりと言ってないけれども、菊五郎の言いたいことはこういうことであると吉之助は思います。現行の「熊谷陣屋」の演出は九代目団十郎が創始した型です。団十郎型の「陣屋」で最も核心となる場面はどこでしょうか。それは幕切れにある僧形の直実の花道の引っ込みであることは間違いありません。団十郎の場合には、たまたまかも知れないですが、同じメイキャップであっても前半も後半も似合ったのです。だから団十郎の場合は良いのです。しかし、団十郎以外の役者が直実を演じると後半の 僧形の時が似合わない。ならば 前半後半どちらかにメイキャップを合わせなければならないことになりますが、団十郎型で直実を演じる以上は僧形の方にメイキャップを合わせなければならぬということなのです。つまり、現行の直実の・薄く芝翫筋を引いたメイキャップは俺ならばやめるね・・ということです。

ですから直実は菊五郎のニンではないのだけれど、もし菊五郎が直実を演じたのであれば、菊五郎は直実から隈取りを取ったに違いないと思います。「それでは団十郎型でなくなる」と言う方がいそうですねえ。団十郎の芸の系統を正しく継いだ・団十郎の芸の心を正しく継いだ菊五郎がそれをやるならば、それが正しいのです。団十郎型の心を正しく延長するならば、直実のメイキャップから芝翫筋は消えなければなりません。このことは別稿「熊谷陣屋における型の混交」で詳しく論じていますから、そちらをご覧ください。

このことは吉之助の根拠のない想像ではありません。戦後昭和の「陣屋」の直実の伝説的なお手本は初代吉右衛門であったことは疑いのないことです。初代吉右衛門の「陣屋」は有難いことに映像で遺っていますが、初代吉右衛門の直実はうっすらですが確かに芝翫筋を引いています。そのために僧形の場面にやはり違和感が残ります。しかし、この初代吉右衛門の直実の芸を引き継いだふたりの役者は顔から芝翫筋を消してしまいましたね。吉之助はどちらもその舞台を生で見ましたが、娘婿である初代白鸚(八代目幸四郎)と弟である十七代目勘三郎のことです。これは九代目団十郎〜初代吉右衛門を繋ぐ芸の線上で来る流れにある 正しい措置であると吉之助は思います。直実の悲劇を近代的自然主義的な考え方で理解していけば、必ずそうなるのです。

ところが初代吉右衛門の孫になるふたりの役者、九代目幸四郎と二代目吉右衛門の兄弟は、これは明らかにお祖父さんよりも明らかに濃く・これが約束事であるかの如くにはっきりと芝翫筋を引きますね。全体の顔の色合いも赤みが強いものです。まあおふたりとも立派な体格をしていらっしゃるから、隈取りはっきりしたそのメイキャップは確かに似合いますよ。なるほどこれならば日本一の豪の者・関東武者の熊谷直実です。しかし、僧形になった幕切れの引っ込みには全然似合ってませんね。似合うと思う方いっらしゃいますか?いくら心情を込めて「十六年はひと昔・・・」と泣きの演技を見せてくれても、あの隈取りのメイキャップでは違和感あり過ぎです。おふたりともそのことにもうそろそろ気が付いて欲しいのですがね。

それでは九代目幸四郎と二代目吉右衛門は、何をお手本に現在の演技を構築してきたのかということですが、彼らがお手本にしたのは明らかに二代目松緑の直実でしょう。二代目松緑は昭和四・五十年代の最高の熊谷直実であると評価された役者でした。吉之助も松緑の直実の舞台を生で見ました。もちろん素晴らしい直実でしたが、これは初代吉右衛門とは別の流れになる、九代目団十郎〜七代目幸四郎というところから出てくるものです。さらに二代目松緑はまったく色合いの違う芝翫型の直実を演じてもいますから、隈取りはっきりしたメイキャップにするのもまあそれなりの理屈があると言えます。二代目松緑の直実は日本一の豪の者であり、相模のクドキを聴いても「女の出てくる幕か、お前の言うことにオレは聞く耳は持たぬ」という性根なのです。相模のことは関係ないのです。そして、誰もいないところで男はひとり泣く。二代目松緑の直実はそういう直実なのです。これは解釈が間違っているとか・そういうことではなくて、性根の捉え方がまったく異なるということです。

そこで九代目幸四郎のことはちょっと置いておいて、二代目吉右衛門の直実のことですが、吉之助はこれを見て「お祖父さん(初代吉右衛門)そっくり」とは思わないのです。その違いは遺された初代吉右衛門の映画を見て比べれば歴然としていると思います。これは二代目吉右衛門に対してキツい言い方に聞こえるかも知れませんが、別稿「初代の芸の継承〜吉右衛門の課題」でも触れた通り、時代物役者として二代目吉右衛門はとても立派になりました(それは吉之助も 四十年近く見てきたのだからよく分かっています)が、初代吉右衛門の芸風を継いでいるかと言うと、吉之助はあまりそのように感じられないのです。例えばこの「陣屋」の直実がそうです。初代吉右衛門を継ぐ直実ならば、その演技はもっと情の方に傾かねばなりません。相模という存在に対してもっとヒクヒクと痛みを感じる直実でなければなりません。 もちろん二代目吉右衛門に情の表出がないわけではありませんが、吉之助から見ればその程度では初代のレベルに達しないのです。

ちょっと前に出た二代目吉右衛門関連の「二代目」(毎日新聞社)という本がありました。二代目吉右衛門の芸に掛ける思いとその人柄、ご家族のことなどが綴られていました。しかし、この本はいわゆる役者ファン本であって、タイトルは「二代目」とあるけれども・初代の芸をどのように捉え・如何にして継ぐかということについてはまったく何の参考にもならない本ですね。お祖父さんの思い出話もちょっと出てきますが、お祖父さんはどんな役者だったかというイメージはまるで湧いてきません。お祖父さんのような立派な役者になりたいという気持ちは確かに伝わってきます。それじゃあ二代目は初代を継いでどのような「二代目」になりたいのでしょうか。初代はどんな芸風であると二代目は理解して・それに近づこうと努力しているのでしょうか。それが全然分からない。 初代の芸についてこの本にあるのは、吉之助が見る限り「初代は熊谷直実や加藤清正など英雄豪傑を当たり役としました」の一行のみです。これが大誤解であることは別稿「初代の芸の継承〜吉右衛門の課題」でも書いた通りです。取材する方の意識のレベルに問題があるのは確かですが、取材される二代目吉右衛門の方にもちょっと問題なくはないでしょうか。二代目吉右衛門は、直実は日本一の豪の者・だから相模に対する情を見せ過ぎると直実という武士・時代物の役の線が細くなると思っているのでしょう。そうではないのです。そこに初代吉右衛門の芸を継ぐ取っ掛かりがあるのです。そのヒントはお父上・叔父上が見せてくれたはずなのですが。(この稿つづく)

(H22・2・13)


○直実と相模・その4

杉山其日庵は「浄瑠璃素人講釈」において摂津大掾・三代目大隅大夫・三代目越路大夫といった明治・大正にかけての浄瑠璃の名人たちの「熊谷陣屋」を聴いて「いまだ一も会心の域に至るを覚えぬ」と書いています。さらに「彼らの浄瑠璃はその巧拙は別として、熊谷が源平時代の豪勇として勇気一遍の人としか聞こえない、庵主の考えはこれとは異なる」と其日庵は言います。

『熊谷は素より武辺一途の人なれども、(中略)「武士たるものが、主命と旧恩の為めに、合意の上、其子を殺したる事は、一方より云へば武士の本分である」故に妻に向つても、「武士道の為め伜を殺したから、左様心得よ」と一言すれば何事もなきに、之を明言したらば定めて妻が悲歎することを思ひ遣り、夫さへ明言し得ぬ程の弱虫である。(中略)其容貌や豪壮、言語や勇魁なるも、精神は飽迄も多情多涙の人格に語らねばならぬと思ふ。』(杉山其日庵:「浄瑠璃素人講釈」〜「熊谷陣屋」の項)

浄瑠璃素人講釈〈上〉 (岩波文庫)

直実は見かけは武骨一遍だけれど、実は直実は弱虫と言われそうなほど多情多涙の・女房思いの人物なのです。「息子を殺した」ということを告げれば、女房はどんなに悲しむことだろうか。そのことを思うと、直実はいたたまれなくなってしまうのです。ところが思いがけなく女房が陣屋に来てしまう。本人を前にしてしまうと、いつかは言わねばならないそのことが、ますます言えなくなるのです。女房に泣かれてしまうと、どうして良いかわからない。それでついつい嘘を言う。直実というのは、そのような夫です。若き日の・相模と知り合った頃の直実は北面の武士でありました。つまり直実はエリート警察官であったということです。しかし、禁中での恋愛はご法度でした。相模との恋愛によって直実は関東に落ちることになります。直実にとっての女房相模というのは、出世コースを捨てて取った・大事な大事な恋女房です。だから直実は女房に強いことが言えないのです。

一方の相模の方は、首実検の首が息子小次郎であるのを見て驚愕しますが、過去の経緯からして・どうして夫直実が息子を敦盛の身替わりとしたのか・その理由はくどくど説明されなくても・彼女自身が一番そのことをよく分かっています。母親として・情として納得はできませんが、理性ではその行為の必然性を理解しています。だから最終的に相模は夫を許すことでしょう。でなければ、あの場で「・・私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様。」というようなことを相模は言えないのです。それでもクドキの場面で相模が「怨めしげ」な表情を見せるのは、父と息子でコソコソ相談して事を進めるのではなく、どうしてそれを事前に母親である私にも打ち明けてくれなかったのか、それならば息子にしっかり今生の別れができたものを・・・ということになります。 相模は出来た女房なのです。

直実にとっての相模がそのような愛しい恋女房であるならば、相模のクドキの場面において直実はどのような態度を取るべきでしょうか。吉之助が不満に思うのは、現行の歌舞伎の直実は、どの直実役者も「男の世界の論理に女がツベコベぬかすじゃない」という感じで相模の訴えを頑と跳ね返して、相模に対する情が感じられないということです。なかには「ナニを、この女め!」という感じで相模を睨みつける直実がいますし、ひどいのになると唸り声を上げて相模を威嚇するのさえいます。こういう直実は言語道断だと言わなければなりません。どうしてこのような直実になるのかと言えば、熊谷直実と言えば「源平盛衰記」に「日本一の豪の者」と描かれるほどの 強い武士だというイメージから来ているのでしょう。だから女々しいところを見せてはならぬし・女房に対する情を出し過ぎると底を割ることになるというわけです。まあそういう 考え方もあることでしょう。別に否定はしないけれども、しかし、上述の其日庵の主張を聞くならば・そして今回の藤十郎の相模を見るならば、歌舞伎にはまったく違った別の直実像があり得ると思うのですね。

今回の吉右衛門の直実ですが、相模のクドキの場面においては目を閉じて・顔を下向きにしてジッと耐えている感じです。相模を睨みつけたりしないし、まして唸り声を上げて威嚇 するような不届きなことはしません。その意味で吉右衛門の直実は、大筋において十分納得できる悪くない直実です。しかし、吉之助が見たところでは、吉右衛門の直実は藤十郎の相模の訴えを撥ね付けて・なお無言の壁の如く 厳然としているという印象が依然として残ります。「男は黙って心で泣く」ということでしょうが、傍に相模がいることは無視されています。それはまだまだ日本一の豪の者のイメージに捉われているということです。この点を吉之助はチョッピリ残念に思います。吉之助が思うには、この藤十郎の相模のクドキを聞くならば、直実は相模のクドキに反応してもらいたい。直実には相模と一緒に静かに涙を流してもらいたいのです。そのような女房思いの・多情多涙の直実が見たいと思うわけです。(この稿つづく)

(H23・2・6)


○直実と相模・その3

『・・・せめて最期は潔う死になされたか」と、怨めしげに、問へど夫は瞬きも、せん方涙御前を恐れ、よそにいひなす詞さへ、泣音血を吐く思ひなり。 』(「熊谷陣屋」での相模のクドキ)

「怨めしげに・・」と床本にあります。このように相模が夫直実に向かって言う時、それは夫が息子を斬った行為を相模がなじっている・そこに封建主義に対する批判が込められていると解釈するのが、まあ普通の解釈かと思います。それも分からないではありませんが、夫の立場を理解して・まるで直実の気持ちを代弁しているように思える藤十郎の相模のクドキを見ていると、別の解釈も浮かんで来るのです。藤の方への義理ということならば、藤の方に 直接に仕えていたのは相模であったのですから、「敦盛さまの御身替わり」ということを受け入れざるを得ないのが相模の立場であるはずです。ならば 自分に秘密にして・父と息子の間でコソコソ相談して事を進めるのではなく、どうしてそれを事前に母親である私にも打ち明けてくれなかったのか、それならば息子にしっかり今生の別れができたものを・・・というのが、「怨めしげに・・」という相模の気持ちであると解釈できます。藤十郎の相模がクドキで訴えるものはそうした気持ちであると感じられるのです。

直実と小次郎が「敦盛さまの御身替わり」ということを相模に打ち明けなかったのは、「そんなことは男の世界の問題なのだから・女には関係ないことだ」ということで相模を除け者にしたのではありません。それを知ったならば相模の嘆きは如何ばかりであろうか・・と思って、それを気遣って相模に打ち明けなかった のです。このことは次の描写をみれば明らかです。

『戦場に赴くより、家を忘れ身を忘れ、かねてなき身と知るゆゑに、思ひおくこと、更になし。さりながら忘れがたきは父母の御恩。我討たれしと聞き給はゞ、さぞ御歎き思ひやる。』((組討の段での小次郎)

『仰せ置かるゝことあらば言伝へ参らせんと申上ぐれば、御涙をうかめ給ひ父は波濤へ赴き給ひ、心にかゝるは母人の御事。昨日に変る雲井の空定めなき世の中をいかゞ過ぎ行き給ふらん未来の、迷ひこれ一つ熊谷頼むの御一言。』(「熊谷陣屋」での直実の物語り)

事を行なうにあたって父と息子がどれほど母親のことを気遣ったのかが、「組討」の敦盛(実は小次郎)・この場面を回想する「陣屋」での直実の物語りのなかにはっきりと出ています。もちろん相模はそのような男たちの気持ちをよく分かっているのです。それが分かるからこそ、相模はそのことがなおさら「怨めしい」ということなのです。

もうひとつ付け加えておくべきは、これは歌舞伎だけ見ていると分からないことですが、直実は「陣屋」で藤の方に斬り付けられるまで・直実は本人の顔を知らなかった・本人に会ったことがなかったということです。その場面を床本で引きます。

『後に聞きゐる御台所わが子の敵と在りあふ刀。「熊谷やらぬ」と抜くところ鐺(こじり)掴んで、「ヤア敵呼ばはり何奴」と、引寄する。女房取付き、「アアコレ聊爾なされな。あなたは藤のお局様」と聞いて直実びっくりし、「コハ思ひがけなき御対面」と飛退き、敬ひ奉れば・・』(「熊谷陣屋」)

歌舞伎の場合は、直実は「ナニ藤の御方・・?」などと言いながら藤の方の腕を捻り上げてその顔を確かめて・「コハ藤の御方・・」と驚いて・それから飛び退きますから、確かに藤の方の顔を見知っている直実のようです。しかし、高貴な御方の腕を捻り上げてその顔を確かめるなど・それがもしご本人ならばトンでもないことで、「思ひがけなき御対面」より前に、「コハ失礼なことを仕り・平に 平にご容赦・・」でなければなりませんね。文楽の場合は、斬りかかった藤の方を直実は押さえつけますが、相模から「あなたは藤のお局様」と聞いてすぐさまバッと飛び退くのです。ということは直実は藤の方の顔を知らなかったのです。北面の武士であった直実は、藤の方の顔を拝むことが出来た身分ではなかったからです。相模だけが藤の方を知っています。直実は相模の言うことを完全に信用していますから、「あなたは藤のお局様」と相模が言うのを聞いて、迷うことなく「コハ思ひがけなき御対面」と飛び退くのです。

このことから見ても、相模と藤の方との関係は強く、また直実と相模の馴れ初めでの藤の方の御恩ということを考えても、「小次郎を敦盛さまの御身替わり」という直実の行為に対して、相模が異議申し立てするということはあり得 ません。もしかしたら直実と小次郎は 、相模のためにそれを行なったということかも知れません。そのことを思うが故に直実と小次郎は、相模に事前にそれを打ち明けることが出来なかったのです。ちなみに「寺子屋」の場合だと千代は身替わりのことを事前に承知しているわけですが、相模の場合はそうではなかったのです。これほどまでに息子は母親 のことを気遣い・夫は妻の気持ちを思いやるとするならば、「熊谷陣屋」での直実と相模の夫婦の在り方を少し考え直してみたいと吉之助は思うのですねえ。(この稿つづく)

(H23・1・23)


○直実と相模・その2

ところで「熊谷陣屋」での義経は冷徹な策略家であると書いてある歌舞伎の解説本がいくつか見られますね。義経は「一枝を折らば一指を切るべし」という制札を熊谷に与えて「若木の桜を守護せん者熊谷ならで他にはなし」と謎を掛けました。これは 義経が直実に「院の御胤である敦盛を守るためにお前の子供を犠牲にせよ」との命令を暗に指示したのだというのです。自分から明確な指示を出すことはせず、部下から行なわせるように仕向けて、自分の手は決して汚さない 。義経は冷酷な主人だというわけです。なるほどねえ、そういう見方もありますかねえ。そうするとその論法で行くならば「菅原伝授手習鑑」の菅丞相も冷徹な策略家ということになると思いますが、如何で しょうかね。「寺子屋」の場において、松王は我が子小太郎を菅秀才の身替りに立てますが、後半・その本心を武部源蔵に告白する時に次のように語っています。

『菅丞相には我が性根を見込み給ひ、何とて松のつれなかろうぞとの御歌を、松はつれないつれないと、世上の口にかかる悔しさ、推量あれ源蔵殿。倅がなくばいつまでも人でなしと言われんに、持つべきものは子なるぞや。』(「寺子屋の段)

「梅は飛び桜は枯るる世の中に何とて松のつれなかるらん」、 この歌は史実としては菅原道真(=菅丞相)が詠んだものではないですが、江戸期には道真の作であると一般に信じられていたものでした。この歌で丞相は松王のことを「どうしてこんなにつれないのか、 何故こんなに薄情なのかと恨んでいる」と世間が勝手に解釈して自分を非難していると松王は嘆いています。だから、「寺子屋」で松王が小太郎を身替わりにする行為は、丞相の歌を「この 自分(丞相)の窮地に松王がつれないはずは決してない」という意味だと松王が解して、そのことを証明しようとしたものであるとも考えられます。丞相は歌によって松王に暗示として身替わりを指示したことになるかも知れません 。ならば丞相も冷徹な策略家なのでしょうか。

実はそのような読み方になってしまうのは、預言と予言とを混同しているからです。予言とは未来に起こる出来事を先立って言い当てること。つまり、誰某の意志に係わりなく・それは必ず「成る」ものです。一方、預言というのは、神はあるべきことを示唆するだけで事をなすことはなく、自分の意志を以って人が その事を「成す」のです。事がそのように成されることによって、人間の崇高さ・あるいは愚かしさが明らかになるのです。この違いがお分かりでしょうか。この違いはわずかな違いのようですが、これは決定的な違いです。

義経の「若木の桜を守護せん者熊谷ならで他にはなし」、丞相の「何とて松のつれなかるらん」とは預言なのです。その預言を受け取った者が、自らの有るべき姿を模索して・それを自分の意志で事を「成す」から預言なのです。「熊谷陣屋」も「寺子屋」も 疑いなく自発的な人間のドラマです。もしこれが予言であるとするならば、そこに人間のドラマが介在する余地がないことになります。泣いても・抵抗しても、 予言というのは必ず「成る」ものだからです。もしそうならばそれは直実や松王に行為を強制するものとなり・それは命令同然なのですから、 彼らは「成る」ように動かされる木偶でしかありません。ならば義経や丞相が冷徹な策略家であるという解釈も確かに可能かも知れません。しかし、吉之助は「熊谷陣屋」にも「寺子屋」にも 自発的な人間のドラマを見たいと思いますから、義経の「若木の桜を守護せん者熊谷ならで他にはなし」という謎は預言であるという考え方です。それは在るべきことを示しているからです。

夫直実から相模は「コリャ女房。敦盛の御首、ソレ藤の方へお目にかけよ」と言って我が子の首を手渡されます。この時点で相模は夫から我が子身替わりの詳細な説明をまだ受けていなににもかかわらず、相模は藤の方に向かって「・・この首はな、私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様」とちゃんと言います。相模は、実検の首が紛れもなく息子小次郎であることを見た時に、 あっと驚くと同時に、何故夫直実がそれをせねばならなかったかを一瞬にして悟ったのです。直実が自分だけの義理や都合でそれをやったのではないことが、相模にはっきり分かっ たのです。それは夫婦の問題、つまり相模の問題でもあったからです。義経の「若木の桜を守護せん者熊谷ならで他にはなし」という謎が預言であるということが、ここでも分かります。つまり、預言は夫婦の在るべきことに係わっており、それは相模にもはっきり見えることなのです。これは観客にとっても同じです。

直実は北面の武士であった若い時(つまり17年前)に藤の方に仕えていた相模と恋愛をしたのでした。禁中での恋愛はご法度でした。それが発覚した時、本来ならばふたりは罰を受け仲を裂かれて、夫婦になれなかった身でした。これをとりなして密かにふたりを関東へ落としてくれたのが藤の方でした。熊谷夫婦は藤の方に大恩があるわけで、これが若木の桜を守護せん者・つまり敦盛を助ける者は「熊谷ならで他にはなし」という伏線になっています。ということは直接的な義理の重さから見れば・それを秤に掛けるのも何ですが、直実よりも・藤の方に仕えていた相模の方が義理が重いのかも知れません。もしかしたら「息子小次郎を敦盛様の身替わりに立ててくだんせ」ということを相模の方から直実に言い出さなければならなかったのかも知れません。だから須磨の浦で直実が息子小次郎を身替わりにして・また小次郎が自発的に身替わりになったのも、もしかしたら相模の為にそれをやったのかも知れないと思います。 相模はそのことが分かったのです。

いつもの「熊谷陣屋」の相模のクドキであると、どの相模役者でも息子が身替わりになった母親の悲しみがヒシヒシと伝わってくるもので、もちろんそれは間違ってはいませんし・それがなければクドキにはなりませんが、 もしかすると情の要素がいささか強すぎるのかも知れません。封建制度の非情を糾弾する妻と、妻の嘆きをもっともだ・・と理解ながらもグッと押し黙る夫という感じであって、どうしても直実と相模が理と情の対立構図に見えてしまいます。ところが、今回の藤十郎の相模のクドキを見ると、まるで直実の気持ちを相模が代弁しているように見えるのでした。直実は男であるし・武士ですから、そういうことを決して 他人に言えないし、泣きたくたって大声で泣くわけにはいきません。だから相模が直実の代わりに藤の方にそれを言い、相模が直実の代わりに泣いているのです。藤十郎の相模 は夫直実のあるべき立場を正しく理解している女房であり、クドキの場面において情の要素に・理の要素を絶妙なバランスで配合して見せたということです。 (この稿つづく)

(H23・1・16)


○直実と相模・その1

長年親しんできた歌舞伎座が老朽化の為に再建されることとなり、平成22年4月興行を以って休場となりました。歌舞伎座再開場は平成25年春だそうです。吉之助にとっても歌舞伎座は最も多く通った劇場ですから ・個人的にその思い入れは並大抵でないものがありますが、そのことは別稿「さよなら歌舞伎座」に書きましたので、本稿では「さよなら歌舞伎座興行」最終月の「熊谷陣屋」の舞台について書いてみたいと思います。平成22年4月歌舞伎座での「熊谷陣屋」は記念すべき最終興行にふさわしい重厚な出来でしたが、そのなかで 吉之助に特に印象に残ったのは藤十郎の相模でした。我が子の首を抱いて泣き暮れる相模のクドキの詞章を床本で引いておきます。

「申し藤の方様。お歎きあった敦盛様のこの首。これよう御覧遊ばして、お恨み晴らしてよい首ぢゃと、褒めておやりなされて下さりませ。申しこの首はな、私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様。その時お前も御懐胎。誕生ありしその子が無官の太夫様。両方ながらお腹に持ち国を隔てゝ十六年。音信不通の主従がお役に立つたも因縁かや。せめて最期は潔う死になされたか」と、怨めしげに、問へど夫は瞬きも、せん方涙御前を恐れ、よそにいひなす詞さへ、泣音血を吐く思ひなり。 』(「熊谷陣屋」での相模のクドキ)

この相模のクドキですが、首実検を終えて義経が「ホヽヲ花を惜む義経が心を察し、 よくも討ったりな。敦盛に紛れなきその首。ソレ由縁の人もあるべし。見せて名残りを惜ませよ」と言い、夫直実から相模は「コリャ女房。敦盛の御首、ソレ藤の方へお目にかけよ」と言って我が子の首を手渡されます。この時点で相模は夫から我が子身替わりの詳細な説明をまだ受けていません。しかし、相模は藤の方に向かって「・・この首はな、私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様」とちゃんと言います。つまり、首実検の首を見て・あれは我が子だ・・と驚愕したけれども、相模は状況を正確に理解しているのです。もし、ここで相模が取り乱して藤の方に「ホレこの通り、息子は敦盛さまの身替わりになりました・・」と口走ろうものなら、この場は大変なことになります。ここではその首はあくまで敦盛の首であると処理されなければならないのです。自分に与えられた役割を相模はしっかり認識して、「・・私が産み落したは、この敦盛様」と演技しているということです。それがこの場面の相模のクドキです。これは相模に与えられたとても厳しい、そしてとても残酷な役割です。しかし、相模はその役割を立派にやり遂げます。

相模のクドキで「・・この首はな、私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様」というのは、あれは強制的に言わさせられている台詞であると考えることもできます。相模にそれを言わせるものは直接的には夫直実ですが、さらに拡大させると義経に象徴される社会、あるいはもっと大きな歴史の律であると考えることもできます。相模はそのことを理解して「・・私が産み落したは、この敦盛様」と言うのですが、相模は自分のなかから湧き上がる母親としての悲しみにやはり耐え切れません。つまり、押さえつけられていた母親の本音が否応なしに噴き出るのです。さらに歌舞伎ではグドキで相模が「申し・・(直実殿)」と夫に向かってその悲しみを訴える(あるいは夫への抗議の意味も込めてかも知れません)場面があったりしますが、これ は夫直実に撥ね付けられます。いずれにせよ息子の生首を抱いて泣き暮れる相模の姿は、それが現実のシーンならばとても正視できない凄惨な場面です。そこに相模のクドキのアンビバレントな引き裂かれた感覚があるのです。相模のクドキについては普通そのように考えられており、六代目歌右衛門をはじめ多くの相模役者がその解釈で相模を演じてきたと思います。

ところが今回の平成22年4月歌舞伎座の「熊谷陣屋」での藤十郎の相模のクドキを見て吉之助がとても興味深いと感じたのは、藤十郎の相模は「・・私が産み落したは、この敦盛様」という台詞を強制されて言うのではなく、相模は夫直実がここまでしなければならなかったことを心底納得してその台詞を言っていると強く感じたことです。相模は夫直実が何故息子を敦盛の身替わりとしたことを納得しているのです。 相模は自分たち夫婦がそれをやらなければ敦盛を助けられないこと を理性的に理解している(あるいはしようとしている)のです。しかし、母親として息子を失った悲しみの感情はやはり制御しようがなかった。藤十郎の相模は吉之助にはそのような相模に見えたのです。(この稿つづく)

(H23・1・9)


惣五郎とかぶき的心情〜「佐倉義民伝」の心情的分析

*文中に惣五郎と宗吾の表記が交錯する場面がありますが、基本的には論考を惣五郎で通しています。歌舞伎の「佐倉義民伝」に限定した場合のみ宗吾としています。


○惣五郎とかぶき的心情・その9

付け加えますと、宗吾の直訴についてはその犠牲的行為を自由民権の鑑として称える見方がある一方で、直訴という行為には封建体制への批判がなく・お上のお慈悲にすがって憐みを乞うものでしかないとして、宗吾を嫌う見方もあるわけです。例えば「講談全集・佐倉宗五郎」(昭和29年発行)を見ると磔刑になった宗五郎がこんなことを言いながら死にますが、権力に対する卑屈な態度と批判精神の無さにゲンナリしてしまいますねえ。

『御直訴がお取りあげになり、御年貢米運上とも従来通りになった以上は、(中略)御領主さまと百姓と、上下和合して、上は下を子の如く愛しみ、下は上を親の如く敬い、御領主さまも百姓万民も、ともにともに千年万年の後までも、天の下の限りないように、子を孫々無事に栄えますよう心からお祈り申し上げます。・・・お役人さま、ありがとうございました。』(「講談全集・佐倉宗五郎」・大日本雄弁会講談社)

この「講談全集」が昭和29年発行であることにご注意いただきたいですが、国民は天皇の赤子(せきし)であると言われた戦前ならばともかく、戦後になっても卑屈な隷属根性が幽霊のようにそのまま生き残っているようで、上から降りてきた戦後民主主義の基盤の脆弱さを見る思いがしますねえ。 このような卑屈な宗吾像ならば、これを嫌う理由も確かによく分かります。このような印象は、ひとつには歌舞伎でも講談でも 同じですが、「宗吾内子別れ」をお客の涙をたっぷり絞り取るために情緒的に処理しようとする傾向がどうしても強くなることから出てくるものです。歌舞伎の「宗吾内 ・子別れ」も多くの場合そういう感じで上演されてきたのです。もちろんそのような要素は「宗吾内・子別れ」に内在するものに違いありません。 そうすると確かに泣ける芝居にはなりますが、そこをあまり強調し過ぎると 、子供と別れる親の悲しみの方に焦点が行ってしまって、何のために宗吾は行かねばならぬのかという肝心なところが見えなくなってしまいます。そうすると直訴という行為の過酷な意味が観客に突き刺さって来なくなります。直訴の場面が、将軍さまが宗吾の訴えを受け取ってくれて良かった・良かった・・・将軍さまはお慈悲のある方だ・・・と安堵する感じになってしまいます。時代物の持つ赦しの構図が、現状体制を肯定し・隷属状況に甘んじ・支配者に憐みを 有難く戴くという印象になってしまいます。

まあそれも確かにひとつの受け止め方ではあるのですが、時代物の持つ赦しの構図が正しく機能するためには、常に「然り・・・しかし、これで良いのか」という憤りを含まなければならないのです。「佐倉義民伝」の場合には、その憤りとは、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ ・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・という宗吾のピュアな思いです。創作童話「ベロ出しチョンマ」で磔になった長松がベロを出すことについて、作者である斉藤隆介氏は次のように書いています。

『まず違う。長松がベロを出すのは「権力も死をも恐れぬ不敵な面だましい」などではなく、妹ウメがかわいそうだったからである。はりつけの時「わざとおどけてベロを出した」と言うが、わざとおどけていたりはしない。死を前にして泣き叫ぶ妹の苦痛を和らげようと、思わず「ウメーッ、おっかなくねえぞォ、見ろォアンちゃんのツラァー!」と叫んでしまうのである。こんな短い文章のなかでこんなに違うのである。しかも、重大な点が違うのである。』(斉藤隆介:「国語教科書攻撃と児童文学」・1981年)

斉藤隆介:ベロ出しチョンマ (新・名作の愛蔵版)

ということは、斉藤隆介氏の論理を借りれば、最後に宗吾とその一家は磔刑になるわけですが、罪もない妻子までも磔刑にしてしまうのは残酷だ・可哀想だということ、それ自体はその通りですが、そこに固執してしまうとドラマの重大な点を見落とすということ なのです。この一家にはそれとは別に、とても無私でピュアな思いがあるのです。これこそ「佐倉義民伝」の核心です。それは、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ ・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・という思いであって、そのピュアな思いに殉じて私たち一家はお父さんと一緒に死ぬのだと言うことです。 これを政治権力への批判とか反抗だとか言う前に、原点にあるのは民衆の思いであり、その核となるところの家族の思いだということです。磔刑はそのような一家の意思的に選び取った行為の結果としてあるものです 。

 だから「ベロ出しチョンマ」の長松は笑って死ぬことになります。この点をしっかり踏まえないと、「然り・・・しかし、これで良いのか」という憤りが生まれてきません。この憤りを起爆剤にして社会の変革の鼓動が生まれて来るのです。政治的・イデオロギー的感情はその次の段階・作品の後に生まれるものです。作品それ自体はそのようなイデオロギー的なものから離れているもので、原点としての感情はとてもピュアなものから発しているのです。斉藤隆介氏の言いたいことはそういうことです。残念ながら歴史的に見れば、日本ではそのような民衆の変革への鼓動は何度も押し潰されて来ました。だから、先に引用した講談のように卑屈に歪んだ宗吾像が生まれて来ることにもなるのです。しかし、それでは斉藤隆介氏が指摘する通り、重大な点を間違うことになります。

「宗吾内」では宗吾はそっと離縁状を置いて・家族に危害が及ばないようにしようとしますが、女房おさんはこれを拒否します。これはもちろん「貴方と一緒に死ぬ覚悟です」という 意思表示なのです。おさんは一緒に直訴に行くわけではありませんが、それは彼女の意思的な共同行為なのです。 一家の磔刑はその行為の結果としてあるのです。子供たちはもちろん事情が呑み込めていません が、幼い子供たちもまた両親のただならぬ気配を感じてこれに反応しています。「宗吾内」のドラマのなかでは子供たちに別の役割が与えられます。「俺は行かねばならぬ・一刻も早くこの不正を正さねばならぬ」という宗吾を前に押し出す力を感じさせるために、子供たちの「ととさまいのう」という泣き声がまるで前に進もうとする宗吾を邪魔しようとしているかのように、逆の方向へ引っ張る強い力になって聞こえ ます。このように農村を舞台にした地味で写実な世話物芝居では義太夫では描線が 強くなってしまって、本来あまりふさわしくない音楽であるはずです。吹雪を表現する三味線の細かいリズムが、子供の泣き声にヒクヒクと震える宗吾の胸を表現しているよう です。三味線の刻みが宗吾に突き刺さるように感じられます。宗吾にとって 子供は今は振り払わねばならぬものですが、同時に宗吾は子供を振り払うことで実は子供を道連れに共に直訴に向かうということです。一家の磔刑はその行為の結果としてあるのです。義太夫が子別れのなかで醸しだすものは、とてもアンビバレントな引き裂かれた感情です。これが四代目小団次の意図した演出効果です。(別稿「子別れの乖離感覚」を参照ください。)

小団次は封建体制批判・社会変革の要素をどれくらい意識したものでしょうか。多分明確には意識してはいなかったでしょう。小団次としては観客の心をグッと掴む芝居をどうやって作るか、ただそれだけのことであったでしょう。しかし、小団次の時代への鋭い感性は、幕藩体制の崩壊に向けてヒタヒタと迫ってくる波をしっかり感じ取っていたのです。そしてその感情 の震えを作品のなかに正確に写し取ったのです。 徳川幕府の瓦解は目前に迫っていました。「東山桜荘子」はそうした時期に生まれた作品なのです。「東山桜荘子」が大評判を取ったことにより、義民惣五郎の名前は全国各地へ知れ渡り、安政6年(1859)・信州伊那谷での南山一揆の指導者小木曽猪兵衛は惣五郎を講釈に仕立てて一揆を組織しました。この事実を見ても、小団次の意図は確かに起爆剤となったに違いありません。小団次の嗅覚は実に鋭いと感嘆せざるを得ません。

(参考文献)

河原宏:「江戸」の精神史―美と志の心身関係「(ぺりかん社)

(H22・12・18)


○惣五郎とかぶき的心情・その8

直訴というのは確かに穏当ではない政治的行動ですが、強者である為政者に対する弱者・被統治民からの命を掛けた・やむを得ぬ行動であると考えられます。これはかぶき的心情からは次のように読めます。かぶき的心情の行為においては、自らのピュアな心情の強さによって相手の心を揺さぶり・自分の気持ちを理解させようとする情念の行動が見られます。自分は命を棄ててここまで訴えている・だから貴方はこの訴えを理解してほしい(理解すべきである)・・という論理プロセスです。例えば「伊賀越道中双六・沼津」の平作は、事情があって敵の行方を明かせない十兵衛に対して、自ら腹を切ってみせて問いかけることで、これを十兵衛から聞き出します。つまり、その心情によって相手の心を揺さぶり・動かそうとするのです。命を掛けて問うてはならないことを聞き、問われた者は答えてはならぬことを答える。多くの場合、それは良い結果にはなりません。結局、双方とも死ぬことになります。「伊賀越道中双六」でも後段・伏見において十兵衛は敵の一味として討たれることになります。

しかし、問われる相手が数段格上であるとドラマの様相が全然違ってきます。六段目の勘平が腹を切るのは、直接的には自分が金が欲しくて故意に舅を殺したのではない(実はこれは誤解ですが)ことを証明するためで した。しかし、時代物としての六代目の構造から見れば、勘平は命を棄てて自らの忠義を由良助に訴え・討ち入りの仲間に入れてもらうことを強く願い、由良助はこれを聞きいれ・判官刃傷の際の勘平の不手際の罪を許し・討ち入りの仲間に加えることを許すということになるのです。この場合、訴えた勘平は死にますが、相手の由良助は死ぬことはありません。差し出された勘平の命を「然り」と受け取って赦すのが由良助の役割です。しかし、これは命を 差し出して勘平が由良助の心を強く揺さぶったということでもあるのです。ここまでしないと他者は動くことはないのです。これが時代物の赦しの構図です。

惣五郎の直訴も同様に考えられます。天下人の将軍に対して下々の者が直接訴え出ることは本来あるまじき事で、そのこと自体が重い罪に問われます。しかし、それを覚悟で・命を棄てて訴え出たということは、たとえ身分の低い者であっても、 そうまでするのは・そこにやむにやまれぬ熱い思いがあるのであろう。だから訴えを直接取り上げることはならぬ。しかし、訴え出たおぬしの気持ちは理解したぞ、そこを含んで・後のことは こちらに任せよ、ということになるわけです。「佐倉義民伝」の直訴の場面は、このような時代物の赦しの構図を引いているわけです。 宗吾(=惣五郎)の直訴はかぶき的心情の行為であり、その裏付けとなる相手の心を強く揺さぶるためのピュアな思いがなくてはなりません。繰り返し書きますが、それは我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ ・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・という宗吾の強い憤りなのです。

吉之助が「宗吾のピュアな思い」ということがとても大事であると考えるのは、「佐倉義民伝」を見る時にそのことに強く思いを馳せないと、宗吾のドラマが全然違った方向に行ってしまうからです。実はその危険性を「佐倉義民伝」自体が孕んでいます。嘉永4年江戸中村座での「東山桜荘子」初演においても三幕目の「甚兵衛の渡し」と「宗吾内・子別れ」が特に好評でした。以後の再演においてはこれら二場を中心に上演され、やがて「佐倉義民伝」は歌舞伎の定番として定着することになります。もちろん演劇的にも優れた場ですから至極当然のことですが、「宗吾内・子別れ」において江戸に出立しようとする宗吾に・行ってくれるなという感じで妻子がまつわりついて泣き叫ぶ、これを振り切って宗吾は江戸に立つという場面は、大抵の場合には、暖かい親子の情愛と・これを引き裂こうとする非人間的な政治の世界というステレオタイプの対立構図でこのドラマを読もうとすることがされてきました。まあ「重の井子別れ」ならば確かにその読み方 でも良ろしいのです。しかし、この「宗吾内・子別れ」の場合はその構造が捻じれています。ここでは妻子の嘆きが惣五郎のピュアな思いの実現を阻む枷として使われています。このことは別稿「子別れの乖離感覚」のなかで触れました。女房の叫びも子供たちの泣き声も、本来なら宗吾にとって最も大事な者たちの声が、ここでは宗吾にとって最も忌まわしいものに感じられます。子供たちの「ととさまいのう」という泣き声を宗吾に聞かせて「どうだ、大事な家族を棄てて、それでもお前は江戸へ行こうというのか」と悪魔があざ笑うかの如く感じられるということです。そこに「宗吾内・子別れ」の乖離したアンビバレントな感覚があるのです。こう考えた時に、先ほど述べた我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ ・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・というピュアな憤りが見えてくるのです。

暖かい親子の情愛と・これを引き裂こうとする非人間的な政治の世界という対立視点だけで歌舞伎の「宗吾内・子別れ」を見ようとすると、クローズアップされるのは宗吾が肉親と別れることの辛さ・悲しさということ になります。もちろんそれは間違いではありませんし、そこから彼ら親子を引き裂く無慈悲な力への怒りが湧いて来るということも確かにあるでしょう。しかし、別れが辛いのは確かに分かる。それは親子ならば当然ですが、そもそも宗吾が直訴を志した動機は何だったのか?というところが見え難くなってしまいます。宗吾の直訴の行為の原点にあったはずのピュアな憤りが見えなくなって来ます。初演の「東山桜荘子」が東山の世界に仮託した時代物であったことはもちろん当時の作劇法のお約束から出たことですが、直訴の場面だけ取ってみれば、恐らくその時代物の枠組みが直訴という行為のかぶき的心情と赦しの構図を浮き彫りに見せる効果があったかも知れません。

一方、現行の歌舞伎の「佐倉義民伝」での場割り(甚兵衛渡し・宗吾内・寛永寺直訴の三場)では、「宗吾内・子別れ」の親子の別離の悲しさに どうしても重点が置かれます。実録の世話物っぽく演じられてきたことに隠された政治的意図があったと言うつもりはありませんが、結果として宗吾のピュアな憤りが見えなくされて来たということも確かなのです。 (この稿つづく)

(H22・10・18)


○惣五郎とかぶき的心情・その7

明治9年(1876)、明治天皇は元老院議長へ国憲起草を命ずるの勅語を発せられ、それ以後に各地でいろいろな憲法私案(私議憲法)が議論されました。その内容はさまざまですが、これからの近代国家日本をどう構築していくかという根本に係わることですから、民衆も必然的に熱くなったと思います。明治10年代は自由民権と憲法の議論がとても 盛んな時期でした。しかし、明治政府にとってこのような自由民権意識の高まりは迷惑なことでしたから、これらの私議憲法を取り上げて議論することはありませんでした。 逆に明治政府は明治20年(1887)に保安条例を制定して、私議憲法の検討・議論を禁止してしまいました。大日本帝国憲法(明治憲法)が制定されたのは明治22年(1889)のことですが、これは欽定憲法・要するにお上が人民に下された憲法ということです。憲法が発布されてしまうと、自由民権運動は急速に冷めていきました。

このような私議憲法の議論に惣五郎はもちろん直接関係はしませんが、清く正しく・真面目に生きている庶民は正当な扱いを受けて当たり前だ・・というピュアな思いは間違いなく惣五郎と共通したものがあったのです。幕末から明治前半に掛けて 、初演の瀬川如皐から黙阿弥の改訂を経て今日出来上がった歌舞伎の「佐倉義民伝」にも、そのような惣五郎のピュアな思いを見なければなりません。それは、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ ・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・という思いです。これが直訴という行動になって現れる惣五郎の憤りの原点です。それが「佐倉義民伝」の世界観になっているのです。

「佐倉義民伝」には直訴という穏当でない行動が登場しますが、江戸幕府がこれを咎めることなく上演を許可したということは、作品の「世界」があるべき形で然りとあるならば幕府はこれを正しく認めるということに他なりません。この点において幕府は公正です。むしろ明治政府の自由民権に対する態度の方がずっと捻じれていて変じゃないのか?ということを考えてもらいたいのです。

ですから「佐倉義民伝」に出てくる直訴という行動自体に格別の政治的な意図はないのです。それは当時の農民の弱い立場ならそうする以外に状況打開の方法が考えられなかったからです。 だから「佐倉義民伝」のシチュエーションにおいては筋がとりあえずそうなっているに過ぎません。そこを取り違えると、惣五郎の自己犠牲の意味がまったく変ってしまいます。「ベロ出しチョンマ」の作者である斎藤隆介氏は次のように言っています。

『ええ、私は「滅私奉公」けっこうだと思うんですよ。もともと「滅私奉公」ってものは美しいものなんです。公のためになるということは立派なことだと思うんです。だからそういうことをやった人は民話にも残されたし、物語にも語られた。例えば歌舞伎の「佐倉宗五郎」です。(中略)「滅私奉公」なんて精神をすべての人間がお互いに持ち合って暮らしたらどんなに素晴らしい社会が出来ることかと思いますよ。怖いのは、この思想がどう使われているかということ。誰がどういう目的で使っているかということを、鋭い科学的な目で見分けるか見分けないかと言うことです。「八郎」なんてやつはみんなのために死んだんだから、お前もみんなのために死ね、なんて言ってね。埋め立て工事に駆り出されて・人柱にすることだってね。そりゃ、やろうと思えば出来ますよ。だけどそれは作品が悪いんじゃなくて、そういう道具に使おうという黒い手がいけないんであって、人にやさしくしろってことは、大変けっこうなんです。(中略)だから、そういうこと、「滅私奉公」とか「献身」とか「自己犠牲」などということを抽象的に取り上げるってことは、意味がないんです。作品というものは、そのなかに具体的な形で意味がありますんでね。』(斉藤隆介:座談会「みんなのなかでこそ・みんなとのつながりをかんがえてこそ」での発言・1970年)

(H22・10・11)


○惣五郎とかぶき的心情・その6

福沢諭吉は「学問のすすめ」(明治7年・1872)のなかで、「人民の権義を主張し、正理を唱え政府に迫り、其命を棄てて終をよくし、世界中に対して恥ることなかる可き者は、古来唯一名の佐倉宗五郎あるのみ」と書きました。明治の初め各地で民権運動が始まりますが、民権意識を地域に定着させるために、出版・講談・芝居・双六などいろいろな場面で惣五郎が喧伝され、民権のシンボルとして分かりやすく通俗的な形で取り込むことがされました。

「魚屋宗五郎」の初演は明治16年(1883)5月市村座のことでした。理不尽な理由で妹お蔦を手打ちにした磯部の殿様の処置に対して、次第に沸きあがってくる憤りを宗五郎は抑えきれません。それで宗五郎は禁酒していた酒を飲んでしまって、暴れ出します。別稿「荒事としての宗五郎」において、酒を飲んで荒れ狂う宗五郎の酒乱は世話の「荒れ」であり、「宗五郎」という役名は佐倉宗吾(惣五郎)に重ねられているということを書きました。これは吉之助の推察ですが、もちろん根拠はあります。文久元年(1861)8月守田座での再演にあたって瀬川如皐の原作「東山桜荘子」に、黙阿弥が改訂を施したものが現行の「佐倉義民伝」なのです。改訂の際に黙阿弥は原作の田舎源氏の筋を抜いて・筋をシンプルにして、代わりに仏光寺の場を書き加えました。仏光寺祈念の場では宗吾の叔父・光然はせめて子供の命は助けてもらいたいと祈念を込めますが、その願いが叶わず子供たちが処刑されたのを知って・数珠を切って憤怒の表情で印旛沼に入水します。この場は明らかに荒事の荒れの系譜を引いています。佐倉宗吾(惣五郎)=御霊神のイメージが、黙阿弥のなかに確かにあるのです。明治10年代 というのは民権運動がピークの時期で、明治16年の黙阿弥も無関心でいられたはずがありません。確かに「魚屋宗五郎」は酔いが醒めてしまうと殿様にペコペコするのでちょっとガッカリしするところがありますが、封建社会・身分社会の理不尽に対して宗五郎が強烈な怒りを発するところは、そこに黙阿弥なりの民権意識があったに違いありません。

明治17年(1884)市村座では「東叡山農夫願書」で九代目団十郎が佐倉宗吾を演じることになりました。最初、団十郎は義民・義民・・と言って役作りに意欲を燃やしていたのですが、そこに当時の劇評家の権威とされていた依田学海が現れて、「領主の非行を暴いて直訴するなど穏当ではない」 などと罵倒し、事あるごとに「宗吾は三百代言(大嘘付き)だ」と触れ回ったので、団十郎はだんだん嫌気が差してきて・演技が投げやりになってしまい、そのため芝居の評判は甚だ良くなかったそうです。実は当時の依田学海は文部省の役人でありました。明治政府の立場からすると民権運動を刺激するこのような芝居は面白くなかったのです。また学海は旧佐倉藩の出身でした。ちなみに幕末の佐倉の殿様は堀田氏と言いますが、宗吾伝説に登場する堀田正信が改易になった何代か後に、延享3年(1746)山形から佐倉に入封したのが堀田正亮で、この正亮の家系が幕末まで続いた堀田氏です。正亮は正信の弟正俊の家系に当たります。正亮は惣五郎伝説の問題人物の血筋であることを気にしたようで、惣五郎百年忌に当たる宝暦2年(1752)に供養を行ないました。もともと惣五郎伝説は資料的な裏付けが少ないもので・地域の 伝承に過ぎなかったものですが、藩が公にこれを認める形になったことで惣五郎伝説が確立することになります。18世紀後半には「地蔵堂通夜物語」、「堀田騒動記」などの惣五郎物語が完成しました。学海は旧佐倉藩士という関係で、佐倉宗吾という題材がそもそも気に入らなかったということ もあったかも知れません。

以上は年代関係ごちゃごちゃしてますが、 要するに地域の伝説に過ぎなかった惣五郎のイメージが次第に流布して拡大し、歌舞伎にも取り上げられて、さらに明治になって民権運動のシンボルに祀り上げられていくということです。ただし、前節で書きました通り、惣五郎の憤りの原点となるところのピュアなものを見詰め直す必要があると思います。(この稿つづく)

(H22・10・2)


○惣五郎とかぶき的心情・その5

『憤りというのは、胸がどきどきするほど腹が立つこと。動詞で、憤る。形容詞では、憤ろし。また、憤ろしいと私の生まれたところでは言うた。この腹が立って腹が立ってしようがないという気持ちが、我々の道徳を支持しているのである。我々の民俗の間にできてきた道徳観念をば守り、もちこたえていく底の力になるのが憤りである。(中略)ああいうことが世の中で行なわれてよいのか、これから先、どうなってゆくのか、と思うことがある。この気持ちを公憤と言う。』(折口信夫:「心意伝承」〜日本民俗各論 ・昭和11年)

折口信夫は、憤るという感情が我々の道徳の根本にあると言っています。しかし、折口はまたこういうことも言っています。憤りはそのような美しい形を備えていないこともよくあって、しばしばそれは一種のねたみ・そねみから発していることがあり、むかつきの場合に過ぎないことも多いというのです。平安朝の語で「おほやけはらだたし」とか、略して「おほやけばら」という語がありますが、個人的なむかつきを公憤の形にして出すことも少なくないようです。世にいう正義派というのがそれで、特に政治的な争いで負けた場合にそういう風になりやすいようです。身分の高い人の場合は公人という 性格も持つので、個人のむかつきの感情も公のそれとして重ねて読まれることが必然的に多くなるからです。いわゆる御霊と呼ばれているもの(歌舞伎においては荒事に取り上げられているキャラクター)の多くが政治的敗北者です。これは菅原道真などを見れば分かります。

逆に町人や農民など身分が低い人の憤りを公のものとして読むことは普通はできないわけですが、しかし、数少ないケースですが、その個人の憤りがピュアで無私なもので・なおかつそれが社会の道徳観にぴったりと当てはまるものならば、その憤り が公的な性格を帯びてくる場合があり得ます。例えば佐倉惣五郎の憤りがまさにそれに当たります。平穏に暮らしている村に、権力が何かとんでもないことを要求して来たとします。そういう場合に、お上が言うことだから仕方がないと 卑屈に諦めてしまうならば何も起こりませんが、そうするとただ言いようのない不平不満ばかりが残ります。状況は何も変化することがありません。しかし、誰かが自分たちはこのような扱いを受ける謂われはないというような憤りを発して、自分たちに突きつけられた刀を無意識のうちに振り払うような行動に出たとすれば、状況は一変します。 惣五郎の直訴の行動がそのようなものです。

『水呑み百姓をいじめて暴利を得て出世した良くない役人が威張ることがある。水呑み百姓の社会では行為に対する判断はできずに、ただ反感だけがある。何か説明できぬ気分が漂うている時、誰かがひとつの清純な感情をほとばしらせて、その感情で批判して反抗する。田舎における任侠行為は、こんな時に起こってきて、無頼漢などはあずからない。佐倉宗吾などが代表的人物として言われているが、すべて道理も何も分からぬ人が、何かを要求し、説明を求めて来、ぴったりはまる判断がついてくると、そこに出てくるものは、いちばん古い判断や感情である。われわれは、こういう生活を先祖から与えられておらねばならぬ、そういうはずはない、という判断になる。だから、任侠ということも、田舎の生活の道徳的な鍛錬淘治の行き届いておらぬ社会のいちばん最後に到達するものだから、大事だと思う。』(折口信夫:「心意伝承」〜日本民俗各論 ・昭和11年)

話がちょっと脇にそれますが、別稿「村上春樹・または黙阿弥的世界・その3」で2009年2月に作家村上春樹が文学賞であるエルサレム賞受賞式において「高くて固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」というスピーチをしたことについて触れました。村上氏は「やってはいけないこと」を強制するものに対して徹底的に憤るのです。この憤りはたとえば「ねじまき鳥クロニクル」の主人公の「僕は詰まらない人間かも知れないが・少なくともサンドバックじゃない。生きた人間です。叩かれれば叩きかえします」という発言にも出てきます。個の「憤り・怒り」だけが「システム」の暴走を阻止する絶対的な力になると信じるのが村上氏の作家としての立場です。村上文学のなかでは主人公の世界は原則としてひたすら「個」です。惣五郎の憤りも同 じように考えたいと思います。逆に言えば、無国籍文学のように言われる村上文学の日本的な感覚の一端がここにあると吉之助は考えるわけです。それが「黙阿弥的世界」というタイトルになっているわけですがね。

今日的視点からすると、佐倉惣五郎の憤りも人間の尊厳とか生きる権利であるとか・そのような公的な憤りに重ねて読むことも可能かも知れません。だから現代人はついついそのように読んでしまい勝ちです。まあそれも無理ないことですが、しかし、それは個人と外界を対立的に見てしまうからそういうことになるのです。そうではなくて、まず惣五郎の憤りのひたすらに「個」であるところを見詰めてもらいたいと思います。そうすると、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ ・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないはずだ・・・コンチクショー・・・ということになるのです。これが惣五郎の憤りの原点となる論理です。それはひたすらに無私であり・ピュアなものです。そして、なおかつそれは当時の道徳感覚に触れてくるものですから、その憤りは自然と公的な性格を帯びてくることになるのです。

佐倉宗吾(惣吾)が惣五郎とも呼ばれるのは、そこに御霊(=五郎)の音を重ねて・民衆がその憤りに公的な性格を持たせようとしたからだと考えられます。現在の宗吾霊堂は千葉県成田市東勝寺にありますが、実は昔は宗吾由縁の場所が 別のところにありました。それは近くの・かつては将門山と呼ばれていた小高い丘で、そこに平将門の居館があったと伝えられています。江戸時代には将門山の「口の宮神社」に宗吾は祭られており 、そこは「佐倉宗五郎大明神」と呼ばれていました。 これが後に東勝寺に移されました。このことは分かるように宗吾は将門と重ね合わせて御霊神として地元の民に崇められていたことが明らかなのです。惣五郎の憤りがひたすら「個」であるからこそ、その憤りは公のものとなる。こう考えることで惣五郎の御霊神的性格が分かって来ると思います。 (この稿つづく)

(H22・9・15)


○惣五郎とかぶき的心情・その4

斎藤隆介氏は「ベロ出しチョンマ」や「八郎」などで知られる創作民話の作家です。斎藤氏は自らの創作民話の理念として「従来の社会を変革して・人民のための社会を建設しようとする意欲を持たねばならない・その闘いに参加する中で自己の変革をやり遂げていく・これが自分の創作民話に課している私の中心命題だ」(「八郎」の方法・1973)」ということを語っています。「ベロ出しチョンマ」(1966)は佐倉の惣五郎伝説をべースにしたとされてます。長松(チョンマ)の父親(注:作品では惣五郎ではありません)は農民たちの苦しみを見かねて将軍に直訴に及び・捕われの身となり ・磔(はりつけ)の刑を受けることになります。長松兄妹も父ともども捕らえられて刑場に送られます。刑を執行される時、妹のウメが槍の穂先を見て泣き出します。 その横で磔になっている長松は「ウメーッ、おっかなくねえぞォ、見ろォアンちゃんのツラァー!」と叫んで、眉毛をカタッと「ハ」の字に下げてベロッと舌を出して見せたという話です。いかにも惣五郎の息子にありそうな挿話ですが、これは斎藤氏のまったくの創作です。

斉藤隆介:ベロ出しチョンマ (新・名作の愛蔵版)

ところで斎藤氏は当時いわゆる偏向作家(左翼系の作家という文部省用語)と見なされたもので、発表当時は「ベロ出しチョンマ」も封建社会のもとで厳しい収奪を受けてきた民衆が権力の非人間的な弾圧に屈することなく、踏まれても蹴られても・たくましく真実を貫いてきた民衆の不屈の精神を描いた作品であるとよく評されたもので した。当時は小学生だった吉之助もそんな風に教えられたような記憶があります。こうした読み方は斎藤氏の言動と考え合わせると・なるほどそんなものかと頷いてしまいそうなところがありますが、ところが当の斉藤氏がこのような読み方に猛然と反発するのには驚かされます。

『まず違う。長松がベロを出すのは「権力も死をも恐れぬ不敵な面だましい」などではなく、妹ウメがかわいそうだったからである。はりつけの時「わざとおどけてベロを出した」と言うが、わざとおどけていたりはしない。死を前にして泣き叫ぶ妹の苦痛を和らげようと、思わず「ウメーッ、おっかなくねえぞォ、見ろォアンちゃんのツラァー!」と叫んでしまうのである。こんな短い文章のなかでこんなに違うのである。しかも、重大な点が違うのである。』(斉藤隆介:「国語教科書攻撃と児童文学」・1981年)

どうやら斎藤氏の真意は、社会が何だ・人権が何だとこざかしい理屈を言う前に・長松という子供の気持ちを素直に捉えて読んで欲しい・それこそが民話の原点であり・すべての出発点であると言うところにあるようです。(これについては別稿「科学的な歌舞伎の見方」を参考にしてください。)

「佐倉義民伝」を考える時に上記の斎藤氏の主張がとても参考になると吉之助は思います。惣五郎の自己犠牲の行為のピュアな要素を考える時には、社会と民衆とか・人権という問題をちょっと置いて・惣五郎の気持ちの核を想像してみる必要があります。それは結局、清く正しく真面目に生活している我々がこんな仕打ちを受けるのは理不尽だという憤りにあるのです。このことは現在連載中の「折口信夫への旅」にも深く関連してきます。理不尽に怒る神と・神を信じてその仕打ちに黙々と耐える無辜の民衆の絶対的な関係ということです。折口信夫は次のように書いています。

『自分の行為が、ともかくも神の認めないこと、むしろ神の怒りに当たることと言う怖れが、古代人の心を美しくした。罪を脱却しようとする謹慎が、明く清くある状態に還ることだったのである。(中略)ともかく善行―宗教的努力をもつて、原罪を埋め合わせて行かねばならぬと考えている所に、純粋の道徳的な心が生まれているものと見なければならない。それには既に、自分の犯した不道徳に対して、という相対的な考えはなくなって、絶対的な良いことをするという心が生まれていると考えてよいのである。』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)

古代の人々は理不尽な神の仕打ちに黙々と耐えた・それが道徳らしきものを生み出したと折口は言います。佐倉惣五郎にも同じように強い宗教心(適当な言葉がないので便宜上そう書きますが・要するに神をひたすら信じる純な気持ちということです)があります。しかし、惣五郎は古代人ではありません。惣五郎はずっと時代が下った江戸初期という・道徳規範が既に固まり・アイデンティティがやっと芽生え始めた時代に生きた人間ですから、その宗教心は古代人とはちょっと違った表れ方を見せます。惣五郎には為政者と民衆を対立構図に見るような視点はまだありません。清く正しく真面目に生活している我々がこんな仕打ちを受けるのは理不尽だという憤りだけがそこにあります。ここが大事なポイントですが、そのような憤りが生じるのは「清く正しく真面目に 生きるべし」という倫理道徳の基準がそこにあるからで、それに沿うなら良し・それにはずれれば悪いという判断があるということです。ですから惣五郎の憤りの場合には、我々農民は清く正しく真面目に生きている・・ならば我々がこのような仕打ちを受ける謂われはないという ことになるのです。そのような惣五郎の憤りが熱い自己主張を以って噴出します。そのような憤りを誰かにぶつけなければ居られないという・やむにやまれぬ思いは、江戸初期の・かぶき者 (仁侠者)の行動によく似ています。実はそこに江戸初期の時代的気質が反映しているわけです。 だから惣五郎の自己犠牲の行為はかぶき的心情の行為であるということです。(この稿つづく)

(H22・8・21)


○惣五郎とかぶき的心情・その3

誤解ないように付け加えれば、「東山桜荘子」(佐倉義民伝)にはレジスタンスの精神がなく・結局はお上賛美の芝居で・お上にひれ伏してただお慈悲を乞うだけの芝居であると言っているのではありません。それでは惣五郎のドラマが 余りにいじましく 惨めな感じになってしまいます。それでは「子別れ」のドラマの感動の説明ができません。惣五郎はその後に民権運動のシンボルに祀り上げられていくほどですから、レジスタンス精神の萌芽のようなものは間違いなくあります。その過程を検証することはもちろん意味あることです。しかし、その前に吉之助は惣五郎の自己犠牲の行為のピュアなところをちょっと考えてみたいのです。

「歌舞伎素人講釈」ではこれまでもかぶき的心情の考察で触れてきましたが、江戸時代の民衆は個人と社会の関係を対立構図として明確に意識することはなかったのです。それは明治期になって西洋思想が流入してきてから以後の視点です。だから地域の窮状を見かねて直訴に打って出る惣五郎の自己犠牲の心情は、そのような人権思想のフィルターを取り除いて見ないと、 惣五郎の心情のピュアなところが見えてこないわけです。ひとつ例を挙げます。幕末の江戸の蘭学塾と言うと伊東玄朴の開いた「象先堂」が有名でした。これは大坂での緒方洪庵の適塾に比せられるもので す。この象先堂の蔵書のなかで玄朴が「読むと気が狂う」と言って閲覧を決して許さなかった本がありました。後に分かったことですが、それはオランダの民法書であったそうです。

『なるほど身分制度のやかましい江戸封建制のなかで、フランス革命の落とし子ともいうべきヨーロッパの民法書を読んだとすれば、平等の思想や権利の思想を知るだけでも、血の気の多い者ならば欝懐を生じ、気が狂う破目になるかも知れない。(玄朴は読んだのだな)と、明治後、良順は思った。読んだ時の玄朴の思いはどうだったのであろう。玄朴の場合、わずかに蘭方という新奇な医学を身に付けることによって他から軽侮されることをまぬがれたが、それでもなお、オランダの民法書を読んだ時は、暮夜ひそかに自分の出身階級を思い、多量の欝懐を感じたかと思われる。良順は明治後、このことを思うたびに玄朴に愛情を感じたりした。』(司馬遼太郎:「胡蝶の夢」)

身分社会のなかに生き・それが当然と思って生きてきたなかで、多少でも志のある若者がひとたび平等の思想や権利の思想を知ったとすれば、自分のしたいことが出来ない悔しさに自分の出身階級を泣き・あるいは社会の理不尽さを呪い、懊悩することに当然なる と思います。だから玄朴は「読むと気が狂う」としてヨーロッパの民法書を読むことを禁じたのです。当時の人々にとって平等の思想や権利の思想はそれほどの強い衝撃 であったわけですが、そのような成文化されたものではなかったにしても「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」というような思いは当時の日本人にももちろんあったに違いないのです。それは倫理あるいは道徳感覚から来るもので、理屈ではなく・心情から発するものでした。それは吉之助がかぶき的心情として提唱するものとほとんど同じものです。(付け加えれば、これは現在連載中の「折口信夫への旅」のなかで触れましたが、理不尽な神の仕打ちをグッと耐え忍ぶ時に内心に湧き上がってくる倫理的感情と同じものです。折口信夫が「自分の行為が神の認めないことと言う怖れが古代人の心を美しくした」と言う指摘がこれに当たります。そこから「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」というピュアな心情が生まれるのです。)

「与えられておらねばならぬ」と言って一体誰から与えられるものなのかという問題があると思います。それが為政者なのか・神なのか・社会なのかが明確ではありません。どこか他力本願のようにも思われます。 しかし、「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」という心情があるのは間違いありません。その心情が強い方向性を以って為政者の方へ向いた時には、それはルソーの 「社会契約論」のような形を取ったりもするわけです。恐らくヨーロッパの民権思想もそのようなピュアな心情から発したものでしょう。ルソーの 「社会契約論」は1762年の出版ですから、ヨーロッパにおいても民権思想の歴史は実はさほど長いわけではありません。現在でもヨーロッパ社会は深層部分では日本人が驚くほどの強固な身分社会であることは知っておいた方が良いです。むしろ日本の方がずっと平坦な社会だと言えます。 逆に言えばスイスの時計職人の息子(ルソーのことです)が「社会契約論」を書かねばならなかった素地がそこにあったわけです。ヨーロッパでは権利は勝ち取らねばならないものでした。しかし、どうも日本ではそうではなかったようですね。

江戸期の日本人においては「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」というような思いは多少の憤懣はあってもそこそこ充足された段階で、自らが享受すべき権利として強く意識する必要があまりない状況であったのかも知れません。そのことが良かったか悪かったかということは一概に言えません。政治に不満があっても・お上のことは仕方ないでナアナアで済ませるところは現代日本人にもあって・そういうところは江戸時代に発するのかなと思いますが、「我々には当然こういう生活が与えられておらねばならぬ」という心情はもちろん現代の我々にもあるはずです。その心情のピュアなところを現代の我々はもう一度見詰め直していく必要があるかも知れませんねえ。そうしないと平等の思想・権利の思想は正しく我々の身に着いたものにならぬのです。義民佐倉惣五郎のドラマはそういうことを考えるきっかけになるかも知れません。(この稿つづく)

(H22・8・6)


○惣五郎とかぶき的心情・その2

「東山桜荘子」が初演された8年後の安政6年(1859)のことですが、信州伊那谷で南山一揆と呼ばれる農民一揆が起こりました。指導者小木曽猪兵衛は佐倉惣五郎を講釈に仕立てて一揆を組織したということです。この頃には義民としての惣五郎の名は各地に広まってい ました。これには歌舞伎の成功が一役買ったのです。もっとも歌舞伎の惣五郎は領主の圧政に 農民の憤懣が高まって一揆になりかねない雰囲気なのを抑えて・単身で直訴に及ぶわけです。だから惣五郎はホントは一揆の指導者ではないのですが、惣五郎というのは農民の権利意識のシンボルだということなのでしょう。さらに明治になると惣五郎は民衆運動のシンボルにも祀り上げられていきます。

ところで嘉永4年「東山桜荘子」初演の時になぜ幕府はこの芝居の上演を禁止しなかったのか・その理由をさらに考えていくために、江戸時代の農民一揆というのはどんなものであったかということを知っておかねばなりません。ついちょっと前(吉之助の子供の頃)は農民一揆と言えば鋤や鎌を持って年貢の減免を訴える農民たちを侍たちが情け容赦なく斬り倒して・首謀者を片っ端から磔刑に処すというようなイメージが あったと思います。このような支配階級であり・生産手段を持たない・しかし武装手段を持つ武士が、領民であり・非武装である農民から生産物を一方的に搾取したというイメージは明治政府が前政権であった江戸幕府を貶めるために意図的に広めたもの でした。その後はこの収奪のイメージがマルクス経済学の階級闘争理論にも合致したので強い固定観念として民間に定着しました。しかし、近年は江戸時代の農村の実態調査が進んでこのような封建主義の暗黒的収奪構図はかなり修正されてきました。それでも一般の江戸の 暗黒イメージは依然として根強く残っています。

しかし、最新の歴史学の成果を踏まえれば江戸時代の一揆というものは、領主の圧政に苦しんだ農民たちが暴れるのを・武士が武力で一方的に弾圧したというようなものでは決してなかったのです。確かに室町期の一向一揆 などには階級闘争的な性格のものがありました。江戸初期の島原の乱(当時の観念から見ればこのようなものこそが一揆でした)もそのような性格のものでした。しかし、島原の乱を最後に、江戸の封建体制が整備されて以後の一揆はその性格を大きく変化して、労働争議みたいなものになっていきます。つまりそれは会社で従業員が鉢巻を巻いて・シュプレヒコールして賃上げ要求をして、時にストライキを打つというようなものなのです。 これが江戸の農民一揆の実態でした。これはどういうことかと言えば、領地を治める為政者(武士)と・そこでその庇護を受けるべき領民(農民)との関係をお互いに認め合っている範囲で起こる小競り合いということなのです。

このような為政者と領民のある種の信頼関係は、社会契約論などと小難しいことを言わなくてもどのような歴史段階の社会においてもあるものです。この関係が崩れればホントに内乱になるのです。 歴史的にみればそうやって政権は交代してきたのです。つまりガバナビリティ(被統治能力)ということです。江戸期の農民一揆はそのような為政者と領民の関係を互いに認め たところで・その一線を越えない範囲でやりあうものでした。どうしてそうなるかと言えば、まず武士の側から見ると、武士が武力にまかせて農民を無差別に殺戮して弾圧するならば・農民は土地を放り出して米作りをしなくなり、そうすると武士は年貢が取れなくなって政権が立ち行かなくなるからです。江戸時代の国家経済の基盤は米であったからです。だから武士はそこまで農民を怒らせない範囲でうまく治める必要があったのです。嘉永6年(1953)、南部藩での一揆において駆けつけた役人が一揆勢に「百姓の分際でお上を恐れぬ不届き者」 と怒鳴りました。これに対して百姓たちはカラカラと笑い、次のように言ったという話が当時の百姓一揆物語に出てくるそうです。

『汝ら百姓などと軽しめるは心得違いなり、百姓のことをよく承れ。士農工商天下の遊民みな源平藤橘の四姓を離れず、天下諸民はみな百姓なり。その命を養ふ故に、農民ばかりを百姓と云うなり。汝らも百姓に養わるなり。この通理を知らずして百姓らと罵るは不届き者なり。その処をのけて通せ』(「遠野唐丹寝物語」)

こんな風に農民に怒鳴られて・スゴスゴと道を明け渡す武士の姿を想像してみてください。しかし、ここで怒って農民を斬ったりすれば藩の対応が問われることになる。そのような行為はご法度なのです。百姓は国の御宝だからです。ですからもし百姓一揆が起きた場合は適当に暴れさせてガス抜きさせる(つまり多少の打ちこわしは黙認する)のが一番だということになります。一揆の指導者については一応形通りの処分をするけれども、誰彼も無用に磔刑に処することなど絶対にしませんでした。一揆する農民の側にも無言のルールがありました。鋤や鎌は持っても、刀や銃 などは絶対に使わない。火付けは絶対しないなどです。あくまでお上に待遇改善を願うのであって体制転覆を図るのではないというところが、一揆する側の立場なのです。ですからお互いに治め・治められる立場を認め合うところで江戸期の農民一揆は行なわれたものでした。江戸期は一揆が頻発し数えれば三千数百件くらいの一揆が起こったそうですが、大抵はそんなものだったのです。(これについては保坂智著:「百姓一揆とその作法」あるいは白川部達夫著:「近世の百姓世界」などが参考になります。)

保坂智:百姓一揆とその作法 (歴史文化ライブラリー)
白川部達夫:近世の百姓世界 (歴史文化ライブラリー

このような認識を以って「東山桜荘子」(佐倉義民伝)の舞台を見るならば、こんな封建主義批判の芝居が江戸時代にあったのかなどと驚くことは決してないはずです。佐倉宗吾の将軍直訴自体は確かに穏やかではないことですが、そこにお互いに治め・治められる立場を認め合うところがあるならば、それを許さないほどお上に慈悲がないわけではないのです。むしろ このくらいの寛容を見せることはお上の度量の大きさを示す絶好の機会だから望ましいくらいのものです。まず「東山桜荘子」の世界構造がそのようにあって、その世界観のうえに「甚兵衛の渡し」と「子別れ」のドラマがあるのだということを知っておく必要があります。

別稿「世界とは何か」でも触れましたが、歌舞伎の時代物の「世界」構造とはどういう意味を持つのでしょうか。お上の規制があるので同時代の事件をそのまま描けないから・方便として架空の出来事に仕立てて勧善懲悪のパターンで逃げを打ったということも、建前としてもちろんあります。しかし、歌舞伎の「世界」がひとつの作劇の概念として定着した後においては「世界」のハンデを逆手にとって作劇に利用するという積極的な意味があったのです。「世界」の積極的な意味とは「そうでなければ叶わない」と誰もが納得する結末に芝居を至らしめるということです。佐倉惣五郎の物語をそのような視点で見てみたいものです。(この稿つづく)

(H22・7・26)


○惣五郎とかぶき的心情・その1

今日では「佐倉義民伝」として知られる三代目瀬川如皐の「東山桜荘子(ひがしやまさくらそうし)」が四代目小団次によって初演されて大当たりを取ったのは嘉永4年(1851)江戸中村座でのことでした。ちなみに浦賀沖にペリー率いる黒船が来航したのはその2年後の嘉永6年のことになります。幕末の世相は次第に混乱の様相を呈してきます。ところでいつぞや「佐倉義民伝」の解説を眺めていましたら、どなたの解説だか忘れましたが、「幕末の世相穏やかならぬ時期に直訴の芝居を上演差し止めにできなかったのは、当時の幕府の権威がいかに落ちていたかを示すものである」という趣旨のことを書いているのが目に付きました。残念ながらこれは認識がちょっと違いますね。確かに佐倉惣五郎はその後の明治において自由民権運動のシンボルとして祀り上げられた背景がありますから「佐倉義民伝」を見るとこんな封建主義批判の芝居が江戸時代にあったのかと驚くのかも知れませんねえ。しかし、逆にして考えてみれば、そのような体制批判の因子を持つ(と思われるような)芝居を幕府が問題視せず・上演が許可されたということは、幕府はこの芝居をそのように解釈しなかったということなのです。それはどうしてかという背景を考えないから上記のような誤解をするわけです。本稿ではこのことをきっかけとして「佐倉義民伝」という作品を考えていきます。

まず嘉永4年(1851)江戸中村座での「東山桜荘子」初演は当初その成功が危ぶまれて・座主が上演を渋ったと言われています。しかし、その理由はこの芝居が百姓農民を主人公とする地味な芝居(これを木綿芝居と呼びました)で派手さがないので・これでは巷の話題にならないと心配したからでした。農民直訴の芝居がお上の神経に触って上演差し止めになるかも・・・という心配をしたのでは ないのです。ところが蓋を開けてみれば興行が100日を越える大ヒットとなったのでした。こうして本作は「切られ与三郎」と並ぶ如皐の代表作となりました。

もちろん「東山桜荘子」は佐倉の惣五郎伝説をそのまま劇化したわけではなくて、本作は題名から分かる通り世界を東山に採り・つまり室町時代であると仮託した時代物で、如皐はこれを柳亭種彦の合巻「偐紫田舎源氏」をないまぜにしたお芝居に仕上げたのです。このような形になったのは当時は幕府の規制により実在の人物や事件をそのまま芝居にすることが出来なかったのでそうなったのです。全七幕の芝居のなかで特に三幕目の「甚兵衛の渡し」と「子別れ」が好評でした。また大詰め「織越家館の場」で惣五郎の怨霊が殿様を悩ませる場面で燈篭抜け・居所抜けなど小団次が得意とするケレンが用いられて、歌舞伎年代記ではこれが「大出来」と書かれています。

本稿では「佐倉義民伝」(東山桜荘子)をいろいろな角度から考えていきたいと思いますが、とりあえずどうして幕府が農民直訴の芝居の上演を禁止しなかったのか・その理由のひとつ目を挙げておきます。はっきり言えばそれはこの芝居で描かれている農民の窮状はあくまで藩主織越大領政知の不始末によるもので、別に封建制度の批判なんてところに作品の主眼がないからです。お上である足利将軍は主人公の朝倉当吾(佐倉惣五郎)の直訴を受け入れて、お上としての慈悲を示した。足利幕府は正しい裁きを行ない、御政道の正しいことが示された。殿様も 当吾の怨霊に悩まされますが、最後は改心します。当吾は大明神として祀られてメデタシメデタシということになります。これが時代物というものの構造です。「 東山桜荘子」は後の世から見れば確かに由々しい主題を秘めた作品には違いないのですが、とりあえずお上はそのことを見ないことにするのです。時代物の世界構造がしっかり守られている限りお上は寛大なのです。

しかし、幕末期にも幕府により上演差し止めになった芝居は数多くありました。慶応2年(1866)2月守田座での「鋳掛け松」はしがない鋳掛け屋松五郎が、通りがかった鎌倉花水橋の橋の上から島屋文蔵と妾お咲の乗った涼み船での豪遊を眺めています。これを見ているうちに、松五郎はむらむらとしてきて、「ああ、あれも一生、これも一生・・・こいつァ宗旨を替えなきゃならねえ」と言って、鋳掛け道具を川へ投げ込んでしまって「鋳掛け松」と仇名される盗賊になってしまうという場面が大評判となりました。この芝居が原因となって幕府は「近年世話狂言、人情を穿(うが)ち過ぎ、風俗にも関わるゆえ、以来は万事濃くなく、色気なども薄く、なるたけ人情に通ぜざるように致すべし」とのお達しを出し、芝居に対する検閲強化に乗り出しました。小団次はこの報を聞いて身体をぶるぶると震わせてこう言ったといいます。

『それじゃあこの小団次を殺してしまうようなものだ。もっと人情を細かに演てみせろ、もっと本当のように仕組めといってこそ芝居が勧善懲悪にもなるんじゃ有りませんか。見物が身につまされないような事をして芝居が何の役に立ちます。私は病気は助かっても舞台の方は死んだようなものだ。御趣意も何もあったもんじゃねえ、あんまり分からねえ話だ』(河竹繁俊:「河竹黙阿弥」)

河竹繁俊:河竹黙阿弥 (人物叢書)

小団次はお達しを聞いてガックリとしてしまい、その翌日から面相がみるみる悪くなっていき、病気が重くなって小団次はそのまま亡くなってしまいました。黙阿弥は痛恨の気持ちを込めて、日記に「全く病根は右の申し渡しなり」と書いています。(別稿「小団次の西洋」をご参照ください。)ちなみに慶応2年とは明治維新の前年のことです。当時の幕府の権威が(少なくともお膝元の江戸においては)どれほど凄いものであったか・これで想像が付くと思います。ところで「鋳掛け松」は普通の世話物で、別に封建体制批判をしたわけでもないのです。「あれも一生、これも一生・・・」とやっただけのことです。これのどこがいけなかったのでしょうか。幕府はこの芝居を「今の世の中は嫌だ、こんな生活はご免だ、こんな世の中は変わってしまえ」という民衆の気分を煽っていると受け取ったのです。だから無視するわけにいかなかったのです。

嘉永4年の「東山桜荘子」と慶応2年の「鋳掛け松」は上演年代も作品も違っていますが、幕府が芝居に対して常に警戒するのはどういう点であるか、このふたつを比べてみれば分かると思います。それは実に曖昧な判断基準であるのですが、為政者はその絶対的権威を以って民衆に慈悲を示す「許しの構図」がその作品に見られるならばこれを許すのです。それは為政者が自らがそうありたいと願う・もっとも望ましい姿だからです。(別稿「歌舞伎とオペラ」のなかの「モーツアルトという時代」をご参照ください。)現在の「子別れ」中心の上演形態ではそのことが明確に分からないかも知れませんが、「東山桜荘子」(佐倉義民伝)はそのような世界構図を取っているのです。これが幕府はこの作品を上演差し止めにする必要はなかろうと判断したことの理由のまずひとつ目なのですが、さらに「佐倉義民伝」という作品背景を探っていきたいと思います。(この稿つづく)

(H22・7・20)


 

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