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武智歌舞伎のアヴァンギャルドな感覚


1)「蝶の道行」のこと

ご存知の通り、歌舞伎の舞台というのは決して初演時の形態をそのまま伝えているものではなく、上演される度に役者の工夫が加えられ・さらに長い歴史のなかで取捨選択がされた・その結果が地層のように積み重なったものです。なかには作品解釈の見地からは理屈にはずれた・おかしな演出もしばしばありますが、そういうものさえ長年繰り返し上演されていくなかで歌舞伎の型としてこなれて・認知されるものになっていく、そうやって型は歌舞伎らしくこなれていくのです。そうやって「これでやらなければ歌舞伎じゃないよ」というものになっていくのです。型というものは、初めから型として創造されたものと思うのは間違いです。型は繰り返し上演されていくなかで、本物の型になっていくのです。

ところで、今月(平成23年5月)明治座では舞踊「蝶の道行」が染五郎の助国、七之助の小槙で上演されています。これは武智鉄二演出・川口秀子振付・山本武夫美術に拠るものです。「蝶の道行」は「けいせい倭荘子」という天明期の歌舞伎のなかの所作事で、これは昭和37年(1962)9月歌舞伎座での武智鉄二演出による復活上演で大評判を取ったものでした。(この時の助国は七代目梅幸・小槙は六代目歌右衛門でした。)つまり武智がこの時に復活していなければ、もうすっかり忘れ去られて我々の記憶のなかに残らなかった作品です。それも今では「蝶の道行」のひと幕だけがかろうじて上演されているだけですが、それでも「蝶の道行」が上演されるおかげで・「けいせい倭荘子」の名は残り、我々も天明歌舞伎の名残りにちょっと触れることができるわけです。そして今は文献で想像するしかない演出家・武智鉄二の演出にも、ここでちょっと触れることができるわけです。この武智の演出について、「初演の時は斬新に見えたが・今見ると巨大な蝶や花・義太夫の曲・古色蒼然として、もはや時代遅れに見える」というようなご感想を書いた方がいらっしゃいました。

吉之助が思うには、武智演出による「蝶の道行」の舞台は昭和30年代半ばの アバンギャルド感覚を反映していて、確かにその時代の空気を濃厚に感じさせるものです。昭和37年は吉之助はまだ物心付くか付かないかの時代ですから・もちろん吉之助はその初演の舞台を見ていません。しかし、当時の観客が感じたであろう新鮮な感覚は想像ができます。その初演時の観客の感動を大事にしたいと思うのですねえ。これは役者だけのことを言っているのではありません。観客にとっても同じことなのです。例えば九代目団十郎も・六代目菊五郎 もそれぞれの生きた時代の感覚を取り込みながら型を創造してきたのです。そのような・それぞれの時代時代の感覚も歌舞伎は取り込み、それを地層のなかに組み込みながら、歌舞伎は少しつづ変化して来たのです。そのなかに昭和30年代の感覚が・つまり武智の感覚が取り入れられることは、むしろそれはとても素晴らしいことだと吉之助は思うのですね。型というものは、つねに時代に立脚し・そこから発するものですが、良いものはやがて時代の制約から離れていくものです。その過程にあるものをよく見極めることです。我々は型が型になっていく・その過程を見ているのです。そういうことを考えながら舞台を見てもらいたいと思うのです。

吉之助はもちろん伝説の武智歌舞伎時代は文献で想像するだけで見てはいません。それでも幸い武智の存命中にいくつかの演出作品を目にすることができました。(注:武智歌舞伎というのはマスコミが付けた呼び名で、当時は歌舞伎再検討公演と言いました。)だから、それらの舞台に共通した我が師匠である武智の理念というものをそれなりに感じ取っているつもりですが、いわゆるお芝居より・「蝶の道行」のような所作事の方が、理屈より感覚として「武智のセンスというのはこういうものだったのだなあ」ということが、よりダイレクトに・よりピュアにつかめるという気がしています。お芝居というのは、やはりどこか理屈が先に立つものです。所作事の方が作り手のセンスが生(なま)に出るのでしょう。武智の古典感覚が直接的に分かるという意味においても、「蝶の道行」は是非長く伝えて欲しい舞台だと思うのです。

それでは「武智のセンスというのはこんなものだったのだなあ」というのはどういうところにあるかと言えば、それはやはり20世紀初頭のノイエザッハリッヒ・カイトに根差したアバンギャルドな感覚であるということです。それが武智の「蝶の道行」であり、つまりアバンギャルドな感覚において古典を再構築しようとしたのが武智歌舞伎であったということなのです。「蝶の道行」の舞台をご覧になれば、そのことが実感としてお分かりになるはずです。


2)アバンギャルドな感覚

前項において「武智の演出のセンスというのはこういうものだったのだなあ」ということは、いわゆるお芝居の演出作品よりも、「蝶の道行」のような所作事の方が感覚的に・よりピュアにつかめるということを書いたわけです。それは巨大な蝶や花のオブジェとか・衣装デザインとか、そのような目に見えるもののことだけを言っているのでありません。武智の演出の基本になるものはアバンギャルド感覚だということです。それは明確に武智が生きた時代の感覚に立脚しているのです。このことが「蝶の道行」の舞台を見れば、感覚としてパッと分かると思います。「アバンギャルドavent-garde」という言葉を最近はほとんど聞きませんねえ。つまり前衛芸術(または前衛美術)のことです 。20世紀初頭の芸術運動であり、特にロシア革命前後に起こったロシアン・アバンギャルドはその代表的なものです。吉之助は別稿「伝統芸能における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」において、20世紀初頭の芸術思潮としてのノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)のことに触れましたが、アバンギャルドもその流れを汲むものです。

武智鉄二は「伝統」ということをとても厳格に考えた人であるというイメージが、世間にはあるだろうと思います。まあ、それは確かにそういう言い方もできると思いますが、ということは「伝統」という言葉にどのようなイメージを持つかで、武智の見方が百八十度変わっちゃうということなのです。「伝統を守る」というと、これは口伝だからその通りにやるべしとか、これは型を守らねばならぬから・こういうやり方を守るべしとか、守るべき規範が最初からあって・これを遵守するというような保守的なイメージになり勝ちです。

例えば実際に武智歌舞伎の舞台を見た方のよくある感想として、従来の歌舞伎では腑に落ちなかった部分が武智歌舞伎を見ると「あっ原作はホントはこうだったんだ」という発見・感動があったというのがあります。これはその方の正直なご感想としてはもちろんよく分かります。しかし、それが現行の歌舞伎が原作を歪めたものであって・長い歴史のなかで埃や手垢にまみれたものが現行の歌舞伎であり・武智はそのような垢を洗い落として原作に回帰しようとしたという認識、あるいは現行の歌舞伎は堕落しており・武智はそれを伝統の名において元に戻しに掛かったのだというような認識になるならば、それはちょっと困るのですねえ。「武智歌舞伎というものはそのようなものだったのじゃないか」と期待をされる方は巷間少なからずいらっしゃると思います。しかし、それはちょっと違うと吉之助は思うのですね。そのような誤解は「伝統」という言葉の保守的な・旧弊的なイメージから生じるのだろうと思います。(もちろん大資本松竹に立ち向かうプロレタリア演出家武智みたいなはったりポーズをご本人が意識して取ったことも事実としてありますがね。)

伝統というものを、ずっと歩いてきて・ある時ふっと振り返って見て・後ろにはるかに見える長い道という風に考えたいのです。振り返って見た時に、そこに自分の出発地点が見え・試行錯誤の跡もそこに残っている、そのような道であるとします。だとすれば、自分の行き先を見失った時には・もう一度自分がいた場所に戻ってみればよろしいわけです。そこからもう一度新たな歩みを進めれば良いのです。武智はただ頑なに「伝統」というものを守るべきものだとしたことは、決してないのです。伝統とは我々日本人が歩いてきた道なのであり、出発点から現在までの地点に線を引いてみれば、我々日本人がこれから進むべき方向は自ずと見えるということです。そのような 創造・再構築の起点として伝統を捉え直すということなのです。

ですから武智歌舞伎とは、現代的感性で原作を読み直して・演出が伝統のなかに収斂(しゅうれん)されていく過程をヴィヴィッドに追体験しようとしたということなのです。それはアバンギャルドな創造行為なのです。吉之助が目にした武智の演出作品は数はそう多くはありませんが、それらはどれも出来立ての浴衣みたいに・糊がよく利いたパリッとした印象であったと思います。そこに吉之助は武智のアバンギャルド感覚を見たいわけです。西欧の現代演劇では、シェークスピアを現代風俗に置き換えてしまうような手法が今も流行です。しかし、「月に憑かれたピエロ」のような作品は別ですが、武智のアバンギャルド感覚は、少なくとも歌舞伎では、そのような 手法で発揮されることはなかったと思います。武智は作品の再構築ということを古典化という手法で捉えようとしたのです。武智はその方法論を「伝統」という旗印のもとに構築しようとしたということです。


3)伝統を信じる心

武智の演出場面に居合わせた方(あえて名前を伏す)の思い出話ですが、「鳴神」を演技指導をするなかで武智が「谷を隔ててという口伝がある」とか色々おかしなことを言い出す、そもそも「鳴神」というのは二代目左団次が復活するまで約二百年絶えていたものなのにそんな口伝が残っているのか?、こういうことを言って煙に巻くから普通の人は付いていけなくなるんだ、そのような笑い話であったと思います。こういう話を聞くと、武智は伝統であるとか・口伝であるとか・型であるとか、たとえ出任せであっても・もっともらしい屁理屈を言って、その権威で以って相手を黙らせようとするという印象になるのかもしれないと思います。確かにそのようなはったりの要素がなかったわけではないかも知れません。そのように感じるのも武智の普段の言動に原因があったのでしょう 。しかし、吉之助はもうちょっと別のことを考えてみたいと思うのです。

武智が武智歌舞伎を始めた時、武智の述懐によれば、その時の扇雀(現・四代目藤十郎)は下手でどうしようもなかったといいます。一方で舞踊その他のジャンルから参加してきた人は、もともと芝居が好きで飛び込んで来た人たちなので器用で教えたことはすぐ取ったそうです。ところがそういう器用な人たちは「この役はこうでなければならない」、「ここはこういう声を出さなければこの役にならない」という肝心な時に反応しない。逆に不器用だった扇雀はこれは最初はどうなるかと心配していると、口伝という言葉にピーンと反応して、苦労しながらでも遂にはものにするといいます。「これは家庭教育の問題ーつまり家庭環境が歌舞伎になっているということだ」と武智は言っています。(詳細は「芸十夜」・第9夜をお読み下さい。)

武智鉄二・八代目坂東三津五郎:芸十夜

「この役はこういう風に、こういう声で演じないとこの役にならない」と言われた時に、「どうしてそんなやり方でやらなきゃならないんだ、俺なら最少の努力でもっと効果の上がるやり方ができるぜ」なんて思っていると、遂に歌舞伎にならなくて終わってしまうということなのです。扇雀のような御曹司は、なかなか出来なくて苦労しても、「ここはこうでなければならない」という言葉、型とか口伝といわれるものを信じてひたすらついて来る、そうすれば下手でもいつか必ず歌舞伎になるということです。

まあこれは言い方を変えれば、実は「指導している俺(武智)を信じて黙って付いて来い」ということに等しいわけです。歌舞伎というのは、伝統芸能であるはずです。だから歌舞伎役者たる者は「これは口伝である」・「これは昔からの型である」という言葉に、神の言葉を聞いたかの如くに、無条件でピーンと反応してくれなければ困るということなのです。それをひたすらに信じて、苦しみながらでも・泣きながらでも、それでも付いて来れば、彼はいつか何かをつかむということです。口伝とか・型というものはそういうものだと武智は言っているのです。口伝とか型というものは、受け継ぐ者がそれが大事である・守らなければならぬ物であると認識することによって、初めて口伝となり・型となるのです。吉之助は、「谷を隔ててという口伝がある」云々と武智が言ったということも、そのような意図が背後にあったに違いないと確信しています。上記の挿話はそのようにお読みいただきたいわけです。

ですから、そんな口伝がホントに残っているのか?そもそもそういう口伝は正しいのか?何か文献的な根拠があるのか?なんてことが疑問として湧いてくるのは分からなくはないですが、そういうことは 実はどうでも良いことなのです。過去(先人)を信じる気持ちこそが大事なのです。それは信仰の如きものです。これを伝統・口伝・型として認める権利は、受け取る者が常に持つのです。つまり、伝統のスタンスは常に現代にあるということになる。このことが分かれば、伝統とか・口伝・型ということの本当の意味がおぼろげに見えてきます。

しかし、一般には、伝統・口伝・型などと言えば、それは「昔から守らねばならぬものとして厳然とあって・これを受け継ぐ後世の者は半ば義務としてこれを守ることを課せられる」みたいなイメージを持つのでありましょうねえ。それだから上記のような挿話が笑い話になってしまうわけです。武智はまだまだ誤解されていますねえ。

ところで、このところすっかり忘れ去られた感のあった武智鉄二の評伝が、つい最近、ひょっこり出版されましたので紹介をしたいと思います。森彰英著・「武智鉄二という藝術〜あまりにコンテンポラリーな」です。実は本の帯に「伝統を守った男はなぜボルノ映画の監督になったのか。豪放と虚栄、奢侈と零落・・」とあったのでゴシップ興味の内容か(世間の武智への興味はまだそんなところにあるのでしょうかね)と危惧しましたが、幸い内容は弟子である吉之助が読んでも納得できるもので、伝統芸能方面・映画その他の活動も含めて武智の業績をトータル的に素直に網羅できていて、「武智はどんなことをした人なの?」という興味のある方には 十分役に立つ本であると思いました。著者個人の生きた時代と重ね合わせる手法もそれなりに効果をあげています。

著者の武智の理解が正しいものであることは、「あまりにコンテンポラリーな」という本の副題からも分かります。「伝統を守った男はなぜボルノ映画の監督になったか」という世間の興味は、あの謹厳な倫理道徳の先生が実生活では乱れまくっていたみたいなミスマッチングに受け取られていることから来ますが、結局、武智鉄二にとって、武智歌舞伎も映画も、どちらも現代にスタンスを置いたアヴァンギャルドな芸術活動なのであって、両者に境目はなかったということなのです。吉之助は、そのような武智の考え方はノイエ・ザッハリッカイトの芸術思潮であったということを申し上げています。そのことが分かれば、武智歌舞伎とは何だったか・武智にとって伝統とは何だったかということも分かってきます。

残念ながら、武智の周囲にいらした方で武智の思想なり・方法論を継承発展させることを自ら任じて行なわれた方はいらっしゃいませんでした。それは武智の弟子を自認する不肖・吉之助の役目だと思っていますので、さらに伝統芸能での武智の思想を踏み込んで学びたいとお思いの方は、吉之助のサイトの記事などお読みいただきたいと思います。

(後記)

別稿「伝統芸能における古典(クラシック)〜武智鉄二の理論」をご参考にしてください。


吉之助の三冊目の書籍本です。

「武智歌舞伎」全集に未収録の、武智最晩年の論考を編集して、
吉之助が解説を付しました。

武智鉄二著・山本吉之助編 歌舞伎素人講釈

 


 



 

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