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荒事としての宗五郎

平成16年5月歌舞伎座:「魚屋宗五郎」

十代目坂東三津五郎(魚屋宗五郎)、七代目中村芝雀(五代目中村雀右衛門)(おはま)他


1)荒事としての宗五郎

史料を丹念に調べなければ気が付かないことですが、戸板康二が「魚屋宗五郎」は「「ひらかな盛衰記・逆櫓」を世話に砕いた作品であるということを指摘しています。どこがどうして?と思いますが、こういうことだそうです。

「魚屋宗五郎」の初演は明治16年5月市村座のことですが、この時の一番目が「ひらかな盛衰記・逆櫓」で・二番目が黙阿弥の新作「新皿屋舗月雨暈」すなわち「魚屋宗五郎」であったのです。「逆櫓」で樋口を演じたのは四代目芝翫・権四郎は九代目団十郎でした。この「逆櫓」でお筆の話から孫の槌松が取り違えで殺されたことを知り、さらに若君を返してくれと言われて、権四郎は怒り狂ってこう叫びます。

「チエヽ、思へば思ひ廻すほど、身も世もあられぬ、よう(孫を)大それた目に逢はせたなあ。それになんぢゃ。思ひ諦めて若君を戻して下され。エヽ、町人でこそあれ孫が敵。首にして戻さうぞ」

結局、権四郎は正体を明かした松右衛門(樋口)に説得されるので・権四郎は大暴れするというところまではいきませんが、この権四郎の叫びには権力の非情と・その犠牲になってもただ泣くしかない庶民の憤りが込められています。この「逆櫓」を世話に砕いたのが「魚屋宗五郎」 だと言うのです。さらに永遠のライバル九代目団十郎が演じる船頭権四郎に、五代目菊五郎の魚屋宗五郎を得意の世話物で対抗させようという黙阿弥の密かな意図が込められているというわけです。

なるほどねえ。まあ、こういうことは現在のように「魚屋宗五郎」だけ切り離されて演じられている分には関係ないかも知れませんが、いろいろ調べてみると、演目や配役などに密かな工夫がされていることはよくあることです。そこで思わぬ発見があったりします。

ところで吉之助がずっと気になっていることは・別のことで、「宗五郎」という主人公の名前のことです。宗五郎というと江戸(東京)の民衆が真っ先に連想するのは佐倉宗五郎のことではないでしょうか。これは 吉之助の想像で別に根拠はないですが、宗五郎という名に・農民たちの苦境を見かねて将軍に直訴をして磔(はりつけ)の刑に処されたというあの義民のことが重ねられているのではないかということを前から考えています。

宗五郎の酒乱というのは一種の「荒れ」ですね。世話の荒事であると言ってもよいものです。言うまでもなく荒事とは御霊神の怒りを表現するものであって、そこに反体制的な要素を持つものです。「ごりょう(御霊)」の音は「ごろう(=五郎)」に通じ、曽我五郎も鎌倉権五郎もそれゆえ御霊に連想されます。佐倉宗吾(惣吾)が「宗五郎」と呼ばれるのも、この義民が内面に持つ憤りがまさに御霊神の持つ反体制的な怒りと同じものであることを庶民が嗅ぎ取っているからに違いありません。 (注:「佐倉義民伝」に荒事の要素があることは「宗吾内・子別れ」の場では分かりませんが、「仏光寺祈念の場」において・せめて子供の命を助けてもらいたいと僧光然が祈念するが叶わず・怒りで数珠を切って印旛沼に入水する場面があります。この場面は荒事の系譜を引いているのです。)

魚屋宗五郎の荒れも同様で、まったく理不尽な理由で妹お蔦を手打ちにした磯部の殿様の処置に対して・次第に沸きあがってくる憤り・怒りというものがその荒れの根底にあります。やはり黙阿弥はここに御霊神としての宗五郎のイメージを重ねているように思われます。だから宗五郎の酒乱は世話の荒事なわけですが、黙阿弥が巧いと思うのは、普段であれば庶民はそういう怒りがあってもストレートにその憤懣をぶちまけるわけにはいかないわけですから・酒の力を借りてそれを行うように劇の段取りを構築していることです。 そこに世話の工夫があるのです。逆に言うと「酒のせい」にしないと怒れないのです。そこに庶民の哀しさが見えてきます。

磯部の殿様の屋敷に暴れ込んだ宗五郎は酔いが醒めると恐縮して・殿様は自分の短慮を詫びて宗五郎に弔意金を与えて幕となります。この磯辺邸への暴れ込みは「義民伝」の佐倉宗五郎の上野寛永寺での将軍への直訴と対照させればよく理解できます。将軍は佐倉宗五郎の訴えを慈悲を以って聞き入れ、佐倉領主堀田家を処分します。同様に磯部の殿様はおのが短慮を悔い・お蔦を不義者だと嘘の報告をした用人岩上吾太郎・典蔵親子を処分し・「宗五郎、健吾で暮らせよ」と情けの言葉を与えてそれで終わりです。宗五郎はひたすら恐縮して・殿様の言葉を有難がるだけです。

観客をハラハラさせておいてこの場で宗五郎が無礼討ちになる結末にならないところが、まあ明治の世の作品であるとも言えましょうか。結局、芝居は小悪の処分だけで終わり・反体制的な怒りを秘めつつも・体制への本質的な 批判にまでは至りません。ここら辺が黙阿弥の限界ということであるのかと・吉之助も昔はそう思って見ていましたが、もしかしたらこれが寡黙な黙阿弥の精一杯の時代への抵抗であったのかも知れません。

五代目菊五郎が黙阿弥に「安達元右衛門のような酒乱の役が演りたい」と頼んだのが本作執筆のきっかけであったそうです。それはそうなのでしょうが、そうした娯楽性だけが本作の要素ではないかも知れません。酒乱のきっかけに・元右衛門とは全然違う・身分社会批判的な設定を入れているのですから、やはり「宗五郎」という名前も含めて・黙阿弥にそれなりの問題意識があったということではない かと思います。あるいは本作執筆当時・すなわち明治10年代の黙阿弥の精神状況も察せられます。

黙阿弥の本心は「ご維新でお上の顔ぶれは変わったけれど、ちっともこれと状況が変ってねえじゃねえかい」ということかなと思っています。 「上からはめいじめいじと言うけれど・治まるめえと下からは読む」と言う当時の川柳もあります。明治の世に時代遅れと蔑まれながら・江戸の生世話の芝居をなおも送り 続ける黙阿弥の気持ちというのはなかなか複雑なものがあったと思います。(別稿「明治維新以後の黙阿弥」その1その2をご参照ください。)


2)三津五郎のうまさ

そこで平成16年5月歌舞伎座での三津五郎主演の「魚屋宗五郎」のことです。特に「宗五郎内」は前半の怒りを抑えた演技から禁酒の誓いを破って酒を飲み始め・次第に酒乱の目つきになって暴れ出す件について、五代目菊五郎・六代目菊五郎から二代目松緑へ受け継がれた世話の段取りが伝わっていますが、これを三津五郎が見事に消化しているのに感心させられます。決めなければならない手順が約束事として浮き上がるのではなく、様式と写実がよく溶け合っています。

六代目菊五郎はこの芝居の舞台稽古の時に芝居をなるべく時代に時代にと教えていたそうです。どうしても空っ世話になり勝ちなところをちょっと時代の方へ寄せるように教える辺りが六代目の教授法の巧さでありましょう。生世話のなかに時代の息をちょっと加えてテンポに伸縮を加えるということです。しかし、現代ならば逆に黙阿弥はどうしても時代時代と重い方向に傾き勝ちですから、今なら六代目も世話に世話にと教えなければならないかも知れません。三津五郎はそこの兼ね合いがうまいと思いますねえ。二代目松緑よりうまいかも知れないと思うくらいです。松緑は荒事を得意としましたし、そのイメージのせいか酒乱の迫力はなかなかのものでしたが、生世話となりますとちょっと印象が重たかったかも知れません。(もっとも 吉之助の知っていますのは晩年の松緑です。)何と言いますか・三津五郎だと酒でカーッと頭に血が上って暴れても・ちょうど磯辺邸の玄関先くらいで酔いが醒めてきそうな「程の良さ」があるという気がします。イヤその辺で酔いが醒めてこないとホントに無礼討ちになっちゃいますから。「宗五郎内」は周囲の役者もよく揃っていい芝居になりました。

「磯部邸奥庭」が演じにくいのは、現代ではまあ致し方ないところでしょう。 実は磯部の殿様は宗五郎と同じ酒乱の癖があって・その辺で身分を越えた相互理解があったということになっていますが、酒の上のことなら許せるのですかね。「宗五郎内」で幕にしちゃうわけにもいかないでしょうが、 吉之助は心情的にはこの芝居はそういうつもりで見ております。

(H17・9・4)

(後記)

「歌舞伎の雑談」での「御霊神としての佐倉宗吾」もご参考にしてください。




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