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吉之助の雑談20(平成23年7月〜12月)  


○もうすぐ2012年

いろいろとあった平成23年(2011)ももうすぐ大晦日となります。サイト「歌舞伎素人講釈」は本年が開設11年目でしたが、今年は講演会や電子本出版など新しい試みにもチャレンジできたので、それなりに成果を挙げた年に出来ました。しかし、サイトに連載中の記事で間があいたものが若干出てきたのは、 年齢のせいで吉之助の集中力が散漫になってきたせいもありますが、原因として一番大きいのは目が悪くなってきたからかなと思っています。目が悪いとパソコンに向かうのがおっくうになって、それで更新頻度が落ちてきたようです。最近の吉之助は原稿をストックすることをせず・出来立て原稿をそのままサイトにアップする形を取っています。その時に書きたい材料が優先になるのは当然のことですが、それで連載ものはツイ後回しということになるのです。別に続きが書けなくなったわけではないし・ネタについても全然心配はしてないのですが、本年はどちらかと言えば関心が歌舞伎以外のところに飛んで・それがサイト更新頻度にも影響し ました。東京在住の吉之助は物理的な被害はありませんでしたが、3・11の東日本大震災についてはいろいろな意味で大きな衝撃でしたし、精神的に歌舞伎に集中する気分にとてもなりませんでした。中断していた連載については訥々のペースになるかも知れませんが、しっかりと足元を見つつ・続きを進めて行きたいと思っています。

ところで吉之助はサイトを介して知り合った大事な友人を本年ふたり亡くしました。ここでは本名を挙げませんが、仮にAさんとBさんとして置きます。春に病気で亡くなったAさんは吉之助が企画していた公開講座(現在は講話会として形を変えて継続)運営に側面からいろいろご協力をいただいた方でした。つい先日病気で亡くなったBさんは主として音楽関係でいろいろと情報交換を親しくさせていただいておりました。おふたりとも吉之助とほぼ同世代であり、お互いまだまだ頑張らねばならぬ年代ですから、突然の訃報はショックでしたねえ。今月の吉之助がどうも筆が重いのは、若干そのせいがあると思います。身体第一ということは当たり前のことですが、 健康であることの有難さが身に沁みる年齢になってきました。われらが勘三郎は長期休養から復帰して、先日の舞台を見た感じではどうやら順調に回復しているようなので 喜ばしいことです。同世代の星として頑張ってもらいたい・というか無理はしないで長持ちして行こうじゃないの・お互いにね。

本年の歌舞伎を振り返ってみると、景気後退とかいろいろ要因があったにせよ・歌舞伎座閉場の影響は想像以上に大きかったと思わざるを得ません。いつ頃のことであったか・歌舞伎座が内装工事で何ヶ月だか休んだことがありましたが、こういうポッカリした気分になった記憶が吉之助にはあまりありません。歌舞伎界の雰囲気が何となく核がない感じで散漫に動いている気がするのは吉之助だけでしょうか。本年も富十郎・芝翫と人間国宝が亡くなり、12月も半四郎・芦燕と貴重なベテラン役者が相次いで亡くなりました。こうして代替わりして・歌舞伎も必然的に変わっていくということは分かり切ったことではありますが、今回の歌舞伎座・新劇場開場までの2年ちょっとの間に歌舞伎の環境は相当に変化することでしょう。まあ来年(平成24年)は襲名興行もふたつ控えていることだし・心機一転良い方に雰囲気を持っていってもらいたいと思います。

(H23・12・29)


○山の手事情社の「傾城反魂香」・その3

ところで指揮者の小澤征爾氏が村上春樹氏との対談で興味深いことを言っていて、まったくそのとおりだなあと思いました。小澤氏がベルクの 歌劇「ヴォツェック」の総譜を読んでピアノで音にしてみた時に分かったと思った、ところが練習で実際にオーケストラで音にしてみたら、ありゃっと思って自分で何が何だか分からなくなったというのです。

『書いてある譜面はまったくそこにある通りなんだ。そしてオーケストラもその譜面通りに弾けるんです。それなのに自分に理解できない部分があるんです。(中略)ブラームスやリヒャルト・シュトラウスくらいまでなら、楽譜を見ただけで、どんなハーモニーが出てくるのかは 経験的に大体分かります。しかし、ピアノでオーケストラの音を出そうと思っても、十本の指では足りないという音楽もある。そういうものは実際の音を聴いてみないと分からないです。もっとも、そういう音楽も慣れてくると、十本の指で弾くために、和音の中のどの音を省けばいいか、その辺のコツがおおよそ分かってきます。逆に云えば、どの音が省けないものかということが分かってくるということだけど。』(小澤征爾x村上春樹:対談「小澤征爾さんと、音楽について話をする」・文章の流れを良くするために若干語句をいじりました。)

小澤征爾x村上春樹:小澤征爾さんと、音楽について話をする(新潮社)

吉之助はこんなことを考えます。オーケストラの総譜を見てピアノでこれを音に しようとする時に、十本の指で弾くために、和音の中のどの音を省けばいいか、どの音が省いたらいけないか、それを考えなければいけない。そうすると、もし人間の指が十二本 あるならば・あるいは八本ならば、どの音を省けばいいか、どの音を省いたらいけないか、それに応じて鳴るべき響きは自ずと変わってくるのであろうなということです。

何か言いたいのか・俄かにご理解いただけないかと思いますが 、吉之助は何でも音楽に関連付けて考えます。ここでは近松の歌舞伎の「傾城反魂香」通し上演は何とか出来ぬのかということです。近松の原作は 挿話が次々と繰り出されて、ただ読むだけでもなかなか骨が折れる膨大な分量です。歌舞伎の「吃又」だけでも70分くらいは掛かる ものですから、この調子で通し上演をすると現代ではとても上演は出来ません。だから現代においては大胆 なアレンジを施さないと「傾城反魂香」通し上演は無理です。その時に、どの筋を省けばいいか、どの筋を残すべきか、どの台詞を生かすべきか、そういうことを考えながら原作を 骨格を見通す読解力が必要になる ということです。山の手事情社の現代語版は、吉之助から見て原作の必要な部分をちゃんと取って無理がないと感じられる台本でした。それは山の手事情社のスタイルにおいてぴったりと来る ものであった・つまり十本の指で弾くにふさわしい鳴るべき響きにしっかりアレンジされていたということなのです。歌舞伎がそれをやるならば、歌舞伎の指が十二本か八本かは別にして、その切り口・つまり響きは当然変わって来るものであるし、またそうでなければならないのです。

歌舞伎の復活狂言というのは大体つまらないことが多いですねえ。すっかり古典化して見慣れている有名な場面の前後に何十年振りだかで復活された場面がくっ付いていると、ただ筋の辻褄を合わせるだけ のことで、「こんなツマラナイ場面が省かれるのは仕方ないことだ」とその理由を妙に納得させられることが多いものです。まあ何と言いますかね、先の小澤征爾さんのピアノ 編曲の話で言うならば、音楽のリズムの骨格だけを拾って・左手がブンチャッチャブンチャッチャというリズムを刻むだけの、分かりやすいけれど・恐ろしく陳腐な編曲になってしま うということです。大抵の場合は観客が疲れてきたら早替わりか宙乗りを見せとけばまあいいか・歌舞伎は理屈で観るものじゃありませんと云うところに落ちてしまいます。だからドラマの筋の流れを整え ようとするアレンジではなくて、ドラマの様相・響きの色合いを大胆に浮き上がらせるアレンジを心掛けるべきなのです。どの筋を省けばいいか、どの筋を省いたらいけないか、どの台詞を生かすべきか、歌舞伎のスタイルにおいて大胆に そのようなことを行なわなければなりません。

歌舞伎の問題は脚本だけにあるのではありません。実はもっと大きな問題が、歌舞伎役者の写実の表現から遊離した演技感覚とのっぺりした台詞まわしにあります。吉之助は「傾城反魂香」通しのような作品が歌舞伎で上演される環境になることを心底願ってはいますが、歌舞伎役者が現状の感覚で本作を上演しても多分・山の手事情社の舞台を凌ぐ舞台は出来ないだろうと思っています。「近松ならばこっち(歌舞伎)が本家だ・これが伝統の 底力だぜ」という感じのものを見せてもらいたいものですが、チト無理でしょう。歌舞伎は現代とは違うゆっくりした時間のなかに生きている・それが歌舞伎の良さだというような感覚が、世間にも役者にもあるようです。時代と対峙するのは現代演劇だけの役割ではありません。ホントは歌舞伎は過去の視点から「ここ(江戸のドラマのなか)にお前たちの時代(現代)と同じ生の実相がある」ということを未来の観客(現代の観客)に向けて鋭い問いを突き付けなければならないはずです。「近松ものの主人公たちが夢見た世の中に300年後の我々は生きているのか?」ということです。あれから300年も経ったのにその時より我々は ちょっとは成長したのか・日本は良い国になったのか・世界は幸せになったのか、そういうことです。歌舞伎はそういう問いを現代に突きつけることができると思うのですねえ。歌舞伎が伝統の力を取り戻すためにはどうしたら良いか、吉之助はそんなことなど考えながら山の手事情社の舞台を見ていたのですが。

(H23・12・24)


○山の手事情社の「傾城反魂香」・その2

「傾城反魂香」(宝永5年・1708・大坂竹本座)は絵師・狩野四郎二郎元信の二百五十年忌を当て込んで作られたもので、元信は土佐将監光信の娘婿となって・後に絵所の預かりとなったという史実 を踏まえています。題名がみや(傾城遠山)の件から来ることは 前述した通りですが、みやは将監の娘で、浪人した父親の貧苦を救うために遊女となったことになっています。将監は又平の師匠ですから、ここで「吃又」が本筋と絡んで来る わけです。冒頭・越前気比の浜の場では、殿様に松の絵を描くように命じられた狩野元信がその手本になりそうな松の名木を探しています。そこで出合った傾城遠山 (=みや)から土佐の秘伝の松の図を伝授され、ふたりは後日の契りを誓います。ここで遠山が「親の許しもないうちに、筆取ることはいかがなり、アア何とせん・・」と 思いついて、奴の雅楽之介を松ノ木になぞらえて・様々なポーズを取らせながら・松の秘伝を元信に伝授します。ちょっとコミカルで・思わず笑いがこみあげる場面ですが、これは単なる見立てということではなく、その強い思いを以って見るならば奴の手足も松の名木の枝と見えると 云うことであり、ですからこれも反魂香であると読んでよろしいでしょう。

最終場面・山科土佐将監山庄の場では、元信の婚約者・六角家の姫君・銀杏の前が将監の娘遠山の姿をして現れ、元信と婚礼します。そこで名古屋山三の説明には、死んだ人(傾城遠山)が再び蘇ったものと思って結婚なさい・なまじっか儀式張ると養子ということになって面白くない・そこで又平夫婦と相談して遠山の姿に 仕立てたのが私どもの工夫であるというのです。娘が小さい時に別れた将監夫婦は、「娘が成人した顔を見て嬉しい」と言って泣いて喜びます。その強い思いを以って見るならばそこに亡き人の姿が重なって見えるということですから、これもまた反魂香なのです。

遠山の姿で登場する銀杏の前の心境を考えてみます。銀杏の前は、思う人(遠山=みや)があ るので躊躇する元信を計略で騙して無理矢理婚約して横取りしてしまった経緯があり・本来恋敵であるはずですが、婚礼の列の前に 現れたみや(実はその時点でみやは病死しており現れたのは亡霊であった)の七日間だけ元信を貸して欲しいという嘆願を受け入れて、姫は元信をみやに一ヶ月貸す約束をします。(その後に起きたのが三熊野かげろう姿の奇蹟です。)みやの訴えを聞いた姫はちょっと迷う風も見せますが・案外あっさりと承諾する感じで、逡巡する様子があまり見えません。これはこのように考えれば良かろうと思います。姫は知らず知らずのうちに亡霊であるみやの霊気に感応しているのです。「7日というも縁起が悪い。(注:お葬式の初七日を連想させるから。)来月一杯貸すぞよ。」と姫が言うところに、姫がそのような霊的なオーラを感じ取ったことが見えます。ですから最終場面で遠山の姿になって人々の前に現れた姫は、もちろん遠山の心に成り切っているわけです。見立ての趣向やで故人への義理立てで成り切るのではなく、そのような姫の強いポジティヴな思い、それは元信へ対する思いであり・みやへ対する思いでもあるでしょうが、そのような強い思いが姫の姿を傾城遠山そのままに見せ、人々の心を浄化 するのです。

このように「傾城反魂香」 に見える反魂香の主題とは、煙あるいは絵などのなかにおぼろげながらも姿を現わそうとする者(見られる者)とその姿を見ようとする者との間 に存在する強いポジティヴな思い・その強い繫がりなのです。今回の山の手事情社の「傾城反魂香」 の舞台を見ていると、そのような反魂香の主題がとても素直にピュアな形で見る者の心にスッと入りました。実は「傾城反魂香」は近松の原作を見ると結構長いもので、エピソードが盛り沢山で・筋が錯綜した感じがするものです。これを90分に仕立てた山の手事情社の現代語版は、筋や詞章を かなり切り詰めたに違いありません。しかし、実際に舞台を見ると近松の原作をあまり動かした感じがしないのです。必要なものはすべて筋のなかに入っています。近松の何も変えずに、そっくりそのまま現代語化したようにさえ思えます。舞台感覚というものはつくづく不思議なものだと思いますねえ。それにしてもこのような古典の現代演劇による舞台を見ると、それでは本畑の歌舞伎の方では「傾城反魂香」 通し上演は何とか出来ぬのかという疑問が今更ながら頭をよぎります。(この稿つづく)

(H23・12・17)


○山の手事情社の「傾城反魂香」・その1

「反魂香」とは焚くとその煙のなかに死んだ者の姿が現れるという不思議なお香のことを言います。その典拠は中国の故事にあって、唐の詩人・白居易の「李夫人詩」のなかに、漢の武帝が最愛の李夫人を亡くした後、道士に霊薬を調合させて金の炉で焚き上げたところ、その煙のなかに李夫人の姿が見えたとあるそうです。この故事はふたつのことを考えさせます。ひとつは、あの世へ旅立ってい った者(死者)がこの世に残すその思いの強さということです。それは未練とか恨みといったネガティヴな思いではなく、愛とか・生きることへの愛おしさというようなポジティヴな思いなのです。もうひとつは、現世に生きる者(生者)が自分が追い求めるものを煙のなかに見ようとするその思いの強さということです。これも憧れとか・愛おしさということもありますが、何としても生き抜こうとか・愛する者を守り抜こうというような一念でもある・強くポジティヴな思いなのです。武帝と李夫人の故事はそのどちらの思いの為せるものであったか。あるいはそのどちらでもあったかも知れません。それは兎も角、煙のなかに姿を現わす者(見られる者)とその姿を見る者の間の相互の強い思いをそこに感じることができます。

近松門左衛門の「傾城反魂香」(宝永5年・1708・大坂竹本座)は、歌舞伎においては現在では通しで上演されることはもはやなく、上之巻の「土佐将監閑居の場」・いわゆる「吃又の場」だけが上演されます。「吃又」は知らぬ者ない人気狂言ですが、「吃又」だけを見取りで見る限りでは反魂香ということがピンと来ないと思います。「傾城反魂香」は室町時代の絵師狩野元信をめぐる御家騒動物の 如き体裁を取っていますが、全体の筋の流れからすると、「吃又」はどうしても脇筋に見えてしまいそうです。実際、現代の歌舞伎においては浮世又平(吃又)は画才があっても・発声障害の為に世間にスンナリと受け入れられない芸術家の人間的苦悩という観点で描かれることがもっぱらです。その解釈はもちろん間違いではありません。通しを切り取った・見取りの場合には、通しとまったく 異なる様相が浮き上がって来て当然です。しかし、その解釈であると世間に対して芸術家はどう対すべきかなどという方向に関心が行ってしまって、「吃又」と反魂香という主題との関連がますます見出し難くなって来るのも事実です。

ところで平成23年12月浅草アサヒ・アート・スクエアで劇団山の手事情社によって「傾城反魂香」 が上演されたので、これを見て来ました。「吃又」だけの上演ではなく、文楽や歌舞伎でもはや上演不可能と思われる通し上演(筋を切り詰めて90分に仕上げた現代語版ではありますが)であるので近松をどう料理しているか興味あるところでしたが、安田雅弘氏の構成・演出は原作をとても素直に独自のスタイルに移し変えていて、「傾城反魂香」という時代物のなかに「吃又」を置いた時の「吃又」と反魂香との関連が改めてよく分かりました。見られる者とこれを見る者の間の相互の強いポジティヴな思いにおいて「吃又」を見ればよろしいわけです。

「傾城反魂香」という題名は、直接的には中の巻で狩野四郎二郎元信に嫁いだみや(昔は傾城遠山)が実は亡霊で、元信はみやの願いで香を焚いた寝室のなかで熊野三山の絵を襖(ふすま)に描き、二人はこれを背に熊野詣での道行をする(三熊野かげろう姿)という場面から来ています。 しかし、このことは「吃又」が反魂香と関連しないということではないのです。「吃又」で最初に登場する虎は、「吃又」だけを見ていると何 の為に出て来るのか良く分かりませんが、その前の場面(江州高嶋屋形の場)において捕われの身になった元信が自らの肩を噛み・流れ出る血を口に含んで襖に吹きかけ・口で虎を描いたものが抜け出して・元信の窮地を救った虎こそが、「吃又」に出てくる虎なのでした。「吃又」の奇蹟は今更言うまでもないことですが、浮世又平が自害する前に「姿は苔に朽つるとも・名は石魂にとどまれ」と我が姿を手水鉢に描いたものが鉢の裏まで抜けたものでした。「吃又」の次の場(又平住家の場)では又平が描いた大津絵のキャラクターが抜け出して又平を加勢します。これすべて絵に関連する奇蹟ですが、どれも絵を描く者(絵師)の強い思い(芸術的な一念と言ってもよろしいでしょう)がまずあって、描かれた絵自体が絵師の強い思いを帯びて・生きて現世に抜け出るという経過を示しています。つまり、ここには香の煙・死者と生者というシチュエーションこそありませんが、すべてまさしく反魂香そのものなのです。(この稿つづく)

山の手事情社のサイトはこちら。

(H23・12・11)


○幸四郎の「アマデウス」:その3

シェーファーの戯曲「アマデウス」(1979年ロンドン初演)と映画脚本「アマデウス」(1984年制作)は舞台と映画だから構成など違って当然ですが、あるいはその数年の時間差がシェーファーのなかにイメージの変化を生んだのであろうかと思える箇所があります。そ のひとつは映画のなかのモーツアルトの死の直前、まだ未完成の「レクイエム ニ短調K.626」の作曲をモーツアルトがなおも続けようとするのをサリエリが手伝うという場面です。 これは史実としてはあり得ないことですが、映画のなかで強烈に印象に残る場面です。もはやペンを持つ力が残っていないモーツアルトはうわごとのように旋律を口走り、サリエリはその音階を聴き取り必死で楽譜に記していきます。サリエリはそのような確かな音楽的技量を持っているのです。しかし、モーツアルトの音楽が刻むリズム・旋律の展開・和声の変化はサリエリの理解をはるかに飛び越えます。「えっ、こ の音程は何だ?分からない!」とサリエリは叫び、頭を掻きむしり・汗を流しながら、必死でモーツアルトに付いていきます。夜遅くなって疲れ果てたモーツアルトが眠りに付く前にボソッとこう言います。「僕はあなたを誤解していた。あなたは僕のことが嫌いだと思っていた。・・御免なさい。」

*Youtubeの映像で映画「アマデウス」(ミロシュ・フォアマン監督)のその場面をご覧下さい。

以上は映画にあって戯曲の方には無い場面です 。戯曲「アマデウス」を神と人間の対立で読もうとする方は、映画のこの場面を見たら多分混乱することでしょう。モーツアルトを介して神に戦いを挑むと宣言したはずのサリエリがモーツアルトの作曲に協力するというのでは、その人物像が正反対じゃないかと感じると思います。この場面でサリエリはモーツアルトと一緒に、迫り来る死の運命に対して・つまり無慈悲な神に立ち向かっています。これは戯曲の サリエリのなかに明確に存在する要素であって。数年の時を経てシェーファーのなかのサリエリのイメージがより明確になってきたという風に考えるならば十分納得が行くことだと 思います。したがって吉之助はその方向で戯曲を読みたいのです。

逆に言うならば、戯曲の方はそこの詰めがまだ 十分でないのかも知れません。戯曲で言えば、上記映画のレクイエムの場面に対応する場面、第2幕第15場のことです。黒服に仮面を着けた謎の男がモーツアルトの元を訪ねますが、やがてそれが変装したサリエリであったことが分かります。仮面を取り・正体を現したサリエリは「死ぬのだ、アマデウス、私をほっておいてくれ、構わないでくれ」と叫びます。錯乱したモーツアルトが突然「お父さーん」と叫びます。サリエリは凍りつきます。モーツアルトはまったく子供の態になってしまって「お父さん、抱っこしてよ、ねえ、一緒に歌おうよ。」と言ってサリエリに抱きつきます。

戯曲のこの場面はとても衝撃的です。しかし、初演の時もそう感じ・今回の「アマデウス」再演を見てもやはりそう感じましたけれども、吉之助は戯曲のこの場面に少し手を入れたい気がして仕方がありません。ここでのサリエリは印象が ちょっと弱いようです。吉之助ならば抱きついてくる 赤子みたいなモーツアルトをサリエリが思わず強く抱きしめてしまう、そのような無言の演技をサリエリにさせたいと思います。サリエリのモーツアルトへの歪んだ愛を表現できるところはここしかないと思 います。もうひとつ、次の場面でコンスタンツェが戻ってきて死ぬ寸前のモーツアルトを抱きしめますが、そこでモーツアルトが「サリエリが・・・サリエリが僕を殺したんだ」とうわごとで言う のもドラマ的に誤解を生む感じで、吉之助はここも手を入れたいと思いますねえ。吉之助は、ここは「お父さんが僕を殺したんだ・・・」と修正したいのです。この場面でドン・ジョヴァン二の音楽にモーツアルトに強く圧し掛かる父レオポルドの 大きな影が濃厚に重ねられれば、そしてサリエリがその間にモーツアルトを守るかのように立つならば、それまでモーツアルトに対立していた劇中のサリエリの印象を一気に転回できたのに なあ・・・と、そこのところをちょっと残念に思い ますねえ。どうも戯曲の方は、シェーファーのなかで神と人間の二元構図が完全に消化されていないように感じられます。数年後の映画ではそこが巧く行っており、ある意味においてこれは シェーファーの神童モーツアルト像への回帰と言えると思います。戯曲をご覧になられた方は映画も併せて見ることをお薦めしたいと思います。

映画「アマデウス」(ディレクターズ・カット版・DVD)(ミロシュ・フォアマン監督)

平成23年11月ル・テアトル銀座での「アマデウス」の舞台は、吉之助にとっては約30年ぶりくらいでしたが、昭和57年初演のことを懐かしく思い出しました。幸四郎のサリエリは初演の時は溌剌とした印象を感じましたが、今回の舞台ではより練れたというか・人物の描線がより太くな って・特に第1幕で神との対決を宣言するまで息をつかせぬ見事な出来栄えでした。武田真治(モーツアルト)、内山理名(コンスタンツェ)も良い意味で今風で フレッシュで、それが幸四郎のサリエリの重厚さと良い対称を示しており、バランス的にもとても良かったと思います。

ピーター・シェーファー:戯曲「アマデウス」(江守徹訳)・劇書房

(H23・12・6)


○幸四郎の「アマデウス」:その2

シェーファーの戯曲「アマデウス」は、神にその才能を愛でられたモーツアルトと・そうでないサリエリという対立構図、あるいはサリエリの立場からすると「フェアでない」神に対する抗議という風に読まれることが多い ように思います。サリエリは禁欲的・かつ献身的に努力して神への賛美の曲を書き続けてきました。ところがモーツアルトの方は人格的には下品な礼儀知らずの人物で、それにもかかわらず完璧な美そのものの音楽を苦もなく書き散らす才能に恵まれた人間です。サリエリとモーツアルトと、そのどちらを神が愛しているのか、その答えはサリエリには明らかです。サリエリはモーツアルトに嫉妬とも憎しみともつかぬ感情を抱きます。そして遂にサリエリは神との戦い、アマデウスと呼ばれた男・モーツアルトを通しての戦いを宣言します。「すべての名もなき人々よ、私はお前たちすべてを赦そう、アーメン」というサリエリの最後の台詞は、平凡な・才能のない・神に愛でられることのない人々の側に私(サリエリ)は立つという宣言のようにも聞こえます。不公平な神への抗議・気まぐれな神への不審ということでしょうか。「神が死んだ」時代の 近現代ヨーロッパ精神状況にふさわしい主題のようにも思われます。まあ、確かにそのような見方も 出来るかなと思います。思い返してみれば、82年初演当時の吉之助も似たような見方であったかなと思います。しかし、吉之助の場合は30年の時を経て初演の時の記憶が内部変化してしまいました。

はっきり言うと、吉之助は戯曲「アマデウス」を、神と人間の対立、あるいは才能のある者と才能がない者と云う二元構図で割り切りたくないのです。サリエリは、モーツアルトに対して 、正確に言えばモーツアルトの音楽に対して、表現できないほどの感動と愛情を感じています。しかし、サリエリはその感動を素直に表現できないのです。そこにはサリエリの生い立ちやら社会的立場やら、いろいろな要素が複雑に絡みます。モーツアルトの音楽はサリエリに嫉妬とも憎しみ にも似た感情・いらだちを感じさせます。サリエリはそのような相反した気持ちを制御できずもがき苦しみます。人間サリエリを通して、モーツアルトの音楽の真の美しさが浮き彫りにされてい ます。だから吉之助にとっては戯曲「アマデウス」は 、神童モーツアルト像の破壊ではなく・真のモーツアルト讃歌でなくてはならないと思うわけです。これが82年初演当時の記憶を30年寝かせたところの吉之助の結論です。ワインでもウイスキーでも30年物はなかなか深い味わいだそうです。残念ながら吉之助は下戸で・その味わいは分かりませんが、良い芝居の記憶というものはお酒と同じで30年経っても静かに発酵を続けるものであるようです。

戯曲「アマデウス」はモーツアルト讃歌であると云う吉之助の根拠が何から来るかと言えば、それはもちろんモーツアルトの音楽 からです。モーツアルトは「音楽はどんなときでも決して人に不快感を与えずにやはり楽しませてくれるもの、つまり、いつも音楽でなければなりません」と手紙に書きました。嬉しい時でも悲しい時でも、そのような生(なま)な感情を掬(すく)い上げて昇華させて、音楽は常に美しく鳴り響かねばなりません。この戯曲の主題がもし本当に神への抗議・神への不審であるならば、シェーファーはそのタイトルを「サリエリ」とすべきでした。しかし、この戯曲のタイトルは「アマデウス」なのですから、 作品が描くところはモーツアルト讃歌、つまりこれは捻(ひね)ったところの神への賛美に他ならないと吉之助は考えます。

「すべての名もなき人々よ、今いる者も、やがて生まれる者も、私はお前たちすべてを赦そう(Mediocrities everywhere, now and to come, I absolve you all.)」

Mediocrityという言葉は比較する対象が傍にある場合は才能がない者・劣る者というニュアンスに使われることも確かにあるようですが、一般的には、可もなく不可もない者・平凡な普通の人という意味であると思います。モーツアルトが名もない平凡なウィーン市民として死 んで、どこに葬られたのかも分からない・墓碑銘もないという事実を思い出して下さい。 (ただし穴を掘ってそこに複数の遺体を埋めるのは葬送規定に則ったもので、これが当時の最も一般的な埋葬方法だったそうです。十字架や墓石を立てる習慣もありませんでした。)「すべての名もなき人々(Mediocrities)」と云う時にはそのなかにモーツアルトも含まれると吉之助は考えたいわけです。モーツアルトの名前は世に知れ渡っているじゃないかって?それは生前にヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトと呼ばれた男が書いた音楽の名前ではないでしょうか。かつてモーツアルトと呼ばれた男は名もなき 人間に戻って死んだと思います。

もちろん戯曲「アマデウス」台本を読むと、吉之助が言う事は違うという根拠になりそうな箇所は沢山見付かると思います。サリエリの台詞をそのまま字面通り受け取れば、最後までサリエリは神への抗議を続けていると読めると思います。そのような解釈を吉之助は決して否定はしませんが、音楽を聴く人間には・モーツアルトの音楽を愛する人間にはその解釈は受け入れられませんねえ。 サリエリは素直でないのです。やはりサリエリは錯乱していると思います。サリエリはそのような捻じ曲がった形でしかサリエリはモーツアルトの音楽への強烈過ぎる愛を表現できな かったのです。モーツアルトの音楽は残って・サリエリの音楽は忘れられた、だからモーツアルトは優れており・サリエリは劣る 、神はモーツアルトを愛し・サリエリを愛さないなんてことは、神は全然言っていません。そういうことを言っているのはサリエリ本人だけなのです。ドラマはサリエリの心のなかで書かれ、サリエリはそれをひとりで演じ、そしてひとりでもがき苦しんでいるわけです。(この稿つづく)

(H23・12・4)


○幸四郎の「アマデウス」:その1

吉之助が音楽を聴き始めた頃(1970年前後)はモーツアルトで定評があったのは大編成オケで演奏したブルーノ・ワルターでした。吉之助より上の世代のクラシック・ファンは大抵そうだと思います。例えば「アイネ・クライネ・ナハトムジーク K.525」で言えば、吉之助が愛聴していたのはワルターがコロンビア響を振ったステレオ録音(1954年)ですが、年輩の世代ならばウィーン・フィルを振ったSP録音(1936年)を挙げることでしょう。どちらもとても素敵な演奏です。これらはいわゆる「神童モーツアルト」のイメージに沿ったもので、ゆったりと微笑を絶やさないロココ調の優美で暖かいモーツアルトです。

しかし、その後・神童モーツアルト像の見直しの動きが音楽界に始まりました。75年頃であったか・「レコード芸術」誌に連載された石井宏氏の「素顔のモーツアルト」などはその奔りであったかも知れません。オシッコ・ウンコなど下品な言葉を連発して笑い転げるモーツアルト。従妹ベーズレとの乱痴気騒ぎのエピソード などはショックでしたねえ。アロイジアへの失恋の手紙は泣けますが、モーツアルトは今度は一転してその妹コンスタンツェに鞍替えします。この辺も本気で惚れてたのかと思うところもありますが、モーツアルトはその時々においていつも真剣だったと思いたい ですね。それにしても生臭い人間モーツアルト像は、当時の吉之助にはえらいショックであって、作品を考えさせるきっかけになったとは思います。

石井宏:素顔のモーツァルト (中公文庫)

そうなると今度はワルターの演奏が何だか生ぬるくて・物足りなく感じられるようになってきて、吉之助はワルターのモーツアルトとかなり長い間疎遠になってしまいました。加えて80年代に入ると小編成オケや古楽器オケでのモーツアルト演奏が盛んになってきて、それで大編成モダンオーケストラのモーツアルトは時代遅れみたいな感覚になってきました。この流れは今も続いており、吉之助も一時期はそちらへ関心が寄ったのですが、この歳になると・やっぱりワルターの暖かいモーツアルトが一番だと思うようになりました。やっぱり吉之助にとってモーツアルトは神童 だったのです。

まあモーツアルトのような天才がオシッコ・ウンコを連発して下品なことを言うのは何だか「人間的」な感じでもあり、神童よりも近づき易いのかも知れません。そういうなかに名曲の秘密が何かあるのか・・・あるのかも知れませんねえ。しかし、長く音楽を聴いていれば結局そういうことは曲がすべて教えてくれるもので、「人間的なエピソード」は芸術作品を味わうことに直接的にさほど役立たないことも分かってきます。(全然役立たないということでもないのですが、吉之助の経験では当たりが少ない感じですねえ。)吉之助もそういう真理に至るまで20年ちょっと掛かりました。寄り道をしたようですが、もちろん吉之助はそういう過程を教えてもらったことでも石井宏氏の本には大変感謝しています。

同じことはモーツアルトをテーマにしたピーター・シェーファーの戯曲「アマデウス」(1979年ロンドン初演)を見ても分かります。主人公である宮廷楽師サリエリが憤慨して神に怒りの言葉をぶつけるのは「あんな下品な男があんなに美しい音楽を書く」ということでした。サリエリは人生のすべてを神に捧げるように・ひたすら努力を積んで音楽を書いてきました。ところがあの男は下品な笑い声を上げながら、サリエリが驚嘆するような美しい 旋律をサラサラと書くのです。神はどうしてこういうことをするのか、自分を嘲笑うためにモーツアルトを寄越したのかと言って、サリエリは怒るわけです。しかし、途中でサリエリは気が付くのです。モーツアルトがまさしく「アマデウス(神に祝福されし)」存在であることに気が付くのです。そこからサリエリは奇妙に捻れた行動に走ることになります。芝居をご覧になればサリエリの行動の裏にあるのはモーツアルトへの無限の愛であることがお分かりになるはずです。ですからシェーファーの「アマデウス」の目的は神童モーツアルト伝説の解体にあるのではなく、まったくその逆です。もちろん石井氏の「素顔のモーツアルト」もそうです。しかし、世間の興味はともすればオシッコ・ウンコ連発のモーツアルトの方に行き勝ちです。

ところで吉之助は戯曲「アマデウス」日本初演を見ました。それは1982年(昭和57年)池袋サンシャイン劇場でのことで、配役はサリエリ:松本幸四郎、モーツアルト:江守徹でありました。これはとても素晴らしい舞台で今でも忘れられません。以来幸四郎はサリエリを400回以上も舞台で演じており、弁慶、ドン・キホーテと並んで、サリエリは俳優松本幸四郎を語る時に欠かせぬ重要な役となっています。初演から本年(平成23年・2011)、ほぼ30年近い歳月が経って幸四郎の「アマデウス」の舞台を再び見たわけです。幸四郎も歳月を重ねましたし、もちろん吉之助も同じだけ歳を取りました。

それにしても興味深かったのは、約30年の歳月の間に吉之助のなかで戯曲「アマデウス」の印象が変化していたことに気が付いたことです。初演当時(82年)の吉之助はちょうど前述の神童モーツアルト像崩壊の時期に当たっていて、サリエリの神への怒りを生(なま)な感じで然りと受け止めたものでした。サリエリの怒りは神と人間の対立という風にも読め ます。しかし、現在の吉之助は30年経って神童モーツアルト像の方に回帰していますから、久しぶりに舞台を見て「アレッ、初演はこうだったかなあ」という感じたところが所々ありました。それは今回の(幸四郎による)演出が初演と違っていたということではなくて、よくよく考えて見ると、どうやら吉之助のなかでのモーツアルトのイメージが変化していたせいでした。もうひとつ大事なことですが、この30年の間に1984年に制作され・翌年に日本で公開された映画「アマデウス」(ミロシュ・フォアマン監督)が挟まります。この映画の脚本は戯曲と同じシェーファーにより書かれました。戯曲「アマデウス」解釈に おいて映画の存在は無視できません。シェーファー自身にも戯曲と映画に5年ほどの歳月があ ったわけで、ここにも微妙な印象の変化があることが見えてきます。(この稿つづく)

(H23・11・26)


○本物のチープ感覚・その2

我々が現在目にすることができる武智鉄二演出の舞台と言えば、 恐らく舞踊「蝶の道行」が唯一のものです。「蝶の道行」は「けいせい倭荘子」という天明期の歌舞伎のなかの所作事で、昭和37年(1962)9月歌舞伎座での武智鉄二演出・川口秀子振付・山本武夫美術による復活上演で大評判を取ったものでした。(この時の助国は七代目梅幸・小槙は六代目歌右衛門でした。)本年(平成23年)5月明治座でこの武智演出での再演が掛かった時に、「初演の時は斬新に見えたが・今見ると巨大な蝶や花・義太夫の曲・古色蒼然として もはや時代遅れに見える」ということを仰った方がいらっしゃいました。言い方を変えれば、チープ(安っぽく)に見えるということです。言いたいことは分からぬではないですが、ホントはそのチープ感が何から発するかということを考えることから批評が始まるはずなのですがね。(別稿「武智歌舞伎のアヴァンギャルドな感覚」をご参照ください。)

例えば武智歌舞伎を見た方の感想として、「丸本の読みが深い、原作通りの演出で「そうだったのか 、在来の舞台は役者の仕勝手で曲げられていたんだ」と納得できる舞台でとても感激した」ということが良く言われます。武智演出は正しかった・真実を描いていたと云う わけです。なるほど・・・武智歌舞伎をリアルタイムで見た方々がそう感じたというのは、とても大事なことですね。しかし、その一方で歌舞伎役者の大半は、武智の感想を聞か れると皮肉な笑みを浮かべて、「まあ理屈ではそういうことになるのでしょうね、しかし、実際に舞台に掛けるとなると、理屈だけではうまく行かないものですよ」などと言って無視したものでした。平成23年現在を見れば、歌舞伎の舞台のどこに武智の影響が見えるでしょうか。武智演出が正しかったのならば、どうしてその正しいものが歌舞伎に残らなかったのか。そういうことを考えてみる必要があります。

結論から言えば、原典(丸本)に即して・忠実に読んだと云っても、読み方(解釈)はいろいろ出てくるのであって絶対の解釈などない、武智の解釈もまた数多いもののひとつに過ぎなかったということなのです。だから生の武智歌舞伎を見た当時の若者が「武智は正しかった」と感じたというのはそれはそれで真実ではあるのだけれど、その正しいという感覚はどこから来 たのかと云うことが問題です。実はそれは「武智の解釈が正しいとか、在来の型は間違っている」とか云うことではなく、ホントは「原典に即してドラマを忠実に読 む・常に原典に立ち返る」という理念がそこにあったということなのです。つまり、武智の理念を取り入れてドラマを読み込めば、自分でもいろんな解釈を作り出す可能性があるということです。しかし、そこにはいろいろな選択肢があるわけであって、武智歌舞伎で見られる舞台というものは、そのような武智のひとつの解答例に過ぎないのです。

型というものが、初めから型として創造されたものと思うのは間違いです。どんな型でも最初はすべて生乾きの型なのであって、そういうものはある種の安っぽさを帯びているものです。それだけだと最初の見た瞬間には一時的な新鮮さを感じさせることが出来ても、在来の型の持つ安定感には結局勝てません。なぜならば歌舞伎は伝統芸能であるからです。繰り返し上演されていくなかで、型は本物の型になっていくのです。武智演出が在来の型に対抗できるだけの強さを身に付けていくためには、「これが正しい・あっちは正しくない」という 論議で終わらせるのではなく、 理念で戦わねばならなかったはずです。それは武智によく言われるところの階級闘争理論とかフロイト心理学ということではありません。(そういうものはツールに過ぎないのです。)もちろん武智本人にも悪いところはあります。演出家は理屈ばっかり言っても・舞台の仕事をさ せてもらえなければ冷や飯ですから、結局自分で自分を貶めるような場面も少なくなかったと思います。

しかし、残念ながら生の武智歌舞伎を見た当時の若者の議論のほとんどが、「これが正しい、あっちは正しくない」という次元に留まりました。 これは結局、「私はこれが好き、あっちは嫌い」という感想と同じ次元に落ちたということです。武智の解釈ではなく、武智の理念をこそ引き継ぐべきであるのに、これを発展させて自分で新たな解釈を生み出そうとすることが出来ませんでした。結局、武智の理念は残らなかったということになります。だから現在の歌舞伎に武智の痕跡がほとんどないのです。あるのは昔の武智歌舞伎の思い出だけです。何だか当時の日本の学生運動の様相と似てますねえ、あれも結局何も状況を変えませんでしたね。

山城少掾が「義太夫というのは、頭さえ使えば誰でも語れるものです」と語ったということは、とても大事なことです。六代目菊五郎が「吃又」・「野崎村」などの丸本再検討の演出を行なったということ も、とても大事なことです。山城少掾にも六代目菊五郎にもいわゆる理屈・理論はなかったかも知れませんが、しかし、やったことは原典(テキスト)に立ち返って忠実に読むと云うことで した。これは武智の理念とまったく同じことです。ですから 武智は「ここに自分の理想とする芸の在り方の手本がある」と思ったと思います。 武智が「芸十夜」で繰り返し訴えていることは、自分がやっていることは伝統芸能の改革・既成の破壊ということではなく(そのように周囲から見られ勝ちであるが)、伝統芸能の本来の筋道のうえに立ったものだ、ホレそこにお手本が ちゃんとあるじゃないかということです。とてもシンプルなのです。

そういうことですから、恐らく武智は自分の演出が絶対正しい・歌舞伎はこの解釈で行くべきだなんて、そんなことは全然考えていなかったと思います。チープ感覚結構じゃないか、俺の演出なんてその程度のものだよと思っていたと思います。まっそれでも歌舞伎にちょっとは痕跡を刻み付けておきたいということも人情としてはあったかも知れませんね。ですから舞踊「蝶の道行」は是非大事にしてもらいたいものです。武智が復活していなければ、すっかり忘れ去られて我々の記憶のなかになかったはずの作品なのですから。

(H23・11・23)


○本物のチープ感覚・その1

現在では歌舞伎の世界でさえ武智鉄二のことが話題にされることはほとんどありません。とは言え、歌舞伎を深く知ろうとする人が、必ずどこかでぶちあたるのは武智のことです。しかし、武智理論とは何ぞや・ ナンバとは何か・「息を詰める」とはどういうことかを知ろうとすると、客観的にそのようなことを総括して・位置付けして教えてくれそうな論考はほとんどありません。あるとするならば、まあまだ未完成であるとしても、そのようなことを真剣に考えようとしているのは本サイト「歌舞伎素人講釈」くらいのものでしょう。事実、武智の名前を検索してこのサイトにたどり着く方は多くいらっしゃいますし、みなさん同様のことを口々に仰います。ホントは堂本正樹先生や権藤芳一先生にそういうことをして欲しかったと思います。ところですっかりムック本に模様替えしてしまった雑誌「演劇界」がどういう風の吹き回しか、今月号(12月)で「怪人武智鉄二と武智歌舞伎」なる特集を組んでいます。武智歌舞伎に接した面々の文章が並んでいますが、「今頃何で武智歌舞伎なのか、武智を知らない若い世代に何を伝えたいか」という思いはやっぱり伝わってきません。まあ証言者としての役割は立派に果たしていますから、それで十分ですけどね。

「怪人武智鉄二」というタイトルに、編集者の武智のイメージが良く出ています。「ある時は伝統芸能の世界に一石を投じた男、ある時は猥褻映画の監督、しかしてその 実体は・・・」というところですかね。まあ興味の最初のきっかけはそれでも良ろしいと思います。ところで特集のなかで児玉竜一氏(児玉氏は吉之助よりお若い方ですから武智との直接的な出会いはあまりなかったとは思います)が、武智の映画のなかに共通し た「画面にみなぎるチープ感(安っぽさ)」ということを書いています。あの場面に突如能面が現れて核心の部分を隠す・それが何ともチープで、「こんなツマランことをやって、この人はどこまでが本気なのか、それとも山師なのか」と 感じるのだろうです。これは重要な指摘を含んでいるのだけれど、このチープ感覚が武智歌舞伎とどう関連するのかということまでは児玉氏は触れていません。ホントはそこからが肝心のところだと思います。そこで吉之助が武智歌舞伎のなかのチープ感覚というものがどういうことなのか、補足説明して差し上げましょう。

まず武智鉄二の活動は、歌舞伎も映画もすべて、「アヴァンギャルドavent-garde」に根差したものだということです。アヴァンギャルドとは、前衛芸術(または前衛美術)のことです。20世紀初頭の芸術運動であり、特にロシア革命前後に起こったロシアン・アバンギャルドはその代表的なものでした。(別稿「武智鉄二のアヴァンギャルドな感覚」をご参照ください。)この時代のキーワードは何でしょうか。まあいろいろあると思いますが、そのひとつは「大量生産」です。例えばフォード自動車の大量生産です。 ヘンリー・フォードの大量生産技術によって、それまで金持ちにしか買えなかった自動車を、多くの人(と言っても中産階級くらいまでかも知れませんが)が望めば手が出せるくらいの価格にまで引き下げることを可能にしました。つまり、高品質なものを・安価に・すべての人に等しく 行き渡すこと、これが この時代の「大量生産」の夢のイメージなのです。

現代の我々は、例えば伝統の手作りの木製の玩具にその良さを見い出し・そういうものは高価であっても商品価値を認めるでしょう。一方、大量生産のプラスティックの安価な玩具にはあまり価値を認めないかも知れません。そういうものは「チープ(安っぽい)」と 一等低く見る感覚がどこかにあるかも知れません。しかし、それは見方の違いなのであって、どんな環境であっても・同じ価値のものがすべての人に等しく 行き渡たるということは素晴らしいことだという思想が間違いなくありました。もちろん現在もあります。その夢は「万人を等しく豊かに幸せにする ・そのような世界を目指す」ということでした。このレトリックの暗黒面はもちろんあって、グローバル・スタンダードということの是非論もそこから来るものです。今話題のTPP議論とか、南北問題などもそうです。根源にある旗印は「世界の国々を等しく豊かに幸せにする」ということにある。しかし、実際には各国の利害 や思惑が絡む。だからややこしいわけです。ここではとりあえずそのことは置きますが、ここで大事なことは、「同じ価値のものがすべての人に等しく生き渡たる」ということが 反義的にチープ(安っぽい)感覚と微妙に結びついているということです。このことがお分かりになれば、武智歌舞伎のなかのチープ感覚ということが分かります。

例えば19世紀後半の写真技術の発達は、それまで細密に・本物そっくりに描かれていた肖像画・風景画というジャンルを無価値にしました。庶民は写真を額縁に入れて室内に飾るようになりました。少し遅れて登場した映画の技術は、それまで着飾って・おめかしして劇場に出かけていたブルジョワのお楽しみ・社交の場であった観劇を、庶民のものにしました。 蓄音機の技術は、庶民が音楽をそれぞれの家庭で手軽に楽しめるものにしました。そうやって絵画や演劇・音楽という芸術のお楽しみが、ちょっとチープで安っぽいように見えるかも知れないけれども、写真や映画 ・レコードというジャンルとなって庶民の生活に流れ込んでいく。そういうことで芸術を楽しむことがすべての人に広く等しく生き渡ったということです。これは悪いことではありません。いわゆる文化人を気取る方は「チープ(安っぽい)」と笑うかも知れませんが、決して悪いことではありません。これは芸術がすべての人のものになったという理想の形の、いわば第1段階なのです。第2次世界大戦の後のことですが、ポップ・アートの奇才アンディ・ウォーホルの代表作「キャンベル・スープ缶」・「マリリン・モンロー」などもその延長として捉えられます。

「芸十夜・第5夜」で山城少掾が「義太夫というのは、頭さえ使えば誰でも語れるものです」と言ったということを、武智が証言しています。(「吉之助が芸十夜を読む・上・その2」をご参照ください。)山城少掾の言いたいことは、「作者と同じように、一定の思考の筋道を以って同じように考えるならば、誰でも同じ結論に達するはずである」ということです。だからそのことを信じて私(山城少掾)はテキスト(丸本)を読むのですということです。このことを延長して考えるならば、「芸十夜」のなかで武智が繰り返し言っていることは、「名人が考えていることを同じようにやるならば貴方も同じように名人の芸が出来る(はずだ)」ということです。もちろんそういうことが凡人に簡単に出来るはずもないことです (私ら凡人は心のなかで出来ればそれで良いのサ)が、思想としては「名人が考えていることは秘伝でも奥義でも何でもない。学ぶ心があるならば、誰でもそれを自分のものに出来得る」ということなのです。この武智の考え方と大量生産の夢のイメージと、どこに違いがあるでしょうか。これはどちらも同じ時代(20世紀初頭)の感覚から発したものです。それがアヴァンギャルドの思想です。

武智鉄二・八代目坂東三津五郎:芸十夜

武智の考えることは、「伝統芸能は日本人の根本にある大事なものを想起させる、だから名人の秘伝も奥義も・芸術の秘密をすべての人に等しく生き渡せたい」ということであったと思います。だからチープ感覚が反義的に結びついて 来るということです。 そのようなチープ感覚がもっとも強く出ている武智歌舞伎の作品は何かと言えば、それはもちろん血糊をふんだんに使った「恐怖時代」です。作者谷崎潤一郎の意図もそういうところにあったと思います。吉之助は昭和56年歌舞伎座での「武智鉄二古希記念歌舞伎」でこれを見ました。(むろん昭和28年の初演とは違う 演出です。)吉之助は晩年の武智演出をいくつか見ましたが、そのような視点で見るならばいろんなところにチープ感覚が見えていたと思います。武智の歌舞伎も映画も、そういう線で同じレヴェルにおいて捉えていただきたいと思う わけです 。

その一方で芸の秘伝・奥義ということで自分たちを権威付けたいと思う方々がいるわけです。「芸の秘伝・奥義は限られた・選ばれた自分たちだけのもの」と云うわけです。「本物は自分たちだけが知っている」という形で、彼らは現代のなかでの自分たちの希少価値を高めようとします。彼らから言わせれば、大量生産の芸術活動はチープで安っぽいということになります。(武智を知る方々が映画のことになると口を閉ざすというのはそういうことです。)しかし、チープ・イコール偽物であるということは決してありません。本物のチープというのもあるのです。(ピカソを見て下さい。ウォーホルを見て下さい。)武智が目指しているものは、そのような本物のチープ・しかして本物の芸術なのです。「芸術の秘密をすべての人に等しく生き渡せる」ということです。だから大上段に芸術を振りかざしたところで、反義的にチープ感覚が顔を出すのです。これは和事芸にシリアスな面と滑稽な面が交錯するというのと同じような現象ですね。(別稿「和事芸の起源」をご参照ください。)武智は、自らをトリック・スターのように戯画化しつつ、 自らの理想を大真面目に追求したということです。武智歌舞伎もそのように見ないとホントのところは分からないと思いますがねえ。

(H23・11・20)


キーン先生、日本国籍を取得

日本文学研究の第一人者であり・日本人より も日本の心を知るドナルド・キーン先生が、このほど日本国籍を取得されたとのことです。毎日新聞(9日)の記事によれば、記者会見でキーン先生は三島由紀夫など多くの作家と交際し・長年の研究を経てもなお「日本にとって 私は”お客さん”だった」と振り返り、日本国籍取得の背景には自分と日本人との間にある”ガラスの壁”を壊したいという強い願いがあったと語ったそうです。日本人の”ガラスの壁”については、キーン先生はいろいろ辛い経験をされたようです。そのひとつの思い出話として、 キーン先生は日本の伝統芸能を体得する目的で、戦後間もなく狂言師(大蔵流の茂山千之丞)に師事しましたが、その舞台を鑑賞した或る能楽師は「フランスの喜劇作家モリエール(の劇)を見ているようだ」 という感想を述べたそうです。これを聴いたキーン先生は「がっかりした。私の血にあるものが(日本人と)違ったからだろう」と落ち込んだということです。

キーン先生の気持ちは分からないことはないのだけれど、吉之助にはその能楽師の方(誰だか知りませんが)がキーン先生の狂言の演技をけなしたとか・外人だからという色眼鏡で見ていたとは思えないのです。キーン先生は自分が外人だからそんな見え透いたお世辞を言うのだろうという風に感じたようですが、「モリエールを見ているようだ」 というのは吉之助には考えられる最高の賛辞に思えます。吉之助は残念ながら狂言の演技は出来ませんけれど・もし出来たとして、「モリエールを見ているようだ」と言われたならば、もう嬉しくて嬉しくて堪らないと思います。それは「あなたの演技は形を捉えただけに留まらず、ちゃんと生きたものになってい た」ということなのです。まあキーン先生の言いたいことと・吉之助の言いたいことは多少すれ違っているだろうと思います。しかし、何でも良い方に受け止めた方が人生楽しくなるのではないでしょうかね。洋の東西を問わず良いものは良い。そしてそこに何か共通した真実があると思います。室町時代の狂言と17世紀フランスの古典喜劇に何か共通したものを見る者に感じさせたのならば、それはとても素晴らしいことだと思います。

吉之助がそのように考えるのは、ひとつには西洋音楽(クラシック音楽)の世界で一生懸命頑張って・それで素晴らしい成果を上げている日本人を数多く見て(聴いて)きたからでしょう。吉之助自身も西洋音楽を聴くなかで、芸術の理解に国境はないと思っています。とは言え、吉之助がクラシック音楽批評から歌舞伎批評の方に転向したひとつのきっかけは、1983年にバイロイトでショルティ指揮の「ニーベルングの指輪」を聴きに行って・ワーグナーのような肉食系・高コレステロール・カロリー高値の音楽は草食系の日本人にどこまで理解できるのかと強く感じたのが一因ではあって、いまだに「パルシファル」が理解できるという確信が持てない(つまり西欧芸術の奥深いところまでなかなか入り込めない)のもまた引け目にはなっています。(もっとも吉之助の知り合いのドイツ人も「パルシファルはドイツ人の俺にもよく分からん」と言っておりましたがね。)そういうことはありますけれども、「日本人に西洋音楽の深いところが分かるはずはない」ということは吉之助は絶対認めたくありません。その代わりということで もないですが、「外国人に日本文化の奥底が分かるはずがない」なんてことも絶対言わないと決めています。

そういうわけなので、最近の吉之助は、草食系の日本人には日本人なりのワーグナー受容法があって・それを恥じる必要はないということを思うようになりました。その違いは個性・つまり個人の特性であり ・出目(アイデンティティー)から来るものです。だからその違いを否定してしまったら自分で自分 を否定することになります。キーン先生は自分の演技を「日本人そのままだ」と言われたいのかも知れませんが、それがニューヨーク生まれで・アメリカに育ち・コロンビア大学で 教育を受けたキーン先生の出目から正しく来たものであるならば「モリエールを見ているようだ」は決して侮辱には当たらないのでないでしょうかね。むしろそれは最高の褒め言葉と取るべきなのです。日本人として世界の楽壇のなかで小沢征爾氏はインタビューでこのように語っています。

「僕が西洋の人と同じようにバッハができることになるのが目的ではなく、問題は、演奏した時にその僕がやったっていう価値があるものが出て来るかどうかなんです。(中略)ドイツ語を話す人、イタリア語を話す人がやるバッハではそれぞれ味が違う。日本で地方にホールがありますよね。そこでやるバッハは、東京とかウィーン・ミュンヘンでやってるのと違うけど、価値がある時代がくれば最高なんです。そこに聴きに行くと、「おらがバッハだ、音楽だ」と、西洋人が書いた曲なんだけど、おらがやるのが価値があるんだ、というところまでくればもう立派なもんだね。」(小沢征爾インタビュー:「週刊朝日」02・3・8号)

先駆者たる小澤征爾氏は逆の立場から西洋人の”ガラスの壁”を強く感じてきたかも知れませんが、その小澤氏ならではの重みのある言葉だと思います。ともあれ日本国籍を取得されたキーン先生を日本人として心から歓迎したいと思います。

(H23・11・12)


○勘三郎復帰に寄す

しばらく休養していた勘三郎が先月(10月)大阪で本興行に復帰・今月は浅草の平成中村座に出勤ということで、まだまだ体調万全とはいかないようですが、とりあえず安心いたしました。勘三郎は吉之助とほぼ同年代ということもあり 、そういう意味で他人事では ありません。しかし、これから七ヶ月のロングランということだそうで・しかも間に息子勘太郎の勘九郎襲名があるわけで、まああまり無理せず、そうは言っても急 くだろうけれども、ボチボチ身体を慣らしながらゆっくりやってもらいたいと思います。

勘三郎が芝居が大好きで・歌舞伎を何とかしたいと一生懸命であることを認めない人はいないと思いますが、ちょっと頑張り過ぎちゃったということでしょう。50代はいろんな意味で岐路ですねえ・・・お互いね。別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」で猿之助のことを書いたので、それに絡めてちょっと勘三郎のことも書いてみます。勘三郎は若い頃(20代の頃)には周囲の影響だか・猿之助に距離を置いていたようで、インタビューでも暗に猿之助に批判めいた発言をしていたように思います。しかし、そのうち機会は多くないが猿之助と何度か共演をして、これと相前後して猿之助の考え方に強く共鳴するように変化したと吉之助は見ています。ちょうど勘三郎がコクーン歌舞伎や平成中村座での活動を開始する少し前の時期です。その後猿之助は不幸な病気があって・現在は舞台に立てないでいますが、場面は違えど勘三郎は猿之助の 意志を継ぐような感じでこの10年を戦ってきたと思います。歌舞伎にとってこのことの意味は決して小さくありません。ただし、猿之助と同じことが言えますが、勘三郎も歌舞伎の悪い部分・伝統に安住して活力を失って惰性で持ってるような部分に対する批判(疑問)をあまり持たなかったと吉之助は思います。残念ながら串田和美氏はそのような方法論のアドバイスができませんでした。コクーン歌舞伎も平成中村座もドン詰まりに入ったと吉之助には思えます。「夏祭」と「法界坊」の繰り返しに陥っています。このような時に勘三郎が倒れたわけです。ですからいつぞや別稿「勘三郎の法界坊」でも書きましたけれども、後続の世代も出てきたことだし、もう勘三郎も古典の方へ回帰す べき時期がやって来たと思います。

ところで先日(4日)にフジテレビで「中村勘三郎・復帰への日々」というドキュメンタリー番組が放送されました。同年代として勘三郎の復帰に吉之助なりの思い入れはいろいろありますが・それはちょっと置きまして、勘三郎が息子・勘太郎に「一本刀土俵入」の駒形茂兵衛の幕切れの台詞廻しを教える場面がありました。「棒っ切れを振り回してする茂兵衛のこれが、十年前に櫛かんざし巾着ぐるみ、意見をもらった姐さんにせめて見てもらう、駒形のしがねえ姿の横綱の土俵入りでござんす」という台詞です。勘三郎は「横綱の土俵入りでござんす」を大きく張って引き伸ばしていました(後になるほど伸びる感じであった) けれども、ちょっと違うと思いますねえ。「掛け声頂戴」という感じに聞こえます。(台詞言い終わって自分で「中村屋!」って言ってましたね。 その辺から違いますねえ。)六代目菊五郎があんな風に言ったはずがないと吉之助は思います。そんなことくらい見てなくたって分かります。親父さん(十七代目)だって・二代目松緑だってあんな張り上げ方はしませんでした。ひとつには新歌舞伎ですからあまり臭くなってはいけないということがありますが、写実の世話の台詞ですから「・・姐さんにせめて見てもらう・・」をちょっと憂いを入れて膨らませるのは結構ですが、末尾は世話に流さねばなりません。もうひとつの理由はこの台詞を強く張ってしまうと、その後にお蔦からもらった巾着を取り出す場面の情感が消されてしまうからです。どんな芝居でもそうですが、長谷川伸ものでは幕切れの余韻が特に大事なのです。だから「・・土俵入りでござんす」は張ってはいけません。

新歌舞伎の様式を考えてみれば簡単に分かることだと思います(別稿「アジタートなリズム」をご参照ください。)が、周囲にこういうことを指摘する方がいないのでしょうねえ。「こうやったら歌舞伎になるんだよ。俺たちはいつもこのようにやって来たのさ。」という意識が邪魔するから見えなくなるのです。芝居が重ったるく粘る傾向は昨今の歌舞伎の問題ですが、同じ傾向が勘三郎にもあるのです。これからの勘三郎は古典の方へ回帰し・そちらから歌舞伎を引っ張る役割りが求められるわけですが、歌舞伎の悪い部分・伝統に安住して活力を失って惰性で持ってるダルい部分にどれだけ批判を持てるかだと思います。そこでこの10年やってきた勘三郎の仕事の真の意味が問われるということかなと思いますね。


(H23・11・7)


○吉之助が「芸十夜」を読む・後編・その3

(大震災などで吉之助の気分が切れて・思考が他の方向へ流れてしまったせいで、「吉之助が「芸十夜」を読む・後編」の連載が中断していましたが、ボチボチ連載を再開します。 この回以前の記事については、こちら(その1その2)をご覧下さい。また予告をしてい た「折口信夫への旅・第2部・死者の書について」と、「谷崎潤一郎・「細雪」論」の連載もそのうち開始する予定です。)

『あの若さで、あれだけの芸をする。不思議だねえ・・・。あの人(=四代目井上八千代)はきっと新聞読んでないよ。』

「芸十夜・第二夜」に出てくる七代目三津五郎が四代目井上八千代の踊りを初めて見た時の感想です。芸談なんてものはしばしば言葉足らずですから、新聞を読まない井上八千代が社会や 時代の変化に無関心だったなどと・字面だけで読まないようにして欲しいと思います。七代目三津五郎の真意は全然別のところにあるのです。

日本では芸術家・芸人は俗世から離れた人というイメージが根強いようです。常識はずれた馬鹿なことをしても、芸阿呆だと言って許される。「破目をはずすくらいでなければスケールのある魅力ある芸はできない・そういうのは芸の肥やしだ」などという風潮は今でもあります。芸人を社会的に甘やかす風潮があるのは、日本くらいのものでしょうねえ。外国の芸術家は積極的に自らの思想的・政治的立場を表明し・社会と能動的に関わっていこうとする方が少なくありません。個人が集団・社会との係わり合いのなかで生きており ・芸術も生活のなかから生まれてくるものですから、芸術も人々の生活のなかで生きて初めてその価値を発揮することが出来るわけで、これは当然のことなのです。日本と欧米のアーティストのインタビュー記事を比べて御覧なさい。欧米のアーティストは・若い方でも、実にしっかりと自分の考えを述べます。自分の生き方が芸の在り方に影響するものだということをしっかり心得ています。自分を磨くために自分のジャンル以外のことにも強い関心を持っています。それは単に自分の教養を深めるということではなく、自分の生き方にトータルに係わるものだということが分かっているからです。

井上八千代が新聞を読まなかったということが事実であったとしても、彼女が社会や時代の変化とかを無視して・ひたすら芸を極めるという方向に集中していたと考えの方がいるならば、それは「本物の芸がそれを見る者に何を指し示すか」ということがお分かりではないのです。本物の芸が指し示す(象徴する)ものは人生の真実です。井上八千代がその時代の空気を吸って生き、この舞台を見る観客もまた同じ時代の空気のなかで生きています。そこで共有される真実が必ずあるのです。それが観客を共感させます。パフォーマンス芸術というものは、時と同じくする芸能者と観客の心の交流であり、だからこそ芸事とは時に神事・祭事にも例えられます。

井上八千代がそのように観客と同じ時代の空気を共有するためには、彼女がまず社会人として・あるいは生活者として行なうべきことを行なうということを、正しくできていなければなら ない、これが大前提です。それは現代で言えば、東証株価がどうなったかとか・どこでどんな事件が起きたかとか・夜のテレビで面白そうな番組があるかとか・ どこかの店の料理がおいしくて話題であるとか・人気俳優が結婚したとか離婚したとか、そういうこととは違います。そういうことはいわば「雑音」です。そうしたものは、彼女の思考をかき乱すものでしかありません。新聞を読めば、そういう雑音が否応なしに入り込んできます。だから井上八千代は新聞をシャットアウトするのです。それが井上八千代が社会や歴史の変化から離れた所に自分を置いているということになるのでしょうか。 答えは否です。

例えば美人画の大家である鏑木清方は九代目団十郎の「娘道成寺」について「当時(明治)の娘そのままだった」と述懐したそうです。鏑木清方の証言を読んで、団十郎は当時の女性の流行感覚をここで取り入れたと安直に考える ことはまったくの間違いです。この証言は芸の秘密のもっと深いところを明かしています。団十郎は当時の時代の空気のなかで生き・時代の何ものかに共振するところでその芸を構築しているのです。それは「娘道成寺」の娘の感覚のなかにだけ生かされているのではなく、彼が遺した「勧進帳」や「熊谷陣屋」や活歴のなかにも同じように生かされているのです。鏑木清方は団十郎の「娘道成寺」を見て・そこに自分と同じ 時代感覚を見たわけです。

時代を正しく生きている者(生活者)だけが、正しい時代感覚を得ることができます。これは芸術家だけのことではありません。我々一般人であっても同じことです。インターネットや携帯電話が普及した現代においては、情報の渦のなかで・人々は雑音に巻き込まれて生きることから逃れることはできません。それらは連関なく・バラバラで・序列がなく、不必要に受け手を混乱させ・イライラさせます。しかし、インターネットや携帯電話を遮断することは現代生活ではもはや不可能です。ですから次々と振り掛かってくる情報と誘惑の雨(それはもちろん有益なものも含まれますが、それ以上に無益・有害なものが圧倒的に多い)からどのように自分を守るかということは、現代においては、井上八千代の時代より も複合的かつ宿命的な課題となってきます。インターネットや携帯電話を遮断すれば、それで自分が守れるわけではありません。時代に対峙する個人のスタンスの取り方が 、現代においてはますます重要になってくるということです。(この原稿つづく)

(H23・11・4)


○いわゆる「歌舞伎らしさ」を考える・その3

新橋演舞場で亀治郎主演での「当世流小栗判官」を見ました。役者の持ち味の違いということもありますが、同じ猿之助歌舞伎再演でも昨年1月演舞場での海老蔵主演の「伊達の十役」とは随分と違った印象を受けま した。海老蔵の「伊達の十役」については・その時も書きましたが、「あの頃の猿之助歌舞伎はこんな雰囲気だったなあ」ということを思い出したものでした。昭和50年代前半の猿之助歌舞伎というのはとにかく面白いことを・何でも試してやろうという意気に燃えていましたし、それが楽しくって仕方がないということが客席にビンビン伝わってくる舞台でありました。吉之助も猿之助は来月はどんなことをやるかという期待でいたものです。枝葉がドンドン上に伸びていこうという 力が感じられました。亀治郎だとそこが違っていて、随分巧いことやるもんだと感心はしますし、もしかしたらあの頃の叔父猿之助より今の亀治郎の方が練れているかもと思うところさえありますが、ワクワク感が乏しい感じです。そう言うと役者の花・スター性みたいな話になってきそうですが・吉之助が気になるのはそういうことではなく、亀治郎の演技は「こうやったら歌舞伎らしく 見えるだろ、こうやったら巧く見えるだろ」という感じが強くて、それでまとまってしまっている印象があるということです。

例えば第1幕・横山大膳館で小栗判官が荒馬鬼鹿毛を見事に乗りこなす・いわゆる碁盤乗りの場面です。ここでの竹本(義太夫)との掛け合いですが、亀治郎の台詞は完全に糸に乗って(リズムに乗って)・節を付けた台詞回しになっています。亀治郎は台詞を歌ってい ます。まあその意味においては「巧い」と言えましょう。昨今はこのような糸に乗った台詞を褒める向きが多そうなので・特に申し上げたいのですが、掛け合い場というのはト書きを語る竹本と・人形ではない生身の人間である役者が対峙する場面であるのです。それは非常にバロック的でグロテスクな軋轢のある場面です。掛け合い場において役者は地・つまり台詞に当たる部分をしゃべります。これを竹本に合わせるように 歌って・それで良いのならば、それはいくら巧くとも、それならば本当は竹本がひとりで全部を語ればそれで済むことなのです。それでは人形に替わって役者が演じることの意味が全然ないのです。もちろん完全に義太夫のリズムから離れてしまっては分解になってしまいますが、掛け合い場において役者が義太夫のリズムに丸乗りしてしまうことは あってはならないのです。そうなることは「恥ずかしい」という意識が役者になければなりません。人形ではない生身の人間である役者が台詞を言うならば、掛け合い場においては役者は義太夫から離れようという意識を特に強く持たねばなりません。写実の意識が重要なのです。しかし、亀治郎にそのような意識はないようですね。こうすれば「・・・らしく」見えるでしょという感覚が前に出ています。

亀治郎は義太夫のリズムに丸乗りしています。全体に台詞のテンポが早めで、確かにリズミカルには聴こえます。(初演の猿之助よりもリズミカルです。)だから そのリズムを心地良いと勘違いする向きがあるかと思いますが、節を付けて三味線の音程に乗ってしまって滑らかになってしまった台詞は小気味良いようだけれども、リズムの打ちが浅 くなっています。本当はもっと言葉を詰めて・カッカッと息を断ち切るように言わないと立て言葉にならぬわけです。 前へ進もうとする三味線のリズムを後ろへ引き戻すようにせねばなりません。そうでないと掛け合いの音楽的な軋轢が生まれてこないのです。亀治郎は三味線に乗って節付け する方に意識が行っているから、台詞の彫りが浅い。まあリズムの打ちが浅い(つまり呼吸が浅い)のは昨今の傾向ではあります(同じような傾向はクラシック音楽にもあります)が、亀治郎も若いのだからこのような 「・・・らしい」ということに無批判的にどっぷり浸からず、批判精神を持ってもらいたいものですね。(注:こうしたことは「小栗判官」の碁盤乗り程度のことならば・そう目くじら立てるほどのこともないことですが、例えば亀治郎が政岡のクドキをやることがあるならば、このことは必須事項なのですから・よく心得てもらいたいと思います。)

第2幕・浪七宅での亀治郎(浪七)の台詞回しは時代に重ったるい感じがします。だから第1幕での時代の役柄・小栗判官との区別がついていません。声色ではなく、口調で区別を付けるべきなのです。恐らくこの場・浪七宅が時代世話だという誤解があると思います。言うまでもなくこの場は世話場です。浪七という役はもっと世話に・つまり写実に処理すべきでしょう。(同じことは右近の胴八にも言えます。)この浪七はまるで渡海屋銀平に見えますね。 (初演の猿之助もそのように見えました。)イヤ正確に言えば歌舞伎の「渡海屋」の銀平自体に問題があるのです。知盛見顕しまでの銀平は本来もっと世話であるべきだと思います。そもそも時代世話という用語は時代物のなかの世話場という意味なのですが、いつのまにやら時代と世話の様式の間を取った中間様式があるかのような誤解が罷り通っています。演技様式には時代と世話しかありません。時代と世話の間の生け殺し(揺れ動き)で役を描き分けるの が歌舞伎です。時代世話などという演技様式があるわけではないのです。こういうところにも「俺たち歌舞伎役者はいつだってこのようにしてやって来た」という惰性の意識が感じられます。こういうことに疑問を感じてもらいたいわけです。

第3幕・萬福長者館での亀治郎(お駒)は本来ならばこれが本役でしょうが、お駒が一番生彩がありません。それは亀治郎のせいでもなく、お駒という役自体が類型的で・性格的な深みがないからでしょう。だから亀治郎のお駒もパターン処理に留まっています。嫉妬に身を焼いて・忠義なんて論理は恋に関係ない・そして恋する相手にたたるというのは、忠義批判に多少似たところもあり・その自己中心的論理が現代的とも見えないこともないわけですが、そういうところまで突き詰められてはいません。この場は小栗判官が業病になるための段取りにしかなっていません。中世の説経節の宗教観が、幕末頃の歌舞伎になるとこのようなお岩か累のような怨霊譚パターンにまで疲弊していったという過程が分かるという意味においては、まあそれなりの価値があるとは思いますがね。こうなるとこの芝居を「当世流」と名乗ることの意味をどこに見るのか 、そのことを問いたくなります。

いずれにせよ台詞回しであるとか・決めの時の身体の置き方とか・そのような技巧的な面においては、確かに亀治郎は同世代のなかでも抜き出ているようです。 その意味ではセンスがある、しかし、その演技の質感がどことなく粘っこい。そこで収まりかえってしまっている感じがするのは、吉之助にはあまり良いことに思えないのです。どうも亀治郎は「こうすれば・・らしく見えるだろ」的意識が、叔父猿之助よりさらに強い気がしますねえ。恐らくこれは昨今の歌舞伎の保守化傾向を強く反映しているのでしょう。実はこの感覚は亀治郎だけのことではありません。程度の差はあれど、吉右衛門や菊五郎らにもあることです。しかし、何と言いますかねえ、吉右衛門や菊五郎のような出来上がった役者ならそれは彼らのスタイルとして受け取っても良いです(まあ仕方ないと諦めるということもある) が、亀治郎は若いのであるし、「歌舞伎の異端児」を自ら標榜するのならば、こういうところで無批判的にどっぷりと「・・らしく」に浸りきる感覚は良ろしくないのではないですか。伝統必ずしも良いことばかりではありません。 グスタフ・マーラーは「伝統的であるとは、だらしないということだ」と言い切りました。伝統が内包するダルいものへの批判を常に持ってこそ新たな展開が可能になるのです。若い世代にはそのことを真剣に考えてみて欲しいと思うのですねえ。亀治郎が四代目猿之助を継ぐということが決まったそうですが、 頭の良い人であろうから・亀治郎にそのような伝統への批判精神が加わるならば、猿之助歌舞伎の将来は確たるものになるだろうと思います。

(H23・10・31)


○いわゆる「歌舞伎らしさ」を考える・その2

吉之助は昭和50年代に猿之助歌舞伎をかなり熱心に見ましたが、その後吉之助は猿之助から次第に距離を置くようになりました。猿之助は心底歌舞伎を愛していて・歌舞伎の良さを多くの人に知ってもらいたいと努力を続ける人です。このことは誰もが認めるところです。しかし、一方で猿之助は歌舞伎の悪い部分・伝統に安住して活力を失って惰性で持ってるような部分に対する批判(疑問)を あまり持たなかったと吉之助は思うのです。例えば台詞のある箇所がどうも言いにくいとすると、猿之助はそういう場合に台詞のリズムを直して言い易くすれば良い・ 台詞がいい難いのは脚本に問題があるという考え方でした。字余り字足らずの台詞が言えないのは役者の息に溜めがないせいだとは猿之助は考えないのです。自分たち役者の台詞廻しに疑問を持つことがなかったと思います。次の猿之助の発言がまさにそうです。

『歌舞伎の台詞というのはたいてい七五調だから、字余り字足らずは言いにくいんですよ。「ちと」とか「まあ」とかを入れることで、言いやすく美しく、音楽として聞かせる。これが歌にするという事なんです。』(市川猿之助・横内謙介:『夢見るちから・スーパー歌舞伎という未来』)

実は歌舞伎役者の台詞の引き出しというのは案外狭いのです。それはせいぜい幕末歌舞伎以降の台詞のテクニックです。しかも、別稿「歌舞伎の台詞のリズム論」を参照いただきたいですが、現代の歌舞伎役者は黙阿弥の台詞のリズムさえも怪しいのです。歌舞伎役者はもっと台詞の息とか溜め・リズムということに関心を持たねばならぬと思いますが、別に猿之助に限ったことではないですが、そういう反省があまりないのですねえ。

昭和50年代前半に猿之助歌舞伎を見ていて吉之助が感じていた漠然たる疑問は、猿之助歌舞伎は演出が類型的(パターン)処理に過ぎて、作品主題や役の解釈のオリジナリティーを主張するまでに至っていないということでした。面白いことは面白いのですが、作品論として論じるのを どうも躊躇するところがありました。吉之助のなかでこの疑問が明確になったのは、次の猿之助の発言を読んだ時でした。

『時代物やる時に、作曲(義太夫の詞章・節付け)を変えるべきだって言うんですよ。(中略)「四の切」でこれは実験したんですよね。忠信が出てくると義経が「静はいかがいたせしや」って言うでしょう。そうすると( 竹本が)「・・とお尋ねありければ、忠信いぶかしげに承り」と言うわけですよ、いままでの慣例で。その間に忠信は首をふたつ振っておかしいなという動作をして、「こは存じがけなき御仰せ、八島の平家一時に滅び」って言うんです。その「・・とお尋ねありければ」を取ったわけです。この 竹本がたしか25秒ですよ。義経が「静はいかがいたせしや」と言うと首かしげながら、「こは存じがけなき御仰せ」ってやったんですよ。それでいいわけでしょう、見れば分かるもの。そういう風に ちょこちょこ取っていけば、3分から4分取れるんですよ。そこで4分取るだけですごいテンポアップしたように見えるんですよ。』(市川猿之助、蜷川幸雄との対談:「歌舞伎の明日を語る」・「演劇界」・昭和58年1月号、注:ちなみに本稿冒頭に引用した蜷川の思い出での猿之助発言はこの対談時のオフレコ発言で出たものかなと吉之助は推察しています。)

この発言を読んで、猿之助が日頃主張する「芝居のテンポアップ」なるものは、結局役者が芝居で間が持たせられないのを脚本のせいにして・自分の都合で脚本を刈り込むという側面があることに思い至りました。そう考えれば思い当たることが猿之助歌舞伎のいろんな場面にあるのです。結局、猿之助の演出は、作品主題や登場人物の心理から段取りを積み上げていくものではなくて、歌舞伎の慣例の手順・つまり芸の引き出しを利用しながら上手に組み合わせていく交通整理(アレンジング)なのです。 もちろん作品や役を大掴みに類型として捉えることは特に歌舞伎では重要なことですが、現代における歌舞伎としてはそれだけでは足りません。大掴みに類型として捉えたものから、細部を彫り込んでいかねばならぬわけです。そこの方法論が ちょっと乏しいのではないかと思います。一応猿之助の立場で考えてみれば、座頭の責任として芝居を5日で見られるものに仕上げなくてはならない・猿之助は徹底 して現場主義であるということです。これは「・・らしい」芝居はすぐに作れるけれども、それ以上の芝居をじっくり練り上げることが出来ないということでもあります。結局そこが猿之助の限界であって、だから猿之助は「四の切」以外に古典に当たり役を持てなかった・古典の洗い直しができなかったということだろうと思います。(過去形で言ってはいけないかも知れません。)それは猿之助がいわゆる「歌舞伎らしさ」というものにこだわって 、「俺たちはいつだってこのようにしてやって来た」という惰性で持っているダルい要素に対する批判(疑問)を持たなかったからであると思うわけです。

例えば今月(10月)新橋演舞場で亀治郎主演で再演された「当世流小栗判官」(初演は昭和58年7月歌舞伎座・吉之助はもちろん見ましたが)で言うならば、二幕目・浪七住家の場は「渡海屋」や「逆櫓」の応用・幕切れは「俊寛」の応用・まあそれはそれでも良いですが、例えば 幕切れで切腹した浪七が照手姫が乗った舟を見送る場面は「姫を一刻も早く安全なところへ逃さねば・・」という気持ちが全面に出るところで、浪七は舟が遠くなっていくのを息を詰めて見守り・舟が見えなくなるのを見届けたところでガックリ絶命するということであろうと思います。ところが猿之助演出であると、大岩の上の浪七がオーイオーイと手を振り続けて実に長々しく、浪七はいったい何を考えているのでしょうかね、「姫さま、お名残りお惜しうございます」と云うのか、もしかしたら「私も一緒に連れて行ってくだされ」と云うのか。段取りがまったく「俊寛」のパターンなので、浪七なりの独自の熱い心情が見えて来ません。さらに殺されたかと見えた胴八がゾンビの如く蘇って浪七に何度も襲い掛かります。これがまたうるさい。吉之助の周囲のご婦人方 は「ヤダまた出てきたわ」という感じで失笑していましたゾ。猿之助的に見えばここはスペクタクルな見せ場だということになるのでしょうが、芝居のテンポアップの観点から見ればこういうところこそ刈り込むべきなのです。(この稿つづく)

(H23・10・29)


○いわゆる「歌舞伎らしさ」を考える・その1

『市川猿之助さんがある日こういった。三島由紀夫さんは歌舞伎のことを本当にはご存知なかったから、おかしいことや滑稽なことが多かったですよ。でも三島さんが国立劇場でやった「椿説弓張月」 には出演してたんでしょう、とぼくはきいた。うん、でてましたよ、猿之助さんはかすかな微笑をうかべていった。その微笑みは、まるで王の無知を嘲笑う道化、といった明るささえただよわせていた。ぼくは「椿説弓張月」の猿之助さんの熱演をおもいだしながら、芸能する者が文学を至上のものとする者にたいしていだく、これは生理的な報復なのだと思わずにはいられなかった。』(蜷川幸雄:「道化と王」〜「卒塔婆小町・弱法師」演出メモより〜「蜷川幸雄・Note1969−2001」に所収・河出書房新社)

蜷川幸雄:Note1969‐2001(河出書房新社)

三島由紀夫の最後の歌舞伎「椿説弓張月」の初演は昭和44年(1969)11月国立劇場で三島自身の演出によって行なわれ、この時に猿之助は高間太郎を演じました。別の機会に蜷川はこの時の猿之助との会話の思い出を引いて、自分は歌舞伎という得体の知れない世界には金輪際係わるまいと思ったというようなことを語っていました。しかし、(上記の猿之助との会話がいつの事だったか不明ですが)恐らくはその二十数年後くらいに蜷川は菊之助からの要請で「NINAGAWA十二夜」(平成17年・2005・7月歌舞伎座初演)の演出に係わることになります。

「NINAGAWA十二夜」については別稿「似てはいても別々の二人」でも書きましたのでそちらをご覧いただきたいですが、シェークスピアの原作を江戸時代の風俗に置き換えて歌舞伎脚本に書き換える処置が取られました。吉之助は「歌舞伎らしいシェークスピアなんてどうでも良いから、もっと真っ向勝負を仕掛けてくれよ」というのが正直な気持ちではありましたが、その辺に歌舞伎に対してガチガチに意識した蜷川の気持ちが垣間見える気がしたものです。まあそれも分からないことはありません。その背景に上記の猿之助との会話がトラウマとしてあったわけです。その昔アメリカの指揮者バーンスタインが初めてウィーン・フィルを振ることになった時、リハーサルに現れたバーンスタインは開口一番「モーツアルトはあなたたちの音楽です。私はあなたたちからモーツアルトを教わるためにウィーンに来たのです」と挨拶しました。これでバーンスタインは好き嫌いの激しいウィーン・フィル・メンバーのハートをつかんだのですが、蜷川の場合もそんな気配なしとしません。歌舞伎役者という人種は門外漢から見ると扱いにくいところがあるようですね。

ところで、三島由紀夫は「椿説弓張月」演出に相当てこずったようです。「椿説弓張月」での失敗が三島の自決の遠因になったと分析する研究者もあるくらいです。まあそれはないと吉之助は思いますけれども、三島がかなり落ち込んだことは事実であったようです。作家石川淳との対談で、石川が「実に作者というものはお気の毒だと思った。役者なんてものはないですね。脚本を生かすなんてものじゃない、なにかあり合わせの芸ですね。受け止めるというか、こなしているだけでね、芝居でもないし、歌舞伎ですらない。だから大道具をほめるしかない、あの船は大きかったというような。」とこれはまた率直かつ正直な感想を述ると、これに対して三島は「おっしゃる通りです。僕は悪戦苦闘しましたが。哀れですね、作者というものは。」と力がない返事をしています。(対談「破裂のために集中する」昭和45年)

さらに評論家古林尚との生涯最後の対談でも「椿説弓張月」演出について「どうにもならん。僕も手こずってね。自分の演出力を貧困を告白するようなものだが、どうにもなりませんね。」とうめいています。何がそこまで三島を落胆させたかというと、歌舞伎役者が毎月25日の興業生活のなかでお手軽に芝居を仕上げる「生活の知恵」を身に付けてしまっていたからでした。それは芸をパターン化してお手軽に処理していこうというもので、練習時間がとれない役者たちのその場しのぎの哀しい知恵でもありました。逆に言うと脚本がどんなにひどいレベルでもある程度は見せてしまうということでもあります。しかしそのような演技に創造的なエネルギーなど見出しようがありません。義太夫の節付けにポテチンという箇所がありますが、ここで役者は決まらなくてはなりません。そこが役者の一番の見せ場になります。そこを三島が何度注意してもポテチンがはずれてしまう、同じ場面を、毎日、同じ役者がやっているのにポテチンの箇所がやるたびに変わってしまう、と三島は不満を述べています。

『初め、僕は役者が逃げているのかと思ったんです。だがそうじゃなかった、いい加減なんですよ。歌舞伎俳優がフォルムという形式美を生み出す意欲を完全に失っているんだな。だから役者が古典を 模索しようとしてもダメなんだな。』(対談「三島由紀夫・最後の言葉」昭和45年)

決定版 三島由紀夫全集〈40〉対談(2)(上記2対談を所収・新潮社)

王を嘲笑う道化と・道化に嘲笑われる王の言い分を比べたわけですが、「椿説弓張月」という歌舞伎は三島由紀夫が書いたのですよね。そこに作家が込めたメッセージがあるわけです。役者はそれを具現化するのが仕事のはずです。まあ作家が歌舞伎に夢見たものがどうかという問題は確かにあるとしても、原作者・演出家がそのアイデアを具現化しようと悪戦苦闘している時に、作家(あるいは演出家)に対する尊敬を忘れて、役者がそれをせせら笑って・言う事を聞かないで・自分勝手なことをし始めるのでは、お話しにならないのではないでしょうかね。「歌舞伎ってのはそんなもんじゃないんだよ、こうやったら歌舞伎になるんだよ、そんなことも知らないのかよ」というわけです。そういうのは役者の態度として良ろしいものでしょうか。

ところで、歌舞伎役者たちの「こうやったら歌舞伎になるんだよ」というものは、一体何なのでしょうか。それはいつもの通りに・次いでに言えば何も考えずに惰性でやっているパターンのこと なのです。そうやってさえいればとりあえず「歌舞伎らしく」見えるというパターンです。 その根拠は正しい・正しくないというところにはなくて、「俺たちはいつもこのようにやって来た」なのです。そういうわけで「三島さんは歌舞伎のことを知らなかったから、おかしいことや滑稽なことが多かった」という猿之助の言い分を、その通りに受け入れることは吉之助にはできないのですねえ。(この稿つづく)

(H23・10・23)


○七代目芝翫追悼

今月10日未明に人間国宝・七代目中村芝翫さんが亡くなったとのことです。先月(9月)新橋演舞場興行では「沓手鳥孤城落月」の淀君を勤めましたが、初日だけで休演ということで心配はしていましたが、結局、これが最後の舞台となりました。本年1月の五代目富十郎といい・これまで幾多の舞台で慣れ親しんできた役者さんの訃報を続けて聞くのは寂しいことです。

芝翫といえば、吉之助の場合はどうしても歌右衛門と対の印象で浮かんできます。「廿四孝」ならば歌右衛門の八重垣姫に芝翫の濡衣、「籠釣瓶」ならば歌右衛門の八つ橋に芝翫の九重ということになります。歌右衛門の陽に対して芝翫の陰ということになりましょうか。陰と云っても暗いということではなく、派手さを抑えた控えめな(慎ましい)美しさということです。それが歌右衛門との組み合わせであるとちょうど良いバランスであったと思います。梅幸・歌右衛門亡き後、芝翫は否応なしに女形の頂点に押し上げられていきます。主役にはもちろん主役としての立ち位置があるわけですが、そういう意味では平成の女形トップとして芝翫が強烈な印象を残したということは必ずしもなかったかも知れません。しかし、振り返ってみて・やはり「芝翫は良い舞台を残してくれた・・」という深い感慨があるのは、立ち位置をわきまえた・つまり役の規格をしっかりと心得た演技から来るものです。このような立ち位置をわきまえた演技は、六代目学校で仕込まれたものだと思います。

芝翫は六代目菊五郎のことを「親父」と呼んで・よくその思い出話をしたものでした。芝翫は幼い時に実父・祖父を亡くしてとても苦労しましたから、預かってくれた菊五郎のことを養父同然に感じていたのでしょう。この辺は「芝翫芸模様」という芸談集に語られていますから、それをお読みになれば良いと思います。「娘道成寺」の芸談などとても面白いもので、芝翫が一世一代で「娘道成寺」を踊ったのはいつのことでしたか、本人には「俺の道成寺は親父直伝」という自負が確かにあったと思います。

中村芝翫芝翫芸模様(集英社)

芝翫については古風な風貌ということが良く言われます。まあそれは確かにそうかも知れませんが、そのせいでその芸は古風な味わいに思われていることが多いようです。しかし、それらは見掛けに捉われ過ぎた印象論なのです。芸風ということになれば、芝翫の芸はむしろ役の規格をしっかりと持った・かつきりとした芸であって(つまりそれは六代目菊五郎に通じるものであって)感覚的には新しいと言えるものでした。「娘道成寺」でもそうであったと思いますが、芝翫の道成寺は真女形の道成寺には違いないですが・決して嫋嫋としてナヨナヨした不健康なものではなかったのです。六代目菊五郎は兼ねる役者の道成寺でしたが、それに近い健康的な感覚であったと思います。

このことは「菊畑」の虎蔵・「車引」の桜丸・あるいは「四段目」の判官などを見ればより明確に分かると思います。これらの役で芝翫は真女形が演じているということを感じさせません。(同じことは七代目梅幸にも言えます。)これらの役を真女形が演じることの有利さは身体の線・身のこなしの柔らかさとなって確かに現れているのですが、そのことがしっかりと技巧として位置付けられており、余計な性差(女形の臭味)を感じさせない。そのような芸でありました。 ご冥福をお祈りします。

(H23・10・16)


○定型にとらわれない音楽の聴き方

今月(10月)土曜日夜にNHK・Eテレ(昔の教育テレビ)でミュージシャンの坂本龍一がクラシック音楽を解説する「スコラ・音楽の学校」という番組をやっているのをご存知ですか。今月のテーマは「古典派」だそうで、人気ミュージシャンで・世界のポップス・シーンをリードする坂本龍一(「教授」と呼ばれているそうです)がどういう風にハイドン・モーツアルト・ベートーヴェンを斬るかということで、吉之助もちょっと観てみようかということで、番組を観ました。吉之助は坂本龍一についてはグレン・グールドに関する談話は少し読んだことがありますが、その昔のYMOについては あまり興味を感じたことはなく、「戦場のメリークリスマス」か「ラスト・エンペラー」の映画音楽くらいしか知りません。ポピュラー音楽に偏見はないつもりですが、それはともかく、この「スコラ・音楽の学校」という番組の内容はほとんど高校教科書に載ってそうな定型パターン。斬新な視点はまったくないですねえ。こんな調子でこれからロマン派〜近現代音楽へと続くのでしょうか・・・イヤご苦労様なことです。

昨晩(8日)放送の第2回・テーマはハイドンでしたが、弦楽四重奏曲ハ長調・第39番・「鳥」・第1楽章(1781年作曲)が材料として取り上げられました(この場では音源で示せないのが残念です)が、坂本教授はここで鳥のさえずりを思わせる第2ヴァイオリンとヴィオラの刻むリズムの伴奏がまず出て・それに乗るように第1ヴァイオリンの奏でる主旋律が遅れて出るということを言い、後世のベートーヴェンのワルトシュタイン・ソナタ(1803年)の第1楽章冒頭がそれと同じだということを言いまして、主旋律があって・それを伴奏が支える形が古典派音楽の特徴だという結論(みたいなこと)を言うので、吉之助はとても驚きました。吉之助は伴奏みたいに聞こえる第2ヴァイオリンとヴィオラの刻むリズムは旋律の一部だと思うのですねえ。最初は伴奏かと思ったものが実は旋律の一部であったというサプライズが実はハイドンの実験だったのです。当時の聴衆もそのことを新鮮だと感じた、だからこの曲に「鳥」というニックネームが付けられたのです。そのように考えれば、まず第2ヴァイオリンとヴィオラが旋律を奏で・これを第1ヴァイオリンとチェロが受ける、ここで聴かれるのは四つの楽器の間での旋律の受け渡しではないのでしょうかね。ワルトシュタイン・ソナタの場合も同様です。冒頭の左手が作り出すリズムはそれ自体が旋律であり・それが持つ推進力に導かれて右手が動き出す、ここにあるのは左手と右手の間の旋律の受け渡しなのです。そこに古典派音楽の特徴があると思います。

番組でも紹介があったようにハイドンは、貴族のお雇いで・雇い主のお好みの音楽を書かなければならなかった・それまでの作曲家の在り方からちょっと抜け出て、自立して・自分の書きたい音楽を書けた最初の職業作曲家でした。そして、ロンドンで当時西欧で最先端の市民社会の息吹きを受けた交響曲(ロンドン・セットと呼ばれる交響曲群)を書きました。そのような新しい作曲家の在り方が曲のなかにどのように反映しているのかが問題になると思います。このことは四つの楽器の間での旋律の受け渡し=各楽器がそれぞれ自立しており=それぞれの役割を四つの楽器が等価に持つ =四つの楽器がそれぞれの意思で作り出す調和(ハーモニー)と考えるならば、答えは明らかなのです。ちなみに弦楽四重奏曲「鳥」が作曲されたのは1771年・まだハイドンがエステルハージ家に奉公していた時期のことであり、渡英(最初の渡英は1791〜2年)以前のことでした。しかし、これは次のように考えられば良いのです。そのような自立した考えを持ったハイドンであ ったからこそ、その音楽は当時の先進的なロンドンの市民に支持されたということです。その音楽によってハイドンは来るべき西欧の在り方を預言したのです。 吉之助ならば、ここで取り上げた「鳥」と「ワルトシュタイン」に、マーラーの交響曲第6番(1904年)の冒頭部を加えて、西欧の精神史約100年の展開を説明したいところです 。

坂本教授の説くところは、主旋律があって・これを支える伴奏が並行してある、片方が主であって・もうひとつは従ということですね。右手は旋律で・左手は伴奏、第1ヴァイオリンは旋律を奏で・ヴィオラは伴奏、歌手が旋律を歌い・オケは伴奏ということかと思います。坂本教授は、この構造理論で ハイドンの音楽と当時の先進的なロンドンの市民感覚との共通性を説明できるのですかねえ。番組では言及がありませんでしたね。坂本教授は音楽の構造・特に縦の線にばかり目が行き過ぎのように思います。

第1回(1日)「古典派の歴史的位置付け」では、坂本教授はベートーヴェンのピアノ・ソナタ・ヘ短調・第1番(1794年)の第1楽章が材料として取り上げて、第1主題は男性的・第2主題は女性的で優美でおしとやかということを言いました。この時に演奏例として掛かったのがグレン・グールドの録音でしたが、グールドが「第1主題は男性的(だからかっき りと強く弾く)・第2主題は女性的で優美(だからテンポを落として滑らかに弾く)」というロマン派的決め付けには反対であると日頃から主張していたことを坂本教授はよもやご存知でないとは思いませんが、よくここでグールドの録音を出しましたという感じでしたねえ。「グレン・グールド 坂本龍一セレクション」というCDを吉之助も所持しておるのですが、グールドが坂本教授の解説を聞いたら「そういうことなら俺の音源 はここでは適当ではない」と言うと思いますよ。グールドの演奏はそのようなロマン派的思い込み(男は男らしく・女はおんならしくというような役割の決め付けのことです)を打破して、第1主題と第2主題を等価で扱おうとする姿勢を明確に示していたと思います。そのように扱っても素材としての第1主題と第2主題の 音楽的な性格の違いは自ずと滲み出てくるはずだというのが、グールドの主張なのです。 坂本教授は第1主題が上昇音階で・第2主題は下降音階みたいなことも言ってましたが、表面的なことだと思います。上がる・下がるではなく、ふたつの主題の対照性が肝心なのです。

まっそういうわけで、他にも突っ込みたいところはまだあるのだが、「スコラ・音楽の学校」は今後どのように展開しますかね。申し上げたいのは、もうちょっと定型パターンから抜けて柔軟な発想で音楽を解説してもらいたいということですねえ。それと歴史・特に社会思想史との関連はしっかり押さえてもらいたいと思いますね。

(H23・10・10)


○役者の全盛期ということ・その4

ところで初代吉右衛門には「寺子屋」(昭和25年・御園座)・「熊谷陣屋」(昭和25年・東京劇場)・「盛綱陣屋」(昭和28年歌舞伎座)と三つの舞台映像が遺されています。先日(8月)の早稲田大学演劇博物館での初代吉右衛門展のイヴェントとして、これらの映像が上映される機会がありました。そこで気になったことですが、「これらの映像は初代晩年(初代は68歳で昭和29年9月に没)の映像であって初代のベストの演技が記録されていない」というような事を仰る方がいらっしゃるようなので申し上げたいのですが、そのような了見でこれらの貴重な映像を見るのは如何なものかな・・と吉之助は思うのです。初代吉右衛門に限ったことではないですが、どんな映像でも・その時の演者の・その時点のベストの芸が遺されているのです。そう思って見なければ決してご利益はないということを言いたいですね。これが伝統芸能の古い映像を見る時の根本的な態度なのです。

映画「盛綱陣屋」は三つの映像のなかでは最も高齢期の初代吉右衛門を記録したものです。初代は明治19年の生まれですから、この時に66歳ということです。現在とは平均寿命が違うとは言え、今の感覚からすると66歳はずいぶん若いのですが(ちなみに六代目菊五郎は昭和24年没で享年63歳でした。)、映画「盛綱陣屋」では当時の初代吉右衛門の脚の具合が悪かった為、段取りを変えたところがあります。そのような箇所があるにしても「・・だから初代のベストが記録されていない」などと云うことは決して言ってはならないことです。そのような手順の変更などどうでも良いことです。それよりもホントに見るべきところをしっかり見てもらいたいものです。例えば微妙に向かって「聞き分けてたべ母人」という時の間合いの良さ、首実検の後で小四郎に向かって「でかした、でかした」という長台詞のリズム感などです。しかし、間合いの良さとかリズム感とか書きましたが・ホントに大事なところは実はそういうところではなく、そういうものが如何にも義太夫狂言臭い時代の重い表現ではなく、写実の表現として、実に軽やかにシャープに・しかし確実に繰り出されることです。このような初代吉右衛門の演技を、盛綱でなくても・他の時代物でも良いですが、現代の歌舞伎役者の舞台で見ることができますか?ということです。吉之助が映画「盛綱陣屋」で見て欲しいと思うところは、そういうところなのです。

映画「寺子屋」では「でかした源蔵、よく討った」で初代吉右衛門は松王が右手を大きく挙げて形を決めることをしません。「あれは晩年のことで初代は右腕が上がらなかったから」と仰る方がいるようですが、それは事実とちょっと違うのではないでしょうか。後年の「盛綱陣屋」では初代は「でかした、でかした」のところでパッと右手で扇を高く掲げていますけどねえ。初代吉右衛門の松王が右手を大きく挙げて形を決めないのは、意図があってわざとそうしなかったのだと吉之助は思います。映画「寺子屋」の他の部分を見ますと、例えば後半・「・・源蔵殿、お許しくだされ」で泣く場面・普通はここは大落としと云って・懐紙を目に当てて身体全体を大きく震わせて大泣きしてみせるわけですが、初代は懐紙でちょっと目頭を押さえる程度なのです。ですから、こういうところで・これ見よがしな臭い演技をしないのが初代吉右衛門の芸風だということが、三つの舞台映像から見えてくることだと思います。(「熊谷陣屋」については別稿「初代吉右衛門の写実の熊谷」をご覧下さい。)

この印象は、小宮豊隆:「中村吉右衛門論」あるいは小島政二郎:「初代中村吉右衛門」などの本に綴られている証言とぴったり符号します。だから吉之助が映画から受けた印象は正しかったし、小宮豊隆・小島政二郎の書いたこともまた正しかったということが明らかなのです。(詳しくは別稿「初代吉右衛門の馬盥の光秀」をご参照ください。)

初代吉右衛門は子供芝居(当時はちんこ芝居とも呼ばれた・いわゆる首振り芝居)で人気を取って後に大歌舞伎に入った役者でした。だから子供時代に義太夫で糸に乗せる演技を身に付けて後に義太夫狂言の名手となったという ようなことを仰る方がいますが、これがとんでもない思い込みであることは、遺された舞台映像を見れば明らか なのです。初代吉右衛門は熊谷や清正など英雄豪傑を得意とした・だからスケールが大きい重厚で押しの効く役者だ・それが義太夫狂言だ・・・そういう思い込みで映像を見ると、見えるものも見えないことになります。

幼い頃の吉右衛門のエピソードに次のようなものがあります。幼少の辰次郎(吉右衛門の本名)を芝居に親しませるために、父・三代目歌六は弟子の十郎を辰次郎の遊び相手につけました。十郎と毎日お芝居ごっこをしながら、辰次郎は芝居のコツを身に付けて行きます。ある時、辰次郎は十郎にこう聞いたといいます。「十郎、お前と芝居をしているとこんなに面白いのに、どうしてお父っつあんのしている芝居を見てると、あんなに詰まらないのだろう。」

十郎はびっくりして、「そりゃあ、坊ちゃん、私たちのしているのは遊びだからですよ。」と答えました。「あんなの、ギックリバッタリしているだけじゃないか。あんな人形の真似ばかりしていると、今に歌舞伎なんか誰も見なくなるよ。アタイに芝居をさせようと思ったら、あんな人形の真似をさせないで十郎が芝居を買いておくれよ。十郎の芝居は、生きた人間が出て、我々と同じような事を言ったりして面白いよ。」十郎は困っただろうと思います。「そんな芝居は歌舞伎のように長続きなんかしないんですよ。すぐ飽きられてしまうんですよ。」辰次郎はしばらく考えてこう言いました。「・・・そうかな、アタイには分からない。」

『「そうかな、アタイには分からない」、この幼い一言が吉右衛門の一生につきまとって離れなかった、彼の一生を決定する大事なキー・ポイントだった。』・・小島政二郎はそのように書いています。このエピソードから、初代吉右衛門でちんこ芝居の首振りで義太夫狂言の演技のコツを身に付けて名優になったなんてことが想像できますか?初代吉右衛門が身に付けたとするならば、それは糸に乗って人形みたいにギックリバッタリすることの反義的な意味ではないでしょうか。この感覚は大正の自然主義リアリズムと符号するものです。そのような流れの果てに初代吉右衛門の晩年の映像があるのです。晩年の映像が教えることはそういうことです。

ですから・もう一度繰り返しますが、どんな映像でも(録音でも)・その時の演者の・その時点のベストの芸が遺されていると思わなければいけないのです。そう思って見なければ、映像は決してあなたに芸の奥義を語りかけることはないでしょう。これが伝統芸能の古い映像を見る時の根本的な態度なのです。

(H23・10・3)


○役者の全盛期ということ・その3

六代目歌右衛門が亡くなったのは平成13年(2001)3月のことでしたが、歌右衛門は最晩年は舞台に立つことがありませんでしたから、吉之助にとっては歌右衛門の舞台を生(なま)で見たのは平成7年4月歌舞伎座での「沓手鳥孤城落月」での淀君が最後となりました。この時の歌右衛門は前月から体調が悪くて「一ヶ月の舞台が勤められないで休演するかも知れないがご容赦いただきたい」旨のコメントが初日前に出るという異例の事態でした。こうなると吉之助も落ち着かなくなって、恐らくこれが最後の淀君になるだろうという覚悟をして初日の舞台に駆け付けました。「糒蔵」の場は歌右衛門の体力消耗を防ぐということで・なるべく淀君が動かなくて済む段取りが取られました。いろんな意味で淀君と歌右衛門が重なってくる舞台でしたが、身体が多少動かなくたっても・台詞が多少聴きにくかったとしても、それ以上にビンビン伝わってくるものがありました。情念と言っても良いし、気迫と言っても良いでしょうか。そこに淀君の生き様があり、歌右衛門の生き様が見えました。

この時の劇評にも「お金を取るからにはこのような老醜さらした状態で舞台に出るべきではない」というような心ないコメントが沢山出ましたねえ。身体が満足に動かなくなったと言って自ら身を引いてしまう役者もいます。一方で身体が十分に動かなくなっても、それでもなお舞台に立とうとする役者もいます。そこにそれぞれの役者の生き様が示されています。そこに良いも悪いもありません。片方が潔くて、片方が未練であるなどと誰が決め付けることができましょうか。結局、芸というのはその人の生き様であって、鑑賞する側もその人の生き様においてこれに対峙するということになるのです。もちろん実際にはいろいろな条件が重なって、そのような高いレベルの対峙に至らないことがほとんどではあるでしょう。しかし、例え単純にミーハー・ファンというようなレベルであっても、例え私は大好きなこの役者の舞台なら何であっても許すという感じであっても、見続けていれば、ある時に演じる側と観る側の生き様がピッタリと重なる瞬間が必ず来るのです。そういう瞬間がいつ訪れるのかは誰にも分かりませんが、観続けてさえいれば、そういう瞬間に必ず出会う時があるのです。その瞬間に、芸というものとはどういうものか、芸というものが観る者に何を指し示すのかが、はっきりと分かります。

「パフォーマンス芸術においてはその人の最新のものが過去のものより常に良いものであり、またそうであると考えるべきである」ということは、PCのファイルを常に更新し・新しいものに書き換えていく行為にも似ています。「最新のものが常に良いのか?書き換えてもっと悪いものになってしまうことはないのか?」と云う疑問を持つ方がいそうですねえ。そう思うのならば書き換えなければ良いのです。しかし、書き換えて 何かがもっと良くなると思うから、そのことの価値を認めるから書き換えるのではないでしょうか。なるほど書き換えて実際には期待通りの結果にならないこともしばしばあるでしょう。しかし、それは結果としてたまたまそうなっただけの話です。そのリスクを恐れて 挑戦することをしないのならば、生きてることの甲斐がないと言うべきですね。パフォーマンス芸術には常に肉体・あるいは年齢の問題が付きまといます。歳を取れば、若い時のように身体は自由に動きません。顔に皺も出来ます。しかし、二十代には二十代の・七十代には七十代の、それぞれの時分の花があるのです。ファイルを常に書き換え続けねばならないのは、パフォーマンス芸術の宿命です。二十代の役者が七十代の役者のやることを同じように真似しようとしても駄目で、七十代の役者が自分が二十代の時にやれたことを再びやろうとしてもこれも無駄なことです。しかし、二十代の役者が自分が七十代になった時にはああ成りたいと思い続けていくことは、絶対に意味があることなのです。パフォーマンス芸術を見続けていく(聴き続けていく)と云う行為は、鑑賞する者も演者同様、そのことの意味を追い続けるということに他なりません。 (この稿つづく)

(H23・9・25)


○役者の全盛期ということ・その2

「パフォーマンス芸術においてはその人の最新のものが過去のものより常に良いものであり、またそうであると考えるべきである」というのはもちろん心構えということです。しかし、単なる建前ではなく、 これは「芸というものは果てしがなく・決して完成はない」ということに対する理念的な対処法なのです。現実には 誰にだって好不調の波があります。病気・事故あるいは年齢から来る体力の衰えとかどうしようもない問題が絡みます。それでも果てしない完成を目指し続けることに意味があるわけで、これにお付き合いする観客(聴衆)もまたそうです。

「誰其の娘道成寺の舞台は一度見たから、それでもう十分」という方もいらっしゃると思います。それはその人の考え方ですからそれで結構ですが、吉之助の場合は再演してくれるならば・必ず何かが加わっていると思いますから、機会があるならば是非見たいと思います。もちろん役者も歳取っていけば当然失われるものがあるでしょう。しかし、それに代わる何かを期待して・また見てみたいと思います。何かを失わないと、代わりのもの・もっと高次なものは得られないということもあるのです。

世阿弥は「花伝書」のなかで「花」ということを言っています 。世阿弥の花は独特な理念です。一般に芸の「花」と言えば・華やかで輝かしい生命の頂点のようなイメージがあると思います。「華」の字で書かれることもあるくらいです。だから 時分の花というと、若さゆえの花という風についイメージしてしまいがちです。しかし、花と言うものは咲いたらいずれは萎(しぼ)んでしまうものです。だから花と言う時には、そこに儚(はかな)さ・移ろいということも 、実はイメージされているのです。花と隣り合わせに 常に死があるのです。老優が演じる若衆に若手役者では絶対に出せない怪しい色香を感じてハッと驚くことがあるのは、芸というものの本質に儚さというものがあり、それがどこかで花のイメージと通じ合うからです。 だから二十代には二十代の・七十代には七十代の、それぞれの時分の花があるものだと思います。

二代目鴈治郎が亡くなったのは昭和58年(1983)のことですが、東京での最後の舞台はその前年11月歌舞伎座での「新口村」での忠兵衛であったと思います。この時の鴈治郎はかなり体力が落ちて弱々しく、寄り添っている梅川(扇雀=現籐十郎)が実は忠兵衛の身体をしっかり支えており、そうしないとよろけてしまいそうな危うい感じでありました。当時の劇評には「お金を取る からにはこのような老醜さらした状態で舞台に出るべきではない」というようなコメントが沢山出ました。随分心ないことを書くものだなあと思いました。あの時の鴈治郎は誰の目から見ても「東京での舞台は多分これが最後になるのだろう」ということが明らかであったからです。結果論で言うのではなく、そういう忠兵衛であったと思います。忠兵衛は父親をひとめ見たくて・自分の不孝を詫びたくて新口村へ逃げるわけですが、実はおめおめと父親に見せる顔などないわけです。ホントは会えた 道理じゃないのだけれども会いたい、しかし、会ってはいけないということを忠兵衛は感じているのです。そういう気持ちがヒシヒシ伝わってくる忠兵衛でありました。吉之助のなかでの最高の忠兵衛は依然として鴈治郎であり、鴈治郎の最後の舞台でそのイメージが崩れることはまったくなかったのです。そのようなことは役者と観客の馴れ合いのなかで言えることじゃないかという方がいそうです。けれどパフォーマンス芸術家と観客 (ファン)の関係というのは本来そういうものじゃないのでしょうかね。芸というものは、長いスパンのなかで捉えていかないと決して見えて来ないものが確かにあるのです。(この稿つづく)

(H23・9・10)


○役者の全盛期ということ・その1

パフォーマンス芸術において「誰其の全盛期は○○年頃であった」などと云うことを聞くことがあります。スポーツ選手の場合であれば、これは体力と密接な関連がありますから、ホームランを連発していた選手が打球の飛距離に突然伸びがなくなって・今までだとスタンド入りしたはずの当たりがフェンス手前に落ちてしまって・体力の限界を感じて引退するなんて話がありますから、スポーツ選手に全盛期みたいなものがあるというのは、確かに分からないことはありません。大ベテランが難しい球をうまく救い上げて「芸術的なホームラン」などと言われることがあっても、技術・巧さだけでは全盛期という言われ方は必ずしもされ ません。スポーツの場合はやはり人気とか記録がそのバロメーターになると思います。

パフォーマンス芸術の世界でもバレエなどでは、今まで売りにしていた華麗な跳躍が満足できるレベルで出来なくなったということで名ダンサーが引退するということがあ ります。これも体力と大いに関係があるということですから理解はできます。しかし、なかにはかなり高齢でも現役で活動を続けられるジャンルがあって、例えば指揮者やピアニストなどがそういうジャンルです。例外もありますが、大抵の場合死ぬまで現役という方が多いようです。テンポが遅くなる・表現の斬れが悪くなるということが 多少あったとしても、別の意味で経験の積み重ねから来る表現の深みというものが増してきます。これは何にも替え難いものものです。これがあるから芸術というのはたまりません。何度も聴いた同じ曲を 同じ演奏家で、また聴きたくなるのです。歌舞伎役者の場合もそうですね。このようなパフォーマンス芸術家に全盛期というものはないと思うわけです。それなのに世間で は誰其の全盛期などと安直に言われていない でしょうか。体力的にピークの時期というのは当然あるでしょう。しかし、それがパフォーマンス芸術家のベストの時期であるとは限らないのです。

パフォーマンス芸術家の道程というのは果てしないものです。誰でも日々深化(進化)を心掛けているものです。昨日よりもっと良い芸を勤めたいと思うものです。だから吉之助は「パフォーマンス芸術家には全盛期などというのはない」と考えていますが、そうでないと考える方もいるのかも知れません。それで誰其の全盛期は○○年頃であるというような話がよく出て来るのでしょう。まあ人それぞれのことですから・別に否定はしませんけれどね。しかし、吉之助の場合は、原則 として「パフォーマンス芸術においてはその人の最新のものが過去のものより常に良いものであり、またそうであると考えるべきである」という考え方に変わりがありません。 これがパフォーマンス芸術を鑑賞する時の心構えであると思っています。

二十世紀前半の最も重要な指揮者であるフルトヴェングラーあるいはトスカニーニについては、その演奏を生で聴いた方々の証言として、共に「その全盛期は1920年代から30年代前半」などと云うことを本で読むことが多いわけです。しかし、1920年代から30年代前半というのは実に都合が良ろしい年代でして、 40年以降はともかく、彼らの20年〜30年代の録音というのは数えるほどしか遺されておらず、あっても音質が非常に貧しいのです。つまり、真相を確かめ様がないのです。「実際に聴いた人がそう言うならば・多分そうなんだろうなあ」という 程度のものです。(この辺、吉之助にとっての九代目団十郎や五代目菊五郎に似たところあり。)吉之助もこの時代の彼らの録音を手当たり次第に集めて貧しい音質のなかから「全盛期の響き」を聴き取ろうとしてきました。まあそうやって聴こうとする態度は大事なことではあります。そこから教えられたところも 多々あると思います。

吉之助が音楽を本格的に聴き始めた時代にカラヤンと並んで重要な指揮者はカール・ベームでした。60年代のベームは、やや早めのテンポで・リズムを明確に力強く刻むノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の芸風でありました。しかし、ベームは70年代に入ると急激にテンポが遅くなり始めました。1975年に久しぶりにベームが来日した時にはずいぶん期待をしたものですが、表現が緩んだ感じに聴こえて、吉之助もその演奏を聴きながら「ホントのベームの実力はこんなものじゃない」とか・「もう5年早く来て欲しかった」とか 心のなかでブツクサ言いながら聴いたものでした。そんなわけで・ベームには当時とてもガッカリさせられた思い出が吉之助にはありますが、当時のベームのそれらの録音を改めて聞き直せば、テンポはもちろん遅いけれども・リズムはしっかり打ち込まれて・旋律の息が深い・これは実に立派な演奏なのです。やっぱりベームは良かったと改めて思います。あの時にガッカリしたのは、あれは何だったのでしょうかね。

カラヤンについては歳取ったというようなネガティヴな印象を抱いたことはほとんどないですが、晩年(80年代)においては、それ以前のキリッと鋼鉄のように引き締まった緊張感のある表現とは かなり変化してきて、オケの自発性を優先させる感じが明らかに強くなってきました。しかし、それは以前とはまた違った独特のゆったりとした余裕・というか懐の深さを感じさせて、それはまた魅力的なもの だったのです。

このようにひとりの演奏家の演奏スタイルの変遷をずっと追っておくと、そこにその演奏家の生き様のようなものが浮かび上がってきます。それが世にベームの芸術・カラヤンの芸術と云われるようなものです。さらに聴き込んでいけば、ベームもカラヤンも共に同じ時代を生き・同じ時代の空気を吸って切磋琢磨してきたのだと云うことも実感できます。1979年カラヤンはベーム85歳の誕生祝賀式典においてスピーチを行ない、ヘリゲルの「弓道における禅の精神」を引用して・貴方(ベーム)は指揮に於いてこの極意を実践したと称えました。そこにふたりの偉大な指揮者の時代を同じくした要素を見ることができます。

『私が的を射るのか、それとも的が私を射るのか。このことは肉体の眼で見れば不思議だが、精神の眼で見れば不思議でも何でもない。では、どちらでもあり・どちらでもないとすれば、どうなるのか。弓と矢と的とおのれのずべてが融けあうと、もはやこれらを分離することは出来ない。そして、分離しようとする欲求すらなくなる。だから、私が弓を構えると、すべての事柄がクリアで、面白いほどシンプルになる。』(オイゲン・へリゲル:「「弓道における禅の精神」)

オイゲン・ヘリゲル:日本の弓術 (岩波文庫)

吉之助が同時代リアルタイムで追ってきたベーム・カラヤンの例を挙げました。クラシック音楽は音源としてほとんど百年に近いアーカイヴを膨大に持っており、いろんな演奏家の・いろんな年代の録音を同等の位置付けで 並べて聴くことが出来ます。ですから吉之助には「どの時代の演奏も・その時代のものとしてベストを記録しているのであって・それぞれにその良さがあり・それらを互いに比較 して優劣を付けることは意味がない」という聴き方が、完全に身に付いています。しかし、ひとりの演奏家の芸術を時間の流れのなかで総括する場合においては、先に述べた通り、吉之助は「パフォーマンス芸術においてはその人の最新のものが過去のものより常に良いものであり、またそうであると考えるべきである」というベクトル線上で聴くようにしています。これはとても大事なことです。歌舞伎役者の舞台を見る場合でも同じことだと思います。(この稿つづく)

(H23・9・4)


○ノイエンフェルス演出の「ローエングリン」

先日NHKでバイロイト音楽祭の歌劇「ローエングリン」(アンドリス・ネルソンス指揮)の生中継がありましたので、その録画を見ました。吉之助は1983年にバイロイトに行きましたが、その時の雰囲気などを思い出して懐かしく思いました。 真夜中の放送ですので・寝ずにお付き合いはできないですが、海の向こうのオペラ上演が生中継とは凄い時代になったものです。吉之助がこの放送に注目したのは、その演出がハンス・ノイエンフェルスであったからです。ノイエンフェルスの「ローエングリン」は昨年(2010年)が初年度で、今年は二年目になるそうです。ノイエンフェルスについては、「歌舞伎素人講釈」でも野田秀樹の「愛陀姫」とヴェルディの歌劇「アイーダ」の考察の時に・その演出についてちょっと触れました。ノイエンフェルスは作品を現代との関連において積極的に読み直し・再構築するという風が強い演出家で、ペーター・コンヴィチュ二ーと並んで・いわゆる「お騒がせ演出家」の代表格とも言える人です。しかし、スキャンダラスな面ばかりではなくて、問題提起というか・その切り口において深く考えさせられるところがあるので無視はできません。

昔はオペラといえば歌手を聴きに行くもの(例えばイゾルデならビルギット・ニルソン)、或いは指揮者を聴くもの(1983年バイロイトのリングはショルティ指揮)であったわけですが、昨今は歌手も指揮者も小粒になったせいか、オペラというのは何よりも演出を見るものになったようです。特にバイロイトでは実験的な演出が掛かるので、新演出が掛かる度に話題が絶えません。演出家が作品をどう解釈して、どう作り変えるか、今度は何をやらかすか、従来イメージとのギャップを期待して劇場に行くという感じがなくもないようです。しかし、今回の「ローエングリン」もそうですが、舞台で・視覚面で何が起こっていようが、音楽はいつもの通り・同じ様に鳴っているというのがまことに不思議と云うか・それだから救われると云うか、演出なんかどうでも良いような気持ちになってくるのです。それはノイエンフェルスの解釈が駄目だとか嫌いだとか言うことではありません。ワーグナーの音楽という・しっかりと普遍なものが中核にあって(それは「古典的なもの」と言っても良いのですが)、そこに寄り掛かっていることの安心感です。だからノイエンフェルスの解釈がどんなものであっても、ワーグナーの音楽の周囲で飛び回っている解釈のなかのひとつとして許せるということなのです 。それはちょうどヨーロッパの都市の旧市街を訪ねると、古い石造りのいかにも古風な建物のドアを開けると、室内はすっかり電化されていて・家具も現代風にあつらえられているというのと同じことです。(この辺は同じ「古典」であっても、歌舞伎とは異なることです。歌舞伎の場合は演出・或いは型自体が古典化し ・作品とある程度一体化しているからなのでしょう。)

ノイエンフェルスの「ローエングリン」はネズミの国に迷い込んだエルザとローエングリンみたいで、これも面白い着想であるなあと思いました。 ハメルンの笛吹きは、ローエングリンか・それともテルラムントか?という感じでしょうかね。インタビューのなかでノイエンフェルスは、「ローエングリン」をコミュニケーションの問題として捉えたいということを言っていました。第1幕でエルザが背中に矢を沢山受けた状態で登場したのにはちょっと吃驚しました。エルザに対するローエングリンの振る舞いも決して紳士的とは言えず・時に粗暴に感じられました。この辺にノイエンフェルスの意図があったのかも知れません。しかし、第1幕でのローエングリンの「あなたは決して尋ねてはならない・知りたく思ってもならない」という禁問の動機はバタバタ段取りに追われた感じで、仕草としてしっかり 意味付けしてもらいたかったという気がしましたが。

(H23・8・24)


○舞踊の身体学:その4

平成23年7月新橋演舞場での海老蔵の「鏡獅子」を見ました。前シテのお小姓弥生ですが、海老蔵の踊りは確かに腰高・棒立ちの踊りです。だから脇が大きく空きます。「 (牡丹の花の) 咲くや乱れて散るわ散るわ」の箇所など、身体が伸び切って実に風情がありません。そのすぐ後の中ダメの形もちょっと膝を折ってみましたくらいの感じで、あれでは中ダメとは言えません。良い点も上げておくと、海老蔵の踊りはあまり肩が動 きませんね。腰もあまり揺れません。 それと海老蔵はクネクネした踊りをしません。これも良い点です。そういうわけで、海老蔵の「鏡獅子」とはどんなものかと内心心配しながら見ましたが、思っていたよりも安心して見ていられたというのが吉之助の印象です。本当はもっと腰を落とした踊りをすべきですが、この腰高 の突っ立ち状態でも肩が動かず・腰も揺れないのは、下半身が強靭だからでしょう。逆に言えば、下半身の強さに頼りすぎの踊りなのです。だから身体の線に柔らか味が出ないのです。海老蔵の「鏡獅子」についての評判は色々聞きますが、海老蔵は立役ですから、たとえお小姓弥生の踊る場合であっても・「・・女らしく」あるためのつまらぬ小細工を身につける必要はないと吉之助は思います。それよりも基本正しく踊ることの方が大事です。その方が本領 である立役舞踊をやる時に役に立つのです。まっそれはともかく、今は下半身の強さに頼っているようですが、もう少し腰を落とすことは心掛けてもらいたいものです。

それより問題だと感じるのは、海老蔵の前シテ・お小姓弥生の踊りは「振りをソロリソロリとさらっている」という印象が強いということです。「鏡獅子」の前シテはちょっと見た感じだとそのように見えないですが、踊り手には結構辛い踊りであるようです。膝を落として上体を支えて静止する中ダメの振りが三箇所出て来ることでも分かる通り、下半身を責め抜いて・責め抜いて踊る曲です。しかし、もちろんその辛いところが観客に知られてはならないわけで、あくまで優雅に浮き立つように踊らなければなりません。「鏡獅子」前シテはその辺に難かしさがあるのだろうと思います。「鏡獅子」前シテを見ていると、「振りを ずいぶんソロリソロリとさらうなあ」と思う舞台が少なくありません。振りが丁寧だと感じるならばそれは良いということになりますが、ソロリソロリというのは要するに振りが動きとしてまだ十分に生きたものになっていないということです。動きが硬くて、踊りが浮き浮きしたものになってこないということです。その要因のひとつとして、踊り手の意識が下半身のタメの方に多く行ってしまっているということがあるのだろうとお察しをします。例えば勘三郎の「鏡獅子」前シテにしても、海老蔵と比較するのは失礼になるほどレヴェルの高い踊りであるにしても、それでもやはりソロリソロリの感じが 多少あります。もっとも同じソロリソロリでも、勘三郎と海老蔵とでは事情が異なることはもちろんですが。(別稿「勘九郎のマイルストーン」をご参照ください。)

ところで前項で歌右衛門の踊りは肩と身体の軸がしっかりした踊りであって、その踊りのたおやかなイメージは滑らかな手の遣い方によって生まれるものだということを書きました。別稿「舞踊の振りの本質」でも触れましたが、踊りの振りというのは流れではなく、決めであるのです。例えば「右手を前に差し出す」という振り、それは右手を差し出すという動作(流れ)が大事なのではなく、右手を前に出し切った時の形を「決める」ことが大事だということです。踊りの振りというものを一瞬の「決めのポーズ」から次の「決めのポーズ」へ移って行く。そのように考えたいと思います。瞬間的に 形を決めて・その形を抜く。そして瞬間の形の残像を観客の脳裏に刻み込む。そうすることで振りにリズム感・あるいは揺れの感覚が生まれてきます。歌右衛門はその技術が天才的に巧かったと思います。「右手を前に差し出す」という振りでも、スッと真っ直ぐに手を出すということを決してしませんでした。何だかヒラヒラと・あるいはクネクネとした感じで手を差し出すのです。 その動作の速度は決して一様ではなく、動作のなかに優雅な揺れのリズム感覚があり、それがたおやかな踊りの印象を生み出したわけです。「右手を前に差し出す」という連続した動きを等分の速度のなかで行なってしまえば、それはソロリソロリとした印象に陥ってしまいます。動きのなかにリズム感・あるいは揺れの感覚が乏しいからです。 踊りにおいては手の遣い方が大事です。もちろん腰の持ち方が基本であるけれども、さらに高い次元を目指すならば踊りのポイントは手の遣い方なのです。

現代の背の高い・手脚の長い役者さんが踊る時にどこを直せば良いかという問いに話を戻しますが、腰を落と して踊ることは身体の軸を一定に保つために常に大事なことですが、体格の良い現代の役者さんが六代目と同じように肩を動かさず・身体の軸がブレないように正しく踊っても、腰高の印象は多分なくならないでしょう。これは致し方ないことです。腰高の硬い印象をやわらげる為に、手の遣い方を工夫しなればなりません。踊りの振りを「決め」であると心得 て、その振りのなかにリズム感を持たせること。そうすることで現代の役者さんの踊りも、時代に即した美学を体現したものになっていくだろうと思います。

(H23・8・19)


○舞踊の身体学:その3

現代の背の高い・手脚の長い役者さんが踊る時にどこを直せば良いかということですが、日本舞踊の場合には、これはなかなか難しいことだと思います。身体の比率が違いますから、踊りの印象が異なってくるのは当然です。六代目の踊りでもアシカの踊りとクサされたくらいですから、 体格の良い現代の役者さんが六代目と同じように肩を動かさず・身体の軸がブレないように正しく踊っても、恐らく棒立ちの踊りの印象がより強くなるだけでしょう。胴長マリオネットの踊りとでも言われかねませんが、それ でも仕方がない。それでも日本舞踊は肩を動かさず・腰を揺らさず・身体の軸(肩と腰を結ぶ線)をブレないようにすること を基本にすべきだと吉之助は思います。膝に余裕を持たせて・腰を落とすことはとても大事ですが、それで身長盗めてもまあ数センチというところでしょう。しかし、腰高の印象は変わらなくても、腰を落と して踊ることは身体の軸を一定に保つために常に大事なことなのです。これで立役の踊りは一応見られるものになります。

問題は女形の踊りの方です。前述したように科を作ること(クネクネ)が女らしさの表現という思い込みが、女形の踊りを余計に悪いものにしています。科を作ることが、身体を使っているように見せて棒立ちの印象を解消するための、さらに女らしさを表現するための技巧 にされているのです。しかし、クネクネはオカマさんの技巧であって、歌舞伎の女形本来のものではないはずです。 これは女形論とも重なることなので・本論では深入りしませんが、女形というのは野郎が女の格好をして女の表現をするものですが、歌舞伎の女形が最初から オカマ芸というわけではなかったのです。初代富十郎以後に女らしさを表現する技巧が次第に確立していきますが、そうした技巧の表層的な模倣がオカマ芸です。女形芸とオカマ芸は似ているようでいて 、まったく異なるものです。立役の九代目団十郎や六代目菊五郎などが(兼ねるという形であるにしても)女形を演じることがあるのは、女形芸というものが純粋にひとつの技術であることをはっきり示しています。昨今はここのところの区別がつかない方が多いようです。科を作ることが女らしさの表現だという思い込みは、こういうところから来ます。遺された九代目団十郎の映像(画質は非常に悪いですが「紅葉狩」の更科姫)あるいは六代目菊五郎の映画(「鏡獅子」のお小姓弥生)をご覧にな ると、彼らが踊りのなかで提示しようとした概念としての「女性」とはどういうものか、おぼろげながら見えてくると思います。「あれは真女形の踊りじゃないから ゴツゴツして見える」と思って見る限り、見えるものも見えてきません。女形舞踊は本来ああいう感触であったと想像してみる必要があるのです。

近いところでは七代目梅幸の踊りは、さすが六代目菊五郎の仕込みということもありますが、決してクネクネではありませんでした。六代目歌右衛門は見掛けがナヨナヨとした感じでしたから、踊りはクネクネのような先入観があるかも知れませんが、映像をみれば実にしっかり基本を守った踊りなのです。 踊りの肩と背筋の軸の安定感をみれば、それは歴然としています。歌右衛門の踊りのたおやかなイメージは、それ以外の要素・例えば滑らかな手の遣い方によって生まれるものです。(首の動かし方はこの人の癖なので真似しない方がよろしいです。どうも真似している方がいらっしゃるようであるが。)しかし、昨今の女形舞踊を見ているとクネクネ踊りがとても多いと思います。これは、役者の体格変化と女形美学の変化が複合的に絡み合った・とてもデリケートで興味深い現象であると吉之助は考えています。(この稿つづく)

(H23・8・12)


○舞踊の身体学:その2

吉之助が舞踊をチェックするポイントは、肩が動いていないか・腰が揺れないか、要するに身体の軸(肩と腰を結ぶ線)がブレないかと言うことです。このことはバレエでも日本舞踊でも変わりがありません。そうやって舞踊を見ると、腰高の踊りをする方は、脇が空いて見える・脇が空くからそれをカバーしようとして身体を大きく使おうとする・身体を無理に大きく使おうとして結果として身体の軸がブレる・ それで肩が動く腰が揺れる・だから舞踊の形が崩れるという悪化のプロセスを辿ることが多いようです。歌舞伎舞踊では、役者の体形が大きく変化してきたこともあって、腰高の踊りを見せられることが多い。そうすると上記の舞踊悪化のプロセスがそこに見えるわけです。特に女形舞踊の場合には、これは女形という美学上の問題が絡むので事情がさらに複雑ですが、脇が空くのをカバーする為に身体を使うということを科(しな)を作るということで処理しようとする傾向が強い。女らしさの表現は科を作ることだという誤解が昨今の女形舞踊をさらにひどくしてい ます。だから昨今は舞台で見る女形舞踊の多くがクネクネ踊りです。観客もそれが当たり前のことだと思って見ています。

こういうことは舞台を客席から遠目で見ている分にはさほど気にならないと思いますが、ビデオで・つまりカメラのフレームで切り取られた映像で見るとその欠陥が顕著に 現れます。ある役者さん(あえて名前を伏す)の腰高の踊りは、いわゆる決めのポーズになると腰を落としてしっかり形を取っていますが、そうでない時(流している時)には腰を上げて楽な姿勢で踊っています。そうするとカメラマンは四角の形のなかに映像をバランス良く配置しようとしますから、カメラの角度が役者の腰の動きに合わせて上下動するわけです。おまけに身体を使おうとして肩が始終動くので狭い四角のフレームのなかで頭 や肩が前後左右に頻繁に揺れます。だから吉之助はその役者さんの腰高の踊りのビデオを見るといつも車酔いした気分になるのです。もちろんこれはその役者さんだけのことではないですが、そのような踊りを見せられることが実に多いのです 。

或る方から、踊りのお師匠さんに五代目富十郎(本年1月にお亡くなりになりました)の踊りを見なさいとよく言われるのだけれど・見てもどこが良いのか全然分からないと質問されたことがあります。「棒が突っ立って・手だけ楽にヒラヒラさせているように見える のじゃないかな」と言ったら、そう見えると仰ってました。肩が動かない・腰が揺れない・身体の軸がブレない踊りが、身体を使っていない・楽して踊っているように見えてしまうわけです。その昔、岡鬼太郎が六代目菊五郎の 「娘道成寺」の踊りを「アシカの踊り」とクサしたことがありました。・・アシカの踊りねえ、なるほど背筋がピンと真っ直ぐ立った踊りは、そんな風に見えるのかも知れませんねえ。古典狂言に関しての鬼太郎の見識についてはもちろん吉之助は尊敬していますが、ひよっとすると鬼太郎は踊り が分かってないのじゃないかと密かに疑っておるのです。とても困ったことですが、既にしてクネクネ踊りが標準になっているということです。本物が本物でないように見えてしまうわけです。

ところで正しい踊りのお手本として何を見るべきかと聞かれれば、吉之助は六代目菊五郎の「鏡獅子」(昭和10年)の映像を挙げることにしていますが、実は菊五郎の踊りにも完璧でないとこ ろがあります。もちろん最高レベルのなかでの欠点ということですが。「鏡獅子」の映画の試写会の時、菊五郎は「俺はあんなに下手か」と言い捨てて・途中で退席してしまい、その為に菊五郎存命中に映画が公開されることはなかったのです。これについては菊五郎の甥である十七代目羽左衛門はカメラが菊五郎を斜めから撮ったのが気に入らなかったのだろう・踊り手はつねに正面の形を意識しているものだから・斜めからだとどうしても隙がみえてしまう・それが嫌だったのではないかと言っていました。それは正しいと思いますが、・・ということは斜めの形に菊五郎本人が見られたくなかったものが見えるということです。

このことは映画を見れば分かります。菊五郎の踊りはしっかりと腰を据えて・舞台に吸い付いた実に見事な踊りです。もちろん肩が左右に揺れるようなことはありません。しかし、よく見ると下を見込むような形の時に上体が(程度はそう大きくはないが)前に傾斜することが多い。それがカメラを斜めから撮られると はっきり見えます。正面からのカメラではそれはあまり目立ちません。ここはホントは上体を垂直に立てて・頭だけを前に傾ける・できるだけその形に近いものに保つのが正しいのです。菊五郎の踊りは上体の 前傾斜が結構多く見えます。これは背筋の強さに係わることです。菊五郎がこのことに気が付かないはずがありません。はっきりと「これを後世に残すのはマズい」と思ったはずです。これは断片しか遺っていない映像ですが、「娘道成寺」(昭和 10年頃の映像か?)での鈴太鼓の踊りでの上体の遣い方なども動的な激しい踊りで見事だと褒める方もいるでしょうが、これも正しいかと言えば正しくないものです。 気が逸り過ぎているのです。もちろんこれは高レベルでの欠点であるので、菊五郎の踊りが最高のものであったことは言うまでもありませんが。(この稿つづく)

(H23・8・7)


○舞踊の身体学:その1

昨今の日本人はホントに体格が良くなりました。背が高いし、脚が長いし、顔も小さい。しかし、最近の若者は洋装の時は良いのだけれど、負け惜しみじゃないが、和服はちょっと似合わない感じですね。ある女優さんですが、背が高くて洋装だとスラリとカッコ良いのだけれど、着物だと帯が何だか腹巻みたいに見えるの だなあ。着物の立ち振る舞いに慣れてないということもありますが、腰の位置が高いので見た目のバランスが良くないのです。バランスというのはなかなか微妙なものです。一方、梨園に目を転じれば、栄養事情がよろしいのか・こちらも170センチをはるかに超える方が多くいらっしゃいます。背の高い役者が主役を勤める時には大道具の寸法もそれ用に誂えるようなこともあるそうです。舞台で頭がつっかえちゃっては困るからです。江戸時代は世界的に寒冷期で栄養事情が悪く、日本の歴史を通じて日本人の体格が一番貧弱であった時代が江戸時代であったと言われています。そういう時代のお芝居を体格が一番良ろしい現代の歌舞伎役者が演じているわけです。このような変化が歌舞伎の印象に視覚的に何らかの影響を及ぼしているはずです。しかし、そういうことは意外と議論されていません。まあ議論しても致し仕方ないということかも知れません(役者の背を低くはできませんからね)が、舞踊の場合はどうしてもこのことを考えないわけにはいきません。

このことは実は西洋舞踊でも事情は似たようなもので、吉之助は古典バレエではルドルフ・ヌレエフやマーゴット・フォンティーンのような身体バランスが感覚的にしっくり来ますが、バレエでも最近の 若いダンサーは背が高く・手足も長いし・しかも小顔の方が増えてきているようです。そうなると当然見る印象も変わってきます。いささか古い話で恐縮ですが、吉之助がパリ・オペラ座のマリー・クロード・ピエトラガラを見た時です。彼女も細身で手足が長いタイプですが、古典バレエのナンバーだと(もちろん技術は素晴らしい ものでしたが)手足が長いのが何だかバランス的に落ち着かない感じでどうもなあ・・と思って見てましたが、彼女の現代物は抜群に良かったのです。「インザ・ミドル・サムワット・エレヴェィテッド 」(ウィリアム・フォーサイスの代表的な振付作品)などは、吉之助はギエムより良かったと今でも思います。長い脚を生かした大胆な動きは実にセクシーでありました。この時に踊り手のセンスとか身体能力ということと を別にして、作品が求める素材としての身体バランスの向き不向きということが確かにあると思いました。しかし、まあバレエの場合にはどうしても向きでなければ振り付けを変えて向きにすれば良いという奥の手があることはあります。歌舞伎舞踊の場合にはこれはなかなか難しいことで、別の振り付けでもガラリと印象を変えることはできないでしょう。だから歌舞伎舞踊の場合には役者は振りに対して真摯に向き合わねばならない要素がより強いということにもなると思います。

西洋舞踊でも同じことが言えますが、例えば小柄なダンサーが腕を横に大きく振る動作をするとして、背が高く・腕の長いダンサーが同じ動作をすると、脇が空いて見えるということが起こります。ヌレエフならばそれで良かったものが、もっと大柄で手脚の長いダンサーはそれでは不足だというのもツライ話ですが、実際そう感じることが多いわけです。こういう場合、背が高いダンサーは腕をもっと 大きく振る・脚をもっと高く跳ね上げるということで対処する場合が多いようです。そうしないと身体をあまり使っていないように見えるのです。本当はそうではなくて・ 手脚が長いダンサーはコンパスが長い分振るのに運動量が多く要る理屈なのですが、小柄なダンサーと同じ動きをすると・何だか動きが隙だらけに見えてしまうのです。 このような時に「もっと身体を大きく使いなさい」という駄目出しがダンサーに出されることがありますが、身体が出来ていない・あるいは技術がまだ完成していないダンサーであると、手脚をやたらに大きく振ろうとして・身体の軸をブレさせてしまって・却って踊りが悪くなってしまう場合があります。だから注意してアドバイスをせねばなりません。

歌舞伎舞踊でも六代目菊五郎や七代目三津五郎が踊りの名人だというけれど(それは事実ですが)、現代の役者とは体格が全然違います。六代目を貶めるではないけれど、背が高くて・手脚が長い現代の踊り手が六代目と同じ振りで踊るのは、踊る前からハンデキャップが相当付いているということは事実なのです。現代の歌舞伎舞踊では確かに腰高の踊りを見ることが多いのですが、まあその辺割り引いて見てあげないと・・と思うことはありますね。(この稿つづく)

(H23・8・5)


○歌右衛門・ガルボ・玉三郎

先日(7月23日)にNHK・BSプレミアムのドキュメンタリー「ガルボの恋文〜坂東玉三郎・ストックホルム幻想」という番組で、ハリウッド初期の伝説の女優グレタ・ガルボの生まれ故郷ストックホルムを玉三郎が訪ねて、その所縁の場所を辿り・知人の思い出話などを聞くということでありました。玉三郎はガルボの大ファンで・写真集なども持っているそうです。そのことは吉之助は初めて知りましたけれど、聞いてみると何となく「なるほどなあ」と思うところもあるようです。ガルボはとてもシャイな人で・周囲の視線を絶えず気にして・人前ではあまりしゃべらなかったそうです。とても神秘的なムードを漂わせていて、容易に近づき難かったそうです。玉三郎の場合はそれほどには感じませんけれど(お話ししたことはないですが)、番組のなかで「(わたしは)見られることが嫌なの、化粧をしてるとほっとするんだけど・・見えないからね」と言っていましたから、やっぱり共通したものがあるのでしょう。番組の最後で玉三郎は「あなた(ガルボ)の真実はよく感じ取れたと言いたい」と言っていましたが、ガルボへの玉三郎の思いはよく伝わってきました。

ところで番組では触れませんでしたけれど、昭和35年(1960)に歌舞伎が戦後初のアメリカ公演を行なった時、ニューヨークの劇場でガルボがこれを見て、歌右衛門にぞっこん惚れ込んだという話があります。ガルボは歌右衛門の「娘道成寺」を見て感激して、それから連日舞台袖で歌右衛門を見つめ続け、ある時などは幕が開く前に舞台で待機していた顔世御前の歌右衛門に駆け寄って抱きついたということです。(詳しいことは関容子著「歌右衛門合せ鏡」をご覧下さい。)ガルボは1941年に銀幕から引退して・人目を避けて隠遁生活に入ったわけです から、歌右衛門のことは引退以後の話です。ガルボが歌右衛門を好きだったというのは、ちょっとビックリだけれど・素敵な話ですね。多分ガルボは玉三郎も気に入っただろうと思います。

関容子:歌右衛門合せ鏡(文芸春秋社)

番組はBSの北欧特集の一環で、あくまでガルボの生まれ故郷であり・心の故郷であるストックホルムの街に焦点を当てたものでした。ここで歌右衛門の話を絡めると筋がこんがらがって・ストックホルムの番組じゃなくなってしまいますから・この話が番組中で出て来ないのは当然のことですが、それはともかく、歌右衛門・ガルボ・玉三郎という構図で見るならば、三者の繫がりが円環に見えて来るように思うのです。ガルボから玉三郎への隠されたメッセージ(玉三郎がガルボになぜ魅せられるか)がより明確に見えてくる気がしますけれどねえ。これでまた別の番組が出来そうな気がしますが、続編作ってみませんか。

(H23・7・29)


○東山魁夷の旅

音楽や演劇と比べれば、吉之助の場合は絵画の方の関心がやや薄いということは確かかも知れません。音楽や演劇の場合は向こうからこちらへ訴えかけてくるわけですから、姿勢として受身でも鑑賞が可能ということがあります。絵画でも向こうから訴えるものは当然あるわけですが、鑑賞者の方から対象のなかへ入っていかねば掴まえられぬ要素があるようです。そこのスタンスの取り方が吉之助には難しいのかも知れませんねえ。

ところで日本画の巨匠・東山魁夷は、吉之助は長野県信濃美術館東山魁夷館(長野市)や千葉県市川市東山魁夷記念館などでその作品は見知ってはいましたが、これまでさほど興味なかったというのが 正直なところでした。何と言いますかねえ、東山魁夷の絵については、静けさとか安らぎとか、あるいは昔どこかで見たような・子供の頃の記憶を呼び覚ますような懐かしさというような感想が一般的に多いようですが、そこのところがかぶき的心情バロック論の吉之助からすると、古典的に収まり過ぎている感じでどうも面白くないということでした。

ところが、昨年ふと東山魁夷記念館に再び立ち寄って見てその絵がとても気になったということがあって、忙しさに紛れてそのことをしばらく忘れていましたが、先月・NHKのドキュメンタリー「極上美の競演・東山魁夷の旅・三回シリーズ」という番組があって・これを見ていて、なるほど吉之助が何となく気になっていたのは東山のなかの内面の激しいバロック的な感情であったのだなあということに、初めて気が付きました。しかし、このことは静けさとか安らぎとか・そのような世間での東山の評価が間違いだと言っているわけでは決してないのです。東山が日本風景画の大家として不動の地位を築いたのはまさにそれ故なのですから、そのことは大事なことなのです。このような内面のバロック性を封じ込めて・全体にこのような静寂感・古典性を与えることに成功していることに、改めてこの画家の凄さ・深さを感じるということですかねえ。

芸術作品の鑑賞法に定石があるわけではなく 、名作はどんな見方も許すものです。吉之助の場合はやはりかぶき的心情やバロック的感情ということを切り口に見ることになります。だから東山魁夷に対する見方も、静けさとか安らぎとか懐かしさという要素はどこか遠くなってしまうようです。 以下は番組のなかでの解説とはまったく異なる吉之助の感想であって、それが作者の意図に沿うものであるのかは・よく分かりませんけれども、例えば第1回・「再生のドイツ」でメインで取り上げられた「みずうみ」(1961年)ですが、これは南ドイツのベルヒテスガーデン国立公園にあるケー二ヒス湖畔を写生した風景画ですが、ここで用いられている倒影という技法・緑の山並みを湖面に逆さに映すという構図については、画面(湖という題材や青緑の色合い)からもたらされる静けさとか安らぎという印象とはまったくかけはなれたものを、吉之助は内面に感じます。東山は「みずうみ」画面の下部分の約3分の2を湖面に映る逆さの山並みにしてい ますが、吉之助には湖面のなかに自分が引き込まれそうに感じられます。これはちょっと危うい感覚を孕みます。吉之助がここで連想するのはハウプトマンの「沈鐘」であるとか・メーリケのヴァイラの歌などのイメージです。恐らく東山の場合もそういう連想があるに違いないと思うのです。しかし、東山の場合は風景画家という彼の本分のなかで、その浪漫的感情を風景のなかに封じ込めている、そのように感じます。

第2回・「挑戦の京都」でメインに取り上げられた「年暮る」(1968年)ですが、雪が静かに降り積もるなかに年越しの除夜の鐘が鳴るという京都東山の風景を描写したものです。これも画面からもたらされる静けさとか安らぎという印象とまったくかけはなれたものを、吉之助は内面に感じます。この風景には人の気配が感じられませんねえ。それは家のほのかな灯かりによって暗示されているだけです。人の営みは風景のなかに溶けてしまっている。これもちょっと異様な感じを吉之助は受けるわけです。例えばこのようなことを考えます。百年ほど前の写真撮影は とても長い露光時間が必要であったわけですが、そのような昔のカメラで昼間の渋谷の繁華街を写真に撮りますと、動く人間の姿は消えてしまって・動かない物体の像だけが残り、画面に現実にあり得ない真昼の無人の繁華街が現出するのです。 このような異様な感覚が「年暮る」にはあると吉之助は感じます。つまり、この一年の人々の嬉しいこと・悲しいこと・すべての思いは、風景のなかに封じ込められるということでしょうかね。第1回・「再生のドイツ」に出てきた「ローテンブルクの門」・あるいはリューベックを描いた「霧の門」(いずれも1961年か?)も同様に感じます。

第3回・「祈りの山河」でメインに取り上げられた「光昏」(1955年)は、長野県野尻湖での風景を描いたものですが、番組では実は「光昏」は画面の一部に箱根姥子温泉でのスケッチを組み合わせたものだということを明かしています。光線の向きも異なり、つまり現実にはあり得ない合成風景だということです。これも激しくバロック的な発想です。創作の過程に非常に激しい感情が渦巻いている、そのように感じます。「光昏」画面中央にある野尻湖湖面の・まるで画面を 上下に引き裂くかのような黒・それはグロテスクなほど底知れぬ感情を秘めた黒です。しかし、「みずうみ」も「年暮る」も「光昏」もそうなのですが、全体から見る印象はそのような内面のバロック的な激しい感情 ・さまざまな葛藤や試行錯誤の苦しみなどは飛んでしまって・それはとても落ち着いて見えて、静けさとか安らぎとか懐かしさという印象になるのです。東山は日本画という彼の本分においてそのことを実現しているわけです。吉之助はそこのところが非常に興味深いと思うのです。

本サイトは「歌舞伎素人講釈」ですから、ここで伝統芸能に立ち返るわけですが、このことは、能でも歌舞伎でもそうですが、内面に湧き上がる激しいバロック的な感情(かぶき的心情)を如何にして古典的な印象に仕上げるかという問題として吉之助のなかに深く関連してくるわけです。

*文中に取り上げた絵の画像は番組サイトをご覧下さい。

(H23・7・10)


○吉田秀和は本当に偉いのか?

今年御歳97歳になる音楽評論家吉田秀和氏の特集が最近いくつかの雑誌で組まれています。例えば「レコード芸術」誌・7月号(今月号)での「特集:吉田秀和〜音楽を心の友と」は、これまでの吉田氏の業績を俯瞰するのに役に立つ特集でした。「クラシック・スナイパー」という雑誌では「吉田秀和は本当に偉いのか?」という特集がありました。吉之助は随分と前のことですが、「吉之助への50の質問」のなかで、「満足できるレベルの批評家は、文芸では小林秀雄、音楽では吉田秀和くらいしかいない。演劇評論のジャンルでは未だにいない」と書いたのですが、正面切って「吉田秀和は本当に偉いのか?」と問われるとハタッと考えてしまいそうです。吉之助のなかにどうも明確な答えが出てこないのですねえ。

吉之助は朝日新聞の音楽時評とか・「レコード芸術」誌での連載など・ずっと吉田氏の文章に接してきましたが、現在手元にある単行本は「私の好きな曲」一冊しかないのでした。これは吉之助の学生時代に「芸術新潮」誌に連載されたもので・吉之助は当時熱心に読んだものです。サイト「歌舞伎素人講釈」も10年やってきましたが、そういえば吉田氏の文章の引用はひとつもないですねえ、まあこれはたまたまそういう題材がなかったことかも知れませんが、吉之助が吉田氏を尊敬するところは具体的な・ある文章・批評・意見とか言うものではなかったようです。そういうところでは吉之助は意外なほど吉田氏の影響を受けてないようです。

吉田秀和:私の好きな曲―吉田秀和コレクション (ちくま文庫)

吉田秀和と言えば、音楽に詳しくない人でも1983年に来日したホロヴィッツ(当時摂取していた薬のせいでコンディション最悪)に対して「ひびの入った骨董品」と評したことを覚えていらっしゃると思います。吉之助は吉田氏の文章を長く読んでいますから彼の言いたいことはもちろんよく分かってはいるのです。本阿弥光悦の焼き物にはひびの入っていないものはひとつも遺されておらず、光悦は焼きあがってひびがない作品を全部廃棄したのではないかという説もあるほどです。たとえコンディション最悪であったとしても・音楽が分かる人間には、心に響くものは響きますし、ひびさえも愛おしいということがあるものです。その時のホロヴィッツの演奏は吉之助も生(なま)で聴きましたが、ミスタッチなんぞは完全に記憶から飛んでます。しかし、心ないマスコミに吉田氏の発言は面白おかしく取り上げられました。これは吉田氏にとって本意でなかったと思いますが、このことでホロヴィッツ・ファンは静かに・しかし深く吉田氏を恨んだということは確かなのです。86年のホロヴィッツ再来日の演奏会会場で吉田氏を見かけた時に文句言ってやりたくなったのを思い出します。もちろん何も言いませんでした けどね。しかし、この件に関しては持って回った吉田氏独特のレトリック(修辞法)に問題があったと今でも思います。他人の目にさらされる文章というものは怖いものです。

「吉田秀和は本当に偉いのか?」というのは別にそれはどうでも良いことなのですが、「あの人が言う(書く)ならば、どんなことでも一応言うことは聞いておこう」と一目置くところがあるということかと思います。これがどういうところから来るかは難しいところですが、それはある種の教養主義に根差したところから来る吉之助からの敬意ということですかね。教養の裏打ちというか・対象に対する時の批評家の姿勢、それは結局人間性ということになるのかも知れませんが、そういうものでしょうかねえ。同じようなことが小林秀雄にも言える気がします。このごろはそのような敬意が感じられる批評家が少なくなりました ね。

「レコード芸術」誌・7月号でのインタビューで、吉田氏は「私の批評は私の文章を読むのが好きな人が読めば良い。いろいろな声があるんだ。いろいろな声があれば、自分の声がすべてを代表するなんて考える必要はない。それから「おれは一部の声でしかない」と考えることもない」(注:多少字句整えました)と語っておられます。そのような肩肘張らない・突っ張ったところのないのが、吉田氏の文章の魅力であるかなと思います。

(H23・7・9)


○ハーディングのブルックナー&マーラー

吉之助は東日本大震災のあった3月11日夜に演奏会(すみだトリフォニー・ホール)を聴きに行く予定にしていました。最近メキメキ頭角を現してきた英国の若手指揮者ダニエル・ハーディングが新日本フィルを振って、マーラーの交響曲第5番を演奏することになっていたのです。地震で首都圏の交通機関が麻痺してしまった為、吉之助はその演奏会には行けませんでしたが、徒歩や自転車で集まった百人ほどの聴衆を前にガラガラのホールで当日の演奏会は決行されたということを後でインターネットで知りました。吉之助はその時刻には東京の仕事場から家へ徒歩で歩いて帰る最中で、錦糸町を素通りしまして・家に着いた時には日付が変わっておりました。ハーディングもあの時の経験は忘れられない・これからずっとこの曲を振るたびにこのことを思い出すことだろうと語ったそうですが、吉之助もこの日を決して忘れないでしょう。切符の方は払い戻しがありましたので、今考えると、家に歩いて帰る道それてトリフォ二ー・ホールへ行けば良かったなあと思ったりもしますが、当日は家の方が心配でそれどころじゃありませんでしたね。

そのハーディングが6月に新日本フィルとブルックナーの交響曲第8番を振りに再来日、これは当初から決まっていたスケジュールですが、あの時に振り損なったマーラーを絶対振るんだということで特別演奏会を行なうというのだから、これは聴かないわけにはいきません。そういうわけで6月はハーディングで、ブルックナーとマーラーをまとめて聴くことが出来ました。ハーディングは演奏終えるなり・そのままロビーへ走って・募金箱を手にお帰りの聴衆に復興支援の募金を呼びかけるという具合で、演奏もさることながら・その人柄も見上げたものがあるようです。

吉之助がハーディングに注目するようになったのはそれほど昔のことでもなく、ウィーン・フィルを振ったマーラーの交響曲第10番(クック補筆版)のCD(2008年リリース)を聴いてとても感心したからです。これ など同曲の録音のなかでも筆頭に挙げても良い出来栄えです。アダージョ冒頭など曲者揃いのウィーン・フィルの弦を実によくコントロールできています。それから彼の演奏をいろいろ聴いてみたのですが、才気煥発というか、曲によってはテンポやアクセントに個性的な主張を入れることも多く、吉之助から見ると「御主まだ青いな」と思うような解釈も少なくないようではあります。(「ドン・ジョヴァン二」序曲などはちょっと・・・ね。)この点では例えば若き日のカラヤンや夭折したグィド・カンテルリのように聴いた瞬間その完成度に目をむくというほどの衝撃はないのだけれども、しかし、 まあそういうところも含めてフレッシュな若さの魅力があると言うことでしょう。ともあれ現在最も将来を嘱望されている指揮者であることは疑いありません。今回のブルックナー(17日、第8番)・マーラー(20日、第5番)ではハーディングは解釈面でもなかなか手堅いところを聴かせてくれました。

マーラー:交響曲第10番(ハーディング指揮ウィーン・フィル)

今回のブルックナー・マーラーともに解釈を正攻法に取って、最終楽章コーダを除いてあまりテンポを動かさず・比較的インテンポに取っていたことが特徴かも知れません。逆に言うと、吉之助としてはコーダもイン・テンポで堂々押し通して欲しかったところではありますが、それはまあ大きな欠点とは思いません。多分ああいうところで追い込み掛ける方が興奮する方は多いだろうと思います。感心したのは、テンポ設定が適切で、両曲ともにバランスがよく取れて各楽章がそれぞれの位置をしっかり主張できていたことです。それとハーディングとマーラー室内管との演奏では解釈も仕掛けに行くせいか・リズムの刻みが浅いと感じることが少なくないのですが、今回の演奏ではまったくそういう不満を感じませんでした。これも正攻法で行った成果じゃないかと思いますが、ハーディングの力量をまざまざと感じさせましたねえ。

ブルックナー:交響曲第8番では、第2楽章スケルツオの中間部で思わぬ発見がありました。この中間部について作曲者は「野人(ミヒェル)が田舎を夢見る」ということを言っています。「野人(ミヒェル)」というのは田舎者という意味でありましょうか。ハーディングのこの場面の遅いリズムの刻み方が如何にも野暮ったく・しかしどことなく素朴でユーモラスで、ハッとさせられるところがありました。それと第3楽章アダージョ冒頭の低弦のリズムの・少し足を引きずったような重い刻み方がとても面白いと思いました。もっとも作曲者は楽譜に“Feierlich langsam, doch nicht schleppend”(荘重にゆっくりと、しかし引きずらないように)と記しているようですが。しかし、ハーディングの演奏を聴きながらこのアダージョは第7番のアダージョよりもずっと「葬送」そのものではないのかと感じましたねえ。これもひとつの発見でありました。(注:第7番の アダージョはワーグナーのための葬送音楽であると言われています。)今回の演奏では、この中間2楽章の出来が特に素晴らしかったと思いますが、もうひとつ第4楽章でふと感じたことですが、ハーディングはオルガンの響きをイメージしながら指揮しているようでした。特に金管でオルガンの持続する響きをフレージングで意識していたように感じられました。そんなこともこの演奏を印象深いものにしていたと思います。

マーラー:交響曲第5番は恐らくハーディングにとってブルックナー以上に相性が良ろしい曲でしょう。バランス的には第1・2部を重めに取り、第3部(第4〜5楽章)をやや軽めに抑えた感じでありました。有名な第4楽章アダージェットは情感に浸るのではなく・むしろ客観的に対していたようですが、それも良かったのではないでしょうか。それはそこに至るまでの第1・2部を重めに取っていたから、その軽さが効いて来るわけです。第1楽章はもともと葬送行進曲であるから、震災支援チャリティコンサートということもあるから尚更と言うべきか、非常に沈痛な思いが伝わってくるずっしり重い・しかし緊張感がある演奏になりました。第3楽章も激しい鋭角的なリズムがよく打ち込まれていて、ずっしり腹に響く演奏でしたねえ。

それにしても新日本フィルも渾身の力演を聴かせてくれました。金管もとてもよく鳴っていていました。ハーディングはこれから新日本フィルのMusic Partnerという肩書きで、いろんな演奏を聴かせてくれる予定になっていますが、このコンビでそれらを聴くのがとても楽しみです。

(H23・7・1)


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