(TOP)        (戻る)

谷崎潤一郎・「陰翳礼賛」論


1)暗がりからの視線

谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」は、昭和8年(1933)12月号から翌年(昭和9年)1月号まで雑誌「経済往来」に連載された随筆です。「陰翳礼賛」は、関西に移住した谷崎が日本回帰に目覚めた時期の代表的な随筆とされています。英訳もされており、谷崎の著作のなかでも世界的に最も広く知られた作品のひとつだそうです。

ちなみにこの時期の谷崎の小説を見ると、「蓼喰ふ虫」が昭和3年(1928)12月3日から翌年6月17日まで83回に渡って「大阪毎日新聞」・「東京日日新聞」に断続的に連載されました。「卍(まんじ)」の執筆は昭和3年3月から昭和5年4月にかけて雑誌「改造」に断続的に掲載で、「蓼喰ふ虫」に並行します。吉野葛」は、昭和6年(1931)に雑誌「中央公論」1月号と2月号に分けて掲載されました。さらに春琴抄」が昭和8年(1933)6月に雑誌「中央公論」に発表されて、その後の「源氏物語」現代語訳、「細雪」創作へと続くことになります。

大正12年(1923)9月1日の関東大震災の後、谷崎は一家をあげて関西へ移住しました。このことは谷崎にとって私生活上の変化であったばかりではなく、むしろそれ以上に谷崎の文学上の転機をもたらすことになりました。それが谷崎の「日本回帰」とされるものです。この時期の谷崎の作品には、日本的な題材(文楽・義太夫・地唄など)、関西弁の女性のはんなりとした会話のニュアンスなどが意識的に創作に取り入れられました。随筆「陰翳礼賛」は、ほぼ時を同じくした昭和初期の日本が戦争への泥沼に次第にはまりこみ・世間が国粋化へ傾斜するなかで、発表当時から日本への回帰の作家的立場を表明したものと捉えられてきました。現在でも巷間その読み方は基本的に変わっていないと思います。谷崎は伝統的な日本家屋が持つ「薄暗さ」を愛で、明治以降の日本人は西洋文化を取り入れ部屋の隅々までも明るく・陰翳を消すことに腐心してきたが、かつての日本人は陰翳を尊び、むしろ陰翳を利用することで、日常生活のなかに精神の安定を見出してきたとします。

そのような「陰翳礼賛」の読み方ももちろん「有り」だし、大いに役に立つと思います。しかし、谷崎が陰翳を尊ぶとして、そのような谷崎の伝統への回帰が、彼の作品のどんなところに、どんな形で反映されたものでしょうか。そのようなことはあまり論じられていないようです。それが日本的な題材や関西弁のニュアンスを文章に生かしただけのことであるのならば、それはちょっと表層的な谷崎文学の理解ではないかと思うのです。

「陰翳礼賛」に表明された谷崎の「陰翳」の考え方が、同時期の谷崎の作品群にどのような形で使用されているか・そこを明らかにしないと、「陰翳礼賛」での谷崎の本意は正しく理解されぬのではないかと吉之助は思うわけです。そこで本稿では、同時期の「日本への回帰」とされる谷崎の小説を、「陰翳」の手法において読み直すことを試みたいのです。その前に若干長くなりますが、前提としていくつか検討しておきたいことがあります。

明治維新と・それに伴う文明開化の気運は、日本人の美的感覚に大きな衝撃を与えました。明治初期は変革の気運が最も高かった時代でした、在来の感覚が旧弊としてことごとく否定され、何でも新しいことが良いとされたのです。このようなことが概ね明治20年くらいまで続き、やがて変革の時代が終わると、明治末期からその行き過ぎた風潮に対する揺り返しが強烈に来ました。江戸の昔を懐かしむ回顧趣味が生まれて来るのです。これが概ね明治40年代から大正期の状況であると云えます。

しかし、ここが大事な点ですが、一度激しい否定の洗礼を受けたものは、まったく同じ様相で生まれ変わることは決してないのです。もう行燈の時代ではなくて、電灯の時代です。チョンマゲ・帯刀に戻れるわけではありません。そのようなものは、もはや昔のような「明晰さ」で見えることはないのです。薄暗いなかで、何やらボオッと映ることになります。明治初期の文明開化の日本が斬り捨てようとして捨てきれなかった江戸(過去)の残渣、或いは捨てようとしても尚まとわり付こうとする江戸の柵(しがらみ)、或いは否定しようとしても尚未練が残る懐かしい江戸の思い出は、暗さ・陰惨さ・おどろおどろしさと云う、或る種ネガティヴな感覚で以て捉えられて行きます。ですから「ボオッと薄暗い」と言っても「ボオッと薄明るい」と言っても同じことなのですが、ネガティヴな感覚で以て捉えるから「陰」という表現を取るということです。

明治末期には、先進の教育を受けた知識人の・こんな人がと思う人が大変なお化け好きであったりして、怪談会などに嬉々として参加したりしていました。合理主義一辺倒な世の中であるからこそ非合理に憧れるという側面もありますが(不思議なことですが、同時期に西洋の知識階級の間でも心霊会のようなことが流行しました)、そこに明治末期からという時代の精神の微妙なところが見えて来ます。明治末期から大正期という時代には、とても捻じれたところがあるのです。それは江戸と明治の精神的亀裂から来ます。

そのような時代に育ったのが、作家・谷崎潤一郎(明治19年・1886〜昭和40年・1965)であったことをまず押さえておかねばなりません。次に、伝統的な江戸の残渣は、谷崎の眼には何やら暗くボオッと映るということを押さえておいてください。ジャック・ラカンは次のように言っています。

「この構造は、光に対する目の自然な関係のなかに既にあるものを反映しています。おそらく私の目の底(網膜)には絵が描かれているでしょう。(それが「見える」ということなのです。)絵はたしかに私のなかにあります。しかし、「私」はといえば、その絵のなかにいます。光であるものが私を見ています。そしてこの光のおかげで私の目の底に何かが描かれます。」ジャック・ラカン:1964年のセミネール・「精神分析の四基本概念」〜「線と光」)

谷崎が「陰翳」と呼ぶものは、この時代はすでに電燈の時代ですから、電燈の明るさに比して明度が劣っているから、それが「暗く」陰のように見えているだけのことなのです。「見える」のは、そこから来る光(眼差し)を「私」が網膜上で意識するから「見える」のです。つまり「陰翳」を論じる時、谷崎は陰翳のなかにある眼差しの存在を感じ取っているのです。それが谷崎にとっての「陰翳=日本的なるもの」です。

もうひとつ、押さえておきたい大事なことは、当時の谷崎の小説上の実験は、作り物の物語を如何に真実めかして書くかという課題にあったと云うことです。つまり小説のリアリティ(真実味)をどう高めるかという挑戦でした。小説というのは本来、誣い物語(しいものがたり)つまり嘘物語ですから、内容も事実らしさより、自由な創意の方が大事にされたはずです。江戸期の黄表紙なんてものは、そういうものだったのです。ところが近代文学では、自意識みたいなものが加わって、事実らしさが次第に要求されるようになってきました。しかも、その要求は、読者より作家の内面において甚だしいものがありました。

例えば「吉野葛」は、作家である「私」が後南朝を題材にした一大歴史小説を書くことを目指し友人と奥吉野へ旅行するという設定で、史実伝承をちりばめ歴史紀行の体裁で始まりますが、実は友人津村の言を借りて、谷崎が亡き母の俤(おもかげ)を追い求める小説なのです。「春琴抄」もまたそうで、「鵙屋春琴伝」という架空の伝記を軸に、三味線の二代目豊沢団平、天竜寺の峩山和尚(がさんおしょう)など実在の人物などを絡め、「私」の抑えた語り口も相まって、歴史ルポルタージュの体裁を取ることで、谷崎は春琴と佐助の逸話の真実味を高めることに成功しています。つまり体裁はあくまで表向きのことで、それは読者を誣いるため意図的に擬態されたものです。

擬態とは、カムフラージュのことです。例えば兵士が森に潜んで葉っぱに擬態して緑色にその身を染めて、敵の目から自分の身を隠す場面を考えてみたいと思います。擬態においては、背景に調和することが大事なのではなく、緑色の背景のなかで自身も緑色になることこそ大事なのです。兵士は息をひそめて敵を待ち構えています。つまり、擬態するものは「こちらの視線から身を隠している」のではなく、「こちらの様子を観察しながら、じっと待ち構えている」のです。ジャック・ラカン流に云えば、「我々を眼差ししている」のです。だから擬態において我々がそこに見ているもの(例えば緑色の森の背景)は、決して我々が見たいものではなく、真実(眼差しが意図するもの)は別のところにあります。

「陰翳」を論じながら谷崎は「陰翳」を擬態しており、暗がりの奥から読者を仔細に観察するのです。実はこれが随想「陰翳礼賛」にも・小説春琴抄」にも共通した作家谷崎の姿勢です。「陰翳礼賛」では筆者は総じてそのようなことをおくびも出そうとしませんが、時折それが思わず出てしまったかと思われる箇所を挙げておきましょう。

『諸君はまたそう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。

『私は、われわれが既に失いつゝある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐のきを深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは云わない、一軒ぐらいそう云う家があってもよかろう。まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。

「どうだい、君にもそれが見えるだろ」と誘いをかけているのです。と云うか読者をそちらへ仕向けているのです。ここでは暗がりに潜む谷崎の視線の先にある対象(読者)が意識されていますね。(この稿つづく)

(R5・5・1)


2)「陰」は揺れ動く

「蓼喰ふ虫」のなかで「陰翳」を感じさせる箇所はいくつもありますが、最も印象的なのは、最終場面だろうと思います。少し長めですが・この箇所を引いておきます。

『要(かなめ)はお久が出て行ってしまうとともかくも蚊帳の中に這入った。広くもあらぬ部屋ではあるし、麻の帳(とばり)で仕切られているので、二つの蓐(しとね)が殆ど擦れ擦れに敷いてある。自分の家では、夏にはいつも出来るだけ大きな蚊帳を吊って、出来るだけ離れて寝る習慣があることを思うと、この光景は異様に感ぜられなくもない。しょざいなさに彼は煙草に火をつけて腹這いになりながら、萌黄の帷(まく)の向うにある床の間の軸を判じようとしたけれど、何か南画の山水の横物らしいとは思えても、行燈が中にあるせいか外はもやもやと翳かげっていて、図柄も落款(らっかん)もよく分らない。掛け軸の前の香盆こうぼんに染め付けの火入れが置いてあるので、始めてそれと気がついたのだが、さっきから微かすかに香っているのは大方あれに「梅が香」が薫(くん)じてあるのであろう。ふと、要は床脇の方の暗い隅にほのじろく浮かんでいるお久の顔を見たように覚えた。が、はっとしたのは一瞬間で、それは老人の淡路土産の、小紋の黒餅(こくもち)の小袖(こそで)を着た女形(おやま)の人形が飾ってあったのである。涼しい風が吹き込むのと一緒にその時夕立がやって来た。早くも草葉の上をたたく大粒の雨の音が聞える。要は首を上げて奥深い庭の木の間を視つめた。いつしか逃げ込んで来た青蛙が一匹、頻(しきり)にゆらぐ蚊帳の中途に飛びついたまま光った腹を行燈の灯に照らされている。
「いよいよ降って来ましたなあ」
襖(ふすま)が明いて、五六冊の和本を抱えた人の、人形ならぬほのじろい顔が萌黄の闇の彼方(あなた)に据わった。』
谷崎潤一郎:「蓼喰ふ虫」・第14章末尾)

別稿「生きている人形」において、「蓼喰ふ虫」末尾と、泉鏡花の「眉かくしの霊」(大正13年・1924)末尾との類似を指摘しました。「蓼喰ふ虫」最終場面では夕立前のもやもやと翳った雰囲気のなかで、主人公・斯波要は 薄暗い床の間にある淡路人形にお久の顔を見たような錯覚を覚えてハッとしますが、それは一瞬で終わります。そして、夕立が始まって要の意識が次第にたそがれ状態になって来たところで、「いよいよ降って来ましたなあ」という女性の声が響くのです。その瞬間、女形人形が口を聞いたように感じて、要は心底ゾッとしたに違いありません。「暗闇」から視線を投げかけていたものが、遂に正体を現わした瞬間です。

要は夫婦の危機のなかで、妻譲渡の契約などという・それが世間に知れたら擯斥されかねない不道徳なことをして来ました。自分たちは別れた方が良いのか・このままでいるべきか、それとももっと良い手段があるのか、いろんなことを考えながら夫婦は具体的な行動に踏み出せないままです。そんななか要はもともとあまり関心が持てなかった文楽に次第に興味を持つようになり、どうして自分はこんなに人形に惹かれるようになったか、その理由を自分なりにいろいろ考えているうちに、自分は実は人形遣いを気取っていたことに次第に気が付いてきます。しかし、同時に要は自分は本当に人形遣いなのかという疑いも感じ始めます。最後の場面で実は人形にも心があったことを要は知ります。突如人形が口を開いてしゃべり始めた瞬間を、要は体験しました。しかし、人形が一体何を考えているのか、要には分かりません。自分はこれからどうなるのだろうか。彼の未来は、他者に握られています。もしかしたら操られていたのは自分の方だったのかも知れない。自分を操っているのは何者か・・・?。それはにとって「見なければならなかったが、決して見たくなかったもの」なのです。

ここで要にとって「文楽人形」が何を表徴するかを考えてみなければなりません

(六代目)梅幸や(五代目)福助のはいくら巧くとも「梅幸だな」「福助だね」という気がするのに、この(人形の)小春は純粋に小春以外の何者でもない。俳優のような表情のないのが物足りないといえばいうものの、思うに昔の遊里の女は芝居でやるような著しい喜怒哀楽を色に出したりはしなかったであろう。元禄の時代に生きていた小春は恐らく「人形のような女」であったろう。事実はそうでないとしても、とにかく浄瑠璃を聴きに来る人たちの夢見る小春は梅幸や福助のそれではなくて、この人形のような姿である。昔の人の理想とする美人は、容易に個性をあらわさない、慎み深い女であったのに違いないから、この人形でいい訳なので、これ以上に特長があってはむしろ妨げになるかも知れない。昔の人は小春も梅川も三勝もお俊も皆同じ顔に考えていたかも知れない。』(「蓼喰う虫」第2章)

『ふと要は、ああいう暗い家の奥の暖簾のかげで日を暮らしていた昔の人の面ざしを偲んだ。そういえばああいう所にこそ、文楽の人形のような顔立ちを持った人たちが住み、あの人形芝居のような生活をしていたのであろう。どんどろの芝居に出てくるお弓、阿波の十郎兵衛、順礼のお鶴などというのが生きていた世界はきっとこういう町だったのであろう。現に今ここを歩いているお久なんかもその一人ではないか。今から五十年も百年も前に、ちょうどお久のような女が、あの着物であの帯で、春の日なかを弁当包みを提げながら、やっぱりこの路を河原の芝居へ通ったかも知れない。それとも又あの格子のなかで「ゆき」を弾いていたかも知れない。まことにお久こそは封建の世から抜け出してきた幻影であった。』(谷崎潤一郎:「蓼喰ふ虫」第10章)

ここで要は文楽人形に、昔の・今から五十年も百年も前に薄暗い家の奥の暖簾のかげで日を暮らしていた昔の人の面ざしを重ねています。人形はものを言いません。人形は人が手を添えて操らないと・動くこともしないのです。そこに登場する女形人形(例えば「天網島」の小春)は特定の女性をイメージさせるものではなく、女性を象徴するということです。それは没個性的でひとつの類型(タイプ)を提示しており、その印象は生(なま)なものではありません。それは肉体を持った女性ではなく、感情を顕わにすることはありません。ここに人形の「陰」のイメージがあります。もうひとつ、人形と・これを操る人形遣いとの関係が強く意識されていることです。これも「陰」のイメージになります。

これだけであると「人形」(陰)はじっと動かないイメージにしかなりません。(大抵の「蓼喰ふ虫」評論はここで思考が止まっていますね。)しかし、実は「陰」は動くのです。影は太陽光線によって出来るわけですから、太陽の動きに連れて・影はゆっくりですが常に動いているのです。行燈やランプ・蝋燭のような明かりでは、炎は絶えず揺れますから、「陰」は絶えず揺れるのです。「陰」が揺れないのは、電燈や蛍光灯・LEDのような電気照明の場合だけです。だから現代人は「陰」が揺れないものだと思っていますが、昔の「陰」は揺れたり・動いたりしたのです。このことを知らなければなりません谷崎は電燈の時代の人間ですが、ここで谷崎は「今から五十年も百年も前」の江戸の昔の「陰」のことを思い浮かべながら書いているのですから、その「陰」は常に揺れ動くのです。

このことは次の文章から明らかです。息を詰めて文楽人形を見ているうちに、今度は人形が動き始めます。

『要はふとピーターパンの映画のなかで見たフェアリーを思い出した。小春はちょうど、人間の姿を備えて人間よりはずっと小さいフェアリーの一種で、これが肩衣を着た文五郎の腕に留まっているのであった。』(「蓼喰ふ虫」第2章)

『酔いがだんだん醒めて来るにつれて、小春の顔が次第に刻明な輪郭を取って映った。彼女は左の手を内ぶところへ、右の手を火鉢にかざしながら、襟の間へ頤を落として物思いに沈んだ姿のまま、もうさっきからかなりの時間をじっと身動きもしないのである。それを根気よく視つけていると、人形使いもしまいには眼に入らなくなって、小春は今や文五郎の手に抱かれているフェアリーではなく、しっかり畳に腰を据えて生きていた。』(「蓼喰ふ虫」第2章)

文楽人形の小春は、もはや操られている人形ではなく、生きている存在へと変化していきます。大事なことは、「物思いに沈んだ姿のまま・じっと身動きもしない」小春は、確かに視覚的には動いていませんが、内面は激しく動いていると云うことです。小春は治兵衛のことを・あるいは女房おさんのことを考えています。治兵衛が恋しい。逢いたい。しかしそれではおさんに申し訳ない。別れねばならない。いっそのこと死んでしまいたい。いろんなことを考えながら、小春の心は激しく乱れています。要が見ている「河庄」の場面はそのような箇所なのです。視覚的には静止していますが、心理的には激しく渦を巻いている。要はこの場面を熱いエネルギーが迸る動的な情景として捉えています。

「蓼喰ふ虫」に出てくる「陰」は、大抵の場合、ひっそりと静かに佇(たたず)むイメージで読まれていると思います。谷崎にとっては、読者にそのように思わせておいた方が好都合なのです。谷崎は自分の創作の手の内を完全にさらけ出すことはしません。「ひっそりと静かに佇む陰」のイメージのなかに擬態する、これが谷崎の作戦であるからです。(この稿つづく)

(R5・5・3)


3)「陰」の言い分

斯波要は表面上は妻・美佐子を如何にもひとりの人間として対等に扱い・彼女の意志を尊重しているように見えます。しかし、実は要は妻のことを操り人形のように思っているのです。人形は没個性的でひとつの類型(タイプ)を提示しており、その印象は生(なま)なものではありません。それは肉体を持った女性ではなく、感情を顕わにすることがありません。ここに人形の「陰」のイメージがあります。もうひとつ、人形と・これを操る人形遣いとの関係が強く意識されている、これも大事なことです。これが「陰」のイメージです。このように、要が妻・美佐子を「人形」の陰のイメージに重ねていることは明らかです。

しかし、ここからが大事なことですが、「人形」(=妻・美佐子)にも実は意志があります。要は文楽の小春にフェアリーを見て、薄々そのことを感じていますが、まだ明確に認識をしていないようです。要がこのことをはっきり思い知るのは、小説最終場面で文楽人形が「いよいよ降ってきましたなあ」と口を開いた・その瞬間です。「暗闇」からの視線が、遂に正体を現わしたのです。

つまり谷崎は、要の言い分の身勝手さを心底分かっていて、「蓼喰ふ虫」を書いたと云うことです。(つまり小説執筆当時(昭和3年〜5年頃)の谷崎本人が妻千代との関係をどう考えていたか、妻君譲渡事件の谷崎本人の気持ちが、そこで分かるということです。)妻・美佐子は小説では一方的に魅力ない妻にされています。大抵の「蓼喰ふ虫」評論はそんな要の言い分ばかり追っています。しかし、それは小説に記述がないからそう見えるだけなのです。要に言い分があるならば、美佐子の方にも言い分があっても良いのではないでしょうか。しかし、そこに踏み込んだ評論は、とても少ない。繰り返しますが、「蓼喰う虫」にそう云う場面がないから分からないだけの話なのです。並行して書かれた小説「卍(まんじ)」の園子の告白を見れば、それはそのまま美佐子から見た夫・要に対する気持ちであることが分かって来ます。園子の告白をふたつ引きます。

『わたしと夫とはどうも性質が合いませんし、それに何処か生理的にも違うてると見えまして、結婚してからほんとに楽しい夫婦生活を味おうたことはありませなんだ。夫に云わすとそれはお前が気儘なからだ。何も性質が合わんことはない、合わさんようにするよってだ。巳の方は合わすように努めてるのんに、お前がそう云う心がけにならんのがいかん。(中略)と、いつもそうない云うのんですけど、私は夫の世の中悟りすましたような、諦めたような物の云い方が気に入りませんよって、(中略)あんた大学では秀才やったそうやさかい、あてみたいなもん定めし幼稚に見えるやろうけど、あてから見たら化石みたいな人やわと、云うてやったこともあります。いったいこの人の胸にはパッション云うものがあるのかしらん?この人でも泣いたり怒ったりびっくりすることあるのかしらん。』(谷崎潤一郎:「卍」・その7)

『わたしかって、ほんま云うたら夫の知らん間にたんと苦労しましたのんで、だんだん擦れて、ずるうなってたのんですが、夫にはそれ分からんと、いまだに子供や子供や思てます。わたし最初それが口惜しいてなりませんでしたが、口惜しがるとなお馬鹿にしられるので、ようし、向(むこ)が子供や思てるのんなら、何処までもそう思わして、油断さしてやれ、と、次第にそんな気イになりました。うわべはいかにもやんちゃ装うて、都合の悪い時はだだこねたり甘えたりして、お腹の中では、ふん、人を子供や思てええ気イになってる、あんたこそお人好しのぼんぼんやないか。あんたみたいな人欺(だま)すぐらいじッきやわ、と、嘲弄するようになって、しまいにはそれが面白うて何ぞ云うとすぐないたり怒鳴ったりして、自分ながら末恐ろしいなるほど芝居するのんが上手になってしもて・・・』(谷崎潤一郎:「卍」・その8)

谷崎は作家として、冷静に・冷静過ぎるほど冷静に・自分のことを観察できる男なのです。「卍(まんじ)」を読むと、関西弁の園子の告白があっけらかんと・如何にもあけすけの・大阪の年配のオバちゃん口調で綴られています。この口調に東京の方は抵抗を覚えるであろうし(吉之助は関西出身なので抵抗はないですが)、何より小説から「陰翳」の存在をあまり感じないのではないでしょうかね。しかし、それは妻・園子が「暗がり」に潜んでおり、そこから明るい外界(つまり夫・垣内)の方向を眺めて、暗がりから告白をしているわけですから、「卍(まんじ)」が明るいものに感じられるのは当然のことなのです。前述の通り、暗がりはそこに棲みなれた者にとっては十分な明るさです。このことは、「蓼喰ふ虫」と「卍(まんじ)」を、表と裏の、対の関係で読んでみて初めて分かることです。

以上のことで察せられることは、随筆「陰翳礼賛」のなかで、谷崎は自分の創作の手の内を完全にさらけ出してはいないと云うことです。もし谷崎が本気でそれを披露するつもりならば、多分谷崎は、『諸君はそう云う大きな建物の、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりのどこかから、諸君を見詰める視線を感じたことはないか』と書かねばならぬところですね。(この稿つづく)

(R5・5・7)


4)話者の転換

このように谷崎作品のなかで「陰影・暗がり」は日本の伝統的な題材だけにあるわけではなく、角度を変えて作品を眺めてみれば、いろんなところに明るい部分と暗い部分があって・それが陰影の構図を浮かび上がらせるということが見えてくると思います。

例えば「蓼喰ふ虫」においては、主人公・斯波要は明であり、妻・美佐子は陰である、舅であり美佐子の父である老人は要と同じ男性であるからして・同じく明であり、妾のお久は陰になるでしょう。ただし老人については、明には違いないが、要からは多少暗めの印象に映っているはずです。「蓼喰ふ虫」結末部は、文楽人形に実体を借りて「陰」が「いよいよ降って来ましたなあ」と口を開くサプライズです。

一方、並列して書かれた「卍(まんじ)」を見ると、一見するとあまり「陰」の要素を感じないと思いますが、これは「蓼喰ふ虫」と陰とするならば・「卍」が明の位置付けになって、これで2作品が対を成すことになります。ここでは「陰」である園子が関西弁のオバちゃん口調であけすけに語ります(だからあまり暗さを感じさせません)が、「蓼食ふ虫」では最後の最後でやっと口を開く「陰」が、「卍」では最初から顔を出していると考えれば良いのです。暗がりはそこに棲みなれた者にとってはこれで十分な明るさです。しかし、「卍」のなかを見れば、やはりそのなかに明るい部分と暗い部分が見えて来ます。陰である園子から見れば、夫・垣内が明になります。同じく男性である綿貫も明です。光子は、「光子観音」と呼ばれているように、園子から見れば明るく見えている存在ですが、女性であるからこれはやはり陰です。しかし、「卍」総体を眺めれば、これは「明」であるとして捉えて何の問題もないと思います。

このように「蓼食ふ虫」が陰と「卍」が明で、対の構造となりますが、昭和6年(1931)発表の「吉野葛」になると、谷崎の文学上の実験はさらに大胆なものになります。作品の途中で話者が「私」から友人津村へと転換して、これ以前には「陰」であったものが「明」として堂々と口を開き始めます。それは以下の場面です。

『津村はその岩の上に腰をおろして、いまだに初音の鼓のことをなぜか気にかけているのである。自分は忠信狐ではないが、初音の鼓を慕う心は狐にも勝るくらいだ、自分は何だか、あの鼓を見ると自分の親に遇ったような思いがする、と、津村はそんなことを云い出すのであった。(中略)
さてその岩の上で、津村が突然語り出した初音の鼓と彼自身に纏つわる因縁、――それからまた、彼が今度の旅行を思い立つに至った動機、彼の胸に秘めていた目的、――そのいきさつは相当長いものになるが、以下なるべくは簡略に、彼の言葉の意味を伝えることにしよう。――
自分のこの心持は大阪人でないと、また自分のように早く父母を失って、親の顔を知らない人間でないと、(――と、津村が云うのである。)到底理解されないかと思う。君もご承知の通り、大阪には、浄瑠璃と、生田流の箏曲と、地唄と、この三つの固有な音楽がある。自分は特に音楽好きと云うほどでもないが、しかしやはり土地の風習でそう云うものに親しむ時が多かったから、自然と耳について、知らず識しらず影響を受けている点が少くない。
・・・』(谷崎潤一郎:「吉野葛」・その4・狐噲

吉野葛」は、作家である「私」が後南朝を題材にした一大歴史小説を書くことを目指し友人と奥吉野へ旅行するという設定で、史実伝承をちりばめ歴史紀行の体裁で始まりますが、実は友人津村の言を借りて、谷崎が亡き母の俤(おもかげ)を追い求める小説であったことが明らかになります。すなわち、歌舞伎・文楽・地唄など狐に関連付けた日本の伝統の題材(それ自体を「陰」と捉えることができます)が自ら口を開いて亡き母への思慕を語り始めるのです。これを谷崎は、「以下なるべくは簡略に、彼の言葉の意味を伝えることにしよう。――」と話者の転換によって、いとも簡単に(簡単に見えるけれども、実は思い切ったことなのですが)実現してしまいました。そこにあるのは、これまで暗がりのなかで・じっと静かに・まったく動かず・まるで静物であるかのように佇んでいたもの(陰翳)が、はっきりと自らの意志を以てしゃべり始める驚愕の瞬間です。(この稿つづく)

(R5・5・11)


5)擬態して悪いか、「陰」で悪いか

昭和8年(1933)の「春琴抄」になると、谷崎の文学上の実験は、さらに過激さを増します。春琴抄」は、「鵙屋春琴伝」という架空の伝記を軸にして、三味線の二代目豊沢団平、天竜寺の峩山和尚(がさんおしょう)など実在の人物などを絡めて、「私」の抑えた語り口も相まって歴史ルポルタージュの体裁を取ることで、春琴と佐助の作り話の真実味を高めることに成功しました。しかし、その体裁はあくまで表向きのことで、それは読者を誣いるため意図的に擬態されたものでした。隠されていた作者の意図が「春琴抄」の末尾で露わになります

『察する所二十一年も孤独で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違った春琴を作り上げいよいよかにその姿を見ていたであろう佐助が自ら眼を突いた話を天竜寺峩山和尚(がさんおしょう)が聞いて、転瞬(てんしゅん)の間に内外(ないげ)を断じ醜を美に回した禅機(ぜんき)を賞し達人の所為庶幾(ちかし)しと云ったと云うが読者諸賢(しょけん)首肯(しゅこう)せらるるや否や』(谷崎潤一郎:「春琴抄」)

佐助の生き様を読者諸君はどうお感じであろうか、各自のご判断をお願いするというのです。ここまで冷静な語り部に徹していたはずの「語り手=私」が、最後に至って開き直る。「読者諸賢首肯せらるるや否や」と、読者に立場を明らかにするよう厳しく迫ります。擬態して悪いか・「陰」で何が悪いかと謂わんばかりなのです。

擬態の本質とは、背景(例えば緑の森のなか)の色に調和することではなく、背景のなかで兵士が緑色に変わると云うことです。兵士は息をひそめて敵を待ち構えています。つまり、擬態するもの(作者)は陰のなかに身を沈めていますが、「こちら(読者)の視線から身を隠している」のではなく、「こちらの様子を観察しながら、じっと待ち構えている」のです。そして、読者が自分が仕掛けた落とし穴に見事に嵌まったのを見届けて作者はニヤリとする、この快感のために作者は擬態を続けるのです。

ところで、晩年の谷崎の口述筆記を務めた中央公論社の編集者であった伊吹和子さんが、著書「われよりほかに〜谷崎潤一郎最期の12年」(中央公論社)のなかで、とても興味深い証言をしています。昭和36年・1961の夏〜秋頃のことだそうですが、伊吹さんが「瘋癲老人日記」の口述筆記をしていたところ、谷崎が急にプイッと怒って席を立ち、半時ほど戻って来なかったことがあったそうです。戻ってくるなり谷崎は、「あなたね、もう明日から来ないでよござんす。今すぐ東京へ帰ってください。なーに明日から新しい人が来るんです。もうあなたに手伝ってもらうことは、なーんにもありません」と言ったそうです。困った伊吹さんが東京の中央公論の嶋中社長にその旨の連絡をしたところ、社長がこう言ったそうです。「また先生の気紛れですなあ、この忙しい最中に、先生のわがままにいちいち付き合ってられますか・・・まあ四、五日待って御覧なさい、きっとお呼び出しの電話が来ますから。」

『私(伊吹さん)は(谷崎)先生の原稿の書き手であると同時に、最初の読者の立場でいた。先生の文学について、もし私が一言でも発言したら、先生が即座に激怒されることは目に見えていた。しかし、第1番目の読者としての私が、いかに先生の命令とはいえ、黙ったまま、機械として手を動かしていて、何の反応も示さないというのも、先生からすれば甚だ物足りないことであろう。(中略)「瘋癲老人日記」の内容は、かなり刺激的な個所が多い。先生はひそかに、私が性的な表現に戸惑うことを期待していたのかもしれない。しかし、そこで私が一かけらでも私的な情緒をさし挟んだら、原稿筆記は成り立たない。一瞬たりとも書き手が機械でなくなったら、先生は作家でなくなり、わがまま放題のただの老人になってしまわれるに違いなかったのである。』(伊吹和子:「われよりほかに〜谷崎潤一郎最期の12年」・中央公論社)

つまり谷崎は「瘋癲老人」の話を聞いて、顔を赤くするとか、「きゃあエッチ、きゃあ変態」というような反応を一番最初の読者(伊吹さん)にして欲しかったと云うことです。或いは「オ爺チャンノ癖二生意気ダワ」と叱ってもらいたかったか?そのような作家的快感のために、暗がりで擬態して読者を眼差ししていたと云うわけです。しかし、ご希望に応えていたら谷崎がホンモノの卯木督助になってしまいますね。

谷崎晩年の「瘋癲老人」についてはそう云うことですが、昭和初期の、「日本への回帰」と云われた時代の谷崎文学にとっての、「陰翳=日本的なるもの」についてはどんなものか?それをさらに考えていきます。(この稿つづく)

(R5・5・13)


6)冷静な観察眼

『私は、京都や奈良の寺院へ行って、昔風の、うすぐらい、そうしてしかも掃除の行き届いた厠(かわや)へ案内される毎に、つくづく日本建築の有難みを感じる。茶の間もいゝにはいゝけれども、日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それは寧ろ生理的快感であると云われたそうだが、その快感を味わう上にも、閑寂な壁と、清楚な木目に囲まれて、眼に青空や青葉の色を見ることの出来る日本の厠ほど、恰好な場所はあるまい。(中略)まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おりおりの物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人は此処から無数の題材を得ているであろう。されば日本の建築の中で、一番風流に出来ているのは厠であるとも云えなくはない。総べてのものを詩化してしまう我等の祖先は、住宅中で何処よりも不潔であるべき場所を、却って、雅致のある場所に変え、花鳥風月と結び付けて、なつかしい連想の中へ包むようにした。』(谷崎潤一郎:「陰翳礼賛」)

谷崎の「陰翳礼賛」論のなかで最も有名な「厠」談義の冒頭部です。フランスの文化史家ロジェ=アンリ・ゲランに「トイレの文化史」という名著がありますが、世の東西を問わず・文化史でも居間や台所などは研究対象になりますが、厠(トイレ)史の方は、あまりにも当たり前過ぎるか・何となく下ネタみたいで話題にし難いところがあるみたいで、永らく研究対象から漏れていた分野でした。谷崎の「厠」談義も、発表時に新鮮な驚きを与えたようです。

吉之助も初めて「陰翳礼賛」を手にした時には、オヤオヤ高邁な日本文化論かと思ったら早速「厠」談義かね?・・・と笑ってしまったことを思い出します。この場面には、前節で触れた通り、口述筆記の伊吹さんに「きゃあエッチ、きゃあ変態」というような反応をして欲しかったのと同じような、谷崎の一面が顕われているのではないでしょうかね。わざとシモ(厠)の話題を出して、チラッと相手の表情を窺う、そんなところがありそうです。「漱石先生は毎朝便通に行かれることを一つの楽しみに数えられ、それは寧ろ生理的快感であると云われたそうだが・・」の箇所など殊にそうです。「細雪」も雪子の下痢の場面で終わらせてしまった谷崎です。だからと云って、谷崎がふざけて書いてたわけでないのはもちろんですが、多分谷崎は「陰翳礼賛」をそんな軽い調子で読んでもらいたかったと思うのです。そこを「ウンウンなるほど含蓄あるご考察だ」などと真面目な顔して文章を読んでしまうと、谷崎の術中に嵌まることになります。ドナルド・キーン先生が晩年の谷崎の京都下鴨の家を訪問した時の話を書いています。

『あの有名なエッセイ「陰翳礼賛」を読んでいた私(キーン)は、当然、薄暗くて、馥郁たる杉の葉の香りただよう、伝統的な日本便所を予想していた。だから私は、彼(谷崎)の京都の家の手洗いを、別に差し迫って必要とはしていないのに、使わせてもらうことにした。私の期待は見事に裏切られた。なぜならそれは、白いタイル張りのピッカピカの便所だったからである。』(ドナルド・キーン:「声の残り〜私の文壇交遊録」)

神戸市東灘区にある倚松庵(いしょうあん)を見学した時に、吉之助もキーン先生の真似をしてトイレを覗きに行きましたけど、何の変哲もない普通のトイレでした。もちろんキーン先生もユーモアのつもりで書いていると思います。むしろ、文章から窺われる谷崎の冷静な観察眼から、彼の小説創作の技法を伺うことの方がずっと大切なことです。

日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。』(再掲・谷崎潤一郎:「陰翳礼賛」)

「青葉の匂や苔の匂」、「ほんのり明るい障子の反射」、「窓外の庭のけしき」などの材料を散りばめながら、読者の意識が母屋から厠へと移動していく過程(プロセス)を、映画的に辿っていきます。それは「ホラ、君はそう感じないか、そう思うだろ」と読者を導くように意図的に構築されたものです。谷崎は決して「陰翳」を愉しんではいません。むしろ「陰翳」の様相を映画的に観察する姿勢が、その筆致から強く感じられます。(この稿つづく)


7)「陰翳」のなかに潜むもの

谷崎の「陰翳礼賛」は、日本の伝統的家屋に於ける陰翳を話のきっかけにして・失われゆく日本人の美意識の大事さを語った随筆であると、一般的に思われています。しかし、そういう先入観で「陰翳礼賛」を読み進めていくと、中盤から話題が能や歌舞伎の衣装・さらに文楽人形や日本人の肌の色へと移って行くと、もちろんそれらも陰翳に関連した話題に違いなかろうが、何だか論旨が次第に脱線していくように感じられて、それで疲れてその辺で読むのを止める方も多いのじゃないかと思います。「陰翳礼賛」は支離滅裂だ・何が何だかよく分からんと批判する方が少なからずいるのは、そんなことなどが原因しています。

吉之助から見ると、前半の日本の伝統的家屋に於ける「陰翳」論は、「陰翳」に対する谷崎の仔細な観察眼とその考察に感心はするけれども、谷崎本人がそれを愛でる気分があまり感じられないように思います。それどころか谷崎が「ホラ、君はそう感じないか、そう思うだろ」と読者を誘導する意図ばかり目に付くように思われる。要するに谷崎の小説創作の秘密を窺う愉しみがそこにないのです。それが「陰翳礼賛」前半部に関する吉之助の印象です。しかし、吉之助に言わせると、その愉しみはむしろ「陰翳礼賛」中盤以降の方にあるように思いますね。文楽とか女性とか、谷崎の小説に近い話題のせいでしょうかね。例えば、

『知っての通り文楽の芝居では、女の人形は顔と手の先だけしかない。胴や足の先は裾の長い衣裳の裡に包まれているので、人形使いが自分達の手を内部に入れて動きを示せば足りるのであるが、私はこれが最も実際に近いのであって、昔の女と云うものは襟から上と袖口から先だけの存在であり、他は悉く闇に隠れていたものだと思う。当時にあっては、中流階級以上の女はめったに外出することもなく、しても乗物の奥深く潜んで街頭に姿を曝さないようにしていたとすれば、大概はあの暗い家屋敷の一と間に垂れ籠めて、昼も夜も、ただ闇の中に五体を埋めつゝその顔だけで存在を示していたと云える。(中略)今日かくの如き婦人の美は、島原の角屋のような特殊な所へ行かない限り、実際には見ることが出来ない。しかし私は幼い時分、日本橋の家の奥でかすかな庭の明りをたよりに針仕事をしていた母の俤を考えると、昔の女がどう云う風なものであったか、少しは想像出来るのである。あの時分、と云うのは明治二十年代のことだが、あの頃までは東京の町家も皆薄暗い建て方で、私の母や伯母や親戚の誰彼など、あの年配の女達は大概鉄漿を附けていた。着物は不断着は覚えていないが、餘所よそ行きの時は鼠地の細かい小紋をしばしば着た。母は至ってせいが低く、五尺に足らぬほどであったが、母ばかりでなくあの頃の女はそのくらいが普通だったのであろう。いや、極端に云えば、彼女たちには殆ど肉体がなかったのだと云っていい。私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体については記憶がない。それで想い起すのは、あの中宮寺の観世音の胴体であるが、あれこそ昔の日本の女の典型的な裸体像ではないのか。』(谷崎潤一郎:「陰翳礼賛」)

の箇所は、薄暗い空間の中に居る昔の女性像ということで、確かにそれは陰翳に関連してはいますが、谷崎の眼中に陰翳がないことは明らかなのです。谷崎が本当に言いたいことは別にあります。中盤に至って、谷崎が冷静な観察者のポーズを外して、やっと本心を少しづつ語り始めたように思われます。上の文章に照応する文章は、谷崎の小説のなかに容易に見つかります。昭和3年(1928)から4年に掛けて書かれた蓼喰ふ虫になかに、

『彼(要)はじいっと瞳を凝らして上手にすわっている小春を眺めた。治兵衛の顔にも能の面に似た一種の味わいはあるけれども、立って動いている人形は、長い胴の下に両脚がぶらんぶらんしているのが見馴れない者には親しみにくく、何もしないでうつむいている小春の姿が一番うつくしい。(中略)老人はこの人形をダークの操りに比較して、西洋のやり方は宙に吊っているのだから腰がきまらない、手足が動くことは動いても生きた人間のそれらしい弾力や粘りがなく、したがって着物の下に筋肉が張り切っている感じがない。文楽の方のは、人形使いの手がそのまま人形の胴に這入っているので、真に人形の筋肉が衣装の中で生きて波打っているのである。これは日本の着物の様式を巧みに利用したもので、西洋でこのやり方を真似ようにも洋服の人形では応用の道がない。だから文楽のは独特であって、このくらいよく考えてあるものはないと云うのだが、そう云えばそうに違いない。(中略)老人の議論を押し詰めて行くと、矢張据わっている時の方がねばりの感じが表わせる訳で、動くとしても肩でかすかな息をするとか、ほのかなしなを作るとか、ほんの僅かにに動くしぐさが却って不気味なくらいにまで生きいきと感じられる。』(「蓼喰ふ虫」第2章)

『ふと要は、ああいう暗い家の暖の簾のかげで日を暮らしていた昔の人の面ざしを偲んだ。そういえばああいう所にこそ、文楽の人形のような顔立ちを持った人たちが住み、あの人形芝居のような生活をしていたのであろう。どんどろの芝居に出てくるお弓、阿波の十郎兵衛、順礼のお鶴などというのが生きていた世界はきっとこういう町だったのであろう。現に今ここを歩いているお久なんかもその一人ではないか。今から五十年も百年も前に、ちょうどお久のような女が、あの着物であの帯で、春の日なかを弁当包みを提げながら、やっぱりこの路を河原の芝居へ通ったかも知れない。それとも又あの格子のなかで「ゆき」を弾いていたかも知れない。まことにお久こそは封建の世から抜け出してきた幻影であった。』(「蓼喰ふ虫」第十章)

という文章が見えます。ここに至って分かると思いますが、谷崎が愛でるのは「陰翳」そのものではないのです。谷崎が愛でるのは、「陰翳」のなかで息を潜めてこちらを眼差している「何ものか」だと云うことですね。これを論じるために、谷崎は「陰翳礼賛」を書いているのです。(この稿つづく)

(R5・6・11)


8)騙し絵の覆い

前節で引用した「陰翳礼賛」(執筆は昭和8年)と「蓼喰ふ虫」(執筆は昭和3年)の文章を見比べると、谷崎が冷静な観察から得られた材料をどのように小説に利用しているか、その具体的なところが見える気がします。例えば「陰翳礼賛」の引用箇所を要約すれば以下の通りになります。

文楽の女の人形は、顔と手の先しかない。胴や足の先は裾の長い衣裳の裡に包まれており、人形使いが自分達の手を内部に入れて動きを示す。同様に昔の女も、襟から上と袖口から先だけの存在であったと思う。私の幼い頃の記憶では、母や伯母や・あの年配の女達たちには殆ど肉体がなかった。私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体については記憶がない。』(「陰翳礼賛」・吉之助の要約)

「陰翳礼賛」では、事象のみ淡々と記されています。事象を明るい日差しの元に晒して、実体は「顔と手の先だけで・胴体はガランドウに過ぎない」と看破するかの如き態度なのです。実は「陰翳礼賛」に於いて列記されたものは、みなそうしたものです。それらはどれも小説になる以前の、材料に過ぎません。谷崎は、顔と手の先しかない文楽の人形に、幼い頃の記憶のなかの、母や伯母など昔の女性の印象を重ねています。しかし、その印象は暗がりのなかに在って・じっと動かないままで、これに対して谷崎が何を考えているのかはまったく分かりません。ところが同じ材料が、小説「蓼喰ふ虫」では以下のように扱われます。

『西洋の人形は宙に吊っているから腰がきまらない、手足が動いても生きた人間のそれらしい弾力や粘りがない。一方、文楽の人形は、人形使いの手がそのまま人形の胴に這入っているので、真に人形の筋肉が衣装の中で生きて波打っている。むしろ据わっている時の方がねばりの感じが表わせる。肩でかすかな息をするとか、ほのかなしなを作るとか、ほんの僅かにに動くしぐさが却って不気味なくらいにまで生きいきと感じられる。暗い家の暖の簾のかげで日を暮らしていたその昔、文楽の人形のような顔立ちを持った人たちが住み、あの人形芝居のような生活をしていたのであろう。どんどろの芝居に出てくるお弓、阿波の十郎兵衛、順礼のお鶴などというのが生きていた世界はきっとこういう町だったのであろう。』(「蓼喰ふ虫」・吉之助の要約)

「陰翳礼賛」では暗がりのなかに在って・じっと動かなかった人形の印象に、小説「蓼喰ふ虫」では、動的な印象が加わります。すると様相が一変して、人形が肩でかすかな息をしたり、ほのかなしなを作たりして、不気味なほどに生き生きとし始めます。暗い家の暖の簾のかげでじっと動かず・日々を暮らしていたあの時代の女たちも、同じように動き始めて生き生きし始めるのです。

吉之助は、ここに谷崎の小説創作の秘密を見る思いがします。「陰翳礼賛」での印象は静止していますが、その同じ印象が「蓼喰ふ虫」では動き始める。このような変化を引き起こすのが、実は「陰翳」の働きなのです。陰翳は何かを見え難くして、何かを隠します。この時、作家谷崎が隠されたものについて何かの暗示を読者に与えます。読者に対して、「この暗がりの向こう側を見たいのですね、それではこれを見なさい」と云うものを示すのです。

西洋絵画史では有名な話ですが、古代ギリシアで或る時、ゼウキシスとパラシオスという二人の画家が、「どちらがより写実的な絵を描けるか」をめぐって対決することになりました。ゼウキシスが描いたブドウの絵はあまりに真に迫っており、鳥がこれをついばみに来たほどリアルでした。一方、パラシオスが描いた絵は、覆い(カーテン)が掛かっていて見えませんでした。これを見たゼウキシスは、「おい、その覆いを取って早く絵を見せてくれ」と言いました。しかし、実は覆いはパラシオスが描いた絵だったのです。ゼウキシスは自分の負けを認めざるを得ませんでした。この逸話について、ジャック・ラカンが、次のように解説しています。

『パラシオスの例が明らかにしていることは、人間を騙そうとするなら、示されるべきものは覆いとしての絵画、つまりその向こう側を見させるような何かでなくてはならない、ということです。(中略)どのような時に騙し絵がわれわれを魅惑し喜ばすのでしょうか。それは、我々の眼差しを移動させてみても、その像が動くことはないし、ただ目が欺かれていただけだと気付く時です。というのは、このとき絵画は、それがかつてそう見えていたものとは別のものとして現れるからです。あるいは、むしろそれは今や別のものとして見えてくるからだ、と言った方がよいかも知れません。』ジャック・ラカン:1964年のセミネール・「精神分析の四基本概念」〜「線と光」)

つまり谷崎にとっての「陰翳」とは、パラシオスの騙し絵の覆いみたいなものなのです。谷崎は覆いとしての「陰翳」を擬態し、覆いの向こう側を見させるような何かを読者に暗示します。この時、これまで見えていたものが、まったく別の様相をして立ち現れます。これが谷崎の小説の技法なのです。(この稿つづく)

(R5・6・15)


9)狡猾な戦略

というわけで、ここまで「陰翳=日本的なるもの」ではないかと云う見当を付けて「陰翳礼賛」を読んできましたが、実は「陰翳」とは騙し絵の覆いのようなもので、陰翳それ自体には何の意味もないのです。谷崎が読者に見せたい大事なものは、陰影の向こう側にあります。吉之助は、「陰翳礼賛」での谷崎は、創作の秘密をほんのちょっとだけ種明かしただけで、すべてを明らかにしていないと思います。

これで本稿は一応の区切りを付けることにしますが、本サイトは「歌舞伎素人講釈」ですから、歌舞伎における「陰翳」の効果についての谷崎の考察を最後にちょっと見ておきたいと思います。

『能に附き纏うそう云う暗さと、そこから生ずる美しさとは、今日でこそ舞台の上でしか見られない特殊な陰翳の世界であるが、昔はあれがさほど実生活とかけ離れたものではなかったであろう。何となれば、能舞台における暗さは即ち当時の住宅建築の暗さであり、また能衣裳の柄や色合は、多少実際より花やかであったとしても、大体において当時の貴族や大名の着ていたものと同じであったろうから。(中略)これに反して歌舞伎の舞台は何処までも虚偽の世界であって、われわれの生地の美しさとは関係がない。男性美は云うまでもないが、女性美とても、昔の女が今のあの舞台で見るようなものであったろうとは考えられない。能楽においても女の役は面を附けるので実際には遠いものであるが、さればとて歌舞伎劇の女形を見ても実感は湧かない。これは偏えに歌舞伎の舞台が明る過ぎるせいであって、近代的照明の設備のなかった時代、蝋燭やカンテラで纔わずかに照らしていた時代の歌舞伎劇は、その時分の女形は、或はもう少し実際に近かったのではないであろうか。それにつけても、近代の歌舞伎劇に昔のような女らしい女形が現れないと云われるのは、必ずしも俳優の素質や容貌のためではあるまい。昔の女形でも今日のような明煌々たる舞台に立たせれば、男性的なトゲトゲしい線が眼立つに違いないのが、昔は暗さがそれを適当に蔽い隠してくれたのではないか。私は晩年の梅幸のお軽を見て、このことを痛切に感じた。そして歌舞伎劇の美を亡ぼすものは、無用に過剰なる照明にあると思った。』(谷崎潤一郎:「陰翳礼賛」)

近代的照明の設備がなかった時代の江戸期の芝居には影があったという谷崎の指摘は、ハッとさせられます。別稿「舞台の明るさ・舞台の暗さ〜歌舞伎の照明を考える」で触れましたが、歌舞伎に電気照明が取り入れられたことによって、歌舞伎の演出が相当変わったであろうことは、容易に想像ができます。例えば「籠釣瓶・吉原仲ノ町」あるいは「藤娘」で暗闇で幕を開けて・柝のきっかけでスイッチを入れてバッとした華やかさを見せる照明 (いつもここで観客はワアッとどよめくものです)は、何となく昔からの演出みたいな感覚で見てしまいますが、明らかに電気照明でなければあり得ません。この瞬間を見た観客は「まるで浮世絵から抜け出てきたような光景だ」と感じると思います。ここで観客が感じる印象はまずは「明晰さ」でしょうが、もうひとつ「立体性がない(平面的である)」と云う印象にも留意して欲しいと思います。

ところで江戸の浮世絵には影がない・立体感がないことは、ご存じだと思います。正確に言えば西洋の立体画法を取り入れたごく一部の絵において・影を描いたものはありますが、それは浮世絵の主流ではありません。浮世絵師が描いた役者絵や芝居絵に影が描かれたものはほとんどないのです。

と云うことは、江戸の浮世絵師たちが芝居絵に嘘を描いていたということでしょうか?まずこのことを考えてみなければなりません。しかし、先に結論を書いてしまうと・浮世絵師が嘘を書くなんてことはあり得ないのです。実際にあり得ない夢の舞台を絵師たちが描いたというのも当たりません。芸術家は真(まこと)を描こうと努めるものですから、絵師たちに歌舞伎の舞台がそう見えていたとしか言いようがないのです。

逆に言えば、浮世絵に描かれた歌舞伎の舞台が真であるならば、次のようなことが言えると思います。「立体性がない」ということが歌舞伎の本質である・つまり歌舞伎の真であるということです。電気照明の技術によって・歌舞伎は影を消し・舞台面から立体感を消し去り、それによって浮世絵に描かれた舞台面を実現することが出来たと言うことです。(別稿「立体性のない演劇」をご参照ください。)歌舞伎の照明は何もしていないように見えると思いますが、照明はうまくやらないとどこかに変な影が出来てしまうもので、きれいに影を消す照明は実はなかなか技術の要ることなのです。歌舞伎の照明がただ何も考えず・ただ明るくすることだけしている内に・いつの間にやら影まで消してしまったということではありません。だから「舞台から影を消す」・舞台から立体性を消す」という照明に何かしら歌舞伎の本質を考えるヒントがあるはずです。

以上の吉之助の考察は、「陰翳礼賛」のなかでの谷崎の指摘と、一見真反対のように見えるかも知れませんが、実は同じことを言っているのです。谷崎は「昔は舞台の暗さが女形の男性的なトゲトゲしい線を適当に蔽い隠してくれる」、つまり陰翳が真実でないことを真実であるかのように(女形が本物の女であるかのように)見せてくれると言うのですが、彼がそれが真実だと思うものは、光のおかげで彼の目の底に描かれた絵に過ぎず、これをくっきりと明確な印象にするものは、芸術家としての彼の感性であるということです。彼のなかの「女性的なもの」という概念こそ、歌舞伎の女形を真(まこと)の女に変えるものです。ところが谷崎はこれをすべて「陰影=覆い」のせいにして、本当のところを決して述べようとしません。「陰翳礼賛」には、そのような谷崎のちょっと狡猾な戦略が隠されているのです。

(R5・6・17)

*この流れを引き継いで続編「いわゆる痴呆の芸術について」論考の方へ向かうことになります。


 



 (TOP)         (戻る)