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谷崎潤一郎の「細雪」の家〜倚松庵訪問記


神戸市東灘区にある倚松庵(いしょうあん)を見学して来ました。関東大震災の後、大正12年(1923)谷崎は関西に移住して、昭和29年(1954)に熱海に移るまで約30年関西に住みました。土地になじめなかったのか、理由はよく分かりませんが、関西でも数回住居を変えています。そのなかでは、この倚松庵には昭和11年11月から昭和18年11月まで最も長く住みました。現在の倚松庵は平成2年に移築されて保存されているもので、元の場所は現在地より150Mほど南にあったそうです。



倚松庵に居住した時期の谷崎の重要な仕事としては、「源氏物語」現代語訳と小説「細雪」などがあります。特に「細雪」には、この地域の風土・住まい・出来事などほとんど事実通りに取り入れられているので、倚松庵は別名「細雪」の家とも呼ばれます。

昭和の初め頃からの谷崎は、文学史では古典回帰の時期であると位置付けられています。「細雪」は、その代表的な作品とされます。一方、谷崎には変態作家という異名もあって、「痴人の愛」(大正13年)もそうですが、晩年の「鍵」(昭和31年)・「瘋癲老人日記」(昭和34年)などは特にそうで、吉之助にはそこで古典回帰・日本の美意識の代表作とされる一般的な「細雪」のイメージとギャップが大きくて、それがどうもしっくり結びつかない。吉之助が『生きている人形〜「蓼喰う虫」論』・『鬼が棲むか蛇が棲むか〜「卍」論』を書いたのは、実はそのギャップを埋めたいと考えたのがきっかけでした。内容は文楽人形論・「心中天網島」論と密接に絡んでますが、伝統芸能視点で谷崎作品を分析した文芸評論は、吉之助が知る限り、類例がないと思います。「歌舞伎素人講釈」の記事のなかからベストの批評を選べと言われたら、吉之助は現時点でこの2本を挙げたいと思っているくらいです。実は今回の倚松庵訪問には、吉之助には目的がありまして、吉之助はそのうち「細雪」論を書きたいと考えているのです。いつ書ける分かりませんが、お楽しみにお待ちください。

 

倚松庵訪問の後、芦屋にある谷崎潤一郎記念館にも寄って来ました。そこで昭和34年の晩年の谷崎のインタビュー番組(NHK)の映像を見ました。実は吉之助は動く谷崎を初めて見たもので、インタビューの内容自体は大したことはなかったですが、この爺さんが女中さんの脚を撫でたり、舐めたりしていたのかと興味深く映像を見ました。そのような人物にはとても見えませんでしたねえ。どこかの立派な社長さんのように見えました。(ご本人は風貌が六代目菊五郎に似ていると云われて悦に入っていたそうです。)しかし、晩年の谷崎は実際似たようなことをしていたようで、それが「瘋癲老人日記」という作品になったわけです。まあ誰にでも秘密はあるものです。芸術作品が醸成する過程というものは、実に魔訶不思議なものですね。

*倚松庵の写真は、平成26年8月30日に吉之助が撮影したものです。
室内は係りの方の許可をいただいて撮影しています。

(H26・8・31)


 

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