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時代物役者か実事役者か〜二代目吉右衛門小論


1)初代吉右衛門の実像を求めて

本稿は先日(令和3年11月28日)亡くなった二代目吉右衛門について書くものですが、話しはまずは初代吉右衛門のことから始めなければなりません。(以後、初代と二代目の吉右衛門が交錯しますが、単に吉右衛門と書く時は二代目を指すとお読みください。)

吉之助が初代吉右衛門の晩年の映画「熊谷陣屋」を見たのは、随分昔のことでした。最初に揚幕から登場する初代の熊谷を見た時、「初代はこんなに線の細い役者だったのか」と一瞬驚いたことを思い出します。言うまでもないですが、初代は六代目菊五郎と並んで大正〜昭和前半の歌舞伎を牽引し、菊吉時代を画した名優です。「初代は時代物を得意とした役者だった」と、どんな本にも書かれています。時代物を得意としているのならば、その役者は「押し出しが利いている」ものだ。押し出しが利くというのは、体格が立派でスケールが大きいイメージです。そう云う思い込みが強かったせいか、吉之助も初代の舞台写真も数多く見ていたにも係わらず、初代の「線の細さ」に思いが至りませんでした。動く初代の映像を見て、初めてそのことに気が付いたのです。

初代に関して云えば、「線の細い役者」であったと記した文献はホントに少ないです。逆に形容が大きい役者だったと読めるような表現が多いやに思われます。そのせいで吉之助も「押し出しが利いている」だろうと思い込んでいたのです。しかし、武智鉄二は、初めて吉右衛門の舞台を見た時に「何という小さな・何という貧弱な役者か」と驚いたと書いています。その後「しかし、声の方は、これは吉右衛門は鮮やかなものであった・・・云々」と文章が続きますが。(武智鉄二:「素懐的吉右衛門論」:昭和53年7月) また坪内逍遥も若き日の(二長町市村座時代の)初代について次のように記しています。

『(吉右衛門)丈の芸を役者錦絵にたとえてみる。構図も旨い。筆力もある。肖像画としても佳い。書家の個性も出ている。色彩も間然とするところがない。けれども線がおそろしく細い。あんまり細すぎる。』(坪内逍遥:「女形の前途と歌舞伎の前途」・大正8年12月)

ですから吉之助が感じた「こんなに線の細い役者だったのか」と云うネガティヴな印象は、武智も逍遥も同様に指摘していたことで、決して吉之助だけの印象でなかったわけなのです。ここに至って吉之助は、初代の芸の偉大さがどこにあったのか、はっきり認識することが出来ました。線が細い・貧弱な体躯と云うことは、時代物の役どころを演じる時の不利な要素に違いない。しかも、初代と同時代の歌舞伎には、七代目幸四郎・十五代目羽左衛門・七代目中車・初代鴈治郎など、「押し出しが利いた」時代物役者のライバルが数多くいました。そのなかで初代が、線の細いハンデをものともせず、時代物の第一人者と称されたのは何故なのか。初代のどこが他より優れていたのか。それは何よりも近代的な脚本理解と適格な台詞廻しに裏打ちされた、「緻密な人間描写」に在ったということなのです。小宮豊隆は熱い筆致で次のように述べています。それは明治44年のことでした。

『吉右衛門にいたって「型」を活かして、裏付けるに力強い精神を以ってした。多くの場合空なる誇張と目せられたある種の「型」は、吉右衛門によって吉右衛門特有の命を盛られた。自己天賦の個性と閲歴とを残りなく傾け尽くして、古き「型」に新しき生命を持った吉右衛門の努力は、旧型になずむを棄てて、われから古(こ)をなさんとする意気を示すものである。』(小宮豊隆:「中村吉右衛門論」・明治44年・1911)

このことは遺された初代の映画(晩年の「寺子屋」と「熊谷陣屋」・「盛綱陣屋」の三本の映像が存在します)を見れば、納得出来るはずです。初代が演じる役々には、我々が時代物の役どころに付き物だと思い込んでいる「大仰なところ・芝居掛かった重さ」がまったくありません。これを初代に期待してしまうと、スケールが小さいとか・歌舞伎味が薄いと感じてしまう方が少なくないはずです。しかし、初代は押し出しが利いていない分、人物がかえって等身大に見えて来るようです。 歴史上の大人物ではなく、すぐそこに立っている生身の人間としての実感があるのです。これこそ初代の絶対的な「強み」だったのです。これこそが初代を時代を代表する名優とした根拠です。つまり初代を優れた時代者役者と呼ぶのではなく、「初代は優れた実事役者であった」とすべきだと云うのが、吉之助の歴史認識になります。実事役者ならば佐野次郎左衛門や縮屋新助など初代が得意とした世話物の役どころをも包括できます。

時代物役者と実事役者と云う二つの概念を提出しました。両者の概念は曖昧なものですが、大体において、優れた時代物役者というのは優れた実事役者でもあるものです。例えば「団十郎の由良助か、由良助の団十郎か」と云われた九代目団十郎がそうです。しかし、現実には「押し出しが利いた」ところに乗っかっただけで・人間描写が疎かな役者もいます。それでもまあ「押し出しが利い」てさえいれば、とりあえずそれらしく見えるものではあり、「押し出しが利い」ていることは、やはり時代物役者としては有利な要素に違いありません。事実、時代物役者と云えば、「押し出しが利いてスケールが大きい役者」と形容されることが多いはずです。それは兎も角、時代物役者と実事役者という概念は重なるようでいて、ぴったり重なるわけではない。実はそれぞれ異なる概念なのです。

ここで話しを二代目吉右衛門に転じます。平成23年(2011)8月2日に早稲田大学・演劇博物館主催の「初代中村吉右衛門展」の一環として映画「盛綱陣屋」上演会が開催されて吉之助も行ってきました。上映に先立ち、吉右衛門が登壇して初代のことを語りました。そこで吉右衛門が強調したことは、「みなさん、この映画を見て初代の芸はこんなものだと思わないでください。この映像は晩年のもので、初代のベストが記録されていません。初代の芸はこんな程度のものではありません」と言うことでした。吉之助の記憶では、吉右衛門はこのことを講演の最初と最後で二度繰り返したと思います。初代の芸はもっともっと偉大なものだ・・・「このことだけは言って置きたい」という強い思いがあったようでした。

しかしねえ、吉之助は映画「盛綱陣屋」を以前にも見たことがあったので、そこまで強く言うことはないのじゃないの・・と感じたのです。例え晩年のものであっても、その時点での初代のベストが記録されていると素直に受け入れて良いと思うのです。映画の盛綱は初代が亡くなる一年前(昭和28年・1953・歌舞伎座)のものですが、さすがに寄る年波で足腰に多少弱々しいところがあって・そのために映画でも段取りを変えた箇所があったりします。しかし、首実検を終えて(小四郎を)「褒めてやれ・褒めてやれ・・」の長台詞などは高揚した感情があって、吉之助がこれまで見た「盛綱陣屋」の盛綱にこれを超えるものなどないと思えるほど素晴らしいのです。そこは余計な先入観を持たずに、初代の芸の素晴らしさを素直に味わえば良いと思うのです。そうすれば、映像から見えないものが見えて来る。別に「初代の芸はこんな程度のものではありません」とまで言うことはない。初代は偉大な時代物役者だったと云われるけれど、その偉大さは「押し出しが利いた」ところにあるのではない、そのリアルな人間描写にあるということなのです。むしろ吉右衛門には、そのことを言って欲しかったと思います。

そう云うわけで吉右衛門の初代崇拝の気持ちはよく分かったのだけれども、その時に吉之助は(根拠はないですが)何となく、もしかしたら吉右衛門は初代の偉大さを誤解してはいないか、初代の偉大さはスケールの大きな・押し出しが利いたところにあると単純に信じているのではないかと、チラッと感じたのです。ちなみに吉右衛門の「二代目 聞き書き 中村吉右衛門」(毎日新聞社)のなかにも、「初代は熊谷直実や加藤清正など英雄豪傑を当たり役としました」という発言が出てきます。事実としてはそう云うことに違いありませんが、初代がどのような英雄豪傑を演じたかの方がホントは大事なはずです。残念ながら、吉右衛門がそこをどう考えているかは本からは読み取れません。

別稿「直実と相模」は、平成22年(2010)4月歌舞伎座での吉右衛門の「熊谷陣屋」の観劇随想ですが、もしかしたら吉右衛門は初代の偉大さを誤解してはいないかと云う、吉之助の疑念を正直に吐露したものでした。この観劇随想はちょっと吉右衛門に厳しく出過ぎたところがあるけれども、ここで吉之助が言いたかったことは、吉右衛門の熊谷のベースにあるものは二代目松緑の熊谷であって・初代の熊谷ではないでしょということでした。吉右衛門は立派な体躯で・押し出しが利いていました。若い頃は貧弱に見えましたが、壮年期には押し出しが立派になりました。この点は時代物役者として初代よりもはるかに有利なところで、実際、「熊谷陣屋」を見るならば・まずは吉右衛門の熊谷を見なさいとお勧めできるだけの立派なものでした。しかし、これが「初代そっくりの熊谷」であったかと云うと、それはちょっと違うと思うのです。実事の熊谷とはちょっと違うと思いました。

但し書きを付けますと、二代目松緑の熊谷を貶したかのように聞こえたかも知れませんが、もちろん松緑の、剛毅な姿勢を貫いて・誰もいないところで独り泣く熊谷も、解釈としてそれは立派なものなのです。しかし、初代の熊谷はこれとはまた異なるもので、妻相模に対し「武士道のために倅を殺したから左様心得よ」と言えばそれで済むところを、「これを明言したらばさだめて妻が悲嘆することを思いやり、それさえ明言し得ぬほどの多情多涙の人物である」と杉山其日庵が形容したような「情の熊谷」なのです。これは熊谷の解釈(コンセプト)がまったく異なるものです。もちろん初代のやり方を踏襲することが必ずしも二代目の責務というわけではありませんが、そこの違いを吉右衛門はどう考えているのかと云うのが、観劇随想で吉之助が言いたかったことでした。

そこでその後の吉右衛門の「熊谷陣屋」を追ってみると、東京では、平成25年(2013)4月歌舞伎座平成31年(2019)2月歌舞伎座と、吉右衛門は2回熊谷を演じましたが、少しづつ「情の熊谷」の方向に傾斜するものが見えて来たと思うのです。そこに初代の実像を追い求める、吉右衛門の試行錯誤を感じるわけです。大まかなイメージですが、ここ数年の吉右衛門が演じる数々の役を見た感じでは、吉右衛門はリアルで細やかな人間描写を濃くする実事役者の方向に向かっており、印象が次第に初代に似てきたように感じました。したがって、もはや望むべくもないことですが、もうあと1回吉右衛門の熊谷が見てみたかったなあと思いますねえ。奥深い熊谷を見せてくれたのではないでしょうか。そのことを思うと残念でなりませんね。(この稿つづく)

(R4・1・20)


2)実事役者としての二代目吉右衛門

時代物役者か実事役者かと云う問いは、初代吉右衛門の娘婿であり・二代目吉右衛門の実父である初代白鸚(八代目幸四郎)についても、同様に言えることでした。初代白鸚は見た目にも恰幅が良く、重厚で・スケールが大きい時代物の座頭格の役柄を得意としましたから、世間から「英雄役者」と呼ばれたものでした。しかし、英雄役者という言い方は、初代白鸚という役者の本質を正しく表現していないと吉之助は思うのです。初代白鸚は確かにスケールの大きい役者でした。しかし、それは形容の大きさを云うのではなく、中身がぎっしり詰まった実質の裏付けがある「大きさ」なのです。それならば初代白鸚の芸風を表わすのには、実事役者という表現の方が適切だと思います。

実際、初代白鸚の弁慶にしても・由良助にしても、史実の本物はこのような人物であったであろうかと唸らせるものでした。印象がとても写実(リアル)であったのです。引き合いに出して申し訳ないですが、貶める意図はないことをお分かりいただきたいですが、高麗屋三兄弟の兄(十一代目団十郎)は男振りが良くて・気迫が充実している、弟(二代目松緑)は芝居っ気たっぷりで恰幅が良く、それぞれの良さがありましたけれども、初代白鸚のような・そこに実在の人物が舞台に立っているが如きリアル感覚には乏しかったと思います。このリアルさは初代白鸚の芸の特質としてあるものでした。やはり初代白鸚も実事役者と呼ぶのが相応しい。そう考えると、初代白鸚が初代吉右衛門の娘婿となったのは、初代白鸚が初代の芸風に憧れたということでしょうが、何だか必然の如くに思えますねえ。成るべくして成ったということなのかも知れません。初代白鸚については、これくらいにしておきます。(別稿「実事役者・初代白鸚」をご参照ください。)

ですから血筋的に考えても、初代吉右衛門から初代白鸚を経て・二代目吉右衛門へと、実事役者の系譜が繋がっていると吉之助には思えるのです。同じ要素を兄(二代目白鸚)も受け継いでいるわけですが、弟(二代目吉右衛門)の場合、生来の生真面目な性格から、初代吉右衛門の実事役者の要素がより色濃く出ていたと思います。(二代目白鸚については・本稿では論旨が錯綜するので・また別の機会に取り上げたいと思います。)

ところで武智鉄二が昭和53年にこんなことを書いています。武智が指摘する通り、人間主義の精神で作品を読み直しし・リアルで細やかな人間描写を濃くする実事役者の道を歩むことこそ、初代の芸を受け継ぐことだろうと思います。

『(名門出身ではなかった初代への数々のイジメをはねのけて)庶民の側・人間主義の時代精神の側に立つことを決してやめなかった(別稿「吉右衛門の馬盥の光秀」を参照のこと)ところに初代の偉大はあった。しかし、初代の芸の展開上の欠点は、台詞の技巧にとりすがって、晩年、自分自身の声色を使うようになった点で、この点が六代目菊五郎との芸質上の決定的な差にもなった。菊五郎は自身の声色を使うことが生涯なかった。今の吉右衛門の助言者たちは、初代が晩年に自身の声色を使うようになった時代の、やや調子の下がった台詞を、吉右衛門に伝えているのではないか。そこに吉右衛門の芸の創造性、ふくらみ、心からの悲壮感、人間性の掘り下げの欠如が由来しているのではないか。吉右衛門が真の初代の後継者となるためには、自分自身の芸術家精神、内面性、人間性を打ち立てることが何より肝要で、晩年の初代の台詞回しの模倣のようなことをどこかで打ち切る必要がある。(中略)それには歌舞伎脚本を、かつて初代がそうしたように、現吉右衛門の目で精神で哲学で見つめ直すことから出発して、ハートからの発声が出来るようにならなければならない。』(武智鉄二:「素懐的吉右衛門論」・「演劇界」昭和53年7月・文章は吉之助が多少アレンジしました。)

そう考えると、時代物役者か実事役者かと云う問いは、二代目吉右衛門の生涯を通じて始終つき纏った問いであったなと思うのです。吉右衛門の芸の道程は、そのまま初代の実像を追い求める旅であったわけです。

吉右衛門を実事役者として眺めると、朴訥とさえ云える吉右衛門の真面目な性格が反映した好演を幾つか思い出すことが出来ます。例えば「傾城反魂香(吃又)」の浮世又平です。発声障害のために自分を上手く表現することが出来ない芸術家の口惜しさを、吉右衛門はホントに素直に表現しました。「毛谷村」の六助も、忘れ難いものがあります。六助の素朴さ・人柄の良さが、素の吉右衛門と自然と重なってくる気がしましたねえ。役が等身大に感じられます。又平や六助については、まず吉右衛門を筆頭に思い浮かべます。それは役がスケールや重さを要求するところがあまりないから、実事役者としての吉右衛門の長所が自然に出て来ると云うことなのです。世話物においても実直な役どころに、実事役者としての吉右衛門の良さが出ました。例えば「籠釣瓶」の佐野次郎左衛門です。見染めを面白く見せてくれる次郎左衛門役者はいくらもいますが、縁切りの哀切さで筆頭に挙がるのは、やはり吉右衛門ではないかと思いますね。

一方、これこそ時代物だと云う大役になると、吉右衛門でさえ自然と力みが加わる印象になってきます。「初代は英雄豪傑を得意とした名優」であった、だからこの役は決して疎かに出来ないぞと、初代の偉大さを過剰に意識してしまうと云うことかも知れませんね。出来が悪いと言っているのでないので誤解がないようにして下さい。初代と違って吉右衛門は押し出しが利きますから、役をスケール大きく仕立てるためには、これは初代よりはるかに有利なことです。当然、高水準の仕上がりになっています。しかし、反面、実事役者としての吉右衛門の美点が逆に奥へ引っ込んだ印象になってしまったかなと思いました。

皮肉なことですが、それは特に初代の映像が残っている演目でした。つまり「寺子屋」と「熊谷陣屋」・「盛綱陣屋」のことです。あるいは初代の当たり役とされた「逆櫓」の松右衛門などもそうです。時代物の役どころとして見ると、もちろんどれも非の打ちどころのない出来だったのです。しかし、例えスケールが小さめに見えたとしても、役の心理描写を細やかに表現して・役を等身大の大きさに持っていくことが、実事役者としての方向のはずです。初代の芸に近づくと云うことならば、こちらこそ正道である。また吉右衛門の美点もそれで活きたと思います。ですから「立派な時代物役者になりたい」ということならば、吉右衛門はとっくにそうなっていたわけですが、時代物の代表的な役になると、逆に実事役者としての吉右衛門の良さが活きていない印象を受けました。吉右衛門のなかに、時代物役者か実事役者かと云う葛藤が生じていたようでした。「偉大な初代を継ぐ」という課題に、吉右衛門がホントに苦しんでいることが察せられました。

答えは案外近いところにあったと思うのですね。時代物役者か実事役者かと云う狭間で揺れていた吉右衛門が、実事役者の方向へ大きく傾き始めたのは、晩年の・この数年間のことであったと吉之助は思っています。それは吉右衛門の体力の衰えと深く関連した変化であったかも知れません。しかし、決して弱々しいとかネガティヴな印象はなく、余計な力を使わないで・ゆったり動く感じに変わってきたと思いました。そこで実事役者としての吉右衛門の生来の美質が生きてくることになったのです。例えば平成28年9月歌舞伎座の大蔵卿(これも初代の当たり役であった)などは、ホント目を瞠る出来であったと思います。虚実変転する有り様が、シリアスか愛嬌かも分からぬところで実現されていました。最晩年の舞台については・吉右衛門追悼文の内容と重複しますが、令和2年(2020)11月国立劇場での「平家女護島」の俊寛、令和3年(2021)1月歌舞伎座での「七段目」の由良助が思い出されます。いずれも初代の晩年の舞台もこんな感じであったかと思わせました。晩年に至って吉右衛門は初代の境地を掴んだということだと思います。

吉右衛門の舞台で忘れ難いものはもちろん沢山ありますが、ひとつだけ挙げるならば、吉之助は、コロナ緊急事態宣言で劇場が軒並み閉鎖に追い込まれた時期である平成2年(2020)8月に、オンライン配信でみせた観世能楽堂での自作の一人芝居「須磨浦」の熊谷直実の舞台を挙げたいと思います。これは尋常でない気迫を見せた舞台でした。「自分にはこれ(舞台)しかないんだ」という魂の叫びを感じさせる舞台でした。この無観客で行なわれた「須磨浦」映像を見て、若い歌舞伎役者諸君は何を感じたでしょうかねえ。「新奇なものを追い求めることだけが現代に歌舞伎が生き残るための方策ではない、古典が現代と対峙し・その価値を主張することは出来る、そのために歌舞伎役者は芝居の原点に立ち帰ることをせよ」ということを、「須磨浦」の一人芝居の映像ほど端的に見せたものはないと思いますがね。将来に向けた歌舞伎が生き残るための、ひとつの方向性を示唆したとさえ云えると思います。(別稿「コロナ以後の歌舞伎」をご参照ください。)

吉右衛門はストイックな方でしたねえ。ストイック過ぎるくらいにストイックな方でした。吉右衛門は最後に自らの「生き様」を強烈に見せ付けて去って行ったなと思います。

(R4・1・24)





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