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二代目右近初役の実盛〜「実盛物語」

令和4年8月国立小劇場:「源平布引滝〜実盛物語」

二代目尾上右近(斉藤実盛)、六代目片岡市蔵(九郎助)、九代目坂東彦三郎(瀬尾十郎)、初代中村壱太郎(小万)、四代目中村梅花(九郎助女房小よし)、初代尾上菊三呂(葵御前)

(尾上右近自主公演・第6回・研の会)


1)光輝く武士

コロナ第7波で休演も相次いだりするなかでしたが、国立小劇場での、尾上右近自主公演・第6回・研の会を見てきました。この状況下での自主公演は気が気でなかったでしょうが、無事に公演を行なうことができて良かったですね。演目は「色彩間苅豆」(かさね)と「源平布引滝・実盛物語」(斎藤実盛)という意欲的な組み合わせでした。本稿では、「実盛物語」を取り上げることにします。生締めが良く似合って、30歳初役にして十分な出来栄えでありました。

『やさしき武士は古今実盛一人也。討死の時は七壱拾余也。武士は嗜(たしなみ)深く有るべき事也。』
(山本常朝:「葉隠」)

これは「葉隠」のなかに出て来る文章です。歌舞伎の実盛のことではありませんが、江戸期の武士の、実盛に対するイメージは、大体こんなところだったのではないかと思います。武士たる者、爽やかに・カッコ良く散っていきたいものだ。そんな理想の死に方を選んだのが、実盛であったのです。

歌舞伎の「実盛物語」は作り話ですが、設定年代が源義賢(木曽義仲の父)が大蔵館合戦で討ち死にした久寿2年(1155)8月のことであると仮定すると、実盛はこの時点で44歳になります。実盛が加賀国・篠原の戦いで討ち死にしたのはその28年後のこと、寿永2年(1183)6月のことでした。(詳細は別稿「源平布引滝と本歌取りの趣向」を参照ください。)だから右近30歳であると役柄のイメージとしては若干若いわけですが、まあそこはそこです。颯爽としたところを評価したいと思います。

ところで舞台を見て気になったところは、眼目の実盛の「物語り」が「さあここが見せ場だよ」と云わんばかりに力が入り過ぎて、全体のなかで浮いて見えたことでした。良く云うならば高揚した気分に見えたと云うことだが、台詞はいっそう力が入って大声になり・トーンもずいぶん高調子に聞こえました。爽やか一辺倒過ぎで、陰影が不足気味である。右近の実盛の「物語り」は、ちょうどこの写真のような印象でしたねえ。

上の写真は、終演後の撮影タイムで・ポーズを決めた右近の実盛です。これは吉之助の撮影ですが、慌てて携帯を出して撮ったので露出が甘くなってしまいました。強い照明で身体全体が光輝いて見えます。しかし、表情の細かいところが飛んでしまって、この写真ではよく分からない。つまり陰影が不足と云うことなのです。

これは「物語り」だけのことではなく、いわゆるノリ地と云うか・義太夫のリズムが前面に出る台詞、例えば太郎吉に「実盛やらぬ」と詰め寄られて、「ホヽあっぱれ。さりながら四十に近き某が、稚き汝に討たれなば情と知れて手柄になるまい。・・・」以下と応えるその台詞、或いは九郎助に「孫めが大きうなるうちには、そこもと様は顔に皺、髪は白髪でその顔かはろ」と指摘されて、「ムハヽなるほど、その時こそ鬢髭を墨に染め若やいで勝負を遂げん・・」以下と応えるその台詞などでも、同じことが言えます。これらは、いずれも実盛の28年後の死に係わる台詞です。これらの台詞が声を張り上げ過ぎで、歌う印象になり過ぎて、このため全体から浮いてしまっています。

右近が実盛がこのように演じたい気持ちは、もちろん吉之助にも理解出来ます。右近は実盛のことを、心底「カッコいい」男だと思って演じているのでしょうねえ。これこそ武士の理想の死に方だ、だから実盛が自らの死に係わることを語る時、それは光輝く未来を語っているのだ、まあ右近はそのように感じていると思うのです。それはとても若者らしい・真っすぐな感じ方であると思うし、決して的を外しているわけではないと云うことは言っておきたいと思います。だから右近30歳の実盛ならば、これで十分良いと思います。

しかし、いくらか人生経験を経て来ると、或いは歴史を深く読み込んでいくと、もうちょっと異なる様相が見えてくるわけです。つまり実盛の悲哀というものが、見えてくるのです。「武士たる者、爽やかに・カッコ良く散っていきたいものだ」、山本常朝がこのように語る時、その輝かしいイメージは、人生の陰惨さと背中合わせのなかで出て来るのです。むしろ死の恐怖・陰惨さが脳裏を強く過(よ)ぎるからこそ、一層死ぬことを輝かしいことだと信じていたい、常朝はそのように感じているのです。常朝が「やさしき武士」と言っているのは、そのような意味なのです。

実盛の悲哀は、一体どこに見えるでしょうか。実盛は元々源氏方であるのに、様々な事情から今は平家の禄を食んでいることの「負い目」木曽義仲が挙兵した今、その勢いに乗じたい気持ちはあるが、それをするのにはもはや自分は年老過ぎたと思う、そのような「悔しさ」。さらにこれは歌舞伎の「実盛物語」が付け加えたことですが、小万を殺したことは実盛の本意ではなかったが、その罪のツケが廻り巡って実盛に廻って来ることになる。人はみな何かしら・そのような罪や悔いや負い目を背負いながら生きているもので、それが実盛の28年後の死へとつながっていく。つまり最後に実盛は自分の人生をきっちり精算して見せたと云うことなのです。

ですから右近の実盛が高揚した気分を強調して見せた箇所においては、すべて実盛の悲哀が背中合わせにあるはずです。それが実盛と云う役の「陰影」になると云うことです。まあ右近も年季を経てくれば感じ方が変わって来るであろうから、このことを心に留めておいてもらいたいですね。(この稿つづく)

(R4・8・26)


2)真の「二刀流」のために

以上は心情面からの解析ですが、技法面から見れば、次のようなことも言えると思います。実盛の「物語り」が始まる直前、自分が殺したのが小万であったことを悟り、「さてはその方達が娘よな、不憫なことをいたしたり」と云う右近の台詞は、済まないことをしたと云う悔恨の情がこもって、この台詞は良かったです。ちゃんと実の台詞になっていました。ところが「物語り」が始まると、ギアを二段階ほど一気に上げた感じがしましたねえ。声を張り上げて台詞を朗々と歌わせる感じに変わってしまいました。つまり全然実の台詞でなくなってしまったのです。

ここで問題としたいのは、右近の実盛に、どうしてこのようなドラマ感覚の段差が生じてしまったのかと云うことです。基本的には義太夫の修練不足から来ることに違いないが、右近は清元の太夫(栄寿太夫)でもあったと思います。清元は歌い物系の浄瑠璃・義太夫は語り物系の浄瑠璃であり・色合いは異なると云えども、同じく音曲であるのだからして、声楽家ならば、様式や足取りの違い・変化に人一倍敏感でなければならないだろうと云うことを言いたいのです。誤解がないように付け加えますが、右近の実盛の「物語り」が清元っぽいと言っているわけではありません。しかし、やたら歌いあげる印象が強くなったことは、事実です。声楽家であるならば、語り物系の義太夫の実の様式を正しく把握せねばなりません。吉之助としては、「さすが右近は音曲をやるだけあって・きっちり様式を描き分けた台詞廻しだねえ」と感心したいところなのだが、そうなって来ない。そうすると、マスコミに右近は二刀流・二刀流と喧伝されているけれども、右近は役者と清元の太夫とがまったく別物だと割り切って考えているのではないか、フォルムに対する感性がちょっと甘いのではないかと云う疑問がチラチラ湧いてくるわけです。(別稿「二代目右近の弁天小僧菊之助」をご参照ください。)

実盛の「物語り」に入ると、ドラマはまったく別の局面に入ります。役者はこのことを観客に感知させねばなりません。だからここにはドラマ感覚の段差が確かにあるわけなのです。吉之助はよく「乖離感覚」という言葉を使いますが、そう云うことです。しかし、それは語り物系の義太夫の実の様式において行なわれなければなりません。音曲のしっかりした足取りが大事なことになるのです。「物語り」とは如何なるものでしょうか。それは過去に起こった出来事を・今そこで起こったかのように・実を以て描くものです。別稿「源平布引滝と本歌取りの趣向」において、二段目「義賢最期」から三段目「実盛物語」に対して或るメッセージが投げかけられたと云うことを分析しました。メッセージを携えたのは小万です。しかし、「琵琶湖遊覧」の場で、実盛が女の腕を切り落とした時点では、実盛はまだこのことに気付いていません。あの時斬った女が小万であったことを実盛が知った時、義賢からのメッセージが実盛へと届いたのです。LINEの「既読」表示が出たようなものです。

浄瑠璃作者は、段取りを入念に準備しています。実盛は元々源氏方であるのに、様々な事情から今は平家の禄を食んでいることの「負い目」。木曽義仲が挙兵した今、その勢いに乗じたい気持ちはあるが、それをするのにはもはや自分は年老過ぎたと思う、その「悔しさ」。これらは「平家物語」にあるものですが、これだけでは、実盛が28年後の死を約束するまでには至らないのです。このために浄瑠璃作者は実盛にひとつの罪を背負わせました。それが小万の死なのです。

実盛の「物語り」は、そのような実盛の「実」を語るものです。ここは陰惨な場面であると云うことです。「もしも」の話ですが、ここでアッと思った実盛が小万を斬ったことを口を噤(つぐ)んで話さなかったとしたら、実盛は28年後に死ななくて済んだはずです。しかし、実盛は、「話さずにいられなかった」のですね。そんな陰惨な場面であるのに、実盛が扇を掲げて・リズミカルに小万を斬った経緯を高らかに物語る、そんな華やかで・カッコいい場面だと誤解をしてしまうと、ドラマに陰影が付いて来ません。これだと「物語り」は、まるで違った方向へ行ってしまいます。だから「物語り」は「踊り」ではないと云うことなのです。師匠・菊五郎の実盛の映像とよく見比べてみることです。そこの違いを分かって欲しいですね。

このことは他の役者なら義太夫狂言の経験不足と云うことで済ませて良いことかも知れませんが、右近が声楽家(清元の太夫)であるならば、そこはもう少し厳しく指摘しておきたいと思いますねえ。声楽家は、フォルムに対して、人一倍敏感でなければなりません。それでこそ真の「二刀流」だと云うことです。(この稿つづく)

(R4・8・28)


3)右近初役の実盛のことなど

そう云うわけで右近初役の実盛は、義太夫狂言のコク・役の陰影に於いて課題はありますが、颯爽とした生締めの風姿と角々の形をきっぱり決めて、後味が良い。先ほど実盛の「陰惨さ」について言及しました。フォークロア的な(民俗学的な)「実盛物語」の発想がそう云うところにあることを決して忘れてはなりませんが、やはり歌舞伎の実盛の場合は、最後を颯爽とカッコ良く決めてくれないと、芝居が面白くなりません。ともあれ右近の実盛は、初役にして十分な成果を挙げたと思います。次の挑戦が楽しみですね。

壱太郎の小万は、出番は短いですが、確かな存在感を見せ付けました。一時的に霊界から蘇り、主人義賢から託された白旗が葵御前の元に届いたことを確認して、また霊界へ戻って行く奇蹟、ここで二段目「義賢最期」との関連をきっちり描いて見せました。同時に実盛は、小万の有り様を見て、「君は卑怯未練なところを見せず・見事にカッコよく死ねるか」と云う義賢からのメッセージをしっかと受け取ることになるわけです。「如何にカッコよく死ぬか」と云うことは、裏返せば「如何にカッコよく生きるか」ということでもあります。(別稿「義賢から実盛へのメッセージ」をご参照ください。)

彦三郎は瀬尾は、姿はなかなか良く似合います(父・十七代目羽左衛門の瀬尾を思い出しました)。しかし、発声がよく通って・言葉が明瞭である彦三郎の特質が、新歌舞伎の役どころではそれが美質として生きるのですが、古典であると、必ずしも良い方に作用しない場合もあるようです。役の描線が明解に過ぎて、陰影が乏しいと感じられるところがある。この点は、亡くなった五代目富十郎も似たところがあって、例えば、師直などはサッパリし過ぎてあまり面白くありませんでした。ここは、もう少し声を抑えて・トーンを低めに持って・声の色合いを変える工夫が出来れば、彦三郎の可能性は一気に拡がると思いますけどねえ。瀬尾では、小万の死骸を蹴とばして・太郎吉にわざと刺される辺りに、もう少し陰惨さが欲しいと思います。そう云う積み重ねが役の大きさ・深さにも繋がっていくはずです。実盛が28年後の死を決意する背景には、間違いなく瀬尾の死も影響を与えているのですから。

市蔵の九郎助は、風貌ではまだ若い感じに見えはしますが、手堅い出来で・良く頑張っていましたね。先日(7月歌舞伎座)「夏祭」の義平次もそうでしたが、味のあるバイキャラクター払底のなか、歌舞伎が市蔵に期待するところはますます大きくなりそうです。ここはやはり場数次第と云うことでしょう。

(R4・9・1)



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