(TOP)     (戻る)

二代目右近の弁天小僧菊之助

令和4年5月歌舞伎座:「弁天娘女男白浪〜浜松屋・稲瀬川勢揃い」

二代目尾上右近(弁天小僧菊之助)、二代目坂東巳之助(南郷力丸)、九代目坂東彦三郎(日本駄右衛門)、初代中村隼人(忠信利平)、五代目中村米吉(赤星十三郎)、六代目中村東蔵(浜松屋幸兵衛)、他


1)二刀流のイメージ

米大リーグの大谷翔平選手の二刀流(投手と打者)の大活躍が、連日の話題となっています。160キロ前後の剛速球をビュンビュン投げて、打つ方でも指名打者でヒット・ホームラン連発というのは驚くべきことですが、恐らく本人には両方を使い分けていると云う意識はあまりないのだろうと思うのです。多分両者の身体の動きのなかに何か相通じるものを感じていると云うか、投げるための練習・打つための練習がそれぞれ別箇のものではなく、両者が互いに高め合っているような・そんなイメージを大谷選手は掴んでいるのではないでしょうかね。それは体幹とか回転軸とか・そう云うことなのだろうと推測はしますが、そうでなければ、あれほどのハイレベルを長く維持出来るものではないと思うのです。二兎を追おうとすると、普通はどちらも中途半端で終わってしまいます。まあ野球の話しはここで置くとしまして、我が歌舞伎界の・役者と清元太夫との若き二刀流・尾上右近のことです。(清元では栄寿太夫として活躍。)台詞廻しと音曲というのも、どこか相通じるところがあるのではないでしょうかね。

清元というのは、情緒的な要素が強い浄瑠璃です。もしかしたら旋律を気分で転がしているように聞こえるかも知れませんが、それだけだと良い音曲にならぬのです。息をしっかり保ちながら喉を繊細にコントロールして旋律を紡ぐかのように描き出していく、それは実に理性的な作業なのです。それは役者の台詞の音遣いにも、相通じるところがあると思います。同時に音曲がもし情緒的な方向へあまりに傾斜してしまうならば、例え響きとして心地良いものであっても、それは歌詞(意味)との関連を見失ってしまう危険性もあるわけで、そう云う時には、役者の台詞の写実への意識が役に立つであろうと思うわけです。優れた俳優の台詞と云うのは、洋の東西を問わず、「まるで音楽を聞く如き心地良さ」と形容されるものです。歌舞伎ならば、なおさらのことです。写実的であって様式的。様式的であって写実的なものです。なかなか難しいことですが、それが両立する瞬間が確かにあるのです。

したがって役者と清元太夫との二刀流をハイレベルで実現したとするならば、「あの役者は清元の太夫もやるんだってねえ。言葉がしっかり聞き取れてリアルな感情がこもっていて、しかも音楽的・様式的な心地良さもある。さすがに両方の要素を兼ね備えた見事な台詞廻しだねえ」と観客が感嘆するような台詞になるだろうと思います。そう云うレベルを目指すつもりで、二刀流を頑張ってもらいたい。吉之助が右近に期待するところは、そう云うことですねえ。(この稿つづく)

(R4・5・10)


2)生っぽい弁天小僧

右近本人が「二刀流」にどのようなイメージを持っているのか、多分何かのインタビューでそんな話しをしたかも知れませんが・承知はしていませんが、最近の右近の舞台を見た感じでは、どうやら生(なま)な表現意欲の方が勝ち過ぎる印象を持っています。例えば昨年(令和3年)5月歌舞伎座での「大川端」のお嬢吉三ですが、ツラネはテンポ早めで生きた写実(リアル)さを意識した台詞廻しでした。様式的・音楽的と云うより芝居の方へ傾斜した台詞廻しで、生っぽいと云うか・ちょっと荒っぽい印象がしましたが、この台詞廻しを批判なさる方は当然いらっしゃることと思います。吉之助は「初役でこれだけできれば上々吉」と書きましたけれど、若い時分から無批判的に二拍子のダラダラ調で様式美に浸るようでは困るから「これで良い」と褒めたわけで、役者として年季を積んでくれば、このような生っぽさ・荒っぽさは、当然落としていかねばならぬものです。イヤ「落とす」と云うよりも、そう云うものは肚のなかに押し込んで、もっと大きな形容のなかで魅せるようにせねばなりません。しかし、その前段階として生な表現意欲を持っていないことにはどうにもなりませんから、まだ20代の段階では「これで良い」ということです。(右近は今月(5月)28日に30歳になります。)このような発展途上の段階に右近の二刀流は在るわけですが、どんどん若枝を伸ばしていく力を感じさせるところが、現在の右近の大きな魅力に違いありません。

したがって今月(令和4年5月歌舞伎座)の「浜松屋」での右近の弁天小僧が、このような生っぽい・荒っぽい印象に出来上がったことに別に驚きはしないのですが、昨年のお嬢吉三よりも、生な表現意欲が先走ってしまった感が強く、音羽屋の手順がしっかり決まったこの芝居では、そこから外れたリアルなことを試みても、却って「汚く見える」ということを思いますねえ。いつぞやの猿之助の弁天小僧も、そんな感じがしました。猿之助ほどのセンスがあったとしても、やはり様式の裏付けを伴わない変更ではどうにもならないのです。右近の弁天は、娘の成りでいる時はなかなか艶やかで、その後の期待をさせます。しかし、男を見顕わしてしまうと何だか醒めた心持ちがするのは、「そこに居るのは男であったか。しかしホントにこれが男なんだろうか、やっぱり娘なのではなかろうか・・」と改めてその顔をマジマジと見てしまう不思議感覚が不足しているからです。弁天のツラネが、イケメンのならず者の兄ちゃんがまくしたてる威勢の良い啖呵だと云うならば、右近の台詞廻しはまあそれなりです。しかし、ここでのツラネに聞く写実と様式の揺れ動きと云うものは、「ホントにこれが男なんだろうか、やっぱり娘なのではなかろうか」という感覚の揺れ動きに照応するもので、これをバッサリ写実で割り切ってしまうことは出来ないのです。ここに右近に様式への意識が足らないことが露呈しています。付け加えると、立役で写実を意識する割りには、弁天が娘でいる時の写実への意識が足らず、定形べったりで・生きた娘の感覚になっていないのも物足りない。

それでも「浜松屋」は写実に根差した世話物の芝居ですから、弁天のツラネを写実で割り切ったとしても、まだ耐えられると云うところはあります。しかし、「稲瀬川勢揃い」には、ドラマ性なんてものはありません。様式の見せ場と云うべき場ですから、そこの長台詞で写実で割り切った台詞廻しをされてしまうと、どうにもなりません。右近の勢揃いの弁天はただ勢いよく怒鳴っているだけで、手も足も出ない感じがしますねえ。吉之助の見た日(初日2日)だけのことかは分かりませんが、右近は「・・女に化けた美人局(つつもたせ)」の末尾と「・・土の牢にも二度三度」の末尾の2か所で、かなり大きな間(ま)を取る台詞廻しを聞かせました。しかし、吉之助はそれが間と云うよりも、長台詞の流れ(つまり音楽的な流れ)がブツ切れた如く感じました。(同様の流れのブツ切れが「浜松屋」でのツラネでも見られました。)台詞がまったく頭打ちで、二字目起こしに入らない。怒鳴り声が汚く感じられるのも、とても気になります。これはイケナイことです。少なくとも音曲をやる人がこう云うことをやるのは、日頃音楽を聞く吉之助には信じられません。音曲をやる人ならば、音楽的な流れを途切らせることなく、心地良い七五の揺れのなかで、次のフレーズに流れ込んで行く、そう云うセンスを持たねばなりません。こうして「浜松屋」では露わでなかった右近の台詞廻しの欠点が、様式的な「稲瀬川」の場ではっきり判ることになります。写実と様式をエッジの立った現代的な感覚でハイレベルなところで両立させるような、そのような二刀流のイメージを持ってもらいたいですね。まだまだ右近は清元と役者を別ものだと考えているようです。

ご参考までに吉之助がリハーサルを生でも何回か聴講した名指揮者リッカルド・ムーティの言葉を揚げておきます。これは2017年イタリア・ピアツェンツァで若い音楽家たちで編成したケルビー二管弦楽団でのリハーサル映像でのムーティの助言ですが、

「(フレーズの)終わりは、(次のフレーズの)始まりでもあるのです。」

「よく起こることですが、二拍子があって・それが長く連続すると、在るべきではない区切れが出来てしまうことがあります。これを解決する方法は、(フレーズを)四連符で(大きく)捉えることです。」

これを歌舞伎の七五調に置き換えるならば、「七」のユニットの終わりは・次の「五」のユニットの始まりであり、「五」のユニットの終わりは・次の「七」のユニットの始まりである、そのように考えて七五調の旋律の流れを途切らせてはならないと云うことです。ユニットの終わりは、休止ではないのです。吉之助は七五調を二拍子で割るのを好ましいことと考えていませんが、右近も二拍子気味であるから・百歩譲って云うのですが、二拍子のリズムを単調に続けるから、上記に指摘した通りの台詞のブツ切れが起きるのです。これを解決する方法は、「七」と「五」のユニットで息を大きく捉えて、その流れのうえに二拍子を乗せていくことです。このようにすれば、歌舞伎の台詞を音楽的・様式的な感覚に出来ると思いますね。(この稿つづく)

(R4・5・12)


3)写実と様式のバランス

まあそう云うわけで、生(なま)な表現意欲を持つことは役者の前提として大事なことではあるので、これを20代なりの右近の弁天小僧だと認めないわけではありませんが、そのような要素は将来的にはもっと大きな形容(様式)のなかに取り込んでいかねばならぬものです。「写実と様式」のバランスの実現を、役者と清元の「二刀流」でどのように追求して行くか?ということを右近ははっきりイメージしてみた方が良いと思います。あの「勢揃い」のような発声を聞いていると、いつか喉を傷めないかと心配になります。清元では喉は命なのですから、大切にしてくださいよ。

いつぞや上演頻度が高い演目ほど様式が崩れる危険が大きい、そのなかでも最も危ない演目は、「勧進帳」と「弁天小僧」であると書きました。今回(令和4年5月歌舞伎座)の「弁天小僧」も例外ではありません。彦三郎の日本駄右衛門は、声がよく通るのはこの人の美質ですが・硬く聞こえるところが少々難ではあり、そのせいかこの駄右衛門も、賊徒の首領のスケール感がちょっと乏しいようです。抑揚をゆったりと大きく仕立てることで、台詞を豊かに響かせる工夫が必要だろうと思います。これは駄右衛門だけのことでなく、その他古典の役柄にも役立つことだと思います。大和屋は伝承がしっかりした家系であるので・様式感ある台詞を聞かせてくれると期待しましたが、今回の巳之助の南郷力丸は、何となく右近に煽られた感じがしますねえ。勢いはあるが、粗い仕上がりになってしまいました。これも抑揚をゆったりと大きく取る必要があります。「勢揃い」の五人男のなかでは、ちょっとおっとり気味の感はあるけれども、米吉(赤星十三郎)と隼人(忠信利平)は、それなりの様式感覚を捉えていて安心して聞けます。台詞が上手いとか下手かと云うことではなくて、様式に沿おうとする姿勢が見えるかどうかと云うことです。

(R4・5・14)



  (TOP)     (戻る)