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二代目右近のかさね〜「色彩間苅豆

令和4年8月歌舞伎座:「色彩間苅豆

二代目尾上右近(かさね)、吉田蓑紫郎(与右衛門・文楽人形)

(尾上右近自主公演・第6回・研の会)


尾上右近自主公演・第6回・研の会を見てきました。「色彩間苅豆」で右近は、興味深い実験を試みました。かさねも与右衛門もどちらの役もやってみたいと云う欲張りな気持ちが発想のきっかけであったそうですが、自分がかさねを勤める時は与右衛門が人形・自分が与右衛門を勤める時はかさねが人形と云う形で、相手役をそれぞれ文楽人形に任せて、二役を勤める形にしたわけです。人形遣いは、文楽座の吉田蓑紫郎が勤めます。当然ながら文楽人形は、人間と比べればサイズが小振りになるし、三人遣いになりますから、舞踊にした時の印象は、見た目も間合いでも違って来るでしょう。吉之助が選んだのは、右近がかさねを勤める回です。これは右近が勤める女形をもう少し数多く見ておきたかったからです。

吉之助も若い頃はそうでしたが、「色彩間苅豆」の関心は最初の内は、前半はどうしてももたれるところがあって、どちらかと云えば関心は、後半の髑髏が流れて来て以降、つまりかさねの面相が醜く変化して以降ということになろうかと思います。しかし、最近は、吉之助も歳取ったせいか・前半の、与右衛門の心変わりをまだ認識していない時の、かさねを「あはれ」と感じるように変わってきました。与右衛門は最初からかさねを殺すつもりはなかったと思います。かさねの面相が変わって怖くなったから・彼女を殺することになったと思いますが、前半でかさねのクドキを聞いても、与右衛門の心は決して動きません。与右衛門の心は、冷えているのです。与右衛門が内心考えていることは如何に彼女を振り切って・自分だけ遠くに逃げるかと云うことだけです。ですからかさねは与右衛門の不実をまったく疑っていませんが、前半のかさねのクドキは与右衛門の心とは、まったくのすれ違いです。そこにかさねの「あはれ」があるし、そこがしっかり描けていなければ、後半のかさねの恨みも利いて来ません。

そんなことを考えた時、吉田蓑紫郎が使う文楽人形・与右衛門には、役者が踊るのとは全然違う異次元の感触があるわけなのです。かさねと与右衛門は、決して心が通じ合うことはない。二人の冷めた関係が視覚的に形象化されて、「あはれ」を誘います。文楽人形の起用は、なかなか秀逸なアイデアだったと思いますね。国立小劇場のような狭い空間であるからこそ、そのアイデアが生きました。後半の立ち廻りも、捕り手との動きが混み合わず、なかなか良い感じで見せたと思います。

右近が勤めるかさねは美しいですが、前半のクドキの振りにもうちょっとタメが欲しいですねえ。もう少し振りに情が出てくれば、前半の人形を使ったクドキのアイデアが生きたと思いますが、感触がサラリとしていました。どちらかと云えば、右近の関心は、後半の「恐ろしかりける」かさねの方であったかも知れませんが、まあそんなところも年季を経てくれば、自然と変わって来るものであろうと思います。

(R4・8・26)



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