三島由紀夫の「椿説弓張月」
1)「いやになっちゃう」(笑)
『今の歌舞伎役者に、三島さんの「鰯売」が黙阿弥よりももっと前のものだっていう、その程度のことがもし分かっているとすれば、もっと面白くなるんじゃないかと思いますね。(中略)昔の本を持ってきても昔の芝居がやれなくなってきているということ、それだけに新しい人(三島)のものだと、もっと難しいわけですね。』(利倉幸一:座談会「共同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」・雑誌「演劇界」昭和32年5月号)
引用したのは雑誌「演劇界」で三島由紀夫を囲んで行なわれた座談会での利倉先生(当時の「演劇界」編集長)の発言です。他の出席者は郡司正勝・杉山誠という顔触れでした。この記事は作家三島由紀夫と歌舞伎を考える時にとても参考にな ります。(この時代の「演劇界」の記事はとても面白いですね。)そこで「椿説弓張月」のことを考える前に、この座談会での各氏の発言をちょっと取り上げておきたいと思います。まず杉山先生が、「「地獄変」(昭和28年12月初演)にせよ「芙蓉露大内実記」(昭和30年11月初演)にせよ、あなたの意図したところと、歌舞伎の連中の受け取り方とは違うんじゃないかな」と三島に聞く場面です。
三島:「ほんとは、ぼくはそれが嫌なんです。それなら、いっそのこと新劇をやらせちゃうという気持ですね。はっきり言うと、勘三郎はうまいっていわれているでしょう、新作をやっても。」
利倉:「そのくせ、テクニックに関しちゃ新しいものを出してないんでね。」
三島:「まあ、新しいつもりなんでしょう、あれで。(笑)」
杉山:「そうすると、あなたとしちゃ、新歌舞伎的なものとして扱われることが・・・。」
三島:「嫌なんです、というよりは不満ですね。それに、あの人たち、とっても照れるんですね。こういうことは恥ずかしいというんです。」
(座談会「共同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」・雑誌「演劇界」昭和32年5月号)
上記発言に出てくる勘三郎は十七代目(先代)のことで・「鰯売」初演で鰯売猿源氏を主演しました。勘三郎の猿源氏はとても好評でしたが、三島は不満であったそうで、この座談会でも「くすぐったくて、ほんとにいやになっちゃった」と言っています。三島が言いたいことは、自分は昔の芝居を書いたつもりなのに・それを新作として扱われるのが不本意だということです。ところが、歌舞伎役者は感じ方が逆で、新しいものなのに・それをさも古いもののように演じるのは恥ずかしいと言うというわけです。さらに三島の発言を引きます。三島:「勘三郎が脚本のあのセンスをどういう風に解釈しているかっていうのが問題なんですよ。もっと線の太いユーモアなんですよ、あれはね。その辺が割りに鈍感なんですよ、彼は。何かそこへ来ると近代人になっちゃうんだな。」 (中略)「ばかなところがないな。ばかになりたくない一心なんだね、逆に。(笑)僕がつくづく思うのは、ぼくらはすっかり近代人的生活をしてるから、僕がいくら擬古典主義的なことをやっても、新しいところが出て来る。最大限度の努力を払ってもそれがどうしても出てくる。それで、そいつを隠してくれるのが役者だと思っていたんですよ。ところが向こうは逆に考えているんですね。いやになっちゃう。(笑)ここは隠してほしいというところが逆に彼らにとっての手掛かりになるんだな。」
(座談会「共同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」・雑誌「演劇界」昭和32年5月号)
*上記座談会は、古典芸能鉛と水銀―郡司正勝評論集 (西澤書店)に収録。
決定版・三島由紀夫全集(新潮社)には収録されていません。三島のこの発言はとても興味深いと思います。歌舞伎役者とてこの時代に生きる現代人であるわけですが、我々は彼らを江戸時代の心を持つ現代人で・江戸の心を演じる特別の人たちだと思っています。もちろんその自負は彼らにもあるはずです。それは確かにいわゆる古典(「忠臣蔵」だとか「千本桜」など)を演じている時はそんなものなのです。手垢にまみれた在来の型のなかに新しい現代的な視点を取り入れるなんて言えば、いかにも先進的でカッコ良く思えます。ところが、擬古典的な作品をいかにも昔風に演じろというと、途端にぎこちなくなってしまうのです。「相変わらずあんな古臭いことやってらあ」と笑われるのが恥ずかしいという感じになってくるらしいのです。「お前たちのやっているのはこんな程度の芝居だよ」と、自分のコンプレックスな部分を改めて鏡で見せ付けられたような鼻白む気分になるのでしょう。そこで役者は捻じれた行動に走ります。三島歌舞伎のなかから作者がここは隠して欲しいと思う現代的な要素をほじくりだして、そこを解釈の取っ掛かりにしようとするのです。もしかしたら、これはこんな意地悪な作品を書いた作者(三島)への・役者のちょっとした仕返しなのかも知れません。
ここで歌舞伎役者のコンプレックスということをもう少し考えてみたいのですが、歌舞伎役者には、自分たちの演じている芝居が、敷居が高くて・「古典」とか「伝統芸能」ということで一応祭り上げられてはいるけれども、忠義とか仇討ちとか身替わりとか、時代錯誤の・現代人にまったくアピールしない変な芝居だとどこかで誰かに笑われていないかな?という不安がどこか付きまとっているのかも知れません。
現代では歌舞伎は時代から隔絶した芝居です。チョンマゲで刀差した日本人など今の日本のどこにもいないのです。お客に見放されたら芝居は終わりですから、「歌舞伎は古臭い」と言われることに・役者はいつも内心ビクビクしていて、周囲に「歌舞伎は古臭くない」とアピールするためにつねに肩肘張っていなければならないのかも知れません。観客を映画やテレビにごっそり取られた体験がその不安をますます掻き立てます。もっと自信を持って・自然体で・・と言いたいところですが、役者の気持ちも分からないことはありません。新歌舞伎というのは、座付き作者ではない・外部の作家が書いた歌舞伎作品のことを言います。歌舞伎役者のために江戸風俗を材料に芝居を仕立ててはいますが、当然ながらそこに作者の明治以後の・近代の視点が入ります。またそれがないと新歌舞伎にならないのです。そこに見慣れた古典作品にはない魅力と新鮮さを観客に感じさせます。今日の歌舞伎のレパートリーとなっている新歌舞伎の大半は二代目左団次によって初演されたものですが、それらは歌舞伎(旧劇)の手法を踏まえ・しかし表面上はそれを否定し・乗り越えて新しい時代の芝居を作ろうとするところから発しています。(別稿「左団次劇の様式」をご覧下さい。)
一方、三島歌舞伎の場合は、作者本人が「新歌舞伎的なものとして扱われることが嫌なんです、というよりは不満です」とはっきり言っているわけです。上記座談会の三先生はよく分かっていらっしゃいます。利倉先生は「歌舞伎役者が、三島さんの「鰯売」が黙阿弥よりももっと前のものだっていう、その程度のことがもし分かっているとすれば、もっと面白くなるんじゃないかと思いますね」と仰っています。
三島歌舞伎を新歌舞伎のなかに位置付けて、戦後の新作歌舞伎、たとえば 舟橋聖一の「源氏物語」や大仏次郎の「若き日の信長」などと比べて、その擬古典的な文体や手法においてのみ異なるのだと考えていると間違えます。三島歌舞伎はその発想段階において、まったく向いている方向が異なります。なぜならば、三島は最初から古臭い芝居を書こうとしているからです。ですから、三島歌舞伎というのは、どこかの旧家の土蔵のなかから・江戸末期の作者不詳の古い芝居の台本が発見されて・それを三島由紀夫なる作家が手を入れて世に出したと、そんな風にでも考えて演じた方がよろしいと思いますね。両者がそんな捻じれた位置にあるので、歌舞伎役者と三島の関係はギクシャクしたものになってきます。(H24・6・24)
2)「故郷へ帰ったつもりで・・」
「今の歌舞伎役者に、三島さんの「鰯売」が黙阿弥よりももっと前のものだっていう、その程度のことがもし分かっているとすれば、もっと面白くなるんじゃないかと思いますね」という利倉先生の発言についてもう少し考えます。
歌舞伎は出雲のお国以来・ほぼ400百年の歴史を持っている演劇と言われていますが、歌舞伎はこれだけの長い年月をすんなり真っ直ぐ伸びてきたわけではないのです。いろんな要因で、その流れはあちこちで途切れたり・捩(よじ)れたりしています。現行歌舞伎でどうやら辿れる・最も古い形態の芝居は「対面」や「暫」のような元禄歌舞伎ということになりますが、これとて当時とそっくりそのままに上演されているわけではありません。
芸というのは刻々変化していくものですから・まあそれは仕方ないことですが、そう考えると現行歌舞伎の芸の引き出しというのは案外狭いもので、遡ってもせいぜい幕末の黙阿弥よりもちょっと前くらいまでのものだと考えられるのです。その限られた芸の引き出しでレパートリーをどうにかこなしているというのが、歌舞伎の現状なのです。(最近は黙阿弥の七五調さえ怪しくなっているということは、別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」で触れましたからそちらをお読みください。)近松でも南北でも、現行歌舞伎は基本的にどれも黙阿弥のテクニックで通しています。それは例えば台詞回しでは、語調を無意識のうちに七五に揃えたがる・台詞の末尾が不自然に伸びるというようなところにフッと現れます。ホントに微妙な差異なのですが、そんなところで芝居の感触が何となく粘ってきて、本来の近松 や南北の感触とは異なるものになっているのです。利倉先生の発言は、そのことを踏まえて読まねばなりません。三島:「勘三郎が脚本のあのセンスをどういう風に解釈しているかっていうのが問題なんですよ。もっと線の太いユーモアなんですよ、あれはね。その辺が割りに鈍感なんですよ、彼は。何かそこへ来ると近代人になっちゃうんだな。」
郡司:「つまり、それは黙阿弥劇でのテクニックでやっているからなんでしょう。」
三島:「そうですね。」
(中略)
杉山:「やる方の側としちゃ、そいつ(三島歌舞伎)を当てがわれることによって、やっぱり一種の新しがりをやってると思うんだ。ほんとは全然逆のコースを取らないといけないのに・・・、たとえば黙阿弥から逆に元禄時代、近松時代、あの辺まで遡ってやらなきゃいけないのに、黙阿弥以後で新しがってやっちゃってるわけだからね。」
郡司:「故郷へ帰ったつもりでやればいいんだがねえ。」
三島:「その故郷を失なっちゃってるわけさ。(笑)」
杉山:「歌舞伎は伝統芸術だって言うけれども、今や根無し草になってるな。」
(中略)
三島:「新劇は今故郷を模索している段階だけど、歌舞伎には故郷そのものがないんですね、現在は。」
杉山:「そういった意味じゃ三島君の夢は、一ぺんふるさとに帰す取っ掛かりをつけることだね。とにかく今の歌舞伎って自分こそふるさとなりって顔してるでしょう。(笑)それが間違いだってことを、歌舞伎自身にそろそろ感じさせなければ駄目だね。そのくせ手前が故郷だという顔をしているのだから、困るねえ。(笑)」
(座談会「共同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」・雑誌「演劇界」昭和32年5月号)この座談会を読むには昭和32年という時代の雰囲気も踏まえなければなりません。戦争が終わって・日本が高度成長期に入り・昭和28年にはテレビ放送が始まり、歌舞伎は民衆の日常生活から乖離し・娯楽としての方向性が次第に見えなくなり始めた時期でした。この時期には雑誌「演劇界」などでも、歌舞伎に対して結構辛らつな議論が多く出ていたわけです。女形不要論・歌舞伎滅亡論などが盛んに交わされました。昨今の歌舞伎批評ではちょっと考えられないことです。吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代になるとすっかり保守化して、こうした議論は影を潜めてしまいました。以後平成の今日まで「歌舞伎こそ我がふるさとなり」という感じの論調ばかりです。歌舞伎役者もそういう風潮に乗ってきました。
別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」でも触れましたが、二代目猿翁(三代目猿之助)はとても素晴らしい仕事をしましたが、ある一面に於いて新しがりをしているわけで(皮肉ではなくスーパー歌舞伎などまさにそこが本質かも知れません)、歌舞伎の悪い部分・伝統に安住して活力を失って惰性で持ってるような部分に対する批判(疑問)を持たなかったと吉之助は思っています。この点では、杉山先生が指摘した昭和30年の状況と何も変わっていないわけです。したがって「そういった意味じゃ三島君の夢は、(歌舞伎を)一ぺんふるさとに帰す取っ掛かりをつけることだね。」というところをよく考えなければ、三島歌舞伎のホントのところは分からないということだと思います。三島が考えるところの「歌舞伎のふるさと」というのはどんなものなのでしょうか。
(H24・7・2)
3)「新しいのは新劇で結構だ」
三島は歌舞伎作品を8本書きました。まず最初が柳橋みどり会のために書いた舞踊劇「艶競近松娘」と「室町反魂香」(昭和26年10月)、「地獄変」(昭和28年12月)、つづいて「鰯売恋曳網」(昭和29年11月)、「熊野」(昭和30年2月)、「芙蓉露大内実記」(昭和30年11月)、「むすめごのみ帯取池」(昭和33年11月)でした。そこから約10年の空白があって、最後に書いたのが「椿説弓張月」(昭和44年11月)です。
三島:「地獄変」は実のところ少々面白半分で書いて、「鰯売」はもう十分手に入って書いたつもりで、「大内実記」じゃ、もう大凝りに凝っちゃってね、それで大体限界が分っちゃったんです。つまりそれからは詰まらなくなっちゃった。」
郡司:「(作品を役者に)当てはめて書く限界じゃないですかね。」
三島:「俳優は割りと考えないんですよ。よく書けたと言われるけれども、考えないんです。古典劇の楽しさを何とかして出そうとしたのが「大内実記」なんですが、これが退屈になっちゃった。(中略)それを救うのが浄瑠璃なんで、「大内実記」もそれをやったんだけど、(役者が)新作としてとてもついて行けない。初めの前段が終わって、舞台を空にして、また長々と浄瑠璃の語りが始まると、とてもついて行けないというんです。これが文楽なら幾らでもやってるんですがね。」
(座談会「共同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」・雑誌「演劇界」昭和32年5月号)この座談会は昭和32年のことですが、「詰まらなくなっちゃった」と三島は言っているけれども、すぐに「むすめごのみ帯取池」を書いたのです。しかし、この後に、「椿説弓張月」を書くまでに約10年の空白があります。この空白の10年にはいろいろな意味がありそうです。恐らくこの時期の三島は再び歌舞伎を書くつもりはないという気持ちであったと思います。昭和30年の「大内実記」以後、三島は歌舞伎に対する情熱を次第に失い、そのエネルギーを新劇に振り向けることで・その渇を癒したと吉之助は想像します。それは例えば文学座創立20周年記念公演のために書かれた「鹿鳴館」(昭和31年11月初演・主役の影山伯爵夫人朝子を演じたのは杉村春子)です。あるいは「サド侯爵夫人」は昭和35年11月初演・主役のルネを演じたのは丹阿弥谷津子)です。どちらも新劇として書かれているけれども、どこか様式的な歌舞伎の感触を持つ作品です。新劇役者の方がそのような古臭い匂いに何かしらの新鮮さを感じて飛びつく。少なくとも新劇役者は作品に対して素直に取り組む・素直に作品を考えようとするということだったのかも知れません。
*吉之助の二つの三島作品論考をご参考にしてください。
「鹿鳴館」:「影山伯の舞踏会」
「サド侯爵夫人」:「「サド侯爵夫人」を様式で読む」三島:「新しいのは新劇で結構だ。(笑)」
郡司:「それは名言だ。」
三島:「ところが歌舞伎役者は洋食を食うのが好きで、踊りの先生はゴルフをやるのが好きだし、新劇の役者は、このごろ能・狂言を見に行くのが好きでね。」
杉山:「小唄もあるよ。」
郡司:「歌舞伎役者が新しいことをやるよりも新劇の人が古いことをやる方がまっとうかな。」
(座談会「共同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」・雑誌「演劇界」昭和32年5月号)昭和41年(1966)11月に国立劇場が開場とまり、この時に国立劇場の方針として七つの項目が掲げられました。それは原典の重視、通し狂言中心、古典作品の復活、上演演目の選定と演出の分かり易さ、配役の適材適所、演出の統一、伝統的な歌舞伎の技法を基盤とした戯曲の創作と上演、というものでした。(国立劇場の現状を見ると、その理想は何処へ?ということになるかも知れませんが、そのことは今は置く。)翌・昭和42年3月に三島は国立劇場の非常勤理事に就任しました。
三島が「椿説弓張月」で歌舞伎に戻ってくるのには、心中期するところがあったに違いありません。昭和44年に書かれた「椿説弓張月」がそれまでの三島の歌舞伎作品と異なる点は、まずひとつは松竹歌舞伎ではなく・国立劇場での上演のために書かれたものであることです。次にそれまでの作品で主役を演じてきた六代目中村歌右衛門が出ていない・つまり歌右衛門のために書かれたのではないこと。もうひとつは、これまでの一幕物ではなく・多幕物の通し狂言として書かれたことです。このことすべて国立劇場の当初理念と密接に関連します。つまり、門閥主義で・手垢にまみれた歌舞伎の演出を作品中心に戻す、そのために自分は役者のためにでなく・歌舞伎のために(自分の見たい理想の)歌舞伎を書き・これを自分の演出で上演する、歌舞伎を面白く見せる為に役者にだけまかせておけない、国立劇場に出演する役者は家の意識を捨て・演出には従ってもらわなければならないということなのです。
(H24・7・8)
4)王の無知を嘲笑う道化
別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」でも触れましたが、三島は本読みが巧い人でした。本読みというのは、芝居稽古の最初の顔寄せの時に集まった役者の前で作者が台本を読んでみせる儀式のことです。役者になったつもりで台詞を 本格で言うものではなく、あくまで感情を込めずにサラサラと読み飛ばすべきものですが、そこは自分の書いた台本を読みわけですから・そのなかに作者の意図が微妙に反映するものです。六代目歌右衛門が次のような証言をしています。
『お仕事で三島先生にお目にかかったのは、初めは「地獄変」でしたね。歌舞伎座の貴賓室で本読みなさいました。私、それを伺って、先生は歌舞伎がお好きだということが、なんかとってもはっきり分ったのです。ええ、大変なのです。とても大時代なの。(笑)もう本当にね。「じゃわいなあ」というのが大変な長さなのよ。(笑)先生のお好きなのは、そういう歌舞伎ですね。(中略)それこそ本当に観ているようなの。本当ですよ。歌舞伎の本読みなさるのとは、ちょっと違うわ。』(六代目中村歌右衛門、三島由紀夫との対談:「マクアイ・リレー対談」・昭和33年6月)
三島の本読みは、「椿説弓張月・上の巻」の録音を実際に全集で耳にすることができます。その本読みは義太夫と下座音楽も交えたものですが、役者気取りで声色をしているということではなく て、あくまで本読みです。本読みだから感情を抑えて・淡々と進めようしていますが、やはり歌舞伎好きの地は抑えきれないようで、役により口調を丁寧に描き分けて・なかなかのものだと思います。昭和44年11月国立劇場初演の「椿説弓張月」総稽古の際に、三島はこの録音を持ち込んで、居並ぶ役者たちに向かって(正確な物言いは分かりませんが)「こんな感じで演ってくれ」ということを言ったそうです。これに役者たちが反発してしまって、その後の稽古がギクシャクし始めたのです。
決定版 三島由紀夫全集〈41〉音声(CD)
三島は、国立劇場での「椿説弓張月」上演は・これまでの松竹歌舞伎と上演の考え方がまったく異なるもので、役者は家の意識を捨て・作者兼演出家である自分の考え方に全面的に従ってもらわなければならないというスタンスを全面的に打ち出したのです。ところが、これは歌舞伎役者には受け入れられませんでした。歌舞伎役者というのは、25日興行で・月が変わればまた違う演目が始まる、そのサイクルでとりあえず観られるレベルに数日で仕上げる手腕は優れているのです。役作りは個々の役者に任され、座頭格の役者が全体の流れを整理すれば・それで済むのです。しかし、何ヶ月もかけて作品を読み込み・役を解釈し、ひとつのコンセプトのもとにアンサンブルとしての舞台をがっちり作り上げてことにはまったく不慣れなのです。
国立劇場設立当初のコンセプトのなかには、型(演出)の整理・定本となる上演を目指すということがありました。これが三島の論拠でした。いきなり「仮名手本忠臣蔵」で型の見直しをやろうとすれば、在来型を演り慣れた役者の抵抗が大きいことは必至です。新作である「椿説弓張月」ならば前例(型)はないわけだし、演出は作者である三島自身が行なうのだから大丈夫だと、三島は踏んだのかも知れません。しかし、実際には役者の反発は想像以上に大きかったのです。
『(三代目)市川猿之助さんがある日こういった。三島由紀夫さんは歌舞伎のことを本当にはご存知なかったから、おかしいことや滑稽なことが多かったですよ。でも三島さんが国立劇場でやった「椿説弓張月」 には出演してたんでしょう、とぼくはきいた。うん、でてましたよ、猿之助さんはかすかな微笑をうかべていった。その微笑みは、まるで王の無知を嘲笑う道化、といった明るささえただよわせていた。ぼくは「椿説弓張月」の猿之助さんの熱演をおもいだしながら、芸能する者が文学を至上のものとする者にたいしていだく、これは生理的な報復なのだと思わずにはいられなかった。』(蜷川幸雄:「道化と王」〜「卒塔婆小町・弱法師」演出メモより〜「蜷川幸雄・Note1969−2001」に所収・河出書房新社)
蜷川幸雄:Note1969‐2001(河出書房新社)
三島は「椿説弓張月」演出に相当てこずったようです。「椿説弓張月」での失敗が三島の自決の遠因になったと分析する研究者さえあるほどです。まあそれはないだろうと吉之助は思いますけれども、三島がかなり落ち込んだことは事実です。評論家古林尚との生涯最後の対談でも「椿説弓張月」演出について「どうにもならん。僕も手こずってね。自分の演出力を貧困を告白するようなものだが、どうにもなりませんね。」とうめいています。
決定版 三島由紀夫全集〈40〉対談(2)(新潮社)
それにしても、作家が歌舞伎に夢見たものの芸術的なレベルがどうかということは確かにあるでしょうが、原作者・演出家がそのアイデアを具現化しようと悪戦苦闘している時に、作家(あるいは演出家)に対する尊敬を忘れて、役者がせせら笑って・言う事を聞かないで・自分勝手なことをし始めるのでは、お話しにならないのではないでしょうかね。「歌舞伎ってのはそんなもんじゃないんだよ、こうやったら歌舞伎になるんだよ、そんなことも知らないのかよ」というわけです。そういうのは役者の態度として良ろしいものでしょうか。「椿説弓張月」稽古で起こったことはそういうことなのです。
(H24・7・16)
武智鉄二は、女形の台詞の末尾の「・・・じゃわいなあ」という修飾が大嫌いな人でした。「・・・じゃわいなあ」という箇所で台詞の息が抜けると云うのです。武智は 昭和30年に「近代能楽集」の「綾の鼓」を演出した時のことを、次のように回想しています。
『例を挙げると「綾の鼓」の後の場で、華子が言う待ち謡(別段待ち謡として書かれたものではないけれど、しかし、能楽的ドラマツルギーのなかで、それは必然的に待ち謡の形式を捉えていた)の文句、「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」を、謡のフシをつけて謡ってみると、それがいかにも冗長で冗漫な感じが、私にはしてきたのであった。つまり、それは接尾語だけが余分だという感じであった。謡の文句としては、「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」で十分なのであった。「わ」とか「よ」とかという言葉が、謡独特のフレージングをつけたユリブシで長く引き伸ばされて謡われる時、現代語の空虚が、伝統芸術という祖先の声によって、厳しく批判され、非難されているという気が強く実感として、私に起こったのであった。』(武智鉄二:「三島由紀夫・死とその歌舞伎観」・昭和46年)
注:武智鉄二:「三島由紀夫・死とその歌舞伎観」は定本武智歌舞伎〈第1巻〉歌舞伎に収録。
台詞の核心にビラビラした装飾的な尾ひれが付く感覚が、武智は嫌なのです。武智はこの台詞は、「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」で十分だと言います。能においては台詞の核心をシンプルに提示すれば良いわけで、これで台詞の意味は通るからです。「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」というと、武智の言う通り、どこか装飾的で余計なものを感じます。この装飾的な尾ひれには、恐らくいわゆる女性らしさとか・媚びであるとか・あるいはその役の生活感とか、いろんなものが絡みついています。武智は、そういうものを余計なものだとします。素材としてシンプルに女性を提示出来れば、それで良いはずだと武智は考えます。吉之助は弟子を自認するくらいですから武智の言いたいことはもちろん良く分かります が、歌舞伎の女形の場合には、吉之助は師匠とは若干違うことを考えています。
武智の言うことを逆に取るならば、次のようなことが考えられます。「・・・じゃわいなあ」というのは歌舞伎の女形の常套の修飾ですが、いわゆる女性らしさとか・女くささ、あるいは女性の媚びやしなり、あるいは役の生活臭とか、そのようなものを表現するために、歌舞伎の女形は「・・・じゃわいなあ」という修飾を必要としたということです。歌舞伎の女形は、能のような象徴性にとどまっているわけに行きません。もっと具象的で生(なま)に近い女性を提示せねばならないのですから、素材としてシンプルに女性を提示出来ればそれで十分というわけには行かないのです。しかも、女形は男性が女性を演じるという嘘が前提になっていますから、その齟齬を覆い隠すための修飾が必要になってくるのです。つまり、「・・・じゃわいなあ」こそ歌舞伎の女形の本質そのものだということになります。このことは歌舞伎の本質にも深く結び付いてきます。
三島と武智との対談「現代歌舞伎への絶縁状」のなかで、武智が「今の歌舞伎には「じゃわい」とか、「わいな」とか、そういうものがいっぱいついている」といつもの自説を披露しますが、対する三島の方は、「あなたは昔からきらいですね、ああいうのが・・」と力なく応えています。この対談が行われたのは昭和45年7月9日 (つまり自決の少し前のことですが)のことで、その前年の国立劇場での「椿説弓張月」初演で三島がかなり自信喪失したらしいことが察せられます。しかし、本来ならこの場で三島はこんな風に反論しても良かったはずです。
『歌舞伎劇を歌舞伎様式で書くことが何か実験的なことであるとは、日本的近代のふしぎな現象である。歌舞伎は楽劇である。伴奏音楽にはもちろん、セリフにも音楽性が要求され、殊に浄瑠璃の入る場面では、情景描写も心理も音楽の助けを借りて構成される。ところでその音楽は、伝来の日本楽器であって、西洋音楽とは成り立ちがまるで違う。その旋律自体が、古文の、それもきわめて特殊な文体にのみ完全に調和するようにできている。ナマな現代語が一語入っても、音楽は崩れ去る。舞台のハーモニーは消失する。「おそろしかるける」は、あくまで「おそろしかりける」であって、この「おそろしかりける」の響きが重要なのだ。むかしの浄瑠璃作者や歌舞伎作者は、そんなことはみん なカンで知っていた。俗語を使っても、俗語が様式とどこまで馴染むかは、職人のカンでよく分かっていた。現代のわれわれはそうは行かない。擬古文を書くこと自体が、ディレッタンティズムであり、一定の知的教養の所産である。こういう教養の産物が、いきいきとした歌舞伎の生成期の作品の息吹を、どこまでわがものにできるか、それは不可能に近い無謀な「実験」になるのである。』(三島由紀夫:「「弓張月」の劇化と演出」・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
ここで三島は、文体には「おそろしかりける」はあくまで「おそろしかりける」でなくてはならず・「おそろしき」では駄目な場合がある、だからこの箇所は「おそろしかりける」と自分は意識して書くのだと宣言しているのです。
武智の「近代能楽集・綾の鼓」批判を先に出しましたから・吉之助の考えを言えば、これは我が師匠に対する反論になりますが、三島はこの芝居では「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」では駄目だと感じたに違いないと、吉之助は思うのです。三島には「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」でなくてはならない何かがあったはずです。「来ましたわ」 を繰り返すそのリズム、「からよ・・」という響きが重要であったに違いないのです。もし本当に三島が現代語を使って能様式の芝居を書くつもりであったのなら、もちろん三島は「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」と簡潔に書いたでしょう。三島がそう書かなかったということは、三島には 現代風俗や現代語を使って能様式で芝居を書くという意図はなかった、「近代能楽集」というタイトルにそのような意図は込められてなかったということであろうと理解しています。世阿弥が現代に生きていればこんな現代劇を書いたかなという遊び心であろうと思います。この点を多くの文学者・演劇関係者が誤解していると思いますねえ。三島のほどの天才ならば、書こうと思えば簡潔な台詞くらい簡単に書けたはずです。敢えてそれをしないところに三島の意図があるのです。
「近代能楽集」と「椿説弓張月」の創作態度は、その方向がまったく異なります。「近代能楽集」は現代語・現代風俗で能の題材を芝居に仕立てるということです。「椿説弓張月」は、曲亭馬琴の原作を材料に現代の作家が現代の感覚を加えて擬古文で歌舞伎にするということです。
『こういう教養の産物が、いきいきとした歌舞伎の生成期の作品の息吹を、どこまでわがものにできるか、それは不可能に近い無謀な「実験」になるのである。』
それでは「椿説弓張月」歌舞伎化に際して、三島はどんな夢をその文体に託したのでありましょうか。以後にこのことを考えていきます。
注:三島と武智との対談「現代歌舞伎への絶縁状」は、新版・三島由紀夫全集には未収録。定本「武智歌舞伎」第6巻に所収されています。
定本武智歌舞伎 第6巻― 演劇研究(H25・12・28)
三島由紀夫の小説・戯曲については、言葉が装飾的でキラキラして・細工物のように精緻であるけれども・そういう作為的なところが好きじゃないという方は結構いらっしゃると思います。逆に吉之助はそこが好きなのですがね。このことは別稿「三島演劇の言葉の過剰性について」で触れました。三島文学の言葉の過剰性というものは、ちょうどモーツアルトが存命中に・当時の聴衆から「モーツアルトの音楽は音符が多過ぎて、うるさい」と言われたのと同じようなものです。現代のわれわれから見れば、モーツアルトの音楽は耳に心地良いロココ調で、「うるさい」などと夢にも感じないでしょうが、モーツアルトの音楽の過剰性は当時の保守的な聴衆(それは当時の王侯貴族たちでしたが)をイライラさせた前衛性であったということです。そのためにモーツアルトは有力なパトロンが得られず、生活苦で若くして死にました。吉之助は、三島文学の言葉の過剰性を前衛性として捉えて行きたいのです。とりあえず「近代能楽集」について考えてみます。三島由紀夫はこう言っています。
『「おそろしかるける」は、あくまで「おそろしかりける」であって、この「おそろしかりける」の響きが重要なのだ。』(三島由紀夫:「「弓張月」の劇化と演出」・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
三島の言葉から考えられることは、(これは畏れ多くも我が師匠武智への反論になりますが)明らかに三島は「私来ました。あなたが来いとおっしゃったから」という響きではなく、「来ましたわ、私来ましたわ、あなたが来いとおっしゃったからよ」の響き(あるいはリズム)を必要としたということなのです。どこに「近代能楽集」の前衛性があるのでしょうか。それはまさに武智が指摘している「いかにも冗長で冗漫・接尾語だけが余分」というところにあるのです。日本語の接尾語には、いろいろな余分なイメージが付きまといます。そこから身分とか・性別とか、あるいは生活の匂い・感情の微妙な綾などが醸し出されます。そのような余分なビラビラした言葉が引きずっているイメージ、これをキラキラした言葉の機関銃に仕立てること、これこそが「近代能楽集」の前衛性となるものです。つまり、ダダダ・・と打ち出されるリズムの煌めきのなかに、接尾語があるのです。(その前衛性は鈴木忠志演出SCOTの「サド侯爵夫人」の舞台によく出ていたと思います。別稿「三島演劇の言葉の過剰性について」を参照ください。)
同様に三島歌舞伎「椿説弓張月」にも言葉の過剰性があるわけですが、そこでは発想ベクトルが逆になってきます。現代劇では機関銃のようにダダダ・・と出ていた言葉が、三島歌舞伎では逆となるのです。つまり、接尾語が伸びていくのです。「・・・じゃわいなあ」が伸びていくのです。そこに三島歌舞伎の前衛性があるのです。六代目歌右衛門がこう証言しています。
『お仕事で三島先生にお目にかかったのは、初めは「地獄変」でしたね。歌舞伎座の貴賓室で本読みなさいました。私、それを伺って、先生は歌舞伎がお好きだということが、なんかとってもはっきり分ったのです。ええ、大変なのです。とても大時代なの。(笑)もう本当にね。「じゃわいなあ」というのが大変な長さなのよ。(笑)先生のお好きなのは、そういう歌舞伎ですね。』(六代目中村歌右衛門、三島由紀夫との対談:「マクアイ・リレー対談」・昭和33年6月)
いわゆる新歌舞伎というものは、座付作者ではない・外部の文学者が歌舞伎を書いたもので、その多くが、綺堂にしても青果にしても、現代語のタッチで書かれたものでした。ほとんど三島のみが擬古文調で歌舞伎を書きました。擬古文調で歌舞伎を書くことが、少年時代から歌舞伎好きであった三島の回顧趣味か(それはある意味事実ですが)、教養趣味か・はたまた時代錯誤の産物であったかのように世間では思われていますが、それは間違いなのです。三島自身がそれは「実験」だとはっきり書いています。
『こういう教養の産物が、いきいきとした歌舞伎の生成期の作品の息吹を、どこまでわがものにできるか、それは不可能に近い無謀な「実験」になるのである。』 (三島由紀夫:「「弓張月」の劇化と演出」・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
前項で『「・・・じゃわいなあ」こそ歌舞伎の女形の本質そのものということになる、これは歌舞伎の本質にも深く結び付く』ということを書きました。実は、これは塩梅がとても難しいところです。「・・・じゃわいなあ」が歌舞伎の本質だと言いながら、実は吉之助も、師匠武智と同じく、「・・・じゃわいなあ」が好きではありません。それはちょっと塩梅を間違えると、吉之助の大嫌いな、いわゆる「歌舞伎らしさ」の方に墜ちていくのです。歌舞伎臭い・ダラ〜ッとした定型演技に墜ちていく。しかし、それが歌舞伎の本質に深く結び付いていることも、また確かなのです。ですから本稿冒頭に引いた利倉先生の発言がここで大事になって来ます。
『今の歌舞伎役者に、三島さんの「鰯売」が黙阿弥よりももっと前のものだっていう、その程度のことがもし分かっているとすれば、もっと面白くなるんじゃないかと思いますね。(中略)昔の本を持ってきても昔の芝居がやれなくなってきているということ、それだけに新しい人(三島)のものだと、もっと難しいわけですね。』(利倉幸一:座談会「共同研究・三島由紀夫の実験歌舞伎」・雑誌「演劇界」昭和32年5月号)
つまり、歌舞伎役者が昔の本を持ってきても昔の芝居が出来ない・その作品が初演された時のような、たった今生まれたような・洗い立てで糊の利いたワイシャツのようなパリッとした感覚で、歌舞伎役者が芝居を作れないということです。実は、そこが現代の歌舞伎役者の問題なのです。(昭和30年代には歌舞伎批評でもそのような議論があったわけですね。これは今の感覚だと、ちょっと驚きではありませんか? )下手をすると、いかにも使い古して・ちょっと饐(す)えた匂いのする衣服のような・間延びした感覚の芝居になってしまうのです。真新しい陶器に古色を施して、江戸時代の贋作に仕立てるようなものです。それでは困る。歌舞伎役者には、本物の江戸を再現してもらいたいわけです。ですから「・・・じゃわいなあ」は伸びても良いけれども、伸び過ぎちゃあいけないということになるでしょう。 (正確には息遣いと云うか・フレージングが問題なのですが、本論ではそこまで深入りしない。)そこから三島歌舞伎の言語の過剰性の、前衛的な要素が浮かび上来ることになります。それじゃあ、そこをどうするか。その塩梅が難しいところです。
三島が竹本付きで「椿説弓張月・上の巻」を本読みして録音したのは昭和44年8月下旬(東京・杉並公会堂)で、これは「椿説弓張月」初演(昭和44年11月国立劇場)の2か月前のことでした。芝居好きの三島だけに役により口調を丁寧に描き分けて・なかなかのものですが、キリッと引き締まった密度の高い出来とまで行っていないのは確かです。細部を丁寧に描写しようとして、間延びしているところが結構あります。まあこれは素人だから仕方ないことではあります。しかし、そこを割り引いて聴くならば、 一生懸命さのなかに三島が歌舞伎に求める「昔の芝居」のイメージが垣間見えては来ないでしょうか。「昔の芝居」のイメージを想像しながら、そこの塩梅をどうするかということを、考えながら録音を聴かねばなりません。洗い立てで糊の利いた ワイシャツのようなパリッとした感覚に出来るか、饐えた匂いの使い古しの衣服の感覚に墜ちるか、実はそれはほんのちょっとの差なのです。
決定版 三島由紀夫全集〈41〉音声(CD)(三島録音の「椿説弓張月・上の巻」を含む)
(H26・1・12)
三島の「椿説弓張月」は、それまでの三島の歌舞伎作品が一幕物であるのに対し、多幕物であるということも、その特徴です。これは曲亭馬琴の長編小説の劇化ですから、筋を追って、主たる場面・面白い山場をピックアップして劇化していくならば、自ずと多幕物となるということは、もちろんあります。ところで多幕形式の芝居というものの・多幕たる意味は、どこにあるのでしょうか。この点については「近松世話物論〜歌舞伎におけるヴェりズモ」で触れましたが、古典悲劇においては英雄が破滅していく過程を因果論的に論理的に積み上げていく、そのために多幕形式が必要となるのです。そうすることで主人公が悲劇的状況に陥ることを「然るべき・やむを得ないことだ」と観客は納得することができるわけです。そう考えるならば、三島の歌舞伎「椿説弓張月」には、時代物の悲劇たる大事な要件が欠けていることが分か ります。
それは歌舞伎「椿説弓張月」では、主人公源為朝はある状況において悲劇に落とされるという・その過程を描いているのではなく、為朝は芝居の最初から悲劇の主人公として「在る」ということです。歌舞伎「椿説弓張月」の上の巻は伊豆国大嶋の場であって、保元の乱で負けて、伊豆大嶋に流された流人となって 以降の為朝を描いています。三島は、馬琴の小説の前半部分、そこは歴史物語「保元物語」に取材し・多少の誇張はあっても大筋において史実に乗っ取った部分であるわけですが、その部分をばっさりカットしてしまいました。
為朝は強弓において無双の豪の者とされ、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎を称しました。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦しま した。この時、為朝は敵陣に夜討ちをかけることを進言しますが、左大臣・藤原頼長に退けられました。ところが逆に敵方が夜討ちをかけてきて、そのために崇徳上皇方は敗退してしまいます。つまり為朝の進言が入れられていれば崇徳上皇方は勝ったかも知れないわけで、こうして為朝に「あともうちょっとのところで勝利が実現するというところで、勝利がスルリと逃げてしまう」悲運の武将のイメージが出来上がります。史実の為朝は、配所の大嶋において国司の命に従わず伊豆諸島を支配しようとしたため、追討を受けて自害したとされています。しかし、民衆はその死を惜しんで、実は為朝は追討を逃れて現在の沖縄に渡って・為朝の子が琉球王家の始祖舜天となったという伝説がいつしか生まれました。馬琴の小説の後半部分は、この大嶋以後の為朝伝説を基にして馬琴一流の空想を展開したものです。
『英雄為朝はつねに挫折し、つねに決戦の機を逸し、つねに死へ、「孤忠への回帰」に心を誘われる。彼がのぞんだ平家征伐の花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。』(三島由紀夫・「弓張月」の劇化と演出・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
三島の歌舞伎「椿説弓張月」は、馬琴の小説の・大嶋以後の為朝を取り上げています。つまり、馬琴の小説の前半部分をバッサリ切り落とすことで、為朝の英雄たる描写をほとんど捨てています。三島は、主人公為朝の悲劇のドラマを描いているのではなく、主人公為朝の・悲運たる有様、夢は描いても決して実現はされない、夢が実現するかと思った瞬間にスルリと彼の手から逃げてしまう」という悲運の状況だけを描いているのです。
つまり、歌舞伎「椿説弓張月」には、時代物の悲劇たる大事な要件が欠けていることになります。このことは歌舞伎の時代物として見た場合、腹にグッと来る悲劇の重みを実感させてくれないということになります。序幕は院本風の重々しい体裁を取ってはいますが、極論すれば、そこにドラマがないのです。もちろん三島ほどの天才が、このことを分からないはずがありません。分かっているから、三島はこの作品を見せ場の連続にしようとしました。三島の言を引きます。『上の巻は、ギュウギュウ詰めにできたいわば「悲劇の缶詰」である。中の巻は、これに反して、一場一場に見せ場を設け、白峰の場の亡霊出現にはわざとプリミティヴなトリックを用い、又、木原山中山塞の場では、大嶋配流以前の武藤太処刑のエピソードをここへもってきて、馬琴らしいグロテスク趣味を横溢させ、さらに颱風のシーンでは、文楽語りによるスぺクタキュラーな場面を拵えた。下の巻では、夫婦宿の場で再び沈滞して、わざと古くさい、やりきれないほどねちっこいモドリの場面を描き、故意に「ト書き浄瑠璃」くさい浄瑠璃の文句を書き、一転して大詰では、澄んだ詩情を示して、為朝の清爽な人格を際立たせようと試みた。』(三島由紀夫・「弓張月」の劇化と演出・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
しかし、たとえ見せ場があったとしても、見せ場が見せ場としてぽっかり浮かんだままで、それが悲劇の結末へ向かって繋がっていかないのです。それぞれの見せ場が、乖離しています。見せ場が見せ場として機能せず、空虚さを漂わせることになります。これについては、三島との対談で作家石川淳が「実に作者というものはお気の毒だと思った。役者なんてものはないですね。脚本を生かすなんてものじゃない、なにかあり合わせの芸ですね。受け止めるというか、こなしているだけでね、芝居でもないし、歌舞伎ですらない。だから大道具をほめるしかない、あの船は大きかったというような」と率直かつ正直な感想を述べています。(三島由紀夫・石川淳対談「破裂のために集中する」・昭和45年) これはまったくその通りなのです。ただしそれは役者の責任でもありますが、確かに脚本のせいに違いないのです。これに対して三島は「おっしゃる通りです。僕は悪戦苦闘しましたが。哀れですね、作者というものは。」と力がない返事をしています。
それでは三島の歌舞伎「椿説弓張月」は失敗作なのでしょうか。吉之助は、そのようには考えません。歌舞伎「椿説弓張月」は、あらかじめ悲劇になることを拒否されたドラマだと云うべきなのです。吉之助は、そこに三島の歌舞伎「椿説弓張月」の前衛性を見ます。それゆえ歌舞伎「椿説弓張月」は、あらゆる見せ場を取り込んで膨張して行きます。これは形式的な面から見たところの、過剰性だということです。実は、そこに歌舞伎「椿説弓張月」の現代性があるのです。擬古典形式をとっており ・時代錯誤の作品に思えるかもしれませんが、実はそこが昭和の新歌舞伎たる所以です。(このことはクラシック音楽における古典形式の完成形であるはずだった交響曲が、その後、合唱を取り込んだり(例:ベートーヴェンの第九番「合唱」)、協奏曲風になったり(例:ベルリオーズの「イタリアのハロルド」・ラロのスペイン交響曲)、 オラトリオ的要素を取り込んだり(例:マーラーの第8番「一千人の交響曲」)して変容していくことにも似ています。)
三島ほどの天才の仕事です。歌舞伎「椿説弓張月」をあらかじめ悲劇になることを拒否されたドラマであるとして、見せ場が乖離した空虚な作品に意図的に仕立てたと、吉之助は考えているのです。このことは、三島作品として見た場合に、どういうことを意味するでしょうか。再び三島の言うことを引いてみます。
『英雄為朝はつねに挫折し、つねに決戦の機を逸し、つねに死へ、「孤忠への回帰」に心を誘われる。彼がのぞんだ平家征伐の花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。 あらゆる戯曲が告白を内包している、というのは私の持論だが、作者自身のことを言えば、為朝のその挫折、その花々しい運命からの疎外、その「未完」の英雄のイメージは、そしてその清澄高邁な性格は、私の理想の姿であり、力を入れて書いた・・・・』(三島由紀夫・「弓張月」の劇化と演出・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
「あらゆる戯曲が告白を内包している」ならば、心情的に為朝が当時の三島の気持ちと重なることは明らかです。
『われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待とう。』(三島由紀夫:「激」・昭和45年11月25日)
昭和45年11月25日の三島の自決の時、吉之助は中学生でしたが、当時の報道は鮮明に記憶しています。吉之助には三島の目的はよく分からぬけれども、恐らく三島はその演説を聞いて自衛隊が立つなどということは まったく期待していなかったと思います。三島の考えていたことはむしろその逆で、三島は「その期待はつねに裏切られ、つねに挫折し、そのたび機会を奪われる」と思っていたと思います。歌舞伎「椿説弓張月」を読めば、吉之助には、そのように思われます。
(H26・1・14)
歌舞伎「椿説弓張月」最後の場面は、運天海浜宵宮の場となっています。すでに平家一門は西海に没し、為朝は「君父の仇亡びては、われ亦誰を仇として討つべき・・」と嘆きます。自らの手で崇徳院と父為義の仇・平家を討つという為朝の悲願は機会を失して、またも実現されなかったのです。こうなっては為朝の残る願いは、崇徳院の御陵に詣で腹掻き切って死ぬことだけ しかない。為朝が祈ると、にわかに沖に白波が立って白馬が現れます。為朝は「これぞまさしく白峯よりお迎えの神馬と極まったり」と喜んで、神馬にまたがって、「必ず嘆くな、葉月も末の夕空に、弓張月を見るときは、この為朝の形見と思やれ」と一同に別れを告げて去っていきます。
これが歌舞伎の最終場面ですが、聞くところでは三島には、神馬にまたがった為朝が馬ごと宙乗りをするというアイデアがあったそうです。ちなみに三代目猿之助(現・二代目猿翁)が「 四の切」の狐忠信で初の宙乗りを行ったのが昭和43年(1968)4月国立劇場のことでした。三島の思い描いたアイデアは、花道上客席をはるかに飛ぶのではなかったかも知れませんが、人を乗せた馬をワイヤーで釣り上げることは、当時は技術的な問題があって実現出来なかったようです。神馬にまたがった為朝の宙乗りは、その後、平成14年(2002)12月歌舞伎座での猿之助の為朝によって実現されました。猿之助の為朝は、花道上を高く舞い上がってはるか三階客席へ消えました。
ところで吉之助が見たこの時の猿之助の為朝の印象ですが、最後の場面の宙乗りは如何にも猿之助歌舞伎らしいカラッと明るい幕切れでありましたねえ。客席は拍手喝采。きっと猿之助の為朝は新たな冒険を求めて新天地を目指して飛翔するのでありましょう。「信ずれば必ず夢はかなう」というスーパー歌舞伎「新・三国志」での孔明の台詞を思い出しました。この時の雑誌に、スペクタクル性をふんだんに取り入れた三島の「椿説弓張月」がその後の猿之助のスーパー歌舞伎の出発点であったと感激した劇評が出たようです。まああの幕切れならば、そういうご感想が出るのも分からなくはないです。しかし、「三島さんは歌舞伎のことを本当にはご存知なかったから、おかしいことや滑稽なことが多かったですよ」と薄ら笑いを浮かべていた猿之助のスーパー歌舞伎の原点が三島の「椿説弓張月」だったとするならば、これはずいぶん面妖なことです。
吉之助は、猿之助は三島の「椿説弓張月」の最終場面の意味を百八十度変えてしまったと思います。「歌舞伎ってのはそんなもんじゃないんだよ、こうすればもっと面白い歌舞伎に出来るんだよ」と言って中身を作り変えてしまったのです。昭和44年11月国立劇場での初演の時、中の巻・薩摩海上の場で・海に投げ出された高間夫婦が大岩に辿り着き・そこで壮絶な自害を遂げます。猿之助が演じる高間太郎は腹に大量の血糊を入れた袋を巻き付けて・刀を刺すと・そこから血がピューピューと吹き出して、この場面は当時の週刊誌でも「ハラキリ決定版」などの見出し付きで話題となりました。しかし、この場面については、寺山修司との対談で三島は、「あれは猿之助の工夫で、ぼくは、あんなに血を出す気はなかった」と語っています。(寺山修二・三島由紀夫対談:「エロスは抵抗の拠点になりえるか」・昭和45年7月)結局、猿之助はこの作品の表面的なスペクタクル性のみを受け入れて、三島を理解することはなかったと思います。三島が為朝について書いている次の文章を見てください。
『英雄為朝はつねに挫折し、つねに決戦の機を逸し、つねに死へ、「孤忠への回帰」に心を誘われる。彼がのぞんだ平家征伐の花々しい合戦の機会は、ついに彼を訪れないのである。 』(三島由紀夫・「弓張月」の劇化と演出・昭和44年11月・国立劇場プログラム)
曲亭馬琴の原作「椿説弓張月」残篇巻之五には、神馬に乗って去った為朝の後日談が記されています。讃岐国白峯の崇徳院の御陵を守る護衛が腹を十文字に掻き切った武士が御廟の柱に身を寄せて息切れているのを発見します。国の守護がその鑑定に向かいますが、従者のひとりが死人の面を見て、「怪しやこの者の面影は筑紫の御曹司(為朝)に似たり」と言います。これを聞いて皆はどっと笑い、「為朝はその昔大嶋で自害したはずだ・どうせこれは平家の残党だろう」と言って誰も信じません。その後、かの死骸は忽然と消え失せて、行方がまるで分らなくなってしまい、人々はこれは狐狸の仕業ではないかと噂したとあります。
このエピローグが述べているところは 、スーパー歌舞伎の「信ずれば必ず夢はかなう」という宙乗りとは、まったく似て非なるものです。ここには絶対の孤独があります。吉之助は、「椿説弓張月」最後の場面の宙乗りには、「孤忠」が凝縮されなければならないと思います。幸運は決して為朝に巡って来ることはない。願望は実現することはなく、決して報われることはない。しかし、為朝は決して絶望しているのではありません。それでもおのれの信じるところに向かって進んでいくという気持ちを持っているということです。為朝にとっては、腹を掻き切るという行為でさえ、自己の信念を貫く前向きな行為です。死んでなお一層激しく生きるということです。それは悲しいまでに孤独で、身体にツーンと来るほど冷たい感触なのだけれど、失ってしまってはならない大切なものがそこにあるような気がする、そのようなものなのです。「椿説弓張月」では崇徳院・あるいは父為義への思いが繰り返し何度も語られますけれども、ここでの「孤忠」というものを、封建概念的な忠義という風に読むことは適切ではありません。それは自分の信じるものに対する忠であるという風に捉えた方がよろしいのです。そのように考えれば、それはまさに吉之助が云うところの「かぶき的心情」であることが明らかなのです。かぶき的心情があるのならば、それは確かに歌舞伎です。
ところで、幕切れの為朝の「必ず嘆くな、葉月も末の夕空に、弓張月を見るときは、この為朝の形見と思やれ」という台詞は、馬琴の原作の同場面にはないもので、これは三島の創作です。「月」というキーワードは、当時の三島が並行して取り組んでいた 遺作「豊穣の海」・四部作の題名にもあるものです。「月」というところに何か共通したイメージがあることが想像されます。これは別稿「三島由紀夫と桜姫東文章」で触れたことですが、改めて記しておきたいと思います。
「豊饒の海」という題名については、月にある窪地の名前から付けたということを、三島自身が書いています。はるか彼方の地球から見れば、それは満々と水を湛える豊かな生命の海のように見えるが、実はそこには何もなく・荒涼たる石と砂の平原だけが続きます。だから、それは虚無であり・不毛であり・幻であり・絶望を象徴している、それが小説「豊饒の海」の主題であると書いている評論が実に多くて、これがほぼ定説となっているようです。しかし、そのように考える方々は、石ころだらけの草木も生えない不毛の平原が、視点を変えれば(つまり遠くから見る人が見るならば)、それはやはり豊かな生命の海であるという「真実」をお分かりではないのです。そのように読んでしまうと、「豊饒の海」の最終場面の意味が全然変わってしまうと思います。三島は「月」を不毛の象徴として見てはいないという証拠を挙げておきます。
『こうした濃紺の夏富士をみるときに、本多は自分一人でたのしむ小さな戯れを発見した。それは夏のさなかに真冬の富士を見るという秘法である。濃紺の富士をしばらく凝視してから、突然すぐわきの青空へ目を移すと、目の残像は真白になって、一瞬、白無垢の富士が青空に浮かぶのである。いつとはなしにこの幻を現ずる法を会得してから、本多は富士は二つあるのだと信じるようになった。夏富士のかたわらには、いつも冬の富士が。現象のかたわらには、いつも純白の本質が。』(「豊饒の海」・第3巻・「暁の寺」)
三島が言いたいことは、そこに豊かな生命の海があると信じるからこそ、我々は月を憧れ続けることが出来るということなのです。たとえもしかしてそれが不毛の地であったとしてもです。逆に歌舞伎「椿説弓張月」の幕切れにおいては、為朝の思いは「信ずれば必ず夢はかなう」というような明るい様相を呈することは決してないのです。そこには常に暗さが漂っている。「たとえそれが虚しいことであったとしても・・・」という悲壮感が漂っていなければなりません。そうでなければ三島作品には決してなりません。
歌舞伎「椿説弓張月」のスペクタクル性というものは、形式上から見たところの過剰性であるということを先に書きました。それは空虚さ・不毛さを象徴しています。石川淳が指摘している通り、「芝居でもないし、歌舞伎ですらない。だから大道具をほめるしかない、あの船は大きかったというような」というようなものです。ドラマ性と結び付かなければ、スペクタクルというものは、そういうことになるのです。三島ほどの天才がそういうことが分かっていないはずはない。だから意図的にそういる振りをしていることになるでしょう。ですから作品が呈する感触は直截的にはそんなところにあるのだけれど、読み手はそのような空虚さ・不毛さのなかから豊饒さを引き出して読まねばなりません。それでないと作品を読んだことにはならないのです。舞台では決して実現されることはないでしょうが(多分それが可能なのは映像においてのみでしょう)、白馬に乗った為朝は弓張月の方向へ向かって飛んで行き、やがて点となって消えていく、そのようなイメージが正しかろうと思います。そして、その思いは三島自身の最後の「激」においても、多分、同じことなのだろうと思っています。
木谷真紀子:三島由紀夫と歌舞伎(翰林書房)
追記:昭和44年11月国立劇場での「椿説弓張月」初演については、こちらをご覧ください。
(H26・1・19)