吉之助の雑談28(平成27年7月〜12月)
○ワレリー・ゲルギエフ/ミュンヘン・フィル来日公演2015年
急に思い立ってワレリー・ゲルギエフ指揮ミュンヘン・フィルを聞いてみるかと思って調べてみたらたまたま切符が残っていたので、12月2日の演奏会(サントリー・ホール)に行って来ましたので、その感想をメモしておくことにします。「思い立って」と書いたのは、ゲルギエフがミュンヘン・フィルの首席指揮者に就任したのはこの9月からのことですが、当初の吉之助の印象は現在最も多忙な指揮者のひとりであるゲルギエフとミュンヘン・フィルの組み合わせというのがどうもピンと来なかったせいで、なかなか切符を買えずにいたせいでした。ゲルギエフはマリインスキー劇場管弦楽団との長年の組み合わせではロシア的な濃厚な色彩感覚を持った名演奏を展開して来たわけですが、ミュンヘン・フィルというのは渋く重厚なドイツ的感覚を持ったオケで、(日本人のイメージからすると)ベルリン・フィルのようなインターナショナル的印象よりはローカルな印象が強いわけです。ゲルギエフは2007年からのロンドン交響楽団の首席指揮者のポストもそれなりの成果を挙げて来たと思いますが、今回は何だかちょっと奥に引っ込んだ感じがしなくもありません。日本人にとってはミュンヘン・フィルというと未だにチェリビダッケの印象が強いと思います。しかし、よく考えてみるとチェリビダッケが亡くなったのは1996年のことで、この後、首席指揮者はレヴァイン・ティーレマン・マゼールが勤めて、ゲルギエフは四人目なのですね。そうするとインターナショナル・オケへの飛躍を志向するミュンヘン・フィルと、新たな音色のパレットを以て新境地を拓きたいと考えるゲルギエフと思惑が一致したということなのかなと、何となく思い直した次第。今回のプログラムは新しいコンビの相性を確認するのには良い曲目ですから、急に思い立って演奏会に行ったというわけです。
最初のプロコフィエフ・「ロメオとジュリエット」からの抜粋は、ゲルギエフにとっては得意のお国もの、ゲルギエフがオケを完全にリードできる曲です。冒頭の「キャプレット家とモンタギュー家」ではミュンヘン・フィルの低弦の良く効いた・渋く重厚な音色が効果を上げて、オオッと思わせました。当然ですが、ミュンヘン・フィルのことだからリズムは重めになります。だからロメオとジュリエットの悲劇の軋みが、重さを以て突き刺さるように聞こえます。これは悪くありません。ミュンヘン・フィルはゲルギエフの棒によく付いて行っているようです。この印象は次のR・シュトラウス・交響詩「ドン・ファン」では確信に変わりました。テンポをやや速めに取り疾走する感じでしたが、暗めの重厚な響きが渦巻く・これがドイツのオケの響きだなあというR・シュトラウスを聞いたのは久しぶりのことで、この演奏には吉之助は心底満足しました。
ブルックナーはチェリビダッケとミュンヘン・フィルのコンビの看板レパートリーで、その遅すぎるテンポが再三話題となったものでした。逆にゲルギエフというとブルックナーのイメージがあまりありません。今回の第4交響曲が興行主の意向だったのか・本人の希望なのかは知りませんが、これはゲルギエフとミュンヘン・フィルとの相性を読むうえで興味あるところで、果たしてどんな感じになるかという不安も多少 あったのですが、今回はまあオケの個性が勝つだろうなということは予想が付きます。ゲルギエフの演奏は快速テンポで、そこはもちろんチェリビダッケとは全然違います。ジェットコースターのように曲の起伏を滑走するような感じでしたが、前半・特に第2楽章はまだちょっと曲の流れをつかみ切れていない感じがありました。しかし、後半からはフォルムがぴしっと決まった感じで、ダイナミックな動きが堪能できました。第3楽章はそのリズム処理を面白く聴きました。今回は確かにオケ主導であったかも知れませんが、ゲルギエフとミュンヘン・フィルの個性が互いに触発し合って、このコンビは今後はマリインスキー劇場管弦楽団とひと味違ったゲルギエフの新境地を見せてくれるのではないかと大いに期待したいと思います。
(H27・12・14)
○平成27年12月歌舞伎座・「妹背山婦女庭訓・御殿」・その2
松緑の鱶七はこれが3演目ということになります。だいぶ練れて来たようで、後半の鱶七の二度目の出(外見は鱶七のままですが・性根はもう金輪五郎になっているわけです)からは文句なく良い出来であ ったと思います。立派な時代物役者の風格が見えました。しかし、前半の鱶七についてはまだ改良の余地がありそうです。妹背山・御殿は時代物だから鱶七は時代の人物 である ・だから線が太い感じで押し通すべきだと考えるならば、これでも十分な出来だと評価する方もいらっしゃることかと思います。しかし、松緑の鱶七を見ると前半と後半の鱶七の印象にあまり差が見えません。吉之助が見るところでは、これでは物足りない。前半の鱶七 にもっと世話の味を濃くした方が良い。世話の軽みを出すことで鱶七の演技のダイナミクスを大きくできます。これが後半の鱶七 ・つまり金輪五郎のスケールの大きさを表出する時に効いて来るのです。
為政者の立派な宮殿に漁師の成りをした者が闖入してくる、この奇妙さを考えて欲しいと思います。「どうしてこんな男がこの場所にいるんだ」という不自然さ・ミスマッチングがこの場の面白さです。 漁師鱶七とは一体どういう男なのでしょうか。庶民の恰好をしているということは善方ということでしょうか。しかし、それは表面的にそう見えるだけのことであって、後半に金輪五郎の正体を顕わすところを見れば、入鹿とは立場は違えど、結局、庶民感覚から縁遠い冷たい政治の世界の同じ穴のムジナなのです。「妹背山・御殿」では訳の分からないことばかり が起こります。豆腐買もそう。いじめ官女もそうです。御殿の世界は、正常な感覚の庶民(ここではお三輪)から見れば、どこかズレた・捻じれた異常な世界です。そのような場において、前半の鱶七が 御殿の額縁にぴったりとはまる時代の様相を呈するのでは、ちょっと不満を感じますね。そこに世話の様式によって亀裂を強く入れて見せることで、御殿の世界の欺瞞をもっと明確なもの にできるでしょう。松緑の前半の鱶七は時代と世話の活け殺しを強くすることで、さらに良いものにできます。次いでながら、吉之助は平成27年9月歌舞伎座の松緑の髪結新三について注文を付けましたが、吉之助の言いたいことはどちらも同じことであって、大事なことは時代と世話の揺れ動きなのです。そこが松緑の当面の課題です。前半の鱶七が巧く出来るようになれば、髪結新三もきっと良くなるはずです。
(H27・12・10)
○平成27年12月歌舞伎座・「妹背山婦女庭訓・御殿」・その1
玉三郎にとっては平成24年1月・ル テアトル銀座以来のお三輪ということになります。このところ歌舞伎座に集中的に出演して大役を次々に演じているのは、体力・技芸のバランスにおいてピークにあると思われるこの時期にひとまず区切りを付けておこうということかと理解します。10月歌舞伎座での政岡・11月歌舞伎座での阿古屋を見てつくづく感じることは、玉三郎が役の心持ちを重視し・これを裏打ちとして「型」(つまり演技)を積み上げて行くこと、つまり「型とは心だ」ということを身を以て同じ舞台に立つ若手に示そうとしているということです。「どうしてこの役にこんな型があるのか・それは役にこのような心理の綾があるからそれ が型にこんな風に反映する」というようなプロセスです。しかし、それは心理主義的に自分なりの演技手順を突き詰めていくということではなくて、先人の型がまずあって・それを踏まえたうえで・玉三郎はその心理的な裏付けを求めているのです。この点において玉三郎は変革者ではありません。一方、玉三郎は論理(ロジック)の人であるようです。(そう云えば、どこかで玉三郎が「私は意外と理科系なんです」という趣旨のことを書いていたのを読んだ記憶があります。)だから論理の積み上げの過程で・これでは自分をこの役が演じられないと感じた時には、玉三郎は型を変更することを躊躇しないようです。例えば10月の「「先代萩・御殿」で小槙が八汐の悪事を暴露するように筋を変えた件などがそうです。今回のお三輪の疑着の相の件もそうです。玉三郎の心持ち重視はこのようなふたつの様相で現われます。しかし、それは同じところから発しています。それは心理的な裏付けのあるリアリズムなのです、
お三輪は玉三郎にとって仁の役です。恋する娘の気持ちとそれが裏切られる哀れさが等身大で表現できています。「それでこそ天晴れ高家の北の方」と持ち上げられてもホントはお三輪には実感が 全然ないのです。それでもお三輪は「たとへこの世は縁薄くとも、未来は添ふて給はれ」と自分に言い聞かせながら死んでいきます。そこに時代物の「・・然り。しかし、それで良いのか」という懐疑が生まれます。それは玉三郎の心持ちを裏打ちした行き方がリアルな重みを以て観客にしっかり伝わってくるからです。前回(平成24年1月)のお三輪の疑着の相表出の過程については、吉之助は若干不満を書きました。今回(平成27年12月)の玉三郎のお三輪でもその手順にさほど変化があったと見えませんでしたが、今回、吉之助が感じたのは落ち入りの時のお三輪の心理描写が良ければ、疑着の相の件はそう大した問題ではないのだなあと思えたことでした。疑着の相はどこにでもある村娘のほのかな恋心を無理やり時代物の論理に結び付けるための装置に過ぎない、そのように素直に思えたのは、それだけ玉三郎のお三輪の落ち入りがリアルに儚く感じられたからでしょう。(この稿つづく)
(H27・12・8)
○海老蔵初役の河内山・その3
実説の河内山は文政6年に捕らえられて獄死しました。一説に拠れば河内山は水戸藩が財政難のために官許のない富くじをしていたことをネタに同藩をゆすったため捕らえられ、口封じで毒殺された らしいとも云われています。大名を強請るということは、生半可な覚悟ではできない、命を懸けた行為なのです。黙阿弥の「天衣紛上野初花」で河内山が松江候を強請るエピソードも同様に考えた方がよさそうです。
ところで歌舞伎の「河内山」の幕切れが、九代目団十郎のやり方から現行の「バァカァメエェェ、ガハハハ・・」に変わっていった過程については、時代が下って江戸のリアルな生活感覚が次第に薄れて来たことが背景にあると思いますが、もうひとつ、品格のある高僧が正体を見破られると一転して威勢よく啖呵を切るという・イメージの落差を大きく付けて、芝居をもっと面白く見せてやろうという意図が働いているでしょう。確かに玄関先の場面の勘所はそんなところにある かも知れません。そのせいか 近年の河内山は愛嬌が勝って「生意気なお殿様をちょっとからかってやったぜ」という悪戯感覚にも見えて、強請りという行為が軽く見えてしまう感じがします。十七代目勘三郎の場合は持ち前としての愛嬌が良い方に作用していましたけれど、それを覚えている後の役者が愛嬌を前面に押し出そうとするとちょっと間違うようです。「悪につよきは善にもと」という台詞は、権力者に反抗して弱きを助け強きをくじくという義賊の心意気を示すものなのですから、もう少し線が太くありたいものです。
海老蔵初役の河内山ですが、白書院で上野輪王寺宮の御使僧に化けて登場したところは、水も滴るようで、確かに延命院日当を思わせる艶やかさです。しかし、声の甘ったるい遣い方にどこか「皆さん、ご存知ですよね、ボク、化けてるんだよ」という愛嬌を感じますね。まあ海老蔵がこうしなければならないのは前場の質見世がカットされているせいもあるでしょう。質見世がないから河内山が松江候の屋敷に乗り込む経過が 観客によく分からない。だから観客のために最初から尻尾を出しておかねばならないということになるのです。これは場割りに大いに問題がありそうです。やはり「河内山」では質見世から出す様にしてほしいと思います。
玄関先の河内山については、平成の時代には「バァカァメエェェ、ガハハハ・・」が定型なのですから、吉之助は別に海老蔵に九代目団十郎のやり方でやるべしと言うつもりはありません。それにしても、有名な「悪につよきは善にもと・・」の七五調の長台詞は、海老蔵に限らず・どの役者の河内山も、吉之助の耳には写実に聞えませんね。もしかしたら背後から切りつけられるかという状況での長台詞は、のんびり様式美に浸って歌うなんてことであって良いはずがありません。海老蔵の七五調はねっとり伸びたような感じがします。もう少し台詞に勢いが欲しい。七五調をどう言えば写実にできるかは別稿「七五調を写実にしゃべるためのヒント」に触れましたから、ここでは繰り返しません。「これが黙阿弥の様式美だ」という思いこみを排除しないと、歌舞伎の黙阿弥物はますます形骸化したものになりかねないと思います 。
(H27・12・3)
○海老蔵初役の河内山・その2
この芸談についてはまだ考えてみなければならないことがあります。それは「河内山」の初演が明治14年3月・東京新富座であったということです。この芝居が企画されたのは、この年3月1日から上野で第2回内国勧業博覧会が開催されることになっていたので上京する人々を当て込んだのですが、もうひとつ、この明治14年の前後数年間の大事なポイントは演劇改良運動の機運が最も高かった時期だということです。演劇改良運動というのは、歌舞伎の荒唐無稽な筋立てを排して貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な筋書きにして、作り話(狂言綺語)をやめようという動きで、役者では九代目団十郎がその先頭に立っていました。演劇改良協会の重鎮・末松謙澄・依田学海など学者連中の批判の矛先はつねに旧劇(歌舞伎)の権化というべき黙阿弥でした。対する黙阿弥も「天衣紛上野初花」は講談ネタとは云え、本作では筋の荒唐無稽を排し・人情を機微細やかに描いた辺りに演劇改良推進派の批判を 強く意識していたことが明らかです。黙阿弥は黙阿弥なりの手法で彼らの批判に対処したわけです。そして本作で河内山を初演した団十郎も、この時期の演劇改良運動の影響が演技に何かしら反映したと想像して良いはずです。
『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)
明治初期という時代は、民衆は江戸の封建社会から解き放たれて自由を感じ、変革の気分が自ずと湧き上がるような時代でありました。そのような時代の気分を表現する為には団十郎の芸風が最もふさわしいもので した。それが「肚芸」と呼ばれる、言葉を少なくして・演技を簡潔にして余韻を持たせる団十郎の演技でした。例えば従来の歌舞伎ならば「夢であったか」と七五調に口調を揃えるところを「夢か」と簡潔に言い切る、それでいて大雑把な演技にならずに・感情がこもった太い芸を見せ ました。
この時期の団十郎が演劇改良運動に熱を上げていたことを考え合わせれば、団十郎が河内山を「バカ」とひと言いって意気揚々と花道を去って行ったということは、なるほどそうだろうなあ・ ここは団十郎ならばやはりそうやるべきところだなあと感じますねえ。幕切れのひと言というのは芝居の勘所です。ここを七五調の息で「バァカァメエェェ」なんて言うのは、間延びした感じで団十郎には何だかそぐわない。それは演劇改良協会の連中が嫌うところの、いわゆる旧劇の言い回しだからです。ここのところは強調しておきたいと思いますが、型の心を学ぶということは例えば団十郎なら団十郎の発想を学ぶということです。団十郎ならば肚芸・簡潔というところがキーワードです。そのコツさえ分かれば、団十郎ならばここはこうやったかなあということが何となく想像できるようになります。(この稿つづく)
(H27・11・29)
○海老蔵初役の河内山・その1
吉之助が師匠と仰ぐ武智鉄二の思い出話ですが、いつ頃のことか・その昔・関西の巡業で市川三升の「河内山」の舞台を見たことがあったそうです。三升のことをご存知ですか。三升は死後に十代目団十郎を追贈されましたが、九代目団十郎の娘婿で元・銀行員でした。九代目が跡継ぎのないまま亡くなりましたので 、成田屋の伝統を絶やしてはならぬということで・使命感で脱サラして中年で役者になったのです。後に七代目幸四郎の長男を養子にすることができましたから、それがつまり十一代目団十郎ですが、立派に中継ぎの役目を果たしたわけです。しかし、中年になってからの役者でしたからもちろん技芸的には心もとないもので、成田屋の旦那ということで立てられはしましたが、歌舞伎座ではあまり役を付けてもらえず、地方巡業などで舞台に出ることが多かったようです。その三升演じる河内山のことです。幕切れで松江候を嘲笑うところで、誰もが「バァカァメエェェ、ガハハハ・・」とやるところを、三升はただ「バカ」と言って・声も立てずに鼻で笑うので、武智はやっぱり台詞が言えない役者は駄目だなあと思ったそうです。ところが、後年、そのことを七代目三津五郎に話したら、三津五郎は「九代目はそうやったんです」と言ったので驚いたというのです。三津五郎はこう言ったそうです。「波野(初代吉右衛門)のあの幕切れの笑いはいけませんよ。かりにもお数寄屋坊主とお殿様ですから品良くなければ。堀越(三升)は九代目のやることをそっくりそのままやっているのでございますよ。ただ、できないだけでございましてね。」
黙阿弥の「天衣紛上野初花」は明治14年3月・東京新富座で、九代目団十郎の河内山宗俊・五代目菊五郎の片岡直次郎などにより初演されました。その後、河内山は七代目幸四郎・初代吉右衛門らに受け継がれ、現在に至ります。まあ九代目がそうやったからと云って、後継が同じようにやらなければならないものでもありませんが、幕切れの花道での河内山は九代目はただ「バカ」と言うだけで張り上げもせず・高笑いもしなかったというのです。それがいつの間にか「バァカァメエェェ、ガハハハ・・」とやるようになったということです。確かにこの方が芝居としては痛快で・溜飲が下がると感じる方も少なくないと思いますが、 芝居としてどちらが面白いかというのは本稿での話題ではありません。どうして九代目はただ「バカ」と言うだけで張り上げもせず・高笑いもしなかったのかということを考えたいのです。
河内山宗俊(正しくは宗春)は十一代将軍家斉の時代の実在の人物で、お数寄屋坊主というのは茶道に通じた奥坊主のことです。将軍主催の茶会を仕切ったり・将軍の周囲の人たちに茶道を指導したりしました。身分は高いわけではないのですが、将軍に近いところにいるから・別に権限がなくても「ご直参だ」と威張れるわけです。だからその地位を利用して怪しげなことを働く人物もいたかも知れません。例えば河内山です。芝居での河内山は上野輪王寺宮の御使僧に化けて松江候の屋敷に乗り込みますが、宮の格式は徳川御三家並・時にはこれを越すほどであったということですから、大名でも頭が上がらないほどの権威がありま した。御使僧に化けるためには、故事来歴や和歌の薀蓄やら細かい約束事にも通じていなければ、たちどころに見破られてしまいます。だから河内山はただの大胆不敵なならず者ということでなく、それなりの教養人だということです。ですから芝居では松江候に対してまんまとしてやったということですが、 河内山にはそれなりの品位が必要です。大名に対し「ざまあ見やがれ、バァカァメエェェ、ガハハハ・・」と嘲笑 って家来たちが居並んでいる前で恥をかかせるなんてことをするはずがないのです。かりにもお数寄屋坊主とお殿様ですから品良くなければ。だから九代目はただ「バカ」と言ってちょっと鼻で笑うだけで済ませたということ だと思います。(この稿つづく)
(H27・11・27)
○松緑初役の髪結新三・その2
黙阿弥の生世話物が重ったるく時代っぽくなるのは、別に松緑に限ったことではありません。 そのような役者は他にもたくさんいます。吉之助が思うには、昭和の終り頃から歌舞伎の黙阿弥の台詞は既にテンポが伸びて重ったるい感じでした。七五調を二拍子感覚で処理する傾向 がその頃からありました。吉之助がこれをダラダラ調と呼んでいることは、ご存知の通りです。例えば永代橋で忠七を蹴倒して言う新三の長台詞で云えば、「一銭職(いっせんしょく)と昔から下がった稼業の世渡りに、にこにこ笑った大黒(だいこく)の口をつぼめた傘(からかさ)も列(なら)んでさして来たからは、相合傘の五分と五分・・」は、この台詞を七五で割るならば、
「一銭職と(七)/昔から(五)/下がった稼業の(七)/世渡りに(五)/にこにこ笑った(七)/大黒の(五)/口をつぼめた(七)/傘も(五)/列んでさして(七)/来たからは(五)/相合傘の(七)/五分と五分(五)・・・」
ということになります。これを二拍子のダラダラ調でしゃべるならば、七音と五音の繰り返しですから、五の節が当然短くなります。黙阿弥の七五調は音楽だと云う方がよくいらっしゃいます(そのこと自体は正しいのですが ね)。この言い廻しを音楽として聞くと、五の節を早くしゃべっているように聞こえると思います。松緑の台詞もそうです。松緑は江戸前に小気味良くしゃべっているつもりでしょうが、基調のリズムの二拍子が強いので機械的な印象 です。これでは写実になりません。こういうのは時代の台詞廻しなのです。しかし、昭和の終り頃から黙阿弥の七五調はこの言い方が主流になっています。劇評家もそのことを指摘できません。演じる方も見る方も感覚が保守化して、こうすると様式っぽい感じがするのでしょうなあ。黙阿弥の様式というものは確かにあります。しかし、これは黙阿弥の七五調は七の節と五の節を同じ長さでしゃべるのが正しいのです。すると七の節を心持ち早く・五の節を心持ちたっぷりとしゃべる感覚になる。つまり七五調の台詞というのは、そのなかに緩慢なリズムの揺らぎを持っているのです。言い換えれば七が時代の感覚・五が世話の感覚、台詞のなかに時代と世話の揺らぎがあるということです。それが黙阿弥の七五調のリズムです。こういうことは六代目菊五郎の古い録音でも聴けば、すぐ分かることなのですがねえ。(このことは別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」で詳説していますから、そちらをご覧ください。)
ですから新三の七五の台詞を写実の感覚に近づけるためには、五の節をたっぷり言う時にどのように自分の感情をニュアンスを加えるかが、とても大事なことになります。例えば「昔から」という言葉はその後の「下がった稼業の」に意味が掛かっています。ところがどの役者も「一銭職と昔から」で台詞を切ってここで息を継ぎますね。これで台詞の流れが途切れてしまうという感覚が全然ないのだな。意味を考えないで台詞をしゃべっているからです。ここは「昔から」を後の「下がった」に息が続くようにイントネーションの作り方を工夫せねばなりません。「世渡りに」はここで台詞を区切っても良いですが、「世渡り」にどのような新三の心情を込めたら良いでしょうか。新三は一銭職の世渡りと言っています。これは自嘲を含んだ台詞か・胸を張って言うべき台詞か。どちらが正しいは明らかです。ここを強く張ったら時代になってしまうのです。「大黒の」は「だいこく」の二字目にアクセントが来ますから、ここで言葉を膨らませるのが良い。「からかさ」も同様に二字目にアクセントになります。「来たからは」 の箇所をどのように言うのかはとても大事なことです。その次の「相合傘の五分と五分」 は時代に張り上げていう箇所で、台詞の色合いがここで変わるからです。「来たからは」はその前の助走部分に当たるのですから、ここの言い方次第で「相合傘の五分と五分」の印象が変わって来ます。「来たからは」は「からは」の部分を少し引っ張った方が良いでしょうね。
このように七五調の五の箇所は世話の揺らぎなのですから、常に言葉にニュアンスを加える箇所であると心得てもらいたいのです。台詞を七五に割る前に、まず台詞を読んで言葉の抑揚を考えてみることです。黙阿弥は抑揚を考えて台詞を書いていると感心すると思います。五の節のニュアンスの積み重ねによって、黙阿弥の七五調を写実に出来るのです。優れた役者がしゃべる台詞は音楽的に聞こえるものです。台詞を音楽に乗せるのではありません。言葉の自然な抑揚が音楽の感覚を生むのです。「黙阿弥の七五調は音楽である」ということをそのような意味で云うのならば、吉之助はこれを認めるでしょう。その辺を工夫できれば、松緑の新三の印象も随分変わってくると思いますが。
(H27・11・10)
○松緑初役の髪結新三・その1
平成27年10月歌舞伎座・千秋楽の、松緑初役の「髪結新三」を見てきました。松緑の新三は富吉町新三内で、弥太五郎源七に甘く見られてカッと来て金を叩き返して啖呵を切る勢いに、気が短く・喧嘩早い新三の性格が良く出ていました。等身大で演じた新三に好感は持てますが、まだまだ課題が多い新三だと思います。総体に時代っぽい新三だと言えます。まあそういうところは松緑らしいとも言えますが、これが「四谷怪談」の直助権兵衛ならばまあ良しとします。しかし、これは黙阿弥の生世話狂言なのですから、もっと世話に・写実にやることを心掛けてもらいたいのです。
『世話物っていうものは人間描写なんでしょう。その面白さでしょう。だから僕は黙阿弥は世話物じゃないと思う。「三人吉三」なんか、時代物だな。「月も朧に白魚の・・」、人間がそこに出てませんよ。昔の人は、よく空っ世話っていったんですよ。空っ世話でいいねとか。いま言いませんけどね。それは要するに七五調にならないんですね。今で言う現代劇ですね。』(宇野信夫の対談:「世話物談義」・「演劇界」昭和57年7月号)
「昭和の黙阿弥」と言われた作家宇野信夫が先代国太郎との対談でこんなことを言っていました。「世話物」とは本来・江戸の市井の人情・風俗を写実に(リアルに)描くものです。宇野は「空っ世話」ということを言っています。最近は「空っ世話」という言葉は死語同然ですが、要するに様式の要素が少ない・写実の芝居のことです。つまり普通の話し言葉が世話物の台詞の原点です。しかし、宇野の「黙阿弥なんて時代物だ」という主張には吉之助は首肯できませんねえ。吉之助は黙阿弥も写実を志向していると考えるからです。黙阿弥を写実に演じられない役者が悪いのです。黙阿弥のせいではありません。
「髪結新三」で云えば、永代橋で忠七を蹴倒して「オイよく聞けよ・・」で始まる七五調の台詞、あるいは閻魔堂橋で源七と対決する時の七五調の台詞というのは、これはドラマ的に盛り上がっている時の・聞かせ所の台詞ですから、当然これは様式(時代)の方向に傾いて も良い台詞です。(それでも写実に近づける手法はありますがね、それについては後述。) しかし、問題なのは、ドラマ的には日常の会話の・なにげない台詞まで七五に割って言うことです。確かにこういう台詞も黙阿弥は七五調で書いていますが、これを真正直に七五で割ってしゃべったら駄目なのです。黙阿弥は役者がしゃべりやすいように台詞を書いたので、そのご親切が結果として七五になって表れただけのことです。こういうところは作者(黙阿弥)が一番隠したい所なのですから、七五のリズムを際立たせないようにして出来るだけ台詞の息を工夫して写実に崩す、そういうことを心掛けねばなりません。そうすることで黙阿弥を世話に出来るのです。ところがいつ頃からか・歌舞伎役者は、黙阿弥は七五の様式の芝居だと決め込んで、どんな台詞も七五で割るのがお約束だと思い込んでいるのです。だから宇野のように「黙阿弥なんて時代物だ」なんてことを言う人が出て来ます。(これ昭和57年の発言ですよ。二代目松緑も十七代目勘三郎も元気だった時期の発言です。なのにどうして?ということをちょっと考えてみてください。)
白子屋見世先の場の・どこの台詞でも良いですが、例えば新三の「もし忠七さん、あなた、お隠しなさっちゃいけませんぜ、何をって、あの、お熊さんをどうするつもりでございますか」という台詞で言えば、これを「もし忠七さん(七)/●あなた●( 五)/お隠しなさっちゃ(七)/いけませんぜ(五)/何をってあの(七)/お熊さんを●(七)/どうするつもりで(七)/ございますか(七)」という風に五と七で割って言うことは、役者にとっては言いやすいかも知れませんが、二拍子の七五のリズムにどっぷり浸った時代の言い回しです。この言い回しが写実に聞こえますか。聞けばお分かりだと思います。そこは黙阿弥が一番隠して欲しい箇所なのですから、七五の調子を息次ぎの間合いで崩して、台詞のリズムをできるだけ自然な方向へ持って行くことです。それが役者の工夫の見せどころです。「粋な男になりますぜ」なんてところが聞かせ所だと言う方がいますが、「粋な男に●(七)/なりますぜ(五)」なんて言い方は「ここで掛け声ください」という言い方であって、写実に言うならばこの台詞は一息でサラリと言うべきです。掛け声されるのが嫌いだった六代目菊五郎ならばこの台詞はそう言っただろうと吉之助は思いますね。六代目の台詞は調子が良かったに違いないでしょうが、これを七五で受け取っちゃうと間違えます。
そこで松緑のことですが、松緑は声が良く通り発声が明瞭で台詞の輪郭が強めに出ますから、それで時代の印象が自然と強くなるという面もありますが、全体的な台詞の印象として二拍子で七五の割りが明確に過ぎるようで、「七五で割って言うのが黙阿弥のお約束です」と云う臭みが 強い。だから様式の感覚が強くなって、端っから時代の新三という印象になります。何度も言いますが、そういうところは作者・黙阿弥が一番隠して欲しいところなのですから、そこを工夫して如何に写実に聞かせるかが役者の仕事なのです。(この稿つづく)
(H27・11・2)
○ハイティンク&ペライア来日公演2015・その3
10月5日のブラームスの交響曲第1番の演奏は冒頭が堂々たる足取りで感嘆させられましたが、聴き終わって吉之助はいくつかの点で不満を覚えました。そのことを書く前に、1884年に若き日のマーラ―が当時バート・イシュルに滞在していた晩年のブラームス と会った時の逸話について触れておきます。手元に本がないので記憶で引きますが、マーラーの楽譜をブラームスに見てもらってしばらく談話した後、ふたりは戸外に散歩へ出たそうです。川辺を散歩している時に、マーラーが「マエストロ、ご覧ください。新鮮な川水に太陽の光が美しく輝いていますね」というような・ちょっと歯が浮くようなことを言ったらしい。するとブラームスがクルッと振り向いてこう言ったそうです。「君ィ、問題は、その水が大海へ注ぐか・それとも沼に入って淀むかということじゃないのかね。」
ブラームスはマーラーを快く思わなかったようだとされています。確かに老ブラームスはマーラーの音楽が良く理解できなかったかも知れませんが、「これからの音楽はどういう方向へ進んで行くか・マーラーの音楽がその方向を示すのか」ということを散歩している間ずっと考えていたに違いないのです。当時ブラームスの音楽は、対立するワーグナー親派から「形式・形式・形式ばっかりの、保守反動勢力の権化」と散々批判されていました が、しかし、ブラームスの音楽はまだロマン性の伸びしろがあったと思います。形式ばっかりと揶揄されながら、ブラームスは形式のなかに濃厚なロマン性を封じ込め てみせました。そこにブラームスの革新性があったと思います。(グレン・グールドならば奇態指数と云う言葉を使うところです。)形式という容器からまさにロマン性が溢れ んばかりとなって形式が危うくなる場面は、例えば交響曲第4番の第4楽章・パッサカリアなどを聴けばよく分かります。交響曲第1番で、そのようなブラームスの危ういロマン性が感じられる場面を探すならば、まず第2楽章、あるいは第4楽章の序奏第2部あたりでありましょうか。ハイティンクの演奏はまさにそこのところに欲求不満を感じます。
ハイティンクは吉之助がここでブラームスのロマン性のなかにどっぷり浸ってしまいたいと思う箇所で、インテンポでさっさっと行ってしまう感じがします。第2楽章では、マーラーでも同様でしたがコンサート・マスターのバイオリン・ソロがあっさり風味で、 ここでもかなり物足りない。もっとオケと乖離して・テンポがずれるくらいに旋律を引っ張ってもらいたいのですがねえ。第4楽章も基調のテンポをインに取ることは大事なことですが、もっと微妙にテンポを工夫してもらいたいという気がしました。 ハイティンクの解釈としては新古典主義の視座なのかも知れませんが、今回のマーラーとブラームスを聞くと、もしかしたらハイティンクには若干醒めたところがあるのかもなあとも思いました。
(H27・10・31)
○ハイティンク&ペライア来日公演2015・その2
ハイティンクについては後半プロ(9月29日はマーラーの交響曲第4番・10月5日はブラームスの交響曲第1番)もなかなか充実した演奏でしたが、吉之助はちょっとだけ気になるところがあったので、そのことを記しておきたいと思います。著名なマーラー研究家であるアンリ-ルイ・ド・ラ・グランジュが、指揮者エリアフ・インバルがマーラーの交響曲について語った言葉を紹介していました。インバルは「マーラーの交響曲は少し歪んでヒビの入った鏡みたいなもので、そこに映る像は歪んで見える。だから自分はマーラーを純粋にロマンティックなものと考えることができないのです」と語ったそうです。(アンリ-ルイ・ド・ラ・グランジュと諸井誠氏による、1986年10月来日時、「レコード芸術」誌のための座談会)吉之助のマーラーに対する考え方もインバルと同様で、マーラ―の交響曲はよく聖と俗の相克と云われますが、むしろ聖の部分が危険だと考えます。旋律が揺れ始めて、調性が無調の方へ傾斜していきます。マーラーの曲調がロマンティックに傾く時ほどむしろ危ういのです。マーラーの交響曲第4番は、彼の交響曲群のなかで清廉な印象を持ち・ちょっと特異な位置にあります。一見すると特異的に落ち着いた平和な印象があるメルヒェンティックな交響曲です。しかし、実はこういう交響曲こそ実はマーラーのメンタリティが危ういのかも知れません。
ハイティンクは長年マーラーの交響曲を得意のレパートリーとしていますが、どの演奏もバランスが取れた・良く云えば中庸で・エキセントリックなところが少ない演奏です。交響曲第4番はハイティンクにとって体質的に合った曲だと思いますし、総体においては今回の演奏も良かったと思います。全体にロマンティックでヒューマンな暖かさを保ちながら、これを古典的交響曲の枠組みのなかにしっくり納めた感じがします。まあコンセプトとしてはそれで良いのだけれど、そこにどのようにして鏡の歪みとヒビ割れをさりげなく・そっと仕込むかなのです。そこがちょっと不満です。例えば第2楽章のヴァイオリン・ソロです。このコンサート・マスター(ローマン・サイモヴィッツ)のソロはかなり物足りない。オケに溶け込んでしまって、曲に軋みを入れる感じがまったくありません。これではマーラーの意図がまったく体現できていません。 ほんのちょっとで良いので乖離感覚が欲しいわけです。第3楽章は遅いテンポで旋律をゆったり歌わせ・その意味ではロマンティックなのだが、テンポを 律儀にインに取り過ぎに感じます。旋律が高揚したところでテンポをもっと揺らす(この場合はテンポをさらに落とす・あるいは音を引き延ばす)必要があると思います。もうほんの少しのことで良いのです。そうするとロマンティックなところから裂け目が出来て、そこから真っ黒い闇が見えてくるのだがなあ。そこをイン・テンポで行ってしまうので、醒めた感じがしてしまいます。交響曲第4番では第3楽章のウェイトが異常に重いと思いますが、マ-ラーはこれで古典交響曲のバランスを意図的に崩しているのです。だから第4楽章がエピローグのように軽く聞こえることになる。この点は大事なことだと思います。ソプラノのアンナ・ルチア・リヒターは声は美しいけれど、もう少し言葉を大事にしてもらいたい。歌うというよりも語って欲しいのだがねえ。(この稿つづく)
(H27・10・29)
○ハイティンク&ペライア来日公演2015・その1
今秋、御年86歳になるベルナルト・ハイティンクがロンドン交響楽団と、ソリストにマレイ・ぺライアを同道して来日しました。吉之助は9月29日(サントリーホール)と10月5日(東京文化会館)の演奏会に行って来ましたので、その感想をメモがてら記しておくことにします。実は吉之助のお目当ては、ピアノのぺライアでした。現在のピアノ界においては、アルゲリッチとポリーニを別格として、ペライアは今聴いておくべき五人のピアニストに入ると思いますね。吉之助が推す五人 のピアニストとは、ツィメルマン・シフ・ポゴレリッチ・ルプーにペライアですが、まあ人によってお好みはあろうかと思います。
ペライアの魅力は何と言っても、そのニュアンス豊かなタッチにあります。どんなピアニストも独自の音色を持つものですが、ペライアの音色は暖かいうえに香りが立ち上るようです。この魅力的な音色で作り出す音楽が独特の揺らぎを持 っていて、旋律のすみずみまで息遣いが練れていて、聴いていてホントに落ち着きます。演奏を聴いて感嘆させるピアニストはたくさんいますが、その音楽を聴いてペライアのように心底落ち着くピアニストはそうはいません。そういうわけで、吉之助は目下のところベタ惚れに近いくらいにパライアを評価しています。しかし、ペライアは日本ではあまり人気がないみたいで、昨年のアカデミー室内管との来日もコンチェルトのみでしたし、今回の来日も滞在日数は結構長いのにコンチェルトのみで、 ソロ・リサイタルをまったく行わないというのは、何とも残念なことです。派手さに欠けるように見えるのですかねえ。ペライアはもっと評価されて良いピアニストだと思います。 まだペライアを聴いたことのない方、吉之助に騙されたと思って一度聴いてみてください。昨年のアカデミー室内管とのモーツアルトのピアノ協奏曲第21番は心が洗われるような清廉な演奏で素晴らしかったですが、今回(9月29日)のモーツアルトのピアノ協奏曲第24番も素晴らしい演奏でした。まずハイティンクのサポートを褒めておかねばな りません。当然ですがアカデミー管と比べれば重めの響きですが、序奏部からしっとり豊かで・しかしどこか暗い陰りを帯びた響き がモーツアルトのデモーニッシュな世界に引き込まれるようでした。全体のテンポはややゆっくりめでしたが、ペライアのソロ は、これがまた旋律を慈しむかのように繊細なタッチで素晴らしい。そこでこのテンポが効いてきます。旋律の息がとても深いのです。このように心の底からゆったりさせてくれる落ち着いたモーツアルトを聞くことは近頃稀な事だと思います。軽快な第3楽章でも急くところがまったくない。
一方、10月5日のベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番でのペライアは、モーツアルトとは違うペライアの一面を魅せました。かっきりとしたなかにも澄んだリリシズムを感じさせて、これも良い演奏でした。この曲は名曲であるから両端楽章はどんな演奏でもそれなりに良いものなのだけれど、第2楽章は位置付けが難しいなあと思うことがあります(第2楽章が良い演奏はそう多くはない)が、今回の演奏はここもぴったりはまっていましたね。(この稿つづく)
(H27・10・28)
○半世紀ぶりの「競伊勢物語」・その6
「春日村」のクライマックスは、信夫が琴を弾き・これが娘との最後の別れと知らない小由が衝立のかげで琴に合わせて砧を打つ、琴歌が終わると同時に有常が信夫の首をはねるという 箇所です。 音曲が感情を高める歌舞伎らしい趣向を凝らした場面です。この場面は実は安永4年の初演脚本では信夫が三味線を弾き・小由が琴を弾く形式になっていました。この場面は、その後、丸本に書き換えられた時に信夫と小由の琴を連弾きに替わり、歌舞伎でもその形式でしばらく上演がされていましたが、いつ頃からか歌舞伎では信夫が琴を弾き・小由が砧を打つように替わったということです。小由が砧を打つのは、音曲の嗜みのない田舎の婆さんが娘 が都へ上る晴れの日のために・有り合わせの砧を手に持って信夫の琴に合わせようとする、小由の情愛と哀れさがにじみ出る歌舞伎の優れた工夫であるなあと思います。 この哀れさがあるから、後に娘が殺された時、小由が「ヤッこりゃなんで殺したのじゃ、これが何で立身出世、元のようにして返しゃ」と有常に必死で挑みかかる哀れがが効いてきます。今回(平成27年9月歌舞伎座)の上演の東蔵はよく頑張ってましたね。貴重な婆役だと思います。
吉右衛門の有常は小由とはったい茶を読む前半がなかなか良いと思いますが、後半に信夫の首を斬って小由に挑みかかる肝心の場面が涙もろい感じでいまひとつです。しかし、これは台本のせいが大きいようです。今回上演のように、有常が泣きながら平伏して「尤もじゃ、道理じゃ、いつわりし段々真っ平御免下されかし。二人の最後は得心のお身替り。これもすなわち天下のためでござるぞ」と言うのでは、どうも柔い。ここは「オオその恨みはもっとも至極。ふたりが最後も得心の上、井筒姫業平のお身替り。これぞ即ち四海のためでござるぞ」(*)と有常が 強い口調で言う方がはるかに良い。土辺に食らいついて泣きたい気分をぐっと抑え込んで「これぞ即ち四海のため」と毅然として言い切るところに有常という人間の大きさがあるのです。それでこそ「春日村」の時代物の風格が出る。「春日村」はいくつか台本を参照してもいろんな箇所が微妙に違いますが、きちんとした定本が出来ないと作品や役のイメージも固まって来ませんね。ともあれこういうことも実際にやってみないと分からぬことですから、吉右衛門には感謝感謝なのですが。
*「競伊勢物語」上演台本・歌舞伎学会・現行レパートリーを考える会編による(「歌舞伎〜研究と批評・31号所収)
幕切れに信夫・豆四郎を演じる役者が井筒姫・業平の姿に替わって登場するのは、初演の時にもたいへん評判になったそうです。これは無残に死ぬ役を演じた役者が幕切れに綺麗な役で再登場する歌舞伎のお約束に乗っ取っているわけですが、何だか芝居が古(いにしえ)の「伊勢物語」の世界に還ったような気分にさせられますねえ。或いはギリシア神話の最後で「・・そして主人公は天に昇って星座になりました」とでもいうような。
(H27・10・27)
○半世紀ぶりの「競伊勢物語」・その5
昔、太郎吉(有常)という男がありました。太郎吉は故あって乳呑み児の娘を置いて都へ帰らなければなりませんでしたが、娘のことを片時も忘れることはありませんでした。しかし、十六年という歳月は太郎吉の状況をすっかり変えてしまいました。太郎吉は或る決意を以て娘のもとへ赴かねばならなかったのです。その決意とは・・・というのが「春日村」のドラマ だということです。
ここで大事なことは、有常を取り巻く朝廷の「位争い」の醜い政治状況は有常に理不尽かつ非情な行動を迫り、彼はそれを職務として貫徹せねばなりませんが、彼は昔のこと(幼くして別れた娘のこと、小由夫婦との人情溢れる心の交流)を決して忘れたことはなく、彼の心の故郷はいつもそこ(過去)にあったということです。これが有常にとっての実です。はったい茶の挿話はそのような実の、束の間の瞬間を表 すものです。しかし、16年の歳月は否応なく彼の外面を変えてしまって、久しぶりに娘(信夫)・小由と再会しても、彼はもはやまったく同じ彼ではありません。彼はもはや 再びあの時に戻ることは出来ません。彼が故郷に戻りたくても、現在の非情な状況によって彼の思いは潰されて実現されることはなく、それは夢のなかでしか果たされ ません。故郷には実があるけれど有常に実はない、と外見にはそのように見えますが、もちろん有常は実をしっかり持っています。しかし、その悲しみを内に秘めながら有常は凛と立つのです。ここにおいて「伊勢物語・筒井筒」の挿話が「春日村」と重なることになります。だから「春日村」が「伊勢物語」になるのです。「春日村」は謡曲「井筒」を踏まえた上での、江戸的な感性による「伊勢物語」の本歌取りです。「春日村」は分類すれば身替り物ということになります。有常がどうしても娘信夫を殺さなければならない状況は詳しく描き込まれています。信夫が身替りする井筒姫は有常の養女ですが、井筒姫は実は天皇の御胤、つまり「熊谷陣屋」の敦盛と同様な事情が設定されています。有常は井筒姫を守らねばなりません。一方、娘信夫の方には身替りにならなかったとしても別の理由で死なねばならぬ状況が設定されています。信夫は夫豆四郎のために 禁断の池に入ってそこに沈んでいた神器の鏡を取り戻しますが、その罪のため簀巻きにして池に沈められなければなりません。16年の歳月のなかで父有常の状況も変わったけれども、娘信夫の状況も変わってしまっています。豆四郎にとって業平は恩義ある人ですから、豆四郎・信夫夫婦は業平・井筒姫の身替りとなることにもとより異存はない。このようにして作者は忠義を芝居のプロットとしてしまいま した。
「春日村」の作劇のひとつの問題は身替りという行為が登場人物の愁嘆を引き出すための装置に過ぎず、身替りという行為への葛藤がよく見えないことだと思いますが、恐らく作者(初代奈河亀輔) がそこにドラマの重きを置いていないのです。娘を身替りに殺す有常の葛藤・苦しみは父親として当然のこととして、作者が本当に描きたかったことは有常の16年の歳月、その時間の流れのなかで否応なく様相を変えてしまう状況の重さということです。そこから万象は常ならずという「もののあはれ」の感情が醸し出されます。(この稿つづく)
(H27・10・10)
○半世紀ぶりの「競伊勢物語」・その4
ところで「春日村」はどうして「伊勢物語」なのでしょうか。在原業平や紀有常(いずれも「伊勢物語」中の人物)が出て来るから「伊勢物語」なのでしょうか。信夫(「しのぶもじずり」・・初段)・豆四郎(「かのまめ男」・・二段)あるいは井戸(「筒井筒」・・二十三段、今回の上演では 井戸が出て来ませんが、「春日村」では本来井戸に重要な役割があります)が出てくるから「伊勢物語」なのでしょうか。しかし、吉之助が思うにはそういうものはみな符号に過ぎないのであって、「春日村」が深層的あるいは精神的に「伊勢物語」と呼応するところが見えないのならば、「春日村」を「伊勢物語」だとするわけに行かないのです。
「春日村」は歌舞伎の身替り物、封建主義の忠義の思想が芯にあるものです。これは一見すると「伊勢物語」の世界から大きくかけ離れたドラマです。ですから改めて問いますが、どうして「春日村」が「伊勢物語」 になるのでしょうか。そのためには和歌の本歌取りのことを考えて見なければなりません。「春日村」とは江戸期のかぶき的感性による「伊勢物語」の本歌取り なのですから、「伊勢物語」の思想なり風情なりを何か取っ掛かりにして展開を付けているに違いないのです。「伊勢物語」、あるいはこれを基に世阿弥が書いたとされる謡曲「井筒」はどちらもあまりにも有名ですから優れた論考もとても多いのですが、本稿ではそれらと関係なく吉之助のかぶき的感性で考えてみたいと思います。「伊勢物語」は「昔、男ありけり・・」で始まる短い物語の連続です。この「男」には在原業平がイメージされており男の一代記のようにも読まれますが、別に男は誰であっても良い・男というのはそんなものだと思えば良いのです。「二十三段・筒井筒」は幼馴染の男女が成人して夫婦になるが、やがて男には別の女が出来て、しかし男は女の心を知ってまだ戻ってくるという物語です。井筒の女は幼女の時から男をずっと変わらず慕い続けています。だから井筒の女には実があり、男は女 の心を愛おしいと思います。一方、ライバルとして高安の女が登場します。高安の女は結局男と疎遠になりますが、別に高安の女に非があるわけでもないのです。高安の女も男を変わらず慕い続けており、実があると云えます。 つまり女には実がありますが、男の方に実がないのです。
注釈を付けると、「実がない」というのは不誠実だとか・真実でないということではありません。その時々の心情としては誠実であり真実なのです。しかし、それは一時だけのことで、移り気で一定することがない。だから後の時点から見れば不実と見えますが、むしろ時を経るにつれて否応なく心情が変化してしまう、その男の心移りの止むに止まれぬところに「あはれ」があると云うべきなのです。これは多分「筒井筒」の本来あるべき読み方でないと思いますが、これが江戸的な感性による「筒井筒」の読み方です。江戸という時代の、アンバランスで・どこか満たされない心情(つまりかぶき的心情ということですが)をそこに重ねれば、そのように読めるのです。一方、謡曲「井筒」では 帰らぬ夫を待ち続けた女の霊が、幼い頃に夫と遊んだ思い出の井戸のことを語り、夫の形見の衣装を身にまとい、夫への思いを募らせながら舞を舞います。秋の風情と女の慕情が重な り、世阿弥が「申楽談義」のなかで「上花也」としたほどの自信作です。前シテ は自らの妄執を語りひたすらに仏の救いを求めます。ここでの井筒の女は思い出を忘れず夫をじっと待ち続ける「伊勢物語」の貞女のイメージとはちょっと違います。「井筒」では女の霊の心変わりする夫 の実のなさに対する恨めしさと嫉妬の感情と、夫への思慕が入り乱れて苦しむ様が描かれます。そこに世阿弥の室町期的感性が光るわけで、そこに「井筒」の本歌取りのポイントがあるのですが、さらにとても興味深く思われる箇所が、後シテが夫の形見の衣裳を身にまとい・つまり男装して、それが女としての自分であるのか、恋する男であるのか、自分でも分からなくなってしまう場面です。
『さながら見見えし、昔男の、冠直衣は女とも見えず、男なりけり、業平の面影、見ればなつかしや、われながらなつかしや』(謡曲「井筒」)
ここには恋する男と一体化しようとする女の心情の倒錯状態が見られます。そうなることで女の一生が幼い頃に夫と遊んだ思い出のなかに溶け込んで行きます。この場面は世阿弥が 江戸のバロック的感性を先取りしているかのようにも思われ、まことに凄いと思います。
「伊勢物語」と・これを本歌取りした謡曲「井筒」を、江戸的感性で改めて読めばそこに共通して浮かび上がってくるのは、「昔、男ありけり・・」というキーワードです。それは「筒井つの井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに」という思い出に発し、すべての思いはいつもその思い出に戻ろうとするのですが、決してそれは実現されることはなく、思いは常に裏切られ、夢のなかでしか果たされないということなのです。(この稿つづく)
(H27・10・4)
○半世紀ぶりの「競伊勢物語」・その3
「春日村」の場で有常は十六年ほど前に信夫を手放したことについて、『母は産後に空しくなり当歳子足手まとい、これなる小由夫婦は隣同士、これ幸いと養子に遣わし、都へ上り・・』と語 っています。これに対して小由は『コレ有常様、イヤサ太郎助殿、こなたはなかなかよい口なこと云わしゃんすな。・・今の今までなしの礫。そっちの勝手が良いからと、今また連れて帰ろうとは、ようまア、云われた事じゃのう 』と反論します。この場面の小由の台詞は、実は安永4年の初演脚本ではかなり長いものでした。そこから今回(平成27年9月歌舞伎座)の上演ではよく分からなかったことが見えてきます。
小由に拠れば、太郎吉(百姓時代の有常)は小由夫婦とは壁ひとつ隔てた隣にひとりで住み、乳飲み子を抱えながら人に雇われ畑仕事をする厳しい生活でした。ある日、夫婦が壁越しに声を掛けても返事がないので変に思って行ってみると、部屋に書置きがあって、「子供を捨てて上方へ上る、くれぐれも頼む」と書いてあった。夫婦は後を追いかけて、「子供を捨てて帰るとはよくよくのことであろう、子供はわたしら夫婦が貰うから気遣いするな」と声を掛けると、太郎吉は土辺に食らいついて泣いたというのです。 有常が信夫を手放した背景はそう生易しいものではなかったのです。
小由の証言から、いくつかのことが察せられます。まず信夫の母親は誰かということです。これについては有常も小由も言及がないですが、有常が都から連れて来た女ではなく、恐らく現地妻というか、名もない百姓女だったのでしょう。女は信夫を生んで間もなく死んだので すが、女が生きていたとしても妻子を都に連れ帰るわけに行かなかったと思います。もうひとつは、太郎吉が乳飲み子を置き去りにして逃げるように上方へ去ったというところに、太郎吉が子供と分かれることの辛さ・嘆きが強く感じられることです。太郎吉は心を鬼にしないと子供と分かれることができなかったのです。だから太郎吉は敢えて人でなしの汚名を着る覚悟で、子供を捨てて逃げたのです。小由夫婦が子供を貰うと言ってくれたので太郎吉は安堵すると同時に、自分のしたことの罪悪感に責められて土辺に食らいついて泣いたということです。これは、どんな時でも温和で品格を失わなかったと云う有常のイメージからかけ離れたものです。太郎吉が子供との別離にどれほど苦しんでいたか、これで分かります。16年間このことを有常は決して忘れることはなかったと思います。
それともうひとつ、地方での生活はその日暮らしの厳しいものであったとしても、太郎吉(有常)は都へ帰るのが心底嫌だったに違いありません。「都へ帰れ」という恩赦が出た以上これに抗することが出来ずに、仕方なく子供を置いて都へ帰ったのです。太郎吉にとって、都での生活は権謀術数が渦巻き・駆け引きと猜疑心が交錯する冷たい政治の世界でした。そんなところへ太郎吉は戻りたくなかったのです。事実、都に戻った有常はなお猜疑の目で見られ、公家の身分から武官の列に落され、さらに今度は井筒姫の首を差し出せと命令されて、有常はその身替りに娘信夫の首を渡そうと心に決めて、この春日村へ赴くわけです。久しぶりの娘との再会が、娘の首を斬る時です。都での約16年の生活とは一体何であったのかというのが、有常の気持ちではなかったでしょうか。
「春日村」を見ると、幕切れにおいて娘を身替りにした有常の父親としての気持ちが十分に描かれていないと不満に思う方は少なくないでしょう。例えば「寺子屋」の松王のように、「陣屋」の熊谷のように、有常の嘆きの場面をもっと描き込んでいれば・・ということは、誰でも感じると思います。しかし、上述の小由の証言からすると、身替りになって死んだ娘夫婦の首を抱えた有常の気持ちは、それこそ土辺に食らいついて泣きたい気分だったはずです。そのような感情をぐっと抑え込んでなお品格を失わないところに有常という人間の大きさがあるということです。(この稿つづく)
(H27・10・1)
○半世紀ぶりの「競伊勢物語」・その2
「競伊勢物語」は技巧的な作品で筋も入り組んでいるし、脚本だけ読むと面白さが分かりにくいところがありますが、実際に舞台を見てみると歌舞伎の世界(ここでは「伊勢物語」の世界・あるいは位争いの世界)を江戸の風俗と倫理観のなかにごちゃまぜにして筋を作り上げて行く手法になかなか興味深いものを感じます。作者初代奈河亀輔にとってもこれは自信作であったと見えて、本作はもともと歌舞伎脚本として書き下ろされたものですが、作者の注文ですぐに丸本(人形浄瑠璃)として出版されました。現行の歌舞伎脚本はそちらをベースにしているわけです。
史実とはちょっと違うようですが、「競伊勢物語」 」の紀有常は天皇の寵愛を受ける身分でありながら・謀反の疑いを受けて地方に流され百姓となり、その後都へ戻されますが、なお猜疑の目で見られ公家の身分から武官の列に落されます。平安の時代には武士は殺生をするという理由で、公家から見ると 穢れた身分とされていました。有常は政治の波に翻弄されて公家・百姓・武士と身分が変転する波乱万丈の生涯を送りました。そしてさらに井筒姫の首を差し出せと申し付けられて、監視の役人に付き添われて春日村の小由の家へ来ているというわけです。これが三段目・「春日村小由住居の場」(通称:はったい茶)で有常が置かれている状況です。小由夫婦はかつて有 常が百姓・太郎吉として暮らしていた時の隣同士で(ただし夫六太夫はすでに亡くなっており・今は小由は娘信夫とふたりで暮らしている)、有常と小由は久しぶりの再会を喜びあって、小由は手作りの焼米のはったい茶でもてなす、この場で有常が久しぶりに太郎吉に戻って世話のくだけた会話を交わすところがまずの最初の見どころになります。
史実の有常は性格は温和で心優しく・礼をわきまえた人であったようです。「競伊勢物語」 の有常も有為転変の生涯を送りながら、艱難辛苦をじっと耐え、しかもなお品格を失わない高潔な人物です。これが有常という役の大きさにつながるわけですが、そこで改めて考えたいことは豆四郎・信夫夫婦の身替り死についてです。有常がふたりの死をどう感じているか、その肚の持ち方のことです。
「春日村」の作劇のひとつの問題点は、身替りという行為が登場人物の愁嘆を引き出すための装置に過ぎず・ドラマの中核にないと見えることにあるでしょう。「家来が主人の為に命を差し出す」という忠義の論理が形骸化しており、登場人物の愁嘆を描くことにドラマの重点がある ようで、身替りという行為への葛藤・懐疑があまり見えない。有常が豆四郎・信夫夫婦の死を悲しんでいるのは親として当然としても、ドラマが技巧的に過ぎて有常の悲しみの深さがよく見えない。そこが現代人が「春日村」に共感できるか・そうならないかという分かれ目になると思います。辛抱立役という役どころの核心は降りかかる災難をひたすらじっと耐えると云う点にあるのではなく、抑えつけられた内心にたぎる 怒り・憤懣や葛藤にあるのですから、どんな状況においてもなお品格を失わないというのはまあそれで的を外しているわけではないですが、それだけだと「春日村」の有常の肚の持ち方としては十分でないと吉之助には思われます。だから「春日村」のドラマをもう少し読み直す必要があると思います。(この稿つづく)(H27・9・27)
○半世紀ぶりの「競伊勢物語」・その1
今月(平成27年9月)歌舞伎座・秀山祭は歌舞伎座では昭和40年6月以来、実に半世紀ぶりの上演となる「競伊勢物語」が注目でした。(国立劇場では平成15年10月に猿之助らにより上演されています。)この「競」ですが・これは宛て字で・今回は「だてくらべ」と読み下していますが、いろんな読み方があって・吉之助などは「はでくらべ」で覚えたものでした。しかし、これは初演の時にはどうも「はなくらべ」と訓んだようです。ホントは「花競・・」と書くべきところだが、そうすると六字になってしまう。昔は 狂言名題は奇数にする約束があったので、「花」の字を取ったということのようです。そうすると「競」だけだと読み方が判然としなくなる、分からないなら何でも良いことになって、それで他にも「たけくらべ」・「あだくらべ」 ・「すがたくらべ」とかの読み方も生まれました。字が違うようですが、「翻伊勢物語(とりあえずいせものがたり)」というのもあったそうです。これなど如何にも適当っぽさが溢れていて、笑っちゃいますね。本作は初演当時なかなか評判が良くて ・特に上方では盛んに上演されたものですが、これだけ外題で色んな読み方が出るということは、要するに定本ができていないというか、まだまだ作・演出としてイメージが固まっていないということかと思います。本作が名作と云われるわりに近年の上演が少ないのは、そういうところもあるかと思います。
滅多に上演されない作品・あるいは場面というのは、いかに名作と云われようが、ひとたび舞台に掛かった時に、ある種の違和感(「こんな芝居じゃあ長く上演されなかったのも 道理であるなあ」と嘆息するというような)を感じさせることがままあるものです。まあこれはクサい匂いも頻繁に上演されれば慣れてしまって感じない、久しぶりのことだと クサさを特に強く感じてしまうというところもあると思います。「寺子屋」や「熊谷陣屋」で見る忠義には慣れてしまっている我々が、今回の「競伊勢物語」ならば豆四郎・信夫夫婦の身替り死をどう受け取るかというところで、作品への感じ方は相当変わってくると思います。そのために主人公紀有常の肚の持ち方がとても大事になります。これは昨年国立劇場の「伊賀越道中双六・岡崎」の唐木政右衛門の赤子殺しも同様です。この難しい仕事に再び取り組んでくれた吉右衛門には感謝・感謝です。舞台に掛けてみないと見えて来ないこともあるものです。(この稿つづく)
(H27・9・・23)
○美輪明宏の「黒蜥蜴」・その4
歌舞伎の女形の「私は男なの?それとも女なの?あるいはそのどちらでもないの?」という疑問は、政治的に強制されたところから生まれた・本来ならばあり得ない・男が女の役を演じるということの不自然さから来ます。吉之助はこれを女形の哀しみと呼んでいます。これは女形の本質に 深く関わるテーマです。歌舞伎はこの哀しみから出発し、みずからの演劇構造を女形に適合するように作り変えることで、今日の歌舞伎座で見られるような形態(フォルム)を作り上げたのです。
一方、黒蜥蜴が第1幕幕切れで外套を手にしてソフト帽をかぶった青年紳士に変身して、鏡に映った自分に 「そもそもホントの私なんていないんだから。どれがホントの私なのかしら?ねえ、鏡のなかの紳士。明智ってすばらしいと思わない?」と呟く時、そこに哀しみの影は微塵も見えません。「私は男なの?それとも女なの?」という疑問の答えは数えきれないほどあるのです。時に私は男であって、同時に私は女でも良くて、あるいはそのどちらでもあり、またそのどちらでもない。どれもが正解であり間違いなのです。黒蜥蜴は沢山の答えをあちらこちら飛び回ってイメージの飛翔を楽しんでいるかのようです。
ただし黒蜥蜴はただ無邪気に自由を謳歌しているわけではないのです。怪盗黒蜥蜴が恐れることは束縛されることです。しかし、黒蜥蜴は「ホラ私を捕まえられるものなら、捕まえてごらん なさい」と言うが如くに犯罪を繰り返します。実は黒蜥蜴は捕まえられたがっているのです。黒蜥蜴が探偵明智に恋をしてしまうのも同じ ことで、そこに 黒蜥蜴の破滅への願望が潜んでいるということなのですが、そのことは本稿では置いておくことにします。吉之助が注目したいのは、黒蜥蜴の「どれがホントの私なのかしら?」という問いの、軽やかさのことです。黒蜥蜴は正解を求めているのではありません。問いそのものを楽しんでいたいのです。この軽やかさは魅力的です。この軽やかさは歌舞伎の女形にはないものです。美輪は黒蜥蜴のイメージにまさにぴったりですね。
前節において吉之助は、自我・アイデンティティとか云う概念が当たり前である現代という時代にあっては、「私はホントの自分が分からない」という問いはもっと複雑かつ深刻なものとなっていると書きました。昨今は「自分らしく在りたい」なんて言葉をよく聞きます。しかし、「自分らしさ」とは 何でしょうか?そもそもホントの自分が分かっている・自分がホントにやりたいことが分かっている人って、どのくらいいるのでしょうか。みんなその答えを求めて苦しみあがいているのです。それが現代という時代の混迷した状況です。 だからなおさら「自分らしく」ということを求めてしまうわけですが、そんななかにあって「サテどれがホントの私なのかしら?」とニヤリとしていられるというのは、これは現代に対する対処法としてなかなかイケていると思いますが、如何なものでしょうか。
(H27・9・23)
○美輪明宏の「黒蜥蜴」・その3
『心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だったわ。あなたはとっくに盗んでいた。私はあなたの心を探したわ。探して探して探しぬいたわ。でも今やっとつかまへてみれば、冷たい石ころのようなものだとわかったの。』
探偵明智の目の前で毒を飲んだ黒蜥蜴が死ぬ直前の台詞です。明智は黒蜥蜴の心を盗んでしまったのです。三島は「黒蜥蜴」創作ノートのなかで、『(黒蜥蜴は)仮装でない(本物の)感情に生き過ぎた。(黒蜥蜴は)どんなダイヤよりも本物のダイヤ。明智は盗人である。このダイヤを盗んだからだ。あなたに盗まれるのはイヤだから、かうして滅ぼしてしまふのだ。「黒蜥蜴」という宝石を。』と書いています。
決定版 三島由紀夫全集〈23〉戯曲(3)(戯曲「黒蜥蜴」収録・創作ノートを含む)
黒蜥蜴は自分の恋の独白を明智に盗み聞きされてしまったことが許せません。黒蜥蜴にとって恋とは癒しや喜びのようなものではなく、自分の感情を縛って動けなくしてしまうものでした。だから黒蜥蜴は、自分の感情の・自分の恋心の自由さを守るために自殺するわけです。戯曲「黒蜥蜴」の主題はそういうことになると思いますが、吉之助は今回の芝居(平成27年9月・東京 芸術劇場プレイ・ハウスでの上演)を女形のことを考えていましたから、 少し別なことを考えて舞台を見ていました。現実世界では黒蜥蜴は泥棒で・明智は探偵ですが、心の世界では反対に黒蜥蜴が探偵で・明智の方が泥棒だったということです。戯曲のなかでは両者の関係が入り乱れています。つまり 「私は泥棒なの?探偵なの?どれがホントウの私なのかしら?」ということになります。このもうひとつの主題が吉之助には気になるのです。
「黒蜥蜴」の原作者・江戸川乱歩が生み出したもうひとりのアンチヒーロー・怪人二十面相は変相の名人で、「老人にも若者にも、富豪にも乞食にも、学者にも無頼漢にも、女にさえも、まったくその人になりきってしまうことが出来る」、「本人自身も本当の顔を忘れてしまっているのかもしれない」というほどの怪盗です。また対する明智小五郎も二十面相の向こうを張る変装の名人で、互いに変装合戦を繰り返して裏をかき合います。どちらも「ホントの私は誰でしょう?」という存在 なのです。怪盗黒蜥蜴もまったく同じで、 吉之助にはこれが美輪明宏という存在に重なって見えます。
思えばお嬢吉三の・有名な「月も朧に白魚の・・・」というツラネの七五調の揺れるリズムが示すものは、「私は自分がどういう人間なのかが分からない、私は一体 何者なのだろうか・私の本質はどこにあるのだろうか・私は何をするために生まれてきたのだろうか」という疑問です。この疑問はホントウは男であるのに、女の恰好をして芝居をせねばならなかった女形という存在に重なっています。 私は男なの?それとも女なの?あるいはそのどちらでもないの?ということです。これが「女形の哀しみ」というものに通じます。(このことは「女形の美学」のお嬢吉三の章のなかで、悪婆の問題を絡めて詳説しましたので、どうぞご覧ください。)
答えは隅田川の揺れる水面にいろんな形を取って・浮いては消え・消えては浮かびしますが、そのどれを選択して良いのか彼には分からない。あるいは選択することが彼は怖いのです。だから答えは明確な形を取ることはありませんが、これは黙阿弥が生きた幕末 江戸という時代の精神状況を反映しているから、そういうことになります。自我とかアイデンティティとか云う概念が当たり前のものとなっており、「それが守れないならば自分は生きていないのと同然だ」という強迫観念に襲われかねない現代という時代にあっては、「私はホントの自分が分からない」ということは様相はもっと複雑かつ深刻なものとなり、これは自分に鋭く突き刺さってくる問題になってきます。(この稿つづく)
(H27・9・22)
○美輪明宏の「黒蜥蜴」・その2
吉之助が新刊「女形の美学 」でもそうですが・女形論を書く時に意識していることは、衆道(男色)論の方へ向かわないようにすることです。歌舞伎の歴史を見れば歌舞伎がそういうものと深層で結び付いてきたことは明らかですが、吉之助としては歌舞伎をそのような淫靡な芸能としてではなく、もっと明晰な芸術として捉えたいわけです。(この辺は同書の「まえがき」をご参照ください。)もちろんそれで取り落とすものがあるかも知れませんが、それを恐れていては批評にはなりません。対象を切るということはそういうことです。演劇というものは、もともと二極構造によって理解されるところが大きい芸能です。自己と他者との対話で進行するのもそうですし、上手と下手、善方と敵方とか云う尺度もまたそうです。そして男と女という尺度こそ、演劇のもっとも強固な二極構造なのです。ですから男が女を演じるという 不自然な演劇である歌舞伎では観客は「赤い着物を着て顔を白く塗っていればあれは美しい女だ」と思い込むことで安心するというのは、そこのところです。これはその時代の社会通念とも密接に関連します。
「黒蜥蜴を探して」というドキュメンタリー映像(2010年、フランス、パスカル=アレックス・ヴァンサン監督)のなかで、美輪明宏は「人々が服装・見掛けによって人を判断するということが分かったので、ハイヒールを履いて女性の恰好をするようになった、そうしたらそれまで自分はゾンザイな扱いをされていたのが、次第に世間に受け入られるように変わって行った」ということを語っています。美輪が「男でも女でもない」ということ が、どうにも理解ができない。それじゃあお前は一体何なんだということになる。しかし、普通の人は「これは本当は女になりたかった男だ」と考えれば何となく理解ができる気がするということです。本当はそうじゃないのだけれど、美輪は世間にそう思わせておけば良いことにしたということかと思います。このドキュメンタリーでは美輪ファンの男性が「美輪さんは女の装いをすることでゲイというものを世間に誤解させたかもしれません」と語っていますが、多分その通りです。美輪は女の装いをすることで、社会概念の「男と女」の二極構造の隙間に入り込むことで、現在の安住の地を得ているのです。つまり美輪は「赤い着物を着て顔を白く塗っていればあれは美しい女だ」という約束を何も壊していないことになります。(ということは「女形の美学 」での、吉之助の女形論の切り口はそれで正しいということになると思います。)ですから美輪が期待通りに現われてそれでキレイということならば観客はそれで 十分満足なのです。逆にあまりハードなことをされても困る。観客の期待通りに振る舞えるところが美輪の凄いところです。実は三島は「黒蜥蜴」のなかにちょっと危険なシーンを挿入しています。
『(部屋の中央に外套を手にしてソフト帽をかぶった一人の青年紳士、実は男装した黒蜥蜴が、気取ったポーズで立っている。横目で鏡を見ながら)これなら大丈夫逃げられるわ。誰も私とわかりゃしない。そもそも本当の私なんていないんだから。ねえ、鏡のなかの紳士。明智ってすばらしいと思わない? そこらに沢山いる男とちがって、あの男だけが私にふさわしい。でも、これをが恋だとしたら、明智に恋しているのはどの私なの?返事をしないのね。それならいいわ。また明日、別の鏡に映る別の私に訊くとしましょう。じゃ、さよなら。』(三島由紀夫:「黒蜥蜴」・第1幕第6場)
「そもそもホントの私なんていないんだから。どれがホントの私なのかしら?」ということです。今回の舞台ではこの場面は、もうちょっと男臭さを強くして仕出かしてみせても良かったかも知れませんね。実はこの台詞こそ「黒蜥蜴」の本質を突いた台詞なのですから。(この稿つづく)
(平成27・9・14)
○美輪明宏の「黒蜥蜴」・その1
本稿は吉之助の新刊「女形の美学 〜たおやめぶりの戦略」の番外編とお考えください。本書のなかで 世間で「現代女形の創始者」とも云われている美輪明宏のことに触れて、「私のことを否定できるものなら、やってごらんなさい」という舞台中央で開き直った感じがまさに六代目歌右衛門と書いたわけです。これは歌右衛門のなかにあった「私から女形を取ってしまったら私じゃなくなるんだから」という危機意識と似ているということを言っています。 「私」というアイデンティティが強く出ているところが近代的と云えます。
注釈つけておくと、吉之助は別に歌舞伎の女形と美輪を同列に置いて論じるつもりはないのです。美輪は確かに美しいのだけれども・それは「見た目の美しさ」 の類なのであって、吉之助が歌舞伎の女形の美と感じているもの(一応、「芸の美しさ」としておきます)とは次元がちょっと異なると感じています。ただし感覚的に重なる要素 も確かにあるわけで、昨今歌舞伎の女形がもてはやされている背景がこの点にあることも吉之助はよく理解しているつもりです。これについては別稿「美しいものは見た目も美しくなければなら ぬのか」でも触れました。これからの歌舞伎の女形は、本人がどう思おうが・喚こうが、否応なしに「美しいものは見た目も美しくなければならぬ」というところに縛られることになる。いや、すでにそうなっている。歌舞伎の女形にとってはつくづく難しい時代にな ったものです。先日(平成27年9月)、東京芸術劇場プレイ・ハウスでの美輪明宏の「黒蜥蜴」(原作:江戸川乱歩、脚本:三島由紀夫)を見て来たので、思いついたことをつれづれなるままに記しておきたいと思います。本稿で結論付けるつもりはありませんので。舞台に美輪扮する緑川夫人(実は怪盗黒蜥蜴)が登場すると「キレイねえ」という女性客の 歓声が聞こえます。確かに御年80歳とは思えない美しさです。しかし、ジワが来るという感じとはちょっと違う。期待通りのものが期待通りに現われてキレイということなのだから、もちろんそれで十分なのですが、ジワが来 たわけではない。吉之助が見た時は・・ということですが。
「ジワが来る」というのは歌舞伎用語なのでしょうが、吉之助もそう何度も経験しているわけではありませんが、ジワが来るというのはまったく不思議な光景です。目の前にあるものに感動して言葉に言い尽せなくて思わず息を呑む瞬間があって、その後詰めた息を吐くのです。それが客席のあちこちで起こるので、客席が一瞬凍ったようになって、やがて吐息がさざ波のように静かに客席に広がって行く、凍った時間が陽の光の暖かさが沁み込んでいくように静かに溶けていく。そのような奇蹟の瞬間です。これは芸の力というよりも、素材の力ということかも知れません。
昭和二十年代後半の銀巴里時代の美輪にはジワが来るような瞬間が確かにあったに違いありません。このことは昭和43年の映画「黒蜥蜴」(当時は丸山明宏、松竹・深作欣二監督)からも十分想像できます。今回の美輪にそのような瞬間がなかったことで、吉之助は美輪を貶めるつもりはまったくありません。吉之助は観客が美輪を見る視線のことを考えているのです。現在の美輪はあまりにメジャー化してしまって、艶めかしく妖しいものを崇めたいと期待している観客の教祖様になってしまっていますから、期待通りのものが期待通りに現われてキレイということで、そこで予定調和が図られています。だからジワが来ないのです。
吉之助は美輪を見る観客の視線の背景に、次のような観客の心理を感じます。観客は妖しいものには興味があって見てみたいのですが、妖しいのが強過ぎて・それが変態だかグロの域に入っていまうと 途端に怖くなって逃げ出すのです。観客としては安全なところでちょっと妖しい気分を味わいたいだけ。観客にとって観劇はそのくらいのお楽しみで十分なのです。(イヤこれも観客を貶めているわけではないのです。それがノーマルな感覚というものです。)現在の美輪は、観客のその辺の心理を良く心得て振る舞っている感じがしますね。(この稿つづく)
(平成27・9・11)
別途サイトで「吉之助が浄瑠璃をもう一度読む」というタイトルで長期連載を始めました。まず第1回は説教「をぐり」(小栗判官)を取り上げています。 ところで説教「をぐり」の末尾は次のように結ばれています。
『 小栗殿をば、美濃の国安八(あんはち)の郡(こほり)墨俣(すのまた)、たるひおなことの神体は正八幡、荒人紙(あらひとがみ)とおいはひある。同じく照手の姫をも、十八町下(しも)に、契り結ぶのおいはひある。契り結ぶの神の御本地も語り納むる。所も繁盛、御代もめでたう、国も豊かにめでたかりけり。』
説教「をぐり」は美濃国安八郡墨俣八幡神社のご神体である正八幡荒人神の本地(由来)を語り聞かせるものだということです。このような寺社神仏の由来を語るものを本地物 (ほんじもの)と云います。 このような性格は江戸期の浄瑠璃にも引き継がれています。たとえば「道明寺」は道明寺天満宮の由来を語る本地物ですし、「菅原伝授手習鑑」全体が天神縁起のようなものです。 「義経千本桜」だって見方によっては義経信仰縁起みたいなものと言えるでしょう。
今では想像付きませんが、明治の半ばくらいまでは「小栗判官」の物語は誰でも知っていました。芝居でも盛んに取り上げられたものでした。小栗判官と照手姫と云えば、日本芸能史においては筆頭に挙げて良いほど の最強カップルなのです。しかし、その割に美濃国安八郡墨俣八幡神社のことは耳にしたことがありません 。こちらのサイトの八幡神社の紹介でも小栗のことにはまったく触れてません。これ は意外でしたねえ。小栗は忘れられちゃったのでしょうか。
一方、照手姫が祀られている安八郡安八町の結神社(むすぶじんじゃ)の方は、 この神社では照手姫が小栗との再会を祈願したという由来が伝わっています。結神社は縁結びの神様として地元でもよく知られているようです。(こちらのサイト参照。)どうも地元では小栗判官より照手姫の方が人気が高かったようです。(これは何となく分かる気がします。キャラクターとして照手姫の方が 共感できますからね。)江戸期 には庶民の寺社参詣の旅行ブームがあったのですが、結神社は売り出し方によっては全国区の縁結びの神社になれる可能性を秘めていたと思うのですが、ちょっともったいなかったですね。
(H27・9・5)
○申し訳なさそうな顔をしている「時代」〜「逆櫓」:その2
前場(大津宿・笹引)がないので「逆櫓」でのお筆の仕どころは少ないですが、扇雀のお筆は一応の出来です。しかし、権四郎が怒る台詞を聞く場面などでもっと平伏して「身の置きどころがない」という風情が欲しい。 もっとお筆が情の厚い女性に見えて欲しいと思います。
弥十郎の権四郎は体格が立派なので哀れが利かないのは仕方ないところです。しかし、よく考えてみれば権四郎は樋口が見込んで入り婿するほどの名立たる船乗りだったわけですから身体は 頑丈だったに違いありません。だから見た目の老け役の哀れさとは違った形で哀れさをどうやって表出するかが大事だろうと思います。ところで権四郎が怒ってお筆に抗議する台詞はまったく筋が通ったもので、教育 を受けていない人間の台詞とは思えないほど理路整然としています。さすが一流の船乗りだけに権四郎は迅速かつ冷静な判断ができる人間だと思います。権四郎がお筆に対してまくし立てる台詞も、冷静さを失って怒りにまかせて怒鳴っている わけではないのです。たとえば権四郎は「主君の若君のとおいやるからは、それ知らぬまんざらの賤しい人でもなさそうな・・」と言います。権四郎はお筆の主人が相当に身分が高そうなことは分かっているが、それを知ってしまえば身分の低い者は言いたいことが言えなくなるので、気取らぬふりして怒鳴るのです。逆に言えば、そこに身分の低い者の悲哀が聞こえると思います。それは「ごっつぁんでぇす」という顔をして庶民の犠牲を要求する「時代」に対する庶民の必死の抗議です。弥十郎の権四郎は単純に怒りにまかせて怒鳴っている風に 少し聞こえます。台詞にもうすこし工夫が必要だと思います。例えば言葉を言い淀む、あるいは語尾を意識的に弱くするなど 、ともすれば及び腰になりそうな権四郎の気持ちを見せるちょっとした工夫です。そこに「時代」に必死で抵抗する庶民の哀れさが出るのです。
「逆櫓」幕切れで「汝(樋口)が子でもない、主君でもない、若君でもない、大事の・大事のおれが孫を一所に殺して侍が立つか」と権四郎が言うのは、 「松右衛門内」で樋口が権四郎に「親となり子となり夫婦となるその縁に、つながるる定まりごとと思召し諦めて、若君の御先途を見届け、まだこの上に私が武士道を立てさせて下さらば、生々世々(しょうじょうせぜ)の御厚恩」という言葉 に、権四郎がそっくりそのまま応えたものです。世話(庶民)の側が駒若君を預かって、権四郎がこれを守護することになります 。これは普通の時代物のパターンとは異なるものですね。駒若君は世話のなかに消えて行きます。
(H28・8・24)
○申し訳なさそうな顔をしている「時代」〜「逆櫓」:その1
今月(8月)歌舞伎座・納涼歌舞伎の第2部・「ひらかな盛衰記・逆櫓」を見てきました。主な配役は橋之助の松右衛門実は樋口・扇雀のお筆・弥十郎の権四郎で、三人とも多分初役だろうと思いますが、この顔ぶれならばこの位は出来て当然と思える出来であったのでまずは安心しました。しかし、芸にはまだまだ上の段階があります。いずれそう遠くない時期に彼らが歌舞伎を牽引せねばなりません。ですからまあ悪くない出来であることは認めたうえで、いく つか気になったところを今後の改善点として記しておきたいと思います。
それにしても「逆櫓」は同じ時代物であっても他の作品とはちょっと違う趣がしますね。普通の時代物であると「時代」と云う政治的で奇怪な要素が名もなき庶民を翻弄して、最後に誰かを犠牲として連れ去ってしまうという筋が多い。大抵は時代が「ごっつぁんでぇす」という顔をして庶民の犠牲を受け取って芝居が終わります。観客の胸には「然り・・しかし、それで良いのか」という苦い味が残る。これが普通の時代物の感触というものです。たとえば「 鮓屋」がそのような感触です。
しかし、「逆櫓」で出てくる「時代」(それは樋口やお筆が体現する要素です)は随分と申し訳なさそうな顔をして出て来るのですね。惨劇は既に前場(大津宿・笹引)で終わってしまっており、騒動の取り違えで槌松は殺されてしまったが・それは自分たち(時代)の本意ではなかった、取り返しのつかないことをしてしまった・申し訳ないことをしてしまったという気持ちが時代の側に濃厚にあるのです。「いかほど歎きたとて槌松の帰るといふではなし。さっぱりと思召し諦めて、若君をお戻し下され・・・」というお筆の台詞にチラと時代の身勝手な論理が顔を出してしまいますが、全体としては時代に謝罪の気分が強い。だから「逆櫓」には嫌な奴が出て来ません。最後に派手な立廻りが付くので忘れられそうですが、「松右衛門内」には死んだ槌松への哀悼の気分が漂っています。この点が「逆櫓」を好ましい芝居にしていると思います。まず橋之助の樋口ですが、時代物のスケールの大きい樋口を意識していると思います。それは決して間違いではありません。樋口は確かに橋之助の仁に合う役です。しかし、歌舞伎らし いスケールの大きさを意識し過ぎるあまり、全体として台詞がねっとり重く一本調子になっています。そのせいで松右衛門(世話)と樋口(時代)の切り替えが巧くありません。スケールの大きさは大事なことに違いありませんが、もっと大事なことが他にあるのです。たとえば家に帰った松右衛門が梶原に対面した情景を仕方噺で語る場面 を見てみます。ここは世話と時代が交錯するところが聴きどころです。しかし、世話と時代の対照が際立たないので、梶原との会話の情景が眼前にありありと浮かんで来ません。これは橋之助が時代の台詞を重くたっぷりと言おうとして全体のリズム感が出ないせいです。だから世話と時代の切り替えの間(ま)がうまく取れません。このような時代の台詞は噛み砕いて言うのが正しいのです。このことは文楽(義太夫)を聴けばよく分かります。台詞を噛み砕けば台詞に自然とリズムが出て来ます。声色ではなく・口調において世話と時代を仕分ければ良いのです。ですから台詞をねっとり重く転がせばスケールが大きく歌舞伎らしくできるという、「いわゆる歌舞伎らしさ」の思い込みをやめることです。
後半の樋口の見顕わしにおいても課題があります。まず樋口が松右衛門に身をやつしているのは、逆櫓の技術を生かして義経の水軍に船頭として加わり・主人義仲の仇を討つという大望があるわけです。たとえ相手が家族(権四郎やおよし)であっても、樋口はここで正体を明かすわけに行きません。樋口はこれまで権四郎一家と・死んだ槌松とも一緒に暮らしていたわけで、槌松を殺された家族の気持ちを松右衛門(一家の主人)として人一倍理解しています。時代を体現する者として樋口は言うべきことを言わねばなりませんが、それを言うことがどれほど理不尽な非人情なことであるか本人が一番よく分かっています。だから樋口は正体を明かすことをとても躊躇しています。それでも権四郎が納得しないから、やむを得ず正体を明かすのです。ですから樋口が覚悟を決めて「権四郎、頭が高い・・」と言い出すまでの樋口の台詞は、強い時代の調子で張って言ってはならないのです。口調を抑えて低調子で行かねばなりません。樋口(時代)と松右衛門(世話)が交錯しますが、ここでの台詞も前述通り噛み砕いて言うことが肝要です。時代と世話の間でゆっくりと振れながら、最後に「権四郎、頭が高い・・」に至る、ここで時代の方に波が大きく振れます。
そこへ至るまでのプロセスの構築が、橋之助の樋口はまだまだです。と言うよりも 橋之助だけでなく大抵の歌舞伎の樋口役者がそこが十分ではないのですがね。樋口が武士の権威で権四郎を押さえ付けに掛かるのが歌舞伎の見顕わしのカッコ良い場面だと思っているでしょう。樋口は木曽義仲の四天王だからスケールが大きく重く演ずべしと考えるから、間違えてしまいます。最初から時代で重く行けば良い「渡海屋」の知盛の見顕わしとは、そこが違 います。樋口は情も涙もある男です。本当は悲しみを共有したいけれども、理由あってそれが許されない男です。樋口は縁あって息子となった槌松が自分の替わりに忠義をしてくれた、これは何という奇縁か、何と有難いことかという 意味のことを権四郎に言います。樋口は最後まで理のなかに情を忘れていません。こういう男であるからこそ、権四郎を心底納得させることが出来ます。権四郎が「侍を子に持てばおれも侍」と 言うのは、樋口に圧倒されたからではありません。樋口の情が権四郎にそう言わせるのです。少々スケールが小さくなったとしても、樋口の情を描くことが肝要です。ですから「逆櫓」の場合は、申し訳なさそうな顔をしている「時代」ということが大事なポイントとなります。(この稿つづく)(H27・8・22)
今回も雑談です。歌舞伎の仁(ニン)というのは、簡単に言えば、その役柄が持っている雰囲気・「らしさ」ということになるでしょう。歌舞伎を長く観ていると、あの役者は○○の役の仁であるの・ないのという話になることはよくあるものです。ところで最近の劇評で仁の話題がいつになく前面に出ることが二回ほどありました。具体的には、昨年11月歌舞伎座・「勧進帳」での染五郎の弁慶であり、本年7月国立劇場・「義経千本桜」での菊之助の知盛のことです。ただし以下の文章は、上記ふたつの事例の仁のある・なしについて言及するものでないとご理解ください。
芝居でも映画でもそうですが、その役が持っているイメージというものが受け手の方に漠然とあって、それに大きな齟齬があると、この配役はちょっと違うのじゃないかと感じることはあるものです。容貌は非常に大きな要素には違いないですが・それだけではなく、表情・身のこなしとか、全体に醸し出される雰囲気というものが大事になります。それが役における仁(ニン)というものですが、それだけならば歌舞伎だけのことではありません。新劇でも映画でも、それらしき概念は間違いなくあります。
一方、歌舞伎で仁ということをうるさく言うのは、役者の仁のことがあります。それは歌舞伎には役人替名という概念があって、役というものは芝居という空間のなかで・その役者(人間)が纏う一時的な仮の姿であるという考え方から来ます。したがって九代目団十郎が演じる大星由良助が大事であるのはもちろんですが、大星由良助を演じる九代目団十郎ということも同時にとても大事だと云うことです。九代目団十郎の仁ということは、九代目団十郎の仁が彼が演じる弁慶にも熊谷直実にも通じる何かがあるということです。恐らく歌舞伎の仁の概念の特殊なところはそこです。歌舞伎では、役における仁 よりも、役者の仁ということが大事なのです。したがって、昔の役者は自分の仁でないと少しでも感じると、その役を演じることを躊躇したものでした。そういう場合、どうしても演じるならば脚本をいじって自分の仁に合わせたものでした。例えば五代目菊五郎が、「村井長庵(勧善懲悪覗機関)のような悪人がやりたい」と云って、黙阿弥に頼んで按摩道玄(盲長屋梅加賀鳶)を書下ろしてもらったというようなことです。同じような悪人の役であっても、恐らく役の愛嬌のある・なしというところでしょうが、五代目菊五郎本人だけが気にするくらいの微妙な仁の違いなのです。
一方で仁の違いを承知のうえで敢えてその役を演じて役の新しい解釈(可能性)を拡げるということもあったはずです。歌舞伎には「兼ねる役者」という言葉があります。役柄の広い役者ということですが、仁ということにこだわって・その枠内にとどまっているならば、「兼ねる」という称号を得られる可能性はまったくないわけですから、歌舞伎は仁ということを大事にしながらも、仁の枠を越えることを禁じていたわけではないと思います。そのような挑戦がないと歌舞伎は変わって行かないでしょう。全般的な流れとすれば、現在は歌舞伎でも仁ということを以前ほどには厳密に考えない方向になりつつあると思います。 というか「兼ねる」ことに積極的な意味を見出しつつあるということかも知れませんね。
思うには、これは洋の東西を問わないようですが、演劇でも音楽でも、自分の守備範囲を自ら定めて・俺はここをじっくり掘り下げて行こうというタイプよりも、自分の可能性を信じて・挑戦できることは何でも挑戦してみようというタイプの方が増えてきているようにも思いますね。まあこれはどちらにも良さはあると云うべきですが、ある意味において自分の仁(自分らしさ)の追求ということが強く出てきているということなのでしょうかねえ。
(H27・8・12)
連日の暑さと2冊目の「女形の美学」出版直後で頭が回らず、本稿はホントの雑談です。本年10〜11月新橋演舞場で猿之助がスーパー歌舞伎U(セカンド)・「ワンピース」というのを上演するそうで、先日記者会見が行われました。これは現在日本どころか世界的な人気漫画となっているものを、歌舞伎仕立てにしたものであるそうです。早変わりやら宙乗りなどがある・スピード感ある舞台になるのでしょう。吉之助は「ワンピース」という漫画を読んだことはないし、吉之助がこのお芝居を観て批評をする資格がないことは明らかなので・観る予定はないのですが、それならば吉之助は猿之助のやろうとしていることに対して否定的なのかと聞かれれば、決してそんなことはありません。いや別に好々爺のポーズを取ろうとしているのではありません。若者がいろんなことに挑戦することは結構なことです。ただ吉之助が追いつけないだけのことであってね。先代(三代目猿之助・現猿翁)のスーパー歌舞伎も「ヤマトタケル」初演(昭和61年)は見ましたが、それ以後は付き合えませんでした。だからと言って吉之助が先代の努力を否定的に見ているわけではありません。スーパー歌舞伎というのは文字通りジャンル的に歌舞伎を超えているものであって、歌舞伎の尺度で計るべきものではないと思います。 先代が正しかったということは、スーパー歌舞伎が興行的に成功したことで十分証明されています。
歌舞伎版「ワンピース」の前評判を調べたわけではないですが、原作漫画ファンの反応は「歌舞伎でやるって、一体どんなものになるの?」というようなものは多いようですが、最初から拒絶反応という漫画ファンは意外と少なそうです。「どんなものになるか、ちょっと見てみようか」ということで新橋演舞場へ足を運ぶ漫画ファンも多そうに思います。意外と彼らは頭が柔らかいのだね。そのなかから歌舞伎に興味を持ってくれる若者が少しでも出てくれば・・なんてことを我々はすぐ考えてしまいますが、まあこれが一生で最初で最後の芝居見物であってもいいじゃないか、お芝居というのはこんな面白いものだと知ってもらうことは悪くないことです。
どうやらこのようなことは日本だけの流れではないようで、先日(6月28日)ベルリン郊外のワルトヴューネで行われる恒例のベルリン・フィル野外コンサートは、今年のテーマが何とハリウッド映画音楽でありました。サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルで「インディー・ジョーンズ」や「スター・ウォーズ」のテーマをわざわざ聴きたいクラシック・ファンがどれだけいるんじゃい・・と往年のベルリン・フィル・ファンとしては歎きたくなるわけですが、恐らくドイツにおいても若者のクラシック音楽離れは深刻なのだろうとお察しされます。ラトルは大真面目なのだろうね。
まあそれにしても、一見すればどこをどうすれば歌舞伎になるのかと思うような原作漫画のなかから・ここをこうすれば歌舞伎手法で面白く処理できるのじゃないかと思える要素を探し出すということは、恐らく原作のなかにあるカブキ的な・傾(かぶ)いた要素を見つけ出すということなのであろうし、それは恐らく江戸時代の戯作者たちがやってきたことでもあるのです。面白い芝居を作ってもらって、後で吉之助に「そんなことなら見ておけば良かったかな」と思わせるものに仕上げてくれれば良いなと思います。
(H27・8・1)
一般的な音楽史では、シェーンベルクやウェーベルンのような十二音音楽・いわゆる無調音楽は、バロック音楽時代に確立された調性音楽が古典派〜ロマン派と発展し試行錯誤を繰り返すなかで次第に行き場を失い、中心のない曖昧で不安的な響きを志向するようになる、つまり調整音楽が崩壊して行き着いた先が十二音音楽(調性音楽の終焉)であった という捉え方をされるわけです。しかし、吉之助はエウヘーリー・ドールスの「バロック論」を借りて、バロック的な要素と古典的な要素との「揺らぎ」と見ます。そのような視点からするとロマン派芸術は古典派の形式を崩していくことで表現の自由を得るかのように見えますが・次第にそのなかに隠れていたバロック的な本質が 露わに見えてくるという過程を経ることになるのです。つまり、後期ロマン派・いわゆる19世紀の世紀末美術はロマン的表現手法の行き詰まりなのではなく・ロマン的表現のなかのバロック的な本質が露呈したという風に見ることができると考えます。つまり吉之助は十二音音楽をバロック的要素が非常に強い音楽 だと捉えるわけです。(これについては別稿「かぶき的心情とバロック」を参照ください。)
エウヘーリー・ドールス:バロック論
そう考えるとワーグナーやマーラーの作品のなかに局所的に出てくる無調的な要素・あるいはリズム が喪失しているかに聞こえる箇所がフォルムの揺らぎ(局所的にバロック的な方向へ揺らぐ)としてスンナリ理解ができるようになります。何より大事なことはワーグナーやマーラーの先の、シェーンベルクやウェーベ ルンら新ウィーン楽派との精神的な連続性がつかめて来ることです。十二音音楽のなかに、調性を探し求める感覚・あるいは明確な旋律性を探し求める蠢(うごめ)きとして感じ取れるようになります。吉之助にとって新ウィーン楽派は長い間疎遠な存在でしたが、そのように考えるようになってから は、ゆっくりしたペースですが十二音音楽が吉之助の新たなレパートリーとなりつつあります。
このようなことを書いたのは、先日(6月29日)紀尾井ホールで若手ピアニスト・ラース・フォークトのリサイタルのプログラムで、フォークトがシェーンベルクの6つのピアノ小品・作品19を、シューベルトのピアノソナタ第19番とベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番それぞれの直前に拍手無しで二回演奏するという試みをしたからです。フォークト(プログラムの言)に 拠ると「こうすることでこれらふたつのソナタがどれほど幻想性に富んでいるかが実感できるはずだ」ということです。確かにとても興味深い試みでした。
シェーンベルクの6つのピアノ小品・作品19は長くても二十小節程度の短い曲が6つ連なったもので、吉之助は初めて聴きましたが、簡潔性と非連続性のなかに何やら俳諧のような「わび・さび」の世界が感じられて、 これをすこぶる面白く聴きました。断片の・調性もリズムもない霧のような音楽が拍手なしでシューベルトあるいはベートーヴェンに続くと、やもやしていた想念が、或るきっかけで突如形を成して・明確なリズムと旋律 が生まれるかの如くに聴こえます。ここではそれがたまたまシューベルトあるいはベートーヴェン であったということです。それはどんな形を取ることもできるのです。そう考えることで、シューベルトあるいはベートーヴェンの音楽のバロック的な側面を強く意識できることになりま した。それは一般的には革新性とか様式の破壊と云われるものですが、これがバロック性ということです。そのベクトルは新ウィーン楽派へ向かっているのです。
フォークトは久しぶりにドイツが生んだ俊英ピアニストとして今後が大いに期待できそうです。シューベルトもベートーヴェンも骨太い演奏で立派なものでした。吉之助にとっては、シェーンベルクが俳諧に聞こえたところに新ウィーン楽派がだいぶ親しくなってきたことが実感できて嬉しかったですね。
(ちなみに6月29日・紀尾井ホールでのプログラムは以下の通りでした)
- シェーンベルク:6つのピアノ小品 Op.19
- シューベルト:ピアノ・ソナタ 第19番 ハ短調 D958
(休憩)- シェーンベルク:6つのピアノ小品 Op19
- ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111
(H27・7・20)
先日(6月25日)紀尾井ホールでロシア生まれのピアニスト・ヴァレリー・アファナシエフ のリサイタルを聴いてきましたので、メモを残しておきます。アファナシエフは、演奏活動の傍らで詩・小説などの創作活動も行っており、「思索するピアニスト」とも呼ばれています。アファナシエフの演奏は遅めのテンポ・間の取り方に独特なものがあり、そこに禅とか・もののあはれなどという感性にどこか通じるところがあるようで、日本でも根強いファンを持っています。もっとも吉之助がアファナシエフに関心を持ったのは、ごく最近のことです。日本の音楽マスコミは表面的なテンポの異様な早さとか遅さを喧伝する傾向があると思いますが、そんなことが吉之助がアファナシエフを聴く機会を遅らせたと思います。テンポが早くても・リズムの打ちが浅いのでは仕方がない。( あえて名前を挙げることをしない。)テンポが遅くても・緊張感が持ちきれないのでは仕方ない。(これも名前は挙げないことにする。)そのテンポには息の裏打ちがなければなりません。(これは歌舞伎の芸でも同じことです ね。)アファナシエフのテンポの表面的な遅さのことをことさらに言われるせいで、吉之助はアファナシエフを敬遠していたのです。今回の来日公演に合わせてスタジオ録音されたベートーヴェンのソナタ集(悲愴・月光・熱情ソナタの定番の組み合わせ)のCDもその宣伝文句に「3曲トータルの演奏時間が75分58秒は史上最高」とあります。3曲合わせた演奏時間を比較して一体何の意味があるのかね?いつまで経ってもこういう演奏家の売り方をするのは情けない。こういう宣伝はアファナシエフにとっても迷惑この上ないと思いますがね。
まあそのことは置くとして、それならどうして吉之助がアファナシエフのリサイタルを聴く気になったのかと云えば、それはアファナシエフのエッセイ集「ピアニストのノート」を読んで、この人独特の粘着質的で根クラな感性を興味深く感じたからです。文章も錯綜していて、決して読みやすいわけではありません。またNHKで放送されたドキュメンタリー「漂白のピアニスト・アファナシエフ・もののあはれを弾く」もアファナシエフの 半生の大まかなところを知るうえで大いに参考になりました。ですから吉之助はアファナシエフに関しては本を読んだ方が先でして、それならばこの人のピアノを聴いてみようかということになったわけです。ヴァレリー・アファナシエフ:ピアニストのノート (講談社選書メチエ)
ただし現時点の吉之助はアファナシエフの芸術を十分理解出来たというところにまで行っていないようです。事前にいくつかの録音を聴いたところでは、思索的な演奏であるなあ・そこに何かあるらしいなあということは確かに感じますが、吉之助にはどうも間が持ちきれないように聴こえて、いまひとつ感動にまで至りませんでした。特にショパンについては納得できるものではありませんでした。ただし、これは吉之助にはそう聞こえたということに過ぎませんが。月並みな言い方ですが、録音では捉えきれないところがあるような気もします。そういうところで6月25日の紀尾井ホールでのリサイタルを聴いたわけです。
紀尾井ホールでのリサイタルでは前半プロがベートーヴェンの「悲愴」・「月光」のふたつのピアノ・ソナタという点が注目でしたが、これは素晴らしい出来でした。いわゆる古典的ながっちりした構成感を持つ音楽とはちょっと違って、どちらかと言えば線を強く意識した演奏と云えましょうか。描線の筆致にアファナシエフ独特の間合いと色合いが あり・しかも緊張感が維持されて、それが意志的なベートーヴェンの曲によくマッチしていました。もともとベートーヴェンはメッセージ性が強いですが、ここでは「この曲を弾かずにはいられない」というアファナシエフの内的な鼓動が聞こえるようでした。 テンポは遅いとも言えますが、長い間合いも旋律の息によく合致しており・それほど遅いとは感じません。むしろオーソドックスに曲に対しているように感じられました。どちらのソナタも冒頭楽章を若干ロマン風に重めに作り、中間楽章をやや軽めに淡々と取り、終楽章をきりっとした造形で締めるという構成もよろしかったのではないでしょうか。確かにこのピアニストは息遣いが見て取れるライヴの方が面白いということが言えそうです。
一方、後半プロのショパンのポロネーズ5曲に関しては、吉之助はやっぱり納得できない気がしました。実はベートーヴェンの後にショパンを置いていたこともあって、古典的な構成感でショパンの造形を引き締めるかと想像したのですが、外れでしたね。多分ショパンのフォルム感覚においてアファナシエフと吉之助とは考え方が異なるということだと思います。吉之助はショパンに関しては緩急を付けることでアジタートな気分を醸し出すことが肝要だと思ってい ます。全体のテンポが異様に遅くてもポゴレリッチのようにフレーズに強烈な緩急が付いているならこれを称賛するのにやぶさかではないですが、アファナシエフのようにどこもかしこもテンポを一様に引き伸ばしたように遅く取るのは印象が平板になって、まあ少なくとも吉之助の好みではないということです。アファナシエフのショパンに関しては、吉之助はもうしばらく評価を保留したいと思います。
ベートーヴェンに関しては、最新のスタジオ録音(上述)の出来が構成が練り上げられて技術的にもさらに素晴らしく(ライヴにおいては微妙なところで瑕疵が少なくなかったようで した)、これはこの曲の名演として十分お薦めできるものと思います。 またこのCDにはアファナシエフのインタビューDVDが添付されており、これを見ることも大変に得るところが大きいと思います。それにしてもベートーヴェンの曲 はどんな扱いでもビクともしない。構成が実に緊密であるなあということを改めて思いますね。
ヴァレリー・アファナシエフ:ベートーヴェン:悲愴・月光・熱情(ソニー・クラシカル・スタジオ録音)
(ちなみに6月25日・紀尾井ホールでのプログラムは以下の通りでした)
- ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第8番ハ短調 Op13「悲愴」
- ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調 Op.27の2「月光」
(休憩)- ショパン:ポロネーズ 第1番 嬰ハ短調 Op.26の1
- ショパン:ポロネーズ 第6番変イ長調 Op.53「英雄」
- ショパン:ポロネーズ 第2番変ホ長調 Op.26の2
- ショパン:ポロネーズ 第3番 イ長調 Op.40の1「軍隊」
- ショパン:ポロネーズ 第4番 ハ短調 Op.40の2
(H27・7・12)