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五代目富十郎の「勧進帳」

平成21年5月27日歌舞伎座:矢車会・「勧進帳」

五代目中村富十郎(弁慶)、二代目中村吉右衛門(富樫)


1)富十郎と武智歌舞伎

吉之助が師匠と仰ぐ演出家武智鉄二は昭和24年(1949)から昭和27年頃にかけて歌舞伎再検討公演を主催しました。「武智歌舞伎」というのはマスコミが名付けた呼び名ですが、これは大資本松竹と逆賊武智という対立構図を見立てて、そこには多分に揶揄した響きが感じられます。武智歌舞伎の舞台は、今は文献でしか確認できないもので、想像するしかありません。遅れて生まれた吉之助は、晩年の武智の演出作品はいつくか見ましたが、武智歌舞伎の雰囲気をちょっと味わったという程度のものです。ところで武智歌舞伎から出たスターは三人いました。藤十郎(当時は中村扇雀)・富十郎(当時は坂東鶴之助)、そして後に映画に走り夭折した市川雷蔵です。

武智の証言によれば、武智の所に来たばかりの頃の扇雀はまったくひどいもので、松竹では「扇雀には台詞がある役をやらせるな」という話があったほどであったほどだったそうです。八代目三津五郎(当時は蓑助)や能の片山九郎右衛門らの協力を得て、時間を掛けて根気良く練習して実力を付けていって、やがて藤十郎は昭和28年「曽根崎心中」で大ブレークすることになります。日経新聞の「私の履歴書」(2005年1月)のなかで、藤十郎は九郎右衛門宅で来る日も来る日も畳の縁をすり足で歩く練習ばかりさせられたという思い出話を書いていました。実際・藤十郎はよく武智歌舞伎の話をしますし、そこに自分の原点があるということを感じているようです。

一方、武智歌舞伎時代の富十郎には、藤十郎のような逸話がないようです。どうやら富十郎は最初から出来上がった役者らしくて、武智歌舞伎の優等生だったのです。富十郎のかっきりした折り目正しい芸風は武智の好みに良く似合うようですが、それはどうやら武智の仕込みのおかげということではなく、それは富十郎が元々備えていた資質によるものだと思います。そのせいか藤十郎と違って、富十郎は武智歌舞伎の話をほとんどせぬようです。これは別に非難しているわけではなくて、富十郎は言われたことはちゃんとその通り出来たのだろうし、本人には「武智歌舞伎のおかげ」という実感が正直少ないのだろうと思います。それにしても平成21年矢車会での「勧進帳」の舞台映像を見ると、富十郎には武智歌舞伎に対する思い入れが希薄だなあということが改めて感じられて、武智を師匠とする吉之助としてはチト寂しい気がしたのも事実です。

ところで武智演出の「勧進帳」が上演されたのは、昭和39年1月・日生劇場のことでした。正確に言えば武智歌舞伎以後の武智の仕事ということになります。この時の弁慶は富十郎(当時は鶴之助)・富樫は雷蔵でした。この時の「勧進帳」についてドナルド・キーン氏は次のように語っています。

『それまでに僕は、何回も名優と言われる人の「勧進帳」を見ていたのですが、鶴之助さんの弁慶は実に見事なものでした。それは絶対的なものでした。こうしたらいい、右手をもう少し上・・などという注文は、ひとつもなかったのです。「勧進帳」というものは、こうでなければならない。まるで幾何学のように、解決は絶対にひとつです。(中略)僕は泣けない人間です。どんな悲しいことがあっても涙が出ないんです。そんな僕が泣いたんです。なぜ、あのときに泣いたのか、後で自分の気持ちを分析してみました。あまりにも素晴らしくて泣いたのでした。人間があんなに素晴らしいことをすることが出来た。人間は、そんなに偉いはずがないのに。そう思いながら泣いたんですね。』(ドナルド・キーン/徳岡孝夫:「棹友紀行〜三島由紀夫の作品風土」)

現行の「勧進帳」の弁慶は能の金剛流の梵字散らしの水衣ですが、武智演出では観世流のかんとん縞の水衣でした。実は七代目団十郎創演の時の衣装はかんとん縞で、これを梵字散らしに変えたのは九代目団十郎でした。九代目の贔屓に伊勢のお殿様の藤堂高潔がいまして、この方が金剛流の名手でありましたので、九代目はその拝領した水衣を着て弁慶を演じたと思われます。九代目が衣装をいつ頃変えたのか正確な記録が残っていませんが、明治20年の天覧歌舞伎の時には既に梵字散らしであったようです。しかし、これは衣装の変更だけに留まらないもので、九代目は本行(能)を参照しながら「勧進帳」の細かいところを改変しました。当然それは観世流から金剛流への微細な変更を含むと思います。武智は弁慶の水衣をかんとん縞に変えると同時に「勧進帳」を七代目創演時のコンセプトを想像してみたい(ただしそっくりそのままということではありませんが)ということを試みたのです。この武智演出の「勧進帳」は、舞台を見に来た十一代目団十郎が怒り出し・上演差し止めを要求するという事態に発展して、そのため内容以前のところでマスコミの話題にされてしまいました。もっとも武智の方は宗家からの抗議を予想して「歌舞伎十八番の内」という角書を最初から外していたのです。

実は今回の矢車会で富十郎がかんとん縞で弁慶を演じたという話を聞いて、さては武智版「勧進帳」の再現か?ということで吉之助も色めき立ったのですが、しかし、結論として・これは吉之助の早合点で、今回の「勧進帳」は確かに衣装を変えたり・本行(能)の感触を取り入れたり工夫はしていますが、その演出コンセプトが甚だ不明確なものでした。もちろん富十郎も事前のインタビューでもチラシでも「武智」とひと言も言っていません。おまけに富十郎は「歌舞伎十八番の内」の角書を平気で使ってさえいます。映像を見て今回の「勧進帳」の舞台は武智と関係ないことがよく分かりました。しかし、それはともかく富十郎が弁慶をかんとん縞で演じて・そこに武智の思い出がまったく出てこないというのも、これまた寂しい話ではあります。富十郎にとって武智歌舞伎時代とは何だったのでしょうかねえ。

(H22・2・21)


2)「勧進帳」再検討の難しさ

別稿「勧進帳のふたつの意識」において天保11年(1840)に七代目団十郎が創始した「勧進帳」のなかにふたつの表現ベクトルが見えることを考察しました。ひとつは七代目が市川家伝来の荒事芸を新しい形で蘇らせようとしたことです。当時の評判記には荒事はもう古臭くて時代遅れ・筋が単純で退屈だというようなことがよく出てきます。七代目はこのことに強い危機感を持ったと思います。このため七代目が計画したのが、荒事の代表的なキャラクターである弁慶を主人公に新作を上演して・これをきっかけに成田屋の家の芸のキャンペーンをぶち上げることでした。それが「歌舞伎十八番」なのです。当然ながら「勧進帳」でも荒事の要素は元々強く意識されていました。しかし、現行の「勧進帳」を見れば荒事ということがあまり見えないかも知れません。

もうひとつは能の「安宅」を材料にして能的な表現にできるだけ近づいて高尚化していこうという意識です。「勧進帳」の高尚化・上昇化を強力に推し進めたのは九代目団十郎でした。それを象徴する出来事が明治20年の天覧歌舞伎での「勧進帳」上演であったことは言うまでもありません。このことは七代目の初演時にはさほど顕著ではなかったのですが、それでも初演の評判記「役者舞台扇」には「おいらたちはやっぱりたて狂言がおもしろい。あまり弁慶にばかりこられたせいかひと言もいつもほどたましいがないように思われた」と書かれています。江戸の観客は「これはどうやら俺たちの弁慶とはちょっと違うらしい」と感付いたのです。ですから七代目の意図のなかにも潜在的に高尚化はあったのです。(これについては別稿「身分問題から見た歌舞伎十八番」をご参照ください。)

このような流れが「勧進帳」演出にどう反映しているかについては、別稿「勧進帳の元禄見得」に掲載した写真をご覧ください。岩田秀行氏が発掘された明治5年2月の守田座で若き日の九代目団十郎(当時は河原崎権之助)の弁慶の元禄見得の写真です。これを見れば右手を水平に差し出し・勧進帳を下に構える現行の元禄見得とは違って、右手を上にして勧進帳を力強く振りかざす形です。「車引」の梅王や「暫」の権五郎の元禄見得を考え併せれば、これが「勧進帳」の弁慶の元禄見得本来の形であったことは容易に想像出来ます。つまり九代目の「勧進帳」の高尚化の過程で荒事の要素がアク抜きされる形で洗練化したのが現行の弁慶の元禄見得です。これは「勧進帳」検討の時の大きな材料になります。

もうひとつ別稿「勧進帳の変遷」において服部幸雄先生の校訂による「勧進帳」初演本・再演本・現行本を比較していますからそれをご参照ください。まず初演本・再演本には弁慶の「笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」がありません。(注:この台詞は能の「安宅」にはあるものです。)また富樫の「早まり給ふな番卒どものよしなし僻目より判官どのにもなき人を疑へばこそ斯く折檻も仕給ふなれ」 という有名な台詞は初演本にはなく、それは再演本に初めて現れるのです。(注:この台詞は歌舞伎のオリジナルです。)最終的にこのふたつの台詞が「勧進帳」に取り入れられることで、弁慶と富樫の性格がどのように変化したかということを考えねばなりません。

能の「安宅」は富樫が弁慶の威嚇に恐れ入って義経一行の関所通行を許すというのが大まかな筋です。歌舞伎の「勧進帳」はそうではなく、富樫は弁慶の忠義の心に感じ入って・自分の判断で一行の関所通行を許します。これが「勧進帳」と本行との決定的な相違です。ただし初演本ではこのような富樫の性格はまだそれほど明確ではなく、どちらかと言えば「安宅」に近い雰囲気が濃厚に残っています。これが再演本になると富樫の人間性と・義経一行の通行を許すに至る心理変化がとても強く出てきます。名優小団次を富樫に据えたことにより・富樫の役がずっと重い役に改訂がなされたのです。富樫の性格が変化することで、相応する形で弁慶の性格も必然的に変化せざるを得ません。またこれにより義経一行の関所通過というドラマの意味が根本的に変化しました。「勧進帳」が今日の歌舞伎の最高の人気作としてあるのはこのような改訂の結果です。

したがって「勧進帳」演出の再検討を行う場合、七代目創演時のコンセプトを想像するということは、必ずしも本行(能)返りに直結するということにならないのです。かと言って単純に荒事味を強くすれば良いというものでもないのです。能の模倣ではない歌舞伎の・しかも荒事の歌舞伎十八番の「勧進帳」のベストの形態を見出そうと思えば、「勧進帳」のふたつの表現ベクトルの程良いバランスを見出さなければなりません。こういうことは文献的・考証的な研究だけではなかなか巧くは行きません。どれを取って・どれを捨てるかというセンスが要ります。昭和39年の武智鉄二演出の「勧進帳」も七代目のコンセプトを想像するということでしたが、もちろん七代目初演の舞台の復元ではありませんでした。そこで今回の富十郎のかんとん縞の弁慶の「勧進帳」ですが、いったいどの辺に「勧進帳」のベストの形態を想定した演出なのか・よく分からんと言わざるを得ませんねえ。

(H22・2・26)


3)本行返りの「勧進帳」

今回の富十郎は観世流のかんとん縞の水衣で直面(ひためん)で弁慶を演じ、ちょっと見ではこの「勧進帳」は本行(能)返りの「勧進帳」ということになるのかも知れません。しかし、直面とはいえ富十郎の弁慶は表情が実によく動きます。現代劇と言って良いほど表情が動いて、まるで能の直面の雰囲気になっていません。強弱緩急を大きく付けた台詞回しも、とても謡掛かりには聞こえません。これで何のための本行返りなのでしょうかね。幕切れの飛び六法ですが、富十郎は六法の足踏みをちょっと見せた後・摺り足で花道を入るやり方を見せました。仮にですが歌舞伎の「勧進帳」を能楽堂でやらせてもらうようなことがもしあって・弁慶が橋掛かりでこんな引っ込みを見せるならば、まあそれらしいかもねと思います。別稿「玉三郎新演出の舟弁慶」でも触れましたが、この辺に能に対する歌舞伎のコンプレックスを垣間見る気がします。それほど本行返りがしたいなら本物の能の「安宅」を見ればよろしいことなのです。七代目団十郎は本行を崩したのではなく・本行に歌舞伎独自の視点を加えたのですから歌舞伎役者はもっと自信を持てば良いのにと思います。幕切れの弁慶の飛び六法は、他に元禄見得や不動の見得・石投げの見得などが角々の決まりにあるとしても、現行の「勧進帳」が歌舞伎十八番・つまり江戸荒事の系譜を引くということを想起させる唯一の箇所だと言っても良いほどです。最も歌舞伎らしい幕切れをこのようにしてしまうのは実にもったいないことです。

ところで歌舞伎の「勧進帳」で富樫は弁慶の忠義の心に感じ入り・自分の判断で義経一行の関所通行を許すことが本行との決定的な相違であることは先に述べました。そこに歌舞伎の「勧進帳」の近世江戸の視点があるのです。「勧進帳」の初演は天保11年(1840)、明治維新はもうすぐそこまで来ているのです。「勧進帳」はそういう時代の作品であることをお忘れなく。能の「安宅」では富樫は弁慶の威嚇に恐れ入って義経一行の関所通行を許すのですから、その人間描写は比較的単純です。但し書きをつければ、それは能の「安宅」の出来が悪いということではなく、「安宅」は室町時代の中世的な視野に立つドラマなのです。近世江戸の歌舞伎の「勧進帳」の富樫はそうではなくて、関所通過を認めに至る経過に心理的な葛藤があって・そこに複雑なドラマがあるのです。歌舞伎の「勧進帳」はもちろん弁慶のドラマですが、それと同じくらいに富樫のドラマなのです。そう考えた時に歌舞伎の「勧進帳」で弁慶が舞う延年の舞の意味が明確になります。延年の舞は富樫を祝福するために舞われているのです。別稿「勧進帳についての対話」をご参照ください。

富十郎の弁慶は富樫から杯を受ける時に、富樫と番卒の方にチラリと警戒の視線をやり「これが毒酒であっても仕方ない、えいままよ」という面持ちで意を決して酒を飲むような印象です。だからあまり美味そうな酒に見えません。最後まで弁慶は富樫に心を許していないことが明らかです。弁慶の肝っ玉が小さく見えて、延年の舞いにカタルシスが感じられません。男の心に男が感じて・富樫は義経一行の通行を許したというのに、弁慶の方は富樫の気持ちに応えるつもりがまったくないように見えます。延年の舞いで弁慶は無言のうちに感謝の意を富樫に示すからこそ、この場面がでっかい男のドラマになるのです。延年の舞いはもっと朗らかに・浮き立つように踊られるべきものです。

ところで能の「安宅」の小書きでは弁慶は酒を持ってやってきた富樫に心を許 さず・酒を毒酒と疑ってこれをこっそり捨てて・決して酔って延年の舞いを舞うのではないというのがあるそうです。これは「安宅」では富樫は弁慶の威嚇に恐れ入って義経一行の関所通行を許すという筋ですから、それならば当然あり得る解釈です。しかし、何度も書きますが・
歌舞伎の「勧進帳」で富樫は弁慶の忠義の心に感じ入り・主人頼朝の命に背くのを覚悟で・自分の判断で義経一行の関所通行を許すのですから、「勧進帳」に能の小書きが応用できるとは思えません。と言うよりすべきではないのです。もしそれをするならば富樫の「早まり給ふな番卒どものよしなし僻目より判官どのにもなき人を疑へばこそ斯く折檻も仕給ふなれ」という台詞はカットすべきで、富樫の性格を元の「安宅」の形に書き直さねばなりません。けれども今回の吉右衛門の富樫は現行の歌舞伎の「勧進帳」の富樫まったくそのままなのです。

気になるところは、まだあります。「笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」で富十郎の弁慶が3歩ほど富樫の方に向かって踏み出し威嚇の風を見せることです。確かにこれはハッとさせますが、こうなると四天王も当然弁慶に続いて押し出さざるを得ません。すると富十郎の弁慶は今度は一転して四天王を押し止めに掛かる(ここは現行通りそのまま)というのは矛盾してると思うのです。それならばいっそのこと・弁慶は四天王を従えて富樫たちに一気に押しに掛かり両者睨みあうという方が展開として理にかなっているように吉之助には思えますがね。またその場合は弁慶は金剛杖を威嚇する形で高く構える方がよろしいかと思いますが、ここでの富十郎はいつもの通り逆手で低く金剛杖を持つのです。つまり勇み立つ四天王を弁慶が抑えるいつもの形になっているのです。結局、「笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」で弁慶が3歩踏み出すことにどういう意味を見出すかということが「勧進帳」全体のなかで曖昧なのです。今回の舞台は「勧進帳」全体を一貫して解釈する視座に欠けており、弁慶だけにいつもとちょっと違う本行風の味付けをしてみただけという感じが否めません。

(H22・3・3)


4)富十郎の弁慶

七代目団十郎はどうして新作を原作と同じ「安宅」とせず「勧進帳」と命名したのでしょうか。能掛かりのイメージを利用するなら「安宅」を名乗った方が有利なのは明らかです。ですから「勧進帳」という題名には七代目が能の真似事ではない歌舞伎独自のものであることを主張する意味があるはずです。七代目は当時講談で呼び物であった「弁慶と富樫の山伏問答」を講談師燕凌(えんりょう)と南窓を招いて実演させて、これを芝居のなかに取り込みました。山伏問答は原作「安宅」にはないもので、七代目がこれを新作の眼目としたのは明らかです。勧進帳読み上げは市川家伝来の荒事のツラネの様式を踏襲したもので、元禄歌舞伎の「しゃべり」の技術をそこに再現しようとしたのです。七代目はさらに続く弁慶・富樫の山伏問答でその技術的・演劇的発展を試みました。(別稿「アジタートなリズム」の荒事の項をご参照ください。)

今回の舞台の富十郎の弁慶の読み上げから問答ですが、現実場面にありそうなリアルな問答を意図しようということかと思います。「さすが富十郎だけに言語明瞭・緩急自在の台詞回し」と褒めたいところですが、しかし、荒事の様式の観点から見ればこれは「崩れまくっている」と言って良いものです。まず勧進帳を構えたところから始終チラチラと富樫の方を見やり、富樫に一々反応して目を瞑ったり笑ったり・表情や姿勢を頻繁に動かすなど、弁慶の人間を小さく見せると言うだけでなく・安易な写実に墜したという印象です。台詞の緩急・声の高低を大きく付け・その意味ではダイナミックな台詞回しですが、確かに新劇で安宅の関の場面をやるならこの台詞回しで良いでしょう。しかし、これは歌舞伎の山伏問答ですから様式を意識させてくれなければ困ります。

一方の吉右衛門の富樫は現行の「勧進帳」そのままの感覚にどっぷり浸かった富樫なので・ますます富十郎の意図が理解できなくなります。富十郎が兎にも角にも従来の感覚とは違う弁慶を作ろうと奮闘しているその眼前で、いつもと同じ調子の富樫を演って平気でいられる吉右衛門の神経もよく分かりません。富十郎は「忙しいなか一日だけの公演に特段の配慮で出演していただいた播磨屋さんに煩い注文は出来ません」ということで遠慮したのでしょうかね。おかげで弁慶と富樫が視覚的にも様式的にもまったく噛み合わない奇妙な印象の山伏問答になりました。従来通りと言っても吉右衛門の富樫が良いわけではありません。「そもそも九字の真言とは如何なる義にや・・」で富樫が詰め寄る場面は、最近の舞台ではいつも富樫だけが勝手に興奮しているようにしか見えませんが、吉右衛門の富樫も同様です。それは台詞の息が詰められてないからです。

最近の「勧進帳」の舞台を見ると、弁慶と富樫の山伏問答を対話劇と捉えて観客に問答を分かり易くきかせるように・噛んで含めるようにゆっくりと言い、相手の台詞に一々反応して写実に言う傾向がますます強くなっています。今回の舞台の富十郎と吉右衛門にしても、様式的には噛み合っていないけれども 、この点では双方とも同じです。ですからこうした問答を「分かり易くて良い」などと評する方が出てくると思いますが、しかし、よく考えて欲しいのですが、ここでの山伏問答は、富樫は何とかして弁慶に返答を詰まらせて・ボロを出させて捕まえようという腹で次から次へと矢次ぎ早に難問を繰り出すのです。対する弁慶の方は、専門用語を並べ立て・もっともらしい理屈をサラサラと連ねて・相手を丸め込み一刻も早く逃げようという腹で、返答を早口でまくし立てるのです。お互いに「お前・これが分かるか・分からないだろ・どうだどうだ」という問答なのです。だから相手が理解しやすい問答など全然意図してはおらぬのです。相手の返答を聞いて納得して・ホウなるほどね・それでは次の問いですが・これについてお答えくださいねというような悠長な紳士の問答をしているのではありません。山伏問答とは、片方は何としてでも関を通る・片方は如何様あっても通すことはできない・という双方の気迫が真っ向からぶつかる場面であることが分かれば、弁慶にとって勧進帳をデッチ挙げることなど簡単なことだ・山伏問答などお安いことだなどと言う解釈が腹違いであることはすぐ分かることです。この辺は「勧進帳は音楽劇である」をご参照ください。

別稿「勧進帳の変遷」でも触れた通り、七代目初演の「勧進帳」が現行の形に変化し・今日歌舞伎最高の人気作となっていく過程は、そっくりそのまま富樫の性格の変化を反映した結果です。そしてこのような仁義ある富樫の性格は七代目初演の「勧進帳」に全然なかったものではなく・その内面にあって隠れてはっきり見えていなかったもので、その意図が上演を繰り返すなかで次第に明確になってきたということです。ですから「勧進帳」演出の再検討をするならば、富樫の検討から始まらなければホントは意味がないのです。富樫の位置が決まることで、相対的に弁慶の立ち位置が決まって来るのです。富十郎はその辺をよく見定めないで、弁慶にばかり凝ってそれで良しとしてしまったように思います。ところで師匠・武智鉄二は富十郎のことを次のように評しています。

『富十郎は頭が良い。理解力が早い。これは武智歌舞伎の昔からそうであった。彼の最大の欠陥はそこにあった。頭が良いから頭を使わないのである。頭を使うまでに行き着かないうちに、何事も理解が付いてしまうのである。彼は孤独、孤児的環境を頭を使うことで紛らすことができる世にも恵まれた環境にいる。それを人間臭さ、寂しさを口実に韜晦(とうかい)して、ごまかして生きてしまっているのではないか。』(武智鉄二:「中村富十郎」・昭和51年)

どうも今回の「勧進帳」を見ると武智の指摘することがそっくり当てはまる気がしますねえ。この富十郎の弁慶に対しいつも通りの富樫を演って平気な吉右衛門の感覚も困ったものだと思いますが、富十郎もこの辺は遠慮せず忌憚ないところを言い合いながら、弁慶・富樫で一致したコンセプトで舞台を作り上げていかないと良い「勧進帳」は出来ないということを申し上げたいですねえ。

(H22・3・13)


 

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