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「勧進帳」の変遷

〜歌舞伎十八番の内「勧進帳」

*本稿は別稿「勧進帳」についての対話の関連記事です。


1)謡曲「安宅」原作本

現行の「勧進帳」の舞台を完成したのは・九代目団十郎であるのはご存知の通りです。九代目団十郎はその生涯に二十回(興行)「勧進帳」を演じましたが、演るたびに演出を変えています。その結果、父・七代目郎の舞台とはかなり違ったものになってしまいました。今我々が見るところの「勧進帳」は九代目団十郎が最後に演じた明治32年(1899)4月歌舞伎座の舞台を基本にしたものを・弟子の七代目幸四郎らが継承して完成したものです。

しかし、九代目団十郎は父七代目の演出を自分の都合で勝手に変えたわけではないのです。現行の「勧進帳」の姿は七代目の初演の演出コンセプトのなかにもその萌芽があり、九代目は父の発想を追いながら・自分自身の創意工夫を加えています。だから七代目の考えていることの延長線上に現行の「勧進帳」の舞台があるのです。このことをちょっと考えてみたいと思います。

まず謡曲「安宅」の詞章を見てみます。「安宅」の作者は不明ですが、寛正6年(1465)3月の室町将軍院参の折の観世演能に「あたか」の曲名が見えるそうです。(詞章は小学館・日本古典文学全集・59に収録の観世流「寛永卯月本」を参照しました。)

引用する場面に先立ち弁慶の「勧進帳読み上げ(ノット=祝詞)」の場面があります。しかし、弁慶が「天も響けと読み上げ」ると富樫たち関の人々は「肝を消し・恐れをなして 」一行を通してしまいます。だから能には歌舞伎のような山伏問答がありません。また歌舞伎では富樫が布施物を寄進しますが・能にはこの場面もありません。弁慶一行 が関を通過しようとすると、そこで義経の姿を認めた 太刀持の注進で富樫が強力を留めます。

(太刀持)「いかに申し上げ候。判官殿の御通り候。」
(富樫)「いかにこれなる強力留まれとこそ」
(すはわが君を怪しむるは、一期の浮沈極まりぬと、皆一同に立ち帰る。)
(弁慶)「おう、しばらく、あわてて事を為損ずな。やあ何とてあの強力は通らぬぞ。」
(富樫)「あれはこなたより留めて候。」
(弁慶)「それは何とて御留め候ふぞ。」
(富樫)「あの強力がちと人に似たると申す者の候ふほどに、さて留めて候ふよ。」
(弁慶)「何と人が人に似たるとは珍しからぬ仰せにて候。さて誰に似て候ふぞ。」
(富樫)「判官殿に似たると申す者の候ふほどに、落居の間留めて候。」
(弁慶)「や、言語道断、判官殿に似申したる強力めは一期の思ひ出な。腹立ちや日高くは、能登の国まで指さうずると思ひつつぬ、僅かの笈負うて後に下がればこそ人も怪しむれ。総じてこのほど憎し憎しと思ひつつに、いで物見せてくれんとて、金剛杖を押つ取つてさんざんに打擲す。通れとこそ。」
(富樫)「何と陳じ給うとも、一人も通し申すまじく候。」
(弁慶)「や、笈に目をかけ給ふは盗人(とうじん)ざうな」
(立衆)「方々は何故に、方々は何故に、かほど賤しき強力に、太刀刀(たちかたな)を抜き給ふは、目垂れ顔の振舞は、臆病の至りかと、十一人の山伏は、打刀(うちがたな)抜きかけて、勇みかかれる有様は、いかなる天魔鬼神も、恐れつべうぞ見えたる。」
(富樫)「ちかごろ誤りて候。はやはや御通り候へ。」
(太刀持)「急いでお通りやれお通りやれ。」

「目垂れ顔」とは人の弱みにつけこんで・卑怯な行為をする時の顔つきのことを言います。「方々は何故にかほど賤しき強力に太刀刀(たちかたな)を抜き給ふは目垂れ顔の振舞は臆病の至りかと」とは、あなた方はどういう理由で・そんな賤しい強力に太刀や刀をお抜きなさるのか・そんな弱い者に対してあなどった態度を取るのは・はなはだしく臆病であるからなのかという意味です。これはその前の弁慶の台詞「笈に目をかけ給ふは盗人ざうな」を受けた詞章です。弁慶は富樫たちが強力の笈に目をつけて金品を巻き上げようとしたと言い掛かりをつけて脅し・山伏たちは怒りの形相で富樫たちに迫ります。吃驚した富樫はあっさりと関の通過を許してしまいます。

この場面で弁慶は強力(義経)を金剛杖でさんざんに打擲します。ここは弁慶の荒々しさを見せる箇所ですが・関を通り過ぎた後で弁慶が泣いて義経に謝るからそうとは思うものの・「安宅」においては弁慶の義経打擲がドラマの重要なポイントになっているようには思われないのです。山伏たちが必死の形相で富樫に詰め寄って脅したことの方がよほど効果があったように見えます。だから「安宅」では義経打擲より「笈に目をかけ給ふは盗人ざうな」の台詞の方が重要に思えます。

2)「勧進帳」現行本

歌舞伎での「勧進帳」は、岩波書店・日本古典文学大系・98に所収の、昭和18年12月歌舞伎座での七代目松本幸四郎が上演した時の台本を定本にしたものを参照しています。これがもっとも厳密に考証された「勧進帳」 脚本とされています。

(富樫)「如何にそれなる強力、止まれとこそ。」
(すはや我が君怪しむるは、一期の浮沈ここなり、各々と後へ立帰る。)
(弁慶)「慌てて事を仕損ずな。こな強力め、何とて通り居らぬぞ。」
(富樫)「それは此方とり留め申した。」
(弁慶)「それは何ゆえお留め候ぞ。」
(富樫)「その強力が、ちと人に似たりと申す者の候ほどに、さてこそ只今留めたり。」
(弁慶)「何、人が人に似たりとは珍しからぬ仰せにこそ、さて、誰に似て候ぞ。」
(富樫)「判官どのに、似たりと申す者の候ほどに、落居の間留め申す。」
(弁慶)「なに、判官どのに似たる強力めは、一期の思ひ出な、腹立ちや、日高くば、能登の国まで、越さうずらうと思ひをるに、僅かの笈一つ背負うて後に下がればこそ、人も怪しむれ、総じてこの程より、ややもすれば、判官どのよと怪しめらるるは、おのれが業の拙きゆえなり、思へば憎し、憎し憎し、いで物見せん」
(金剛杖をおつ取つて、さんざんに打擲す。)
(弁慶)「通れ。」
(通れとこそは罵りぬ。)
(富樫)「如何やうに陳ずるとも、通すこと」
(番卒)「まかりならぬ。」
(弁慶)「やあ、笈に目をかけ給ふは、盗人ざふな。」
(弁慶)「これ(四天王たちかかるを金剛杖を突きこれを制す)」
(方々は何ゆえに、かほど賤しき強力に、太刀かたなを抜き給ふは、目だれ顔の振舞、臆病の至りかと、皆山伏は打刀を抜きかけて、勇みかかれる有様は、如何なる天魔鬼神(おにがみ)も、恐れつべうぞ見えにける。)
(弁慶)「まだこの上にも御疑ひの候はば、あの強力め、荷物の布施物諸共、お預け申す。如何やうにも糾明あれ。正し、これにて打ち殺し見せ申さんや。」
(富樫)「こは先達の荒けなし。」
(弁慶)「然らば、只今疑ひありしは如何に。」
(富樫)「士卒の者が我れへの訴へ。」
(弁慶)「御疑念晴らし、打ち殺し見せ申さん。」
(富樫)「早まり給ふな、番卒どものよしなし僻目より、判官どのにもなき人を、疑へばこそ、斯く折檻も仕給ふなれ。今は疑い晴れ申した。とくとく誘い通られよ。」
(弁慶)「大檀那の仰せなくんば、打ち殺いて捨てんずもの、命冥加に叶ひし奴、以後をきつと、慎み居らう。」
(富樫)「我はこれより、猶も厳しく警固の役、方々来れ。」
(番卒)「はあ」
(士卒を引き連れ関守は、門の内へぞ入りにける。)

日本古典文学大系 98 歌舞伎十八番集

比較してみると「勧進帳」の詞章が謡曲「安宅」から多く採られていることがよく分かります。しかし、歌舞伎の場合はさらに台詞が加わえられてドラマの起伏は「勧進帳」の方がずっと大きなものになってい ると思います。まず気が付くことは弁慶が強力(義経)を金剛杖で打擲する場面がずっと重くなっていることです。もうひとつは「安宅」のように山伏たちが詰め寄って富樫が恐れ入って一行の関を通すのではなく、歌舞伎では弁慶が強力を打ち殺そうとするのを富樫が留め (つまり義経を助けて)一行の関通過を認める段取りになっていることが明らかなことです。つまり弁慶の義経打擲がこの場面の核心であることが「勧進帳」では明確なのです。このことが後の場面で弁慶が義経の前で泣くことの複線としてグッと効いて来ます。これは「安宅」より「勧進帳」の方がはるかに納得が行く展開に思えます。

この場面は舞台ではほとんど動かない義経という存在をドラマの核心に位置付ける最重要の場面ですが、しかし、現行歌舞伎の「勧進帳」の舞台を見ていると、吉之助にはいくつか疑問に思う点があるのです。

疑問点のひとつは、ここは弁慶の義経打擲だけに焦点を絞って富樫を攻めた方がドラマの流れとしてより効果的ではないかということです。だとすれば弁慶の「やあ笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」の台詞が流れからすると不要に思われるのです。ここはストレートに義経だけで富樫を攻めた方が良いと 吉之助には思えます。富樫を攻めていく時の論点がブレてしまうように思えます。

この場面を考えてみるに、弁慶はか弱い強力が修行が足りないゆえに小さい笈を背負ってフラフラしているから疑われるのだとイチャモンを付けて・義経を打擲するのです。しかし、これだけでは富樫の疑いを解くにはちょっと 説得力不足のようにも思われる。そこで富樫たちが強力の笈のなかの金品に目を付けていると言い掛かりを付けて脅し・いわば二面から富樫を攻めようとしていると考えることができるかも知れません。「やあ笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」は原典の「安宅」にもある台詞でもあることでもあるし・まあ・仕方ないことであるかなというのが、現行の舞台を見ていて 吉之助がいつも感じるところでした。しかし、「勧進帳」ではその前場面で富樫は布施物を寄進しているのですし・富樫がその布施物をまた取り返そうとしているというのも・言い掛かりとしては苦しいように思います。

疑問点のふたつ目は「方々は何ゆえに・かほど賤しき強力に・太刀かたなを抜き給ふは、目だれ顔の振舞・臆病の至りかと」の長唄の詞章の「方々」は誰が誰に対して言っている台詞かということです。「安宅」であれば これは四天王の台詞に当たることは明らかですから・「方々」は富樫ら関守の人々を指すのです。

「勧進帳」であるとこの台詞は弁慶の台詞になりますが、しかし、「勧進帳」の「方々は何ゆえにかほど賤しき強力に・・・」という台詞は弁慶が富樫ら関を守る人々に言 っている台詞のようにも聞こえるけれども、同時に弁慶が必死の形相で詰め寄ろうとする四天王に対し・「どうして貴方たちはこんな賤しい強力を必死になって守ろうとするのだ・放って置けば良いではないか」と言っているようにも読めます。いやそのどちらにも取れるように書かれているのだというのは、この緊迫した場面においてはないことです。現行の舞台を見ていると・この点も不明瞭に思われます。

3)天保11年・「勧進帳」初演本

以上の疑問を考えるために・季刊雑誌「歌舞伎・6」(昭和44年10月・松竹)に服部幸雄先生の解説付きで掲載された「勧進帳」初演本と再演本の復刻を参照します。まず初演本は天保11年(1840)3月河原崎座で七代目団十郎(当時は海老蔵)が初演した時のもの。再演本は嘉永2年(1849)3月河原崎座で八代目団十郎の弁慶で再演された時のもの。

まず天保11年(1840)3月河原崎座での初演本を見ます。弁慶は海老蔵(七代目団十郎)・富樫は九蔵(後の六代目団蔵)です。勧進帳読み上げ・問答の後、富樫が一行の布施物を寄進する場面があり、その後が富樫の呼びとめとなります。

(富樫)「いかにそれなる強力こそとまり申すべし」
(すわや我きみあやしむるは、一期のふちんここなりと、おのおの跡へたちかえる)
(弁慶)「夫は何とて御留候そ。」
(富樫)「あの強力が人に似て候程に留申て候。」
(弁慶)「なんと人が人に似たるとは、珍しからぬ仰にて候。さては誰に似て候ぞ。」(富樫)「判官どのに似たると申者の候程に、落居の間留て候。」
(弁慶)「なに此強力が判官どのに似たると候や、言語同断、判官どのに似たる強力め、日高くは能登の国までさそふずると思ひしに、此笈負て跡へさがればこそ人は怪しむね、此程もにくしにくしと思ひつるに、いでもの見せん。」
(金剛杖をおつ取て、さんざんにてうちやくす。)
(弁慶)「猶此上にも御疑ひ候ば、仰次第切捨ん、いかが。」
(士卒三人)「通りおらふ」
(通れとこそはののしりぬ)
(弁慶)「こりゃ」
(かたがたは何ゆえに、加程賤しき強力を、太刀刀を抜給ふや、目たれ貌の振舞、おく病のいたりと、皆山伏は打刀抜かけて、勇みかかれる有さまは、いかなる天魔鬼神も、恐れつべうぞ見えにける。)
(富樫)「近頃誤つて候。早々御通り候へ、我もしばらく休息なさん、かたがた来れ。」
(士卒三人)「はっ。」

これを見ますと「勧進帳」初演本は長唄の歌詞は現行本とほとんど同じなのですが、台詞の方がかなり異なることに驚かされます。現行本と比べると初演本は台詞が少ないのです。すぐ目につく相違点はまず弁慶の「笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」がないことです。また富樫の「早まり給ふな番卒どものよしなし僻目より判官どのにもなき人を疑へばこそ斯く折檻も仕給ふなれ」という有名な台詞がありません。

もうひとつ気が付くのは、弁慶の「猶此上にも御疑ひ候ば仰次第切捨んいかが」という・現行本では富樫に対する攻めのトドメになっている台詞が「かたがたは何ゆえに加程賤しき強力を・・」の詰め寄りの詞章の前に登場しており、ここで弁慶の剣幕に怯えた番卒たちが すぐに「通りおらふ」と叫んでいることです。したがって、「通れとこそはののしりぬ」という長唄の詞章が番卒たちが弁慶一行に対して叫んでいる描写に使われています。現行本では同じ「通れとこそはののしりぬ」の詞章は弁慶が義経を金剛杖で払いのける時に使われており・弁慶が義経を罵っている描写に変っています。

さらに「かたがたは何ゆえに、加程賤しき強力を・・・」の詞章が弁慶が詰め寄る四天王を押さえる場面で使われており・これは弁慶が四天王たちに向かって言っている台詞であることが明らかです。「安宅」では同じ詞章が四天王が富樫たちに向かって言う台詞として使われていますが、「勧進帳」初演本では・この詞章の前に番卒たちは「通りおらふ」と叫んでいます。とすれば弁慶が富樫たちに向かって「目たれ貌の振舞、おく病のいたり」と言う理由がもはやないのです。だから「かたがたは何ゆえに、加程賤しき強力を・・・」の詞章は主人義経が打たれる破目になったことでいきり立つ四天王を弁慶が制する台詞として使われていることが明らかです。

番卒たちが「通りおらふ」と言っているのだから一行はそのまま通ればいいのです。ところが四天王は主人が打たれたことに怒ってしまって富樫たちに詰め寄ろうとします。これを弁慶が抑える形になっています。すなわち「どうして貴方たちはこんな賤しい強力が打たれたことにそんなに怒るのか・放って置けば良いではないか」ということになります。四天王の怒りの形相を見て怖れた富樫が「近頃誤つて候。早々御通り候へ」と謝って逃げ出すので・弁慶は窮地を脱するのです。「勧進帳」初演本での富樫の人物も「安宅」同様に重いようには思われません。弁慶に通過を許した後の台詞が「我もしばらく休息なさん」とは情けないですね。よほど怖かったのでありましょうか。

ここで大事なことはまず「勧進帳」初演本においては弁慶の義経打擲がドラマの核心であるということです。富樫への攻めがこの一点に絞られています。原典の「安宅」にある「笈に目をかけ給ふは盗人ざふな」が省かれてることもこれならば納得できると思います。

もうひとつは現行本の「勧進帳」よりも弁慶の打擲という暴力行為・つまり弁慶の荒事味がストレートに現われていることです。元禄の昔から歌舞伎の弁慶は荒事のキャラクターの代表的なものでした。「勧進帳」は荒事の本家である市川宗家の芝居ですから、この義経打擲を荒事の弁慶を生かす場面とするのは当然の発想でしょう。弁慶が義経をさんざんに打擲し・「猶此上にも御疑ひ候ば仰次第切捨んいかが」と叫ぶと、番卒たちは恐れおののいて・すぐに「通りおらふ」と言ってしまいます。それだけ弁慶の荒事のイメージが強いわけです。

4)嘉永2年・「勧進帳」再演本

再演本は嘉永2年(1849)3月河原崎座で八代目団十郎の弁慶で再演された時のものです。この時、七代目は江戸を追放されており・息子の八代目は大坂に滞在中の父親に会いに上京する為・お名残狂言としての「勧進帳」でありました。なお、 江戸に復帰した七代目はこの後に嘉永5年9月河原崎座で一世一代にて「勧進帳」を再び演じています。

(富樫)「いかに、是なる強力とまり候へ。」
(弁慶)「コリヤ、あわてて事を仕損るな。」
(すわや我君怪しむるは、一期のふちんここなりと、各々跡へ立帰る。)
(弁慶)「コナ強力め、なにとて通りおらぬぞ。」
(富樫)「あれは、こなたより留め申。」
(弁慶)「それは、何ゆへ御とめ候。」
(富樫)「アノ強力がチト人に似と申者の候程に、さてこそ只今留たり。」
(弁慶)「何と、人が人に似るとは珍らしかなぬ仰せにこそ、さて誰に似て候ぞ。」(富樫)「判官殿に似たると申者の候ゆへ、楽居の間留め申。」
(弁慶)「言語道断、判官殿に似たる強力めは、一期の思ひ出し、エエはた立ちや、日高くは能登の国まで越ふずると思へるに、わづかの笈ひとつ背負ふて、跡にさがればこそ人も怪しむれ、惣して、此程より、ややもすれば判官殿かと怪めらるるは、己が仕業のはかなきゆへなり。ムム、思へばにくしや。憎し憎し、いでもの見せん。」
(金剛杖をおつとつて、さんざん二てうちやくす)
(通れとこそはののしりける。)
(富樫)「いかよふにちんずるとも通る事。」
(三人)「罷りならぬ。」
(弁慶)「コリヤ。」
(かたがたは、何故に、かほど賤しき強力を、太刀かたなをぬきたもうや。目たれ顔の振舞、おくひやうのいたりかと、皆山伏は打刀ぬきかけて、勇みかかれる有さまは、いかなる天魔も鬼神、恐れつべふぞ見へにける。)(弁慶)「まだ此上にも御疑ひの候ば、此強力め、荷物布施ともろとも御預け申ス、いかよふとも糾明なされい、但し是にて打ころし申さんや。」
(富樫)「コハ先達のあらけなし。」
(弁慶)「しからば只今疑ひ有しはいかに。」
(富樫)「士卒の者が我への訴へ。」
(弁慶)「御疑ひはらし、打ころし見せ申さんや。」
(富樫)「早まりたもうな、番卒共のよしなしひが目より、判官殿となき人を疑ひばこそ、かく折檻も仕たもふなり。今は疑ひはれ候、とくとく誘い通られよ。」
(弁慶)「大旦那の仰あらずば、打殺しても捨申さんもの、命冥加に叶ひしやつ、以後を急度心得おろふ。」
(富樫)「我はこれより猶も厳敷けいごの役目、みなみな来れ。」
(三人)「ハアー。」

初演本からの改訂点で重要なのは、初演では詰め寄りの前に置かれている「猶此上にも御疑ひ候ば、仰次第切捨ん、いかが」の台詞が、詰め寄りの後に移行していることです。そして更に弁慶が「御疑ひはらし、打ころし見せ申さんや」と富樫を責めることで、有名な「早まりたもうな、番卒共のよしなしひが目より、判官殿となき人を疑ひばこそ、かく折檻も仕たもふなり」という富樫の台詞を引き出していることです。なお再演本においても弁慶の「笈に目をかけ給ふは盗人ざうな」は出てきません。

嘉永2年の再演では弁慶が八代目団十郎、富樫が四代目小団次を勤めました。再演本を見れば一目瞭然ですが、名優小団次を富樫に据えたことにより・富樫の役がずっと重い役に改訂がなされたようです。初演本の富樫は弁慶の剣幕に押されっぱなしですが、再演本の富樫は弁慶にしっかりと対峙した・現行本とほぼ同じ重い役になってい ます。再演本において弁慶が義経を打擲することで・富樫を心理的に揺さぶり・さらに「打ころし見せ申さんや」と精神的に追い込んで行って・「判官殿となき人を疑ひばこそ・・・」の台詞を吐かせるという・ストレートな構造が出来上がったわけです。

別稿「勧進帳についての対話」において・富樫は弁慶を通して実は義経に対しているのだということ、ここで初めて富樫は「守らねばならない絶対的存在」との対峙を余儀なくされるということについて触れました。初演本ではまだまだ弁慶のひとり芝居のところがありますが、再演本では富樫の人間像に厚みが出たことで、義経打擲の重みが「勧進帳」の核心にであることが明確です。この流れは歌舞伎の義経物の系譜を踏まえているのです。

この再演本での富樫への心理追い込みのストレートな過程を見れば、現行本で弁慶が「笈に目をかけ給ふは盗人ざうな」という台詞は論点を乱しているだけで・劇的プロセスにおいて役に立っていないことは明白です。この台詞は謡本にある台詞だからと言う理由で三演以後(恐らくは明治以後の九代目団十郎により)付け加えられたものでしょうが、まあ、改悪ということになるかも知れません。

筋が前後しますが、初演本では番卒が「通りおろう」と叫んでいるのが・再演本では弁慶が「通れ」と叫んで義経を追い払う形になっているのも大きな改訂です。だから長唄の「通れとこそは罵りぬ」が弁慶の描写になっています。また長唄の「かたがたは、何故に、かほど賤しき強力を」 という文句は四天王が怒って富樫たちに詰め寄るのを弁慶が抑える台詞として使われていることは、初演本からの流れからも言えることかと思います。

以上のような「勧進帳」初演本・再演本・現行本の流れから見えることは大まかに次のようなことです。初演においてはオリジナルの能をベースにして歌舞伎味・特に荒事味をどう付加するかということに創意があったのです。(あるいはあまり能に近づ き過ぎるといろいろと障りがあったということもあるでしょう。)富樫の人間像は・初演本においてはオリジナルの能に近いものでしたが・再演本において富樫は歌舞伎独自なものに変容しました。そこには歌舞伎の「義経物」の系譜があるのです。そして、明治以後においては歌舞伎は能の様式美を取り入れたことを公の売り物にしつつ・九代目団十郎により「勧進帳」は高尚化の道をたどって行くわけです。

*引用しました脚本の出典については文中に記しております。

(H18・3・26)


 

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