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令和歌舞伎座の「菅原」通し〜道明寺

令和7年9月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑」〜道明寺(Aプロ・Bプロ)

十代目松本幸四郎(菅丞相)、二代目中村魁春(覚寿)、八代目尾上菊五郎(判官代輝国)、五代目中村歌六(土師兵衛)、四代目尾上松緑(宿彌太郎)、初代片岡孝太郎(立田の前)、八代目中村芝翫(奴宅内)、三代目尾上左近(苅屋姫) (以上Aプロ)

十代目松本幸四郎(菅丞相)、二代目中村魁春(覚寿)、二代目中村錦之助(判官代輝国)、三代目中村又五郎(土師兵衛)、四代目中村歌昇(宿彌太郎)、初代片岡孝太郎(立田の前)、九代目坂東彦三郎(奴宅内)、五代目中村米吉(苅屋姫) (以上Bプロ)

*Aプロ・十五代目仁左衛門(菅丞相役)休演(21日)のため代役。

(追加)Aプロ・映像:十五代目片岡仁左衛門(菅丞相)


1)幸四郎初役の菅丞相

本稿は令和7年9月歌舞伎座での、「菅原伝授手習鑑」通しの観劇随想です。十三代目仁左衛門が初役で道明寺の菅丞相を勤めたのは昭和56年(1981)11月国立劇場での「菅原」通しでのことでした。幸い吉之助はこの舞台を見ましたけれど、思い返せば・あれから現在まで44年が経過しました。この間、丞相役は松島屋のみ(十三代目と十五代目仁左衛門)が勤めてきたわけです。このため「丞相ならば松島屋」的なイメージは吉之助にもあって、そのせいか丞相が何となく上方の芸脈を引く役どころのように感じています。しかし、考えてみれば丞相は八代目幸四郎(初代白鸚)・十一代目団十郎・十七代目勘三郎も演じているので、実はいろいろな丞相があったわけなのです。吉之助は映像でしか知りませんが、勘三郎の丞相は木像を抱えてしばし見入り、「君が私の身替わりになって立ってくれたのか」と木像の奇跡に深く感じ入ったところを見せました。そのような人間味のある丞相もまた有りなのです。

ともあれ今回(令和7年9月歌舞伎座)の「菅原」で仁左衛門指導により丞相役が幸四郎に引き継がれたことは、歌舞伎にとって「道明寺」が大事な大事な演目であるだけに有難いことでした。もう一人丞相が適役と思われるのは八代目菊五郎でしょうが、こちらも判官代輝国として同じ舞台に立っているので、丞相の細かいところまで学んだことと思います。やはり伝承継承は日頃の実践のなかでこそ生きて来ますね。

さて幸四郎のことですが、吉之助が見た日(21日・Aプロ)は仁左衛門が体調不良で休演してしまい、幸四郎が代役を勤めました。それは兎も角、今回「菅原」通しでは幸四郎に掛かる負担が大変なことになっていますね。本人が出たがるのか、配役に困った時に重宝されているのかは分かりませんが、今回は源蔵を染五郎とダブルキャストで勤め、同じくダブルキャストですが車引と寺子屋の松王丸も勤めています。それに加えてこの菅丞相です。詳しいことは知りませんが、先日・3月歌舞伎座の「忠臣蔵」通し出演をお医者さんのアドバイスで休演した(させられた?本来ならば由良助のダブルキャストは幸四郎であったと思われる)経緯を考えれば、その後4月以降の出演も大役に・新作にと一向に出演をセーヴする気配が見えない。この状況は、ちょっと心配なことではあります。今月はそう疲れてもいない感じに見えましたが、一時お疲れ気味に見えた舞台もなくはなかったので、その辺松竹も配慮してもらいたいものだと思います。倒れてしまってからでは取り返しが付きません。

ともあれ筆法伝授での幸四郎の丞相はなかなか良い出来でありましたね。ちょっと見は仁左衛門をひと回り小さくした感じですが、仁左衛門の優美な印象をよく写し取っています。加えて幸四郎には高麗屋の実直な要素も持ち合わせているので、厳しいなかに情もある・人間的な丞相に感じました。だから筆法伝授だけを見るとなかなか宜しい塩梅でした。

道明寺になると一段と仁左衛門写しの印象が強い丞相になって来ます。仁左衛門の優美なところをよく取っていますが、道明寺ではこれがあまり上手く行っていない感じなのです。仁左衛門写しになるのは仁左衛門から伝授を受けているのだから当たり前と思うだろうが、そこで大事なことは、仁左衛門の教えを高麗屋の個性のなかに取り入れて、どのように折り合いを付けていくかなのです。仁左衛門だって自分のやり方そっくりそのままを押し付けるようなことは決してしないはずである。ただ幸四郎の丞相を見ると、幸四郎には丞相の現人神の神性と清らかさを強調したい気持ちが強いのであろう。そこが仁左衛門の丞相の美質であるからして、気持ちはもちろん分かりますけれど、このため表現が優美さの方へ流れてしまう傾向が見えます。そうすると幸四郎に本来在るべき丞相よりも描線が弱くなってしまうのです。肚が薄い感じに見える。これは幸四郎が演じる仁左衛門系統の役、例えば最近演じたところだと毛谷村六助などにも見える幸四郎の役作りの共通した弱点だと思いますねえ。仁左衛門の優美さは仁左衛門だけのもの。仁左衛門の優美さを表層的に真似るのではなく、その優美さのエッセンスだけを戴いて、そこを幸四郎持前の実直な芸風のなかで活かす、そうすることで幸四郎の丞相は仁左衛門のコピーでないものになっていくと思うのです。

例えば覚寿が杖折檻するのを丞相が押し留める一声、実はそれは木像が発した声ですが、

『アヽコレ/\伯母御前、卒爾(そつじ)の折檻し給ふな。斎世の君の御不憫ある、娘に疵ばし付け給ふな。父をゆかしと慕ひ来る、苅屋姫に対面せん。』

幸四郎の丞相の第一声は印象が弱々しい。情がこもった台詞回しではあるけれど、これでは覚寿が振り上げた杖を止めることは出来ません。もっと毅然としたところが欲しい。木像がしゃべっているのです。つまり神の啓示だということです。仁左衛門の高調子の台詞回しの優美なイメージを表層的になぞろうとするからこうなっちゃうのじゃないのでしょうか?そもそも幸四郎の丞相は筆法伝授の時よりも道明寺の時の方が声のトーンが高いようである。幸四郎のこのような声色の安直な使い分けは他の役でもしばしば見られる悪い癖ですが、こうしたところが幸四郎の役作りを柔く見せます。

『御年故の空耳か、今鳴いたは確かに鶏。あの声は子鳥の音、子鳥が鳴けば親鳥も・・

高調子に過ぎて心に響きませんねえ。こちらは現人神であるけれど、人間丞相の言葉です。幸四郎の場合はもっとトーンを低くした方が実の印象が出て良いと思うのですが。

以上幸四郎の丞相の気になる点を羅列しましたが、もちろん良いところもたくさんあります。こういう役は確かに幸四郎に似合うなあと思いますねえ。幸四郎は松島屋の丞相の型を忠実に踏襲して、その清らかさ・無垢なところをよく表現しました。木像の動きはしっかりしています。幕切れの花道での天神の見得はもう少したっぷり見せて欲しかったところでしたが。

丞相の描線が少々弱い印象になってしまったのは・これが初役であることだし、菅丞相はこれから20年くらい歳月を掛けて練り上げて行くべき大役なのですから、今どうだからと云って別にどうってことはありません。まずは丞相役が仁左衛門から幸四郎へと無事に伝授されたことを慶びたいと思います。(この稿つづく)

(R7・10・2)


2)「聖なるもの」を守るための闘い

舞台面が明るいので忘れてしまいそうですが、道明寺は夜間に起こるドラマです。判官代輝国が登場してからが朝なのです。それまでは丞相は別室でお休みになっており、事件は丞相が眠っている間に起こります。のどかで平和な光景の背後で、ドス黒い政治的陰謀が絶えず蠢(うごめ)き・丞相を亡きものにせんとしています。善方はこれを阻止しようと動く。しかしそんなことは丞相本人のあずかり知らぬことです。道明寺でも佐太村でも寺子屋でも、「菅原」のすべてのドラマは「聖なるものは守らねばならぬ」という理(ことわり)によって動きます。丞相本人は「何もしない」。このことによって丞相が「聖なるもの」であることが示されます。

菅原氏は元々は土師(はじ)氏の一族でした。天応元年(781)土師氏の家系が居を構えていた大和国添下郡菅原の地名にちなんで「菅原」への改姓を申し出て、認められたことから菅原氏を称しました。道明寺は7世紀中ごろに土師氏の氏寺として建立されたお寺で、延喜元年(901)丞相失脚当時は土師寺(はじでら)と云いました。

土師氏は野見宿禰を先祖とします。垂仁天皇が古墳に生きた人を殉死させて埋めるのを禁止し、その代わりにどうするか思案していたところ、宿禰が、人や馬などさまざまな形の埴輪を作って身替りに埋めることを天皇に進言しました。天皇はこれをとても喜んで、その功績により宿禰に「土師」の姓を与えたということです。この宿禰の逸話から、浄瑠璃作者が道明寺の木像の奇跡をひねり出したのでしょうね。先祖の象徴である埴輪の心が、丞相の危難を寸前で救ったと云うことです。ここでも奇跡は丞相本人のあずかり知らぬところで起きます。

一方、悪方は丞相を亡きものにするために手段を選びません。東天紅の鶏がニセの時を告げる仕掛けは滑稽かつユーモラスに見えますけれど、視点を変えれば実におぞましいものです。口封じで刺殺された立田の前の死骸は池に沈められ、その血潮の穢れに驚いた鶏が時を告げます。立田の死骸は本人の意図と関係なく丞相暗殺計画に利用されて・尊厳を辱められるのです。そこに邪悪な悪人どもの嘲笑が聞こえてくるようです。(この稿つづく)

(R7・10・5)


3)魁春初役の覚寿

覚寿は気丈さが必要な役であるので、立役から出ることが少なくありません。(例えば二代目鴈治郎・三代目延若など。)真女形が覚寿を勤めると・そこのところが弱くなることは否めませんが、代わりに情が深くなる利点があるでしょう。ちなみに六代目歌右衛門は覚寿を勤めませんでしたが、まあ老け役でイメージを損ねたくなかった気持ちは分からないでもないですが、歌右衛門の覚寿はちょっと見てみたかった気がしますね。情と気丈さが絶妙のバランスで立った気がするのですが。魁春の覚寿は初役ですが、そんなことなど想像しながら見ましたけれど、なかなか悪くない覚寿でありましたね。持ち味として凛とした強さが前面に出る人ではないけれども、決して嫋々と見えるところはなく、情と気丈さのバランスをしっかり保っていました。そこはやはり歌右衛門の薫陶を受けただけのことはあるものを見せてくれました。

道明寺では主役である丞相は「なにもせず」、佇(ただず)まいだけで・その存在を示します。夜中の道明寺で起きるドラマに丞相は埒外です。幕切れ近く・娘婿である宿彌太郎の死を見た覚寿が次のように述懐します。

「エヽ、憎いながらも不憫な死に様。有為転変の世の習ひ、娘(立田の前)が最期もこの刀、婿(宿彌太郎)が最期もこの刀、母が罪業消滅の白髪も同じくこの刀」と、取り直す手に髻払ひ、「初孫を見る迄と、たばひ過した恥白髪。孫は得見いで憂き目を見る。娘が菩提。逆縁ながら弔ふこの尼、種々因縁而求(にぎゅう)仏道、南無阿弥陀仏」と唱ふれば、菅丞相も唱名の、声も涙に回向ある。

つまり道明寺で起きるドラマは、覚寿の悲劇なのです。丞相は涙して唱名することで覚寿を慰める、道明寺とはそのような場ですね。

最後に苅屋姫について付け加えますが、左近の苅屋姫(Aプロ)は演技が内輪に過ぎて・加茂堤もそうですが・存在感に乏しい。加茂堤での斎世親王との逢引きは、元はと云えば苅屋姫からのアプローチから始まっているのです。苅屋姫は丞相の義理の娘で文章の方はお手のものであるから、それで恋文攻めで親王を口説き落としたのです。ただイヤイヤと首を振っているばかりではなく、そう云う積極的な熱い一面を持つお姫様なのですから、そのような生きた若い女性のヴィヴィッドな感覚が欲しいのです。この点では当然のことながら米吉の苅屋姫(Bプロ)の方に一日の長がありますね。

(R7・10・6)

*別稿「道明寺訪問記〜菅丞相別れの物語」もご参考にしてください。



(追加)Aプロ・「道明寺」映像

十五代目片岡仁左衛門(菅丞相)、十代目松本幸四郎(武部源蔵)

吉之助が生(なま)で見た21日・Aプロは、丞相役の仁左衛門が体調不良のため休演した為に、急遽幸四郎が代役に立ちました。後日映像にて仁左衛門が丞相を勤めた同月(9月歌舞伎座)の舞台を見ましたので、本稿で観劇随想を補足することとします。

丞相役は吉之助にとっては、十三代目仁左衛門が思い出されます。昭和56年(1981)11月国立劇場での「道明寺」では「神品」という劇評さえ出たものでした。当代仁左衛門がその後を引き継ぎ、「丞相ならば松島屋」的なイメージは吉之助にもありますが、敢えて両者を比べるならば、優美さにおいて当代の方が勝り、実直さ・素朴さにおいては先々代が際立つかなと思ってこれまで見て来ました。しかし、今回(令和7年9月歌舞伎座)の「道明寺」に於いては、当代仁左衛門(81歳)はこれまでよりも一段と丞相の人間味の表出に重点を置いて来たように感じました。もちろん現人神(天神さま)のことです。あまり人間臭くするわけに行きませんから、神々しさと人間味との間に絶妙なバランスが当然あるわけですが、これまでよりも優美さがちょっと後ろへ引き、代わりに丞相の人間味を前面に押し出したと感じました。それは表情・特に目線の配り方に表われていたようです。先々代はそこを意識して抑えていました。そこに先々代とまたひと味違う、当代仁左衛門なりの丞相像が出来上がったと思います。

まず木像の声ですが、覚寿が杖で娘を折檻するのを丞相が押し留める一声、「アヽコレ/\伯母御前、卒爾(そつじ)の折檻し給ふな・・」以下が毅然としたなかに感情が籠って、とても良いです。気持ちは出しているけれど、台詞が情に流れないのです。そこのところを今後丞相役を引き継ぐことになる幸四郎はよく学んで欲しいと思います。

丞相名残りの足取りは、先々代はじっくりしたテンポの遅さのなかに万感の想いを押し込んだようでありました。一方、当代仁左衛門は苅屋姫との親子の別れでの感情の揺らぎをこれまでよりもはっきりと前面に押し出して来たようで、そうするとテンポが心持ち早めになっていくこともナルホドと納得出来るのです。この素晴らしい丞相を生で見られなかったことは大変残念ですが、映像で残されたことは大変有難いことでした。

(R7・10・15)


 

 


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