世話場としての「毛谷村」を考える
令和7年4月歌舞伎座:「英彦山権現誓助剣〜杉坂墓所・毛谷村」
十五代目片岡仁左衛門(毛谷村六助・奇数日)、十代目松本幸四郎(毛谷村六助・偶数日)、初代片岡孝太郎(お園)、六代目中村東蔵(一味斎妻お幸)、五代目中村歌六(微塵弾正実は京極内匠)他
1)世話場としての「毛谷村」
本稿は歌舞伎座での令和7年4月大歌舞伎・夜の部の「毛谷村」の観劇随想です。当月の毛谷村六助にダブルキャストが組まれており、吉之助は4日(偶数日)に幸四郎の六助で・9日(奇数日)に仁左衛門の六助で舞台を見ました。本稿ではそのことを踏まえて纏めて書くことにします。
まずは作品周辺を逍遥することにします。仇討ち狂言としての「彦山権現誓助剣」全十一段を考えると、これは「太閤記」の世界に仮託された時代物と云うことになります。仇討ち狂言としての「彦山」については本年(令和7年)1月新国立劇場で菊之助・時蔵らによる「彦山」通し上演の観劇随想のなかで触れました。その時の文章では流れの都合上取り上げませんでしたが、実は吉之助にはちょっと引っ掛かる箇所があったのです。それはこの時の「毛谷村」の感触、特に菊之助演じる六助の感触がちょっと時代っぽい印象に傾いているように感じたからです。菊之助の六助は決して悪いものでなかったし、菊之助として線太めにしてよく考えられた六助ではありましたが、吉之助の好みでは正直な所・もう少し世話のタッチでお願いしたかったのです。その方が岳父・二代目吉右衛門の六助の実事っぽさに近いだろうと思われました。これは菊之助のきっちりした印象から来るものでしょうが、この時代っぽさは「彦山」の仇討ち狂言としての通しの流れから来たものであるとも考えられます。まあそう考えるならば「毛谷村」がこのように少々時代っぽい感触になったとしても・全体とのバランスからしてさほど目くじらを立てるほどのことでもなかろうと云うことで、当月の観劇随想では敢えて話題にしなかったのです。
しかし、改めて考えてみると、九段目「毛谷村」を世話場として意識することは、歌舞伎で「毛谷村」を見取り狂言で出す時、特に大事なことになると思うのです。「毛谷村」の舞台は豊後国の山奥で・のどかな田舎の地であって、それ自体に何ら「時代」を感じさせるものはありません。六助は武芸の心得がありながら武家奉公もせず、杣人(そまびと・木こり)として慎ましく暮らしています。そこに思いもかけず一味斎謀殺と仇討ちに纏わる非人間的な論理(時代)が入り込んでくる。人が好い(人が好過ぎる?)六助自身は何も感付いていませんが、それは微塵弾正にわざと負けてやろうと云う偽りの勝負から始まって、見知らぬ老女が押しかけて来て「母じゃ」と云い、次に娘がやって来て「女房じゃ」と云う、そんな奇妙なことが次から次へと起こります。そんなことからもうそこはのどかな田舎の地でなくなって来ます。お園が仇討ちの経緯を語り始めると、六助のなかでバラバラであったものが次第に一つになって行き、やがてはっきりと時代の正体を現わします。
つまり静かで平和な世話場のなかに時代の論理が無理やりに刺さり込む、そのような不自然かつ不躾な構図がそこに在るのです。(同様の構図は六段目(忠臣蔵)・鮓屋(千本桜)にも見られます。)そのような不自然な構図を観客に明確に意識させねばなりません。そのためには世話と時代の境目をはっきり付けることです。世話場としての「毛谷村」をひときわ強く意識させねばなりません。まあそんなことを考えているとキリがありませんけどね。歌舞伎の六助の化粧は白塗り過ぎるのではないか(だから時代っぽい印象になる)、もう少し砥の粉を混ぜた方が良くはないかとか色々考えます。例えば老女を次の間に通した後・一息いれた六助が鶯の鳴き声にひとり耳を傾ける場面、
後には不審とつ置いつ、思案吹散る春風に、梅が香慕ひ鴬のさへづる声に法華経も、既に暮れぬと告げぬらん。
「ハア刻限も違へず、鴬がもう鳥屋に来た。アいかさま鳥でさへ法華経とさへづるに、身のせはしさに取紛れ、念仏もろく/\に得もうさぬ。アヽ勿体ない/\。もうし母者人。如才ぢゃごんせぬぞや。必ず叱って下さるな」
と、位牌に向ひ合掌し、在すがごとき孝行を、感ずる天の加護やがて、深き恵みもありぬべし。は大事にしたいですねえ。この場面に世話場としての「毛谷村」のエッセンスがあります。(この稿つづく)
(R7・4・20)
2)仁左衛門・幸四郎競演の六助
六助の性格は「気は優しくて力持ち」と云うことです。山奥の田舎の純朴な人柄で、ちょっとくらいのことで怒ったりしない。他人を疑ったりはしない。信心深くて親思いである。もちろん武道の達人であるから相手の変化にサッと対応できるだけの目配り・気配りがあるわけだが、細かいことに決して動じない茫洋とした器の大きさがあると云うことです。「優しい」からと云って・この点ばかり強調してしまうと、何だかちょこまかした小さい印象になってしまって、人間の器の大きさが出て来ません。ホントは朴訥とした優しさを見せるくらいがちょうど良いと思いますが、そうすると地味に見えて、今度は華やかさが欲しくなるかも知れません。歌舞伎の六助はそこの兼ね合いが難しい。
仁左衛門の六助は、東京では三演目であると思います。前回(令和2年11月国立劇場)での六助と同様に六助の人柄の良さを前面に押し出した行き方です。回数を重ねて大分役が身丈に合って来たようですが、やはり柔い印象が先に立って・六助の器の大きさが出て来ない不満が少々残ります。
六助が庭の青石を思わず踏み込むほど怒るのは何故でしょうか。武芸の伝授を受けた師匠(お園の父である一味斎)が無惨に殺されたことに対する怒りはもちろんあります。それがなければ仇討ち狂言としての筋道が立ちませんが、それだけではありません。六助が烈火の如く怒るのは、他人を信じる清い心を弾正が踏みにじったからです。弾正は斧右衛門の老母をダシに使ってまでも六助を騙した。しかも用が済んだら老母を殺した。そこまでの策を弄して他人を疑わぬ六助を弄んだ。だから決して怒ることがなかった六助が怒ったのです。これは神の怒りにも等しいものです。
ですから「彦山権現誓助剣」という外題は「毛谷村」だけを見ていると利いているように見えませんが、実は修験道の聖地である英彦山権現の神聖なる・そして峻厳なイメージを六助はどこかに背負っているのです。六助の茫洋とした人間性の大きさはそこから来るのでしょう。昔の観客は「毛谷村」をそのように見たのです。この点は「毛谷村」が時代物と見るか・それとも世話物かを考える時の大事な材料になると思います。すなわち六助の人間性(=聖なるイメージ)に重きを置くならば、「毛谷村」はやはり世話場の感触の方へ重きを置いて考えたいのです。と云うわけで、昨今の歌舞伎での六助の人柄が良過ぎるくらいの優しさを強調する行き方を見ると、まあ決して的を外しているわけではないにせよ、吉之助はどうも釈然としないのですねえ。
ここでダブルキャストのもう一人・幸四郎の六助のことに話を転じますけれど、この十年くらいの幸四郎が高麗屋の家の芸と云うべき骨太い実事・実悪系統の役よりも線の細い優美な色男系統の役に傾斜していることに吉之助は物足りなさを感じています。(別稿をご参照ください。)今回の六助に於いても、幸四郎が線の細い優美な印象で処理しようとしていることに若干不満を覚えますね。幸四郎は「六助は心根優しい人物である」と思っているでしょう。それは間違いではありませんが、もっと厳密に云うならば、「六助は心が正しく・澄み切っている」から誰にでも優しい態度が取れるのです。人間性の大きさが人物の余裕となって現れると云うことです。対する幸四郎の六助は、印象が何だか柔(やわ)いですねえ。弾正でなくてもこんな奴ダマすのは簡単だよと思ってしまいそうな柔さです。これでは困るのです。これでは六助の人物の大きさが出ません。庭の青石を思わず踏み込むほど六助が怒る理由(六助の心情)が見えて来ない。だから結局、幸四郎の肚の持ち様の問題になろうかと思います。
幸四郎の六助の肚が薄い印象は台詞の高調子から来るところが大きいことも指摘しておきます。付け加えますが、仁左衛門も高調子ですけれど、仁左衛門の高調子は仁左衛門だけのもの。幸四郎は仁左衛門の芸の特質である優美さを表層的に受け取っている気がしますね。仁左衛門の優美さを肚で受け止めるならば、幸四郎は台詞をもっと低く丹田から出して欲しいと思います。(この稿つづく)
(R7・4・22)