(TOP)     (戻る)

十三代目仁左衛門・初役の菅丞相

昭和56年11月国立劇場:「菅原伝授手習鑑」・第1部

                                                           *大内山-加茂堤-筆法伝授-道明寺

十三代目片岡仁左衛門(菅丞相)、三代目実川延若(丞相伯母覚寿・武部源蔵)、五代目坂東玉三郎(苅谷姫)、五代目中村富十郎(藤原時平・宿禰太郎)、二代目片岡秀太郎(立田の前)、五代目片岡我当(判官代輝国)、七代目尾上梅幸(桜丸・源蔵女房戸浪)、七代目尾上菊五郎(桜丸女房八重)、九代目沢村宗十郎(齋世の宮・園生の前)、七代目坂東蓑助(九代目坂東三津五郎)(梅王丸)、六代目尾上菊蔵(左中弁希世)、二代目助高屋小伝次(土師兵衛)他

(国立劇場開場15周年記念)


1)歌芝居の系譜

本稿で紹介するのは、昭和56年(1981)11月国立劇場での、開場15周年記念・通し狂言「菅原伝授手習鑑」・第1部の上演映像です。国立劇場での「菅原」通し上演は、昭和41年(1966)11月〜12月の開場記念公演以来の二回目と云うことになります。この公演の眼目は十三代目仁左衛門が菅丞相を初役で勤めたことでした。この時の仁左衛門の丞相は「神品」という劇評が出たほどで、確かにいいものであったと思います。そもそも「神品」なんて語句は滅多に出るものではありません。少なくとも吉之助は他で記憶にありません。仁左衛門はもちろん戦後昭和の歌舞伎の名優でしたけど、吉之助の記憶では・この丞相以前の舞台での仁左衛門の印象は、他の役者と比べて、ちょっと地味めであった気がしています。しかし、やはり自信が付くと役者も変わってくるのでしょうねえ。それとも見る側の・こちらの見方が変わって来たのかは分かりませんが、これ以後の・つまり晩年の仁左衛門は何の役をやってもひと味違って良かったような気がしましたね。まあそう云うわけで、この公演は吉之助の観劇歴のなかでも思い出深い舞台のひとつではあるのですが、詳細については後ほど触れるとして、まずは例によって作品周辺を逍遥してみたいと思います。

吉之助は詩歌の知識はあまり深くありませんが、文学史を学ぶならば歌(和歌)が日本人の感性に及ぼした影響はホントに大きいことは、吉之助にも察せられます。歌物語とは、和歌にまつわる短い物語、または物語集のことを言います。平安期の10世紀頃に多く作られ、「伊勢物語」・「大和物語」などがその代表的なものです。

『歌物語、諺物語のことを簡単に話さねばならぬ。伊勢物語のことを出さずに、竹取物語を出していえばよいと思う。竹取物語という書物も、だいたいの性質からいえば歌物語あるいは諺物語というべきものである。ところが源氏物語に(竹取物語のことを)「物語の祖」(おや・母または祖先の意)と書いてあるのが本当とすれば、もっと簡単なもの、つまり端作が短くなければならない。端作が長くなって、歌なり諺なりが最後にちょっとついている形になっているのが竹取だ。かならず、もとは歌なり諺なりに端作がついていた。それが端作が長くなって端作ともいえなくなり、普通の物語になって、決着をつけるそのとじめの形に、歌なり諺が出てくるというふうに見えてしまう。もちろん日本の文学では、そういう発達の経路が思われる。歌なり諺なりのためについていた前文句をば、前の文句の方を主として、歌諺がついていることによって、これが一つのまとまりと感じるように、ひいては歌なり諺なりが、その文章のコントとしての適切なつづまりを作る、というような形のできてきたことは、もちろん考えられる。』(折口信夫:「115・女房家集と歌、諺物語と」〜「日本文学史」・折口信夫全集・ノート編第4巻)

歌物語を読むと、話の筋(ストーリー)がまずあって・その筋のオチを付けるところで歌が出る、まるでその歌を紡ぎ出すために長い前口上があるかの如く見えることがあります。折口信夫は「日本の物語は、結局歌がないと物語の権威がなかった」と言っています。もともと物語には歌がなければならなかったのだが、だんだん歌を大事に思わなくなってきた。こうして歌が落ちてしまった物語も登場するようになって行きますが、それでも歌を愛でる感性が日本人の心のどこかに残っているのです。つまり日本の物語のために必要なものは、やはり「もののあはれ」を感じる心だと云うことになりましょうか。

ところで演劇というものは序破急・あるいは起承転結といった・或る種の論理性を骨格に持つものですから、歌物語の形式が本質的にそぐわないところがあると思います。しかし、数は少ないですが、歌物語ならぬ「歌芝居」みたいなものも確かに存在します。その代表的なひとつが、能の「熊野(ゆや)」であろうと思います。「熊野」は劇的な起伏が感じられないまま・タラタラと進む芝居です。故郷に帰りたい熊野(シテ)の願いを宗盛(ワキ)は何とも思いません。しかし、熊野が「いかにせん都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん」の歌を披露すると、あれほど熊野同伴の花見に固執していた宗盛が、実にアッサリと・拍子抜けするほどアッサリと熊野の帰郷を許します。

何だか展開がちっともドラマチックでないのです。歌を披露するに至るまでの熊野の苦悩が描かれるわけでもない。歌を受け取った宗盛が考えを翻すためのきっかけが描かれるわけでもない。しかし、芝居の結論が何となく落ち着くべきところに落ち着きましたねと云う安堵感とでも云うか、納得感みたいなものは確かにあるようです。「熊野」という芝居は、ただこれだけで持っているのです。これが筋の押さえに「いかにせん都の春も惜しけれど 馴れし東の花や散るらん」の歌を持ってきたことの効果であると思います。この歌が披露されたからには、熊野の悲しみは頂点に達しており、熊野の「あはれ」は誰の目においても明らかなのです。同時に宗盛も「あはれ」を解する男ですから、この歌に一旦触れたならば熊野の気持ちを受け入れるのももはや当然のことである。ドラマ的に見て・そこに一点の疑いを挟む必要はなく、芝居でクドクド情景を描く必要もないと云うことなのです。これが「歌芝居」です。

サテそこで歌舞伎にもこのような「歌芝居」と呼べるものはないかと思って見渡してみると、芝居のなかで歌(和歌)が引き合いに出されるものは結構ありますが、これが歌芝居だと云えそうなものはやはり少ないようです。まあ演劇が持つ論理性の本質から見てそれは当然のことかも知れませんが、吉之助は数少ない例として「菅原伝授手習鑑」を挙げたいと思います。日本の歌人のなかでも飛びぬけて重要な位置を占める菅丞相(菅原道真)が主人公の芝居ですから、まずはご納得いただけるかと思いますね。「菅原伝授手習鑑」のなかでは、丞相の御歌とされるもの(江戸期には丞相の御歌として有名であったもの)が二首引用されており、そこからドラマが発想されているのです。

まず最初の一首は、二段目切「道明寺・丞相名残」で丞相が詠む歌で、

「鳴けばこそ、別れを急げ鶏の音の、聞こえぬ里の暁もがな」

というものです。もうひとつは、四段目序「筑紫配所の段」の場面において丞相が詠む歌ですが、四段目切「寺子屋」後半では松王がこの歌を記した短冊を松の枝に結び付けて源蔵宅へ投げ入れます。その歌とは、

「梅は飛び桜は枯るる世の中に、何とて松のつれなかるらん」

です。本稿では通し狂言「菅原伝授手習鑑」・第1部の観劇随想ですので・「道明寺」の歌芝居としての構造を検討することとして、「寺子屋」の方は稿を改めて論じることにします。(この稿つづく)

(R6・8・17)


2)ドラマは歌によって「示される」

延喜元年(901)2月、失脚して筑紫大宰府に流されることになった菅原道真(菅丞相)が、伯母の覚寿尼のもとに別れを告げに立ち寄りました。道真は「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠んで、伯母との別れを惜しんだと伝えられています。別れの刻を告げる鶏の声の無情さを嘆き 、自らの立ち去り難い想いを歌に詠んだのです。このため道明寺村の一帯では鶏を飼うことを忌むようになったそうです。この言い伝えは「名所図会」にも出て来るものです。このように当時、「鳴けばこそ・・・」は丞相の御歌であると人々は信じていましたが、実は丞相の御歌ではなかったようです。

万葉の昔から鶏が出て来る歌には恋が絡むものが多いそうです。朝を告げる一番鶏・二番鳥の無情の声に恋人と別れねばならない辛さを重ねる、そこにドラマティックな構図を見ているのです。出雲国・美保神社の言い伝えによれば、恵比寿さまとして知られる事代主命(ことしろぬしのかみ)が揖屋の郷の姫神のもとに毎晩通っていましたが、或る晩、鶏が時を間違えて早く鳴いてしまいました。夜が明けたと勘違いした事代主命は慌てて、舟に乗る時に櫂を忘れてしまい、仕方がないので足で舟を漕いでいたところ、フカに足を噛まれてしまいました。これは鶏の科(とが)であるとして、美保神社の氏子の人々は代々鶏も卵も食べないという風習があったそうです。折口信夫は、この美保神社の伝承を引用して、多分、これに似た古い伝承がこの道明寺の地にもあったのだろうと推察しています。それがいつ頃か天神様の別れの話に置き換わったのです。

『天神様が、隠し妻の家の戻りに、鶏の音を怨まれたとあつては、あまりに示しのつかぬ話である。そこに家から来た娘と、別れを惜しむ事になつて来ねばならぬ訳がある。思ふに、土師の村の社には、いつの頃にか、美保式の神婚の民譚がついていたのを、たつた一点を改造した為に、辻褄の合うたような、合わぬような話が出来上がったのであらう。事実、天神・苅屋親子関係を信じ切っている今時の役者たちすら「手習鑑」の道明寺の段で、一番困るのは、右の子別れだそうである。女夫の別れに見えぬようとの、喧しい口伝もあると聞いている。妙なところに、尻尾の残っているものである。』(折口信夫:「鶏鳴と神楽と」・大正9年1月)

まあ「鳴けばこそ・・・」の歌の成り立ちについては、本稿ではどうでも良いのです。大事なのは、丞相御歌とされたこの歌を元にして、浄瑠璃作者が想像を膨らませて「菅原伝授手習鑑・道明寺」を書いたことです。「菅原」では三つの親子の別れが描かれますが、二段目「道明寺」が描くのはまずその一つ目・菅丞相と苅谷姫との別れです。

しかし、「道明寺」のすべての事件は、丞相の就寝中に起きます。夜明けを知らせる鶏の鳴き声を合図に判官代輝国が丞相を迎えに来ることになっています。それまで丞相は休息されるわけですが、この間に丞相拉致の陰謀が蠢きます。まず立田の前が殺害されます。続いて偽迎えに対して丞相の身替わりに立つ木像の奇蹟が起きる。これらすべてのことを丞相はご存知ないのです。目覚めた時には、既に事件の方は付いています。何事も起こらなかったかの如く丞相は出立に取り掛かります。別れに際して丞相が御歌を詠みます。

「鳴けばこそ、別れを急げ鶏の音の、聞こえぬ里の暁もがな」

こうして丞相は去って行くのですが、極端に云えば、「道明寺」のなかでの丞相の仕事は、御歌を詠んで去っていく、たったこれだけです。ドラマのなかで丞相は何ら能動的な関与をすることがありません。これでも丞相は「道明寺」の主人公であると云えるのでしょうかね?そういう疑問が湧いてくるかも知れませんが、ここで能「熊野」の考察が役に立ちます。丞相が「鳴けばこそ・・・」の御歌を発した瞬間、丞相のなかの別れの悲しさの感情は頂点に達しており、「もののあはれ」は誰の目においても明らかです。「道明寺」のあはれは、「鳴けばこそ・・・」の御歌に集約され、あはれは「起こる」のではなく・歌によって「示される」。これこそ歌(和歌)が日本人の心に引き起こす心理的効果であると云うべきです。丞相の就寝中に起こった事件はこの歌を引き出すための長い前口上でしかない。「道明寺」がそのようなドラマならざるドラマに見えて来そうです。それは「道明寺」が歌物語ならぬ「歌芝居」であるからなのですね。(この稿つづく)

(R6・8・17)


3)丞相が「何もしない」ことの意味

「手習鑑・四段目・安楽寺」(歌舞伎ではもうまったく上演されない場)は、菅丞相が時平の企ての一部始終を聞いて烈火の如く怒り、天拝山に登って雷神と化して都へ向かって飛んで行くという重要な場面です。丞相が怒り出すのを見て、白大夫がビックリしてこう言うのです。

「しれてある時平が工(たくみ)。今聞いたか何ぞの様に・ついど覚えぬこわいお顔。ここから睨まましても。都へは届きませぬ。」

橋本治氏は白大夫が「時平がそんなこと考えてんの、初めから分かってるでしょ。今更何言ってるの?ここで睨んでも都になんか届きませんよ」と言っているとして、次のように書いています。

『白大夫の目から見れば、菅丞相という人は「自分は無実だと信じて何もしない人」で、「何だかよく分からない仰せ言をする変わった人」でもあるのだ。神格化された菅丞相の「立派さ」は動かない。しかし、白大夫の目で見れば、歴史というもの自体が「なんでそうなっているのかよく分からない荒唐無稽なもの」にもなりかねない。江戸時代の浄瑠璃作者はそういう両義性を備えていて、「歴史は歴史として動きがたいものではあるけれど、だからと言って、それをそのまま鵜呑みにして良いわけではない」という、透徹した歴史批判の牙、歴史を主体的に解釈しようとする芽を持つ。それは、とても重要なことだ。近代がこれをどれだけ受けついだのかは知らないが、近世の人間は、一方でとても合理的なのである。』(橋本治:「浄瑠璃を読もう」〜「菅原伝授手習鑑と躍動する現実」・新潮社)

ホウ菅丞相は「何もしない人」なのか。こういう捻った見方が役に立たないわけでもありませんけど、それもまず対象に正しく向き合う態度を学んだうえでのことですね。

菅丞相は時平の横暴ぶりを知りつつも、陰謀をやられ放題で、ついに筑紫へ流されることになってしまいました。それでも丞相は決して怒ることをしません。自らに課された苦難を従容と受け入れます。「道明寺」においても丞相は能動的な行動をしません。ひたすら受身で、確かに「何もしようとしない人」です。「手習鑑」を通しても、善人方は丞相を守るために心を砕き、或る者(桜丸)は自害し、或る者(松王丸)は我が子を身代わりに供する、みんなホントに苦しみぬいているのに、丞相はこのことを分かっているのか、あなたはホントに「何もしない人」だねえ・・・と橋本氏は嘆息するのです。(別稿「時代の循環・時代の連関〜歴史の同時代性を考える」をご参照ください。)

しかし、その「何もしないこと」・受難を従容として受け入れるところに、丞相が無辜(むこ)であることが示されているのです。そこに丞相の聖性が暗示されているのです。この聖性が引き起こすのが「道明寺」での木像の身代わりの奇蹟です。丞相のなかに秘めらた聖性が公的な怒りによって火が付いた時、丞相は初めて御霊神としての本質を明らかにします。平安期の雷神としての性格を引きずってはいますが、丞相は明白に護国安全の神・学問の神・手習いの神です。これが江戸期の庶民の丞相のイメージです。「手習鑑」は日本人の心のなかに住まう天神信仰を踏まえて書かれています。

丞相が「何もしない」ことの意味を正しく読み取らねばなりません。これが歴史に正しく向き合うということです。これが「古典」の正しい読み方です。「道明寺」のすべての事件は丞相の就寝中に丞相に関わりなく起きます。丞相が目覚めた時には、それらはすべて方が付いています。別れに際して丞相が御歌を詠みます。

「鳴けばこそ、別れを急げ鶏の音の、聞こえぬ里の暁もがな」

こうして丞相は去って行きます。丞相が「鳴けばこそ・・・」の御歌を発した瞬間、丞相のなかの別れの悲しさの感情は頂点に達しており、「もののあはれ」は誰の目においても明らかです。「あはれ」の感情がすべての登場人物を包括します。こうなると、丞相の就寝中に起こった事件は、この御歌を引き出すための長い前口上でしかないのです。「道明寺」はこのような、歌物語ならぬ「歌芝居」の構造になっています。丞相が「何もしない」ことの意味がここから読み取れると思います。天神様である丞相は業(わざ)を行なうのではなく、「業を示す」のです。

今回(昭和56年11月国立劇場)の「道明寺」映像で丞相を演じた十三代目仁左衛門は、この時・77歳でした。後に聞くところではこの時の仁左衛門は白内障を患っていて動きがおぼつかなくて、足先で舞台前方を探りながら動いていたようです。そんなハンデを逆手(さかて)に取って丞相身替わりの木像の動きをを真(リアル)に見せたということなのですねえ。「丞相名残り」(苅谷姫との別れ)も、丞相はさっさと先を急ぐのではなく、常に後ろへ引っ張られる感覚を歩みのなかに持たねばなりません。そのような名残惜しさの感覚を、仁左衛門は「行なった」のではなく・まさしく「示して見せた」のですね。

(R6・8・31)


 

 

 


  (TOP)     (戻る)