(TOP)     (戻る)

道明寺訪問記〜菅丞相別れの物語


道明寺は、大阪府藤井寺市にある7世紀中ごろに土師氏の氏寺として建立されたお寺で、その昔は土師寺(はじでら)と云いました。古代豪族であった土師氏は技術に長じ、4世紀から6世紀頃の、いわゆる古墳時代に、古墳造営や葬祭儀礼に携わりました。確かに道明寺周辺は、応神天皇陵など、いたるところに古墳が点在する地域です。

土師氏は野見宿禰を祖先とする氏族です。垂仁天皇が古墳に生きた人を殉死させて埋めるのを禁止し、その代わりにどうするか思案していたところ、宿禰が、人や馬などさまざまな形の埴輪を作って、身替りに埋めることを天皇に進言しました。天皇はこれをとても喜び、その功績により宿禰に「土師」の姓を与えたということです。

写真上は、道明寺天満宮の入り口。

菅原道真(菅丞相)は土師氏の末裔です。浄瑠璃「菅原伝授手習鑑・道明寺の段」は、身に危険が迫った菅丞相に変わって木像が身替りに動き出すという筋で、これは木像であって埴輪ではありませんが、宿禰の逸話から浄瑠璃作者がひねり出したものです。先祖の象徴である埴輪の心が丞相を助けてくれたということです。浄瑠璃に曰く、

『夜は明けぬれど心の闇路、照らすは法(のり)の御誓ひ、道明らけき寺の名も、道明寺とて今もなほ栄へまします御神の、生けるが如き御姿、こゝに残れる物語。尽きぬ思ひに堰き兼ぬる、涙の玉の木(もく)げん樹(じゅ)。数珠の数々繰り返し、嘆きの声に只一目、見返り給ふ御顔ばせ、これぞこの世の別れとは、知らで別るゝ別れなり』

とあります。つまり浄瑠璃「菅原伝授手習鑑・道明寺の段」は、道明寺縁起であるのです。延喜元年(901)、九州大宰府に流される菅原道真が、叔母の覚寿尼を別れを告げにこの寺を訪ねて、「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠んで、別れを惜しんだと伝えられています。(ただし、正しくは、この歌は道真の歌ではありません。)道真の死後、寺名は道明寺と改められ ましたが、これは道真の号である「道明」に由来します。写真左は、道明寺天満宮本殿。

そういうわけで歌舞伎研究者である吉之助もいつか道明寺を訪ねたいと思ってましたが、実際に当地を訪ねてみると、当然のことがちゃんと分かっていなかったことに改めて気付かされました。それは江戸時代、つまり竹田出雲らが「菅原伝授手習鑑」を書いた当時(延享3年・1746)の道明寺と云うのは天満宮と一体をなしており、現在の道明寺よりずっと敷地が大きかったということです。後の、明治維新後の「神仏分離令」、いわゆる廃仏毀釈によって道明寺は分割されて、道明寺と道明寺天満宮のふたつに分離されたのです。昔の神仏習合の時代の道明寺の様相を理解する為には、ちょっと想像力を働かせなければなりません。

だから現在の寺社仏閣を訪ねる時には、神仏分離令前後の事情をよく頭に入れておかねばならぬ場合が、時々あります。例えば吉野山がそうです。実は江戸時代には山全体が金峯山寺と呼ばれていました。ところが神仏分離令によって、江戸時代には元々は金峯山寺蔵王堂の奥宮であったところが金峯神社に格上げされて、逆に蔵王堂の方が金峯神社の奥宮に落とされてしまう、そんなことが実際に起こったのです。しかし、地元の人々の抗議によって明治政府も、明治19年に蔵王堂を寺社に復することを認めざるを得なくなって、それで現在の金峯山寺蔵王堂の姿があるのだそうです。幸い金峯山寺蔵王堂の場合は寺社に復したわけですが、同じ修験道の聖地でも山形県の羽黒権現、香川県の金毘羅大権現、福岡県の英彦山権現などは寺社に復さないままなので、江戸時代の様相とはまったく異なるのです。このことは現地を訪ねた時にはよく注意しておかねばらないことです。

閑話休題。そういうわけで、何となく同じ所みたいに思っていましたが、道明寺と道明寺天満宮は、今はまったく別なのですねえ。近鉄奈良線道明寺駅から近い順に、吉之助はまず道明寺天満宮を訪ねて、次に道明寺を訪ねました。写真は、道明寺の山門と境内です。心なしか天満宮から取り残されて、ひっそりとしている感じがします。

本堂に菅原道真が作ったとされる木像十一面観音立像(国宝)が安置されています。なお和菓子の材料として用いられる道明寺粉は、道明寺の尼が乾燥した粳米(もちごめ)を挽き粉状にしたのが始まりだそうです。

写真上は道明寺本堂。道明寺は、明治5年に神仏分離令により天満宮境内から道を隔てた現在地に移転したために、人形浄瑠璃「道明寺」の面影に浸りたいところでしたが、それはちょっと無理であったようでした。

*写真は、平成29年1月19日、吉之助の撮影です。

(H29・8・15)


 

  (TOP)        (戻る)