珍しい「兜軍記」通し上演〜五代目玉三郎初役の阿古屋
平成9年1月国立劇場:通し狂言「壇浦兜軍記」
十二代目市川団十郎(悪七兵衛景清・井場十蔵二役)、五代目坂東玉三郎(遊君阿古屋)、四代目中村梅玉(秩父庄司重忠)、五代目片岡我当(岩永左衛門)、六代目中村東蔵(榛沢六郎)、二代目中村又五郎(十蔵母松乃)、四代目市川左団次(箕尾谷四郎国時)、五代目中村松江(二代目中村魁春)(重忠妹白梅)他
(国立劇場開場30周年記念)
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1)「阿古屋物」の系譜
本稿で紹介するのは、平成9年(1997)1月国立劇場での通し狂言「壇浦兜軍記」の上演映像です。この上演の意義のまず第一は、歌舞伎でも文楽でも三段目序「阿古屋琴責」のみが残って・他の場は上演が絶えた現状のなか、通し上演で「壇浦兜軍記」の全貌を明らかにしようと云うことです。もう一つの意義は、昭和の終わり頃には六代目歌右衛門で上演が絶えると危惧されていた「琴責」が、本公演を以て歌右衛門から玉三郎へ引き継がれたと云うことです。戦後に於いては「兜軍記」は通しで上演されたことは今回の上演以外にありません。つまり歌右衛門はすべて「琴責」単幕の上演でした。玉三郎の場合は、初役の阿古屋の時が通し上演であったわけです。
吉之助はこの時の上演を生(なま)で見ましたが、「琴責」のことは思い出しますが、昔のことゆえそれ以外の場面がほとんど思い出せません。正直云うと、「琴責」以外はあまり面白くなかったと云うことだったと思います。そこで久しぶりに映像で見直したわけですが、吉之助が通し上演に期待したことは、通しに仕立てることで「琴責」のドラマがより立体的に見えたら良いなと云うことでした。残念ながら、今回の補綴脚本(山田庄一)はこの期待に応えられていません。もっと二段目をきめ細かく描いて、阿古屋という女性・或いは彼女が置かれた状況をしっかり説明したうえで、ドラマを三段目序「琴責」へ流し込むという形を取って欲しかったと思いますね。
山田先生は「兜軍記」を景清の芝居だと思っているのでしょう。それは学問的には正しいかも知れませんが、「琴責」以外がほぼ廃絶した現状に於いては、「兜軍記」はむしろ阿古屋の芝居なのです。そこを景清で筋を通そうとしても薄っぺらい芝居が出来上がるだけのことです。だから眼目であるべき「琴責」が引き立たないことになるのです。結局、「兜軍記」は「琴責」さえ残ればいいんだと云うことを再確認したようなものでしたが、まあ「琴責」のことを再考してみるきっかけにはなったと思います。
別稿「「出世景清」はなぜ画期的作品なのか」で景清伝説の変遷について考えました。森山重雄先生は、中世半ば頃に成立したと思われる幸若「景清」で、坂上田村麻呂伝説の悪玉女(阿久玉女)が阿古王(あこおう・あこや・阿古屋)に転化して景清伝説と結び付いたとしています。折口信夫によれば、新来の神(外からやってくる神)は在来の神(その土地に昔から住む神)を一方的に悪として駆逐できなかった、このため新来の神と在来の神との結婚という形態を取ったのです。悪玉女とは、おのれの同族を裏切り、敵(征服者)である田村麻呂と通じ、同族を破滅させた女なのです。だからこれに「悪」の字が宛てられました。悪玉女のイメージは、その情の深さによって「そむく女・裏切る女」です。これが芸能の景清物の系譜のなかに取り込まれたのです。(同じようなキャラクターが西洋演劇にも存在します。それはエウリピデスのギリシア悲劇のヒロイン・メデイアです。)だから景清物は(学問的には確固とした分類ではないにせよ)「阿古屋物」とでも呼びたい要素を内包していることになります。このことを通し上演で明らかにして欲しかったと思います。
近松門左衛門作の「出世景清」(貞享2年・1685・大坂竹本座初演)では、阿古屋は兄十蔵にそそのかされて、嫉妬に狂って夫景清を訴人してしまう悪女です。そのきっかけは熱田の大宮司の娘で・景清が妻としている小野姫からの手紙でした。そこに「遊女にお親しみか」と書いてあったのを読んで阿古屋は、
『阿古屋は(文を)読むも果て給わず、はつとせきたる気色にて、恨めしや・腹立ちや・口惜しや・妬ましや、恋にへだてはなきものを・遊女とは何事ぞ、子ある仲こそまことの妻よ。かくとは知らで・はからずも・大切がり、心を尽くせし悔しさは、人に恨みはなきものを・男畜生、いたずら者(浮気者の意)を。アア恨めしや・無念やと、文ずんずんに引き裂きて、かこち恨みて泣き給ふ、理(ことわり)とこそ聞こえけれ』(「出世景清」)
と烈火のごとく怒り狂います。阿古屋の気持ちを今風に書けば、「悪いのはアンタなのよ、私だけを愛さないからこうなるのよ、こうなったら私はアンタを訴えて死んでやるから」と云うことです。強烈な嫉妬心ですが、近松が詞章に「理とこそ聞こえけれ」(阿古屋が怒るのも尤もなことだ)と書いていることは注目されます。(別稿「その心情の強さ」を参照ください。)
近松の「出世景清」では田村麻呂伝説から続く悪玉女のイメージを依然として纏っていますから、阿古屋のイメージも、とりあえず「悪女」です。「出世景清」は景清物であると同時に、しっかり「阿古屋物」の系譜の上にあります。ところが「出世景清」を下敷きにして成立した「壇浦兜軍記」(享保17年・1732・大坂竹本座)では、阿古屋のイメージが「貞女」に置き換えられました。だから阿古屋のイメージを悪女から貞女へと、正反対にひっくり返したところに、浄瑠璃作者(文耕堂・長谷川千四)の「趣向」があるのです。これに伴って阿古屋の兄・十蔵の性格も悪人から善人へと変えられました。「兜軍記」での十蔵は家族思いで・妹の夫である景清を我が身を投げ売ってでも守ろうとする善人です。これらの趣向が加えられる前と後で、阿古屋のドラマの、何が変わって・何が変わっていないか、そこを明確にしないままで「兜軍記」の補綴を行おうとしても良い脚本は出来ないと云うことですね。(この稿つづく)
(R7・2・16)
田村麻呂伝説から発した悪玉王(あこおう)の「悪女」のイメージが中世期に幸若「景清」と結び付いて、景清物は劇的な発展を遂げて、近松の「出世景清」でひとつの頂点に達しました。「出世景清」では、シテであるはずの景清よりもワキの阿古屋の悲劇の方が観客の心に強烈に突き刺さります。景清物と云うよりも「阿古屋物」(悪女もの)とでも呼びたいような発展を見せたのです。「出世景清」は後世に於いては、本作以前を古浄瑠璃と呼び・これ以後を新浄瑠璃と呼ぶほどの画期的な作品とされています。これほどの名作だけに、以後の景清物は「出世景清」を越えることが難しくなりました。「兜軍記」では、この袋小路を阿古屋を「悪女」から「貞女」へひっくり返す趣向で打開しようとしたのです。三段目序「阿古屋琴責」は一応の成果を挙げました。しかし、今日の「琴責」は劇的な起伏に乏しく、もっぱら風情だけで見せる芝居とされています。阿古屋の性格の新たな成長は成りませんでした。こうして中世以来の阿古屋物の系譜が途切れ、以後の景清物では阿古屋が登場しても・ただの添え物になってしまいました。
これは主人公が悪人ならば・如何様にも筋の展開が出来るところが、善人であると芝居が綺麗事になって面白いものになって来ないと云うようなものです。阿古屋物の本質は「悪女」というところにあるのですから、これを「貞女」にしてしまったら、もう以後の発展はないことになります。事実そうなってしまいました。
しかし、趣向の面白さとは、趣向を加える前と後で、先行作の何が変わって・何が変わらないかを愉しむところにあります。浄瑠璃作者(文耕堂・長谷川千四)が変えなかった要素が何かあるはずです。そこに「兜軍記」が確かに「出世景清」の書き替え作品だと言える証(あかし)があるのです。
それは何かと云えば、「阿古屋が夫・景清のことを思う熱い気持ち」だと思います。これが阿古屋の真実なのです。ところが「出世景清」の阿古屋はその気持ちが、いささか強過ぎました。だから「私があなたを愛しているのと同じくらいに、あなたも私を愛するべきなのよ」となって、そのため阿古屋は破滅しました。そして世間的にあの女は「悪女」だと云う烙印を押されたのです。(詳しいことは別稿「その心情の強さ」を参照ください。)しかし、「夫・景清のことを思う熱い気持ち」と云うことなら、これは「琴責」の阿古屋が持っているものとまったく同じです。だから浄瑠璃作者が「出世景清」が阿古屋の「悪女」から「貞女」にひっくり返した時、「阿古屋が夫・景清のことを思う熱い気持ち・阿古屋の真実」と云うところが論理的回転軸になっているのです。
このことを丸本で検証すると、当然ながら、浄瑠璃作者が先行作「出世景清」を強く意識していることが明らかです。例えば二段目・五条坂の場を見ます。(注:ここは今回の補綴台本ではカットされた場面です。)熱田の大宮司の娘で・景清が妻とする衣笠(「出世景清」での小野姫に相当する)が五条坂の花扇屋にやって来て、阿古屋と対面して景清の潜伏先を尋ねます。しかし、阿古屋が「知らない」と答えるので(ホントに知らないのだが)、衣笠が怒り出し二人は激しい口論になります。衣笠は、
『そんならどうで我が夫の景清様は知らぬじゃ迄。エエさもしいぞや、汚いぞや。さすがは娼婦(うかれめ)一夜妻、少心に引き比べて本妻の衣笠が悋気嫉妬の気もあろかと疑うてのことじゃの。(中略)夫の噂のようにもない見ると聞くとのお女郎。』
と罵り、阿古屋は、
『こりゃ新しいおかしいわいの、面々の夫の行方をこの阿古屋に無理に知れか。』
と言い返します。ここで先行作「出世景清」の筋を知る観客が想像しそうなことは、激しい口論の末に女郎と罵られた阿古屋が怒り狂って訴人に走るという先行きですが、結局そうならないのです。後に阿古屋は、「その場の拍子で言い争ってツイ意地になりましたが、衣笠様は真心あるお方だと平素から聞いて分かっております」と云うのです。「兜軍記」の阿古屋が「貞女」であることが、ここで初めて判ります。このように観客が先読みしそうな箇所をわざと作っておいて、そこを「いなす」(相手の予想をかわす)、そこに書き替え狂言の「趣向」の面白さがあるわけですね。(この稿つづく)
(R7・2・18)
二段目・五条坂の場は筋が錯綜しており・切場としての纏まりに欠けるところがありますが、後に続く三段目・「琴責」に関連する情報が盛り込まれています。五条坂を知っていると「琴責」がよく分かるのです。
例えば「琴責」単幕を見ると気になることは、阿古屋は景清の潜伏先を知っていて・あの拷問を受けているのか・それともホントに知らないのか・どちらだ?と云うことだと思います。これは「兜軍記」では、阿古屋がホントにそれを知らないことが明らかです。五条坂の場で兄・十蔵が景清の潜伏先を見打ちしようとしますが、阿古屋はこれを拒否して、
「アア、これこれ、景清様の落ち着く所、わしに聞かせて下さんすな。聞くまいというその心は、如何なる火水の責めに逢うとも、性根乱れぬその内は、隠し抜こうと思えども、心の底に覚えあらば、身の苦しさに気も弱り、口走るものでもなし、わしゃそれが悲しさに、これ求めても聞きたい知りたい夫の行方上の空。」
と言います。「知っていると拷問に耐えかねて口走るかも知れないから聞きたくない」と云うのです。ホントに知らないから、阿古屋は無類に強くなれるのです。夫が生きているか・死んでいるか分からないという状況ではない。阿古屋は景清がどこかで無事でおり、頼朝を討つ機会を虎視眈々と狙っていると分かっています。潜伏先を知らないだけのことです。きっと阿古屋は景清と共に戦っている気分なのです。「やれるものならやってごらんなさい」という強さがあるから、阿古屋は連日の責めに耐えられるのです。
もう一つ、阿古屋が強くあらねばならぬ理由があります。五条坂の場で、花扇屋亭主・戸平次が岩永に「景清の妻・衣笠が来ている」と訴人したため捕り手が迫って来て、衣笠は戸平次を殺して自害してしまいます。仕方なく捕り手は阿古屋を連行しますが、阿古屋は衣笠の自害の場面を目撃しているのです。ということはどう云うことかといえば、妻である衣笠は景清のために「貞女」を貫いて見事に死んで見せました、この後に同じく景清を愛する女・いわば同志としての阿古屋がみっともない振る舞いなど出来るはずがないと云うことです。どんな苦しい拷問でも私は耐え抜いてみせるという覚悟が阿古屋にあるに違いない。阿古屋は「貞女」なのです。
「琴責」の場では阿古屋は衣笠のことを語りませんし、景清の潜伏先を「知ろうとしなかった」と云う事情も分かりませんが、通しで見れば・これらの情報を踏まえたところでドラマは次の三段目序「琴責」へと流れ込んで行くのです。ですから「兜軍記」通し狂言の補綴脚本を仕立てるならば、二段目・五条坂の場は絶対欠かせないはずです。今回(平成9年・1997・1月国立劇場)上演のように、補綴でこの場面をカットして平気だと云うことは、失礼ながら、補綴の山田先生は「琴責」は「兜軍記」の脇筋に過ぎないと思っていらっしゃるのでしょうね。今回の「兜軍記」脚本では「琴責」以外での阿古屋はただ脇にいるだけのことです。
今回上演には「監修:中村歌右衛門」のクレジットがありますが、多分「琴責」以外の場面に歌右衛門は関与しなかったでしょう。しかし、歌右衛門がもっと元気が良かった時代に(10年以上前であれば)この「兜軍記」通しの主役を勤めると云うことであったのならば、歌右衛門は「アナタこの脚本じゃア阿古屋が引き立たないワヨ」とはっきり言ったと思いますけどね。「兜軍記」は景清物ではありますが、それ以前に「阿古屋物」であるべきです。当然のことながら、観客は(当時の吉之助もそうでしたが)歌右衛門で絶えると思われていた「琴責」が玉三郎に引き継がれた、これは女王の位が引き継がれたようなもので、そのような芸の伝承の「事件」を目撃するために・ここ国立劇場に来ていたわけですから、観客の方がこのことをよく分かっていたと思います。
さて玉三郎(当時46歳)初役の阿古屋の件ですが、令和7年・2025・2月歌舞伎座での玉三郎(74歳)の阿古屋を見たところで本稿を書いていますが、28年前の初役の時から令和の現在まで、そこに真っ直ぐな線を引いたところで・その芸の道程がはっきりと見渡せるかのようなイメージですねえ。その線のうえに吉之助が何度か見た阿古屋の舞台の数々がちゃんと乗ってくる、そのようなイメージなのです。阿古屋の凛とした風情は昔も今もそのままです。かつて・三代目猿之助の初宙乗りの狐忠信(昭和43年・1968・4月国立劇場)の映像を見直した時に、「当たり役というのは、最初苦手だったのを努力してやっとモノにするという性質のものではなくて、当たり役は最初から当たり役なのだなあ」と書きましたが、玉三郎の阿古屋にもまったく同じことを感じます。
それは玉三郎の阿古屋が「初役からずっと変わっていない」と云うことではなく、年齢に応じた変化をしながらも、役の性根の把握に揺らぎがないことに拠ると思います。それだけ歌右衛門がきっちりした伝授をしたし、玉三郎もこれを全身全霊で受けたということです。今回の映像を見ても、観客も息を詰めて・この場面を見届けようという緊張の糸が最初から最後までピーンと張っています。この緊張感があるならば、細かいことは何も云う必要はありません。(この稿つづく)
(R7・2・19)
「兜軍記」三段目は序が「琴責」で切が「十蔵内」の構成になっており、三段目が山場であることは疑いありません。「十蔵内」での趣向の第一は、近松の「出世景清」では悪人であった兄十蔵をひっくり返して善人に設定したことです。多分これは「琴責」で阿古屋を悪女から貞女に変えた趣向に連動した処置であると思われるので、もうひとつの、兄十蔵の容貌が妹の阿古屋が見ても見分けがつかないくらいに夫景清とそっくりであるという「二人景清」の趣向の方が味噌なのでしょうねえ。顔がそっくりなのをいいことに・十蔵は景清の身替わりになろうと志願して、これを承知した母松乃が十蔵の髪の一部を剃り落として身繕いします。これは何やらどこかで見たようなシーンだな・・・と思ったら「引窓」(双蝶々曲輪日記)だ。しかし、「双蝶々」初演は寛延2年(1749)だから、これは「兜軍記」の方が先行作です。いろんな作品が絡み合っているんですね。
「兜軍記」・十蔵内には原作「出世景清」に登場しない箕尾谷四郎国時(源氏方)が現れて、「平家物語」で有名な屋島合戦の「錣引(しころび)き」で・景清が箕尾谷の兜の錣を引きちぎってしまったために勝負が付かなかったのを、今ここで再度の勝負で決着を付けようと言って来ます。これが本作「壇浦兜軍記」の題名の由来になっているわけです。ちなみに次の四段目で箕尾谷は実は景清が幼い時に生き別れた兄弟であったと素性が明らかになります。
このように三段目切から四段目は趣向のてんこ盛りですが、筋が錯綜して全体の纏まりを欠きます。面白くなるかなあと思うと、途中からドラマがだんだん萎んで行きます。十蔵も結局景清の身替わりにならないので・「二人景清」の趣向も尻切れトンボです。通しを見終わってみると、「兜軍記」は三段目序である「琴責」の場さえ残ればいいんだと云うことを再確認したようなものでしたが、今回の「兜軍記」復活上演は「景清物」として見ると不発と云わざるを得ませんね。団十郎の景清・十蔵二役が時代物の重量感あってニンであっただけに・これを生かせず、ちょっと惜しいことをしました。
(R7・2・23)