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「出世景清」はなぜ画期的作品なのか〜近松の「出世景清」
*本稿では「吉之助が浄瑠璃を読む」というシリーズの第2編として近松門左衛門の「出世景清」を取り上げます。いくつかの浄瑠璃作品を逍遥するなかで、語り物(物語を説き聞かせる行為)としての浄瑠璃を考えることを目的としています。
1)なぜ「出世」なのか
近松門左衛門の浄瑠璃「出世景清」は貞享2年(1685)大坂竹本座での初演。初代竹本義太夫が大坂道頓堀に竹本座を旗揚げしたのが、その2年前の貞享元年のことでした。浄瑠璃にもいろんな流派があって、当時は京都の宇治加賀掾が義太夫の強力なライバルでした。そうしたなかで「出世景清」は義太夫節の人気を決定付けたもので、後世においては本作以前の浄瑠璃を「古浄瑠璃」、以後を「当流浄瑠璃」と分けるほど重要な位置にあるものです。
本稿は「出世景清」がなぜ画期的な作品なのかを考えるものですが、まず考えてみたいことがあります。それはどうしてこの作品は「出世」景清という表題なのか?ということです。平家滅亡後、景清は頼朝暗殺を企て逃亡しますが、最後は頼朝に赦免されて日向の国宮崎の荘を賜るというのが「出世景清」の大筋です。有力な説としては、頼朝の赦免をもって景清が世に出た、つまりこれが「出世」の意味であるという説があります。しかし、この説に対しては景清は目をくりぬいて盲目となり乞食同然となるのに、これが「出世」のはずがないという反論もあるようです。もうひとつの有力説としては、本作は若き近松にとって相当な自信作でもあり、初代竹本義太夫の新しい浄瑠璃(義太夫節)の前途を祝福するものであるから・これを「出世」とした、これはおめでたい表題なのだという説があります。本作は結果として興行的成功を勝ち得ましたからこれも有りかなと思いますが、どちらの説もいまひとつ説得力に欠ける気がします。ところで仏語では俗世の煩悩を解脱して悟りを得ることを「出世間(しゅっせげん)」と言い、これを略したものが「出世」になります。例えば僧侶のことを出世者と呼びました。しかし、日本では貴族の子息が剃髪出家して僧侶になることが多く・こうした者たちは昇進のスピードが早かったので、高い位の僧侶になることを「出世」と呼ぶようになり、これが今日使われる意味に転化して行ったようです。
「出世景清」・五段目では首を刎ねられたはずの景清が蘇り、替わりに観音像の首が落ちます。この奇蹟に感じ入った頼朝が景清の罪を許します。景清は清水観音を信仰していました。頼朝は「頼朝がためには御辺また敵なれば、打って捨つべき者なれども、汝が身には観世音入り替わりまします故、二度誅せば、観音の御首を二度打つ道理。勿体なし勿体なし」と言って景清を許し、日向の国宮崎の荘を景清に与えます。景清は頼朝の恩義に感謝しつつも、この両目があるうちは敵を打つ心は治まらないとして、両目をくり抜いてしまいます。
『まことに人の習ひにて心にまかせぬ人心。今より後も我が身をいさむるとも、君を拝むる度毎によもこの所存は止み申さず、かへつて仇とやなり申さん。とかくこの両眼のある故なれば、今より君を見ぬやうにと言いもあへず差し添え抜き、両の目玉をくり出だし、御前に差し上げて頭をうなだれゐたるなり。』(出世景清・五段目)
ですから「出世景清」の根本に清水観音信仰があるわけです。観音様の御導きによって景清・頼朝両人は長年の恩讐を乗り越えるのですから、俗世の煩悩を解脱して悟りを得る、これをもって「出世景清」と称するという考え方もできると思いますね。それでは景清と清水観音信仰とはどのような関係があるのか、そこから「出世景清」を考えて行きます。(この稿つづく)
(H28・2・8)
平家の侍大将・悪七兵衛景清は、「平家物語」では屋島の合戦での源氏方の美尾屋(三保谷)十郎の錣を素手で引きちぎったという「錣引き」の逸話(巻十一「弓流」)が有名ですが、それ以外では目立った活躍はなく、特に重要な人物というわけでもないようです。史実の景清は壇ノ浦合戦後に源氏方に投降したが、源氏の禄を食むのを潔しとせず絶食して果てたと伝えられています。だから源平合戦後に景清が単独で頼朝暗殺を企んで大仏供養の折にこれを襲ったとか、両目をくり抜いて日向に流されたとかの話はまったくの作り話なのです。しかし、芸能の世界では能・幸若・歌舞伎でもたびたび取り上げられて、「景清物」というジャンルがあるほど多くの作品があります。歌舞伎十八番にも「景清」があります。どうして芸能の世界で景清がこれほど英雄視されることになったのかは、とても興味があるところです。
これについては「平家物語」巻十二に薩摩中務家資という平家の侍が大仏供養の時に頼朝を狙って捕らえられ・六条河原で処刑されたとの話があり、また同じ巻に越中次郎兵衛盛嗣という平家の侍が頼朝を狙っていたが身内の内通により湯殿で捕まり由比ヶ浜で斬られたとの話があるようですから似たような事件が実際に多く起こったのでしょう。それらが景清の挿話として意図的に取り込まれたということなのです。景清と清水観音信仰との関連も「平家物語」のなかにはまったく言及がないのですが、長門本「平家物語」には平家の侍主馬八郎左衛門盛久が捕らえられて殺されるはずのところを、清水観音の霊験によって命を助けられ、許されて越前国池田の庄を賜ったという話があるそうです。この記述のなかに「宗徒のもの共」のひとりとして景清が登場しています。だから景清と清水寺との関係は確かにあったに違いないですが、「平家物語」成立の時点ではまだその印象は強烈なものではなかったのです。しかし、その後、芸能者たちによって長い時間を掛けて、家資・盛嗣・盛久といった平家の残党たちのドラマが、彼らの代表としての景清に次第に集約されて、景清のイメージの増幅がはかられたのです。その他、中国の史書にある晉の予譲が乞食となって仇を付け狙う故事、呉子胥(ごししょ)が「我が目をえぐって東南(越の方向)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを見られるように」と言い残して自害した有名な故事などが景清を英雄化するために利用されました。
しかし、数多い平家の残党のなかにあって、どうして景清が代表として祭り上げられることになったかということは、もう少し考えなければなりません。(この稿つづく)
(H28・2・11)
このように平家残党のなかで特別な形で景清が神様に祀り上げられていく理由について、柳田国男は論考「目一つ五郎考」(昭和9年)のなかで景清の名前のなかのカゲやキヨという音が示現神に縁があるということを指摘しています。また同じく論考「一つ目小僧」で、柳田は「一つ目小僧は本拠を離れ系統を失った昔の小さい神、一方の目を潰された神である」という仮説を提出しています。景清の場合は片目ではなくて両目を潰すわけですが、御霊信仰を重ねて景清像を膨らませた民衆の想像力がそこに感じられます。こうなるとやはり「平家物語」のなかの「錣引き」の剛力武者のイメージが大事になってきます。あるいは長門本「平家物語」巻二十の「上総の悪七兵衛景清の例の生き上手なれば落ちにけり」というような逃げ上手のイメージです。悪七兵衛の「悪」の意味は、後世に使われる「悪」の意味とはちょっと違ったもので、群を抜いた能力・体力・気力を持った恐るべき存在というニュアンスがありました。そのようなことが混ざり合って「牢破りの名人」、捕まっても捕まっても 牢を破ってまた逃げて・頼朝を執念深く付け狙う景清という人物像が作り上げられて行きます。幸若「景清」では景清は頼朝を討とうとして失敗すること三十七度・それでもなおも頼朝を狙うという設定になっています。
柳田国男全集〈6〉(ちくま文庫)( 論考 「一つ目小僧」・「目一つ五郎考」を収録)
史実にはない日向景清伝説を全国に流布したのは、座頭であったと云われています。目を病んだ人々の神様として景清を崇める遊芸集団があったのです。日向はもともと日本神話でも重要な地ではありますが、そう考えれば目をくり抜いた景清が流れ着く土地が日向の国(ひゅうがのくに・ひむかいのくに)とされたこともなるほどと納得が行きます。日向という言葉のなかに目を病んだ人々の光を求める気持ちが込められているのです。例えば宮崎市にある生目神社(いきめじんじゃ)は「日向の生目様」と呼ばれて古くから眼病に霊験あらたかな神社とされています。ここには東国から離れた日向においても源氏の繁栄を見聞きせねばならないことで苦しんだ景清が自分の両目をえぐり投げ捨てると、投げた両目が松(目かけの松)の枝に刺さったため、これを祀ったと云う伝説があるそうです。このように景清は民衆がイメージによって作り上げた英雄なのです。
しかし、神性を帯びた悲劇の英雄というだけでは、景清伝説はまだ完成しません。英雄伝説には必ずそれにふさわしいヒロインが必要です。つまり「出世景清」四段目で重要な役割を担うことになる阿古屋のことです。森山重雄は、景清伝説は阿古屋と対となった時に完結すると述べています。(「景清の世界」・季刊雑誌「歌舞伎」第27号)これは非常に重要な指摘です。「出世景清」の先行作になる謡曲「景清」あるいは「大仏供養」を見ると、ここには阿古屋が登場し ません。このことは両作が景清伝説の別箇のドラマを描いていると考えるべきことで、決して謡曲の景清像が古臭いと云うことではないです。しかし、成立年代としては謡曲より若干後と思われる幸若「景清」においてヒロインあこおう(阿古王・阿古屋)が登場することにより、景清伝説が新たな段階へ向かうことになります。あこおうの登場が近世悲劇の扉を開くきっかけとなるのです。(この稿つづく)
(H28・2・16)
浄瑠璃の歴史では「出世景清」より前の浄瑠璃を古浄瑠璃、「出世景清」以後を当流浄瑠璃と呼 ぶそうです。何故それほど「出世景清」が画期的な作品であると位置付けされるのでしょうか。古浄瑠璃の出だしは「さても其の後・・」で始まるものでした。これはつまり「今までの話はさて置き、その後・・」という決まり文句で、これが古浄瑠璃の形式とされていました。この出だしが「出世景清」にはありません。「出世景清」の初段 冒頭は「妙法蓮華経観世音菩薩、普門品第廿五は大乗八軸の骨髄・・・」と云います。しかし、「出世景清」で近松は「さても其の後・・」と云う形式を捨てて・新たなる自由な表現を目指した、だからこれを新浄瑠璃と呼ぶ・・というだけではあまりに理解が単純というものです。浄瑠璃の形式(定型図式)が破壊されたことが重要なのではありません。形式が破壊される為の内的必然がその作品に秘められているかどうかが重要なのです。内的必然があるならば、遅かれ早かれ定型図式は崩壊するに違いありません。「さても其の後・・」が捨てられたということは、そのことを示す表面的な変化に過ぎません。だから何故「出世景清」が画期的作品であるかを考えることは、浄瑠璃の歴史のなかの人間ドラマの表現思潮の変化を理解するということです。
ところでオペラ演出家フランコ・ゼッフィレッリは「オペラの歴史はふたつの時代に分けられる、カラス以前とカラス以後に」と言いました。吉之助はこれに同意しますけれど、同時代にも優れたソプラノ歌手があまた居たのにも関わらず何故マリア・カラスが画期的なのでしょうか。吉之助が思うには、そのことは遥か昔の作曲家たち(ドニゼッティ・ベルリー二・ヴェルディ)によって既に楽譜のなかに用意されてはいたのです。しかし、当時は歌唱技術や表現思想の限界から、歌唱から生々しいリアルな感情表現を引き出すことはなかなか難しいことでした。マリア・カラスという「現象」は二十世紀後半の世界的な芸術思潮の流れから生じたもので、その内的必然をオペラと時代の関連から考えなければなりません。特にリアル(写実)感覚の時代との関連が大切です。ですからカラスがオペラの歴史を変えたのではなく、オペラ歌唱の内的な変化がカラスという現象によって現れたということです。「出世景清」のことも、同様に浄瑠璃の歴史のなかの現象として考えてみなければ決して分からぬことです。
森山重雄は、景清伝説は阿古屋と対となった時に完結したと言っています。同様に吉之助も、ヒロインあこおう(阿古王・阿古屋)の登場によって景清伝説は新たな段階へ向かった、幸若「景清」のあこおうの登場によって近世悲劇の扉を開くきっかけが準備されたと考えます。そして近松の「出世景清」によって近世悲劇の扉が遂に開かれた。だから「出世景清」は画期的作品となったのです。そこで「出世景清」のなかのヒロインあこおうについて考えてみたいと思います。(この稿つづく)
(H28・2・21)
景清が清水観音信仰と強く結びついているということは先に触れました。ところで景清が信心する観音様が祀られる清水寺は、伝教大師(最澄)により草分けされ、慈覚大師(円仁)により新たに起こされ、坂上田村麻呂が大同2年(807年)に建立したお寺です。田村麻呂は、ご存知の通り平安初期に征夷大将軍として蝦夷の反乱、あるいは地方の賊や鬼の討伐に活躍した歴史上の人物です。このため東北地方を中心に田村麻呂にまつわる多くの伝承が残っています。例えば田村麻呂が建立したと伝えられる寺院は、奥州三観音と呼ばれるている牧山観音・富山観音・および箟岳(ののだけ)観音を含めて百以上もあるそうです。そのような由来は田村麻呂が討伐した蝦夷や賊の鎮魂あるいは封じ込めとして寺院の建立がされたことを示しています。
また田村麻呂の伝説(田村丸伝説)には、女性が絡むものが多くあります。例えば岩手県の姫神山の地名由来は、伊勢の鈴鹿山を根城にして悪事を働く鬼を退治するために、田村麻呂が山中に入ったところ、ひとりの神女にめぐり会い、その神女が自ら進んで田村麻呂の守護神になったと伝えられています。神女の名は「立鳥帽子神女」と云い、神女のおかげで田村麻呂は連戦連勝。田村麻呂が蝦夷との戦いに勝った後に神女を陸奥国の美しい山の頂に祭り、これを「姫ヶ丘」と呼んだということで、その故事によって姫神山と名付けられたとのことです。
このことは折口信夫によれば、新来の神は在来の神(その土地に昔から住む神)を一方的に悪として駆逐できなかった、そのため新来の神と在来の神との結婚という形態を取ったということで説明ができます。(「国文学の発生」)例えば田村丸伝説では、土地の精霊は悪路王と呼ばれていますが、一方でこれと並列するかたちで悪玉女(阿久玉女)と呼ばれる女性が出て来ます。この悪玉女も同じく土地の精霊なのですが、これはおのれの同族を裏切り敵である田村麻呂に通じて、同族を破滅させた者たちなのです。だからこれに「悪」の字が宛てられ、遊女に擬せられたものと考えられます。森山重雄は、田村丸伝説の田村麻呂に景清が入れ替わり、悪玉女(阿久玉女)が阿古王(あこおう・阿古屋)に入れ替われば、これはそのまま景清伝説になると言っています。これは多分その通りだと思います。悪玉女は阿久玉女と書くこともありますから、音が阿古王(あこおう)に転化したということです。だから景清物を全国に語り伝えた遊芸集団が、清水観音信仰を共通項 としたところで田村丸伝説を取り込み、景清の恋人として阿古王の存在が設定されたことが推察出来ます。遊女としての卑賤性のイメージは、恋人をかばって献身する女性となることもあれば、味方や恋人を裏切り罪を犯す女性にもなるのです。(この稿つづく)
(H28・2・25)
国家が中央集権に至る歴史のなかで繰り返されてきた征服者と被征服者との関係は、とても微妙なものです。そのような軋轢を経なければ融和はならないとも言えますし、部族自治が崩れてしまえば独自の文化は失われるということも言えます。そうしたなかで征服されて中央に従属せなければならない者の感情は揺れるのです。そのような被征服者のイメージは 、恋人をかばって献身する女性となることもあれば、味方や恋人を裏切り罪を犯す女性にもなるということです。
このような事例は決して日本特有のものではなく、世界各地に容易に見出すことが出来ます。これについては別稿「その心情の強さ」において触れました。例えばギリシア神話のなかの、ギリシアの英雄イアーソンを愛したコルキスの王女メデイア、同じく英雄テセウスを愛したクレタの王女アリアドネです。そのイメージは恋人をかばって献身する女性となるならば、征服者の側からすると好ましい・あるいは都合が良いものになります。それは民族融和の精神の象徴ともなるでしょう。しかし、同時に彼女は先祖の神や祖国・親兄弟を裏切っているわけで、もちろんそのことに対する負い目を背負っています。これだけのリスクを冒して敵の男を愛したのですから、その愛が報われないものと知った時には彼女の男への憎しみが倍加するのは当然だと思います。そうなると征服者にとって妻となったその女性はとても厄介な存在になります。
それが田村丸伝説のなかの悪女王(阿久玉女)という存在であるわけですが、これが景清伝説に転写反転した形で阿古王(あこおう・阿古屋)という存在になっていくのには、それなりの理屈があります。それはもちろん景清が、平家方・つまり滅ぼされた側の人間であったからです。景清伝説を全国に語り伝えた遊芸集団は、そのことを理解したうえで田村丸伝説を取り込んだと思います。景清は平家方の怨念を一身に取り込む形で御霊神として成長したキャラクターですが、頼朝を執念深く付け狙っていた景清が頼朝に罪を許されて日向の荘を与えられます。景清は頼朝に恩義を感じており復讐をやめたいのです。しかし、それは景清がこれまで背負っていた平家の人々の源氏に対する怨念を裏切ることです。そのような内部的に引き裂かれたジレンマが、景清の心のなかに起き ます。
このことは、古浄瑠璃「景清」であこおうが嫉妬して夫景清を訴人するという状況(この件については後述します)のリフレイン(繰り返し)であると見ることができると思います。つまりあこおうの心のなかに起こったのと同 じ状況が、今度は景清に降りかかったということです。しかし、景清があこおうの轍を踏むことはありません。「この両目があるうちは敵を打つ心は治まらない」として景清が自らの両目をくり抜いたのは、敵と味方の間で揺れ動く自分の気持ちが許せないからです。同時に目を潰すことだけが煩悩を捨てて救世の境地へ赴く唯一つの道であったということです。景清は自らの両目を潰すことで、あこおうと同じ破滅への道に陥ることから逃れます。つまりあこおうの悲劇を経たところに景清の解脱があるのです。そのように古浄瑠璃「景清」は構成されているわけです。森山重雄が、景清伝説は阿古屋と対となった時に完結したと言う、その理由がそこにあります。(この稿つづく)(H28・2・28)
ギリシア悲劇以来、悲劇的な題材というものは、首尾一貫した筋の展開により因果関係を踏まえ一定の形式的な手続きを経なければならぬものとされていて、悲劇はつねに多幕物とするのがお約束でした。これは日本においても感覚的に同様であって、理念としては能の五番立ての形式を踏襲したとされますが、だから時代浄瑠璃は五段形式が基本でありました。その時代浄瑠璃の五段形式の理念を確立したのが、近松の「出世景清」であったと考えます。五段形式の浄瑠璃は、その五段の流れのなかに二段目には二段目の、三段目には三段目の、四段目には四段目の役割と重さがあり、これを五段全体でひとつの作品としてきっちり締めるという論理形式があるわけです。「出世景清」全五段を見渡した時にその大筋は景清を巡る清水観音の霊験譚と見ることができますが、これは近松が過去から受け継いだものです。
一方、「出世景清」の四段目・六波羅新牢の場で我が子を殺して自害する阿古屋が、ギリシア悲劇の「メディア」(エウリピデス作)に似て印象があまりに強烈である為、どうしても現代の読み手は阿古屋の悲劇の方に目が行き勝ちです。そうなると「出世景清」での景清の影が薄いと感じるかも知れません。近松が阿古屋の描写にばかり力を入れて肝心の景清の姿を見えなくしてしまったという批判もそのようなところから来ます。しかし、浄瑠璃五段を貫く景清の清水観音の霊験譚という縦糸と阿古屋という横糸のバランスを見出すことが出来れば、そのように感じることは決してないはずです。
繰り返しますが、景清伝説がその変遷のなかで景清と阿古屋と対となって完結したというところが大事なのです。景清と阿古屋が対であるとは、一体どういう意味でしょうか。それは阿古屋の悲劇は景清の悲劇でもあるということです。阿古屋という存在によって景清の人物像が一層くっきりと立体的に、江戸時代の庶民にとってリアリティを以て見えてくるということです。「出世景清」四段目に肝心の景清の姿 が見えないと仰る方は、夫を裏切って訴人したのは阿古屋で・我が子を殺すのも阿古屋だから、悪いのは阿古屋で・景清は被害者だと思い込んでいるのです。そうではありません。阿古屋をそのような残虐な行為に追い込んだのは景清なのです。またそのことを景清自身がよく分かっています。阿古屋母子のありさまを見て泣き叫ぶ場面の詞章を見ればそのことは明らかです。
『景清は身をもだえ、泣けど叫べど甲斐ぞなき、神や仏はなき世かの。さりとては許してくれよ、やれ兄弟よ・わが妻よと、鬼をあざむく景清も、声を上げてぞ泣きゐたり・物のあはれの限りなり』
この景清の嘆きを踏まえなければ、五段目で景清が「この両目があるうちは敵を打つ心は治まらない」という気持ちは決して理解ができません。このことが分からなければ、五段目はただ清水観音の霊験譚の流れに沿って景清が自動的に両目をくり抜いたようにしか読めません。そのような読み方では景清が木偶の如くになってしまいます。近松が書いたのは人間のドラマなのです。(この稿つづく)
(H28・3・8)
「出世景清」に描かれた阿古屋の悲劇について別稿「その心情の強さ」で詳しく触れましたから・そちらをお読みいただきたいですが、これに付け加えるとすれば古浄瑠璃(幸若舞)の「景清」では景清が二人の息子を刺殺す件を、近松が「出世景清」で阿古屋が殺すことに変えたということ、このことが浄瑠璃史においてどのような意義を持つのかということを正しく理解せねばならないということです。なぜならば後世において「出世景清」以前の浄瑠璃を「古浄瑠璃」、以後を「当流浄瑠璃(新浄瑠璃)」と位置付けされるほどのものだからです。当時の人々にとって「出世景清」の何が新しかったのか・何に衝撃を受けたのかということが問題なのです。
なぜ「出世景清」がこれほどの意義を持つのでしょうか。ひとつにはそれは古浄瑠璃の「景清」が清水観音の霊験譚の枠組みから出ていないのに対し、「出世景清」はその枠組みからはみ出して人間のドラマを描いているからです。と言っても、古浄瑠璃の「景清」に人間が描かれていないわけではありません。嫉妬に狂った悪女の阿古王が夫景清を訴人し、これに怒った景清がふたりの息子を殺すというところに確かにそれなりのドラマがあると言えます。しかし、まあ言って見れば悲惨な出来事ではありますが、ドラマツルギーから読んだ時の真の意味での景清の「悲劇」ではないということですかね。清水観音の霊験譚としての流れから見ると、景清の子殺しは単なるエピソードにしか過ぎず、全体からみれば霞んでしまって重い意味を持たないということです。
アリステレスは「詩学」のなかで「悲劇が観客の心のなかに怖れ(ポボス)と憐れみ(エレオス)を引き起こすことで精神を浄化する」というカタルシス論を述べています。アリストテレスは個々の登場人物の性格を悲劇全体の筋よりも下位に置き、悲劇は人間の再現ではなく、行為と人生の再現であるとしています。(第六章)。だから「悲劇は、行為なしには成り立ちえないが、性格がなくても成り立ちうる」としています。
「出世景清」においては、登場人物の性格ではなく、行為が前面に出ているのです。そこが先行作である古浄瑠璃との決定的な違いです。阿古屋は性格の悪い女であるから嫉妬をし て夫の訴人に走るのではないのです。その行為は「私があなたを愛しているのと同じくらいに私を愛して」という気持ちを阿古屋が抑えきれないことから来たものです。景清が阿古屋の訴えを頑として聞かないのは、剛の者としての景清の性格から来るのではないのです。その行為は妻の気持ちに素直に応えられず「俺だってお前のことを死ぬほど愛しているんだ」と言えない男の弱さから来るものです。阿古屋が景清の前でふたりの息子を殺すのは、男に捨てられた愚かな女の当て付け心中ではないのです。それは「すべてを捨てて、これほどまでにあなたを愛した私」・阿古屋の心情を貫くための行為なのです。景清は妻と息子たちのありさまを見て遂に「許してくれ」と泣き叫びます。(詳しいことは別稿「その心情の強さ」をお読みください。)すべての行為に心情の裏付けがあります。状況が変化すれば心情が揺れ動き、当然それにつれて行為が揺れ動きます。心情の揺れ動きのなかにドラマがあるのです。「出世景清」は、アリストテレス的な悲劇の概念に合致する初めての「悲劇」となったと言えます。そのような「悲劇」は近松の「出世景清」以前になかったものでした。
もちろん当時の大阪の観客がアリストテレスの悲劇論を知っていたはずがありません。しかし、結果的には、大阪の観客はアリストテレスが考えたのと同じ判断をしたのです。大坂の観客は、阿古屋の悲劇をかぶき的心情から起こったものと見たのです。阿古屋の「私が私であることの・・私が私であり続けるための・・」、どうにも抑えきれない心情から来たものと見たのです。これによって阿古屋の心情は、大坂の観客のひとりひとりの心情と共有されるものとなりました。それはかぶき的心情が、江戸時代の人々の時代的心情であ ったからです。「出世景清」は人間が前面に出たドラマとなり、当時の大阪の観客にとっての同時代劇となりました。(詳しいことは別稿「かぶき的心情とは何か」を参照してください。)だからこそ「出世景清」以前の浄瑠璃を「古浄瑠璃」、以後を「当流浄瑠璃(新浄瑠璃)」と分けるとするほどの評価を得ること となったのです。(この稿つづく)
(H28・3・26)
初代竹本義太夫は「五段目は仕立てなり」と言っています。二段目・三段目・四段目いろいろドラマがあるけれども、それらを一括りしてひとつの主題にまとめ仕上げる、それが五段目の役割です。ですから人生の喜びや悲しみや怒りなど様々な局面を各段で描いて、人生というものの有り様を巡りながら、最終的に「そは然り」と云うべき人生を一巻の絵巻物の如き静止したイメージで描き出すのが、時代物浄瑠璃の本来の在り方です。それが説教など古くからの語り物の在り方でした。「出世景清」ならば、景清を巡る清水観音の有難い霊験譚を語り聞かせる、その目的に沿って各段が循環していく、そのような形式を取ります。この考え方は、時代物浄瑠璃の基本概念として、その後の時代浄瑠璃にも受け継がれていきます。そう考えると阿古屋の悲劇論にこだわって「出世景清」四段目を過度に重く見ることは、部分だけを見て時代物浄瑠璃の全体を顧みない読み方である、だから近松門左衛門を悲劇作家として重視し過ぎることは戒めなければならないと云う意見も当然出て来ると思います。この意見は一理あるところです。
しかし、一方で、「出世景清」だけでなく、歌舞伎では他の時代物でも早くから初段・五段目は省略されることが多くなり、半通し・あるいは見取りで上演されることが 多くなって来ます。このことは初段が発端・五段目が結末だけでドラマ的要素が少ないから上演価値が見出されなかったということもありますが、おおまかな流れとしては、三段目なら三段目・四段目なら四段目の、局面のドラマがその独自の位置を強く主張するところがあって、五段形式が次第に破壊されて見取り上演の方向に向かうことが必然の流れではないかとも思えるのです。見取りということが、もしかしたら「いいとこ取り・ダレ場の省略」という安直な発想から来るものではなく、膨張する局面のドラマの内的必然から来るものかも知れないということも考えてみたいと思います。近松本人は自身のことを悲劇作家だと意識していなかったに違いないです(それは当時は悲劇という概念がなかったからです)が、近松には悲劇を書きたかった内的衝動があった、その衝動が「出世景清」四段目に結実したと感じられるのです。近松にこの思いがなければ、「出世景清」のことを、後世の人々が本作以前の浄瑠璃を「古浄瑠璃」、これ以後を「当流浄瑠璃」と呼ぶということにはならなかったと思います。このことにも思いをはせねばならぬと思います。
この推論を裏付けるのは、元禄16年の最初の世話物浄瑠璃「曽根崎心中」です。世話物浄瑠璃は上・中・下の形式で書かれています。これについて広末保先生は「近松序説」のなかで近松の世話物の形式は時代物浄瑠璃の三段目を独立させたものだとしています。時代物浄瑠璃の三段目は、基本的に世話場であるからです。例えば「菅原」の佐太村(賀の祝)、「千本桜」の「鮓屋」がそうです。形式の外面的なところはそれで間違いないと思いますが、どうして三段目が世話物浄瑠璃として独立せねばならなかったのか?どうして世話物が五段形式ではいけなかったのか?という疑問がまだ残ります。この疑問にはこだわらなくてはならないと思うのです。吉之助は、近松は「曽根崎心中」で純粋な現代劇(元禄・享保当時の人々のための同時代劇)を志向し、このため時代物悲劇の五段形式を破壊しなければならない内的衝動があったと考えています。詳細は別稿「近松世話物論〜歌舞伎におけるヴェリズモ」をお読みください。この方向性に近松の作意を読むならば、やはり「出世景清」は四段目を重く見る必然性があるということになります。近松門左衛門は自らを悲劇作家としなかったでしょうが、明確に悲劇の創始者として位置付けて良いのだと吉之助は考えます。大事なことは、部分(四段目)を見ながら同時に全体(全五段)をも意識する、そのバランス感覚だろうと思います。(この稿つづく)
(H28・5・1)
「景清伝説はヒロインあこおう(阿古王・阿古屋)の登場によって完成する」と森山重雄が指摘したことを、もう少し考えておきたいと思います。景清が信心する清水観音が祀られる京都清水寺を建立したのは坂上田村麻呂で、田村丸伝説には女性が絡むものが多くあることは、先に触れた通りです。一方で中世期の庶民にとっては清水寺は男女の出会いの場でもありました。男女の出会いが清水観音の功徳であると信じられていたのです。清水寺は洛中にあり人々の往来も多かったですから、様々な物語の場となりました。例えばお伽草子の「賢学草子(けんがくのそうし)」では清水の通夜で三井寺の賢学が女を見初めたり、同じく「物くさ太郎」では嫁が取れない太郎が清水門前で辻取りをします。(辻取りとは今で云えばナンパのようなもの。)男女の出会いだけでなく、「義経記」では義経と弁慶の出会いも清水境内ということになっています。(出会いの場が五条大橋に変わったのは 少し後のことと思われます。)景清と清水観音信仰は切り離すことが出来ませんが、景清伝説の完成の為にヒロインが必要だということは、このことでも分かります。
田村丸伝説のなかの悪女王(阿久玉女) は「そむく女・裏切る女」です。そのような悪女のイメージが景清伝説に転写反転した形で近松の「出世景清」の阿古屋となっていくわけですが、「そむく女」は情が深い女でもあります。あまりに情が深いからこそ、嫉妬の気持ちが一層つのるのです。ふたつの性格は表向き相反しているように見えますが、実は表裏一体なのです。室町期の幸若「景清」のあこおうは、田村丸伝説の「そむく女」の悪女のステレオタイプなイメージからまだ抜け出していません。江戸期の「出世景清」において、一筋縄ではいかない・複雑な・生々しい女心を持つ阿古屋像を引き出したところが、近松の天才のなせる技です。もちろんこれは近松の生きた江戸という時代の近世的な性格から来たものに違いありません。(これについては本稿6)及び別稿「その心情の強さ」において詳しく触れました。)
一方、阿古屋の「情の厚い女・忠実な女」という側面を増幅させて行くならば、後の「壇浦兜軍記」(通称・阿古屋琴責め)の阿古屋になるのです。文耕堂らによる「壇浦兜軍記」は享保17年(1734)大坂竹本座での初演ですが、ここでの阿古屋は数々の拷問を受けても夫景清の行方を最後まで明かさない貞女です。(別稿「知らないことの強さ」を参照ください。)「壇浦兜軍記」はもちろん先行作である近松の「出世景清」を踏まえて書かれています。ですから琴責めの阿古屋の貞女のイメージは、そむく女の阿古屋を反対にひっくり返してみせただけの趣向ということではなかったのです。その貞女のイメージは、近松の「出世景清」に元々内包されていて、そこから引き出されて来たものです。もしかしたら文耕堂は「阿古屋は決して悪い女ではなかったのだよ」と、阿古屋の名誉回復を目論見たのかも知れませんね。しかし、阿古屋琴責めの場はドラマ性という点で乏しいところがあり、どちらかと云えば風情で見せる場とされています。景清伝説におけるヒロインあこおう像は、ここで成長を止めたと言えるかも知れません。「出世景清」には、この後に景清の牢破り、清水観音の霊験譚、景清の両目抉り、日向への下向という筋が続きます。これらのモティ―フは歌舞伎の景清物の一大系譜をなすものですが、「出世景清」はなぜ画期的作品なのか」という本稿のテーマに直接関連しないので、これについては機会を改めて触れたいと思います。
*本稿は、森山重雄:論考「景清の世界」(季刊雑誌「歌舞伎」第27号・昭和42年12月に所収)に大きな示唆をいただきました。
(H28・5・5)