知らないことの強さ〜五代目玉三郎の阿古屋
平成27年10月歌舞伎座:「壇浦兜軍記・阿古屋」
五代目坂東玉三郎(遊君阿古屋)、五代目尾上菊之助(秩父庄司重忠)他
1)心を無にする
「壇浦兜軍記」は享保17年9月竹本座初演。五段形式の時代浄瑠璃ですが、現在は三段目序の「堀川問注所(阿古屋琴責)」の段以外は上演されることがありません。筋としては阿古屋が景清の行方を詮議されて三曲(琴・三味線・胡弓)を弾かされるということだけで、大してドラマの起伏があるわけではないので、ただ風情だけで見せる芝居のように思われています。だから女形が三曲をどのように弾きこなすかというところが、観客の関心事になってきます。それもただ技巧的に上手いだけでは駄目で・そこに景清を想う気持ちがこもってないといけないとか色々言われますけれども、なかなか難しいことですねえ。実はこの琴責めの時点で阿古屋のお腹には景清の子供がいるわけですが、生まれてくる子供(とその父親)のことを想って弾くということも言われたりします。しかし、吉之助はへそ曲がりなのかも知れませんが、「景清や生まれてくる子のことを想う気持ちが音曲にこもってないといけない」とか云われると、三曲弾く時にそんなことを想っていたら阿古屋の気持ちが乱れちゃうのじゃないの・・と考えてしまうんですがね。
阿古屋がこの場で三曲を弾かされるということは、「彼女が景清の行方を知らないという申し開きが嘘か誠か、その心に一点の非もないことを三曲で証明して見せよ」ということです。それが嘘であるならば、嘘をつくことの罪の意識・あるいは心理的圧迫が呼吸や指先の乱れとなって、それが演奏のなかに自然と現われるであろう。この理屈は現代の嘘発見器の原理とほぼ同じだと云えます。しかし、やったことを客観的に証明することは証拠を出せばできないことはないですが、やってないということを 客観的に証明するのは難しいことです。なぜならば証拠が出せないからです。阿古屋が「景清の行方を知らない」ということを証明するのもとても難しいことです。ところで「景清の行方を知らないという心に一点の非もないことを三曲で証明して見せよ」ということは、それならばノーミスで弾いてみろということなのでしょうか、それとも 情感を込めて見事に弾けということなのでしょうか。まあそのどちらでもあるのでしょうねえ。ノーミスで上手く弾いてやろうなどと考えてしまうと、そういう下心は音楽に現われてすぐに気取られてしまいます。一方、行方の知れない景清のこと・生まれてくる子供のことなど考えながら情感を込めて弾いていたら、呼吸が乱れたり・ホロッと涙がこぼれてきたりして、思わず指先が乱れるのじゃないでしょうかね。そうするとあらぬ疑いを掛けられることになる。だから、いずれにせよ、そういうことを考えていたら心が乱れてしまいますから、三曲を弾いている時には余計なことを何も考えてはいけないのです。心を無にせねばならぬのです。だから「何にもない」ということが、阿古屋の性根になるのです。
「心を無にする」というのは、禅においても悟りの境地ということです。心を無にしつつ・心のおもむくままに演奏するということは、とても難しいことですが、優れた演奏家はそのような境地をものにしているものです。一般に遊女は悟りの境地から遠く・煩悩のまっただなかにある存在のように思われているかも知れませんが、その一方で「五尺の身体を売って衆生の煩悩を安んじる遊女は邪禅賊僧にまさる」という考え方も昔からあります。(別稿「桜姫の聖性」をご参照ください。)遊女の 汚辱は聖性に通じるのです。阿古屋は遊女のなかの最高の格である太夫ですから、悟りの境地にあると思います。だから阿古屋は「心を無にする」ということが出来る に違いありません。そのことを問うのが、この三曲琴責めなのです。(この稿つづく)
(H28・1・12)
「阿古屋琴責」には、役人がふたり登場します。ひとりは悪役というべきか、身重の阿古屋を松の枝に吊るして拷問する情け容赦のない岩永です。もうひとりが阿古屋に琴責めを仕掛ける重忠です。重忠は琴責めについて次のように説明しています。
『糸竹の調べは五音四声によく通じ直(なをき)を以て調子とす。まがり偽る心を以て此曲をなせる時は其の音色乱れ狂ふ。なかんづく此の琴、音有る物の司(つかさ)として人の心を正し、邪(よこしま)を禁(いさむ)ると白虎通にも賞じ置きたり。ここを以て重忠が女の心を見る拷問。』
中国の古書「白虎通義」の礼楽の章に「琴は禁なり、邪淫を禁止し、人の心を正す所以なり」とあるそうです。糸の調べは正しい心を以て正しい調べをとる、曲がった心で弾くならば、そのことは調べを聴けばすぐ分かると云うことです。琴責めの趣向は何となく京劇辺りにありそうな発想に思えますが、それは多分そのせいです。歌舞伎を見ていると、重忠は最初から阿古屋に同情しているようで、手荒なことを避けて三曲を弾かせて済ませようとする風流人であるかのように見えます。あるいは拷問を否定する人権主義者・良い役人でありましょうか。しかし、重忠はあくまで職務に忠実な能吏に過ぎないのです。これが拷問であるということは、どういうところに出ているでしょうか。例えば重忠は楽器を弾かせる前に阿古屋に質問をして景清の思い出など語らせて、巧みに阿古屋の心を乱しに掛かっています。
『して景清とその方が馴初めしはいつの頃、いかなることの縁により深い契りの仲とはなりしそ・・・』
『西海の合戦に命を逃れ都に折々紛れ入る景清、そちはたびたび逢はふがな・・』
重忠に問われて景清のことを長々と語ると、さすがに阿古屋の心も平静でなくなって来るはずです。そこを見計らって重忠は、次は三味線弾け、次は胡弓だと阿古屋に要求します。これは心の拷問なのです。重忠は別に風流しているわけではありません。重忠は職務に忠実に尋問を行っているのです。ただ岩永とは尋問の流儀が違うということだけです。
しかし、どのように重忠に責められようと、阿古屋には絶対的な強みがあります。それは「阿古屋は景清の行方をホントに知らない」ということです。これは前段・五条坂の場で述べられています。阿古屋の兄十蔵が景清の行方を教えようとすると、阿古屋は耳を塞いでこれを聞こうとしません。
『アア、これこれ、景清様の落ち着く所、わしに聞かせて下さんすな。聞くまいというその心は、如何なる火水の責めに逢うとも、性根乱れぬその内は、隠し抜こうと思えども、心の底に覚えあらば、身の苦しさに気も弱り、口走るものでもなし、わしゃそれが悲しさに、これ求めても聞きたい知りたい夫の行方上の空。』
「知っていると責めに耐えかねて口走るかも知れないから聞きたくない」と云うのです。だから阿古屋は景清の行方をホントに知らないのですが、夫が生きているか・死んでいるか分からないという状況ではありません。阿古屋は景清が無事で、どこかで潜伏して頼朝を討つ機会を狙っていると云うことを知っています。潜伏先を知らないだけのことです。これは強いです。阿古屋は景清と共に戦っている気分であるに違いありません。「やれるものならやってごらんなさい」という強さがあるからこそ、阿古屋は岩永の責めにも・重忠の責めにも耐えられるということです。(この稿つづく)
(H28・1・16)
このように阿古屋は景清の行先をただ知らないのではなく・ホントは「知ろうとしなかった」ということなのですが、そのことによって阿古屋が「知らない」ということは無類の強さを持つことになるのです。しかし、そこは阿古屋もか弱い女性ですから、岩永の拷問は辛いに違いありません。それでも阿古屋がかろうじてこれに耐えることができるのは、彼女の景清への思いの強さゆえです。そのような阿古屋の性根を表すのは、歌舞伎では花道での阿古屋の登場の場面に当たる「形は派手に、気は萎れ」という浄瑠璃の詞章です。
『姿は伊達のうちかけや、いましめの縄引きかえて縫いの模様の糸結び。小褄(こづま)取る手もままなれど胸はほどけぬ思ひの色形は派手に気は萎れ、筒に生けたる牡丹花の、水上げかねる風情なり。』
廓での華美な衣裳そのままで問注所の白洲へ押し掛けるというのですから、ここでの阿古屋の形容はまさに伊達です。つまり、それはかぶき者・反権力の心意気ということを示してします。ところが、一方で阿古屋の気持ちは「萎れ(しをれ)」に満ちていると云うのです。この「萎れ」をどう解釈すれば良いでしょうか。そこが問題となります。
ここで云う「しをり」というのは、枯れるとか朽ちるとか・頽れるという意味ではありません。「しをり」とは、侘び・寂びと同じく芭蕉の俳諧用語です。「去来抄」に拠れば、森川許六の「十団子も小粒になりぬ秋の風」という句について芭蕉は「この句しをりあり」と評したと伝えられています。しをりとは自然や人事に対する思いやりが表面に滲み出た、しみじみとした情趣のことを云います。しかし、それは題材そのものがあわれだと云うことではなく、対象をあわれみ・愛を以て眺める態度から生じてくるものです。だから「しをり」という情趣は、行為そのものなのです。権力者による取り調べというのは猜疑と権謀術数が渦巻く冷たい政治の世界であるわけですが、これに対して阿古屋は暖かい愛の力で対抗しようとしています。それこそが「しをり」です。阿古屋の心意気が、まさに反権力の意味合いを帯びることになります。阿古屋は岩永の拷問によって身体は相当なダメージを受けていることでしょう。だから「萎れ」に疲れている・朽ちるというイメージがあるように見えますが・それは逆で、むしろ阿古屋が拷問でヘトヘトになっているからこそ、阿古屋のなかの愛の感情が研ぎ澄まされて来 るのです。だからこそ阿古屋の風情が「筒に生けたる牡丹花の、水上げかねる風情なり」と表現されることになるのです。
(H28・1・24)
玉三郎の阿古屋は、花道での登場が威厳といい・気品といい、まことに立派。七三で止まって両手を左右に広げて捕り手を制す姿は、まさに伊達そのもの。それでいて「形は派手に気は萎れ」という色気も十分です。動きもたっぷりとして美しい。この場面を見るだけで切符の価値があります。やはり玉三郎には傾城がよく似合います。もちろん三曲の演奏も見事なものでした。吉之助は三曲に情の細かいところを聞き取るという域には行かないですが、それにしても胡弓という楽器のすすり泣くような音色には心揺すぶられま した。「糸竹の調べは五音四声によく通じ直を以て調子とす」というのは、よく分かる気がします。
重忠は難しい役です。誰がやっても阿古屋のことを気遣う情けのある役人には見えると思いますが、この場は詮議の場面ですから阿古屋は三曲で重忠に気持ちで訴えかけて「 秘曲を尽くす一節に彼が誠は現われて知らぬことは知らぬに立つ」という判断を勝ち得なければなりません。実は重忠というのは阿古屋にとって手強い相手です。岩永みたいに拷問で口を割らせようとするのならば・こちらも敵対意識がむらむら湧いて・どんな拷問にも耐えられるが、重忠のように優しく女の情を揺さぶって白状させようとするのは・阿古屋でさえ気持ちがぐらついて弱音を吐いてしまいそうになります。重忠というのはもちろん情けを解する男には違いないですが、決してそれだけではない。情けを逆手に取って取り調べが出来る、これはなかなか食えない人物だと思います。こういう男こそホントに恐いのです。そうした場面において「夫景清の行方をホントに知らない」ということが阿古屋の強みになって来ます。これだけが阿古屋の助けなのです。
菊之助の重忠は風姿爽やかで、台詞廻しが明瞭であるので理智的な印象に見えます。悪くない重忠で・初役でこれだけ出来れば大したものですが、役としては柔らかさのなかにも巌(いわお)のようなどっしりとした質量が欲しいところです。そういうものがあってこそ重忠という役が、立女形の阿古屋が立ち向かえる大役となるのです。まあそういうものはこれから年季を経て備わって行くものだと思いますね。玉三郎が重忠に菊之助を起用したのは「私の阿古屋を間近でよく見てくれ」という意図であろうと思いますが、菊之助が阿古屋を引き継いでくれる日は来るのでしょうかねえ。その日を楽しみにしたいと思います。(H28・1・31)