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「湯島の境内」・五代目玉三郎のお蔦

令和6年10月歌舞伎座:「婦系図」

五代目坂東玉三郎(お蔦)、十五代目片岡仁左衛門(早瀬主税)、初代中村萬寿(柏家小芳)、初代坂東弥十郎(酒井俊蔵)、二代目中村亀鶴(掏摸万吉)他


1)新派作品のカブキ化のこと

本稿は令和6年10月歌舞伎座での、玉三郎のお蔦・仁左衛門の主税による「婦系図」半通しの観劇随想です。玉三郎のお蔦は昭和58年(1983)4月新橋演舞場での新派公演での初役以来41年ぶりの2度目だそうです。仁左衛門は新派公演で主税を数回勤めていますが、本作での玉三郎との共演は初めてです。

玉三郎は新派など他ジャンルの戯曲を歌舞伎で取り上げることが過去にもあって、例えば平成18年(2006)7月歌舞伎座では「海神別荘」など・泉鏡花の戯曲4作一挙上演をプロデュースしたり、平成19年(2007)12月歌舞伎座では有吉佐和子の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」を上演したりしてきました。「ふるあめりか」については令和4年(2022)6月歌舞伎座で再演もされました。聞くところではこの時の演目選定には鏡花の「日本橋」も候補に挙がっていたようです。ところで玉三郎がこんなことを言っていますね。

明治末期から大正・昭和にかけて、歌舞伎が古典演劇という枠に入り始めたころ、古典劇をなし崩しに現代劇にすることが出来なくて新派という演劇が生まれました。その新派に、泉鏡花先生や、三島由紀夫先生、北條秀司先生が作品を書いていきますが、これらの作品は大きく考えてみれば、歌舞伎や日本の演劇の流れから生まれたものだと思っています。歌舞伎にとって新作も大切ですが、こうしたつながりのある作品を、現代の歌舞伎俳優達が、歌舞伎の近代の作品として上演することも大切だと思っています。』(坂東玉三郎:歌舞伎美人インタビュー:平成20年・2008・5月30日)

この玉三郎の意見には吉之助も大いに賛成で、泉鏡花だけでなく、川口松太郎にせよ北条秀司にせよ新派の作品は、いずれ歌舞伎で演じなければ上演が難しくなると思います。新劇の演目にしても、「ふるあめりか」だけでなく、江戸時代や明治大正に時代設定を置いた作品はみんなそうです。歌舞伎が守らなければ後世に残っていきそうにない演劇遺産が膨大に在るのです。これらを守ることが、これからの歌舞伎に求められる役割になると思っています。新派・新国劇・新劇など演劇界を取り巻く環境は、上記発言がなされた2008年時点よりも、もっと深刻なものになっていることは明らかです。「歌舞伎の存続だって大変な時期にそんな重荷を背負わされたら叶わない」と云う声が出て来そうだけれど、それだけ伝統文化遺産としての歌舞伎の責任と期待は大きいと云うことですよ。

ただし、これらの作品が歌舞伎で上演されて・女優の代わりに女形を使うことになれば、感触が少々カブキ臭くなってしまうことは、ご容赦いただかなくてはなりません。台詞の末尾を引き延ばして転がす役者がそのうち出てくるかも知れませんねえ。今回の舞台ではそのような役者はいませんでしたが。しかし、歌舞伎の演目に組み込まれることになれば、伝統芸能化して・そのような経過を辿ることは必然と云うか、そうやって作品は「古典」になって行くのです。今回(令和6年10月歌舞伎座)での「婦系図」上演で玉三郎がそのような方向を見据えているのならば有難いことだと思います。歌舞伎座のお客だってまだ「どうして歌舞伎で新派なの?」と不思議に思う方は多分少なくないでしょう。流れが定まるまでにはまだ相応の歳月が掛かると思います。

もうひとつ今回の玉三郎の41年ぶりのお蔦について注目したい点は、新派の役どころでは玉三郎には稲葉家お孝(「日本橋」)という当たり役があるわけですが、多分お蔦という役は・お孝ほどには玉三郎の体質にフィットしないであろうと思われることです。お蔦を演じるのが41年ぶりと云うのも、その辺に遠因があろうかと思います。注目は、玉三郎がこの点をどのように対処するかと云うことです。

「婦系図」初演は明治41年(1908)9月新富座でのことで、お蔦を勤めたのは初代喜多村緑郎でした。喜多村の女形は今では想像するしかありません。ご本人には「女形ったって歌舞伎の女形とはちょっと違う」という自負はあったと思いますけれど、その後のお蔦は初代水谷八重子を経て、二代目八重子・波野久里子へと受け継がれて、さらに写実(リアル)に根差した役になって行きます。女性の役を女優が演じるのだから当たり前のリアル、と云うか・むしろ「自然」になったと云うべきでしょうね。今回の玉三郎のお蔦では、これを女形の様式の方へいくらか「引き戻す」ことになるだろうと当(あたり)を付けてみることにします。これは前述した新派作品のカブキ化の方向という課題にも重なることになります。(この稿つづく)

(R6・10・11)


2)鏡花版「湯島の境内」のこと

世間の鏡花のイメージは、どちらかと言えば小説からでなくて・新派の芝居から出来上がったものが大きいと思います。しかし、例えば「滝の白糸」(原作は「義血侠血」)にしても「婦系図」にしても、戯曲化は他人が行ったものでした。新派「婦系図」初演は明治41年(1908)9月新富座のことですが、これは柳川春葉によって脚色されたもので、しかもお蔦・主税の別れを描いた有名な「湯島境内の場」は元々原作小説になかったのです。初代喜多村の回想によれば、「もう少し色気のある場面が欲しいと注文から春葉と喜多村が相談して口立て同様にして作ったものだ」と云うことです。しかし、この場がなかなか好評で、初演の舞台を見た鏡花は、

「喜多村のお蔦は申し分がない。いったい原作では、ほとんど菅子が女主人公で、お蔦はさし添えと云うのであるから、(喜多村が)二人引き受けるとなら格別、お蔦だけでは見せ場はなかろうと思ったが、舞台にかけると案外で、まるでお蔦の芝居になったり。」(泉鏡花:「新富座所感」・明治41年11月)

と褒めています。そうすると、後に大正3年(1914)明治座での再演に際して鏡花が戯曲「湯島の境内」を書いた(現在は湯島の場面のみを鏡花版に差し替えた形で上演がされている)・その理由は、鏡花が春葉の脚色が気に入らなかったからではなさそうです。そもそも鏡花は春葉脚本を土台に戯曲「湯島の境内」を書いたようです。(詳細については鈴木彩氏の論考・「日本近代文学・90巻・2014年をご参照ください。)新派の代表的な名台詞のひとつ、

「切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな。」

という台詞は鏡花が書いたもので、これは初演の春葉脚本にない台詞でした。春葉脚本でのお蔦は別れ話を切り出した主税を「貴方、ずいぶん自分勝手じゃありませんか」と詰るそうです。他方、鏡花版でのお蔦は取り乱すことはありません。比較的冷静さを保って話をしています。と云うことは、お蔦としては別れ話は内心ずっと気にはなっていたことで、「恐れていたことがついに来てしまった」と云う気持ちがそこに想像されないですかね。これは吉之助の推測に過ぎませんが、原作者として鏡花はお蔦の性根をちょっとだけ「正しておきたかった」ということだったかも知れません。(この点は本稿後半に絡んでくるので、覚えておいてください。)お蔦と主税の別れの場面は小説では、

「早瀬はしく懺悔するがごとく語ったが、都合上、ここでは要を摘んで置く。……
義理から別離話になると、お蔦は、しかし二度芸者(つとめ)をする気は無いから、幸い組の惣助の女房は、島田が名人の女髪結。柳橋は廻り場で、自分も結って貰って懇意だし、組とはまたああいう中で、打明話が出来るから、いっそその弟子になって髪結で身を立てる。商売をひいてからは、いつも独りで束ねるが、銀杏返しなら不自由はなし、雛妓(おしゃく)の桃割ぐらいは慰みに結ってやって、お世辞にも誉められた覚えがある。出来ないことはありますまい、親もなし、兄弟もなし、行く処と云えば元の柳橋の主人の内、それよりは肴屋へ内弟子に入って当分梳手(すきて)を手伝いましょう。……何も心まかせ、とそれにまった。この事は、酒井先生も御承知で、内証で飯田町の二階で、直々に、お蔦に逢って下すって、その志の殊勝なのに、つくづくいて、手ずから、小遣など、いろいろ心着けがあった、と云う。」(泉鏡花:「婦系図」・後編・貸小袖・17)

とあるだけです。小説であると主税がお蔦に別れを切り出したのは飯田町5丁目の自宅でのことであったかも知れません。まあそれが普通のことでしょうねえ。春葉がどういう理由で早瀬宅から結構離れている湯島天神境内を別れの場面に思い付いたのかは分かりませんけれど、鏡花版のお蔦に・これも有名な台詞ですが、

「切通しを帰るんだわね、おもいを切って通すんでなく、身体を裂いて分れるような。」

とある、この湯島天神の「切通し」がキーワードであったかも知れません。これも吉之助の推測です。(この稿つづく)

(R6・10・13)


3)鏡花版「湯島の境内」のこと・続き

初演の春葉脚本のことは置くとして、鏡花が書いた戯曲「湯島の境内」を読むと、「さすが巧いものだねえ」と思います。当時の同時代劇としての新しさ・リアルさもあるし、かと云ってパサパサの自然主義演劇の台詞になってはおらず、「様式」と云うと古臭く聞えますから・ここは「スタイル」と呼びたいけれども、そのようなシャキとした新鮮な感覚があります。明治末から大正に掛けては、これが新派と旧派(歌舞伎)を仕分ける感覚であったと思います。前章で引用した、

「切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな。」

「切通しを帰るんだわね、おもいを切って通すんでなく、身体を裂いて分れるような。」

という様な・いわゆる名台詞は、吉之助が普段見る歌舞伎の感覚であると、若干テンポを落として「ここが聞かせ所だよ」という感じで・抑揚を付けてちょっと張ってみたくなるところです。しかし、敢えてそこをしないのが、新派のスタイルです。吉之助の手元にある映像で確認しても、初代八重子のお蔦(昭和30年1月明治座)も・久里子のお蔦も(平成20年6月新橋演舞場)も、上記台詞はうっかりすると耳を通り過ぎてしまいそうなくらいアッサリしたものです。芝居好きが「たっぷりと」と思いそうな台詞を軽く「いなして見せる」、そこが新派の新しさであったわけです。

しかし、前章で触れた通り、将来は歌舞伎が新派作品を守って行かねばならないとすれば、感覚が少々カブキ臭くなることは避けられないことになるので、その時に上記引用したような・聞かせ所の台詞をどのように処理するか、そこが役者の工夫だと云うことになると思います。

新派の舞台を見ると「なるほどそこは新派ならそう処理するわけね」と思うものの、吉之助のような歌舞伎研究者から言わせれば、「ここはこうすればもっと芝居が印象付けられるのじゃないか」と思える箇所が「湯島」にもあるにはあります。本作では他所事浄瑠璃として清元の「三千歳」が効果的に使われており、曲の進行(直侍と三千歳の逢瀬と別れ)が舞台上の出来事とぴったり重なるわけでもないのに、情緒がしんしん深まって行きます。さすが鏡花は巧いと思いますけど、例えばそのなかで、

お蔦:「(並んで掛けて、嬉しそうに膝に手を置く) 感心でしょう。私も素人になったわね。」
清元〽風に鳴子なるこの音高く、
(ト書き)時に、ようようと蔭にて二三人、ハタハタと拍手の音。

という場面があります。(この時点ではまだ主税は別れ話を切り出していません。)映像を見ると初代八重子も・久里子も、この場面では特段の演技をしていません。(ちなみに今回の玉三郎のお蔦は、この箇所で主税に背を向けてスッと立ち上がったので・何かするのかと思いましたが、何もしませんでしたね。)あくまで向こうの料亭から聞こえてくる騒ぎ声だから自分(お蔦)には関係ないと云う感じに見えました。

しかし、お蔦が「私も素人になったわね」と言ったタイミングで、「ヨウヨウ」と声が掛かって拍手が来ることに、吉之助はハッとさせられます。ここは鏡花がはっきり意図して書いた箇所だと思います。その拍手は吉之助には、鏡花が「お蔦、お前はよく頑張っている、ちゃんと素人になっている、お前は偉い」と言っているかのように聞こえます。だから吉之助がもし演出でもするならば、お蔦は拍手がした方向をチラッと見やって、「そうよね、私、頑張ってるんだから」という表情を一瞬させてやりたいと思いますね。しかし、新派の感覚であると多分そのような演技は「ちょっとクサい」と云うことになるのかな。まあそれも分からぬことはないけれど、初代喜多村はこの場面をどう処理したでしょうかねえ。(この稿つづく)

(R6・10・15)


4)お蔦の性根について

ここまでの吉之助の論点を整理すると、鏡花は春葉の脚色を気に入っていましたが、(原作の裏打ちを持たない)「湯島」のお蔦の性根については、原作者としてちょっとだけ正しておきたかったのであろうと云うことです。「ドイツ語学者の早瀬主税は芸者を女房にしている」と世間から言われるのが、お蔦には一番恐れることでした。だからお蔦はこれまでの派手な生活を一切断って・質素に徹して、一人前のお内儀になろうと懸命に努力して来ました。「半纏を着たお内儀もあるものかね」と笑われたりしながらも、炊事も覚え、針仕事も覚えた。だから主税が「別れてくれ」と言った時、お蔦は「貴方、ずいぶん自分勝手じゃありませんか」と主税を責める気持ち(春葉脚本)よりも、「ああやっぱり世間はそんな風に私を見るのね」という残念な気持ちの方が強いわけです。それでも、お蔦にも「私は素人になろうと人一倍頑張ってきた」と云う自負があるから・ちょっと抗弁はしてみたものの、主税に意見をしたのが選りによって「真砂町の先生」(酒井俊蔵)であったと聞いてしまうと、お蔦は何も言えなくなってしまいます。

つまり「湯島の境内」でのお蔦には「私は元芸者」という意識はちっともないのです。お蔦は「今の私は素人なのだから」というプライドで動いています。これがお蔦という女性なのです。鏡花は春葉脚本のそこだけを正したいと思って「湯島」の場を書いたと思います。大して違いがないように見えるかも知れませんが、そこが決定的な違いです。

ちなみにお蔦・主税の別れには、モデルがちゃんとあります。お蔦は神楽坂の芸者であった桃太郎こと・後の泉鏡花夫人すず、主税は鏡花自身、別れを迫った真砂町の先生は鏡花の師である尾崎紅葉でした。酒井が「俺を棄てるか、婦を棄てるか」と迫ったのと同じような場面が、明治36年(1903)4月14日の紅葉宅で起こったのです。(このことは紅葉の手記「十千万堂日録」に記録されています。)この半年後に紅葉は死去。鏡花の許を去ったすずは、紅葉死去のあと鏡花の許に戻って、二人は結婚します。つまり事実はハッピーエンドで終わり、「婦系図」のように・お蔦の死で終わると云うことはなかったわけです。

しかし、このことは鏡花にとってなかなか辛い思い出であったのでしょうね。紅葉死去の4年後(明治40年・1907)に書かれた「婦系図」のなかに、(小説でも読ませ所・泣かせ所になるに違いない)お蔦・主税の別れが全然書かれていない。小説では「早瀬はしく懺悔するがごとく語ったが、都合上、ここでは要を摘んで置く」で済ませてしまったところに、鏡花の心の傷の深さを察することが出来るかも知れません。だから戯曲「湯島」には、鏡花のお蔦に対する強い思い入れと云うか、同情が滲み出ている気がしますね。「お蔦、お前はホントよく頑張ったよ、ちゃんと素人になっているよ、それなのに・・・・ねえ」、これがあの時のすずに対する鏡花の気持だったのではなかったでしょうか。(この稿つづく)

(R6・10・17)


5)玉三郎のお蔦

そこで今回(令和6年10月歌舞伎座)での玉三郎のお蔦のことですが、「湯島」前半(主税が別れを切り出す前)で、ついぞ一緒に外出することがなかったのに、今宵は湯島まで二人で散歩して、お蔦としてはそれが嬉しくて・ツイはしゃいでしまうと云う解釈でありましょうかね、きゃぴきゃぴした印象のお蔦でありました。周囲のご婦人客からは「カワイイッ」と云う歓声があちこちで上がって、笑い声が多かった。確かにお客には受けていたようですが、何となく日本橋」・一石橋の場での稲葉家お孝を思い出します。

もしかしたら玉三郎は、どちらも元芸者だと云うことで、稲葉家お孝の引き出しでお蔦を処理しようとしているのではありませんか?確かにお孝は、玉三郎の当たり役中の当たり役です。しかし、お孝は葛木の女房に納まろうとしたけれど、芸者時代の柵(しがらみ)から抜け出すことが出来ず、そこの覚悟が中途半端であったために、結局柵に絡め取られて死ななければならなかった女性です。一方、お蔦は芸者時代の柵ときっぱり手を切り、素人のお内儀になろうと一生懸命努力して、(「湯島」はまだ別れの発端ですけれど)最後の最後に真砂町の先生に「主税に逢っても良い」と認めさせて微笑みながら死んでいく女性なのです。この点は決定的な違いです。前章で述べた通り、お蔦の性根は「私は素人」というところにあり、自分は元芸者だという意識はありません。

玉三郎のお蔦を見ると、主税がいつ別れを切り出そうかと・それしか頭になくて・ふさぎ込んでいるのに、お蔦がそれとも知らず無邪気にはしゃぐかのように見えて、それが何となく滑稽・コミカルに映って来るのです。観客席に笑い声が多いのは、そのせいでしょう。しかし、本来この場面は悲しく映らねばならないはずです。初めての楽しいデートのはずが、主税さんどうしてそんなにふさぎ込んでいるの?どうして笑ってくれないの?何だか変・・・というのがお蔦の気持ちではないでしょうか。もうすぐそこで二人の悲しい別れが始まるのですから、これから何が起こるのか、お蔦の不安をはっきりカラーで以て示してください。玉三郎のお蔦は、それが出来ていません。と云うよりも、そのようなことが最初から眼中にないように思われますね。だから「湯島」後半(主税が別れを切り出す)への段取りがしっくり行っていません。

仁左衛門は主税を数度演じていますし、さすがに手慣れたものです。そのことは平成20年6月新橋演舞場(お蔦は久里子)の映像で証明されています。しかし、今回の舞台では、仁左衛門が(特に「湯島」前半において)何だかやり難そうに見えました。お蔦が高調子ではしゃぐせいで、それに引っ張られて主税までが高調子の台詞になってしまいました。まあ二人高調子はT&Tの魅力みたいなものですが、それも作によります。「湯島」のお蔦主税の別れの場は、しんみりした場面にせねばなりません。ここは台詞の調子を低めに持って行かなければ、清元の他所事浄瑠璃が醸し出すムードも生きて来ません。

初代八重子や久里子のようにお蔦をやれとは言いません。歌舞伎の女形が新派のお蔦を演じる時に女優とはひと味違うものを打ち出さねばならないことも分かります。しかし、玉三郎が今回のような感触でお蔦を作って来たことについては、長年の玉さまファンとして、正直云って「残念だ」と言わざるを得ませんねえ。新派の写実(リアリズム)と女形の様式(非リアリズム)との正しい折り合いを見出すために、役の性根・心理についてより一層の読み込みが求められます。初代喜多村のお蔦はどんなお蔦だっただろう?と考えることがヒントになるでしょうね。

(R6・10・22)


 

 


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