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説経「をぐり」の系譜を考える

令和4年7月歌舞伎座:「当世流小栗判官」

四代目市川猿之助(小栗判官・浪七)、二代目市川笑也(照手姫)、二代目坂東巳之助(矢橋の橋蔵・横山太郎)、二代目尾上右近(万屋娘お駒・岡村采女之助)、二代目市川猿弥(横山大膳)、八代目市川門之助(浪七女房お藤・上杉安房守)、五代目中村歌六(遊行上人)他


1)あれも「をぐり」、これも「をぐり」

今月(7月)歌舞伎座第一部は、猿之助による通し狂言「当世流小栗判官」です。しかし、現在のコロナ状況による上演形態(三部制)のため、前回上演(平成23年10月新橋演舞場)が三幕で3時間半(休憩除く)であったところを、三分の二ほど(2時間15分)に切り詰めた簡略台本に拠っています。鬼鹿毛の碁盤乗りは欠かせないネエ・浪七の件は見せ場だ・万福長者内も外せないね・小栗の天馬の宙乗りは絶対やらなきゃ・・となってしまうのは必定なので、名場面ダイジェスト的なものになってしまって、芝居としてはコクがないのは、致し方ない。まあそこはそう云うものだと思って見ることにしますが、説経「をぐり」とは随分と異なる筋に変わったものだ、これが日本芸能史のなかで一大ジャンルを成した説経「をぐり」の系譜の行き着いたところなのだなあと思うと、何かしみじみ心あはれに感じられたのです。吉之助も歳とって芝居の感じ方が変わってきたものだナ。

イヤ吉之助は皮肉を言っているわけではありません。これでは説経「をぐり」と筋が全然違うと抗議したいのではない。吉之助が言いたいのは、まったく逆のことです。説経浄瑠璃「をぐり」(小栗判官照手姫の物語)は、中世(室町期)に生まれた・遊芸民による語り物芸能でした。近世(江戸期)に入ると、人形浄瑠璃や歌舞伎など都市型芸能の題材として取り入れられました。語り物の説経では、人は耳で物語を聴き、あとは頭のなかで情景を想像するしかなかったのです。しかし、台本として文字に記され、視覚を伴った芝居として、筋の「説明」が成されるようになると、そのなかで合理化が自然と働くようになります。筋がだんだん整理されて行くのです。上手く視覚化が実現出来ない箇所は、切り捨てられることになる。合理的な説明が付かない箇所を、もっとそれらしい明解な筋に置き換えることも出て来ます。観客をもっと楽しませ・引き付けるために、新たな派手な物語を付加して筋を膨らませる、そんなことも起こります。長い歳月をかけて、そのような過程(プロセス)を幾度も経て、「をぐり」は江戸期の民衆のなかに次第に定着して行きました。その行き着いたところに、この三代目猿之助四十八撰の「当世流小栗判官」があるわけです。こうして説経「をぐり」とは大分異なる姿になってしまいました。

このように説経浄瑠璃であったり・絵解きであったり、人形芝居あるいは歌舞伎であったり・様々な機会に、民衆は説経「をぐり」の世界に触れる機会があった。明治半ばくらいまで、世の中にそのような環境があったのです。ここで大事なことは、江戸の民衆は、「をぐり」としてはあの筋が正しい・これは間違い・・なんて堅苦しいことは云わず、これらのどれをも、そんなものとして受け止めて・愉しんだと云うことです。「こっちの筋の方が面白いネ」と云うことは言ったかも知れませんが。

思えば、「をぐり(小栗判官)」の世界に取った作品は、歌舞伎でもいろんなものがあったのです。例えば、元禄赤穂事件(大石内蔵助以下四十七士討ち入り事件)も、現在では「仮名手本忠臣蔵」として「太平記」の世界に仮託されて・この形が定着していますが、「忠臣蔵」初演(寛延元年・1748・大坂竹本座)以前には、実は「をぐり」の世界に取られたものが数多くありました。延享4年・1747・つまり「忠臣蔵」初演の前年、京都粂太郎座で初代宗十郎が初演して評判になった「大矢数四十七本」もその一つで、大岸宮内の茶屋場遊びが大評判となりました。脚本は残っていません。大岸宮内(おおぎしくない)とは、もちろん大石内蔵助のこと。この場面を取り入れて、翌年竹本座で創作された人形浄瑠璃が、「忠臣蔵・七段目・一力茶屋」なのです。大星由良助の「青海苔もらふた礼に太アイ太神楽打やうなもの」と云う台詞廻しは、「大矢数」での宗十郎の宮内の台詞廻しを真似たものです。それほどの評判作でした。それにしても、説経「をぐり」の筋から、一体どこをどうすれば、仇討ちや茶屋場遊びやらが出て来るのでしょうか、摩訶不思議なものですねえ。しかし、そういうことを真剣に解明しようとしても結局無駄なことだと分かります。あれもこれもみんな「をぐり」なのです。

だから「当世流小栗判官」の、浪七住家や万福長者内も、説経「をぐり」にない、スピンオフ・ドラマみたいなものですが、だからって別にどうってことはないわけなのです。小栗判官や照手姫にどこか関連していれば、それで良いのでしょう。こういう「をぐり」もあると云うことなのです。それにしても、説経「をぐり」を原点に日本の芸能は不思議な変容を見せたものであるなあと、日本の民衆の発想の不思議さ・と云うか柔軟さが、何かしみじみ心あはれに思われないでしょうか。

しかし、「をぐり」の世界であるからには、これが「をぐり」であることの証(あかし)みたいなものが、そこに在るのだろうと思います。それがすべての「小栗」物に共通したものかは分かりません。しかし、いくつか大事なキーワードらしきものは見えます。「当世流小栗判官」の場合で見れば、それは「小栗判官照手姫」と云う、宿命のカップルの縁(えにし)であろうと思います。(この稿つづく)

(R4・7・10)


2)説経「をぐり」の系譜

説経「をぐり」にこだわるわけではないけれど、やはり吉之助は芝居のなかに、これが「をぐり」であることの証(あかし)みたいなものをついつい求めたくなります。現在上演される「をぐり(小栗)」物は数が知れてしますが、そのなかで説経「をぐり」の筋を濃厚に残したものとしては、梅原猛原作・三代目猿之助(二代目猿翁)脚本主演によるスーパー歌舞伎「おぐり」(初演は平成3年・1991・11月新橋演舞場)があります。これは後に改訂を施されてスーパー歌舞伎U「新版・オグリ」として再演もされました。これが歌舞伎の「をぐり(小栗)」物として最も新しいものですが、実は説経「をぐり」の世界に回帰しようとした作品でもあります。(別稿「説経「をぐり」の世界は蘇ったか」で取り上げましたから、そちらをご参照ください。)

これと比べると「当世流小栗判官」は、これが同じ「をぐり」物なのかと驚くほど、筋立てがまったく異なります。しかし、ここにもこれが「をぐり」であることの証が多分何かあるだろうと思うのです。吉之助としては、それを「小栗判官照手姫」と云う、日本芸能史上最強カップルに見たいと思います。ところで「当世流小栗判官」は、奈河彰輔がいくつかの「をぐり」物から面白そうな場面を抜き出して繋げた、スペクタクル満載の、まったく新しい台本を作り上げた(つまるところはでっち上げた)のが現在の「当世流小栗判官」で、初演は昭和58年・1983・7月歌舞伎座のことで、吉之助はもちろん見ました。奈河彰輔が参照したのは、まず近松門左衛門の「当流小栗判官」(元禄11年・1698・大坂竹本座)、竹田出雲・文耕堂らによる「小栗判官車街道」(元文3年・1738・大坂竹本座)、三代目勝諺蔵の「春鬼駒小栗外伝」(はるのこまおぐりがいでん・明治14年・1881・大阪角の芝居)などです。まあ云って見れば本作は、「をぐり」物の系譜の行き着いたところのハイライト・シーンみたいなものです。初演配役は、三代目猿之助が小栗判官・浪七・お駒の三役、五代目児太郎(九代目福助)の照手姫で、児太郎にとっては・これが人気がブレークするきっかけになった役のひとつであったと記憶します。

「当世流小栗判官」での見せ場は、もちろん横山屋敷での小栗の鬼鹿毛の曲乗り、浪七の堅田浦での派手な立ち廻り、恋を裏切られたお駒の悲しみと小栗への祟り、終幕の小栗と照手の天馬の宙乗りということになります。これらと比べると、吉之助が注目する、道行〜熊野湯の峯(お駒の祟りで動けなくなった小栗を乗せた土車を照手が綱を曳いて熊野へ運ぶ)場面などは、多分、観客にとって「ダレ場」であろうと思います。中世期の非合理的な宗教観を引きずった辛気臭さがあって、「どうしてこんな地味な場面を長々繋ぐのかなあ」と感じてしまうかも知れません。通し狂言では、これがないと「をぐり」にならんし、「まあ一応筋は通しておこう」という扱いみたいにも見えます。正しいダレ場があってこそクライマックスが引き立つわけで、これでもそれなりの意味はあるわけです。しかし、説経「をぐり」を見ると、実は道行〜熊野湯の峯の場面こそ、全編のクライマックスです。説経「をぐり」とは餓鬼阿弥と化した小栗が熊野の湯で再生に至る物語であって、道行のために、その前と後ろに筋が付いていると言っても良いくらいのものです。(この稿つづく)

  

写真は、小栗判官蘇生の伝説がある、熊野湯の峯温泉の「つぼ湯」。(詳細は別稿「熊野三山参詣記・小栗判官蘇生の物語」をご参照ください。)吉之助の撮影です。

(R4・7・12)


3)右近のお駒のことなど

『世の中は推し移って、小栗とも、照手とも、耳にすることがなくなった。子供の頃は、道頓堀の芝居で、年に二三度見かけたのが、小栗物の絵看板であった。ところの若い衆の祭文と言えば、きまって「照手車引き近江八景」の段が語られたものである。芝居では、幾種類とある小栗物のどれにも「餓鬼阿弥」の出る舞台面は逃げていた。祭文筋にも、餓鬼阿弥の姿は描写していなかった。私どもも、私より古い人たちも、餓鬼阿弥の姿を想い浮かべる標準をば持たなかったのである。だから私どもは、餓鬼阿弥という構えすら、久しく知らずにいた。』(折口信夫:「餓鬼阿弥蘇生譚」・大正15年1月)

昔から人々は、餓鬼阿弥を「がきあみ」ではなく、「がきやみ」と読むことが多かったようです。昔の人々も餓鬼阿弥の姿が想像が出来なかったからです。説経「をぐり」では、毒殺された小栗は閻魔大王の判断により娑婆へ戻されました。しかし、土葬された身体はすでに朽ちており、このため娑婆へ戻った小栗は想像がつかない不完全な形で蘇生したのです。以前の颯爽とした小栗の面影はまったくなく、目も見えず・口も聞けず・ほとんど動けません。心さえも定かではありません。わずかに動くから「これは生きているものらしい」と分かるくらいの無惨な姿、それが餓鬼阿弥となった小栗でした。

これでは舞台で視覚化することが、ほぼ不可能です。小栗がもの言わずゴロリと転がったままでは、全然見世物(エンタテイメント)にならないからです。そこで江戸期の芸能である歌舞伎は、怨霊か何かに面相が変えられてしまった「病み」の状態で餓鬼阿弥を理解しようとしました。「当世流小栗判官」では、お駒という娘が小栗判官に恋するが、失恋して死んで怨霊と化し、小栗の面相を醜く変えてしまったという怪談仕立てになっています。面相が変わった小栗は足腰は利きませんが、多少は動けるし、口も利けます。だから芝居が出来るわけです。説経の精神世界からは遠ざかってしまいましたが、これは舞台化のためのやむを得ぬ処置でした。お駒の祟りが小栗の面相を変えたとしたのは或る種の合理化で、同じく因縁めいてはいても・閻魔大王によって地獄から娑婆に戻されたと云うのよりは、江戸期の人々にとって幾らか理屈が付いたのでしょう。(現代であれば毒薬だかウイルスのせいにでもした方が理屈が付くのかもね。)

ただし「当世流小栗判官」の湯の峯の場を見ると、熊野の霊湯の功徳で小栗の身体が蘇る奇蹟ということになるのだけれど、お駒の祟りについては何も解決が付いていないのが、吉之助には引っ掛かりますねえ。お駒が成仏するか・怨念が退散するか、いずれにせよそこを決着しないと、小栗の身体が蘇る奇蹟は起こらないはずです。奈河彰輔の参照(ネタ)脚本を吉之助は確認していませんが、昔の狂言作者は、そう云う理屈を好い加減に扱わなかったと思います。何かしら解決を付けたはずです。小栗の身体が元通りになって良かった良かっただけの結末では、死んだお駒の霊が放って置かれたままです。蘇った小栗が手を合わせて「お駒どの、迷わず成仏してくだされ」くらいのことは言わねばなりません。湯の峯の場には遊行上人も登場するのだから、そこはきっちり解決を付けて欲しいと思います。要するに補綴が好い加減だということ。そう云うことを時間枠のせいにしてもらいたくありません。

なぜならば万福長者内の祟りの経緯を見れば、そもそもお駒に罪はないからです。お駒は恋しい殿御と婚約してその気になっていたのを裏切られて、怒りと嫉妬で自分の感情を制御できなくなってしまいました。彼女が嫉妬するのは当然です。だから、お駒をその気にさせてしまった小栗の方に非があります。しかし、奈河の脚本は、これを女が裏切られて嫉妬で祟る安直な類型(パターン)で済ませてしまいました。お駒の人間描写に深みが見えません。そもそも嫉妬すれば誰でも怨霊になると云うものではないでしょう。怨霊に転化するためには、独特の粘着気質か情念の深さとか、特殊な資質が本人に必要になります。「四谷怪談」のお岩さま然り。そのようなお駒の業(ごう)の深さをしっかり描かないと、ドラマが動き出しません。お駒の業が小栗の業の深さをもあぶりだす、そのような作品構造になっていると思います。

そう云うわけで・そこは奈河の脚本の問題が大きいですが、演者によって多少は対処できる部分もあろうかと思います。今回(令和4年7月歌舞伎座)の右近のお駒ですが、状況に翻弄されて「イヤじゃ・イヤじゃ」とヒイヒイ泣くだけの、娘方の被害者パターンに終始する印象ですねえ。このお駒が小栗を振り回す怨霊に転化するための闇の資質(パワー)を持つとは、吉之助にはとても想像が出来ません。ところで吉之助はちょっと疑問に思うのですが、お嬢吉三弁天小僧で様式を逸脱して・あれほど生(なま)な表現意欲を見せる右近が、純な娘役になるとどうしてこんな定形パターンに満足するのですかねえ。本人が立役志向ということなのでしょうか?伝統の女形の技巧にもっと果敢に斬りこんでもらいたいですね(別稿「二代目右近の櫓のお七」を参照ください。)お嬢や弁天でも娘に化けている時はヴィヴィッドな感覚が乏しいですが、これは後半で男を見顕わしてそちらに注目が行きますから・まあそれほど気にはなりませんが、本来は娘方においてこそ、もっと「生きた」感覚を追求することが大切であると思います。右近は娘方を演じる時に、同時代の・つまり令和の若い女性の生きた感覚を積極的に取り入れてみたらどうでしょうか。恵まれた容姿をもっているのだから、もったいないことです。(この稿つづく)

(R4・7・15)


4)照手の役割

近江の国(現在の滋賀県)という語源は、一般的に、しほ海(塩海)に対して琵琶湖の淡海(あわうみ、あふみ、あうみ)という意味から来るとされています。折口信夫は、「近江歌及びその小説的な素材」(昭和7年)のなかで、近江という語は、或る時代の民間語源説では、「あふみ」は会う所、或いは「逢ふ路」と考えられていたとしています。「逢ふ路」とは逢阪(逢坂)の関を連想せしめたのではないか、それは関所で人が出会うという考え方から来ると云うのです。(別稿「知るもしらぬも逢坂の関」をご参照ください。)

さらに折口の連想は、説経「をぐり」に及びます。「をぐり」では、水汲み女小萩(実は照手姫)が餓鬼阿弥となった小栗を乗せて土車を引きます。小萩が辿る道程は、美濃から近江の大津までの中山道です。また小萩は餓鬼阿弥が小栗であるとは知らず、ただこれを憐れに思い・死んだ夫の供養になればと土車を引くのです。(この後も土車は檀那衆によって引き継がれて小栗は最終的に熊野へと送り届けられます。)折口に拠れば、「をぐり」で小萩の車引きが近江の大津で終わるのは、「あふみ」(=近江)が関連しているだろう、つまりこれは生き別れになった男と女がやがて再会する、女は知らなかったが、男の方は知っていたという、伊勢物語などに見られる古(いにしえ)からの歌物語のパターンから来るとします。

『小萩の車引きは、美濃から近江の大津まで及んでいるが、何か説明の出来ない事情があるように考えられる。「あふみ」という語である。少なくとも、歌物語のパターンがこうして出来たのには、近江が非常に関連していると思われる。つまり、別れていた人が、二度会うという意味に於ける「あふみ」の意識が、例えば伊勢物語・六十二の「これやこの われにあふみをのがれつつ 年月ふれど まさりがほなき」の歌から引き出されて、物語にくっついていくと云う事が考えられる。』折口信夫:「近江歌及びその小説的な素材」・昭和7年・なお文章は吉之助が補足アレンジしました。)

歌舞伎の「当世流小栗判官」の道行では、照手は土車に乗せるのが小栗だと知っているし、照手が独りで熊野まで土車を引っ張りますから、ここでは「あふみ」(=近江)との関連さえも失われてしまいました。しかし、それでも、「生き別れになった男と女が・様々な苦難や試練を経て・やがて巡り合い・めでたく結ばれる」という物語の骨格はかろうじて見えます。これが見えるのならば、民衆はこれを「小栗と照手」の物語であると素直に認めるのです。日本の伝統芸能史上最強のカップルは、こうして生まれたのです。それは伊勢物語など古い歌物語の伝統から発したパターンで、これが近くは「君の名は」みたいな・すれ違いドラマへと繋がっていくのでしょう。

説経でもそうですが、歌舞伎の「当世流」でも、小栗の性格付けは薄っぺらです。結局、小栗が傑出した人物である証左は、「照手が自分の夫として選んだ男だから」と云うところにあると思います。だから小栗の人物に実体性を与えるのは照手です。「をぐり」とは、照手の物語なのです。「当世流」を見ると、照手の性格付けも薄っぺらに見えますけれど、日本古来の「男と女の再会」ドラマのパターンにしっかり乗っていれば、女の役割は揺るぎません。江戸の見物はちゃんとそこを承知していますから、多少照手の描き方が薄っぺらであっても、ドラマを正しく見ることが出来ます。しかし、それは照手が薄っぺらで良いということではない。やはり照手がひたむきに・ただひたむきに生きていることが奇蹟を呼ぶのですから、照手は魅力的に描かれなければなりません。

「当世流」初演(昭和58年)の照手は福助でしたが、その後再演の照手は笑也が演じました。平成の猿之助歌舞伎を支えた立女形としての笑也の功績はもちろん評価していますが、今回(令和4年7月歌舞伎座)の笑也の照手は、いまひとつパッとしませんねえ。ダイジェスト版の脚本のせいで為所が少ないこともあるが、赤姫の定形バターンに終始して、生き生きした魅力に欠けます。特に大詰めの天馬の宙乗りでは爆発的な喜びを示してくれないと、芝居が決まらないと思います。この場面の福助が良かったことを思い出しました。

主演の猿之助(小栗判官・浪七)は上手いと云うか、もちろんこれくらい出来て当然というところですが、先ほど「小栗の性格付けは薄っぺら」と書きましたけど、役が本来持つ感触からすると、若干感触が重いと云うことになろうかと思います。言い方は悪いが、薄っぺらい役は薄っぺらく演った方が良いということです。鬼鹿毛の碁盤乗りのノリ地など、吉之助には前回上演(平成23年10月新橋演舞場)よりもかなり重めに感じられました。それは多分それだけ猿之助が役者として風格が増したと云うことだと思いますが、今後の猿之助の進むべき道を示唆しているとも云えるでしょうね。

(R4・7・20)

*追記:複数の舞台関係者にコロナ感染が判明したことから、7月18日から千秋楽(29日)までの公演が中止になってしまいました。



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