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二代目右近の「櫓のお七」

令和3年10月歌舞伎座:「伊達娘恋緋鹿子」(櫓のお七)

二代目尾上右近(八百屋お七)


1)右近への期待

先日(令和3年5月歌舞伎座)の「三人吉三・大川端」では胸がすくスカッとしたお嬢吉三で、センスの良いところを見せてくれた尾上右近が、今度は初役で「櫓のお七」を見せてくれるということで期待しましたが、キラリと光るところと・未だしというところが相半ばする舞台でしたけれど、なかなか興味深いものがあったと思います。

右近は玉三郎よりもちょっと面長だと思いますが、角度によっては・俯き加減の横顔に若い頃の玉三郎に似た面影を感じるところがあって、ハッとする時があります。しかし、同じ美しさでも、玉三郎の美しさは怜悧で透明な艶やかさですが、右近の美しさには香気があると云うか、濃厚な艶やかさを感じるところがちょっと違う気がします。これは玉三郎にはない感触で、これが吉之助に右近の将来を期待させるところです。それは歌舞伎に向いた感触のような気がします。面長の容貌のせいでしょうかね。玉三郎の美しさが歌舞伎の向きでないように聞こえたかも知れませんが、そこは吉之助が長年の玉三郎贔屓であることでお許しをいただきたいですが、吉之助は五十年近く玉三郎を追って来て、玉三郎の美しさは歌舞伎という器に収まり切れなかったなあという感慨を持っています。(別稿「玉三郎の稲葉屋お孝」を参照ください。)そこで一転して右近の女形に期待・・・ということには即ならないけれども、清元との二刀流はもちろんですが、このところの右近の活躍ぶりを傍目で見た感じでは(吉之助も彼の「ワンピース」の舞台は見ました)、右近にはこの令和という時代の空気に感応して奮い立ち・何かを生み出そうとする意欲を感じるので、右近のそう云うところに期待を掛けてみたいと云うことを思うのです。右近の桜姫は、もしかしたら玉三郎とはまた違う衝撃を与えてくれそうな気がします。ただしそうなるためにはまだまだ課題がある。本稿ではそんなところを少し書いてみたいと思います。

まず先日の「大川端」のことですが、初役で(しかも歌舞伎座で)お嬢吉三をやるとなれば、普通は先輩連中がやっている・いつもの「らしい」演技をなぞってしまいそうなものです。まあその方が安全な行き方だと思います。こうして普通は「様式美」の美名で括られた・穏便な感覚に安住してしまうことになるでしょう。ところが右近は、綺麗な娘のフリをかなぐり捨てて・一転男の盗賊の本性を見せるところで、斬れの良い・ザッハリッヒカイトな(即物的な)感触のお嬢吉三を見せてくれました。吉之助はちょっと驚きもし・ホウと感心したのですが、こう云うことはなかなか出来るものではありません。歌舞伎では、性別を決めるのは衣装です。女の衣装を着ている者は、それが「女」なのです。そういうお約束のなかで観客は安心して芝居が見られるのです。ところがお嬢吉三ではそう云う常識をかなぐり捨てて、女の衣装を着ている奴が突然男の演技をし始めます。男でもない・女でもない異形の存在が、そこに立ち現れます。右近のお嬢吉三には、そのような尖った異形の感覚があったのです。これは右近が初心で役に立ち向かったところから立ち現れたものです。表現的にはまだ練れていない・ストレートに過ぎるというところがあるにしても、役がこの時代を生きているというヴィヴィッドな感覚があったことは、近頃嬉しいことでした。

そこで今回(令和3年10月歌舞伎座)の「櫓のお七」へ話しが移ります。八百屋お七の人形振りと云うのも内面の衝動に突き動かされて操られる木偶と化する、(これはお嬢吉三とはまた異なる)異形の存在ですから、これを右近がどう処理するかと云うことで、吉之助は舞台を大いに期待したわけです。しかし、結果からすると本稿冒頭に記した通り、キラリと光るところと・未だしというところが相半ばする舞台になってしまいました。その辺に右近の今後の課題が潜んでいそうです。(この稿つづく)

(R3・11・13)


2)異形の感情

右近の人形振りのお七について、「キラリと光るところと・未だしというところが相半ばする」と書きました。興味深く感じるのは、右近の人形振りは「生きている人間が人形のようにぎこちなく動いている」という印象がすることですねえ。ただし、その印象はたまたま結果として出て来たもので、右近が意図して表現しようとした結果ではなさそうです。つまりはっきり言えば人形振りとしては技術的にまだ未熟で、「人間が出ている」ことから来ているのです。普通人形振りでは「人間が出ている」という用語は良くない批評で使うもので、人間的な感情表現を押し殺した動きを見せるのが人形振りというものです。だから「生きた人間が人形のように動いている」と見えるのは、まあ褒めたことになるか・貶したことになるか・微妙なことになりますが、両方相半ばしますねえ。しかし、激しい動きのなかに・時折ハッとするような生々しい感情を感じたことは事実です。

人形振りとしては、腕の遣い方にもう少し工夫が必要に思います。下半身の動きも重く感じられますが、これは後ろの黒衣のサポートにも問題がありそうです。しかし、まあその辺は今後の稽古次第で良くなることでしょう。目線が動いているような気がしますが、本来ならこれは人形振りとしていけない点なのだろうが、「生きた人間が人形のように動いている」に感じるのはそのおかげなのかも知れませんねえ。工夫してもらいたいのは、口元の作り方です。口元をキュッと硬く絞った表情に見えます。これはもう少し緩めて、中間表情に置いてもらいたい。「能面のように」と云うと無表情という風に聞こえるかも知れませんが・そうではなくて、笑っているようにも・悲しんでいるようにも・どのような表情にも見える能面の、中間表情に置いてもらいたい。口元の作り方はとても大事なのです。せっかく美しい顔をしてるのだから、そこをもっと活かすことです。

ところで別稿「人形振りを考える」で「櫓のお七」の人形振りについて論じましたが、内面から湧き上がる異形の感情に動かされて・もはや人間ではないものと化してしまう、それが人形振りというものなのです。右近のお七が「生きている人間が人形のように動かされている」という印象がするのは、恐らく右近がその内面から湧き上がる感情をポジティヴなものとして捉えていると云うことだろうと思います。つまりそれは吉三を想う熱い恋心=だからそれは人間的な感情で・それがなければ人間であり得ない感情=だからポジティヴという論理思考(ロジック)でしょう。そう云う論理思考は、もちろんあり得ます。

しかし、「櫓のお七」のお七のことをもう少し深く考えてもらいたいのです。私は吉三さんのことが大好き、吉三さんに何としても逢いたい、何が何でも逢いたい、私はこの感情を抑えられない、逢いたいならば何をしたって構わない、ご法度しても構わない、だから私は太鼓を叩く、「櫓のお七」は太鼓を叩くだけですが・実在のお七はどうやら火付けをしたらしい、吉三さんに逢うためならば火付けをしても構わない・・・こうなってしまえば、もはやそれはポジティヴな感情とは云えないわけなのです。ポジティヴなものか・ネガティヴなものか・どちらだか分からないところにお七はいるのです。だからこれは「異形」の感情なのです。お七はそれがいけないことだと自覚しているのに・それでも火付けをするのです。そこのところを踏まえなければ、お七はただの馬鹿娘です。まだその域にまで右近は至っていないようですね。

もちろん江戸の民衆が八百屋お七というキャラクターを長く愛し続けたのは、お七の吉三を想う熱い恋心をポジティヴに受け取ったからです。この点は大事なことです。しかし、江戸の民衆は同時にそれが危険な感情であることもしっかり分かっていたのです。ですから「櫓のお七」の人形振りには、ポジティヴな色合いと・ネガティヴな色合いの二つの色があるのです。それは決して一色ではあり得ません。(この稿つづく)

(R3・11・15)


3)右近の女形の課題

と云うことは、先日(令和3年5月歌舞伎座)のお嬢吉三も、右近は、社会の束縛から逃れて自由に生きるアウトローの気分でやっていたと云うことですねえ。スカッと竹を割ったようなツラネの感触は多分そこから来たのでしょう。確かに三人の吉三郎はアウトローと格好付けて意気がっているようだけれども、大川端でやっていることは、所詮盗んだ他人の金を俺のものだと言い合っているに過ぎません。そう云うツマらん奴・人間の屑だと云うことは、本人たちが一番よく分かっているのです。だからお嬢の場合にも、ポジティヴな色合いと・ネガティヴな色合いの二つの色が混ざりあうのです。そう云うお嬢の悲哀が分かって来れば、右近のお嬢のツラネももっと陰影が付いて練れてくると思います。

だから右近の、お嬢のツラネにしても・お七の人形振りにしても同じ異形の有り様ではあるが、どちらも色合いが未だポジティヴで単色であると云えます。ところが、吉之助は右近のお嬢の方は評価して、お七の人形振りの方に辛い点を付けた、これは何故かと思うかも知れません。それは、お七が人形身に入る以前・つまり(前場の「吉祥院」も含めた)娘方のお七の右近の演技が、如何にも定型の様式っぽい印象で、お七が「生きていない」と感じるからです。前半のお七の世話(写実)の感覚が生きていないから、お七が人形身に入った時の、世話から様式への変化の落差が十分に付かない、だから異形の感覚が足りないと云うことです。

前半の右近の娘方のお七を見ると、「イヤじゃイヤじゃ、イヤじゃわいなあ」とか・「ドウしょうドウしょう、ドウしょうぞいノウ」という台詞が、定型の様式っぽい伸びた台詞廻しで、実感が全然伴って来ません。このお七は、ただ状況に流されてヒイヒイ泣いているだけです。自分で何かを変えようという意志がまったく見えない。まあ普通の芝居の商家の娘方であればこんな感じでも良いでしょうが、このお七が能動的に動いて・火付けにまで至るとは、吉之助にはまったく想像出来ませんねえ。このままではイヤだ・ドウしてくれようと云う気分が内面からお七を突き動かして、お七を異形の姿に変えるのではないか。イヤじゃ・ドウしょうという台詞こそ、熱く乱れるように実感を込めて発せられねばならないはずです。

だから右近の「櫓のお七」の問題は、人形身のお七の技術的なところだけにあるのではないのです。実は前半の娘方のお七の「生きていない」感覚こそ真の問題なのです。歌舞伎の娘方の定型の・「らしい」演技にどっぷり浸かるから、こうなるのです。歌舞伎のこう云う感覚こそ打破せねばなりません。若い右近は、このことに早く気が付いて欲しいですねえ。「大川端」のお嬢吉三が正体を顕わす前の娘の演技も、右近は同じ感覚で処理しているわけですが、こちらは男が女を騙っています。娘方の演技の様式っぽさが嘘っぽさに通じるから、これで感覚的に気にならないのです。だから吉之助は右近のお嬢を評価しました。しかし、この箇所も世話の感覚を活かした方が、世話から様式のツラネへ変化することの落差をもっと大きく見せることが出来るはずです。

吉之助は、他の世話狂言での右近の娘方を多く承知していませんが、娘方の感覚をもっと「生きた」・ヴィヴィッドな感覚にすること、これが今後の右近の女形大きな課題になって来るでしょう。右近は、同時代の(当然ですが右近ならば令和の)若い女性たちの気分をよく観察することです。動きを写実に真似るのではなく、その気分・生き生きした感覚を盗む、そういうことを心掛けることです。時代を代表する女形は、六代目歌右衛門でも・五代目玉三郎でも、そういうことが自然に出来ているのです。

(R3・11・17)



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