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五代目勘九郎の「野田版・鼠小僧」初演

平成15年8月歌舞伎座:「野田版・鼠小僧」

五代目中村勘九郎(十八代目中村勘三郎)(劇中劇の鼠小僧、棺桶屋三太・鼠小僧三太)、十代目坂東三津五郎(大岡忠相)、三代目中村橋之助(八代目中村芝翫)(与助)、九代目中村福助(若菜屋後家お高)、三代目中村扇雀(辺見妻おらん)、二代目中村勘太郎(六代目中村勘九郎)(目明しの清吉)、初代片岡孝太郎(大岡妻りよ)、二代目中村七之助(辺見娘おしな)他

(野田秀樹作・演出)


1)「野田版・鼠小僧」初演

本稿で紹介するのは、平成15年(2003)8月歌舞伎座で五代目勘九郎(十八代目勘三郎)が初演した、「野田版・鼠小僧」の舞台映像です。勘三郎が初演した野田秀樹による新作歌舞伎は、三本あります。まず最初が「野田版・研辰の討たれ」(平成13年・2001・8月歌舞伎座初演)で令和4年の現時点で公演3回、二本目が本作「野田版・鼠小僧」でこれが公演2回、三本目が勘三郎襲名後の「野田版・愛陀姫」(平成20年・2008・8月歌舞伎座初演)で公演1回ということになります。いずれも主演の勘三郎の強烈過ぎるキャラ(いつも面白くて楽しい勘三郎)に当てて書かれた芝居なので、今後の再演はなかなか難しいかも知れませんねえ。世評については「研辰」が最も評判が良く、「鼠小僧」がこれに次ぐという感じではなかったかと思います。当時の吉之助の記憶でも、「鼠小僧」は何だか二番煎じのような印象が強くて、「まあ野田・勘九郎コンビならこれくらいは創れるよね」という納得感はあったけれども、それ以上のものではなかった気がしました。

そう云う感じになってしまうことには、多分理由があると思います。「研辰」の場合には木村錦花の原作がまずあって、原作の筋を意外と忠実になぞりながら・勘所を野田流に茶化してまぜっ返すということで、半分くらいは錦花のおかげというところがあったようです。野田としても初めての歌舞伎への挑戦ですから、そこは慎重に原作を選んだと思いますが、結果的に翻案は上手く行きました。原作の「研辰」もあまり知られた作品とは云えませんが、野田が「何を変えて・何をやったか」は結構はっきり見えたのです。

一方、「鼠小僧」の場合は黙阿弥の「鼠小紋東君新形」(鼠小僧)を参考にしています。(冒頭の遺言状の件に同じく黙阿弥の「人間万事金世中」を取り入れていますが、本筋には絡みません。)これら元ネタの登場人物を拝借しながら、野田は作品の「世界」構造を大胆に作り替えています。だから結果として、「鼠小紋」の書替狂言みたいな印象になっていません。元ネタは素材として利用されているに過ぎず、芝居ははっきり野田のものに成っています。ただし、如何せん笑いの渦にかき消されて、野田の手腕の見事さ(野田が何を変えて・何をやったか)がなかなか感知されないのですねえ。吉之助もずっと後になって、このことに気が付きました。改めて脚本を見直せば見直すほど、野田の作劇術の上手さが見えてきます。しかも鼠小僧の哀しみみたいなものも捉えられていて、期せずしてこれが歌舞伎の「政談」物の系譜の上にしっかり乗って来るというところも興味深い。本稿では、そんなところを考えてみたいと思います。

ところで劇作家井上ひさしが、こんなことを書いています。野田秀樹は江戸期の歌舞伎や小説で戯作者が使用した技法を駆使する作家であると、井上は云うのです。

『諸芸術においては、作家の思想は魂の底で暴れ狂っているなにものかであって、それに名付けたり、それを言葉にするような代物ではありません。その暴れ狂っているもなにものかを表現可能なものにするために、作家は技巧という回線を敷き、その回線を通じて、そのなにものかを自分の外へ採り出すのです。(中略)わたしには「現在という時間・空間に、どのような形で住み込むのが、もっともよいのか」という切ない想いが彼の魂の底で暴れ狂っているようにおもわれます。さまざまな時・空間を繋げて結び合わせ、作家自身がその時・空間を生きながら、現在という時・空間にどう住み込むのがよいかを、野田さんは必死に探し求めているようです。そのさまざまな時・空間(これを「可能世界」と言い換えましょう)を、舞台の上に現前させるために、野田さんは 「見立て」「吹き寄せ」「名乗り」を多用するのです。』(井上ひさし:「野田秀樹の三大技法」・「野獣降臨」新潮文庫版の解説)

上記文は別稿「野田版・桜の森の満開の下」観劇随想でも取り上げましたので、そちらもお読みください。本稿においては、「野田版・鼠小僧」を書くに当たり、野田が「見立て」と「名乗り」の技法を駆使していることを指摘しておきます。本作では、これが実に上手く行っています。(この稿つづく)

(R4・4・29)


2)人生は「芝居小屋のなかの芝居みたいなもの」

ところで人生は「芝居小屋のなかの芝居みたいなもの」と云うことを、フト思ったりすることがありはしませんか。他人のことを、「この人はこういう人・あの人はああいう人」と云う風にいつの間にかレッテル貼って見てしまうことは、よくあるものです。つまり知らず知らずのうちに或る役柄(イメージ)を他人に押し付けているのです。その人が自分のイメージ通りの言動をするならば、「この人ならそう言うのは納得」という好意的な反応になる。しかし、自分のイメージに反したことをその人が言ったりすると、「あの人がそんなことを言うとは心外だ」と憤慨するとかネガティヴな反応になるかも知れません。

逆に見ると、「私」も他人からはそのように見られているのかも知れませんねえ。みんなめいめいの役柄イメージで「私」を見ているのです。そう考えてしまうと、他人様があるがままの「私」を受け入れてくれるなんて期待はなかなか持てそうにありません。そのような面倒な柵(しがらみ)のなかで人は生きているので、ついつい「良い人」を演じてしまって疲れるなんてことも、実際よくある話しです。「私は陽の当たるところばかり歩いてきたわけじゃない」という人であっても、そう云う役柄が主役であるところの「私」のお芝居を演じてきたんだと考えることが出来るかも知れません。

「野田版・鼠小僧」は、「鼠小僧なんて芝居のなかの主人公に過ぎない」と思っていた人(棺桶屋三太)が、いつの間にやら実人生で鼠小僧を演じる破目になり、世間が持つ鼠小僧の「義賊」のイメージを否応なく背負わされて、最後には本物の鼠小僧として死んでいくことになると、まあ本作はそう云う芝居ではないかと思うのです。三太が「俺はそう云う人間じゃない」と本音を言い張っても、無駄なことです。鼠小僧は世間が期待する振る舞いをして見せなければ、受け入れられません。だから「真実」を言おうとした鼠小僧は世間から用済みとなり、死なねばなりません。対する大岡忠相は、そのような世間の理(ことわり)をよく承知している人物です。世間が期待する「情け深く・仁義に悖(もと)ることのない名奉行」という役柄を巧みに演じつつ、裏ではちゃっかり旨いことやっているのです。しかし、「野田版・鼠小僧」では三太が別に正義であるわけでもなく、大岡の偽善を暴くことが芝居の目的ではありません。誰もが知らず知らずのうちに・どこかしら或る役柄を演じることになってしまう、そう云う意味では、人生って「芝居小屋のなかの芝居みたいなもの」じゃありませんかと云うのが、この「野田版・鼠小僧」なのです。

そう云うことを「野田版・鼠小僧」では、冒頭の劇中劇でいきなり提示して来ます。瓦屋根で大立廻りする鼠小僧がこう叫びます。

『降り積む雪に暫しの内、この身の影を隠すとも、やがてはいつか、天の咎め日の蔭に泡と消え行く悪事の終わり・・・まずそれまでは。』(劇中劇の鼠小僧・稲葉幸蔵)

この台詞は、黙阿弥の「鼠小紋東君新形」大詰・鎌倉問注所裏手水門の場からそっくりそのまま拝借したものです。この同じ台詞を「野田版・鼠小僧」大詰・江戸八百八町の屋根の場で絶命する三太が呟きます。こちらは本物の鼠小僧として言われる台詞です。つまり最初は外骨格(借り物)であったはずの「鼠小僧の世界」が最後に逆転して、棺桶屋三太は本物の鼠小僧として死んで行くことになるのです。

しかし、大岡と対決するお白洲の場でも、三太は自分が鼠小僧だと認めることを最後の最後までしていません。なぜならば三太は大のケチで、「人に施しをすると死ぬ体質だ」と公言しており、大名屋敷から大金を盗んでは貧しい人に分け与える「義賊」なんてのはトンデモないと心底思っているからです。真実は決して言わないことが肝心、「命あっての物ダネだ」と三太も言っています。そんな三太がどうして「真実」をしゃべって・鼠小僧として死ぬことになるのか、それには理由があるわけですが・それは後で触れることとして、ここでは「野田版・鼠小僧」の劇構造をもう少し考えてみたいと思います。

芝居の外骨格であった「鼠小僧の世界」が、次第に内部へと入り込んでいくきっかけは、第2場・稲毛屋敷土蔵前の場で、土蔵から千両箱を持ち出した三太を、番人の与惣兵衛が「義賊・鼠小僧」であると誤解したことにあります。ただしこの時点では三太には兄の遺産の分け前を取り返したつもりであって、本人に「盗んだ」という意識はありません。しかし、与惣兵衛の誤解によって、三太は鼠小僧を「演じる」ことの面白さに気が付きます。この場面で黙阿弥の「鼠小紋」がリフレインされます。

与惣兵衛:「盗人殿、またっしゃい。」
三太:「しまった、見つかった。ここは一番、芝居小屋で覚えた茶番を打つか・・(大声で)達者で暮らせよ。そこ行く二人。盗みはすれど仁義を守り、富めるを貪り貧しきを、救うがこの鼠小僧。」
与惣兵衛:「え?鼠小僧?」
三太:「見ず知らずの二人が命、助けてやったあの金は、このお屋敷のお納戸金、人の物で人を助け、思わぬ功徳をしてやったが、喜びあれば悲しみと、今夜この御殿の辻番の人は、定めて難儀をするだろう。(と、振り向く)お!」
与惣兵衛:「こなたが今の問わず語り、後ろでとっくり聞きました。」

ここで三太は黙阿弥の「鼠小紋」のなかの稲葉幸蔵(鼠小僧)の真似をしているはずですが、三太と与惣兵衛の現実の会話は、まるで「鼠小紋」の芝居をなぞったものになって行きます。ここで面白いのは、ここでの三太と与惣兵衛とのやり取りは、本人たちが分かっていて黙阿弥の「鼠小紋」のリフレインをやっているのか、現実の会話としてやっているのか、そのどちらとも区別が付かないと云うところにあると云うことです。もちろんこれが「鼠小紋」から拝借した会話であることを大方の観客が知らないわけですから、これを現実の会話として聞くでしょうが、それで全然構いません。しかし、作者野田秀樹の意識のなかでは、ここは劇中劇と現実の会話がパラレルに進行しており、両者の区別が付かない状態になっています。そうなることで、もしかしたら棺桶屋三太の人生も「芝居小屋のなかの芝居みたいなもの」なのかも知れない、ひょっとすると鼠小僧の方が三太のホントの人生なのかも知れない、みたいな感じになって来るのです。だから三太が瓦屋根のうえで、

『こうなりゃ、棺桶屋稼業を葬って、今日から本気で俺も宗旨を変えにゃあならねえ』

と高らかに「名乗り」を上げた時、「鼠小僧の世界」の「見立て」がここで成立すると云うわけです。この辺の野田の作劇の手腕は、感嘆するほど上手いものです。(この稿つづく)

(R4・4・30)


3)まったく新しい「政談」物

「野田版・鼠小僧」のもうひとつの特徴は、鼠小僧の筋を「大岡政談」に絡めたことです。ここでまず指摘しておかねばならぬことは、野田が参考にした黙阿弥の「鼠小紋東君新形」にはお白洲(問注所)の場面は出てきますが、これは「政談」物ではないということです。「鼠小紋」には、大岡越前守忠相は登場しません。「鼠小紋」に登場する執事は二人います。一人は情理をわきまえる早瀬弥十郎、もうひとりは悪辣な石垣万作です。一旦は名乗り出た稲葉幸蔵(鼠小僧)は、石垣の手荒な扱いに腹を立て、縄抜けして問注所から姿を消します。

『この身の罪を名乗り出て逃げるは卑怯に似たれども、土足にかけし石垣万作、恥辱を与えて遺恨の腹いせ、降り積む雪に暫しの内、この身の影を隠すとも、やがてはいつか、天の咎め日の蔭に泡と消え行く悪事の終わり。流れに張りし氷より厚き情けの(早瀬)弥十郎様、こなたのお手に掛かって死ぬ気、まずそれまではこの場を立ち退き。』(「鼠小紋東君新形」・稲葉幸蔵の台詞)

これが鼠小僧(幸蔵)の最後の台詞です。前章で引用した「野田版・鼠小僧」の劇中劇の台詞は、ここから採られていることが明らかです。上の台詞で分かる通り、鼠小僧は一旦逃げ去りますが、いずれは情けが厚い早瀬弥十郎の縄に掛かって刑場の露と消える運命であることを暗示して、「鼠小紋」は終わります。ここでの早瀬に大岡越前守のイメージが重ねられていることは明らかです。しかし、芝居はお白洲で「これにて一件落着」とはなりませんから、「鼠小紋」は政談物ではないのです。その理由を考えるに、実在の鼠小僧が捕縛され処刑されたのは天保3年(1832)8月のことで、「鼠小紋」は安政4年(1857)1月江戸市村座初演ですから、鼠小僧というのは当時の江戸庶民からすると同時代の「義賊」であったからでしょう。「大岡政談」に仕立てるには、鼠小僧と大岡では、さすがに時代が離れ過ぎていました(凡そ百年ほど離れています)。だから講談などでもこれを絡めたものが出なかったのです。

しかし、野田秀樹が「鼠小僧」を「大岡政談」に絡めた意図は、もちろん理解出来ます。現代の我々から見れば、鼠小僧も大岡も「ずっと昔の江戸時代の人」ですから、同じ場所に登場させることに大した違和感はありません。それに、何よりも、野田演劇のお馴染みの主題「大衆」が登場するわけですから、これは相手(観客)を自分の得意領域に引き込む戦術の常套手段と云うべきです。だから「野田版・鼠小僧」が「政談」物であることが間違いだと云うのではなく、吉之助が指摘したいことは、野田が「鼠小僧」を「大岡政談」に絡めたところに野田の作劇センスの良さがあると云うことです。これは井上ひさしが云うところの、「野田秀樹の三大技法」の「見立て」の技法です。これによって「野田版・鼠小僧」が、歌舞伎の政談物の系譜に乗ることになります。ただし、そこに野田秀樹らしい「ひねり」が登場します。

まず歌舞伎における政談物について考えねばなりませんが、これについては別稿「天一坊大岡政談」観劇随想で詳説しましたから・そちらをお読みください。簡単に云うならば、黙阿弥が描く悪とは「善(正義)を賛美するために生成する悪」である。それが「大岡」と云う存在に触れることによって、自らの罪を見出し・裁かれ、そして罪悪と別れて行く(刑場の露と消えていく)。つまり政談物とは、黙阿弥が行なう「鎮魂術」であるということなのです。

「野田版・鼠小僧」がいわゆる「政談」物とまったく異なるところは、大岡忠相という人物が、「情け深く・仁義に悖(もと)ることのない名奉行」という役柄(イメージ)を世間が自分に期待していることを良く承知しており、表向きその役柄を忠実に履行して、世間の大岡人気を維持することに腐心していると云うことです。しかし、裏では公金を使って妾を囲ったり、ちゃっかり旨いことやっているのです。そこで「義賊」だとこれも世間の評判が高い鼠小僧と、立場が真向ぶつかることになります。大岡が考えることは、世間(大衆)が注目する裁判で、自分が慈悲を以て鼠小僧を裁いたように見せて、世間の期待に応え、「さすがは大岡様、やっぱり情けあるお奉行様だ」と云う評判を得たいと云う、ただそれだけです。野田秀樹に掛かると「大岡政談」もこうなってしまうところが面白いわけです。(この稿つづく)

(R4・5・1)


4)正しい者は救われなければいけない。

政談物が或る種の「鎮魂術」であるということは、「正しい者は救われなければいけない。悪い奴らには相応の罰を与えなければならない。そうならないのであれば神も仏もあるものか」と云う庶民の心情がドラマの根底にあると云うことなのです。悪と善が対立し・一時は悪が栄えて善を圧倒するかに見えるが・終に悪は滅び去り・善の正しさが明らかとなる、これで「天下泰平」の祝言の構図が立つ。これが勧善懲悪のドラマの本質です。ところが祝言の構図が正しく機能しないと、勧善懲悪が何だか取って付けた居心地の悪い・ベタな結末に思えてきます。政談物が、それこそ体制におもねるためのドラマに落ちてしまいます。こうなると大岡越前守はいいカッコして・上から目線で慈悲を垂れる旧弊の象徴に過ぎず、これを手放しで賛美する民衆は愚鈍の衆みたいなものです。

「野田版・鼠小僧」に登場する大岡忠相は、世評ばかり気にして、「情け深く・仁義に悖(もと)ることのない名奉行」という役柄をカッコ良く演じることに腐心して、そのくせ裏では妾を囲って私服を肥し、ちゃっかり旨いことやっている俗物です。そうなると「野田版・鼠小僧」での野田秀樹の意図は、上から目線で「天下泰平」のメッセージを垂れる「政談物」の偽善を暴く(茶化す)ところにあるのでしょうか?お白洲での鼠小僧と大岡のやり取りを聞きながら、あっちの味方になったり・こっちの味方になったり、その時々によって・場当たりで脈路のない反応を示す「大衆」(これこそ野田演劇のキーワード)は、果たして鼠小僧と大岡が振り回しているのか、それとも彼らが振り回されているのでしょうか?

吉之助は、「野田版・鼠小僧」は多分そのように見て宜しかろうと思っています。前作野田版・研辰の討たれも同じですが、野田歌舞伎においては主人公と大衆は対立構図で、主人公の心情は大衆と重なっていません。鼠小僧も大岡も、トリックスターの如く立ち回って大衆を翻弄し、これを味方に付けようとします。しかし、大衆の反応は、最初は主人公が仕掛けて引き出したかのように見えますが、実はそうでないことがだんだん明らかになってきます。気まぐれな大衆の反応に、主人公の方が振り回されているのです。これが野田演劇の共通したパターンです。結局、主人公は、大衆の枠外です。鼠小僧が死ぬ場面でも、それは観客と共有できるものになりません。だってそこに至るまで観客は大衆の視点に立って鼠小僧のドタバタを笑って見ていたのですから。確かに鼠小僧の死に同情して涙することで観客は免責になりますが、鼠小僧にとっては観客も最後まで他者です。

「野田版・鼠小僧」初演当時(平成15年8月歌舞伎座)、吉之助は本作をそのように見ました。しかし、今回・約20年振りに初演映像を見直してみて、ちょっと思わぬ発見をすることになりました。これは野田秀樹本人が意図したことか分かりませんが、多分それはなかったと思います。政談物としてはひっくり返したように見えますが、作者の意識を越えた、予想せぬところで、本作が歌舞伎の政談物の系譜のうえに乗っているように感じられたことです。結果として、「正しい者は救われなければいけない。悪い奴らには相応の罰を与えなければならない。そうならないのであれば神も仏もあるものか」と云うメッセージが取れていました。これならばメッセージは大衆と共有することができます。それは野田が本作の参考にした黙阿弥の「鼠小紋東君新形」の主題が、本作の核(コア)としてしっかりあるからです。黙阿弥の芝居が大衆の心情を踏まえたものだから、それが効いてくるのです。それは本物の鼠小僧として死ぬ三太の最後の台詞のなかに見えます。

『しくじったなあ、鼠小僧なんて柄でもねえのに、そんな名前を引き受けたばっかりに、こんな目にあっちまって・・(中略)・・施そうと思ったばかりに、死んでしまいそうだ。・・(屋根の下で両手を広げて空を見上げている子供のさん太に向かって呟く)やい、もう一人のさん太、屋根の上から、いつも誰かが見ていると思いな。忘れちゃいけないのは、誰かがきっと見ている、って思う心だ。さん太、見てるんだぞ。おめえのやっていることは、誰かがきっとみているんだ。へ、そう思わなきゃ、生きていけない、いや、死んでも死にきれねえ、時があるんだ・・降り積む雪に暫しの内、この身の影を隠すとも、やがてはいつか、天の咎め日の蔭に泡と消え行く悪事の終わり・・・まずそれまでは。』

本作初演時の批評を見ると、「屋根の上からさん太をいつも見ている」のは死んでいく鼠小僧三太(サンタクロース)だと解釈したものが多かったと思います。劇中で三太が死ぬのは、師走(12月)24日夜。作者野田がそのようなオチを付けたものだから、そう読むのは当然です。しかし、今回映像を見直した吉之助には、「屋根の上からいつも見ている」のは、お天道様ではないかと思えたのです。お天道様が、死んでいく三太を「義賊」にして浄めたのです。「お前のやっていることは、お天道様がきっとみているんだ。正しい者は救われなければいけない。悪い奴らには相応の罰を与えなければならない。そうならないのであれば神も仏もあるものか、そうだろ、さん太、だからお前は真人間にならなきゃいけないよ」と云うことです。黙阿弥の「鼠小紋東君新形」をしっかり踏まえて本作を読むならば、そのようなことになるのです。これは黙阿弥がしたことです。野田の「見立て」の作劇技巧が思わぬ効果を発揮したわけです。

史実の鼠小僧は、盗んだ大金のほとんどを、博打と酒と女に使ってしまったそうです。史実の鼠小僧はそんな詰まらない泥棒でしたが、これを「義賊」に祀り上げたのは大衆の心情でした。黙阿弥の「鼠小紋東君新形」を踏まえたことで、期せずして、三太の心情が大衆と重なったと思えたのです。これはちょっと意外な発見でありましたね。これは歌舞伎の伝統の賜物だと言うべきです。ここに野田歌舞伎を「古典」にするための最後のヒントがあるかも知れませんね。(この稿つづく)

(R4・5・5)


4)野田歌舞伎の「古典」としての可能性

実は野田秀樹による歌舞伎作品(「野田版・桜の森の満開の下」を含めれば四作品があります)の脚本を読むと、井上ひさしが指摘したところの、見立て・吹き寄せ・名乗りの三大技法を駆使して、なかなか良く考えて芝居を作ってあるなあと吉之助も感心するところが多かったのです。ところが、実際に出来上がった舞台(あるいは映像)を見ると、本筋と関係なさそうな余計な笑いやドタバタが多く、それにテンポがセカセカ早いので、それらが作品が本来持つ主題や情感を見えなくしてしまっているところがあると思えてなりません。それをしっかり見えるようにすれば、野田歌舞伎の評価は、大分違ってくると思うのです。或いは野田にはそういうところを意図的に隠そうとするシャイな(あるいは奥床しい?)ところがあるのかも知れないと思ったりしますが、いっそのこと今後思い切って野田本人の演出から離れて、別の誰かがもう少し落ち着いた演出(古典的な演出)を施すことで、野田歌舞伎の本来的な美点が見出されることになる気がするのです。そう云う意味では、現時点においては野田歌舞伎はまだまだ同時代演劇として生(なま)であり過ぎるということなのでしょう。それにしても野田の本領である現代演劇の分野(つまり夢の遊眠社や野田MAPの芝居)でも同じようなことが起きていそうな気がしますが、その辺はどう思われているのでしょうかね。

改めて20年ぶりくらいで「野田版・鼠小僧」映像を見直すと、本作のなかでの主演・勘九郎(後の十八代目勘三郎)の存在の大きさを痛感させられました。偽の大岡忠相(第三場)など親父さん(十七代目勘三郎)が出てきたのかと思うほどでとにかく巧いし・笑わせますが、良い意味でも・悪い意味でも、勘三郎のキャラに頼り過ぎの芝居になっているとは思います。勘三郎亡き後、再演が難しいだろうと思うのは、この点です。もし本作を再演するのであれば、その主演役者は何かと勘三郎と比較されて「面白くない」とか云われて・かなりの損をするだろうけれど、もう少し笑いやドタバタを少なくして、シリアスな面と正面で向き合うことで、野田歌舞伎は「古典」として練れたものになっていくのではないかと思います。

(R4・5・8)

*文中の台詞は、野田秀樹:「野田版歌舞伎」(新潮社)よりの引用です。



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