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八代目幸四郎の弁慶・九代目海老蔵の富樫

昭和36年2月歌舞伎座:「勧進帳」

八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(弁慶)、九代目市川海老蔵(十一代目市川団十郎)(富樫)、七代目尾上梅幸(義経)、二代目尾上松緑(後見)

(七代目松本幸四郎十三回忌追善)


1)模範的な山伏問答

本稿で取り上げるのは、昭和36年(1961)2月歌舞伎座での「勧進帳」の舞台映像です。これは昭和24年に亡くなった七代目幸四郎の13回忌の追善で、高麗屋3兄弟(海老蔵・幸四郎・松緑)が出演し、昼夜に追善口上を付けて、評判は上々でしたが、興行中の2月14日の朝刊に「(八代目)幸四郎が東宝と専属契約する」とのスクープが飛び出して大騒ぎになりました。東宝移籍の背景には昼夜二部制、稽古日数不足、役者の生活保障の曖昧さなど松竹に対する不満、幸四郎の演技者としての意欲とは裏腹にマンネリ化した歌舞伎の現状への批判などいろいろあったと思われますが、本稿では省きます。この辺の事情は千谷道雄氏の「幸四郎三国志」という本に詳しく書かれていますから、興味がある方は是非読んでみてください。

千谷道雄:幸四郎三国志―菊田一夫との四〇〇〇日

幸四郎・染五郎・萬之助の他中車・又五郎ら三十数名が東宝へ移籍し、これにより事実上「吉右衛門劇団」が解体することとなりました。なおNHKの放送記録を調べると、この舞台映像が放送されたのは同年2月11日のことなので、これは幸四郎の移籍が発覚して騒動になる以前の舞台映像です。

そう思って八代目幸四郎の弁慶を仔細に観察すると、この時点の幸四郎は心に期するところが既にあったわけで、なるほど幸四郎は確かに気合いが入っています。松竹歌舞伎への決別の覚悟が、安宅の関の弁慶の決死の覚悟とどことなく重なります。幸四郎のただならぬ気合いに触発されたか、海老蔵の富樫も緊張感がある良い出来です。梅幸が演じる義経は定評ある当たり役ですから、もちろん申し分がない。主役3人が揃いも揃って素晴らしい出来で、吉之助も生(なま)も映像も含めて「勧進帳」は随分見ましたけれど、個人的には総合得点でこの舞台映像が最も出来の良い「勧進帳」かなと思っています。

全体に緊張感が漲(みなぎ)っており、勧進帳読み上げから山伏問答、さらに呼び止めから義経打擲・詰め寄り・富樫の引っ込みまで、テンポが小気味ド良くドラマが引き締まっています。特に良いのが山伏問答です。幸四郎は荒事風を意識してやや高めに取ってはいますが基調は太い声、これに対する海老蔵の高調子の声質がバランス的になかなか良い。結果として弁慶が低調子で・富樫が高調子という構図に収まっています。海老蔵は戦前の名富樫と謳われた十五代目羽左衛門のイメージを引き継ぐ戦後昭和の富樫役者の一人ですが、台詞に斬れがあって、とても素晴らしい。アッチェレランドの速度設計が見事に取れており、問答が富樫主導で動いています。台詞のリズムがしっかり打たれており、山伏問答の速度が次第に上がっても・二拍子の打ちが乱れることがありません。だから「掛けたる袈裟は」・「出で入る息は」と富樫が矢継ぎ早に繰り出す質問に、弁慶が次第に窮地に追い込まれて行く経過がきっちり描かれます。しかこぎみも、ここで海老蔵の富樫は決して熱くなっていません。それは台詞の二拍子の打ちが決して乱れを見せないからです。

昨今の「勧進帳」の山伏問答では、弁慶が余裕で富樫の質問を捌(さば)き、なかなか尻尾を出さない弁慶に富樫が次第にイラ立って、熱くなって詰め寄って、「出で入る息は」で遂には怒鳴り出すと云う態に見えることが多い。落ち着き払った弁慶に対して「どうして富樫はこんなに興奮して叫んでいるんだ?」と云う風に見えてしまうのです。これはアッチェレランドの速度設計がきっちり取れておらず、二拍子の打ちが乱れて、整然とした印象が損なわれてしまうからです。そもそも二拍子の台詞を正しくしゃべれているのかも気になるところですが、要するに富樫の台詞の息の詰めが十分ではなく、リズムが腹に落とせていないのです。これでは山伏問答が盛り上がるはずがありません。もちろんこれは富樫だけのことではなく・弁慶も同様のことですが、問答の速度設計をコントロールするのは富樫なのですから、ここでの富樫の責任は大きいのです。そこのところ海老蔵はまったく危なげがない。

海老蔵のこの理性的な富樫のおかげで、弁慶の問答が光って来ます。次々と繰り出される富樫の質問を、弁慶は「おおその来由いと易し・・」、「事もおろかや・・」、「語りがたき事なれども・・」などと、もったいを付けて(実は弁慶はその間に何と答えようかと必死で考えているわけです)、額に汗を滲ませながらも手に品を変えて、右から受け止めれば・次は左から受けて見せる、そこに自由自在な「しゃべり」の芸があるのです。これこそ元禄期の荒事の「しゃべり」の芸の系譜を引くものです。そこに七代目団十郎が原典の謡曲「安宅」にはない山伏問答を挿入した意図があるわけです。それでは山伏問答が荒事芸であることの証左はどこにあるのでしょうか。それは「相手の台詞にかぶせて出る」ということです。例えば富樫の「出で入る息は」に弁慶が「阿吽の二字」と答えますが、ここで「息は」の「は」の音に・「阿吽の」の「あ」を意識的にかぶせて出る。これが荒事の急きたてる感覚なのです。これが出来ない弁慶役者は大勢います(それは息の詰めが足りぬからです)が、幸四郎の弁慶はきっちり出来ています。

もとより幸四郎は台詞廻しが巧いことでは定評のある役者ですが、幸四郎の弁慶と海老蔵の富樫の山伏問答ほど、「勧進帳」が元禄歌舞伎の「しゃべり」の伝統を引く「荒事の芝居」であることを、耳(台詞)だけで納得させてくれる舞台は、そうはないと思いますねえ。(この稿つづく)

(R2・7・8)


2)リアルな芝居としての「勧進帳」

もうひとつ、この舞台映像を見て感じることは、この「勧進帳」ではどの役者もリアルに芝居しているなあと云うことです。そんなの当たり前じゃないかと思うかも知れませんが、昨今の「勧進帳」の舞台はどれも能掛かりの風味で様式っぽくて、本来の芝居の感触とちょっと違う感じがしないでしょうか。能の荘重な雰囲気を出そうとして(と言っても表面的に似せているだけのことですが)台詞を謡うように発声するので、台詞廻しが伸びて形骸化しています。昨今はそんな「勧進帳」ばかり見るので、こちらの感覚も麻痺してしまいそうです。ところが改めてこの舞台映像を見ると、61年前のこの「勧進帳」が、リアルな芝居の「勧進帳」であったことに気が付いてハッとさせられます。ここには生々しい人間の感覚があります。テンポが良くて、描線がシャープです。なるほどこれならば能の真似でも何でもない。これは確かに歌舞伎の「勧進帳」です。思えば吉之助が若い頃に見た「勧進帳」の舞台も、これに近い感触であったことをフト思い出すのです。それが数十年の歳月を経て能掛かりの「勧進帳」へとゆっくり変化していったということなのです。ただし、これを良いとか・悪いとか決め付けるつもりはありません。ここでは現象面としての「勧進帳」能掛かりの方向性のみを指摘しておきます。そのような些細な(しかし大事な)差異を再確認できることが、ずっと昔の古い舞台映像を見直すことの効用です。

「勧進帳」が能掛かりになるのには、もちろん理由があります。「勧進帳」には、ふたつの要素がせめぎあっています。ひとつは、歌舞伎の高尚志向・上昇志向ということで、本行である能の様式性に近づこうとするものです。もうひとつは、歌舞伎十八番の故郷である元禄歌舞伎の荒事の卑俗な感覚へ還ろうとするものです。「勧進帳」はこの相反した要素の狭間にあるので、どちらかひとつだけでは「勧進帳」は正しいフォルムを成さないのです。(これについては別稿「勧進帳のふたつの意識」を参照ください。)「勧進帳」は元々作品自体にそのような要素を孕んでいるのですが、昨今の舞台が能掛かりに強く傾いて行くのは、実はこれは平成・令和の歌舞伎が民衆の実生活感覚から乖離して、次第にリアルな感覚を持てなくなって来たことと深く関連するものだろうと思います。ですからこれは「勧進帳」だけの問題なのではなく、実は昨今の歌舞伎全体の問題でもあるわけですが。

翻って61年前の、昭和36年の「勧進帳」を見直せば、そこに戦後昭和のリアルな自然演劇志向の感覚が見えると思います。この時代に於いては、特に映画の影響が強いと云うべきかも知れません。これが「勧進帳」をリアルな芝居の感覚にしているものです。「勧進帳」のもうひとつの要素、元禄歌舞伎の荒事の卑俗な感覚を、戦後の民主化の視点から捉え直したと云えるかも知れませんねえ。

幸四郎の弁慶は、もちろん伝来の歌舞伎の型をしっかり踏襲しており・歌舞伎の感覚から決して逸脱はしていませんが、例えば幸四郎の表情はよく動きますね。特に目付き・眉の動きが大きい。ここに自然演劇の感覚が垣間見えます。このことが幸四郎の弁慶をフレッシュな感覚にしています。幸四郎は台詞が上手いことは言うまでもないですが、その台詞廻しにも幸四郎の細やかな心理表現が反映していると云えそうです。もうひとつ付け加えれば、このような幸四郎の自然演劇志向が、彼を旧態依然の松竹歌舞伎から決別し・民主感覚の東宝歌舞伎へ向かわせたということも、そう考えれば何となく分かる気がするのです。(これに関連する記事として別稿「ラ・マンチャの男1200回〜九代目幸四郎の生き方」をご参照ください。)

一方、松竹歌舞伎に残った海老蔵も梅幸も、幸四郎と同じ戦後昭和の空気のなかで生きているわけですから、程度の差こそあれ、自然演劇志向の感覚を共有しているわけです。これがこの時代の歌舞伎の感覚なのです。だから昭和36年の「勧進帳」が、リアルな芝居の「勧進帳」になるのです。(この稿つづく)

(R2・7・10)


3)生身の弁慶

役者は誰でも役の人物になり切ろうとするものであろうけれど、幸四郎の弁慶や由良助(内蔵助)の舞台を見ながら「実在の弁慶(或いは由良助)もこんな人物だったのだろうなあ」みたいなことをツイ考えてしまうことは、幸四郎以外だとあまりなかったような気がするのですが、これは一体どういうことなのですかねえ。肚の持ち方とか云うようなことならば誰でもそこに間違いがあろうはずがありません。柄が大きいなあ・上手いなあと感心する弁慶はもちろん大勢います。しかし、幸四郎の場合は、他の役ではいざ知らず、こと弁慶と由良助に関しては、より深いところで役の人物と通じていた気がするのです。まあそれだけ相性が良かったということでしょうが、やはり幸四郎が誰よりも現代的な感性に根差したリアルさを大事にしたからだと思うのです。しかも幸四郎の場合は、これが決して新劇的とか・映画的とかいう感じにならずに、歌舞伎の枠にしっかり収まっていました。そこが興味深いところで、リアル感覚が伝統芸能の古典的な感覚とほどよく折り合いを付けていたのです。

「勧進帳を読め」という富樫の要求・次々繰り出される質問は、どれも弁慶にとって予想外のことです。弁慶は動じることなく、これらの難題を見事に捌いて行くように見えますが、弁慶は自らの知力・胆力で降りかかってくる試練を余裕で切り返しているわけではなく、内心は必死の形相で・ヒイヒイ言いながら難題を解いているのです。まさに息が上がってボロを出しかねない寸前であるところを、富樫に対して余裕があるかの如く見せかけているだけのことです。そのところを幸四郎の弁慶は手に汗を握るように教えてくれます。富樫との対峙が実にスリリングです。

富樫に呼び止められて「あの強力がチト人に似たると申す者の候ほどに、さてこそ唯今留めたり」と云われた時、弁慶はもはやこれまでと観念し金剛杖を取り上げて義経を打擲するのですが、強力を義経と見咎められたのをそうでないと富樫を言いくるめるために、弁慶がそうしたわけではないでしょう。弁慶は勧進帳読み上げと山伏問答で知力の限りを尽くして、この時点で、もはや精魂尽き果てていたのです。山伏問答を切り抜けたところで弁慶は内心「しめた」と思ったはずです。ところが更に振り掛かった窮地に、もはや弁慶はどうすることも出来ませんでした。切羽詰まった弁慶は、やむなく義経を打擲したということです。後の場面で弁慶は義経に「計略とは申しながら、まさしく主君を打擲、天罰そら恐ろしく・・」と言っています。確かに「計略」と弁慶は言っていますが、これは終わった後だから言えたことで、弁慶は富樫を騙してやろうと考えてわざと義経を打ったわけではないのです。そうではなくて、天罰を思う余裕すらなくないほど、弁慶は追い詰められていたのです。そこに打算などないのです。富樫が止めなければ、弁慶は義経をホントに打ち殺していたでしょう。義経が「今日の機転、更に凡慮の及ぶところにあらず・・我を打って助けしは正に天の加護、弓矢正八幡の神慮・・」と弁慶に礼を言うのは、まさにそこのところです。計略の行為でなかったからこそ神慮が通じたのです。

弁慶の才知からすれば勧進帳をデッチあげるくらい朝飯前、山伏問答なんてお手の物だと仰る方がいらっしゃいます。いつ頃から弁慶はそんなスーパーマンになっちゃったのでしょうねえ。しかし、それはそんなに昔のことではない気がします。そんな余裕しゃくしゃくの冷静な弁慶ならば、多分この場面においても、ヨシここで一丁富樫を騙してやろうと計算ずくで主人義経を打つのでしょう。もしホントに弁慶がそんな男ならば、必ず天罰が下るに違いない。そう思いませんか?義経打擲の局面だけ見て物を考えるから、そのような誤解を生じてしまいます。

ドラマには流れと云うものがあります。「勧進帳」ならば、富樫との対面ーノット(祝詞)−勧進帳読み上げー山伏問答ー呼び止めー義経打擲までのドラマの流れを踏まえて局面を読まねばなりません。流れを踏まえて読み込むならば、解釈は必然的に絞られて来ます。幸四郎の弁慶を見るならば、そのことが良く分かるでしょう。幸四郎の弁慶(それと海老蔵の富樫)は、弁慶が打擲に至るまでのドラマの流れをきっちり正確に描いて誤解を呼び起こす余地がありません。ここでの幸四郎の弁慶は、確かに生身の人間なのです。(この稿つづく)

(R2・7・19)


4)男対男のドラマ

弁慶は「計略」で主人義経を打つのではないことは、富樫の立場からも、これは強く言って置きたいと思いますねえ。弁慶の打擲はほとんど衝動的なもので、富樫を騙してやろうと云う下心が微塵もないものです。だから弁慶の行動はひたすらに無私なのです。この場では義経は強力となるのが仲間内の申し合わせですから、衝動的とは云え、弁慶の打擲はあくまでこれに沿ったものです。

かぶき的心情の論理においては、男が命を賭けて・その思いの強さで以て相手の心を変えようとする時、問われた男も命を賭けてこれに応えねばならない、これがかぶき者の論理です。歌舞伎のドラマを見れば、「盛綱陣屋」や「沼津」など、そのようなドラマが沢山あるのは、ご存じの通りです。弁慶の男心に富樫が男心で応えた、これが「勧進帳」のドラマです。そのためにも弁慶の心情が無私でピュアなものでなければなりません。

 『早まり給うな。番卒どものおしなき僻目(ひがめ)より、判官どのにもなき人を、疑えばこそ、かく折檻もし給うなれ。』

実はこの富樫の有名な台詞は天保11年(1840)初演時にはなかったもので、嘉永2年(1849)再演時に新たに付け加えられたものでした。(この改訂は三代目並木五瓶によるものでしょう。詳しくは別稿「勧進帳の変遷」をご参照ください。)吉之助は富樫のこの台詞の追加改訂によって、現代の「勧進帳」人気が決定付けられたと考えています。「判官どのにもなき人を・・」の台詞は、富樫の役を大きくして弁慶に比肩する位置にまで押し上げたのはもちろん、「勧進帳」の近代的性格を決定することにもなったのです。

謡曲「安宅」では、詰め寄りの後すぐに富樫は「通れ」と言ってしまいます。弁慶の剣幕に押されて恐怖で弁慶一行の通過を許してしまうのです。七代目団十郎が「勧進帳」で元禄歌舞伎の荒事の弁慶の再現を目指したのであれば、この「安宅」の設定を踏襲すれば・それで十分目的を果たして満足したはずです。ところが、七代目団十郎はこれに飽き足らず、さらに工夫を加えようとしました。富樫を威嚇し関を堂々罷り通る弁慶は確かに荒事に近いイメージですが、まだまだ中世期の弁慶像を引きずって古色蒼然としています。天保の当時、市川家の荒事は「筋が単純でつまらない・時代遅れの芸だ」と世間で云われていました。七代目団十郎が考えたことは、市川家の荒事を来るべき時代にふさわしい・まったく新しい人間ドラマに作り替え、市川家の地位回復のため起死回生を図ることでした。「判官どのにもなき人を・・」という富樫の台詞を加えることで、「勧進帳」は弁慶の男気(おとこぎ)に富樫が応える・スッキリしたかぶき的心情のドラマに仕上がったのです。明治の九代目団十郎は父の路線を更に推し進めて、「勧進帳」を高尚化して行きます。

幸四郎の弁慶と海老蔵の富樫は格が拮抗して、「勧進帳」が弁慶の芝居であるのと同じくらい富樫の芝居でもあることを教えてくれます。それに幸四郎の弁慶が良いのは、延年の舞が富樫のために舞われるものだということがよく分かることです。弁慶は酒に酔っても富樫に決して気を許していないと云う口伝もそれは理屈であるけれども、やはりこの場面の弁慶は酒に酔って気持ち良く舞いたいものです。延年の舞が終わって弁慶が仲間たちを先に送り出し幕外で弁慶が飛び六方にかかる所で、昨今の「勧進帳」の弁慶は富樫に対して目礼し・天に向かって頭を下げ・ついでに応援してくださったお客様にも頭を下げと長々しいことであるけれども、ここでの幸四郎の弁慶は幕内の富樫の方をチラと見やって・思いを振り切るように、サッサと飛び六方で花道を駆けて行きます。幕外の飛び六方は、本来これくらいさりげない方が望ましい。「勧進帳」が弁慶と富樫のドラマで収束して実に後味が良いです。

(R2・7・22)



 

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