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「歌舞伎素人講釈」を読むためのガイド

和事(わごと)


1)荒事と和事

元禄の江戸歌舞伎の名優・初代市川団十郎が得意としたのが「荒事」で、上方歌舞伎の初代坂田藤十郎が「和事」であると云うことは、よく知られています。団十郎の荒事は、隈取をとって、扮装も動作・発声も誇張されて荒々しく豪快で・様式的ですから、これは見ればそんなものかと分かりやすいものです。しかし、和事の方はどうでしょうか。歌舞伎の解説本などを見ても「優美な色男の色模様を中心とした優美で柔らかい演技」みたいなことしか書いてありません。代表例に挙げられているのは、「廓文章」の伊左衛門です。この説明はもちろん間違いと云うわけではありませんが、和事がナヨッとした色男の弱々しいイメージで受け取られかねない問題があります。

事実、その後の和事の変遷を見れば、「色男、金と力はなかりけり」という・いわゆる「つっころばし」のイメージで見られることが多い。これが、現在の一般的な和事のイメージなのです。代表的な役は、「双蝶々曲輪日記・角力場」の与五郎です。確かにこれも和事に違いありませんし、現在そのようになってしまったやむを得ない事情があるわけですが、創始者である初代藤十郎の和事がどういうものであったか、そこのところを正しく認識したうえで「和事」を規定していただきたいと思いますね。「優美で柔らかい演技」・・では漠然とし過ぎて、まだ定義になっていないと思います。

まず大事なことは、上方の初代藤十郎の和事は、同時代の江戸の初代団十郎の荒事と対照する形で論じられるべきであるということです。どちらも、同じ元禄期の時代の空気を反映した演技様式だからです。ただし、生まれた場所が江戸と上方と違う。まさにそこが荒事と和事の差となって現れるのです。

当時の文化・社会レベルから見れば、上方(京都・大坂)は江戸よりもずっと先進地域でした。町人の道徳も美意識も、上方の方がずっと成熟・洗練されていました。江戸は依然として開拓期の荒々しい殺伐とした気風を残していました。そのような気風が、団十郎の荒事に反映しています。一方、上方の町人は、自分の思ったことをストレートに主張して・喚きたてるようなことは決してしませんでした。そのような行為は、上方の町人にとって「野暮」なのです。団十郎は京都に上って荒事を披露しましたが、上方の観客にはまったく受けませんでした。上方の観客は藤十郎の「和事」の優美で柔らかい演技がに支持したのです。この両者のどこに同じ元禄期の空気を反映したものが見えるでしょうか。


2)「今の私は本当の私ではない」

元禄期というのは、徳川幕府の封建体制がほぼ固まった時期でした。身分制度が確立し、武士は武士らしく・町人は町人らしくという考え方が定着していきます。人々は「家」に固定され、油屋に生まれれば油商売に、紙屋に生まれれば紙商売に従事せねばならない。社会の枠組みが整備されると同時に、社会・組織の縛りが次第に窮屈になり始めていました。そうなると(近松門左衛門が描いた)油屋与兵衛や紙屋治兵衛のように環境にうまく適応できない人が出て来るわけなのです。そこからドラマが生まれます。以上は上方の事情ですが、江戸においても状況は似たようなもので、社会にうまく適応できないために、派手で奇矯な行動で憂さ晴らしをする旗本奴や町奴のような連中が出てきます。幡随院長兵衛や助六などが、その例です。つまり荒事も和事も、同じ元禄期の時代の、社会制度の縛りの厳しさへの反発・自由を求めてあがく人々の鬱屈した気分を反映しているのです。似たような気分が、江戸と上方の気質の違いによって、その表現(スタイル)が違って来たに過ぎないのです。それが江戸の荒事、上方の和事の違いです。

したがって荒事・和事に見える気分は、実は共通した気分です。どちらも、「私が今していることは、本当に私がしたいことではない。本当の私は別にあって、今の私は本当の私ではない」と云うことなのです。これが歌舞伎の原点にある気分なのです。


3)「やつし」の芸

したがって、初代藤十郎の代表作である「廓文章」の伊右衛門の和事も、優美で柔らかい演技であるのは、それは表面で見えているものに過ぎません。伊右衛門の芯(内面)にあるものは、実は意外と強いものです。そこが分からないと、和事の本質は決して理解出来ないのです。

*「和事芸の起源〜廓文章」をご参照ください。

和事芸で大事なことは、「やつし」の芸です。「やつし」とは、身分のある人が落ちぶれて・哀れな様を見せること。「やつし」の芸では、滑稽な要素とシリアスな要素が交互に背中合わせに出てきます。ふたつの要素が揺れるように出るのです。

*「やつし」の要素は、貴種流離譚とも密接な関連を持ちます。「やつし」は和事芸の重要な要素ですが、精神的底流において、歌舞伎の一大ジャンルである仇討ち狂言との密接な関連を持ちます。これについては、「曽我狂言のやつしと予祝性」、「今日の襤褸は明日の錦」など仇討ち関係の論をご参照ください。

伊左衛門は「恋も誠も世にあるうち」とか「七百貫目の借金負ってビクともいたさぬ伊左衛門」とか言いますが、そこに大阪商人の意気地が出ているのです。「意気地」というと・どこか突っ張った強い感じがしてしまうかも知れませんが、意気地がごく自然な形でやんわりと出る、そこに伊左衛門の育ちの良さが自然に滲み出るのが上方和事なのです。そのような屈折した意識が伊左衛門にあるのです。

つまり伊左衛門は人間である以前に大阪商人である。上方商人である限り、この意識から抜けられないのです。同じような心理が、油屋与兵衛(女殺油地獄)や紙屋治兵衛(心中天網島)にも見られます。

*油屋与兵衛(女殺油地獄)については、「和事芸の多面性」、「近松のリアリズムについて」、「十代目幸四郎襲名の与兵衛」などをご覧ください。

*紙屋治兵衛(心中天網島)については、「たがふみも見ぬ恋の道」、「女同士の義理立たぬ」,「惨たらしい人生」などをご覧ください。

*「仮名手本忠臣蔵・七段目」の茶屋場での由良助の遊興三昧は、実は別の狂言での初代沢村宗十郎の「やつし」の芸を取り入れたものでした。ここから和事芸と、仇討ち狂言との、精神的な共通性が伺われます。「誠から出た・みんな嘘」、「七段目の虚と実」をご覧ください。


4)形骸化していく和事芸

しかし、時代が下ってくると、元禄期の大坂町人には当たり前・説明不要であったことが、後世の大坂町人にもピンと来なくなるようなことが出てきます。近松門左衛門の世話物作品もそのままではスンナリ理解できないところが出て来て、近松物でさえ改作で上演されるようになって行きます。和事もその本質が忘れ去られて、その見た目の優美で柔らかいイメージだけで受け取られるようになって行きます。そんなところから、「色男、金と力はなかりけり」という・いわゆる「つっころばし」のイメージが和事だと云う世間の一般的理解になっていきます。

*山崎与五郎(双蝶々曲輪日記・角力場)については、「珍しい上方演出の角力場」、「五代目菊之助の与五郎と長吉」をご覧ください。

*上方和事のバリエーションですが、「ピントコナ」と云う役柄があります。「伊勢音頭」の福岡貢がそうです。「ピントコナ考」を参照ください。

*上方和事が江戸歌舞伎に取り入れられて、江戸和事というジャンルも出来てきます。代表的なものは、切られ与三郎です。「与三郎の台詞のリズム」、「十四代目勘弥の与三郎」をご覧ください。

(R3・8・3)



 

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