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十四代目勘弥の与三郎〜宇野信夫版「切られ与三」

昭和44年4月国立劇場:「与話情浮名横櫛」

十四代目守田勘弥(伊豆屋与三郎)、七代目尾上梅幸(お富)、八代目市川中車(蝙蝠安)、十七代目市村羽左衛門(和泉屋多左衛門)、十三代目片岡仁左衛門(人形屋文七・下男忠助二役)、四代目尾上菊之助(七代目尾上菊五郎)(伊豆屋娘お菊)他

(脚本・演出:宇野信夫)


「与話情浮名横櫛」(切られ与三)と云えば、「源氏店」の場が有名で単独でよく上演されますが、現在ではたまに「木更津見初めの場」が前場に付いて半通しの形で上演されるくらいのものです。嘉永6年(1853)3月中村座でこの芝居が初演された時は二番目狂言で、それは概ね上述の場面を中心として出来ていたようです。ところが八代目団十郎が演じた与三郎が大評判になったので、三代目如皐が急遽前後の筋を書き加えて同年5月に9幕18場の通し狂言に仕立てて上演されたのが、通し狂言「与話情浮名横櫛」です。だいたい歌舞伎狂言は部分を抜き出せば面白くても、通しになると筋が錯綜して荒唐無稽なものが多いものですが、本作も例外ではないようです。原作には与三郎の実家・千葉家(原作だと何と与三郎は武家の血筋なのです)の重宝・真鶴の香炉を探し求める御家騒動の件が絡み、与三郎は捕まって島流しの刑を受けるが島抜けする件があったり、家来筋に当たる観音久次の犠牲で辰の歳月日の揃った生血を呑むことで与三郎の全身の刀疵が治ってしまうという「合邦辻」まがいの件があったり、筋の錯綜と荒唐無稽は相当なものです。

本稿で取り上げるのは昭和44年4月国立劇場で試みられた「与話情」通し上演の映像です。脚本・演出は昭和の黙阿弥の異名も取った宇野信夫が担当しています。こういう歌舞伎の通し狂言の復元上演では、上演時間の関係でかなりの部分をカットせねばならないし、それでいて現代の観客がそれなりに納得できる筋の整合性が求められます。しかもお芝居としての完結性もなければならないわけですから、脚本アレンジは相当難儀なことです。大抵の場合、いつも見慣れた見取りの場面だけが面白くて、復元したところは筋の辻褄を合わせているだけのことで詰まらないことが多い。如皐の原作は講談「お富与三郎」などを題材にして芝居に仕立てたものですが、講談とは筋の各所に相違があるようです。宇野の脚本も、手元にある岩波文庫版の如皐の原作とは全然異なるものです。どうやら宇野は脚本アレンジに四苦八苦しているうちに、「エイッ面倒臭い、俺が思う通りに書き直してやる」と開き直ったのではないでしょうか。

当月筋書に宇野は「源氏店だけ残して置くことがこの狂言のためではないかと一時は考えました。如皐の本をお読みになれば、後半はどうしても上演できないことがお分かりになると思います」と書いています。これは脚本アレンジに従事する方の本音でしょうなあ。原作の復元・補綴と云う観点からは逸脱した考えであることは確かですが、「でも芝居として筋が通って面白くなきゃ駄目でしょ」と云うのももっともな言い分ではあります。これを講談やら原作と引き比べて筋としてどの場面が正しい?どちらの方が 面白い?と云っても仕方ないことです。その結果なのか、大詰(第5幕)江戸元山町伊豆屋の場は、何やら近松門左衛門の「新口村」の江戸版を見るような気分がしました。やっぱり「与話情」は「木更津見初め」と「源氏店」だけあれば十分かなあという気もしました。

観音久次の生血を呑んで与三郎の疵が癒えてしまう件をバッサリ切ってしまった辺りに、世話物作家宇野の考え方がうかがえます。宇野の立場からすると、血の奇蹟みたいな非合理な仕掛けがまず許せないでしょう。そう云うと「巷談宵宮雨」には最後に龍達の幽霊が出てくるじゃないかと云われそうですが、これは元ネタが人情話であるせいなので、宇野自身が幽霊を信じていないことは「巷談宵宮雨」を単純な怪談話にしていないことで明らかなのです。宇野はあくまで合理主義に基づいた世話物作家であり、関心は人間の揺れ動く感情の綾を描くことにあります。御家騒動の伏線を捨てたことも宇野なりの見識と云うべきです。余計な枝葉が刈り取られて筋がシンプルになって、これで世話物本来の味わいに仕立てることが出来ました。それでは宇野が「与話情」脚本アレンジで心掛けたことは何でしょうか。当月筋書に宇野は次のように書いています。

『与三郎が蝙蝠安におどかされて、「そんなに言わなくってもいいじゃァねえか」と、昔の若旦那に返って、甘えるようにいうところがあります。おそらく八代目団十郎以来、型のようになっているのでしょうが、悪党がっている中に、ちらっと素直な若旦那を見せるあの型を元にして、与三郎の性格を私なりにこしらえあげてみました。』(宇野信夫:「改訂の弁」・国立劇場筋書・昭和44年4月)

「与話情」初演で八代目団十郎の与三郎が大評判となったのは、美男役者の顔に無残な疵を付けてもその疵が愛嬌にさえ見えたと云う、その八代目の個人的な魅力に拠るものでした。八代目の人気はちょっと特異なものでした。それまでの歌舞伎の役者にもちろん人気役者は数多くいましたが、それは大抵芸の力に拠るものでした。八代目人気の特徴は女性客が主体であったことです。これは幕末江戸の閉塞した雰囲気と無関係ではないもので、現在のアイドル人気に似た感じで一種のヒステリー症状を呈していました。加熱する一方の人気に八代目当人さえも何が起きているのか分からなかったでしょう。「切られ与三」ヒットはその絶頂期の現象で、翌年・嘉永7年に八代目は巡業先の大坂で謎の自殺を遂げることになりました。八代目は七代目団十郎の長男として生まれ、3歳で海老蔵・10歳で団十郎となり座頭、何の苦労もないように見えますが、我儘な父親(七代目)に散々に振り回された人生であったと言えます。八代目の自殺の理由については定かではありませんが、ここでは人気絶頂・順風満帆だったはずの八代目の人生にもどこか暗い陰が差していたということさえ分かれば十分です。

だから与三郎と云う役は、どこか陰惨な陰翳を帯びて来ます。ゆすりかたり稼業をしながら商家の若旦那らしい気品・坊ちゃんらしい気の弱さ、これらは確かに与三郎に必須の要素に違いありません。江戸前のスッキリいなせな与三郎役者はたくさん居ます。甘ったるい優美さを漂わせる与三郎役者も居ます。しかし、与三郎にとって色男の横顔にふっと横切る運命の陰惨さこそ大事なポイントなのです。

赤間に滅多斬りにされた後、与三郎は疵だらけの身体を材料に、蝙蝠安に教えてもらいながらゆすりかたり稼業をしています。「源氏店」で登場した時点での与三郎は、まだ度胸の据わった無頼漢になってはおらぬのです。源氏店にいたのがもしあの女(お富)でなかったのならば、与三郎は頬冠りもとらず顔を隠したまま、安がもらった一分の金で満足して、こそこそ次の仕事場へ向かったことでしょう。しかし、ここにいるのがあの女だと知った以上、与三郎は「お有難うございます」と云って帰るわけに行かなくなったのです。与三郎にとってお富は、彼を現在の状況に追い込んだ深い因縁がある女であるからです。

『そりやアな、サ、たつた二百でも帰る場もあり、 百両百貫もらっても、帰(けえ)られねえ場所もあらア、マア、おれが掛け合うのを、そつちの方で見て居ねえ。』

安は与三郎の豹変ぶりに「コイツにこんな度胸があったのか」と驚いたと思います。ここで吉之助は映像でしか知りませんが、十一代目団十郎が演じた与三郎のことを思い出します。十一代目はこの台詞をしゃべりながら言葉を次ぐ度に感情が激して堪らないという感じで、「百両百貫もらっても」の箇所を目一杯張り上げていました。(十一代目の「源氏店」についてはいずれ書く機会があると思います。)与三郎がこんなに理性を失ってしまうのは、死んだと思っていたお富が生きていたと知ったから?それほどまでにお富を愛していたから?やっと会えたと思ったらお富が誰かの囲い者になっていたので頭に来たから?まあいろいろな感情が渦巻いていると思いますが、ここで与三郎が一番感じていることは、この女(お富)に出会って惚れたばっかりに俺はこんな境遇になっちまったんだ、それでなければ俺は今も江戸の大店の若旦那だったんだ、それがこの女に惚れちまったばっかりに・・・どうしてこんなことになっちまったんだと云うことです。これは怒りと云うか・憤りと云うか・悔恨か・自己嫌悪か、何とも言い様がない感情です。お富を恨んでいるわけではない。愛しているからこそ余計にそんな思いがこみあげて来る、それが三年掛けて溜まった与三郎の思いです。

現行の舞台では与三郎が長台詞で語る恨みつらみを聞いてお富はしおらしく「そう言わしゃんすも尤(もっと)もでござんすが・・・」と言います(今回の七代目梅幸もその線です)が、原作を見るとお富は「エエも、静かにおしな」と与三郎に言い返しているので、ちょっと吃驚してしまいます。しかし、これはお富が与三郎に対して開き直っているのではありません。(それではお富がまるでアバズレ女になってしまいます。)お富も与三郎とまったく同じ気持ちなのです。「貴方がそこまで云うならば、私にだって言いたいことは山ほどあるんだから・・・」という気持ち、それを今与三郎に言わないでは収まらないという気持ちがお富に「静かにおしな」と言わせるのです。お富の与三郎への思いもそれほどに強いのです。

だから与三郎とお富は、互いに強い宿命の糸で結ばれた関係です。「源氏店」での与三郎のお富への思いの深さを真摯に読もうとすればするほど、如皐の原作にある(「源氏店」の次場に当たる)「和泉屋店頭」では、ふん縛った藤八をネタに与三郎とお富が、和泉屋の番頭多左衛門の元へゆすりに押しかける件がありますが、いささか設定として無理が感じられるのでこれをカットしたくなるのも、宇野の気持ちを考えれば、それはそれとして理解が出来るのです。場面としては「十六夜清心」のゆすり場みたいで興味深いものがありますけどね。宇野の視線は、お富によって運命をすっかり狂わされてしまった与三郎の悲哀の方に向けられています。

今回(昭和44年4月国立劇場)の十四代目勘弥は、十一代目団十郎のように「百両百貫もらっても」を張り上げたりしませんが、世話の台詞のなかに「実(じつ)」がある語り口です。「しがねえ恋の情けが仇・・」という有名な長台詞もしっかりリズムを踏んで台詞を押していきます。決して派手な感じはしません。十一代目ほどの強さもないのですが、これがなかなか塩梅が良いのです。様式よりも、実を踏まえた真摯な世話の与三郎なのです。この勘弥の与三郎は、吉之助にとっては思わぬ発見でした。ここには「俺の人生、どうしてこうなっちゃったんだろ、こんなはずじゃなかったのに」という与三郎の哀しい気分が確かに見えます。それも誰ゆえ・お富ゆえ・・なのです。これが御家騒動の筋を取っ払って筋をシンプルにした宇野版「与話情」の成果だと早計に言えないかも知れませんが、「与話情」の芝居を人情深く世話に徹して書き直したことで、これが「源氏店」から新たに見えて来たものです。

先ほど江戸版「新口村」と揶揄しましたが、そう考えるならば大詰・伊豆屋の場も与三郎に「俺の人生、どうしてこうなっちゃったんだろ」という悲哀が見えて味わいは深くなります。与三郎はもう後戻りは出来ず、行く先はまっ暗闇です。これは幕末の閉塞した気分を反映しているわけですが、宇野版「与話情」はそのことにも気づかせてくれました。

(H30・9・26)



 

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