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「歌舞伎素人講釈」観劇断想  (     〜昭和50年)

*単発の記事にならない分量の断片をまとめたものです。
記事は上演年代順に並んでいます。


○昭和41年11月国立劇場:「菅原伝授手習鑑」〜「車引」

九朗右衛門の梅王〜国立劇場開場の「車引」

八代目坂東三津五郎(松王)、二代目尾上九朗右衛門(梅王)、七代目尾上梅幸(桜丸)、二代目中村鴈治郎(藤原時平)

(国立劇場開場記念公演)


国立劇場開場公演とあって全員力が入って、なかなか見応えがある「車引」 となりました。吉之助が特に注目したのは、二代目九朗右衛門の梅王です。九朗右衛門は六代目菊五郎の実子ですが、芸歴として恵まれたとは云えませんでした。壮年期に脳溢血で倒れて身体が不自由になって、その後はハワイに移住したので歌舞伎の舞台に立つことが少なくなって、吉之助も最晩年の動かない僅かな役でしか記憶に残っていません。

この映像は九朗右衛門がまだ元気だった時代のもので、梅王は九代目団十郎の直伝を受けた六代目菊五郎の当たり役のひとつでしたから、九朗右衛門もこの役にはひときわ気合いが入ったことだろうと思います。この梅王は台詞もなかなか良いし、かっきりした荒事らしい動きを見せて、さすが六代目菊五郎の息子だなあと思うところを見せています。花道での飛び六法もよく決まっています。「車引」というのは歌舞伎の型ものの典型で、ひとつひとつ細かな決まった手順がありますから、吉之助がこういう映像を見る時には、例えば九朗右衛門の梅王を見ると同時に、吉之助はもちろん写真でしか知らないわけですが、九朗右衛門の脳裏にあるに違いない父・六代目菊五郎の梅王の面影や、さらにその奥にある九代目団十郎の梅王の面影を重ねて想像してみ たくなります。もちろん吉之助の頭のなかに浮かんだ六代目菊五郎がホントにそんなだったかなんて分かりませんけど、いろいろ場面を変えて見て行けば、 六代目菊五郎はこうだとだんだん分かって来るはずだと思って見るのです。もう無くなって見れない芸を見てるかのように想像する、これが伝統芸能を考える時に、とても大事な訓練になります。そのような見方をする為には、手前勝手に崩すことをせずしっかり形を守った筋目の正しい芸の方が有難いわけです。教えられたことを、正しく素直にその通りやれるということは、そのことだけで貴重なことなのですね。

七代目梅幸の桜丸については、幸い吉之助も晩年の舞台を見ることができました。やはり桜丸は、車引でも賀の祝でも、梅幸を一番に思い出します。きりりとした強いところと、ふくよかな味わいがほど良くマッチした絶妙のブレンドは、梅幸だけにしかないものです。八代目三津五郎の松王も古怪なマスクが生きて、大きな味わいが実に素晴らしい。三津五郎も六代目菊五郎崇拝の役者でしたから、今回の「車引」の三兄弟は六代目菊五郎を共通項にしており、共に芸の筋目の正しさを見せてくれたと云う点で、とても貴重な映像でありました。最後になりましたが、二代目鴈治郎の時平も、小さい体がとても大きく見えて、これも素晴らしい。

菅原伝授手習鑑 (歌舞伎オン・ステージ)

(H29・9・25)


○昭和41年12月国立劇場:「菅原伝授手習鑑」〜「車引」

幸四郎の松王・吉右衛門の梅王〜国立開場2月目の「車引」

八代目松本幸四郎(松王)、二代目中村吉右衛門(梅王)、七代目尾上梅幸(桜丸)、八代目坂東三津五郎(藤原時平)

(国立劇場開場記念公演・二月目)


国立劇場開場記念公演の通し狂言「菅原伝授手習鑑」・後半の2月目は、八代目幸四郎・二代目吉右衛門親子が登場したところが話題でした。この頃、幸四郎一家は松竹ではなく・東宝と専属契約しており、歌舞伎の出演は限られていました。この年(昭和41年)9月20日に帝国劇場が杮落としして、11月1日から「帝国劇場開場披露歌舞伎公演」として、萬之助改め二代目吉右衛門襲名披露興行が行われました。したがって、ここに取り上げる映像は、襲名翌月の吉右衛門成り立ての舞台ということです。

国立劇場初登場の幸四郎の松王はさすが 気合いが入って、登場する前のカゲでの「待てえ」と叫ぶところから、もう大歌舞伎と云う感じがします。幸四郎の台詞の良さは言うまでもないことですが、映像を見て改めて感じ ることは、舞台に登場した時の押し出しがまことに大きいのです。顔が大きくて、身体との比率が江戸の錦絵から飛び出て来たような、抜群の安定感を見せています。同じことは 先月に引き続き出演の梅幸の桜丸についても言えます。松王と桜丸に関しては、文句なくベストの出来だと云えます。

吉右衛門の梅王については、当時武智鉄二が批評で「吉右衛門の腰が浮いている」と随分厳しいことを書きました。(昭和42年「伝統演劇の発想」より)吉之助は武智の批評を随分昔に読みました。それでどんなものかと思って吉右衛門の梅王を見ましたが、吉之助の目にはなかなか良く頑張っているじゃないかと見えました。武智師匠はちょっと厳しすぎますねえ。台詞は力が入 って若干の硬さはあるけれども、声もよく張れています。動きもそう悪いように思えません。腰も思い切り落としているし、形を決めようという意識をしっかり持っています。この時、吉右衛門22歳。ここから現在の吉右衛門へ向かって線を引いてみると、吉右衛門が辿ってきた芸の道程がありありと浮かんで来て、とても興味深く思いました。

ただこの頃の吉右衛門は 身体がひょろりと細長くて、顔が小さく見えて重心が高い。横に立っているベテランの幸四郎・梅幸とは身体の比率が全然異なるので、比べると貧相に見えるということがあります。吉右衛門が腰を思い切り落としたつもりでも、横にいる先輩と比べてしまうと決めた形の安定感が欠けて見えます。そこを武智師匠に突かれたわけですが、この点は致し方ないところかなと思います。身体の横幅が付いた現在の吉右衛門ならばこんな風に見えることはないわけですが、特に「車引」のような様式美の舞台であると、これは一人の役者だけの問題ではなく、時平も含めた全員が作り出す様式バランスの問題ということになるでしょう。ベテラン若手混在というのは歌舞伎の舞台ではよくあることですが、配役というのはなかなか難しい問題をはらんでいますね。

菅原伝授手習鑑 (歌舞伎オン・ステージ)

(H30・6・20)


○昭和43年4月国立劇場:「義経千本桜〜川連法眼館」

澤瀉屋宙乗事始(おもだかやちゅうのりのはじまり)

三代目市川猿之助(二代目市川猿翁)(源九郎狐・佐藤忠信二役)、六代目沢村田之助(静御前)、四代目尾上菊次郎(源義経)他


本稿で取り上げるのは、昭和43年(1968)4月国立劇場での「義経千本桜〜川連法眼館」の映像です。これは、その後の歌舞伎を牽引した猿之助歌舞伎の呼び物となった「宙乗り」が、劇場で初めて試みられたエポック・メイキングな 上演でした。この時、猿之助は28歳。昭和38年5月歌舞伎座で三代目猿之助を襲名し、大派閥に属さずに独自の活動を続けていました。 猿之助が狐忠信を演じるのは、この時が4度目のことになりますが、それまでは宙乗りではありませんでした。

戦後の歌舞伎での宙乗りは、昭和42年9月国立劇場での、十七代目勘三郎の「骨寄せの岩藤」の花の山の宙乗りが、初めてのことでした。しかし、これは舞台の上を通過するだけの宙乗りでした。もうひとつ、昭和43年大阪新歌舞伎座での、三代目延若の「石川五右衛門」の葛籠(つづら)抜けの宙乗りは花道上でしたが、最後は揚幕近くの花道に着地するものであったそうです。現在行われているような、花道のはるか上空を通過して三階客席に設置した仮揚幕へ消えるという大規模な宙乗りが試みられたのは、平成43年4月国立劇場での、三代目猿之助の「四の切」が最初のことになります。

記録によれば幕末の名優・四代目小団次の「四の切」の狐忠信は宙乗りにて見物席へ入ったそうです。 見物の目を楽しませるアクロバティックな工夫がいろいろ凝らされたようです。また明治期にも、小団次の実子である初代斎入によって狐忠信の宙乗りが行われたことがありました。しかし、そのような演技はケレン(外連、つまり芸の本道ではないと云うこと)であると嫌われて、九代目団十郎・五代目菊五郎らによる歌舞伎の近代化 ・高尚化の過程で排除されて、やがて忘れられてしまいました。

その後の歌舞伎の「四の切」のスタンダードとなったのは、五代目菊五郎によって整理され、六代目菊五郎によって洗い上げられた音羽屋型の狐忠信です。これはケレンの要素を最小限に抑えて、狐の情愛の描写に重点を置いた型と云えます。音羽屋型では幕切れは、上手の立木にワリゼリでセリ上がり、引っ張りの見得で幕となります。

昭和41年11月に開場して間もなかった国立劇場は、この時期、歌舞伎座で行われる既成の歌舞伎とはひと味違う独自色を出そうと頑張っていました。通し狂言や復活狂言は国立劇場の大きな柱ですが、忘れられてしまった型や演出を復活させることも 、国立劇場の大事な仕事でした。当月の筋書のなかで、演出を担当した戸部銀作は、

『四代目小団次は実力の大名優だが、彼の型は明治の団菊にさえぎられて今日ほとんど生きていない。江戸庶民の名優小団次の価値を再認識させるのが、歌舞伎世直しのための猿之助の仕事である。』(昭和43年 4月国立劇場筋書)

と書いています。結果的に、戸部のこの文章がケレン復活に向けての、猿之助歌舞伎の方向性を決定付けることになりました。戸部は、音羽屋型の「四の切」ばかりになってしまった状況に敢えて一石を投じようと意図したのです。もうひとつ、若い猿之助(当時28歳)が狐忠信を演じるならば、情感描写に重きを置いた音羽屋型よりも、むしろ身体を張ったケレン味の強い演出の方が面白くなるという目算もあったようです。

ところで当時の「四の切」の「演劇界」劇評(山口廣一)をチェックすると、宙乗りに関してはほとんど無視のようです。或る大幹部からは「この歳になって猿の犬掻きを見た」という嫌味が出たそうです。業界筋からは、大方そんな感じの冷ややかな反応が多かった と思われます。このような反応は、明治の団菊以降に歌舞伎が辿って来た高尚志向の流れから理解できます。大体「四の切」は、ケレンばかりで内容が乏しい幕だというのが、この時代の見方で した。その立場からすればケレンは所詮小手先芸であって、まともに取り上げるものではなかったのです。

しかし、観客は若き猿之助が身体を張った宙乗りを大歓迎しました。吉之助が初めて猿之助の「四の切」を見たのは、この約10年後くらいのことになりますが、猿之助の汗が飛んで来るかと思うような三階席で宙乗りを見た時には、ホントに感激しました。観客の興奮は、昭和43年当時ならば、なおさらのことだったと思います。もちろんこの時の「四の切」の意義が宙乗りばかりにあったのではないですが、宙乗りはその後の猿之助歌舞伎の旗印になって行きます。猿之助歌舞伎と云えば宙乗りがないと収まらないほどになって行くのです。

*「四の切」演出については、猿之助の筆による詳細な記述があるので、興味がお有りの方は「演者の目」(朝日新聞社)をご覧ください。

狐忠信が三代目猿之助の最大の当たり役であることは疑いないですが、その後に何度も猿之助の狐忠信を見て来た吉之助が改めて見直しても、この時(昭和43年4月国立劇場)の猿之助はニンがぴったりと云うか、とても当時若干28歳とは思えない完成度を見せています。動きが自信に溢れている と見えるのは、当たり役と云うのはやっぱりそういうものなのでしょう。当たり役というのは苦手だったのを努力してやっとモノにするという性質のものではなく、当たり役は、最初から当たり役なのですねえ。ケレンが前面に出過ぎることもなく、狐の情感が素直に出せているのは、若さとひたむきさの勝利だと思います。(その後に吉之助が見た猿之助の「四の切」には、ケレンが鼻に付いた 舞台もなくはありませんでした。長く演じた役は、演じる間には、やっぱりそれなりの紆余曲折があるものです。 吉之助が最後に見た平成12年の猿之助の「四の切」については、別稿「四の切」の程の良さ」をご参照ください。)

猿之助の「四の切」はその後上演を繰り返すなかで更に練り上げられて行きますが、この時の「四の切」で段取りとして大筋のところは出来上がっていたと云うところも映像で確認できました。

(H30・6・8)


○昭和44年6月国立劇場:「妹背山婦女庭訓」〜「道行恋苧環」

歌右衛門国立劇場初登場のお三輪

三代目市川左団次(鳥帽子折求女)、七代目中村芝翫(橘姫)、六代目中村歌右衛門(杉酒屋娘お三輪


国立劇場の開場は昭和41年11月のことでしたが、開場2年半過ぎてもなかなか登場しない大物役者がいました。それが六代目歌右衛門です。本来ならば真っ先にお呼びが掛っておかしくないのにと思いますが、理由は良く分かりませんけど、巡り合わせが悪かったのかな。自分が出るのに相応しい演目とタイミングを図っていたのだろうとも云われています。父親の五代目歌右衛門も帝国劇場(明治44年3月開場)が出来てから五年半くらい出なかったそうです。舞台裏の政治力学にはあんまり興味ないのですが、いろいろ面倒なことがあるようですねえ。かくして「満を持して」ということで、国立劇場初登場に歌右衛門が選んだのが、妹背山のお三輪であったわけです。

この映像(昭和44年6月国立劇場)の、左団次・芝翫・歌右衛門という顔合わせは何とも豪華です。残念ながら、吉之助は三代目左団次の舞台を生では見ることが出来ませんでしたが、この舞台が左団次の最後の出演でした。(三代目左団次は昭和44年10月に没) 左団次の求女が持つ透明で香しい気品ある芸は、まったく年齢を経なければ出せないものに違いありません。折口信夫は「源氏物語における男女両主人公」(昭和26年9月)のなかで、「色好みというのはいけないことだと近代の人は考えるけれど、昔の人は、人間の一番立派な美しい徳は色好みである、少なくとも当代第一、当時の世の中でどんなことをしても人から認められる位置にある人だけは、どんな女性も選ぶことが許されると考えていた」ということを云っています。もちろん折口は光源氏のことを云っていますが、このことは求女(実は藤原淡海)にも当てはまります。左団次の求女は、そのことを説明がなくても納得させます。吉之助が生で見た舞台での求女はどこか女っぽくナヨナヨとして変性男子に見えることが多かったですが、この左団次の求女はしっかり男であって、しかも柔らかさと品位が失われていない。まことに貴重な映像であります。

芝翫の橘姫・歌右衛門のお三輪と云う、姫と村娘の対照も実に面白いものです。さすが六代目菊五郎に仕込まれたということで芝翫はかつきりと踊る楷書の踊り、対する歌右衛門は草書の踊りで 、しなやかと云うよりも実に入念に・くどいほど入念に身体を内輪に使ってお三輪の想いを振りで描いていきます。そこで描き出されるものは、二人の女性の恋心ということはもちろんです が、決してそれだけではない。彼女たちが奉じている「夫たるべき男(恋する相手は自分と結婚するものだと彼女たちは信じているのであるから)に妻たるべき私はどのように尽くすべきか、どのように振舞うべきか」という婦女庭訓(女の道徳律)はそれほどに重いものだということです。そこに姫と町娘の区別などないのです。

「主ある人をば大胆な、断りなしに惚れるとは、どんな本にもありやせまい。女庭訓躾け方、よふ見やしやんせ、エヽ嗜みなされ女中様」「イヤそもじとてたらちねの、許せし仲でもないからは、恋は仕勝よ我が殿御」「イヽヤわたしが」「イヤわしが」

これらの台詞は床で語られ、役者が云うものではありませんが、言葉なしでも、芝翫と歌右衛門の身体の遣い方、身体のどの部分も内輪に内輪にと、しっかり制御された動き から、彼女たちを律する婦女庭訓の重さがひしひしと伝わって来ます。彼女たちは求女に恋しているというよりも、婦女庭訓の命じるまま自己実現に向けて突っ走っていると云っても良いほどです。たまたま近くにいた求女といういい男を きっかけにしているだけなのです。こうして橘姫もお三輪も、婦女庭訓に殉じることになります。それにしても、これほどまでに全身を使って濃密に描きこまれた踊りを、近頃の舞台では滅多に見ない気がしますねえ。一瞬たりとも画面から目が離せません。

(追記)同じ月の「妹背山婦女庭訓・御殿」についてはこちらをご覧ください。

妹背山婦女庭訓 (歌舞伎オン・ステージ (2))

(H29・10・20)


○昭和47年1月・国立劇場:「三人吉三廓初買」

二代目松緑の和尚吉三、八代目三津五郎の伝吉のこと

七代目尾上梅幸(お嬢吉三)、二代目尾上松緑(和尚吉三)、十七代目市村羽左衛門(お坊吉三)、八代目坂東三津五郎(土左衛門伝吉)


別稿「梅幸のお嬢吉三」は昭和47年1月国立劇場での「三人吉三廓初買」映像による随想ですが、七代目梅幸に焦点を合わせて書いたので、文章の流れ上割愛せざるを得なかったことを、稿を改めて書くことにします。

まずは二代目松緑の和尚吉三のことです。七代目梅幸のお嬢吉三の揺れる感覚の七五調と比べると、若干の違和感が見られます。それはほんのちょっとの差異なのですが、それが決定的な感触の違いになって来るのです。松緑の台詞は、言葉の粒がどこも揃っていて、だから五の部分は五の長さに、七の部分は七の長さになっています。結果として、台詞の尺が五と七の長さが交互に出て来ることになり、感覚的には黙阿弥の七五の台詞を早い二拍子で処理する感じに聞こえます。つまりこれは吉之助が云うところのダラダラ調の台詞です。ただし、この時代の松緑の台詞は、吉之助が記憶している晩年の松緑よりも台詞の速度が若干早いようです。だから威勢よく気風が良く、江戸っ子の気忙しい感じが出ている 利点があるかも知れませんが、言葉がタラタラ出る感じで台詞の感情があまり描けていないと思います。梅幸のお嬢が飛び切りよかったので、これはちょっと残念な和尚でしたねえ。

思い返せば、昭和50年代後半から歌舞伎の黙阿弥物はテンポが遅いダラダラ調の定型に陥って行く傾向があると吉之助は考えています。現在の平成歌舞伎は、その流れの上にあるのです。吉之助は、晩年の松緑や十七代目勘三郎の七五調はダラダラ調の気味があったと思っており、その舞台を見て帰ってから、六代目菊五郎の「弁天小僧」の録音(昭和7年ビクター録音)などを聴き直して正しい黙阿弥の七五調の様式感覚を確認し直したものでした。同じ六代目学校の生徒でも、六代目の様式を正しく継承した梅幸や十七代目羽左衛門と比べると、松緑や勘三郎は若干自己流に崩したところがあったかなと思っています。今回(昭和47年1月国立劇場)の映像を見ると、そこを改めて確認できた気がします。

昭和初めのことですが、六代目菊五郎が「橘屋の兄貴(十五代目羽左衛門)の黙阿弥の台詞は親父(五代目菊五郎)のものではない、あれじゃあまるで時代世話だ」と云うニュアンスの発言をして、大勢の橘屋贔屓を怒らせて物議を醸したことがあったそうです。発言の背景に親父の芸を継ぐのは俺だという自負心があったことは明らかですが、六代目菊五郎が先代の芸を崩していないというところを踏まえれば、その言いたいところはよく分かるのです。十五代目羽左衛門の七五調は、台詞が緩急に揺れる感覚が少なく、どちらかと云えば表面上の流れ重視です。こちらの方が様式的に則って聴こえる(いくらか音楽的に聴こえる)ようで、それと比べればむしろ六代目菊五郎の方が新劇的にパサパサに聴こえるかも知れません。吉之助は、恐らく松緑や勘三郎の台詞は、十五代目羽左衛門の影響を強く受けており、それがダラダラ調へ訛ったと推測しています。これは、その後の歌舞伎が、黙阿弥の本来のドラマ性から遊離して、様式感覚を意識する方向へ傾斜していく大きな流れを示しています。この流れを踏まえれば、現在の平成歌舞伎の黙阿弥がどうしてあのような状況になるか、その根本原因は明らかなのです。 芝居の感覚がドラマから遊離したところの、写実への意識の欠如ということです。

今回の映像を見て吉之助がショックであったのは、八代目三津五郎の伝吉の台詞もどちらかと云えばダラダラ調に近くなっており、正しく七五に揺れる感覚に感じられなかったことです。三津五郎と云えば、「芸十夜」で武智鉄二と対談して、吉之助に六代目菊五郎崇拝を植え付けた一人なのですが、その三津五郎からこういうダラダラ調の台詞を聴くとは思いませんでした。

「三人吉三」での伝吉は、芝居のなかの因果応報の律の発端を作った人物で、とても重要な位置を占める役です。伝吉は前非を悔いて、その後は隅田川での身投げの死者 を弔ったり信心深く暮らしていました。これで自分は因果の報いを受けないで済むだろうと内心期待ながら生きて来たのです。ところが、これはすべて発端は自分の罪行から発したと思える出来事が次から次へと出て来る。それで錯乱して、もう神も仏もないと怒り狂うのです。だから伝吉は表面的には百両を返してくれないお坊吉三に怒って斬り掛るのですが、実はそれ以上に自分を許してくれない神や仏に対して 、或いは悪事を犯した自分に対して、伝吉はもっともっと怒っているのです。だから伝吉を因果応報の律に絡め取られた人物に過ぎないと考えると、それはちょっと違う でしょう。当時の上演プログラムの「出演者のことば」のなかで、三津五郎は「今のお客さまには、因果だの、祟りだの、たとえそれが芝居の上にせよよく分からないのは世の趨勢でいたしかたない」と語っています。現代人に伝吉が分からなくたって仕方ないとしているようです。恐らく三津五郎は、作者(黙阿弥)への信頼、役(伝吉)への信頼が若干弱いのだろうと思いますねえ。だから黙阿弥の本来のドラマ性から遊離して、これならば現代人にアピールできると彼らが思えるところの様式感覚に逃げ込みたくなるということです。松緑の和尚吉三についても、多分、同じようなことが言えるのだろうと吉之助は考えています。

(H30・2・17)





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