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黙阿弥さんも苦しうござんしたろうねえ〜「黙阿弥オペラ」

平成12年2月紀伊国屋ホール:井上ひさし作「黙阿弥オペラ」

辻萬長(河竹新七)、梅沢昌代(とら・おみつ)、角野卓造(五郎蔵)、松熊信義(円八)、大高洋夫(久次)、溝口舜亮(及川孝之進)、島田歌穂(おせん)、朴勝哲(ピアノを弾く陳青年)

(こまつ座公演、演出・栗山民也)

*タイトルは、「この世は苦しうござんすねえ。お前さんも、さぞ・・・苦しうござんしたろうねえ」という台詞(真山青果:「鼠小僧次郎吉」)から採りました。


1)井上ひさしと黙阿弥

文化13年(1816) 黙阿弥、江戸・日本橋の裕福な商家に生まれる。
天保6年(1835)  芝居町に入り、勝諺蔵(かつげんぞう)を名乗る。
天保14年(1843) 二代目河竹新七を襲名して、立作者となる。
嘉永6年(1853)  5月瀬川如皐の「与話情浮名横櫛」が大ヒット。
             
同年6月ペリー浦賀に来航。

本稿で紹介するのは、平成12年(2000)2月新宿・紀伊国屋ホールで行われた「こまつ座」公演、井上ひさし作・「黙阿弥オペラ」の舞台映像です。「黙阿弥オペラ」は平成7年(1995)1月渋谷シアターコクーンでの初演ですが、実は本来はその前年・平成6年11月に紀伊国屋ホールでの初演で企画されたものでした。ところが作者の執筆遅れで・期限までに台本が完成せず(井上ひさしは遅筆で有名でした)、結局公演は中止。2か月後に会場をシアターコクーンを移して初演されることになったのです。しかし、会場の都合で公演はわずか4日間になってしまいました。本稿で紹介する平成12年(2000)は、本作の3演目になるものです。再び初演メンバーが集結した公演でした。

*平成7年(1995)1月渋谷シアターコクーン初演ポスター

井上ひさしは、「河竹黙阿弥と河竹繁俊(黙阿弥の長女いとの養子)の、ふたりの先達には随分お世話になった」として、こんなことを書いています。

私の脳味噌はこの二人の先達の仕事にたくさんの影響を受けている。明治の改革以後、この国の全土にひろめられた官製の共通日本語は、たしかに機能的であったが、生活者大衆がそれぞれの日常で、笑い合い・慰め合い・そして励まし合うといったような活力を備えていなかった。共通日本語は粗雑すぎ、その音の響きは硬すぎる。特に劇場の観客に言葉を提供するのが仕事の劇作家などは途方に暮れてしまうのだが、しかし特効薬はある。私の場合は「黙阿弥全集」(春陽堂)がその特効薬である。いわば黙阿弥全集は、私にとっての「言葉の病院」のような役割をしてくれているのである。(中略)また河竹繁俊の「歌舞伎作者の研究」(昭和15年)は、ひと頃、私たちのバイブルとなっていた。浅草のストリップ小屋の楽屋の神棚に、なぜだかこの一冊が備えてあって、新入りの文芸員はこれを通読することを義務付けられていた。わたしなどは、第11章の「歌舞伎作者の制度・職掌・生活」にすっかり感動してしまい、「この小屋の給料がどんなに安かろうと、どんなことがあろうと、自分は小屋の裏方として一生を過ごそう」と神棚に向かって誓いを立てたほどであった。」(井上ひさし:河竹登志夫著「作者の家」への解説・岩波現代文庫、なお読みやすいように吉之助が文章をアレンジしました。)

ところで別稿「四代目小団次の清心を想像する」のなかで、黙阿弥の芝居のなかによく登場する余所事浄瑠璃という技法は、黙阿弥の自殺未遂体験から得たものであろうと推測しました。と云っても、どの程度の「未遂」なのかは分かりません。兎に角その時黙阿弥が真剣に死ぬことを考えたことは事実です。ただしこれを言うのは吉之助だけかも知れませんけれど、吉之助にとっては、これは確信に近いことです。黙阿弥の生涯のなかでこの事件は重く見るべきだと思います。(別稿「黙阿弥のトラウマ」を参照ください。)黙阿弥は立作者となった後、鳴かず飛ばずの低迷期が十年ほど続きました。河原崎座座元(河原崎権之助)が安全策で在り物(古典)の上演ばかりして、座付き作者に新作執筆の機会を与えてくれない。内心焦っているところに、後輩でライバルの瀬川如皐が「切られ与三」で大ヒットを飛ばしました。江戸中で「久しぶりだなア・・」という与三郎の名台詞の声色が飛び交う。これが嘉永6年(1853)5月のことでした。その直後から黙阿弥(当時は河竹新七)は、失意のうちに・いっそ身投げしようかと隅田川河畔をウロウロ彷徨ったことが何度となくあったそうです。

吉之助の想像では、それは嘉永6年(1853)の秋頃の、多分月の明るい夜のことでした。浅草芝居町周辺は夜も賑やかです。両国橋から身投げしようとする新七の耳元に、愉しそうな三味線の響き、賑やかな騒ぎ唄、人々の笑い声が聞こえてきます。懊悩しながら隅田川河畔を行ったり来たりする黙阿弥の姿が浮かんできます。芝居街の華やかさ、飲み屋街の賑わい、そういうものが新七を現世の方へ引き戻します。だからいくら死のうとしても新七は死ねなかったのです。このドン詰まり状態から、開き直った「気付き」が心のなかに浮かび上がります。新七の自殺未遂体験が「十六夜清心・百本杭」(安政6年(1859)江戸市村座初演)の清心の「ちょっと待てよ・・」のシーンとなったに違いありません。その後の新七(黙阿弥)には、「鋳掛松」・「直侍」・「筆売幸兵衛」など、幾度となく余所事浄瑠璃が頻出することはご存じの通りです。

そこで井上ひさしの「黙阿弥オペラ」のことですが、第1幕・第1場は嘉永6年(1853)師走2日の夜に設定されています。その夜も、新七は両国橋から身投げしようと・またその辺をウロウロしています。ところがフト傍をみると、暗い表情で川面を見詰めている男(五郎蔵)がもう一人いる。気が付いたら「やめろ、死んじゃいけない」と二人して互いに抱き留め合って、柳橋裏河岸にあるおとら婆さんの蕎麦屋に転げ込むと云うお笑いから、「黙阿弥オペラ」が始まります。こまつ座の芝居らしく、表面は軽妙で観客を笑わせますが、新七の苦悩はシリアスそのものです。この自殺未遂体験がその後の新七(黙阿弥)の創作の原点であることを、井上ひさしは正しく見抜いて芝居を書いていますね。(この稿つづく)

(R5・2・20)


2)小団次と黙阿弥

安政元年(1854)  3月江戸河原崎座・「都鳥廓白浪」初演。小団次との最初の提携作。
安政2年(1855)  10月2日安政の大地震
安政3年(1856)  9月江戸市村座・「蔦紅葉宇都谷峠」初演。
安政5年(1858)  安政の大獄
万延元年(1860)  1月江戸市村座・「三人吉三廓初買」初演。
文久4年(1864)  7月蛤御門の変
慶応2年(1866)  2月江戸守田座・「鋳掛け松」初演。5月8日小団次没。
慶応3年(1867)  12月王政復古の大号令

「黙阿弥オペラ」第1幕・第2場は、前場の翌年・安政元年(1854)師走2日、第3場はその12年後・慶応2年(1866)夏の同じ蕎麦屋内。ここで黙阿弥と四代目小団次との関係が描かれます。第1幕は幕末期の狂言作者・新七を描いて、ここに蕎麦屋に集う人たちの人間模様を絡めています。彼らは器量よしの孤児おせんのために金を持ち寄って株仲間を作り、毎年師走2日この蕎麦屋に集うことを約束します。

新七と小団次のために芝居を書いたのは、安政元年(1854)3月江戸河原崎座での「都鳥廓白浪」(忍ぶの惣太)が最初のことでした。つまり新七が身投げしようと両国橋をうろうろしていた嘉永6年(1853)師走(第1場)から、思いがけなく早く新七にチャンスが廻って来たわけです。そこから約12年に渡る小団次との提携が始まります。安政6年(1859)頃に流行したハイヨ節の替え歌に、新七は「にがほ豊国やくしゃは小団次ハイヨ・とうじさくしゃは、みなさん、川竹、ひいきはたいそたいそ」と囃されるほどの売れっ子狂言作者になりました。

ところが、慶応2年(1866)にお上から新作「鋳掛け松」が上演差し止めを食らって、小団次が憤死同然の死に方をしてしまいます。絶望の淵に突き落とされた新七は、「小団次とわたしは・・」と何度も口走り、あらぬ行動に走りかねません。仲間たちが新七に小団次のことを忘れさせようと懸命に知恵を絞るドタバタが、「黙阿弥オペラ」第1幕第3場の見どころになります。

やっと落着きを取り戻した新七に、「こうなれば安心して聞くが、小団次になぜあれほどの人気があったのか。姿形どこを取っても格別に美しいとは思えんが」と仲間のひとりが尋ねます。この質問に対する新七の答えに、井上ひさしの芝居観も重なって来ますね。

「エイこんなところはもうまっぴら、チャラチャラと小判の音もにぎやかなところで太く短く生きてやれと一気に別世界へ跳ぶ。しかし、いくら高く跳んでみても、その別世界もまた切ないことばかり。つまり、人の世はいたるところが世話場なんです。それが人生の真実ならば、この世の世話場という世話場をありのまま生々しく写し出すしかない。こうして生世話物ができました。(中略)ですから、そういう世話場をありのまま生々しく写すとなれば、美しい役者はかえって不都合。高島屋はウデがある、科白回しのよさは抜群、仕草は自由自在。けれども風采はずんぐりむっくりのぶおとこ。だからこそかえって真に迫っていて、すごみがあった。」(新七の台詞〜井上ひさし:「黙阿弥オペラ」)

ところで吉之助は思うのですが、小団次は注文が煩い役者であったようですから、創作の過程において小団次とのやり取りで新七が悩むことは度々あったに違いありません。しかし、新七がこれらを「苦しい」とか「嫌だ」と感じたことは決してなかったでしょう。むしろ喜びにさえ感じたと思います。もっとも、新七が幕末期の混乱期(安政元年から慶応3年頃)を、狂言作者としてと云うよりも・一生活者として「幸せ」だと感じていたかどうかは、これはよくよく考えてみなければならぬことです。このことは「黙阿弥オペラ」ではさりげなく流して、触れていません。それは本作の眼目が明治維新以後の新七を描くことにあるのだから仕方ないのですが、探せば井上ひさしの考えが垣間見えるところはあります。それはつまり、

「いくら高く跳んでみても、その別世界もまた切ないことばかり。つまり、人の世はいたるところが世話場なんです。」

という台詞です。小団次と新七は、そのような苦しく切ない世界に生きる人々の喜怒哀楽を世話物に仕立てたと云うことです。つまりそこから見えることは、明治維新以後の新七が大変だった・苦しかったと云うことが「黙阿弥オペラ」第2幕に描かれることなのだけど、幕末期のこの時代の新七も、負けず劣らず大変だった・苦しかったと云うことでもあると思います。このことはこの時期の新七の芝居を見れば随所に現れていることです(前述の余所事浄瑠璃の件もそうです)が、江戸期の狂言作者にとって、作劇に関するお上による規制・口出しが余りにも多かったのです。一例を挙げておきます。

慶応2年(1866)3月に「鋳掛け松」が問題視され、猿若町の芝居関係者が呼び出され、「近年世話狂言、人情を穿(うが)ち過ぎ、風俗にも関わるゆえ、以来は万事濃くなく、色気なども薄く、なるたけ人情に通ぜざるように致すべし」とのお達しを受けました。ちょうど病気欠勤していた小団次に新七がこの事を伝えました。新七が「仕方がないから、これからは何か時代物でも書きましょう」と言うと、小団次は身体をぶるぶると震わせてこう言ったといいます。

『それじゃあこの小団次を殺してしまうようなものだ。もっと人情を細かに演てみせろ、もっと本当のように仕組めといってこそ芝居が勧善懲悪にもなるんじゃ有りませんか。見物が身につまされないような事をして芝居が何の役に立ちます。私は病気は助かっても舞台の方は死んだようなものだ。御趣意も何もあったもんじゃねえ、あんまり分からねえ話だ』(河竹繁俊:「河竹黙阿弥」)

小団次はお達しを聞いてガックリとしてしまい、その翌日から面相がみるみる悪くなっていき、病気が重くなって小団次はそのまま亡くなってしまいました。黙阿弥は痛恨の気持ちを込めて、日記に「全く病根は右の申し渡しなり」と書いています。

慶応3年(1867)12月に王政復古の大号令が出されました。これですぐさま江戸町人の生活が変わったわけではありません。彼らが「徳川将軍の世でなくなった」ことを実感するにはまだしばらくの日々が必要だったでしょうが、この時に新七は、「これでお上のご意向に気を遣うことなく・思いっきり芝居が書ける、(間に合わなかったけれど)小団次が思いっきり生世話の芝居が出来る時代がやってくる」と心底思ったと思います。狂言作者がこのことでどれほど苦労してきたか計り知れないものがあるのです。

しかし、明治の世になって新七が思い知ったことは、狂言作者にとって徳川将軍の世も苦しくて・生き難かったけれども、明治の世も、同じくらいか・もしかしたらそれ以上に、苦しくて・生き難かったと云うことです。それが「黙阿弥オペラ」第2幕に描かれることです。(この稿つづく)

(R5・2・24)


3)「漂流奇譚西洋劇」のこと。

明治元年(1868)  7月江戸城開城。江戸を東京に改める。
明治6年(1874)   5月東京中村座で「梅雨小袖昔八丈」(髪結新三)初演。
明治11年(1878)  6月7日東京新富座開場。
                              この日の式典で、黙阿弥は最初で最後の燕尾服を着る。
                 この前後から旧弊の象徴として黙阿弥への批判が高まる。
明治12年(1879)  9月東京新富座にて「漂流奇譚西洋劇」初演。
              ただし不評にて3週間余で上演打ち切りとなる。

「黙阿弥オペラ」第1幕・第2場は、明治12年(1879)7月8日の、同じ蕎麦屋内。維新後の世の中はすっかり変わってしまって、幕末には呑まず食わずの生活だった五郎蔵ら仲間たちは、銀行家に成りあがって、すっかり羽振りが良くなっています。新七は、相変わらず江戸の市井を描いた芝居を書いています。時流に乗っている彼らは、頑固に自分の演劇観を変えようとせず・旧弊の象徴として批判を浴び続けている新七のことを心配して、新七に「転向」を勧めます。彼らがその筋から得た情報によれば、「演劇改良運動」の先頭に立つ新富座座元・十二代目守田勘弥が、9月興行のために新七に「新作オペラ狂言」を依頼することを考えていると云うのです。この計画には新政府のお歴々が背後にいる。新七が新作オペラ狂言を書かなければ、これからの新作は演劇改良運動の学者先生が書き、狂言作者連中は助手に格下げになる、そう云う動きが進んでいると云うのです。「江戸の言葉が西洋の節(ふし)に乗るとは思えない」と抗弁する新七に、今は美しく成長し・西洋で音楽を学んできたおせんが「新七おじさんのセリフはオペラに乗ります」と言って、「三人吉三」の台詞をビゼーの歌劇「カルメン」の「ハバネラ」の旋律に乗せて唄い始めます。これを聞いて仰天する新七。この場面が「黙阿弥オペラ」の一番の見どころです。

井上ひさしは、お嬢吉三の有名な「月も朧に白魚の・・」の七五調のツラネが「ハバネラ」の旋律にぴったり嵌まると思ったことがきっかけで、「黙阿弥オペラ」の執筆を始めたそうです。ここは言葉で説明しても面白さが伝わりませんから、Youtubeの映像を借用しますので、この面白さをご堪能ください。なおビゼーの歌劇「カルメン」は1875年3月パリ・オペラコミック座での初演で、芝居の明治12年(1879)時点からすると、まさに当時最新のヒット作でした。

*平成12年2月紀伊国屋ホール:「黙阿弥オペラ」
辻萬長(河竹新七)、島田歌穂(おせん)

ところで「黙阿弥オペラ」では、結局、新七はオペラを書かなかったと云うことになっています。守田勘弥がどの程度のことまで考えたかは分かりません(新七に「新作オペラ狂言」を依頼するというのは多分井上ひさしの創作です)が、史実を見ると、新七(後の黙阿弥)は、新作オペラ狂言は確かに書かなかったけれど、オペラが劇中劇で登場する新作狂言を書いてはいるのです。それは、明治12年(1879)9月・東京新富座で初演された「漂流奇譚西洋劇」(ひょうりゅうきだんせいようかぶき)という芝居です。出演は、九代目団十郎(清水の三保蔵)、三代目仲蔵(五左衛門)ほか。台本は残っていませんが、当時の新聞などで筋が分かるそうです。

本件については、河竹登志夫先生の論文「「漂流奇譚西洋劇」考〜歌舞伎近代史の転換点」(日本演劇学会紀要・37巻・平成11年・1999)に詳しく述べられています。以下これを参照しながら要点を記します。

「漂流奇譚西洋劇」は漁師五左衛門一行の船が難破し・すんでのところを米国船に救われて、それから欧州へ渡ったりして様々な苦労の末に帰国するまでを描いたものですが、まあ詳しい筋は本稿では置くとして、この第4幕に「仏国都府パリス劇場の場」があって・その劇中劇に、当時横浜のゲーテ座に来日巡業していた外国人俳優一行を呼んで芝居を披露してもらったと云うことであったようです。なお俳優は、欧州でも一流劇場で通用するレベルの・質の高い人たちでした。

*「漂流奇譚西洋劇」・仏国都府パリス劇場表掛りの場・当時の浮世絵。(なおパリ・オペラ座(ガルニエ宮)は1875年1月15日の竣工ですから、当時はまだ出来たばかりでした。)

演目は4種用意されたようです。6週間の予定が大不評で興業が3週間で打ち切りになったために全部の演目は上演されなかったのですが、例えばオッフェンバックの喜歌劇(オペレッタ)「ジェルロスタン女大公殿下」、ドニゼッティの歌劇(オペラ・コミック)「連隊の娘」など、現在もクラシック音楽ファンによく知られる作品が選ばれており、良心的な選択がなされているようです。劇中劇ですから、そのなかの名場面を選んで歌ったものでしょう。

「漂流奇譚西洋劇」は、黙阿弥が書いて・日本の役者が演じた部分はそれなりに好評であったそうです。ところが外国人俳優によるパリオペラ座の劇中劇の場面が甚だしく不評だったのです。日本文学研究家で当時・東京帝国大学文学部教授として日本滞在中であったバジル・ホール・チェンバレンは、

「日本の観客に与えた驚きは大変なものであった。彼らが一度ショックから立ち直ったとき、プリマドンナの歌う甲高い声を聞いて、ワッと爆笑した。彼女は実際は決して下手ではなかったのだ。人々は腹の皮がよじれ、涙が頬を伝って落ちるまで、ヨーロッパ人の歌い方の馬鹿々々しさを笑った」

と記しているそうです。日本人側の感想では、「洋犬の吠えるに似たり」とか、「鶏の蹴り合いを見るようだ」とか、「絞め殺されるような声だ」とかの罵倒が並んでいるそうです。これはまあ当時でも横浜のゲーテ座の観客には受け入れられているわけですから、一概に言い難いところはありますが、日常は三味線・小唄の生活をしていて普段は歌舞伎芝居しか見ない人々にとっては、初めての西洋音楽はかなりのショックだったであろうことは容易に想像が出来ます。

話を「黙阿弥オペラ」の方へ戻します。おせんの歌にショックを受けつつも、新七は「ご見物衆の力がすべてを裁く、その力がなければ、一言半句たりとも書けやしません」ときっぱり言い切ります。ここが作者・井上ひさしの言いたいことであるので、新七の言い分をちょっと聞いてやってください。

「年に一度の芝居見物のために、あとの364日、ダンジャコの振りかけだけでおまんまを食べて木戸銭を貯める方がいる。(中略)そういう御見物衆が身銭を切って観てくださるから、どこの芝居小屋の桟敷にも大きな力が宿るんです。(中略)その力がすべてを裁くんです。作者を、役者を、座元を、そしてひょっとしたらご見物衆そのものもね。(中略)当世の人たちはお金をもうけるためには頭を使っている。しかし、西洋にどうして銀行というものができたのか、それを考えるためには、それこそ一匁(もんめ)の脳みそも使っていない。(中略)お金のやりとりをうまくやる仕組みがどうしても必要だという、世間という名の大桟敷の思いをがっしり受け止めて、その思いを拠り所に、それこそ脳味噌がなくなるまで考えてやっと仕出かしたものが西洋の銀行なんじゃありませんか。それをこっち(日本人)は一匁の脳味噌も使おうとせずに、できあがった形だけを取り込む。それじゃまるで声色屋ですよ。(中略)西洋の声色を使うことにかけては新政府のお歴々の方が二枚も三枚も上手です。(中略)新政府のお歴々には、日本という大桟敷を、その大桟敷にいる御見物衆を拠り所にする力がない。そこで拠り所を大桟敷以外のところに求める。それが西洋なのか?(中略)芝居小屋の狂言作者部屋からはそう見えるということですよ。」(新七の台詞〜井上ひさし:「黙阿弥オペラ」

これは新七の文明開化批判であると同時に、すっかり西洋化してしまった現代日本への井上ひさしからの皮肉も多少混じってはいるのでしょうねえ。まあそれは兎も角、新七が西洋から文化知識を取り入れること自体をダメだとしているのではないのです。新七がここで疑問とするのは、新富座で「新作オペラ狂言」をやるとして、江戸の御見物衆が西洋のオペラなるものをわざわざ身銭を切ってまで「見たい」と思う土壌が今そこにあるのか、そのような土壌を培っていくためには十分な思索と試行錯誤の歳月が必要なのではないかということです。おせんは新七の言を聞いて強いショックを受けて、「・・じゃ、オペラはまだ早い?」と新七に聞きます。新七の答えは、こうでした。

「早い遅いより、オペラを上演する際の新富座に、いい唄が聞けたら死んでもいい、すてきな話を観ることができたらなにもいらないという御見物衆の熱い思いが、つまりおせんちゃんの拠り所になるような力がこもっているかどうかでしょう。それがないならば、滑稽な茶番になるしかないでしょうなあ。西洋のオペラ小屋には、そういう見物衆の力が宿っているでしょうがね。」(新七の台詞〜井上ひさし:「黙阿弥オペラ」)

「黙阿弥オペラ」では史実である明治12年(1879)9月・新富座での「漂流奇譚西洋劇」のことは触れていませんが、劇中劇のオペラの場面は、新七のこの予言通りに、まさに滑稽な茶番になってしまったわけです。(もちろん井上ひさしが史実を踏まえて芝居を書いたわけです。)興行は当初6週間の予定でしたが・3週間で打ち切られ、この失敗で座元の守田勘弥が被った負債は二万円を超えたそうです。勘弥の西洋熱はこれですっかり冷めてしまいました。しかし、九代目団十郎や福地桜痴を中心に推し進められる「演劇改良運動」の流れは明治20年(1887)頃までまだまだ続きます。つまり旧弊の象徴としての新七への批判もまだまだ続くということです。(この稿つづく)

(R5・2・25)


4)日本人の西洋音楽体験

「漂流奇譚西洋劇」が大失敗に終わったことは、歌舞伎史のなかでどのように位置付けられているでしょうか。文明開化の熱狂の嵐のなかで咲いた仇花として、取るに足らない際物(きわもの)だと今では忘れ去られてしまった感がありますが、まあこういう試行錯誤や失敗もやってきた果てに、明治30年(1897)前後から始まる九代目団十郎の歌舞伎の古典化と云うものがあると考えねばなりません。これは一度は経験して見なければならなかった挫折なのです。

むしろ吉之助は、「漂流奇譚西洋劇」のことを、日本人の西洋音楽体験の最初期のエピソードとして興味深いものだと思いますねえ。初めてオペラのプリマドンナが歌うのを聴いて江戸っ子たちが「腹の皮がよじれ、涙が頬を伝って落ちるまで笑った」と云うのは、まことに興味深い。そう云うところから日本人の西洋音楽受容が始まったと云うことです。そもそも歌舞伎では女役は野郎が勤めますから、江戸っ子たちには女性が舞台に上がって・声を振り絞るのを見たことのない人が多かったでしょう。「鶏が絞め殺されるような声だ」という罵倒は、多分そんなところから出ます。(注:遊女歌舞伎の禁止以来、江戸期には女性が舞台に立つことはなく、これが解禁されたのは、明治5年(1872)京都の都踊りで祇園の芸妓が踊ったのが最初のことでした。)

もうひとつ興味深い史実は、外国人俳優一行が選んだ演目に、オッフェンバックの喜歌劇(オペレッタ)「ジェルロスタン女大公殿下」が入っていることです。これは浅草オペラで「ブン大将」と云う邦題で、東京っ子に大いに親しまれた曲でした。浅草オペラとは、関東大震災前の大正年間(大正5年・1916から震災のあった大正12年・1923まで)に、東京浅草六区でオペラやオペレッタを上演して、一大ブームを引き起こしたものです。日本における西洋音楽の大衆化に大きな役割を果たしたとされています。

「漂流奇譚西洋劇」(明治12年・1879)から見ると、浅草オペラまでに約40年が経過したことになります。40年経って西洋音楽が大衆にどうにか・ここまで受け入れられるようになったのです。やはり物事が成るまでには、やはりそれくらいの歳月が掛かるものなのです。さらに浅草オペラから約40年が経過すると、昭和35年(1960)前後になると云うことですから、そうなるともう吉之助の時代になるわけです。(注:第一次NHKイタリア歌劇団公演が昭和31年(1956)のことでした。)オペラファンの吉之助としては、このような過程(プロセス)で日本の洋楽普及が成ってきたんだなあと先達の苦労が思われて、何だか感極まるものがありますねえ。

浅草オペラで大人気であった「ブン大将」をYoutubeの音源でお聞きください。日本語の歌詞で・どことなく七五調に近いような、浅草六区の寄席のお囃子が聞こえて来そうな調子です。軽妙さ、親しみやすさとでも言いましょうか。こうして西洋音楽が日本の大衆に次第に浸透していきます。


*オッフェンバック:「ブン大将」より。徳山l(とくやまたまき)唄。

ここで新七がおせんに、「(オペラをやるのが)早い遅いより、オペラを上演する際の新富座に、いい唄が聞けたら死んでもいい、すてきな話を観ることができたらなにもいらないという御見物衆の熱い思いが、つまりおせんちゃんの拠り所になるような力がこもっているかどうかでしょう。」と言った意味がここで分かります。浅草オペラには御見物衆の熱い思いがありました。そうなるまでに約40年の歳月が必要だったわけです。

「黙阿弥オペラ」第2幕第3場は、第2場から2年経過した、明治14年(1881)師走2日に設定されています。この場にはおせんは登場しませんが、新七の口から、おせんが新政府の役人に掛け合って・日本の音楽教育の必要性を説き、それが認められておせんは只今音楽教育法を学ぶためにアメリカ留学中であることが語られます。

「わたしがいけなかったのかも知れない。おせんちゃんの心にアメリカ行きの種子(たね)を蒔いたのは、このわたしではないか。」

新七は、ちょっと寂しそうに語ります。しかし、おせんが教育によって日本に西洋音楽を定着させようとしていることを新七が否定しているのではありません。その約40年後に浅草オペラがあるのです。浅草六区で作家修業をした井上ひさしは、もちろんそれが分かって書いているわけです。(この稿つづく)

(R5・2・26)


5)「黙阿弥さんも苦しうござんしたろうねえ」

明治12年(1879)   9月東京新富座にて「漂流奇譚西洋劇」初演。
明治14年(1881)   3月東京新富座にて「天衣紛上野初花」初演。     
               11月東京新富座「島鵆月白浪」で新七は黙阿弥を号し引退を決める。
               ただし黙阿弥の作劇はその後も続く。
明治16年(1883)   11月鹿鳴館開場。欧化熱さらに高まる。
明治19年(1886)   3月東京千歳座にて「盲長屋梅加賀鳶」初演。
               8月「演劇改良協会」発足。黙阿弥への風当たりが一層強くなる。
明治20年(1887)   4月26日、麻布井上伯爵邸で天覧歌舞伎。
               ただし黙阿弥はこれに参加せず。
明治22年(1889)   2月大日本帝国帝国憲法発布。
明治26年(1893)   1月3日本所二葉町の自宅にて黙阿弥死去。

「黙阿弥オペラ」第2幕第3場は、第2場から2年経過した、明治14年(1881)師走2日に設定されています。この時新七は66歳、3月の「天衣紛上野初花」(河内山と直侍)が大評判となりましたが、新七は11月初演の「島鵆月白浪」(しまちどりつきのしらなみ)を以て「黙阿弥」を号して引退してしまいました。歌舞伎新報と観客団体の六二連からは、それぞれ新七に引幕が贈られたほどでしたから、これは狂言作者にとって果報なことでした。しかし、「黙阿弥オペラ」では「島鵆」のことは触れずに、観客の誰もがご存じの「河内山と直侍」の話題の方で芝居が進みますが、これは妥当な処置でしょうね。新七は河内山と直侍」について、こんなことを言います。

「(「河内山と直侍」を書くについては)お上の十八番(おはこ)の、「開けた芝居を書け。上流の方々の鑑賞にたえる芝居を書け」というお言いつけに、生まれて初めて、真向から逆らいました。はっきり言えば、わたしはわたしのやり方でやろうと居直った。下種(げす)な言い方をすれば演劇改良などクソくらえと尻(けつ)を捲(まく)った。そうして、桟敷の御見物の力を信じ、それだけを拠り所に書きました。(中略)ご見物衆にあれだけよろこんでいただければ、もうなにも思う残すことはない、このへんでお上のお小言とは、きっぱり縁を切らせていただこう。そう思い立って、このたび、黙阿弥と号して隠退を決めましたが・・・。」(新七の台詞〜井上ひさし:「黙阿弥オペラ」)

「黙阿弥オペラ」第2幕第3場では、前場で銀行業で羽振りがよかった五郎蔵ほか株仲間たちが、倒産して零落してしまいました。外で孤児の赤ちゃんの泣き声がして、「また振り出しに戻っちゃったなあ。この子を育てるためにまた株仲間を作ろか」と言ってみんなで笑うところで芝居は幕となります。

と云うわけで「黙阿弥オペラ」は明治14年(1881)でお芝居が終わりますが、史実では、引退したと云っても興行がこれほどの狂言作者を放っておくはずがないことで、黙阿弥はその後も作劇を続けて名作を生み出して行きます。一方、演劇改良運動も「漂流奇譚西洋劇」の大失敗で萎えちゃったわけではなく、旧弊の象徴としての黙阿弥批判は、明治20年を過ぎても続きます。黙阿弥にとって、まだまだ苦しい時代は続くのです。こうやって黙阿弥の生涯を追っていくと、狂言作者黙阿弥にとって、徳川将軍の世も苦しくて・生き難かったけれども、その後の、明治の文明開化の世の中も、同じくらいか・もしかしたらそれ以上に、苦しくて・生き難かったと云うことです。兎角この世はままならぬことばかりだけれど、それにしても「黙阿弥さんもさぞ苦しうござんしたろうねえ」とつくづく思うわけです。

井上ひさしは新七に「「開けた芝居を書け。上流の方々の鑑賞にたえる芝居を書け」という言いつけに真向から逆らい、演劇改良などクソくらえと、桟敷の御見物の力を信じて、それだけを拠り所に「河内山と直侍」を書きました」と言わせています。そこに井上ひさしの信条が重なっています。それは新七が「開化を拒否して・過去に凝り固まった」ということではありません。桟敷の御見物衆(庶民)の気持ちに寄り添い、そこから喜怒哀楽のドラマを救い取る、それが生世話なんだと云うことです。次いでに云えば、ビジネスだって顧客と云う、政治だって国民と云う、大桟敷の気持ちを拠り所にしなくてどうするんだ・・という皮肉もちょっと利かせてあるわけですがね。

ところでこまつ座の役者さんは芸達者で愉しませてくれましたけれども、もしこの「黙阿弥オペラ」を歌舞伎役者が演れば、また別種の真実味(リアリティ)を付け加えることも出来るかと思います。黙阿弥さんのために、この芝居を歌舞伎座でやってみたいと云う役者さんが出て来ないものですかねえ。きっと面白いものが出来ると思いますよ。

「黙阿弥オペラ」の台詞は、「井上ひさし全芝居・その六」(新潮社)からの引用です。

(R5・3・1)


〇「黙阿弥オペラ」・余談

別稿「黙阿弥オペラ」観劇随想に於いて、明治12年(1879)9月・東京新富座で初演された「漂流奇譚西洋劇」(ひょうりゅうきだんせいようかぶき)のことに触れました。歌舞伎に劇中劇として西洋劇ならぬオペラを挿入する奇天烈な発想が黙阿弥(当時は河竹新七)のものだとは到底思えません。多分これは福地桜痴か演劇改良運動の誰かの差し金でしょうねえ。黙阿弥は桜痴に勧められて同年2月新富座初演の散切物「人間万事金世中」を書いてもいます。これは英国の劇作家リットンの喜劇「金(マネー)」を翻案したもので、関係資料を提供したのが桜痴でした。黙阿弥の翻案はさすがに上手いものだと感心します。しかし、これもよく考えてみれば、黙阿弥が喜んでやった仕事とは思えません。

河竹登志夫先生は、論文「「漂流奇譚西洋劇」考〜歌舞伎近代史の転換点」(日本演劇学会紀要・37巻・平成11年・1999)のなかで、もし「漂流奇譚」が成功を納めていたとすれば、更にこんな翻案物が出来ただろうと推測していらっしゃいます。それはシェークスピアの「ハムレット」の翻案物です。九代目団十郎が桜痴から「ハムレット」の筋を聞いて・是非やりたいとその気になったが、桜痴にそれをする時間がないので、話が黙阿弥に回ったそうです。黙阿弥はセリフも入ったかなり詳しい筋書的なメモを残しており、ハムレットは里見義豊と役名も決めていたようです。しかし、「漂流奇譚」が大コケして新富座座元・守田勘弥の西洋熱が冷めてしまったため、「ハムレット」の翻案物の企画が音沙汰なしになってしまったようなのです。

調べてみると、文明開化の明治のこの時期には、歌舞伎でこんなことをやったのかと驚くようなことが、実際いろんな場面で行われています。例えば、これは黙阿弥の死後のことなので・「黙阿弥オペラ」からは離れますが、明治29年(1896)1月歌舞伎座・「京鹿子娘道成寺」は九代目団十郎の白拍子花子で、長唄はいつものものでしたが、「恋の手習い」にバイオリンで・「山尽くし」にピアノで、ユニゾンを加えるという和洋合奏のスタイルで大いに話題を集めたそうです。ユニゾンとは、長唄の三味線と同じ音を付けただけで、西洋音楽らしく和声を加えたものではなかったと云うことです。それにしても、これがなかなか好評であったようで、歌舞伎新報の劇評では、

「歌舞伎座の所作道成寺の鳴物中に音楽倶楽部員の西洋楽を加えたり。合いの手の最も細密なる妙所にいたる毎に観客は一斉にこれを賞す。同部員の得意想うべし。音楽倶楽部万歳万歳。」

と書かれています。九代目団十郎がやったということでこれが後世の規範として残らなくて幸いであったと云うのが本音ではあるけれど、ここで我々が知っておかねばならぬことは、九代目団十郎は伊達や酔狂でこう云う実験をしたわけではなく、「真剣」そのものであったということです。このような試行錯誤を散々やってきた果てに、明治30年(1897)前後から始まる九代目団十郎の歌舞伎の古典化の動きがあると理解する必要があります。まあそれにしてもこういう渦中で狂言作者の筆頭として批判の矢面に立たされた黙阿弥は「苦しうござんしたろうねえ」と改めて思うところです。

九代目団十郎の「道成寺」の話は、奥中康人著「和洋折衷音楽史」(春秋社)のなかで詳しく書かれています。

(R5・3・4)



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