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四代目小団次の清心を想像する

令和5年1月歌舞伎座:「花街模様薊色縫〜十六夜清心」

十代目松本幸四郎(所化清心後に鬼薊の清吉)、二代目中村七之助(遊女十六夜後におさよ)、四代目中村梅玉(白蓮実は大寺正兵衛)、十一代目市川高麗蔵(白蓮女房お藤)、初代中村壱太郎(恋塚求女)、二代目中村亀鶴(下男杢助実は寺沢塔十郎)他


1)四代目小団次の清心を想像する

本稿は令和5年1月歌舞伎座での「十六夜清心」の観劇随想ですが、まだ松の内なので・吉之助も頭が上手く回りません。そこでウォーミングアップ代わりに、まず前置きとして書いておきたいことがあります。今回の「十六夜清心」は、久しぶりの通し狂言・三幕五場ということで期待の上演です。序幕として上演される稲瀬川の三場、「十六夜清心」はこの形で見取り上演となるのが通例です。今回のように・この後に白蓮妾宅・さらに白蓮本宅と続けて通し上演に仕立てるやり方は、十回に三回くらいの頻度でありましょうか。その通し上演も近年は滅多に演らないようで、今回は平成16年(2006)1月大阪松竹座以来の上演だそうです。ただし今回の通しの場割りでも、筋としてはブツ切れになってしまいます。本当は箱根地獄谷や名越無縁寺など・いくつかの場を補う必要があるでしょう。清心と十六夜の運命の変転の全貌がなかなか見えないのは、仕方がないところです。所化清心から鬼薊の清吉・遊女十六夜からおさよへの転落への興味は尽きないものがありますが、現行上演の主眼は序幕・百本杭の若く美しい男女の色模様の方へ置かれるようになって、幕末芝居の退廃的な雰囲気が薄いものになってしまいました。

「花街模様薊色縫」(さともようあざみのいろぬい、通称「十六夜清心」)は、安政6年(1859)江戸市村座での初演。清心が四代目小団次・十六夜が三代目粂三郎(後の八代目半四郎)・白蓮が三代目関三十郎という配役でした。初演は世間の評判もよく大入りを続けましたが、35日目に問題が起こりました。河竹新七(黙阿弥)がその前々年に処刑された江戸城の御金蔵破り・藤岡藤十郎の事件を大寺庄兵衛(白蓮)の件にあてこんだのがお上の検閲に引っ掛かって、このために添削を余儀なくされたのです。仕方なく清心の件のみを残して上演を続けましたが、この「十六夜清心」削除事件が小団次に与えた精神的苦痛は大きいものでした。これが後年・慶応2年(1866)初演の「鋳掛け松」がお上から「あまり人情に触れることなく」と注意され・上演中止に追い込まれて小団次が憤死したことの伏線になっています。(この件については別稿「小団次の西洋」を参照のこと。)

もうひとつ考えねばならぬことは、明治維新直前に小団次が亡くなった為、黙阿弥-小団次の提携作(「十六夜清心」も含む)上演の伝統が途絶えてしまったことです。残念ながら風貌・芸風その他の条件から、小団次の役どころをそのまま継ぐことが出来る役者がいなかったのです。これに維新後の大混乱が拍車をかけました。小団次はいかつい風貌の役者でした。(今回上演台本では削除になっていますが)「十六夜清心」原作のなかでも清心が

「この清心をさほどまで思うてくれるは嬉しいが、これが似合うと云うではなし、わしは形相(なり)さえ人並ならず、見る影もない所化あがり。今大磯で評判のこなたを連れて行かりょうぞ。他に男もないように、あの十六夜も物好きなと、いずれも様がお笑いなさる。世の譬えにも云う通り、釣り合わぬは不縁の因(もと)じゃ。」

と言っています。だから百本杭で描かれるものは、元々は不釣り合いなカップルの、ちょっとギコチない心中沙汰であったのです。これが現行の若く美しい男女の色模様に変わっていくのには、もちろん相応の歳月が必要であったことです。そうなって来たことの「必然」が、作品のどこかに何かあったかも知れません。それは清元の余所事浄瑠璃の魔力であったかも知れません。そう云うことも思いやらねばなりませんが、とりあえずここでは現行の百本杭の感触は小団次の初演とは異なると云うことのみ押さえておきたいと思います。

「続々歌舞妓年代記」にある逸話ですが、或る時・名興行師である田村成義が五代目菊五郎に、「この前、九蔵(後の七代目団蔵)の清心を見たが、ごくあっさりしたものだった。君のはちょっと長いように思うが」と何気なく言ったところ、菊五郎がムッとして、「九蔵は役者がいいから上手かったのでしょう。僕なんざア」云々と愚痴を言い始めて大いに閉口したそうです。菊五郎が一番気にしているところに田村が触れてしまったようですねえ。それは小団次の清心とは違うと云うことです。(「違う」というのは「間違っている」と云うことではありません。「小団次の清心とは違う」と云うことだけです。しかし、菊五郎は「お前のは間違っている」と言われたと受け取ったのですね。)安政の初演では小団次の清心に対し、若き五代目菊五郎が求女を勤め、若き七代目団蔵が下男杢助を勤めたのです。「あっさりした感触だった」という田村の証言を心に留めておいて欲しいと思います。どうやら団蔵の清心の方が小団次の感触に近かった印象を受けます。しかし、その後の清心の系譜は、五代目菊五郎から十五代目羽左衛門・十一代目団十郎・・・と「いい男」系統の方へ絞られていきます。(この稿つづく)

*台本は黙阿弥脚本集・第5巻(春陽堂・大正9年)に拠る。

(R5・1・5)


2)百本杭の様式からの分析

誤解がないように付け加えると、「いい男」系統の清心が間違いだと云うのではありません。「いい男」の描かれ方によっては芝居の別の一面が現れることもある、そこは工夫次第でしょう。小団次の声域は想像するしかありませんが、演じた役どころの数々から推し量れば、やや太目の低調子の声だと思います。このことは序幕・百本杭での清心と十六夜とのやり取りを聞けば裏付けられます。情緒纏綿たる清元の調べから写実の会話を浮かび上がらせる為に、清心には太い低調子の台詞が望まれます。それは小団次の声域を前提に書かれているのです。つまりそこに低調子(清心)と高調子(十六夜)の揺らぎが設計されています。このことは舞台を見れば(聞けば)すぐ分かることです。

しかし、現行の百本杭での清心は、ここを細めの高調子の台詞で持っていくことが通例です。もちろん今回(令和5年1月歌舞伎座)の幸四郎の清心もそうです。まずこの場面を細めの高調子の声に持っていくことの良い点は、「いい男」の清心の優美さ・繊細さを際立たせることでしょう。十六夜は女形ですから、当然高調子です。舞台の上の美しいカップルの高調子の二重唱は、情緒たっぷりで・高音を駆使する清元の調べにも感覚的に合致すると言えるかも知れませんねえ。現行の百本杭の清心が次第に高調子へと移行していく背景には、清心が「いい男」だと云うところを強調したかった役者の思惑があったと思います。そのため全体的に芝居が様式の方へ傾いてしまいました。

逆にこの場面の清心を細めの高調子の声に持っていくことの悪い点を考えてみます。まず細めの高調子の台詞は、清心をひ弱さ・脆弱さの印象に傾けることになるでしょう。これが清心という役の肚を薄く見せてしまいます。さらに高音を駆使する清元の調べのなかに、清心の高調子の台詞が埋没してしまいます。情緒たっぷりの音曲はそれでなくても芝居を様式の方へ引っ張るのに、高調子ばかりの連なりになって、役者の舞台上の役者のやり取りが際立たない、だから役者の演技が写実に見えて来ないことになります。ここが大事なポイントです。

いわゆる小団次劇の特徴は、江戸歌舞伎の生世話の伝統に、ト書き浄瑠璃・余所事浄瑠璃・人形振り・割り台詞の多用、七五調の台詞などを加味したことです。これら音楽的な工夫がすべて役者の写実を際立たせるための技巧であることが分かれば、百本杭での清心もまた写実本位でなければならないでしょう。つまり清心は太い低調子の台詞回しが望ましいことは明らかなのです。(小団次劇の音楽的手法については、別稿「都鳥廓白浪」論考をご覧ください。小団次‐黙阿弥の最初の提携作です。)現行の百本杭の舞台で高調子の清心を見ると、吉之助の耳には、バリトンのために書かれたシリアス・タッチの曲をテノール歌手が明るく歌ってしまったような不自然さを感じてしまいます。

同様のことは、第3場・百本杭川下での、清心と求女との渡り台詞にも感じるところです。ここでも低調子(清心)と高調子(求女)の揺らぎが設計されています。求女の高調子の台詞に清心が応える時、これを高調子で受けたのでは渡り台詞にメリハリが付きません。そのせいで全体がダラダラ一本調子に聞こえてしまいます。ここでも小団次の清心の太い低調子の台詞が想定されているのです。

願わくばそのような小団次本来の意図に沿った上演を実験的にでも試みてくれれば面白いと思いますけど、それは兎も角として、清心を細めの高調子の台詞の「いい男」系統に持っていくのが歌舞伎の「伝統」のようですから、そこはやむを得ない。役者が自分の声域を変えることは出来ない(それでは声色遣いになってしまう)わけですから、そこは声の調子と台詞廻しの工夫で、出来るだけ写実への努力をしてもらいたいと思いますね。(この稿つづく)

(R5・1・6)


3)百本杭の心情の分析・その1

以上はフォルム(様式)面からの分析ですが、「清心は太い低調子の台詞が望まれる」と云うことは心情面からも裏付けが出来ます。現行の百本杭での清心は、ここを細い高調子の台詞に持って行きますから、その印象がひ弱くなります。稲瀬川に飛び込もうとして怖気づいて身をすくませるとか、自害しようと小刀を構えるが切っ先が腹に当たって痛くて止めるなどの滑稽が、清心のひ弱い印象を助長します。現行の百本杭の舞台を見ると、結局清心が死ねなかったのは、どうやら(痛いとか・苦しいとか)「死ぬのが怖かったから」と云うことになりそうです。これでは、死のうとした清心がどうして「しかし、待てよ・・一人殺すも千人殺すも・・」と云う大転回をするのか、その劇的必然が吉之助にはどうもピンと来ません。

「しかし、待てよ・・」と云う台詞は、どん底にまで落ち込んだ清心が最後の最後につかみ取った熱い結論でなければならないはずです。ところが台本を見ると、清心が死ねなかった理由を語る台詞がちゃんとあるではありませんか。例えばそれは、

「せめてあの世は迷わぬ観念なすにかしましい、三味線の音が耳に入り、邪魔になってならぬわい」

という台詞です。黙阿弥全集ではト書きに、「この時上手の揚幕へ丸物の屋形船を出し、内にて賑やかな騒ぎ唄する」と指定があります。現行舞台では屋形船は出ませんけど、マアそれはいいです。どこからか賑やかな騒ぎ唄が聞こえてくるらしいと分かれば良いのです。続く求女との渡り台詞のなかにも、屋形船が出てきます。渡り台詞から清心のパートのみを抜き出して繋げると、こうなります。

「ああ人の歎きも知りおらず、面白そうな遊山船、死のうと覚悟しながらも、耳に入って黄泉のさはり。(中略)人の盛衰貧富は、前生(せんしょう)からの約束にて、力づくにも及ばぬもの。(中略)あれあのように面白う芸者幇間(たいこ)を伴うて、騒いで暮らすも人の一生。(中略)その日の煙も立て兼ねて、襤褸(つづれ)をまとい門(かど)にたち、手のうち乞うも一生にて。又このように身を投げて、死のうというもこれも一生。(中略)死ぬに死なれぬ心の迷い。(中略)こりゃどうしたら、よかろうなあ。」

清心は、しつこいほど屋形船のドンちゃん騒ぎにこだわっています。これで明確に分かることは、清心が死ねなかったのは「死ぬのが怖かった」からではないと云うことです。清心は生への執着が強過ぎる、現世の愉しみへの未練が強過ぎるのです。清心は本気で死ぬことを考えたに違いありません。清心は十六夜がもう死んだ・自分も遅れを取ってはならぬと思っています。しかし、耳元から愉しそうな三味線の響き、賑やかな騒ぎ唄、人々の笑い声が離れない。それが清心を現世の方へ引き戻します。だからいくら死のうとしても清心は死ねなかったのです。このドン詰まり状態から、開き直った「気付き」が清心の心のなかに浮かび上がります。

「しかし、待てよ。今日十六夜が身を投げたも、又この若衆の金を取り殺したことを知ったのは、お月さまと俺ばかり。人間わずか五十年。首尾よくいって十年や二十年がせいきり。襤褸をまとう身の上でも金さえありゃあ出来る楽しみ。同じことならあのように騒いで暮らすが人の徳。一人殺すも千人殺すも、取られる首はたった一つ。とても悪事を仕出したからは、夜盗家尻切、人の物は我が物に栄耀栄華をするのが徳。こいつア滅多に死なれぬわい。」

「お月さまと俺ばかり」という台詞は、黙阿弥が四代目南北の「隅田川花御所染」(女清玄)で・忍ぶの惣太が主筋の梅若を誤って殺してしまい自害しようとするのをフト思いとどまる場面での台詞から取り入れたものでした。恐らくこれは天保3年(1832)江戸中村座でこの芝居が上演された時、芝居を見た黙阿弥が「このフレーズをいつかどこかで使ってやる」と思ってずっと寝かせていたネタでした。(別稿「隅田川花御所染」論考を参照のこと。)

これより後のことですが、黙阿弥は立作者となった後に、しばらく鳴かず飛ばずの低迷期がありました。ライバルの瀬川如皐に人気先行されて失意のうちに身投げしようと隅田川河畔をウロウロ彷徨ったことがあったそうです。吉之助にはこの時の黙阿弥の失意体験が、「十六夜清心」・百本杭の清心の心理に色濃く反映していると思えてなりません。それは多分月の明るい夜のことでした。浅草芝居町周辺は夜も賑やかです。身投げしようとしている黙阿弥の耳元に愉しそうな三味線の響き、賑やかな騒ぎ唄、人々の笑い声が聞こえてきます。振り払おうとしても逃れられず、しばし懊悩しながら河畔を行ったり来たりする黙阿弥の姿が浮かんできます。この時に「お月さまと俺ばかり」というフレーズが黙阿弥のなかに蘇ったのでしょう。黙阿弥は人を殺めたわけではありませんけどね。(「月」は安政7年(1860)の「三人吉三」のなかにも出てきます。云わずと知れた「月も朧に白魚の・・」の名台詞です。)

そう考えると余所事浄瑠璃は単なる音楽技法ではなく、それは黙阿弥の自殺未遂体験から生まれたものだと思えてなりません。しかもこの体験はトラウマのように黙阿弥の生涯に付いて回りました。だから「直侍」(明治7年・1874・初演)・「筆売幸兵衛」(明治18年・1885・初演)の余所事浄瑠璃も、決してお気楽に聞くことは出来ないのです。そこに官能的な清元の調べが使われているからこそ、主人公の内面の辛さがなおさら募る、そのような音楽的設計がされているのです。「いっそ死のうか・・イヤまだまだこの世に未練が・・」という心の揺らぎが、低調子(清心)と高調子(十六夜)の台詞の揺らぎにも照応して表われると云うことです。(別稿「黙阿弥のトラウマ」を参照ください。)(この稿つづく)

(R5・1・8)


4)百本杭の心情の分析・その2

「十六夜清心」が安政6年(1859)江戸市村座初演時に添削を余儀なくされた件については先に述べました。その理由は、前々年に処刑された江戸城の御金蔵破り・藤岡藤十郎の事件を大寺庄兵衛(白蓮)の件にあてこんだのをお上が問題視したからとされています。(藤十郎の事件は、後年・明治18年に黙阿弥が「四千両小判梅葉」として劇化。)これは表向きそう考えて良いと思いますが、後年のことを考えると、実は「十六夜清心」には、もっと問題になりそうな箇所が他にあったのです。しかし、その箇所が現行台本でも残っているわけだから、当時のお上にとって不快ではあったが・まだ許せる状況であったと云うことなのでしょうねえ。

この7年後、維新直前の慶応2年(1866)、世相は一層悪化して、お上の我慢はもう限界に達していました。それは同年2月守田座での「鋳掛け松」のことです。「近年、世話狂言、人情を穿ち過ぎ、風俗に拘わる事なれば、以来は万事濃くなく色気なども薄くするよう」とのお達しを受けて、「鋳掛け松」は上演中止に追い込まれました。小団次はお達しを聞いてガックリ来てしまい、翌日から面相がみるみる悪くなっていき、同年5月に亡くなってしまいました。黙阿弥は痛恨の気持ちを込めて、日記に「全く病根は右の申し渡しなり」と書いています。(別稿「小団次の西洋」を参照ください。)

一体お上は「鋳掛け松」のどこが気に入らなかったのでしょうか。しがない鋳掛け屋松五郎が、通りがかった鎌倉花水橋の橋の上から島屋文蔵と妾お咲の乗った涼み船での豪遊を眺めています。これを見ているうちに、松五郎はムラムラとしてきて、

「こう見たところが江戸ぢゃあねえ、上州あたりの商人体(しょうにんてい)だが、横浜(はま)ででも儲けた金か、切放れのいい遣いぶり、あれぢゃあ女も自由になる筈、鍋釜鋳掛をしていちゃあ、生涯出来ねえあの栄耀、ああ、あれも一生、これも一生・・・こいつァ宗旨を替えなきゃならねえ」

と言って、鋳掛け道具を川へ投げ込んでしまって「鋳掛け松」と仇名される盗賊になってしまうのです。それは幕府の崩壊を目前に控えた江戸町人が地道に働くことを放棄し、一時的な快楽にのめりこんでいく心情を描いていました。これがお上の癇に障ったのです。鋳掛け松の「あれも一生、これも一生」と云う台詞と、清心の「しかし、待てよ。・・一人殺すも千人殺すも・・」の台詞とを比べれば、一目瞭然です。これはまったく同じ心情を描いています。それはどちらも、「こんな世の中は嫌だ、こんな生活は嫌だ」と云う、世情に対する庶民の憤懣から来ています。ホンのちょっとしたきっかけで、これが「こんな世の中なんか変わってしまえ」と云うアナーキーな考えになってしまう・その寸前なのです。あからさまな体制批判はしていないようだけれども、為政者にとって、これは容認できない危険な心情でした。

だから「十六夜清心」・百本杭の場面も、もしこれが7年後・慶応2年の初演であったならば、間違いなく上演差し止めになった危険な要素を孕んでいるのです。まだ安政の世のことであったから助かったのです。「十六夜清心」では、このような危険な要素を情緒纏綿たる清元の旋律美によって表面上「いなしている」、或いは「カムフラージュ」しています。これが余所事浄瑠璃の技法の効果です。安政6年初演の舞台では、いかつい風貌の清心(小団次)と美しい遊女十六夜(半四郎)の釣り合いなカップルの、ちょっとギコチない色模様が、悲哀を含んだ可笑しみを感じさせたに違いありません。しかし裏に潜むものは極めてシリアスで危険なもので、それが或る瞬間にギラっと顔を出すのです。小団次演じる清心が小刀を構えて暫し沈黙して「しかし、待てよ・・」と呟く瞬間、観客の背筋をゾクゾクさせたに違いありません。(この稿つづく)

(R5・1・11)


5)「一人殺すも千人殺すも・・」

自害しようとした清心が「しかし、待てよ。・・一人殺すも千人殺すも・・」と言い捨て泥棒に鞍替えしてしまう。これを見た観客が、「なるほど・その気持ちはもっともだ、俺にも分かる」と感じるならば、成功だと思います。ここで清心が思い描く「泥棒」とは、何ものにも束縛されない「自由人」と云うに近い響きです。もっとも観客が「その気持ちは分かる」と感じたとしても、もちろん彼は常識人ですから泥棒がいけないことは良く分かっています。彼は決してそんな真似はしませんが、舞台上の清心に彼の浪漫を委ねてみるくらいは出来るでしょう。そして明日からはそのことも忘れて、また毎日地道に働くことでしょう。まあ小団次-黙阿弥が考えたことも、そんなところだったと思います。芝居では結局清心は破滅して、筋は落ち着くべきところに落ち着きます。

明治以降の「十六夜清心」は、稲瀬川・三場での見取り上演がほぼ定形になりました。そして「いい男」系統の清心と遊女十六夜との情緒纏綿たる色模様に変容して行きます。そうなったことにはもちろんそれなりの背景があるわけです。しかし、大事なことは現行「十六夜清心」の舞台で、「いい男」ならば・「いい男」なりに、「しかし、待てよ。・・一人殺すも千人殺すも・・」と云う気付きへの「段取り」がしっかり取れているかどうかと云うことだと思います。観客が「もっともだ、その気持ちはよく分かる」と感じるかどうかと云うことです。吉之助がこれまで見た「十六夜清心」の舞台では、そこを十分納得させてくれた舞台はなかったように思います。清心と十六夜の色模様が美しい舞台は、いくらも思い出します。むしろそれ故にと云うべきか、色模様が情緒的に傾けば傾くほど、優男の・ひ弱い清心が「死ぬのが怖くて」・なし崩し的に泥棒に変わってしまうように見えてならなかったのです。これでは「変心」の必然が弱くなります。ただ坊主が泥棒に変わる・その落差のサプライズだけになってしまう。これでは観客は熱い浪漫を清心に委ねることは出来ません。

見取り上演のことはまあ置くとしても、今回(令和5年1月歌舞伎座)の「十六夜清心」の場合は、一応半通しの形になっています。泥棒に変身した後の清心・つまり鬼薊の清吉が出るのですから、見取り上演とは別の苦労が生じるはずです。前半の僧清心と・後半の強請りの清吉とに、何らかの一貫性を見出さなければなりません。歴代の清心役者と云われた人でも・半通しで出す場合には、そこの役作りにはとても苦労したものでした。

今回(令和5年1月歌舞伎座)の「十六夜清心」では幸四郎が、前半の清心の声を高調子に作り、後半の鬼薊の清吉の声を(幸四郎の地声に近い)低調子で処理して仕分けています。このような声色(こわいろ)による仕分けは、あまり感心しませんねえ。清心の人物が二つに割れて見えます。大事なことは、前半の僧清心のなかにも生に執着し過ぎる騙りの清吉の性格がある(それが「しかし、待てよ。・・一人殺すも千人殺すも・・」という形で顔を出す)と云うことであり、後半の清吉のなかにも心優しい僧清心の性格がある(だから清吉は根っからの悪党になり切れない)と云うことなのです。幸四郎はそこのところをあまり深く考えず、表面的に役を仕分けているやに見えます。だから前半の清心も、後半の清吉についても、どちらも肚が薄い印象が拭えません。幸四郎の前半の清心と後半の清吉と、どちらを取るかと云われれば、歌舞伎で「いい男」での「伝統」が固まっている前半の方が、見た目ではしっくり来ている感じはします。しかし、「しかし、待てよ。・・一人殺すも千人殺すも・・」への「段取り」は上手く取れていない。と云うか、これでは後半の騙りの清吉への橋渡しが十分に出来ないでしょう。だから前半と後半で人物が割れて見えることになる。まあそんな程度の芝居だと最初から割り切って見るならば、気にならないでしょうが。しかし、小団次-黙阿弥コンビが作ったのは、ホントに「そんな程度の」芝居でしょうか。吉之助はそうは思いませんがね。

前半の百本杭・川下の場では、壱太郎の求女がとても良い出来です。これは吉之助が見た求女のなかでも出色の出来だと褒めておきます。壱太郎が花道で渡り台詞をしゃべり始めると、そこに歌舞伎の世界が現出する心地がします。それは壱太郎が黙阿弥の七五調の揺れるリズムを正しくしゃべっているからです。言葉が正しく発せられることで・その意味で写実であり、台詞が心地良いリズムに乗ることで・その意味で様式的です。(別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」をご参照ください。)これを聞けば、この渡り台詞では求女の高調子に対して、清心は低調子で受けることが期待されていることは直感で分かると思います。求女を基準軸に置いて、清心の低調子の台詞が揺れるように響く。そこで表現されるものは、清心の心の迷いです。「こりゃどうしたら、よかろうなあ」となるから・この渡り台詞では結論は出ないわけですが、それはすぐ後に清心が求女を殺して金を奪うことへの伏線になっており、さらに「しかし、待てよ。・・一人殺すも千人殺すも・・」と云う大転回への伏線にもなって来るのです。本人は、まだ気付いていないでしょうが、ここには鬼薊の清吉となる未来がもうチラチラ垣間見えています。幸四郎の高調子の清心を見ると・ひ弱い優男が死ねなくって悶えているようにしか見えませんけど、ここでもう心理転回が始まっているのです。しかもそれが写実ではなくて・様式で出てこなくてはなりません。幸四郎にはそこを感じ取ってもらいたいのですがねえ。(この稿つづく)

(R5・1・15)


6)強請り場の清吉とおさよ

安政初演時に七代目団蔵が杢助を演じたことは先に触れました。五代目歌右衛門が十六夜を初めて勤めた時(明治27年2月春木座)、団蔵が歌右衛門に厳しく注意したことは、「十六夜清心」の強請場は、黙阿弥が「源氏店」の切られ与三郎と蝙蝠安の心で書いたのだから、おさよ(十六夜)が鉄火になって強請ってはいけないと云うことであったそうです。この話を聞いた或る人が六代目梅幸に伝えたところ、梅幸は「なるほど、そう云われれば、どうも強請りに行っての女の台詞が行き届かない気がするし、時にはもっと言いたいことがあるように思っていました」と語ったそうです。梅幸がおさよの台詞のどういうところが言い足りないと感じたのか分かりませんが、役を演じてみて多少遠慮がある感じを受けたのでしょう。

この逸話が示唆するところは大きいと思います。黙阿弥が本作初演で八代目半四郎(当時は三代目粂三郎)を坊主頭の強請おさよに当て込んだのは、半四郎の容姿が美しいのに・芸風がおとなしいので人気がパッとしなかったのを、何とか趣向を変えて売り出そうという意図からでした。悪婆は五代目半四郎(杜若半四郎)が得意とした役どころで・大和屋の御家芸みたいなものです。しかし、凄みがない八代目にいきなり祖父(五代目)のような悪婆が演じられるはずもない。そこを黙阿弥が手加減して・おさよの強請り場を書いたに違いないのです。その事情は、翌年・万延元年(1860)市村座で初演された「三人吉三廓初買」・大川端で、半四郎が演じたお嬢吉三の台詞を見れば察せられます。それは、

「問われて名乗るもおこがましいが、親の老舗と勧められ、去年の春から坊主だの、ヤレ悪婆のと姿を変え、憎まれ役もしてみたけれど、利かぬ辛子と悪党の、凄みのないのは馬鹿げたものさ。そこで今度は新しく、八百屋お七と名を取って、振袖姿で稼ぐゆえ、お嬢吉三と名に呼ばれ、世間の狭い食い詰め者さ。」(三人吉三・大川端でのお嬢吉三の台詞)

この台詞でも分かる通り、「十六夜清心」初演時の半四郎の評判は、百本杭の十六夜の美しさが大層な評判だったものの、強請場のおさよの方はどうやらパッとしなかったようです。そんなところで分かることは、おさよは杜若半四郎(五代目)のような本格の悪婆になってはいけないと云うことです。そこで「黙阿弥が切られ与三郎と蝙蝠安の心で強請り場を書いた」と云うことがヒントになって来ます。もちろんおさよが与三郎で、鬼薊の清吉が蝙蝠安になります。このことは白蓮本宅の場で花道をやってくる二人の姿を見れば、それと分かるはずです。与三郎の性根が若旦那で・根っからの強請ではなく・蝙蝠安にそそのかされて源氏店に来るのと同じように、おさよが慣れない強請をやるのを清吉が後ろで煽り立てる感じでやる、そこが名人・小団次が演じる清吉の仕どころになるのです。しかし、清吉も元々が善人ですから、とことんワルに成り切れません。だから与三郎的要素が清吉の方にもあるわけなのです。そこが強請り場の後半・白蓮の素性が知れてから清吉が態度を一変させる伏線になっています。

そう云うわけで、清心-清吉を「いい男」系統で処理するのが間違いだと云うことではないですが、「いい男」なら「いい男」なりに、性格の一貫性を以て・人生を懸命に生きようとした男のシリアスさを描いて欲しいと思います。安直な声色の使い分けのせいで、幸四郎の清心-清吉の人物が割れて見えることは先に指摘しました。鬼薊の清吉は(幸四郎の地声に近い)低調子で処理しているので演ることは決して悪くありません。幸四郎は自分の声質にあった低調子の方で役を一貫させた方が良かったのにと思いますが、清吉はもっと肚を据えて描線を太く作れば如何でしょうかね。ちょっとコミカルな面が前面に出過ぎたようです。滑稽さはシリアスな要素と裏腹に出るものと考えて欲しいと思います。

七之助の十六夜は美しいですが・怜悧な美しさで、まあこれは七之助の芸質かも知れないが、もう少ししっとりと温かい情が欲しいところではあります。おさよの出来も悪くはないですが、悪婆の方に寄った印象がします。これも十六夜との性格の一貫性を考えれば、ちょっと割り切りが良過ぎた感があるようです。梅玉の白蓮は最初はもう少し図太いところが欲しい気がしましたが、芝居が進むにつれてしっくり来るので感心しました。良い意味に於いて役を自分の個性の方に引き寄せて演じたところが、熟練の芸ということですね。

(R5・1・18)



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