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六代目歌右衛門の女清玄

昭和52年4月国立劇場:通し狂言「隅田川花御所染」(女清玄)

六代目中村歌右衛門(花子の前・後に清玄尼)、二代目中村吉右衛門(猿島惣太・実は粟津七郎)、八代目中村福助(四代目中村梅玉)(吉田松若丸)、五代目中村松江(二代目中村魁春)(桜姫)、三代目実川延若(吉田の下部軍助・粟津六郎)、七代目中村芝翫(扇ヶ谷磯綱女)、六代目沢村田之助(雁金屋の新造采女)他

(戸部銀作演出・脚本補綴)


1)「女清玄」と道成寺説話

本稿で紹介するのは、昭和52年(1977)4月国立劇場で上演された、鶴屋南北の通し狂言「隅田川花御所染」(すみだがわはなのごしょぞめ・通称「女清玄」)の舞台映像です。花子の前(後に清玄尼)を演じるのは、六代目歌右衛門です。「隅田川花御所染」の、戦後の上演は、多くありません。まず昭和31年(1956)7月歌舞伎座(六代目歌右衛門)、次に今回紹介する昭和52年(1977)4月国立劇場の歌右衛門による再演、次に昭和53年(1988)3月国立劇場(四代目雀右衛門)、平成25年(2013)3月国立劇場(九代目福助)と、「女清玄」は断続的に上演されてはいます。しかし、「女清玄」は、世間にあまり知られていない作品です。その原因は定本となるべき上演台本をなかなか見出せないところにありそうです。(以下の文章では「女清玄」で通すことにします。)

「女清玄」と云うと、「桜姫東文章」の書替狂言かと思うでしょうが、実は「女清玄」の方が「東文章」よりも先に出来たのです。「女清玄」の初演は、文化11年(1814)3月江戸市村座で、これは「東文章」初演の3年前のことでした。「女清玄」の筋は大変に入り込んでいます。脚本を読めば読むほど、筋がこんがらがって分からなくなってきます。清玄桜姫物の定番・破戒堕落の僧清玄を女に置き換えて、高貴なお姫様が煩悩に狂う尼僧となる設定に仕立てたところが、南北らしい趣向で面白い。これは誰でもそう思うことでしょうが、これに「隅田川」・「鏡山」と二つの世界が絡んでくるから、ややこしいことになる。

入間家の姉娘・花子の前は、許婚の吉田松若が死んだと聞いて世をはかなみ、剃髪して清玄尼と名を改めます。しかし、実は松若は生きていたのです。天下を我が物とせんとする陰謀を抱く松若は、大悪人として手配されているため・自分は死んだと見せかける必要がありました。そこで松若は、入間家の妹娘の桜姫の許婚大友常陸之助頼国を殺し・自分が頼国であると偽って、桜姫に近づこうとします。しかし、清玄尼は、かつて見知ったる絵姿から、彼が本物の松若であると見抜いてしまいました。桜姫はまことの許婚頼国だと信じて・これと契りますが、清玄尼は嫉妬のあまり破戒して、松若の後を必死で追います。桜姫もこれを追って流離の身となります。

シンプルに書けば、このような筋になるかと思います。花子の前(姉)と桜姫(妹)の、二人の姫のドロドロの愛欲ドラマがもちろん見せ場です。しかし、見せ場だけでは芝居になりません。芝居として筋が一本通ったものが見えないので、ドラマがどの方向へ向かうのやら、サッパリ見当が付きません。

そこで今回(昭和52年・1977・4月国立劇場)上演映像を見た後、吉之助が考えた結論は、こう云うことです。花子の前(清玄尼)は、ひたすら「松若さま恋し」です。まったく個人的な感情で、そこに政治的な要素は一切ありません。ところが、花子の前の思いが結果的に、天下を我が物とせんとする松若の政治的野望を打ち砕くことになるのです。松若の野望と言ったって、松若が具体的に何をしたいのか、芝居ではサッパリ分かりませんが。芝居に出て来る「天下を狙う大悪人」と云うのはいつもそんなもので、言うことはデカいが・中身は全然ありません。いずれにせよ花子の前が恋に狂ったおかげで、天下の安泰が守られたことになるのです。つまり「女清玄」のドラマは、男性的論理と女性的論理の対立であると、単純に考えれば宜しいのではないかと思いました。そうすると全編の展開がスッキリ見えて来ます。そう考えてみて吉之助はやっと少し落ち着きました。

ところで、今回上演筋書の随筆(「女清玄」と「京鹿子娘道成寺」)のなかで、歴史学者の石田一良先生が、「「女清玄」の骨組みは四世南北が舞踊「京鹿子娘道成寺」を下敷きにして作ったものだと想像している」と書いています。つまり男性と女性の対立であると云うことです。この指摘は、とても興味深い。そもそも清玄尼の前名・花子の前と云うのは、「娘道成寺」に出て来る白拍子花子と同じ名前です。そうすると「女清玄」の背後に、更に「道成寺」の世界が絡んでいるのかも知れませんが。そこで石田先生の指摘に沿って、「女清玄」と道成寺説話の流れを対比してみると、

・第一番目三建目「新清水花見」で花子の前が松若(ただし松若は頼国を名乗っている)に恋する。この場はまだ娘らしい恋で、「道成寺」での清姫と安珍の出会いと対比される。
・同「野路の玉川庵室」で、夢のなかではあるが、清玄尼は松若の肌に触れる。「道成寺」では清姫の求愛を断り切れない安珍が、熊野の帰りに再び逢うことを約束するが、安珍は来ない。
・同「清水音羽の滝」では、清玄尼が逃げる男(松若)に追いすがる。「道成寺」では、約束の日に来ないのを怒った清姫が、逃げる安珍を追い掛ける。
・第二番目序幕「隅田川渡し船」では、清玄尼が松若を追い求めて隅田川にまで至る。「道成寺」では、清姫は安珍を追って日高川の畔に辿り着く。
・第二番目中幕「浅茅ヶ原妙亀庵」では、清玄尼は猿島惣太に惨殺されるが、清玄尼の恨みが残って蛇と化す。「道成寺」では、日高川を泳いで渡る清姫が蛇体と化する。
・大切「隅田川渡し」は「双面」(ふたおもて)の所作事で、清玄尼の怨霊が隅田川を渡って、松若を苦しめる。「道成寺」では、蛇体と化した清姫は鐘に巻き付いて、安珍を焼き殺す。

「双面」の趣向は、御存知の通り「法界坊(隅田川続俤)」にもあるものです。(注:「法界坊」は天明4年・1784・大坂角の芝居での初演) それにしてもどうして隅田川なのに「道成寺」なの?と思うかも知れませんが、隅田川は鐘と関係があるからです。地図を見ると、東京都墨田区五丁目辺りで、隅田川が西から南へと大きく右に蛇行しますが、この淀みの辺りの地名を「鐘ヶ淵」と呼びます。ここからは梅若塚もほど近い。鐘ヶ淵には、沈鐘伝説があるのです。芸能の世界は発想が柔軟(と云うか連想で何でもドンドン結び付けちゃうのだねえ)ですから、鐘と云うなら「道成寺」だと云うことになるのです。

鐘の由来については、諸説あるようです。一説には元和6年(1620)普門院というお寺が移転する際、船から川中に転落した半鐘だと云い、また別の説では端場の長昌寺にあった釣鐘が享保5年(1720)の洪水で流されて沈んだものだとも云います。或いは、別の言い伝えでは、この鐘は千葉常胤が娘の菩提のために建立した瑞応寺のものであったが、天文21年(1552)千葉氏が北条氏に下った時、北条氏が戦利品として持って帰ろうとして船に積んだところ、突然若い女の泣き声がして川面が嵐のように波立った為に、恐ろしくなって鐘を沈めたとも伝えられるそうです。いずれにせよ隅田川は、「鐘ヶ淵」というキーワードで鐘と関係があるわけで、それならば「道成寺」だと云う発想になるのです。

「娘道成寺」は、恋に身を焼く清姫の物語です。安珍は真面目な修行僧ですが、清姫にとっては、仏の教えとか悟りとかそういう教えは関係ありません。清姫はただひたすら「安珍恋し」なのです。その清姫の情念の炎が、安珍を焼き尽くします。同じように花子の前(清玄尼)の情念が松若の政治的野望を打ち砕く、つまり男性的論理と女性的論理の対立、それが南北の「女清玄」の物語だと云うことです。

趣向満載の「女清玄」を愉しむためには、作者の意図を無理に読み解こうとするのをアッサリ放棄して、その場その場で万華鏡のように変容する光景を感覚的に楽しむ、そんな態度が必要だとつくづく思いますね。これは吉之助のいつもの芝居の見方とちょっと異なりますが、そう云う愉しみ方も学ばねばなりませんね。(この稿つづく)

(R4・9・12)


2)「女清玄」のなかの「鏡山」の趣向

「女清玄」で考えておかなければならないことは、全体にタテ糸のように絡みつく「鏡山」の趣向のことです。ただし、今回(昭和52年・1977・4月国立劇場)の戸部銀作補綴脚本では、「鏡山」の件がほぼ完全に取り去られています。だから上演を観る分には、それはあまり関係ないことです。「鏡山」を抜いたのは、原作通りの上演だと、上演時間がまるで足らないからです。「鏡山旧錦絵」自体はよく知られた芝居ですし、「鏡山」の件はそちらの方でお楽しみくださいとなってしまうのは、まあ仕方ないことです。しかし、今回の、「鏡山」の件をスッパリ抜いた上演を見ると、やはり幕と幕との繋がりがスムーズではありません。場面場面を切り抜いて・バラバラのピース(欠片)をただ並べただけの不自然さが、如何ともし難い。これはタテ糸の「鏡山」の件を抜いたことが、少なからず関係していると思います。

「女清玄」上演は、本来ならば二部制にでもして・昼の部と夜の部で丸一日、時間を掛けてじっくりやってもらいたいところです。しかし、それが無理な現実は吉之助もよく理解しています。「鏡山」抜きでも、「女清玄」を兎も角演ってくれるだけでも有難いことなのです。そこで吉之助は、欠けた「鏡山」のピースを頭のなかで嵌め込んで、「女清玄」本来の姿を想像してみることにしました。この点でも、いつもの芝居の見方とは、違った愉しみ方をせねばなりません。実際の芝居と見て・次に想像して愉しむ、まあ一粒で二度おいしいということですね。

加賀見山旧錦絵」は、もともと天明2年(1782)正月に江戸薩摩外記座で初演された人形浄瑠璃でした。(つまり義太夫狂言にしては珍しい、江戸オリジンです。) 後にこれが歌舞伎に移されましたが、それが今日の定本に納まるまでには、かなりの変遷を経ます。四代目南北は、既成の「鏡山」台本を大幅な改訂を施して、「女清玄」のなかに「鏡山」の筋を絡めました。「女清玄」では、序幕に「花見」と「竹刀打」、二幕目に「草履内」と「長局」の前半、三幕目に「烏啼き」と「長局」の後半が出てきます。実はこれが現行歌舞伎で上演される「鏡山旧錦絵」の原型となるものだそうです。また「女清玄」には五幕目の妙亀庵に岩藤の亡霊が登場しますが、もしかしたら後年の黙阿弥の「鏡山再岩藤」の発想も、ここから出たものかも知れないそうです。

ただし「女清玄」の筋と絡めるために、既存「鏡山」の設定が細かく書き替えられています。例えば「鏡山」の足利管領家は、「女清玄」では入間家ですから、局岩藤も中老尾上も入間家の人間です。目に付くところの、最も大きな筋の違いは、現行「鏡山」では、奥庭でお初が岩藤を討つと、すぐに殿の意向であるとして、お初が二代目尾上となって「めでたしめでたし」となる結末ですが、南北の「女清玄」では、その場面が見当たらないことです。「女清玄」では、花子の前も桜姫も流浪の身のまま、入間家の御家騒動が宙ぶらりんにされています。この辺が南北が御家騒動にあまり興味がなかった証拠になるかも知れませんが、そうなると何のための「鏡山」か?という疑問が湧かないこともない。

欠けた「鏡山」のピースをはめ込んで「女清玄」を読んでみて、一番驚くことは、花子の前(清玄尼)の色狂いの発端ではないでしょうか。研究本を読むと大抵、花子の前(清玄尼)が松若に恋欲に狂うのは哀しい女の性(さが)である、堕落と知りつつ色恋沙汰に踏み迷うのが人間の煩悩というものであるなあと云う書き方です。しかし、南北の原作を見ると、ここが全然違います。そもそもこれは局岩藤が入間家を大混乱に陥れようとする陰謀の結果でした。局岩藤の仕掛けのため、花子の前が色恋狂いに変えられてしまったのです。

花子の前は許婚の吉田松若が死んだと聞いて世をはかなみ、剃髪して清玄尼と名を改めました。ところが剃髪の儀式で花子の前の履いた草履に、岩藤の陰謀が隠れていました。草履は下総阿曾の沼に生える菅ごもで作ったもので、この草履を履いた女は色欲に身を持ち崩すと云う謂(いわ)れがあるのです。草履を履いた花子の前は、色狂いに変わってしまいました。「鏡山」をカットした今回上演では・「さるお方のたのみゆえ」として・この点に触れませんが、この草履を手配したのが、実は局岩藤でした。(出来上がった草履を持って花見の場に登場するのが、その後清玄尼にしつこく付きまとう猿島惣太です。)

つまり花子の前の恋狂いは、持って生まれた性(さが)などではなく、菅ごもの草履のためなのです。色欲に迷った花子の前は、頼国であると偽って妹の桜姫の方に近づこうとした松若の嘘を見抜いて、剃髪して清玄尼の身となっても、逃げる松若を必死で追い掛けます。結果とすれば、岩藤の計略が清玄尼の色狂いになり、巡り巡って、天下を我が物にせんとする松若の陰謀を邪魔したことになるかも知れません。これにはどのような意味があるのでしょうかねえ。

松若の陰謀も具体性がないですが、入間家を大混乱に陥れようとする岩藤の陰謀も何がしたいのかよく分かりません。ですから「女清玄」は御家騒動物としては十分機能していないようです。そこをどう読むかで「女清玄」の評価が分かれるところですが、光る場面は随所にあるけれども、やはり芝居としては趣向を詰め込み過ぎで・筋の整理が十分でないと云う評価になりそうですね。

もうひとつ興味深いことは、このような「女清玄」の綯い交ぜ手法が、「東海道四谷怪談」(文政8年・1828・7月江戸中村座・これは「女清玄」初演の14年後のこと)を考える時の参考になるかも知れないと云うことです。「四谷怪談」の初演時に、「仮名手本忠臣蔵」とテレコで上演されたことがよく知られています。この時の「忠臣蔵」の台本は、残されていません。テレコ上演がどのようになされたかについては、手掛かりがないのです。このため現代の歌舞伎研究では、「四谷怪談」初演で、いつもの「忠臣蔵」がいつもの通りに並演されたかの如く思われています。しかし、よく考えれば、これは可笑しな話です。「四谷怪談」の設定に合わせて、南北が「忠臣蔵」の細部も書き改めたと考える方が、至極真っ当に思えるわけです。そのような経過が、「女清玄」での「鏡山」の扱いからも想像できるかも知れません。(別稿「四谷怪談から見た忠臣蔵」は、この問題を考えた論考です。)(この稿つづく)

(R4・9・15)


3)配役バランスの問題

「女清玄」の初演は、文化11年(1814)3月江戸市村座のことでした。初演の主な配役は、五代目半四郎(当時38歳、花子の前後に清玄尼、尾上召士お初)、五代目幸四郎(当時38歳、粂の平左衛門長盛、猿島惣太実は粟津の七郎)、七代目団十郎(当時28歳、吉田松若丸、局岩藤、吉田下部軍助)、三代目団之助(中老尾上、軍助女房綱女)、二代目粂三郎(雁金新造采女)などでした。狂言作者は一座の役者に役をあてはめて書くのが通例でしたから、初演配役は役の性格を考える時の良いヒント与えてくれることがありますが、五代目半四郎のお初、五代目幸四郎の猿島惣太については、想像するだけでワクワクする気がしますね。しかし、七代目団十郎は後の名優ではあるけれども、当時23歳の若さでは、松若は兎も角、岩藤はちょっと荷が重かったのではないですかねえ。この配役バランスがちょっと気になるところですが、当時団十郎が売り出し真っ最中であったのでしょうね。

配役バランスと云えば、今回(昭和52年・1977・4月国立劇場)の「女清玄」(これは「鏡山」をほぼ抜きさった補綴脚本ですが)について、「演劇界」劇評(5月号)で上総英郎氏が、「歌右衛門が清玄尼を演じるなら、何故それに対応する役者が松若をやらないか、桜姫をやらないかということである、(今回の座組みであれば)延若の松若、芝翫の桜姫も可能ではなかったか」という疑問を呈しています。これは御説ごもっともです。今回配役の福助の松若・松江の桜姫が悪いと云うことではなく(当時は歌右衛門の通し上演ならば福助・松江が漏れなく付いてくる感はあったけれども・まあそれはそれとして)、「女清玄」を歌右衛門の花子の前(清玄尼)のドラマとして筋を通そうと云うことならば、花子の前と対立構図に位置するところの役者に、歌右衛門に拮抗できる芸格の役者を配して然るべきという考えは、当然のことです。それによって、男性的論理と女性的論理の対立と、それに振り回される三人の男女(松若・花子の前・桜姫)の、トライアングルの構図が明確になるでしょう。今回上演では、それはあまり見えて来ない。とは云え、現在の梅玉・魁春のために弁護するならば、いろいろブツクサ云われながらも・このような場面で貴重な経験を積んだところで・現在の彼らがあるわけなのです。

話しを元に戻すと、今回の「女清玄」(戸部銀作補綴・演出)は、歌右衛門の清玄尼を仕活かしながら・なおかつ「南北らしさ」も描きたい(この「南北らしさ」の定義が問題になってくるわけだが)と欲張ったところで作られているので、「女清玄」全体の世界観を正しく俯瞰できる形になっていません。良くも悪くも、歌右衛門による・清玄尼のためのドラマに出来上がっています。(この稿つづく)

(R4・9・17)


4)歌右衛門の花子の前(清玄尼)

「清玄・桜姫」物の清玄を女に置き換えた趣向は、もちろん興味深いですが、うまくやらないと、恋の執着と・情欲の煩悩がさらにドロドロの感触になって、救われぬ印象になりかねません。芝居の品位を落としかねない、危うい趣向と云うべきかも知れません。

しかし、南北はそこのところを入念に手続きしていると思います。前項で触れた通り、花子の前(清玄尼)の恋の悩乱は、彼女の生来の・女の性(さが)の浅ましさ故と云うことではありません。それは、あくまで局岩藤が入間家を大混乱に陥れようとする陰謀の結果でした。花子の前は、御家騒動の被害者なのです。この経緯によって、ドロドロの恋のドラマを、観客はいくらか客観的に見ることが出来るだろうと思います。もともと花子の前は、貞節もあり思慮もある女性に描かれています。花子の前は、許婚の松若が死んだと聞いたので、妹桜姫に家督を譲って自らは出家しようとしていました。しかし、かつて見覚えた絵姿の松若そっくりの男を見て、この男がホンモノの松若だと直感します。(それが桜姫の許婚頼国だと偽って現れた松若でした。花子の前の直感は正しかったのです。)花子の前は仏罰を思ってこの恋を断ち切ろうとしますが、夢のなかで松若と添い臥してしまいました。花子の前はこれを恥じて新清水の舞台から飛び降りて死のうとしますが・死ぬことは叶わず、助け起こした松若に気付けの水を口移しで含まされて、花子の前はすっかり自制を失ってしまいました。夢の場を挿入したり・清水の舞台落下のスペクタクルなど交えながら、花子の前が破戒に至る心理の揺れ動きを、南北は冷静に・かつ論理的に説明しています。

他人はこれを邪恋だ・妄執だと言うけれど、花子の前に言わせれば、彼女は多分こう云うでしょうね。「私は自分の許婚の松若さまを追っているの。松若さまは妹の許婚ではないの。松若さまは親が私の旦那さまだと決めた人なのだから、何がなんであろうと、彼は私の旦那さまになるべきなのよ。私がしていることは、私に課せられた使命を忠実に履行すること、ただそれだけ。それなのに、何か私が悪いことしてるとでも言うの?」と云うことです。(注:この花子の前の気持ちは、「本朝廿四孝」の八重垣姫にも通じるものです。別稿「超自我の奇蹟」をご参照ください。)

と云うわけで、花子の前(清玄尼)にも、彼女なりの言い分(大義)があるわけなのです。破戒尼の姿になって松若を追う姿は惨めったらしく・歪(ゆが)んで見えるけれども、彼女は彼女なりに・必死に女の本分(ほんぶん)を尽くそうとしていることは理解できるでしょう。どこかに理性的な要素がまだ残っているのです。だからと云って共感できると云うことではないけれども、花子の前を応援したい気持ちは観客にもあるだろうと思います。それがなければ、花子の前の姿はただおぞましいだけのものになっちゃいますね。

「女清玄」初演(文化11年・1814・3月江戸市村座)当時、清玄尼を演じた五代目半四郎は38歳、美貌の女形として人気絶頂の時期でありました。松若に音羽の滝の滝つぼに投げ込まれて・ずぶ濡れで這い上がった清玄尼が、なおも松若を追って花道を行く、ここで激しい雷鳴が鳴るので・思わず放り出した傘の下から、青々とした清玄尼の・ツルツルの坊主頭が現れるシーンが、大いに話題になったようです。

今回(昭和52年・1977・4月国立劇場)の「女清玄」でも、この場面で歌右衛門の坊主頭が現れると、「あの歌右衛門がここまであられのない姿を見せるか」という驚きと、本人のこの役に賭ける気持ちがビンビン伝わって、歌右衛門の花道の引っ込みはたっぷりとして、なかなか面白いものとなりました。

そこで歌右衛門が演じる花子の前(清玄尼)のことです。歌右衛門が演じた南北物は、(当たり役とした「四谷怪談」のお岩さまを除外すれば)ほんの数えるほどしかありません。別稿「南北の台詞は現代に蘇ったか」でも触れましたが、歌舞伎での南北物の多くは(「四谷怪談」を別にして)上演がほぼ絶えていました。昭和40年頃にそのいくつかが復活上演されて、陽の目を見るようになったのです。この時、歌舞伎の女形が南北の台詞をしゃべるのに成功したのは、「桜姫」での玉三郎以降のこと、それ以前には歌右衛門も雀右衛門も成功しなかったと云う歴史認識があるわけです。そこで歌右衛門の南北復活物がどういうものであったかということを、考えて見なければなりません。下記に引くのは、渡辺保先生の発言です。

『玉三郎以前、以後と言うと、玉三郎が実際に「劇的なるものをめぐって」を観たかどうかは分からないですけど、(歌舞伎で)鶴屋南北ができるようになったのは、あなた(鈴木忠志)のおかげだと思っています。(中略)女形の歴史のなかでは、玉三郎が分水嶺なんです。歌右衛門も雀右衛門も「桜姫東文章」に成功しなかった。だけど玉三郎が成功したのは、南北の台詞が言えるようになったからです。身体ということで言えば、この転換点は近代から現代への転換点だったと思います。歌右衛門も雀右衛門も近代の人なんです。だけど、玉三郎以後は現代でしょう。玉三郎は客観的に自分の役を外側から見ているわけですから。それにあなたのテンポがあれば、なおさら鬼に金棒ですから。』(渡辺保:鈴木忠志との対談・平成24年(2012)12月10日、吉祥寺シアター:「鈴木忠志対談集〜私たちは必要とされるのか?」)

歌右衛門の南北物は、ホントに成功しなかったのでしょうか?吉之助の関心事は、そこです。残念ながら、歌右衛門が演じた「桜姫」映像(昭和34年・1959・11月歌舞伎座)は残っていません。したがって、南北物での歌右衛門を知るために参考に出来るものは、「四谷怪談」のお岩さまの記憶と、今回の「女清玄」映像くらいのものです。

結論から申し上げると、歌右衛門の花子の前(清玄尼)は、もしそれらが途切れることなく、文化文政期から幕末期を経て・明治大正昭和と切れ目なく上演がされていたとすれば、当然そのようになったであろうと思えるような草双紙感覚です。つまり暗く湿った粘着質の感触なのです。あの歌右衛門三迷長とも云われた、歌右衛門の当たり役・お岩さまの髪梳きに相通じる、間合いの引き伸ばしです。しかし、ピーンと張った緊張感が凄くて、ちょっとの隙も目が離せません。

先ほど挙げた・クリクリ坊主の清玄尼の花道引っ込みですが、歌右衛門のは「たっぷりとして、なかなか面白いものになった」と書きましたけど、恋の執着を引きずって「松若さま逃してなるものか」という感じの、執念の引っ込みです。そうすると感触はどこか時代の重い色合いを帯びて来ます。一方、初演の五代目半四郎であると、半四郎のクリクリ坊主を見て、観客は手を叩いて笑って、それはどこかコミカルで・あっさりした感触ではなかったかなと吉之助は想像をします。恐らくこの方が生世話の軽やかな色合いになると思います。

これは、どちらが正しいとか・どちらが間違いと云う議論ではないので・そこはご理解いただきたいですが、歌右衛門の花子の前(清玄尼)はネットリと間合いが伸びた感じがして、これは本来の南北物とは感触が異なるかなと云う気が確かにしますね。これは歌舞伎二百年の古色がべったり沁みついた花子の前なのです。しかし、この花子の前には、歌右衛門がこの役をやるのならば、やっぱりこういう感じにならざるを得ないなあ・・という説得力がもの凄いのです。今回の戸部銀作補綴・演出が「歌右衛門が演じる清玄尼のためのドラマ」の体裁なので、今回の「女清玄」の舞台はダレた場面があちこちに散見されるけれども、歌右衛門が舞台にいる場面に関しては、そこは引き締まって・それなりの芝居になっていると云うことです。大切「隅田川渡し」の「双面」所作事など、訳が分からず・これは一体何の芝居かと思っていると、最後に歌右衛門(清玄尼の亡霊)が出て来て、そうするとそれでこんがらかった筋に見事にケリが付いた(ような)気分にさせられるのです。芝居と云うのは、不思議なものだなあと思うのです。(この稿つづく)

(R4・9・26)


5)南北らしさって何?

歌舞伎の歴史は400年と云うけれど、その間、一様な流れを以て順調に発展してきたわけではありません。それはある時代に捻じ曲げられたり、途切れたりもしています。そんななかで歌舞伎はどうにか生き残ってきたわけですが、令和の世に歌舞伎座で見られる芝居が、その作品が生まれた時の感触そのままで残っているわけではないのです。歌舞伎役者の演技技法は、大まかに云って幕末期の歌舞伎のテクニック、せいぜい天明期くらいまでしか遡れません。南北物については、切れ目なく上演されてきた「四谷怪談」は二百年の古色がついた感触になってしまいましたが、これもほぼ幕末歌舞伎の感触です。上演が途絶えてしまった他の南北物については、ほぼ手掛かりがないのです。

こういう場合、これは吉之助の考え方とは異なりますが、ひとつの考え方として、南北は黙阿弥よりもひと昔前の戯作者だから、黙阿弥の時代の・幕末歌舞伎の時代物を、さらに大時代の感触にすれば南北物になるかもと云う推測も成り立つと思います。根拠は歌舞伎で長く演じられて来た「四谷怪談」(ただしこれは生世話ですが)です。「女清玄」みたいな時代物は、「四谷怪談」をもっと大時代に重ったるく・暗い湿った感触に処理すれば良い、お化けや死骸なんぞが出て来る芝居でもあることであるし、何やらそれらしい南北の復活物になるであろうと、まあこれは考え方として有り得ると思います。

今回の歌右衛門の花子の前(清玄尼)を見ると、歌右衛門は確信を以てそのように演じていると思うのです。吉之助が見ると「どうもこれは本来の南北とは感触が異なるようだ」と思います。しかし、ここまで確信を以て演られると何も言えなくなってしまう。歌舞伎の一時代を画した役者だけのことはある、「やっぱり歌右衛門だなあ」と云うことになるわけです。問題は、歌右衛門以外の役者たちが、歌右衛門ほどの確信を以て役を演(や)れていないことにあります。「俺なら南北をこう演じる」という明確なイメージを持てないまま、「これでいいのかなあ」と自信なさそうに演じている印象です。

ただし皆、「南北は黙阿弥よりもひと昔前・だから黙阿弥よりも大時代で古臭い感じ」という先入観だけは持っているようです。演技が一様に重ったるいですねえ。形だけ重たいだけで・中身が伴わないから、芝居がダレた印象になってしまうのです。ここに今回の戸部銀作補綴・演出の問題点がありそうです。

一例を挙げると、二幕目・忍ヶ岡辻番屋の場での、猿島惣太の梅若殺しの場面です。惣太が梅若を手にかけた後・梅若が主筋であったと知って・悔いて自害しようと、もろ肌脱いで刀を腹に構えますが、そこで惣太がフッと死を思いとどまる場面を見ます。

『イヤイヤ、こりゃあ死ぬがものはねえわへ。主を殺したという事は、誰も聞かねへ。この様子を知ったものは、広い世界に、あのお月さまとおればかり。そんなら別してうろたえて死がものはない。お月さまがこれまでものをいつた試しもなし。イヤイヤこりゃせうがい思いとどまりませう。』

「この様子を知ったものは、広い世界に、あのお月さまとおればかり」と云う台詞は、黙阿弥の「十六夜清心」(安政5年・1858・江戸市村座初演)の清心の求女殺しの台詞のなかに取り入れられました。これは「女清玄」初演から44年後のことでした。

そうすると演出者の考えそうなことは、「忍ヶ岡辻番屋」を「十六夜清心」の二番煎じに見せたくないということでしょう。こちらの方が先駆(オリジナル)であるからです。そこで「十六夜清心」が世話ならば・「忍ヶ岡辻番屋」は大時代に仕立てて独自性を出そうと云うことになる。恐らくそんな意図の下、今回の吉右衛門の惣太は、重ったるい大時代の感触に仕立てられています。吉右衛門の惣太を見ると、「あのお月さまとおればかり」の箇所で、オッあの台詞どこかで聞いたことあるぞ・・という衝撃が全然ないのだなあ。芝居のなかでこの台詞が埋もれています。初演で惣太を勤めた、生世話の名手・五代目幸四郎が、こんな重ったるい台詞であったとは、吉之助には思えませんね。

想像してみて欲しいのですが、黙阿弥がこの芝居を知ったのは、多分、天保3年(1832)中村座の三演目の時だったと思います。惣太の・この場面を見て、黙阿弥がゾクゾクしてこの台詞をいつかどこかで使ってやろうと・その場で帳面に書き留めたとすれば、黙阿弥が受けた衝撃は如何ばかりのものであったかと思うのです。「この様子を知ったものは、広い世界に、あのお月さまとおればかり」と云う台詞は、サバサバとして、余計な感傷がないものです。「虚無的」と云うと現代人の感覚ですが・これにも通じる割り切ったところがあると思います。むしろ南北の方が、黙阿弥の先を行った新しいところがある。そこが大事なところではないでしょうかね。

吉右衛門の惣太が悪いと書いたように聞こえたかも知れませんが、吉右衛門は歌右衛門に釣り合う惣太を作ろうと必死で頑張っています。そこは演出者(戸部)がしっかり指導すべきことだと思いますがね。どうも戸部さん自身が「南北はこれでいいかなあ」という迷いがあるなかで仕事してるように思いますね。

(R4・9・26)



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